Going Faraway

渡辺遼遠の雑記帳

書評:トランプ政権の暴露本決定版、だが…『FEAR 恐怖の男』(ボブ・ウッドワード)

FEAR 恐怖の男 トランプ政権の真実

FEAR 恐怖の男 トランプ政権の真実

トランプ政権の内幕を暴露する本は、『炎と怒り』(本サイト書評) など、これまでにも何冊か出版されている。しかし、本書は2018年までのトランプ政権を描き出した書籍としては決定版になるだろうと思う。

『炎と怒り』の著者、マイケル・ウォルフは無名のゴシップライターであり、その情報ソースはスティーブ・バノンにかなり偏っていたと言われる一方で、本書の著者ボブ・ウッドワードは、ニクソン政権のウォーターゲート事件をスクープした伝説的ジャーナリストであり、複数の関係者に綿密な取材を行っている様子がうかがえる。

内容も極めて堅実で、ゴシップ的な政権高官同士の不和だけではなく、トランプ政権の意思決定プロセスがどれほど混乱しているかを丁寧に書き出している。トランプ自身は自分の直感を絶対的に信じている一方で、軍事と経済の主流派・良識派は、必死でトランプを説得し、時には書類の下書きを隠して(!)それをトランプが忘れるのを待つといった滅茶苦茶な方法を取り、何とか政策に一貫性を持たせようとしているのだという。

 

煽情的でもなく、党派的立場に偏らない記述は好感が持てるし、良書であることは間違いなく、アメリカの政治史を語る上で今後数十年間参照され続ける本となるだろうけど、正直なところ、若干読んでいてダレてしまった感は否めない。トランプ劇場も多少食傷気味かもしれない。

合わせて読みたい

過去読んだトランプ関連本で印象に残ったものを紹介。

トランプの前半生と選挙戦を扱った(大統領当選以前の)ものは、『トランプ』(ワシントンポスト取材班)、と『熱狂の王 ドナルド・トランプ』(マイケル・ダントニオ) で詳細に書かれている。

政権高官の目線ではなく、アメリカの行政機関の職員たちが見たトランプ政権の混乱っぷりは、『The Fifth Risk』(マイケル・ルイス) (本サイト書評)が面白かった。

翻訳:インテリゲンチャのたそがれ (ジョン・マイケル・グリア)

以下は、ジョン・マイケル・グリアによる"The Twilight of the Intelligentsia" の翻訳です。

元記事は2018年11月9日、米中間選挙の翌日に公開された。記事冒頭には選挙結果について簡単な論評が書かれているが、訳出にあたっては省略した。

The Twilight of the Intelligentsia

これまでのところの連載では、これら歴史の深淵なるサイクルを理解するための主要なフレームワークとして、オズワルト・シュペングラーの洞察を利用してきた。議論を先に進めるにあたって、読者諸君にはシュペングラーの基本的な概念を心に留めておくよう勧めたい。今週の記事では、けれども、歴史的サイクルの別の学徒を重点的に取り上げたいと思う。シュペングラーの英国人のライバル、アーノルド・トインビーである。彼の膨大な12巻本『歴史の研究』において、トインビーはシュペングラーの比較文明論的な方法論を取り上げ、彼が収集できた充分な量のデータをもとに、あらゆる文明に対して百科事典的なスコープでその方法論を適用したのである。

トインビーの研究から派生した理論は、全体として、私にはシュペングラーよりも説得力が高くないように見える。けれども、当時彼はこの問題に対してシュペングラーよりもはるかに大きな個人的利害を持っていたのだ。シュペングラーは高校教師として平穏に生計を立てており、博識家としての研究生活を意図的な曖昧さの中で追求していたのに対して、トインビーは英国支配カーストの一員であり、政府と密接な関係を築いていた名高い非営利団体の秘書として働き、彼の歴史研究はイギリスとアメリカのエリート集団の支援のもとで行なわれた。シュペングラーは、イギリスは衰えつつあるアテネであり、それを覆い隠すローマはニューヨークかベルリンに位置する可能性が最も高いだろうと冷静に観察していた; トインビーは、あまりに無慈悲な明晰さから逃げ出し、シュペングラーが先へと進み (これまでのところ最も成功した) 予測を立てたまさにその地点から、ごまかしへと撤退していったのだ。

細かなディテールについて言えば、けれども、トインビーは正確であり、それゆえ多くの点において有用である。彼はシュペングラーが擬形態と呼んだ現象 --新興文化が、旧来のより権威のある文化の政治、経済、宗教および社会的な形態を取り入れることによるプロセス-- について記している。そしてそれを詳細に調べ、ありとあらゆる場所と時間での文明間の遭遇について精査したのである。このプロセスについてトインビーが強調したことの一つに、そのような文化間の遭遇で知識人インテリゲンチャが果たす役割があった。

ところで、「インテリゲンチャ」は元々はロシア語の単語であるが、この語が作られたのは--多数の言語における多くの語の起源と同じく--ある言語の単語を借用し、その語に別の言語の文法的接尾辞をくっ付けたものである。[intelligentsiaはラテン語に起源を持つロシア語の単語で、そこから英語に借用された] これはインテリゲンチャが出現するプロセスとだいたい同じものである。インテリゲンチャとは、トインビーの用語では、ある文化に属していながらも別の文化の考え方、習慣と実践によって教育を受けた者たちである。

それは第一の文化が第二の文化によって征服され、新たな大君主オーバーロードが自身の文化的形態を新たな領域へと課すことによって起こるかもしれない; それは、第一の文化のエリート階級が、第二の文化に支配された世界で競争するために、第二の文化の考え方や習慣を最大限に取り入れた場合にも起こりえるかもしれない。最初のカテゴリの事例としては、19世紀全体を通してヨーロッパの植民地帝国によって採用された地元の教師や下級官吏を想像してほしい; 2番目のカテゴリの事例としては、民主的な議会を持ち、首都に高層ビルを建築し、エリート階級はビジネススーツとネクタイで身を包んだ今日の第三世界の諸国を想像してほしい。

インテリゲンチャは擬形態の歩兵である。彼らの任務は、外国文化の形態を自分自身で受け入れ、また自らがその一員である社会のメンバーに対しても、説得を通してであれ強制であれ、それを課すことである。このプロセスをどの程度まで浸透させられるかには、必然的に厳しい制約が存在する。そこには常に反発がある。インテリゲンチャは常にかなりの少数派であるために、反発を単に無視することはできない。それが植民地社会の標準的パターンである。コスモポリタンなエリート階級 (外国人であれ自国出身であれ)、自身は絶対に得られないコスモポリタンのステータスを熱望する地元のインテリゲンチャ、そしてインテリゲンチャと彼らが推進する外国文化に対して鬱屈した敵意を持つ、莫大な、疲労した労働者階級である。

インテリゲンチャの地位には、どれほど特権的であろうとも苦い欠点がある。一方では、インテリゲンチャは、既に述べた通りの莫大で疲労した労働者階級のメンバーから憎まれ嫌われている。他方では、彼らが入念に模倣する外国人エリートからの承認を得ることは決してできない。魚も鳥も上等の赤身肉であれ、インテリゲンチャは文化間のギャップに囚われている。植民地社会の世界観の限界の中では、彼らの苦境から脱出するすべはない。彼らが取り入れた外国文化へと大衆を改宗させることもできないし、一方では、外国文化に属する人々から完全に受け入れられることもない。

インテリゲンチャを苦境から逃れさせる要因は、むしろ、まさに彼らが最も恐れることによるものである。最初に、個人的な失敗がある。数カ月前に私が記した通り、成熟した社会の教育制度は、社会が吸収できるよりもはるかに多くの人々を管理的地位に向けて教育することが一般的である。我々が議論しているような社会では、インテリゲンチャの数は、必然的に教員、下級官吏、その他類似の地位への求職マーケットが求める数よりも増大する。その結果は、単なるダイナマイトよりもはるかに危険な爆発物である: 自分自身の立場を理解し、既存体制に敵対する反対勢力の組織に必要となるあらゆるスキルを訓練された後で、その体制から打ち捨てられた教育あるアンダークラスである。

そして、2つ目の要素がある。つまり、いかなる支配的文化であれ永遠に支配を保つことはできないということだ。いずれにせよ、政治的権力と文化的カリスマの満潮の後には、いつも海へと帰る潮流が続く。支配的文化がその優勢を失うにつれて、インテリゲンチャはもはや取引のための唯一の株式の市場を持たなくなり、労働者階級からの反発は力を増していく。

そこで最初に起こることは、インテリゲンチャとしての訓練を受けたものの、準備をしてきた仕事へと踏み込むことができなかった人々で構成された教育あるアンダークラスの人間が、労働者階級と共通の大義を打ち立てることである。第三世界のヨーロッパ植民地の夜明けの年を見れば、そのダイナミクスが働いていることが分かるだろう。ものごとを推し進めて壁を乗り越えて急速な変化を起こすのは、アンダークラスに属してはいないインテリゲンチャのメンバーである。植民地体制のもとで良い職業と特権的な地位を得て、何が起きているのかに気付き、自身の選択肢を見極めて、アンダークラスと大衆の側に付いた人々である。おそらく読者もモハンダス・K・ガンジーという名の男のことを聞いたことがあるだろう; 彼について書かれた優れた伝記の最初半分を読めば、10フィートもの高さに達する手紙に書かれたそのダイナミクスを見られるだろう。

それではここで私が数週間追求してきたテーマに戻ろう。北米とロシアは未だに、文化的に言えばヨーロッパの植民地である; 両国のエリート階級は、第三世界諸国のエリート階級と同じく、裕福なヨーロッパ諸国の流行と習慣を熱心に猿真似している; どちらの国の主要都市の建築物、都市エリート層が熱心に消費する芸術形式、展示された衣服のスタイルさえも、すべてがヨーロッパの発明である。それは文化的植民地の道筋と同等であり、同じことをシュペングラーの用語で言うならば、支配的文化からの擬形態の影響下にある社会である。

およそ1世紀前にヨーロッパエリートの手から政治的権力が滑り落ちているとしても、実際には大差はない。ヨーロッパのエリートと彼らの国家は、真に重要な国家の支配者に対して2番目の細工を行うことができる。同じことは、二千年以上も昔、ギリシアがローマの支配下に下った時にも発生した。ローマの貴族 パトリキたちは依然として合争ってギリシア文化の知識をひけらかし、自身のヴィラをギリシアで購入した彫像で飾ったのだ。かつてアメリカ人のミリオネアたちが、今日ピッツバーグオマハの美術館を飾るヨーロッパの絵画を購入していたように。旧社会の文化的カリスマ性は、特権的エリートと、そのエリートの意によって雇われクビにされるインテリゲンチャ階層に留まり続ける。

私はロシアに住んだことはない。私のロシア文化への接触はほとんどが死者たちによって書かれた文学作品によるものであるため、個人的な経験からは、この植民地の社会構造がロシアで発生していることにどれほど正確に合致しているかを述べることはできない。アメリカでは、その一方で、これまでの私の生涯においてさまざまな地域に居住した経験を活用でき、その一致は正確である。アメリカ社会にも独自のコスモポリタンなエリート階級が存在しており、衰退段階に入ったあらゆる帝国で一般的な通り、贅沢さの馬鹿げた顕示に耽溺している; アメリカ社会にも独自のインテリゲンチャが存在している。上位の階級からの排除について苦悩し、下位の階級には、自身の唯一の取引材料であるヨーロッパの考え方と習慣を取り入れるように説得することもできないというありふれた束縛に囚われている。

アメリカのインテリゲンチャについて注目に値するのは、彼らがアメリカ人インテリゲンチャである限り、明確にヨーロッパの擬形態に執着し続けていることだろう。夢想の対象となる焦点は歴史の流れに従い移り変わっていくことは確かである; 植民地時代から20世紀初期には、インテリゲンチャのメンバーは英国を猿真似していた; 20世紀最初の2/3かそこらの間は、フランスがそのような執着の対象となった - 特にここで私が考えているのは、英国の作家サマセット・モームが小説『剃刀の刃』の中で述べた、 フランスは良きアメリカ人が死後に向かう場所であるという容赦ない皮肉なコメントである。

今日では、ふつうスカンジナビア諸国がそのモデルを提供している。つまり、アメリカのインテリゲンチャのメンバーが意識的または無意識的に、アメリカ合衆国がそうなるべきであると望む夢想のモデルである。(参考までに、それはスカンジナビア人の私の友人たちが困惑を覚える習慣である。) 数年前の本、マイケル・ブースによる『The Almost Nearly Perfect People: Behind the Myth of the Scandinavian Utopia』は、英語話者の国々で北欧諸国が理想化される傾向に対して、読者の誤解を解こうとするものであった; 私が知る限りでは、目的はあまり果たされていないようだ。また、もしそれがうまくいったとしても、その本が狙った対象の読者たちは、単に別のヨーロッパの国を見つけてそれを理想化し続けるだろう。

アメリカでは、アメリカ人ではないというフリをすること、自分自身の文化的・民族的なバックグラウンドへの教養ある軽蔑を示すことが、インテリゲンチャの自己認識の本質である。それが、インテリゲンチャが「アイツら [those people]」、つまり彼らが強く軽蔑するアメリカ人の大衆に属していないことを証明する方法である。(私は年を取っているので、中流・中上流階級の白人による「アイツら」という語が、同じ声のトーンで唇をつり上げて発せられるとき、それは有色人種の人々を指していたということを覚えている; 今ではその語が白人労働者階級の人々を意味するようになったという事実は、現在の特権階級の間で、階級的偏見が人種的偏見に取って代わったということの有力な証言である。)

けれども、アメリカ人インテリゲンチャによるアメリカ合衆国をヨーロッパ化せんとする望み薄の挑戦が直面する困難は、そのような不毛な試みが普通に相対する要因を超えている。きわめて重要な点として、ヨーロッパ文明のイデオロギー的な中心には、あらゆる人類の歴史はヨーロッパへの序曲であるという確信がある; 現在のヨーロッパの姿が、他のあらゆる社会が必然的に向かう行き先なのだ; ただヨーロッパのみが現代的であり、ヨーロッパをその細部に至るまで模倣していない社会は遅れており、未来の最先端にキャッチアップする必要がある、そしてその最先端とは (もう一度言えば) ヨーロッパなのだ。これを信じることは非常に心地良いことは確かだが、けれどもそれは真実ではない。

「ヨーロッパ」と「現代的」を同一視し、他すべてを概念上の過去と見なす混乱の蔓延は、現在を理解する上での巨大な障壁となっている。ヨーロッパが今の姿であるのは、そして今存在する習慣を備えているのは、過去数千年の極めて特異な歴史による膨大な遺産があるからだ。そのような歴史の無いところでは、ヨーロッパ文化の形態は、非常に異なる基盤を覆う薄い化粧板でしかなく、深い根を張っている兆候を示していない。そのような考え方を否定することが、アメリカのインテリゲンチャの世界観と自己認識の本質である。なぜならば、彼らの世界は、いつの日かアーカンザスが今日のボストンの態度の文化的習慣を持つようになるという確信の周りを回っているからだ。どの時代でも、確かにボストンはヨーロッパの都市と区別できないかもしれない。あるいは、より正確に言えば、アメリカ人インテリゲンチャの集合的イマジネーションの中でのあるべきヨーロッパの都市のファンタジーと区別できない。

ここで当然、ヨーロッパの都市は、スカンジナビアの都市でさえ、たった今示したファンタジーとの共通点を持っていない。ヨーロッパも現在、独自の困難なトランジションを迎えている。それを駆動するのは、過去の記事で見た通りの衝突である --シュペングラーが議論している通り、民主制を装ったエリート主義的な寡頭制と、大衆の支持を受けたポピュリスト的な君主制の間の不可避の闘争である。(少しだけネタバレしても良いだろうか? 長期的には、この闘争でエリート寡頭制の側が勝利する見込みはない。) けれども、それ以外の要因もある。前回の記事で議論したものである: 定義は難しいが無視することは危険な、文化とそれが生じた広い地域を結び付ける普遍的なリンクである。

ここアメリカ合衆国では、大西洋海岸沿い地域の古い沿岸入植地のような工業化以前のヨーロッパ世界の一部である地域と、ヨーロッパの文化的発展が完了するまで (シュペングラーの考えでは1800年ごろに起こった) 手付かずで残された広大な内陸部との間にある差異を捉えることは難しくない。[1970年代のロックバンド] イーグルスが当時歌っていた通り、[ロード・アイランド州] プロビデンスには「旧世界の影が空中に重く垂れ込めている」のだ。今日のプロビデンスの通りを歩けば、そこでははっきりとした半ヨーロッパ的雰囲気を味わえるだろう。20世紀の都市再開発による破壊を逃れたランカスター、ペンシルヴァニアなどの古い町並みでは、より強くその雰囲気を感じられる。

西へと進んで山脈へ至りそこを超えると、そのような雰囲気は完全に消える。それを置き換えるのは、何らかの未だ素[す]の、未完成の感覚であり、ショッピングモールと分譲住宅地の下をうごめく暗く静かな土壌である。何らかの成就へ向けて不器用に到達しようとしているものの、その成就の形は未だ明確になっていない。それが作家と詩人たちがアメリカ内陸部で何世紀もの間感じてきた感覚だ。フロンティア拡大の時期には、この感覚はヨーロッパアメリカ人の入植の広大な可能性への自覚として理解 (あるいは、私の考えでは誤解) されていた; 後のアメリカ帝国の全盛期には、ヨーロッパ化した世界に平和をもたらす普遍国家としてのアングロ-アメリカ帝国を夢見る集合的白昼夢と混ざり合った。

フロンティアは1世紀と四半世紀前に閉ざされ、私がこれを書いている間にも世界の大部分でアメリカ合衆国の一時的ヘゲモニーは終わりを迎えつつある。しかし、アメリカの大地のさまざまな場所を歩く間に、私は同じ胎動を感じられた。アーネスト・トンプソン・シートンがエッセイの中で生き生きと描写した「バッファローの風」、ロビンソン・ジェファーズが詩の中で力強くうたった未来をはらんだ土地の感覚。私はヴォルガ川の川沿いを歩く機会に恵まれず、土と風のなかに何らかの類似の蠢きが、異なる大文化の表現へと至る予感が感じられるのかは分からないが、しかしきっとそこに存在するだろうと私は確信している。

我々がアメリカ合衆国で今現在目撃している政治的けいれんは、ヨーロッパの擬形態が揺さぶられることによるプロセスの一部である。我々のインテリゲンチャの大多数がこれに酷くショックを受けているのは驚きではない。けれども、なぜあれほどの多数のインテリゲンチャが、甘やかされた2歳児のような終わりなき癇癪が意味あるまたは効果的な反応だと考えているのかは、私にはよく分からない。(今日、前衛的なサークル内で、感情を表現する演技が流行しているからではないかと思う。) この先の何年かにも、彼らには金切り声を上げる機会がたくさんあるだろう、またお祝いの機会もあるだろう; 我々が議論しているプロセスは、数年、あるいは一人の生涯の間にさえ達成されるものではない。けれども、歴史的な根拠から判断すれば、通常のタイムスケールとごく近いうちに、通常通りのやり方で演じられるだろう。

我々は、死と難産のインターバルを生きている。この先の記事で、そのインターバルの残りの期間がどのように進んでいくのかについて話そう。

翻訳:アメリカとロシア: タマヌースとソボルノスト (ジョン・マイケル・グリア)

以下は、ジョン・マイケル・グリアによる"America and Russia, Part Two: The Far Side of Progress" の翻訳です。

パート1, 2はこちら



America and Russia: Tamanous and Sobornost

この連載の最初の2つのエッセイでは、オズワルト・シュペングラーのビジョンのフレームワークを説明した。それは、偉大なる諸文化が勃興し、それら自身の可能性を通して活動し、ひとたびそれらの可能性の限界に至ると化石化するというプロセスである。この歴史観は、西洋工業社会、シュペングラーが命名したファウスト文化で育った人々の間に、かなり確実に深刻な不快感を起こすだろう。ファウスト文化とは、西暦1000年ごろに始まった西・中央ヨーロッパで生じた偉大なる文化であり、一時的に全世界を支配している文化である。ファウスト文化の人々は歴史を、これとは異なるかなり単純な方法で捉えることを好むからだ。

ファウスト文化の世界観からは、世界の文化がそれぞれ独自の可能性、独自の価値観や洞察および世界の捉え方を持ち、いかなる単一の軌道にも縮小させられないということは理解不能である。ファウスト文化の世界観では、人間にはごく限られた範囲の可能性しかなく、それはファウスト文化自身によって定められるものである; それ以外のすべての文化は、ファウストのモデルに近付くための不完全な試みとしてしか見られない。相異なっていても同等に正当な、複数の価値観と洞察と世界の捉え方が存在するなどということは、考えられない; 単にファウスト的な方法のみがあり、それは自明な真実である。それ以外のすべての方法は、迷信であり、暗愚であり、明白な誤りである。(今日の西洋文化圏のエリートの価値観を共有していないからといって、過去世代の作家を非難する"イデオロギー的に正しい"文学批評家を見てほしい。この種の直情的な自己中心的思考が不名誉なほどに満開に開花していることが見られるだろう)

まったく同様に、ファウスト文化的な精神を持つ者にとっては、歴史が勃興と滅亡の異なる軌道の連続で構成されるという考え方は受け入れられない。唯一の軌道のみが存在し、それは洞窟の野卑と無知から始まり、自身と他者の差異に基づいて判断しまたは願望を発見して様々な文化的な形を探し回る。そしてその後、ついに唯一の真なる進歩の道を見つけ出し、宇宙進出の必然的運命へと向かって自信満々に上昇していくのである。ゆえに、シュペングラーのアイデアがほぼ確実に引き起こす反応が、狂ったほどに若さの幻影に執着する中年の人々の集団に対し、全員がすぐに老いて死ぬのだと指摘した場合と似た、神経質な笑いに続く怒りの反発であることはまったく驚きではない。

ファウスト的ビジョンを真に信じる者たちがたった今直面している問題は、逆に正確に世界がもはや彼らの夢想を満たすものではないということだ。いくつかの狭い分野でテクノロジーの発展は続き、独自の可能性を通して働いていくだろうが、西洋世界の現代的生活を形作る人工物の大半は1世紀またはそれ以前に描かれたパターンに沿っており、実質的な生活水準の広範な低下はここ数十年進行中である。また、最近一番激しく喧伝された勝利のいくつかは、既に手の届かないところへすべり落ちている。来年 [注: 2019年]、我々は人類最初の月面着陸から50周年記念を祝い、自尊心を満たすごまかしをたくさん得られるだろう; どれだけの人が、来年は人類が最後に月に足跡を残してから45周年となることを、あるいはそれ以来誰一人として低地球軌道を超えていないということを記憶しているのだろうかと思う。

近年の20世紀中盤の未来ファンタジーのあらゆる定番ネタの焼き直し --宇宙旅行、空飛ぶ車、ロボットによる人間の労働の代替やその他もろもろについてハッタリめいた与太話は、私の子供時代のマンガ本やペーパーバック本でさかんに取り上げられていたものだ --これらは、バーコードヘア、フェイスリフト、バイアグラやボトックスとの文化的な同等物と見なせるだろう。老人が、自身はもはや保持していない若さの残骸に執着し、老化とはただ自分以外の人々だけに起こるものだというフリをするための狂気じみた試みである。同じ動機により、大学は西洋文明の芸術的・文化的遺産の研究を放棄している: これらを最近のエピゴーネンと比較してほしい。そうすれば、アンディー・ウォーホルとジョン・ケイジが、たとえばレンブラントやバッハからの何らかの進歩を体現しているのだという主張が、どれだけバカげているかが不愉快なまでに明白になるだろう。

星々へと向かう偉大な進歩の行進は今でも継続中だという安易で空疎な主張を超えたところでは、それに反する根拠の山が成長を続けている。そこで、シュペングラーのビジョンは遠い将来を理解するための意味のある方法を提供する。歴史の循環的性質について論じた他の古典的な著者たち--ジャンバティスタヴィーコとアーノルド・トインビー--と同じく、シュペングラーは未来を垣間見る鏡として過去を捉えていた: 創造的ポテンシャルの疲弊; 永続的な正典を生み出すための過去の科学的、文学的、芸術的アチーブメントのふるい分け; 不可逆的な経済的・政治的衰退の到来、それ他のもろもろ。

その軌道の向こう側には、独自の価値観と洞察と世界の捉え方を備えた、新たな文化の出現がある。過去1世紀程度の思想家は、ファウスト文化の故地であるヨーロッパ東西の地域に平行して、そのような新たな文化が2つ出現する可能性が高いと指摘している: ヨーロッパロシア、特にヴォルガ川沿岸; そして、アメリカ北東部、特にオハイオ川沿岸と五大湖を含む領域である。私の考えでは、これらを考察し、未だ誕生していない大文化の形を想像してみることには意義があると思う。

アメリカとロシアの間には特筆すべき共通点が存在し、またそれと同じくらい重要な差異も存在する。共通点から始めよう。両者ともに、拡大するファウスト文化が、かなり単純なテクノロジーを使い自然界と安定した関係を保っていた部族文化と相対した境界地帯に発生した。北米とシベリアの部族文化は、今では消滅したベーリング地陸橋を通じて遺伝的・文化的に関連を持っており、またそれらの部族文化を部分的に奪い、部分的に吸収した拡大するファウスト文化ヘの影響は、重要な共通点である。更には、フロンティアの経験がある。ヨーロッパの限られた地平線からは決して得られない、信じがたいほどに広大な空間との出会いは、両方の文化を類似の形に作り上げた。

同時に、2つの文化の遭遇を区別する重要な差異、そして双方が極めて重要な場所を占めている広い歴史の中での決定的な違いがある: 時間の差異である。ロシアの偉大なフロンティア拡張時代は、16世紀から17世紀に起こった; アメリカでは18世紀から19世紀である。より一般的には、ロシアは英語話者の北米よりもはるかに長く一貫した文化的実体を備えている。ロシアは、外国からの文化的影響の最初の波を受け取れるほどに古い--シュペングラーの用語で、その最初の擬形態は--ビザンツ帝国を通じて中東のマギアン大文化の影響を受け、西ヨーロッパのファウスト文化からの2番目の影響を受けたのは、大西洋沿岸のヨーロッパ植民地が最初の存在段階を過ぎた時期であった。アメリカは、一方で、未だ最初の擬形態の末期にある。2回目の擬形態が独自の文化的形態の出現を促すまでには、何世紀かを経る可能性が高い。

時間の差異は、より大きな差異に対応づけられる。それは場所に関連している。シュペングラーの分析が強調する点として --そしてこれは、彼の研究の中でファウスト的な感性を最も強く批判する傾向にあるものだが-- 特定の大文化のあり方は、世界の特定の場所に結び付けられており、他の土地への移植は決して成功しないという点が挙げられる。たとえば、ファウスト文化のホームグラウンドは西・中央ヨーロッパであり、その領域外部で文化的形態や政治的支配を確立した場合の結果は、必然的にファウスト的エリート文化が非常に異なった文化的基盤の上を覆う形となる。我々が議論しているプロトカルチャーの両方でも、これが働いていることが見られるだろう; ニューヨークでもサンクトペテルブルクでも、インテリゲンチャと特権階級はヨーロッパ文化の動きの影響を受ける; 権力中枢から離れたオハイオ川とヴォルガ川の土手に沿った農村では、ヨーロッパの化粧板は仮に存在したとしても非常に薄く、田舎の土 (と魂) のより深いところに根を張った何かが表層に現れている。

聡明であるが無視された研究 『神は赤い [God is Red]』で、ネイティブ・アメリカンの哲学者ヴァイン・デロリア・ジュニアは、場所のスピリチュアルな重要性について長く論じている。場の重要性は、マギアン文化が暗黙的に理解していた--マギアン的な宗教は必然的に、特定の、地理的に特異な巡礼の中心地へと向けて配置される--しかしこれはファウスト文化がまったく理解できないことである。ファウスト的な精神にとって、ランドスケープとは英雄的な個人、その行いがファウスト的神話作りのパンとバターであるような個人の創造的意思に上書きされるのを待つ、空白の石版である。ファウスト文化では、場所ではなく空間について語ることが好まれることに注意してほしい: 独自のキャラクターと特性を備えた局所的な位置ではなく空白であり、少なくとも想像力の中では一時的にいかなる目的にも使えるようなところである。

あらゆる文化には盲点がある。これが我々の文化の盲点である。カール・ユングは、アメリカを旅していたとき、工場から労働者が出てくるところを眼にした。ユングのヨーロッパ人としての眼には、群集のメンバーの多数がはっきりネイティブ・アメリカンであるように見えた。そして、おそらくそこには一人もネイティブ・アメリカンは居ないとホストが主張するのを聞いて、ユングは驚いたのだ。両者とも正しい。土地は--あらゆる土地は、そこで生まれ育った人々の身体、行動および思考に独自の刻印を残す; ヨーロッパ人になろうとするアメリカ人の試みは、数世紀もヨーロッパで物笑いの種となっている。なぜならば、その結果は常にヨーロッパ人の耳には間違って聞こえるからだ。まったく同じことはヨーロッパ化されたロシアにも当てはまるが、ミスマッチのディテールは異なっている。ロシア人は異なる土地からの刻印を受けているためだ。

歴史と文化のディテールを反映したこの刻印により、我々が議論している2つの大文化の形態を垣間見ることが可能となっている。

それぞれ大文化は、シュペングラーが示した通り、独自のテーマに相当するものを保持している。その文化が重要と見なす問題を抽出し、また解決策へ向けてリソースを展開するための中心となる概念である。ファウスト文化の中心的なテーマは、無限の拡大である。新たな政治的大義や新たな食事法を思いついたファウスト的な思想家が、誰もが、どこであれ、その大義を受け入れてその食事を取らなければならないと主張することに気がついただろうか。我々の技術的な能力が、距離を消し去るための探求に強迫的に注力していることに気がつくだろうか; 横帆船から鉄道から自動車から飛行機からロケットに至るまで、腕木通信からテレグラフからラジオからテレビからインターネットに至るまで、すべてが直線を無限に伸ばすことに関連する。そこで、歴史のなかでただ我々の文化のみが芸術に線遠近法を使用していることは何ら驚きではない。

マギアン文化と比較してほしい。中東において何世紀も前に栄え、成熟し、永続形態へと定着した大文化である。マギアン文化の中心的テーマは、人間のコミュニティと神との間の関係である。ファウスト文化が外部の無限の空間へと向かう一方で、マギアン文化は内側へ、1人の特異な人間を取り巻く熱心なサークルを形成する。その特異な人間は、自身の言動を通して、天空からの同等に特異な啓示を伝えるのだ。使徒たちの中心にいるイエスや、教友の間にいるムハンマドを考えれば、基本的なイメージが掴めるだろう; アーサー王伝説のようなマギアン文化の擬形態であるような古典的作品にもそのテーマが反映されていることが分かるだろう。円卓の騎士たちの中心にいるアーサー王は、やや世俗化されたこのテーマを反映している。そうであっても、アーサー王の生涯の終わりからは、ファウスト的精神の最初の胎動を捉えられるだろう。彼は、墓の中で巡礼場所として仕える--マギアン文化の中心的人物の通常の運命-- のではなく、西の海を渡って消え去るのだ。「賢明な考えではない、アーサー王の墓[などというものは]。」と、古ウェールズ語のテクストは伝える。[19世紀イギリスの詩人] テニソンは、1000年後に同じテーマを反響させた。「深いところから深いところへと、彼は行く。」

他のあらゆる大文化にも独自の中心的テーマがあり、その基本的な存在のイメージを持っている。それらに興味を抱いた読者諸君は、シュペングラーの『西洋の没落』の中でディテールを発見できるだろう。しかし、ここでは未来に眼を向け、ロシアとアメリカの来たるべき大文化の中心的テーマを見てみよう。

もちろんここで言い訳が必要となる。私はロシア人ではない; ロシア文化に対する私の経験は、高校3年間のロシア語のクラス、その後のロシアの文学と歴史に対する若干の共感的な読書を通したものでしかない。私はロシアを訪れたことはなく、ユーラシア大陸の大ステップからヴォルガ渓谷を吹く風のささやきは、私の経験の外側にある。幸運なことに、未来のロシア大文化の形態についての疑問に取り組んできたたくさんの思索深いロシア人作家がいる。彼らの結論として、ロシア文化の中心的テーマは、英語では正確に対応する語が存在しない単語によって表現されている: ソボルノスト [sobornost; 露: Собо́рность] である。

もしも私がその概念を理解しているのであれば、--私が間違っていた場合には、ロシア人読者からの訂正を喜んで受け入れたいと思う-- ソボルノストとは、共有された経験と共有された歴史から生じる集合的アイデンティティである。それはマギアン文化の基本的テーマを提供する信仰コミュニティのように、上部から定義されるものではない。実際には、個人のアイデンティティの自然な実現のように、個別の人生のなかで有機的に育まれるものである。ソボルノストの文化では、各々の人の中心には、唯一の本質ではなく、全体との繋がりが存在している。伝統的なロシアの村落が連続した同心円として配置されていたのは、これが理由である。聖なる場所を中心として、その周りには家が、さらにその周りには庭があり、その外側を畑が、そして森が遠く離れたところまでを覆う: 村落のそれぞれの部分は、他者と形式的に等しくなるようなパターンで配置されている。

アメリカ大文化の最初の胎動は、今の時点ではかすかである--何ら驚きではない。アメリカ大文化の開花は、未来のかなり遠くで起きる可能性が高く、最初の擬形態を通り過ぎた後、2度目の擬形態が待ち構えている。そのかすかさを表しているのは、既にアメリカ文化をその他の社会から区別しているテーマを表現するための適切で明快な英単語が、未だ存在していないことである。土地はその基本的な影響力を放射し続けている一方で、人々はやって来て去って行くのだから、私はチヌーク族の用語を借用したい--北米大陸の北西部で使われたネイティブアメリカンの古い交易言語であり、かつてカリフォルニア北部からアラスカまで、太平洋からロッキー山脈の東側斜面までで話されていた言語である。それはタマヌース [tamanous] と言う。

ちなみに、tamanous は「tah-MAN-oh-oose」というふうに発音する。それは個人の守護霊であり、またその個人の幸運と運命である。非常に多くのネイティブアメリカン文化では、さまざまな伝統的実践を通して自身のタマヌースとの聖なる関係を発見し確立することが、人が取り組む第一の宗教的な行為である。またそれは成人となることの本質的な一部であるため、ほとんどの人々が当然のこととして行う。その結果は、他の誰とも似ていない宗教的なビジョンであり、ある個人と、同等に特異な個別のスピリチュアルな力との間のパーソナルな関係が舞台の中心を占めるものである。

私はかつてワシントン州エヴェレットの北にあるネイティブアメリカン保留地で、宗教的なセレモニーに出席する栄誉を受けたことがある。太鼓の轟きに合わせて、参加者たち --コースト・サリッシュ族と関係のあるいくつかの部族の男と女たち-- は、自分のタマヌースのダンスを踊るのだった。どの2つのダンスにも同じステップはなく、同じ動作もない; 各々が、太鼓の力に捉えられ、自身の特別なスピリチュアルな庇護者の性質と、授けられた才能を表現する。それがサリッシュ族の伝統的な信仰なのである -単一の包括的な力や組織化されたパンテオンではなく、スピリチュアルな存在との個人的な関係の輝く発揮である。それを共有する人間と精霊以外の誰かにとっては、必ずしも関連性があるわけではない。類似のパターンは他の多くのネイティブアメリカン文化にも発見できる。

アメリカの宗教史を見れば、マギアン擬形態の最後のスクラップから同じパターンが形作られているのが分かるだろう。伝統的キリスト教では、個人は普遍的なキリストの身体である教会の一部であり、共有された教義と実践により結び付けられている。アメリカにおいては、植民地時代でさえこれは壊れ始めており、イエスとの個人的な関係への注目と聖典の意味への個人的な直感によって置き換えられた。これはアメリカ土着版のキリスト教であり、パーソナルな変容を通して、イエスを自身の個人的守護者として捉えることを信徒に求めるものである。世代を経るごとに、それはクリスチャン的なビジョンの探求とますます類似のものとなっていった -そして、個人的な守護者とタマヌースとの間に何か違いはあるのだろうか?

より一般的には、西洋のファウスト文化から最初のはっきりとしたアメリカ文化の胎動を示す断層線は、すべて個人の自由リバティファウスト的精神に蔓延した力への意思との間の衝突に関わるものである。ファウスト文化の神話的ナラティブはすべて、真実を知るビジョナリーな個人と、彼の考えを強制的に受け入れさせられる必要がある無知で迷信深い大衆との間の衝突にまつわるものである。ファウスト文化の擬形態が支配しているところでは、ロシアでもアメリカでも、必然的に教育を受けた知識人のエリート階級が形作られる。彼らは、反抗的な大衆をいじめて威圧し、最新のファッショナブルなイデオロギーとなったものを毎週のお説教で受け入れさせようとする。

今から数世紀の間のロシアでは、そのような軌道はソボルノストのブロック塀と正面衝突するだろう。独自の永続的なパターンを復活させるため、ヨソ者の思想を脇へと押しやる強固で猛烈な反駁不能な集合的アイデンティティである。もしもシュペングラーと前述のロシア人思想家たちが正しければ、ファウストの擬形態の時代はほとんど終わりかけている。次の数世紀には、新生のロシア大文化がヨーロッパの遺産を揺さぶり、あるいは徹底的に再利用して、完全に異なる人類と宇宙のビジョンを打ち立てるだろう。そこでは、ソボルノストが中心的なテーマとして現れるはずだ。

そしてアメリカは? 我々はもっと長く進まなければならならず、別の擬形態を通過する必要がある。そうであっても、未来のアメリカ大文化の胎動は我々自身の時代にあっても追跡できる。というのは、ファウスト的思想を頭いっぱいに詰め込んだインテリゲンチャは、ロシアで発見できるのと同じくらいに、腹立たしいほど異なる人類と宇宙のビジョンと衝突しているからだ。蒙昧なる大衆に真実を啓示するビジョナリーな個人の役割を訴えようとする人々に対して、大衆は「それがあなたの真実であるならば、それに従えばいい。それは我々の真実ではない」と頻繁に言うようになっている。逆に、ダンスする民衆の側を詳細に調べてみると、どの2人も同じステップを踏んでおらず、同じ動作をしていない。

あらゆる人への1つの正しい道はない。それが、アメリカの大地がそこに住まう人にささやいてきたメッセージである。あるいは、メッセージの一部である。これはあらゆる人へ向けたメッセージではない--もう一度言えば、それぞれの大文化には独自のテーマがあり、未来のアメリカ大文化の中心テーマは、それ以外の文化によるテーマと同じく、普遍的なものではない。今から1000年後、ソボルノスト文化とタマヌース文化間の不整合は、巨大な政治的現実と化すかもしれない。ちょうど、西暦1600年ごろのマギアン文化とファウスト文化との間の基本テーマの解決不能な衝突のように。それでも、しばらくの間はこのメッセージは注目に値する。

唯一の真なる信仰というマギアン文化の伝統と、ひとたび発見された真実は何であれ宇宙の限界まで拡張されなければならないというファウスト文化の主張への未練がましいノスタルジアの間では、それは多くのアメリカ人が耳を傾けることが困難なメッセージである。けれども、アメリカ人たちは過去3世紀の間にますますそのメッセージを聞くようになっている。アメリカのファウスト擬形態が壊れて海へと帰っていくにつれて --ちょうど今、クリティカルな段階に達したように見えるプロセス-- そのメッセージは広がっているように見える。あなたは自分のタマヌースの働きかけに従うことができ、私は私自身のタマヌースに従うことができる。そして、我々が同じダンスを踊っていないという事実は、我々2人にとっての関心事ではない。

その認識は、政治的・文化的に重大な含意を持つ。この先の数週間で、それらのうちのいくつかを描き出したいと思う。

西洋の没落 I (中公クラシックス)

西洋の没落 I (中公クラシックス)

西洋の没落 II (中公クラシックス)

西洋の没落 II (中公クラシックス)

翻訳:アメリカとロシア Part2: 進歩という楽園の向こう側 (ジョン・マイケル・グリア)

以下は、ジョン・マイケル・グリアによる"America and Russia, Part Two: The Far Side of Progress" の翻訳です。

パート1はこちら


America and Russia, Part Two: The Far Side of Progress

この連載記事の最初のパートである前回の記事では、オズワルト・シュペングラーの洞察、歴史サイクルの概念は、過去を説明するために使用できるというだけではなく、我々の未来を形作るものの洞察を得るためにも使えることを確認した。これは危険な考えである。なぜならば、そこから予測される未来は、今日の文化的な強迫観念から要求されるものではないからだ。

あらゆる偉大なる文化には、シュペングラーのフレーズを使うと、未来がどのようなものになるべきかという独自のビジョンがある。アポロン文化--古代の地中海沿岸の大文化であり、古代ギリシアで文化的な全盛期を迎え、ローマの鷲のもとに転移した--においては、誰もが予期していた未来とは、現在が限りなく続くものであった。アポロン文化の成熟期、数世紀を導いた時間と変化のビジョンは、3つの段階を持つ; 最初、ものごとは混沌のなかにあった、そして偉大なる力が生じものごとに秩序を定め、そして秩序が永遠に続く。宗教的な用語では、偉大なる力とはタイタンを雷で押さえつけたユピテルである; 政治的な用語では、偉大なる力とはローマ帝国がその傘下に合争う諸王国を組み込むことであった。同じロジックが古典哲学にも適用された。そこでは、理性的な精神を用いて自己の混沌を抑え、永続的な秩序をもたらす方法が教えられていた、などなど。

マギアン文化 --アポロン文化が頂点を迎え衰退していくにつれて中東で生じた偉大なる文化であり、アッバース朝カリフ制のもとで文化的な全盛期を迎え、オスマン帝国に転移した-- においては、ひとたびアポロン文化の擬形態がフェードアウトすると、このビジョンはいくつかの後継を発見した。マギアン的な時間と変化のビジョンは、キリスト教神学を通して私の読者にはむしろ馴染み深いものであろう。このビジョンにおいて、宇宙とは人間の救済の壮大なるドラマが上演される舞台である。天地の創造、唯一の真なる信仰の啓示を通して、大激変のフィナーレへと一直線に至り、その後はもはや二度と何も変化しなくなる。マギアン的な経験の中心部には、逆に、信仰コミュニティの一部であるという感覚があり、唯一の真なる神が終末をもたらすのを敬虔に待ちながら邪悪な勢力に抵抗する。

前回の記事で見た通り、ファウスト文化 --西ヨーロッパで西暦1000年ごろに生じた偉大なる文化であり、ルネサンスで文化的な全盛期を迎え、18世紀と19世紀の巨大ヨーロッパ帝国に転移した-- は、その内部にマギアン文化の残滓を保ち続けている。それは擬形態の通常の歴史的プロセスを通してピックアップされ、多かれ少なかれ化石化した状態でその場に留まり続けている。(後で、ファウスト文化の故郷であるヨーロッパよりもここアメリカで、それらの化石化した文化が極めて一般的であり影響力を持っているのはなぜなのかについて語ろう。) ファウスト的な世界観の根底には、けれども、マギアン的な文化とは正反対の時間と変化についてのビジョンが存在しており、またアポロン的ビジョンの名残りはかなりはっきりと見える。

ファウスト的ビジョンでは、ものごとの始まりを形作る特徴は、混沌ではない。停滞である。あらゆる古いおとぎ話の、洞窟に住む人間が火を発見する物語を考えてみてほしい、あるいはそれと同じ神話的ナラティブの残響、スタンリー・キューブリックの映画 『2001年宇宙の旅』のオープニングシーンを; 科学革命についての民間伝承を考えてみてほしい; 未だ自身の失敗の重みで潰れていない、マギアン的な終末論に変化した社会変革に向けた壮大な十字軍的運動のレトリックを考えてほしい (現代西洋世界の社会運動が「我々が望むものが得られなければ世界は終わりだ!」と叫び始めたら、その運動は既に失敗しており、残りの期日は限られていると考えられる)

物語は暗闇と卑しさと停滞状態から始まり、誰もが蒙昧と迷信の鉛のような重量の下で何世紀にもわたる決まりきった歩みを進めている。そして、とある聡明な人にすべてを変える「アハ!」の瞬間が訪れる。彼は--通常の場合男である、少なくとも神話では--当然、蒙昧と迷信の勢力と戦う必要があるものの、もちろん最終的には勝利する; 暗闇と卑しさは何らかの輝く新たなものに道を譲り、停滞はムーブメントに道を譲り、進歩の偉大なる行進が星々へと向けた歩みを始める。

ここでは、ファウスト的神話がアポロン文化の同等の神話から最も明らかに遠ざかっているように見える。けれども、その違いは見た目ほどには重要ではない。「進歩 [progress]」という単語は、結局のところ、文字通りには「同じ方向に向かって歩みを進め続ける」ことを意味する。ゆえに、ファウスト的神話では、進歩の速度は変わりうるものの、その方向は変わらない。一例を挙げれば、1970年代に、先進的な研究者のさまざまな集団が神秘主義者やオカルティストと共通の立場を見つけるようになった時期に、科学的エスタブリッシュメントがきわめて強く怒り出したのはこれが原因である。当時と現在の科学的主流派に受け入れられた進歩の定義は、神秘主義者とオカルティストを迷信と無知のごみ箱へと追いやるものであった。そこで、いわゆる「懐疑主義」運動は必然的な反発であった。

自分たちは教条主義と不寛容に反対しているのだと主張する、充分に懐疑的ではない懐疑主義者たちの教条主義と不寛容性を揶揄することは容易であるが、しかし彼らの聖戦はファウスト的な進歩教の中心的ロジックからすると、必然的な帰結だったのだ。定義上、進歩とは、我々を無知蒙昧の過去の卑しさと無知からここへと運んできたものであるため、定義上、同じ方向への歩みを進め続ければ、輝かしいテクノユートピアの未来へと我々は導かれ、上昇させられるからだ。霊的体験に対する科学者集団の教条主義的な拒絶を再考しようとするいかなる試みであっても、無知と迷信の勢力への降伏であり、我々全員の星々への運命を否定するもの以外とは見なされないだろう。

同じロジックがファウスト文化のあらゆるレベルに蔓延している。たとえば、自分自身の健康に良い食事法に出会った人々が、同じ食事がみんなの健康にも良いに違いなく、それ以外のあらゆる食事は悪く、邪悪で、誤りであり、もしもすべての人々が唯一の真なる食事を受け入れればあらゆる病気が消え去るのだと、ありとあらゆる人々に主張することがどれほど一般的であるかに気付いただろうか?

これは偏った食生活の核心を反転させたのと同一の考え方である。常軌を逸した食事法の提唱者は、すべてを変える「アハ!」を得た聡明な個人という文化的に課せられた役割を追い求める。そこで、唯一の真なる食事法が、食事法の進歩へ向けた永遠の歩みを進める固定の方向であるとされる。進歩とはただ一つの方向へと向かう直線であり、あらゆる人々がそれに従うことを強制されるという考えがファウスト的ビジョン全体の中心なのだ。

代わって、ファウスト的なナラティブの欠点が痛々しいほど明白になるのは、進歩へ向けた絶え間ない行進が無様に失敗するときである。なぜならば、ファウスト文化は失敗に対処する方法を持たないからだ。

失敗に対処する方法は、それぞれの大文化で劇的に異なっている。中国とインドの偉大なる文化は、たとえば、重要な点の多くで異なるものの、時間と変化へのアプローチには類似のスキームを取っている: 循環的な運動のビジョンである。ヒンズー哲学は、記録された高等文化の中で最も豊かに洗練された循環的な時間スキームを持つ2つの文化の中の1つである。--唯一のライバルは、同等に膨大なディテールの中で機能する、同等に複雑な入れ子構造の循環的システムを持つネイティブ・メソアメリカ文化だけである。これら文化のどちらでも、起こることのすべては過去に何度も繰り返し起こったことであり、未来にも何度も繰り返し起きるだろうとされている。たとえ困難な時代が来たとしても、それは広大な時間の円環の中から別の事象が出現しただけだ。

中国文化のビジョンはいくらか異なっているが、しかし同様に循環的である。時間の理論に関する中国の偉大な教科書である易経は、64個の時間の基本的条件を特定しており [六十四卦]、それぞれが特定の変換方法により別の形へと変貌する。ゆえに、諸国と諸王朝の興亡は、インドにおける時間の円環ほど厳密に固定されているわけではない; 時の流れに注意を払う政府は、働き始めた崩壊の条件をくい止められる場合がある--伝統的な中国の言葉で言えば、天の義務を知り、それが新たな者の手に渡ることを防ぐのである。中国のものの見方では、代わって、困難な時代が来たときには、それは単に首都の官僚たちが時の流れの正確な判断に失敗したことを意味する。そして、官僚たちが鍵を見つけるか、または次なる王朝の兵士たちによって官僚たちの首が竹ヤリの上に晒されれば、状況はすぐに改善するだろうと考えられる。

マギアン文化は、循環的な時間感覚を持っていない--これほどに有限な歴史のビジョンを備えた大文化は他に存在しない--しかし、マギアン文化の時間スキームの本質的な柔軟性により、失敗と敗北への対処は相対的には容易である。マギアン的な世界観では、結局のところ、信心深いコミュニティは邪悪な勢力によって絶えず脅かされている。それら邪悪な勢力は、唯一の真なる神の不可解な理由により大きな猶予を与えられている。いつの日か、メシアかキリストかマフディー [それぞれユダヤ教キリスト教イスラム教で世界の終末に現れる救世主を意味する] か何者かが現れて世界を完全に変貌させるが、けれどもそれがいつであるかは誰にも分からない。そして、しばらくの間、信心深い者たちは、現世的な失望と苦難の業火の中で信仰が試されることを覚悟しなければならない。

アポロン大文化は、これらのリソースのいずれも欠いていた。アポロン的な歴史のビジョンでは、もう一度言うと、ひとたび正しい支配者の偉大なる力によって宇宙があるべき秩序に定められたなら、そして誰もがものごとの秩序において適切な場所を受け入れたならば、そのままの状態で永遠に留まり続けると考えられていた。そのため、ローマ帝国の崩壊は、その中を生きていた人にとって滅茶苦茶な体験であった。強い主張を唱えることもできる--そして実際に、西暦5世紀初期ヒッポのアウグストスは彼の論争的な傑作、『神の国』でそのような主張を唱えた--つまり、ローマの崩壊はアポロン的な世界観の最も根本的仮定を反証したのである、と。そのような認知的不協和の経験が、まだ残されていたものを一層し、新興のマギアン文化が古代世界の集合的イマジネーションを捉え、後期ローマ帝国の幻滅した大衆に自身の宗教的・文化的なビジョンを課したのである。

ファウスト文化は、けれども、同種の幻滅に対して更に脆弱である。もしもさまざまな大文化の失敗経験に対する打たれ強さ レジリエンス スペクトラムを設定したとすると、インドと中国はスペクトラムの末端に位置し、ファウスト文化はその逆側の末端の最大の距離に位置するかもしれない。ファウスト的な時間感覚が無傷であるためには、結局、生き延びるだけでは充分ではない; また、アポロン文化が熱望し、数世紀にわたって一時的に達成したような定常状態を確立することでさえ充分ではない。ファウスト文化の時間感覚は、進歩--同一方向への継続的な勝利の運動--を要求する。運動が停止するか、または目立って減速したりすると、起こるべきと考えられていることと実際に起きていることの間にあるギャップの拡大は、大規模な認知的不協和の源となる。そのような状況がしばらく続くと、人々は自制心を失ない始める。

ちなみに、これが今日のアメリカの政治的主流派の驚くべき狂気について、私が思い付く限り最高の説明である。1980年代初頭の一連の経済政策 --自由貿易協定、無制限の違法移民の暗黙的奨励、スモールビジネスの犠牲のもとに大企業に利益を与える拡大し続ける政府規制-- は、その後続いていくべき経済の進歩を定める固定の方向としての役割を割り当てられた。約10年後、ポリティカルコレクトネスのイデオロギー、性別や民族に従って「犠牲者」と「加害者」という固定された役割を割り当て、社会階級のリアリティ (および、中流階級からの労働者階級に対する階級的偏見) をシステマティックに消去するもの、も社会的・文化的な観点から同一の位置付けを与えられた。

この政策とイデオロギーの両方が、表明した目標を達成できなかった; 前者の結果としてもたらされるはずだった全般的な繁栄も、後者によりもたらされるはずだった平等性の増加も、決して実現しなかった。結果は強烈なバックラッシュであり、その先鞭を付けたのは、お決まりの通りこれらの政策とイデオロギーによるコストを支払うことが期待されていたものの、何ら利益を受け取れない人たちであった。現時点において、このバックラッシュによって問題の政策とイデオロギーへの反対者が、米国政府の行政・司法機関の枢要な地位に就いている。自由貿易政策が提供するはずだった草の根的な経済ブームは、今や自由貿易政策の廃止によって引き起こされつつある。

その反応として、旧式の進歩のビジョンの擁護者たちは、ファウスト的社会の中で敗北した大義の通常通りの行動を取っており、マギアン的な擬形態の習慣へと戻った。このようにして、鋭い道徳的な二元論、自分たちは善の権化であるという態度、彼ら自身の進歩のビジョンに対するバックラッシュは意図的な邪悪なる動機によるものであるという狂乱した主張、そしてその他のもろもろが引き起こされる。1つの予兆として、代わって、「良い人々」を自称する人たちが敗北すると、その後即座に世界の終焉が来ると主張するメディアの記事も見られ始めている。もしもドナルド・トランプの支持者が、自分たちを取り巻く思想史について知っているとしたら、これらの記事を喜びをもって読むであろう --既に述べた通り-- そのような批判は現代の社会運動の死因であるからだ。

心に留めておいてほしいのは、けれども、今日のアメリ政治界で見られる騒動は、これまでファウスト的永続的進歩のプロジェクト全体が取り組んできた希望が裏切られるにつれて起こるであろう劇的な幻滅の、穏やかな予告編でしかないということだ。ファウスト文化が決して把握できなかった問題は、同一方向への継続的運動へのいかなる試みであれ、収穫逓減の法則の対象となるということだ。科学的発見と技術的進歩もこの法則の例外ではない; 科学的、技術的進歩の各世代ごとのコストが10年毎に着実に増加していることは注目に値する。その一方で、10年毎の進歩によって得られる利幅は、未だ負に落ち込んでいないものの、平均すると低下しつつある。

既に我々は人々が旧世代の携帯電話へと帰っていくのを眼にしつつある。なぜならば、最新のギミック満載のスマートフォンは、文字通り価値よりもトラブルが多いからだ。まったく同様に、有人宇宙飛行は野心的国家とビリオネア著名人のための宣伝用ギミックと化した。衛星軌道がジャンク衛星とスペースデブリで埋めつくされ、ケスラーシンドロームの破滅のリスクが上昇するにつれて、20世紀初期のテクノロジーである高軌道気球に現在人工衛星が果たしている役割を持たせるため、賢明な投資資金が集まっている。

人間の外宇宙への拡大というナラティブ全体が、我々のあらゆる夢想のうちでおそらく最もファウスト的な典型例であり、あらゆる方向へ向かう無限のズームアウトへの愛に対する究極的な文化的表現である。科学者たちは、それが不可能であることを何十年も前から知っていた --地球の磁気圏の外側では、宇宙は強烈な放射線で満ちており、長時間の暴露は放射能汚染による確実な死をもたらす。そして、月も火星も、あるいは人類が到達可能な太陽系内のあらゆる惑星も、太陽系の中心で爆発を続ける熱核爆弾から流れ出る致死的な放射線を遮るだけの磁気圏を備えていない。そのような科学的ディテールの歯の中で、宇宙の植民地化という集合的イマジネーション上の神話を保持しつづけた場合、夢想全体を崩壊させる弱点へと転じるかもしれない; そうでなければ、別のものが弱点となるだろう。

ゆえに、永続的な進歩ではなく、技術的な縮小が未来の波なのである。壮大な進歩神話の失敗が避け難くなるにつれて、多くの人々が最新の機能不全のアップグレードに背を向け、新しくとも顕著に改善されていない 技術的小間物 テクノトリンケット が、実際にものごとを機能させるため復帰させられるだろう。そのリアリティが浸透を始めるにつれて、世界規模のメルトダウン発生を予期しなければならない。

ゆえに、アポロン文化の世界観を歴史のゴミ箱へと駆逐したのと同種のカタストロフィックな幻滅が、ファウスト文化を襲うだろうと予期している。あるいは、今日の西洋工業文化で見られるイベントの予告編から判断すれば、進歩の神話の拒絶はもっと突然かつ徹底的なものかもしれない。必ずしも国家の崩壊を伴うものではない --私はそれも予期しているが、しかし別の圧力の結果として独自のタイミングで発生するだろう-- しかし、公共政策と個人生活の双方を支配する最も根本的な仮定の放棄を伴うことはかなり確実である。私の読者の多くは、未来が現在より本当に良くなることはないという状況に陥った時の地殻変動を既に経験していることだろう。(その他の諸君も心構えをしてほしい。すぐにあなたも同じ経験をすることになるのだから。)

ここでついに、本連載記事で2週間前に始めたテーマへと戻ってくる。ポストファウスト世界における2つの偉大な文化の発生の可能性、1つは北米、もう1つはロシアである。ファウスト的な夢想の失敗により生じる動きによって発生するのは、この2つの文化だけなのだろうか? 私には分からない。未だ活力を保っている中国とインドの大文化は、ファウスト時代の衝撃に対して、古典的な文化テーマの何らかの更新版へと回帰して循環させて対応するだろうと考えられるあらゆる理由がある。同様に、マギアン文化は中東のハートランドで繁栄を続け、ファウスト文化の幻滅の始まりに北と西へと拡大し、ファウスト文化との長く苦しい闘争をようやく終えられるかもしれない。そしてヨーロッパの疲弊した国々にいっとき自身のルールを課すだろう。

広大で、肥沃で、気候の温暖なオハイオ川とヴォルガ川の流域は、けれども、ポストファウストの未来で明確な役割を果たす可能性が高い。2つの渓谷とそこから生じる2つの文化は、けれども、いかなる観点からも完全に別々の軌道を辿るだろう。2つの決定的な要素がそれら2つの文化を区別する。1つはこの連載記事で既に言及した: ロシアは既に2回目の擬形態の段階にあるものの、アメリカこれまでのところ1回しか経ていない。もう1つは、それより微妙だが普遍的なファクターであり、土地そのものに根ざしている。次回の記事では、カール・ユングとヴァイン・デロリア・ジュニアの助けを借りてその微妙なファクターの根本を追い、将来の文化が形作られる方法を説明しよう。

翻訳:アメリカとロシア Part1 国境の泡立ち (ジョン・マイケル・グリア)

以下は、ジョン・マイケル・グリアによる"America and Russia, Part One: Stirrings in the Borderlands" の翻訳です。

若干の補足として、シュペングラーの「文化 (Kultur)」と「文明 (Zivilisation)」という用語について、『西洋の没落 I (中公クラシックス)』の訳者解説から引用します。

…前提として、シュペングラーにおける「文化」と「文明」の区別をおさえねばならない。「文化」と「文明」の区別は、ドイツ語圏において比較的よく見られたものだが…シュペングラーはかなり独特な使い方をしている。すなわち、「文化」とは、ひとつの高度文化の創造的な活動の時期を指す一方、「文明」は、完成段階に到達した文化が必然的に迎える崩落状態を意味している。文化が「成ること」であるとすれば、文明は「成ったもの」であり、「終結」である。つまり「文化」は、その発展の末に「魂」なき「文明」となり、「没落」するのである。

America and Russia, Part One: Stirrings in the Borderlands

私の考えでは、現代アメリカ社会における集団的な愚かしさの主要な原因の1つは、我々の間に蔓延した短期的思考の悪癖である。アメリカの公的生活では、何かを止めて「ちょっと待て。もし我々があと数年もこれを続けたら何が起こるのだ?」と言う人間は恥ずべきほどに珍しい。当然のことながら、ごく少数の人しかこれを行なわない理由の一つとしては、彼らが非現実的な夢想家であるとして怒鳴り倒されるからであり、単なる事実として、いわゆる夢想家はたいてい正しく、彼らを無視する実務的な人間、問題を再考する最低限の意思さえ生じさせない人々は、たいてい間違っている。

最近、原油価格がゆっくりと上昇するにつれて、いつも以上にこのことが私の心に浮かんでくる。ここ数年、原油価格は2009年の最低価格から第三世界諸国の経済を圧迫し始める水準にまで上昇している。それは主要工業諸国の経済をも圧迫するであろう。なぜならば、それは1973年と2008年の劇的な価格暴騰をドライブしたのと同じサイクルの再演であるからだ。

状況に注意を払っている私の読者諸君は、シャワーの中ですべての詩をそらんじられるほどにこの歌を知っているだろう。石油は有限で、非再生可能で、代替不可能な資源であり、我々は毎日1日ごとに9300万バレルという速度で石油を燃焼させている。(次回、メディアが10億バレルもの埋蔵量がある新油田が発見されたと叫んだときには、それを9300万バレルで割ってどれだけ続くのかを確認してほしい。) 年が過ぎるごとに、既に消耗した量を埋め合せるための新油田の発見は、ますます少なくなりつつある--この時点で、毎年の埋蔵油田の発見量は年間消費量の11%程度にすぎない。

まともな世界であれば、我々は毎年毎年石油消費量を削減し、石油時代の頂点にいっとき流行した贅沢なエネルギー使用の習慣を放棄して、それで我々はうまくいくだろう。しかしながら、我々はまともな世界に住んでいない。我々が住んでいる社会では、誰もが消費を続けたいと願う石油の不可避的な消耗に対する唯一の反応はアクセルを全力で踏み込むことであり、その一方で、誰かが、どこかで、我々があまりにも放蕩的に浪費している代替不可能なエネルギー資源に対する何かしらの代替物を発見せよと声高に叫ぶことだけである。世界経済の喉元で、3回目の価格暴騰のギアを上げるサイクルを駆動する力はこれだ。

それはこんなふうに働く。石油供給が不足し始めると、需要と供給の法則により価格は上昇する。そこで投機家は行動を始め、価格が上昇する商品に対しては何であれ投機家が行う通り、市場のファンダメンタルズによって正当化されるよりも価格を引き上げる。それが投機バブルを引き起こす; 更には、石油を輸出し、米国などの石油輸入国に対して恨みを抱く国々は、手にしたナイフに少しのひねりを加えるチャンスを捉え、更に価格を上昇させる。石油価格は、しばらくの間は、以前には想像できない水準にまで上昇し、工業国のエネルギー政策の馬鹿さ加減を認識した少数の人々が、基本的な常識を備えた人であれば最終的に考えるであろうかすかな望みを育てる。すると、この罠から逃れる唯一の方法は、節約とライフスタイルの変更であると人々が認識し始めるかもしれない。

残念ながら、それは起こらない。実際に起こるのは、石油価格の急騰によって発生する需要破壊である。需要破壊とは、資源を購入できなくなった人々が使用を止めることにより発生するプロセスに付けられたファンシーな名前である。石油価格の高騰はまた、以前は経済的に成立しなかった石油源を利用可能とする。これにより、ちょうど需要が低下した際に新たな供給源からの石油供給が始まる。それにより石油価格は低下し、投機バブルは破裂し、投資家はボラティリティがより小さい市場へとゴキブリのごとく逃亡する。その結果、石油価格はクラッシュするものの、価格上昇以前よりもかなり高い水準で落ち着く; 危機の間に一時ファッショナブルであった代替エネルギー源が何であれ、破産するか浪費的な政府補助金で保護されなければならない; そして、有限の惑星から無限量の石油の採掘を試みることは、まったく狂った考えでないかのようにみんなが装い続けるのだ。

次の大きな原油価格の暴騰とそれに続く価格クラッシュが始まるまでには、おそらくまだ数年程度あるだろう。ここで述べておく価値があることは、しかし、1973年の最初の暴騰から2008年の二度目の暴騰までには35年間を要したものの、三度目の暴騰はほぼ明らかにそれよりも短い間隔で到来するだろうということだ。石油危機の間隔が同じ比率で減少していくと判明したとすれば興味深いであろう-もし、たとえば、次の価格暴騰が2021年に発生し、同じ減少比が保たれるとすれば、次の次の危機は2024年のどこか近くで発生し、更にその次は2025年となる--あるいは、石油時代の必然的な終焉へと足取りを進めるにつれて、より複雑なパターンが危機の方程式を形作るのかもしれない。

この先数ヶ月と数年の間に、私は折に触れその軌道をたどり議論するつもりである。そして、前回の石油価格暴騰の最中と後に、私の過去のブログ「Archdruid Report」で取り上げたテーマを振り返りたいと思う。けれども、今週は、記事冒頭で私が批判した短期的思考についていっそう考察を深め、我らの時代の動乱を世界史の中の広範なパターンへ当てはめてみたい。

この探検で私が主要なガイドとするのは、既に私のブログの定期的な読者は推測しているだろうが、尊敬すべきオズワルド・シュペングラーだ: 歴史家、博識家であり、彼の時代と我らが時代の安穏とした確実性の側面に対する、プロフェッショナルな警告者である。彼の主著『西洋の没落』は次々と正確な予測を生み出したのに対して、シュペングラーの批判者によって唱えられた輝かしい、または破滅的な未来予測は、すべてが月光のようにはかないものでしかないと証明された。ジャンバティスタヴィーコなどの歴史的サイクルについての先行研究をもとにして、シュペングラーは文明の形態学に関する詳細な理論を構築し、諸文明の生命段階 --誕生、若年、成熟、老衰と死--を追跡した。そこから、西洋の、あるいは彼が呼ぶところのファウスト文化の将来を予測する基盤を形成したのである。

シュペングラーの理論の中心には、「進歩」とは歴史的なリアリティではなく神話的な概念であるという認識がある。そしてこれは当時より一般通念の擁護者によってシュペングラーに対して投げつけられてきた激しい非難の中心でもある。ギリシャ・ローマの古典文明--シュペングラーの用語ではアポロン文化--は、古代エジプトが残した徴を超えるステップではない。シュペングラーがマギアン文化と呼んだ文化、我々が呼ぶところの暗黒の中世においてイスラムカリフ制によって中東で絶頂に達した偉大なる文化も、アポロン文化から前へと進むステップではなかったのだ。我々のファウスト文化も、ここで私が名前を挙げた文明のいずれよりも進歩しているわけではない。

パラドックスめいて聞こえるだろうか? 実際にはそうではない。あらゆる偉大な文化には固有の価値と目標と優先事項があり、状況が許容する限りそれらの成就を求める。我々にはファウスト文化がより「進歩的」に見えるのは、ファウスト文化における価値と目標と優先事項を達成する方向へ向かっているのは我々のみであるというだけの理由である。アポロン文化も蒸気機関と歯車を発明した。この2つはファウスト文化を一時的な世界支配へ向かう道のりへと発射した偉大な技術的ブレイクスルーであった。けれども、このような技術で遊んだギリシャとローマのエンジニアたちは、オーリヤックのジェルベールやジェームズ・ワットが持っていた価値観を持っていなかったため、同じ用途には使用しなかったのである。他の偉大なる文化のほとんども、そもそもそのような技術に関心を持ってさえいなかった。

ゆえに、あまりに多くの歴史改変小説の作者たちが主張しているように、もしも西ヨーロッパが蒸気機関、歯車その他の現代工業世界を可能ならしめるツールキットを発明しなかったとしたら、他の誰かが発明していただろうという主張は、やや恥ずかしい自民族中心主義 エスノセントリズム である。我々のテクノロジーファウスト的テクノロジーであり、おおよそ西暦1000年ごろに西・中央ヨーロッパで誕生した偉大なる文化の情熱と強迫的な観念を通して形作られたものである; ファウスト文化が衰退すると--既に現在進行中のプロセス--そのテクノロジーも静的な鋳型として定着し、持続不可能な要素を放棄し、未来の偉大なる文化により資源として発掘されるだろう。ギリシャの哲学と数学がインド文化、マギアン文化、ファウスト文化によって発掘され、完全にそれぞれの文化独自の目的に使われたように。

それを念頭に置いた上で、未来がどうなるかを見てみよう。そして、ファウスト文化が最終的な停滞へと落ち込んでいくにつれて、何が起こる可能性が高いかを想像してみたい。シュペングラーが指摘する1つのポイントが、このコンテキストでは特に重要である。たとえ偉大なる文化が帝国拡大期にその力をどれほど拡大したとしても、その基礎は元々の故郷に根ざしたままであり続ける。そして、ひとたび帝国の時代が等しく不可避の没落と崩壊の時を迎えると、遠くへ拡大した領域は崩れ離れ、元々の文化の故郷が残存物を保持し続ける。何らかの後継文化がそれを洗い流すまでは。

ファウスト文化の起源は、既に述べた通り西・中央ヨーロッパにある; その帝国時代は1492年から1914年の間であり、ヨーロッパから膨張し惑星のほとんどを征服し略奪した; そのプレステージは今なお高く、世界中の特権階級の人々は今でもヨーロッパスタイルの服を着て、ヨーロッパ型の政体を維持しているものの、この時点においてその力は衰えつつある。

偉大なる文化が衰退するにつれて、今度は見るべき場所は境界地帯 ボーダーランド である。これは必ずしも政治的国境ではないものの、そうである場合もある。アポロン文化が衰退と崩壊のすべりやすい坂道を転がり落ちていった時には、たとえば、2つの境界地帯がその後死活的な重要性を持つようになった。一方は東側の境界地域であり、そこでは地中海沿岸地域が砂漠と、ついでペルシアとアラビア半島の古代都市と混じり合う。そこにはローマの軍事力は決して到達しなかったものの、文化および経済的な影響は絶大であった。他方は、北海へと注ぐ半ダースほどの巨大な河川に沿った渓谷であり、それらの川の中にはテムズ川セーヌ川ライン川などが含まれる。そこには、ローマの軍事力がいっとき覇権を確立したものの、その後ゲルマン人の移住時代が始まると支配は失われた。

どちらの領域でも、独自の偉大なる文化が花開いた。東側では、ローマ崩壊のずっと以前からマギアン文化が形をとり始め、それらを独自の領域と文化形式へと吸収したビザンツ帝国は、西側の帝国が滅びた跡を継いだ。西側では、ローマの崩壊がはるかに劇的な影響を与え、ファウスト文化が現れ始めるまでには長く厳しい暗黒時代が続いた。どちらの場合でも、しかし、新興の文化は古い偉大なる文化から受け継いだ既存の形式を借用することから開始された。

シュペングラーは、このプロセスを「擬形態」[pseudomorphosis; 仮晶とも] と呼ぶ。 とりわけ、西洋建築史を見れば印象的な明白さでそれを理解できるだろう。中世初期の標準的な建築方式は、今日ではロマネスクと呼ばれているが、これは非常に理にかなっている: ローマ建築の雑なコピーのように見えるのだ。数世紀が過ぎ、擬形態は揺さぶられ、ゴシック様式の建築が天空へと向かって急増した。ファウスト文化の最初の偉大なる開花により、芸術や科学の他分野でもファウスト文化がアポロン文化のモデルから脱却したのと同時期のことである。

マギアン文化は、それと同等の擬形態の時代をより早く迎えたが、その起源は別であった。(シュペングラーはこれを否定していた。しかし、彼の本が書かれた時代には、中東の考古学について現在の我々よりもはるかに不完全にしか理解されていなかったのだ。) マギアン文化は元々メソポタミア文化の余波のなかで形成され、その初期にはシュメールの泥レンガ都市に起源を持つ偉大なる文化的伝統の様式と習慣の多くを借用した。アポロン文化が東と南に拡張し、マギアン文化のハートランドに至ると--最初はアレクサンドロス大王のもとで、次にギリシャ語話者の小帝国連合のもとで、最後にローマの鷲のもとで-- 第二の擬形態の時代が続いた。けれども、その後にはアポロン文化の影響に対する鋭い反作用が続いた; 東部キリスト教イスラム教、あるいはマニ教などのそれほど成功を収められなかった信仰の動乱が生じて外部へと拡大し、アポロン文化の政治的・文化的な創造様式を打ち破り、廃墟の上にマギアン文化を確立したのである。

それでは、ファウスト文化は? こちらも同様に2つの擬形態の時代を辿った。最初は、既に述べた通り、ローマの遺産から引き出されたものである; 第二は、その後マギアン文化から引き出されたのだ。中世から近代初期に至るまで、ヨーロッパで合争う小諸国を、モロッコからパキスタンまで広がる広大で非常に繁栄したマギアン文化圏の西側辺境地帯と見なしたとしてもまったくの誇張ではない--けれども、これは疑いなくヨーロッパ人のプライドを傷付けるだろうが。

マギアン文化圏の他の社会と同じく、ヨーロッパ諸国も教条的な宗教を確立した。そこでは厳格に制限された方法でしか不同意の表明が許されず、聖典により導かれ、聖都を中心とし、一週間の特定の曜日に行なわれる、あらゆる人の参加が想定された公式の集合礼拝の習慣を備えていた。これらは、また他のマギアン文化の慣習の多くは、ヨーロッパ全体にわたって標準的なものであった。- ヨーロッパ人の伝統主義者たちが、インスピレーションを得るためにたびたび中東へと回帰していくことは偶然ではない。彼らが従う伝統のみならず、時の始原から受け継がれた唯一の真なる不変の伝統という概念全体が、そしてその概念は確立された信仰集団に属する者のみがアクセスできるという考え方自体が、マギアン文化の発明品であるからだ。

けれどもそれは過渡段階にすぎないと判明した。ちょうど、数世紀前のマギアン文化にとってもアポロン文化の擬形態が過渡的な段階であったと判明したのと同様である。ファウスト文化が自分自身の可能性に目覚めるにつれて、マギアン形式は捨て去られるかあるいは元の姿が分からないほど完全に改変された。アラブ建築のイノベーションを学んだヨーロッパの親方たちは、あらゆる類似性を作り替え、ゴシック時代の垂直線や尖頭アーチを生み出した。アポロン文化の古い歯車テクノロジーをいじくり回した修道士たちは、動力伝達を可能にするようにそれを作り替え、機械式時計のみならずそれに続く機械テクノロジーの主要部品のほとんどを創造した; アリストテレスの物理学も書き換えられ、慣性と力の概念の導入が許容されたが、それらはアポロン的な自然科学とは完全に異質なものであった。しかしそれはファウスト的な科学の勃興に必須であったのだ。

これらのすべてがアポロン文化の観点からは把握が困難であっただろう。少しばかり想像してみてほしい。後期アポロン社会の、洞察力に優れた思想家の困難を--たとえば、西暦250年ごろに生きたギリシア人哲学者を想像してほしい-- 彼は自身の社会の没落というリアリティを捉え、没落が標準的な要素であるような歴史サイクルの広範なパターンを推定したのである。我々の哲学者は、彼が知る世界の一部で生じる次の偉大なる文化は、ローマ文明の東半分の周縁部に生まれると予想できたかもしれない。けれども、新興のマギアン文化の形について、事前に何らかの考えを得られる可能性はごく小さかっただろう。ただ一つのディテールだけに絞ったとしても、伝統的な儀式のみが問題であり、儀式を実践する限り望むことを何でも信じられるような信仰の信者は、特定の見解のみが極めて重要であり信仰信条上のささいな差異をめぐって人々が互いに殺戮し合うような宗教を容易に想像できただろうか?

その点においては、別の偉大なる文化がローマの国境の北西で生じるかもしれないと我々の哲学者が予期していた可能性は、考慮する必要がないほどに小さい。西暦250年において、テムズ川セーヌ川ライン川のローマ世界の中での重要性は、モノンガヒラ川、カナワ川やテネシー川 [すべて北米大陸にある河川] の近代ヨーロッパ世界にとっての位置付けと似ている。住人のほとんどが野蛮人で嘆かわしい人々であるような、その時代の文化的後背地から次の偉大な文化が生じるという考えは、真剣にそれを考えたことのない人にとっては完全に馬鹿げたものに見えるだろう。

今日、我々も類似の状況にあるものの、我々は歴史についての幅広い知識を持っているため、繰り返しパターンを認識できる可能性が高い。現在、静的形態へと落ち着こうとしており、その後の世界の広い歴史の中で大きな役割を果たす消滅した文化とは、我々のファウスト文化である--暗黒時代からの目覚めにおいてローマ国境の北西部で栄え、当時絶頂を過ぎて静的形態へと陥ったマギアン文化と競合し、そして全世界にわたって勃興し惑星上のほとんどの陸地を支配して、地球上のほぼあらゆる社会に特有の文化的ファッションを課した、ファウスト文化である。

アポロン文化と同様に、ファウスト文化にも2つの主要な境界地帯がある。1つはハートランドの東側、もう1つは西側である。しかるべき時が来れば、そこから2つの偉大なる文化が生じるだろうと予想できる。それ以外にも出現するかもしれない。なぜならば、18世紀と19世紀に起こったヨーロッパ帝国の世界中への拡散は、世界のほぼ全てに独自の擬形態を課したからである; 結果、西アフリカとラテンアメリカのどこかの地域でも、この千年紀に高等文化が生じる可能性が極めて高いと思う; しかしここでは、理由は今後明らかになるだろうが、既に述べた2つの国境地帯について話したいと思う。

その国境地帯とは? 今日、我々はそこをロシアとアメリカと呼んでいる: 具体的には、次の記事で見る通り、ウラル山脈西側のヨーロッパロシア、特にヴォルガ渓谷を中心とする地域と、アパラチア山脈西側の北アメリカ、特にオハイオ渓谷と五大湖を中心とする地帯である。

アポロン文化とファウスト文化の国境地帯の類似性は、驚くべきほど深くまで達している。なぜならば、マギアン文化とファウスト文化の相対的な歴史を形成した時代における同一の差異のようなものが、今後生じるロシアとアメリカ文化の同等の軌跡を形作ると思われるからである。ロシアは、何世紀も前に最初の擬形態の段階を通過した。当時、マギアン文化圏の重要な一部であった時代のビザンツ帝国から、有力な文化的影響を吸収したのだ; 2回目の擬形態はピョートル大帝の時代に始まり、当時は西側からのファウスト文化の新しい文化的影響がロシア全土を席巻した時期であった。そして現在は不可避の反応の初期段階にある。ビザンチンとヨーロッパ文化双方の影響を排除し、はっきりとしたロシア高等文化の最初の大胆な宣言が生じるだろう。私はそれが22世紀のどこかで始まると予期している。

アメリカは、対照的に、ファウスト文化によって保持されていたマギアン文化の要素を経由して、マギアン文化の影響を間接的に受け取った。そしてアメリカの最初の擬形態は17世紀初期に開始された。旧世界の疫病がネイティブ・アメリカンに及ぼした劇的な影響により、ヨーロッパからの最初の入植者の波がほとんど無人となった大地に広がっていった時であった。2回目の擬形態は未だ開始されていない。そして、興味深い質問としては、次の千年紀においてどの新興文化が挑戦的刺激としての役割を果たすのかである。2回目の擬形態の後に不可避の反作用がスパークし、アメリカ独自の高等文化の最初の大胆な宣言が出現するだろう。おそらく、26世紀ごろに。

それでは、これらの第三千年紀における高等文化の一般的なアウトラインは? 次の記事で議論するとしよう。

ミニレビュー: オンライン辞書ジャパンナレッジ

上記まとめを読んで触発されたので書く。

数年前から、有償のオンライン辞書 ジャパンナレッジを愛用している。

一番利用頻度の高い機能は英語辞書だろうか。ランダムハウス英和大辞典 (語源が掲載されているので一番よく使う)、プログレッシブ英和中辞典、Cambridge English Dicstionaryなど複数の辞書から串刺し検索ができる。

ヨーロッパ言語 (独仏西伊) の辞書 (日本語→対象言語、対象言語→日本語それぞれ) もあり、外国語学習はもちろん、英語・日本語の文章でも出てくる外国語の単語を調べるのに重宝している。(各言語の不規則動詞活用表も付属している)

他にも、平凡社の世界大百科事典と日本大百科全書 (ニッポニカ) が検索でき、新語・流行語についてもImidasや現代用語の基礎知識から調べられる。さすがに新語・新用法については少し弱いが (たとえば、前回取り上げた"toxic" の新用法は掲載されていない)、ニッポニカは月1回更新で時事ネタの解説もある。

地味ながら私のお気に入りの辞書は、数年前にもこのブログで取り上げた『数え方の辞典』だ。(「工場」、「アプリケーション」や「帳票」をどう数えれば良いのか、すぐに分かるだろうか?) 。


しかし、今は強力な検索エンジンもあるし、無償公開されている英語辞書もたくさんあり、Wikipediaという無料の事典も存在する。もちろん、私自身もこういったサイトを便利に使っている。それではなぜ、わざわざ有償のサービスも併用しているのかと疑問に思うかもしれない。

それは、情報とは、ノイズが削ぎ落されていることに価値があるからだ。近年のインターネットには、形式だけが整った中身のない情報、調べものをする受信者側が知りたいと思う情報ではなく、売り手である発信者側が知らせたい情報に溢れている。Wikipediaも、読み手にとって「知りたい」情報よりも書き手が「書きたい」情報にあまりに力が入れられすぎではあるまいか。このような状況では、編集者のフィルタを通ったコンパクトな情報にはお金を払うだけの価値があると信じている。

ところで、人間の知覚器官と「知能」も、実際のところ余計なノイズを排除し、生存という目的に適う情報を取捨選択する機能を持っている。仮に、あらゆる情報とデータを蓄積できたとしても、その存在は外の世界そのものと同等の複雑さを持つことになるだろう。情報の取捨選択は、人間が知的であることの本質なのだ。

ここで挙げた以外にも多数のコンテンツがあるので、興味のある方はサイトのコンテンツ一覧を参照してほしい。月額1650円で決して安くはないものの、総計550万円分の辞書と電子書籍が実質使い放題であることを考えれば、そのぶんの価値はあると思う。

ちょっと不満なところ

ジャパンナレッジの機能にはおおむね満足して課金を続けているものの、若干の不満点としては電子書籍リーダーが使いづらい点である。東洋文庫、日本古典文学全集などが掲載されており全文検索も可能だが、「一昔前の電子書籍」という趣きで (たとえば、ページをめくると画面遷移があるなど)、長い文章を読む気にはなれないのが残念だ。紙の書籍を買ってほしいという意味なのかもしれないが、もう少し頑張ってほしいと思う。

2018年を振り返る

オクスフォード英語辞典が選ぶ2018年の流行語候補の中に、「techlash」という語があった。これはtechnologyとbacklash (反発、反動) を組み合せた語で、読んで字のごとくテクノロジーおよび巨大テクノロジー企業 (GAFA) に対する反感・反発を表す言葉だ。

(ちなみに、2018年の新語として最終的に選ばれたのは「toxic」であった。(化学的に) 毒性があるという旧来の用法ではなく、不快な、攻撃的な人間関係や態度等を表す用法だという。日本語でも「毒親」という表現がありますね。)

しかし、やはり2018年を最も象徴する語は「techlash」ではないかと思う。

人工知能

去年ごろから言われていた通り、「ディープラーニング人工知能 (AI)」に関する非現実的な夢想めいた語りはほぼ鳴りを潜めた。代わって、技術の有効性と限界を認識した上で、現実的に役立てようという姿勢が強まっていったように思う。日本でのAIに関する語りの方向性を決定付けたという点では、やはり『AI vs. 教科書が読めない子どもたち (新井紀子)』(書評) の功績は大きかったと感じる。数年間のAIブームを振り返り、特に「AIと労働」についての言説を評価しようという書籍や記事 (過去記事)、成熟してきたAI技術を実際に使うためのケーススタディ等も増えてきた。(たとえば、私が読んだ中では『仕事ではじめる機械学習 (有賀 康顕)』など)

しかし、現状のビッグデータと統計・機械学習を使ったAI技術は、「人間に似たAI」を実現することはできない (少なくとも、短期間では不可能) とさまざまな識者が指摘している (たとえば、私が紹介したマイケル・I・ジョーダン氏のエッセイを参照) 一方で、既に実用化されているデータ技術がさまざまな問題を引き起こしていることも明らかになった。『あなたを支配し、社会を破壊する、AI・ビッグデータの罠(キャシー・オニール)』(書評) では、不完全で不透明なAIがバイアスを構造的に助長していることが批判され、ソーシャルメディアが世論操作に利用されていることを指摘するものもあった。特に、Facebookが個人情報の流出や選挙への介入等により厳しく批判されたことは印象的であった。

自動運転

今年、世間の見方が一番大きく変化した技術は、自動運転ではないかと思う。今年3月にはUberの死亡事故が発生し、テスラは将来の完全自動運転オプション販売を一方的に中止した。今年12月、ウェイモは自動運転の商用サービス開始をアナウンスしたものの、エリア、利用者は厳しく制限され、また常時オペレータが乗車しており(Wiredの記事)、数年前に夢想されていた自動運転の水準には遠く及ばないものであった。

日本のプレイヤーにも多少触れておくと、数年前、情報流出事故を起こして上場中止になったZMPは、2018年中に再上場が噂されていたものの、遂に実現しなかった。DeNAのオートモーティブ事業ロボットシャトルの実証実験は、2017年11月以降の実績が掲載されていない。鳴り物入りで登場した宅配便無人配達の実証実験「ロボネコヤマト」は、既にサイトが消滅してしまった。2018年後半のDeNAオートモーティブ事業部のリリースは、ほぼ全てがタクシー配車アプリに関するものである。

2018年末時点において自動運転の未来はかなり不透明であるものの、自動車の運転は、より「スマート化」される方向に進んでいくだろうと私は信じている。(そして、高速道路での自動運転がある程度実現されている通り、自動運転の実用化は言わば「まだら状」に進んでいくだろう。これについては項を改めたい) それでも、数年前に、あるいは今現在考えられているよりも自動運転の実現には長い、長い時間を要するだろうし、無形の法制度や運転習慣、有形の都市や道路インフラを含めた大きな変化が必要とされるだろう。

今年の一冊

このブログは書評ブログなので (今年から) 、2018年のベストの1冊を挙げておきたいと思う。 

血液検査ベンチャー、セラノスと創業者エリザベス・ホームズの不正行為を扱ったルポ。超一流の調査報道というだけではなく、テクノロジー企業・起業家や研究者が唱える夢想的な未来予測に対する社会の適切な距離の取り方を考えるために重要な本であるため、今年の一冊に選びたい。