Going Faraway

渡辺遼遠の雑記帳

翻訳:インテリゲンチャのたそがれ (ジョン・マイケル・グリア)

以下は、ジョン・マイケル・グリアによる"The Twilight of the Intelligentsia" の翻訳です。

元記事は2018年11月9日、米中間選挙の翌日に公開された。記事冒頭には選挙結果について簡単な論評が書かれているが、訳出にあたっては省略した。

The Twilight of the Intelligentsia

これまでのところの連載では、これら歴史の深淵なるサイクルを理解するための主要なフレームワークとして、オズワルト・シュペングラーの洞察を利用してきた。議論を先に進めるにあたって、読者諸君にはシュペングラーの基本的な概念を心に留めておくよう勧めたい。今週の記事では、けれども、歴史的サイクルの別の学徒を重点的に取り上げたいと思う。シュペングラーの英国人のライバル、アーノルド・トインビーである。彼の膨大な12巻本『歴史の研究』において、トインビーはシュペングラーの比較文明論的な方法論を取り上げ、彼が収集できた充分な量のデータをもとに、あらゆる文明に対して百科事典的なスコープでその方法論を適用したのである。

トインビーの研究から派生した理論は、全体として、私にはシュペングラーよりも説得力が高くないように見える。けれども、当時彼はこの問題に対してシュペングラーよりもはるかに大きな個人的利害を持っていたのだ。シュペングラーは高校教師として平穏に生計を立てており、博識家としての研究生活を意図的な曖昧さの中で追求していたのに対して、トインビーは英国支配カーストの一員であり、政府と密接な関係を築いていた名高い非営利団体の秘書として働き、彼の歴史研究はイギリスとアメリカのエリート集団の支援のもとで行なわれた。シュペングラーは、イギリスは衰えつつあるアテネであり、それを覆い隠すローマはニューヨークかベルリンに位置する可能性が最も高いだろうと冷静に観察していた; トインビーは、あまりに無慈悲な明晰さから逃げ出し、シュペングラーが先へと進み (これまでのところ最も成功した) 予測を立てたまさにその地点から、ごまかしへと撤退していったのだ。

細かなディテールについて言えば、けれども、トインビーは正確であり、それゆえ多くの点において有用である。彼はシュペングラーが擬形態と呼んだ現象 --新興文化が、旧来のより権威のある文化の政治、経済、宗教および社会的な形態を取り入れることによるプロセス-- について記している。そしてそれを詳細に調べ、ありとあらゆる場所と時間での文明間の遭遇について精査したのである。このプロセスについてトインビーが強調したことの一つに、そのような文化間の遭遇で知識人インテリゲンチャが果たす役割があった。

ところで、「インテリゲンチャ」は元々はロシア語の単語であるが、この語が作られたのは--多数の言語における多くの語の起源と同じく--ある言語の単語を借用し、その語に別の言語の文法的接尾辞をくっ付けたものである。[intelligentsiaはラテン語に起源を持つロシア語の単語で、そこから英語に借用された] これはインテリゲンチャが出現するプロセスとだいたい同じものである。インテリゲンチャとは、トインビーの用語では、ある文化に属していながらも別の文化の考え方、習慣と実践によって教育を受けた者たちである。

それは第一の文化が第二の文化によって征服され、新たな大君主オーバーロードが自身の文化的形態を新たな領域へと課すことによって起こるかもしれない; それは、第一の文化のエリート階級が、第二の文化に支配された世界で競争するために、第二の文化の考え方や習慣を最大限に取り入れた場合にも起こりえるかもしれない。最初のカテゴリの事例としては、19世紀全体を通してヨーロッパの植民地帝国によって採用された地元の教師や下級官吏を想像してほしい; 2番目のカテゴリの事例としては、民主的な議会を持ち、首都に高層ビルを建築し、エリート階級はビジネススーツとネクタイで身を包んだ今日の第三世界の諸国を想像してほしい。

インテリゲンチャは擬形態の歩兵である。彼らの任務は、外国文化の形態を自分自身で受け入れ、また自らがその一員である社会のメンバーに対しても、説得を通してであれ強制であれ、それを課すことである。このプロセスをどの程度まで浸透させられるかには、必然的に厳しい制約が存在する。そこには常に反発がある。インテリゲンチャは常にかなりの少数派であるために、反発を単に無視することはできない。それが植民地社会の標準的パターンである。コスモポリタンなエリート階級 (外国人であれ自国出身であれ)、自身は絶対に得られないコスモポリタンのステータスを熱望する地元のインテリゲンチャ、そしてインテリゲンチャと彼らが推進する外国文化に対して鬱屈した敵意を持つ、莫大な、疲労した労働者階級である。

インテリゲンチャの地位には、どれほど特権的であろうとも苦い欠点がある。一方では、インテリゲンチャは、既に述べた通りの莫大で疲労した労働者階級のメンバーから憎まれ嫌われている。他方では、彼らが入念に模倣する外国人エリートからの承認を得ることは決してできない。魚も鳥も上等の赤身肉であれ、インテリゲンチャは文化間のギャップに囚われている。植民地社会の世界観の限界の中では、彼らの苦境から脱出するすべはない。彼らが取り入れた外国文化へと大衆を改宗させることもできないし、一方では、外国文化に属する人々から完全に受け入れられることもない。

インテリゲンチャを苦境から逃れさせる要因は、むしろ、まさに彼らが最も恐れることによるものである。最初に、個人的な失敗がある。数カ月前に私が記した通り、成熟した社会の教育制度は、社会が吸収できるよりもはるかに多くの人々を管理的地位に向けて教育することが一般的である。我々が議論しているような社会では、インテリゲンチャの数は、必然的に教員、下級官吏、その他類似の地位への求職マーケットが求める数よりも増大する。その結果は、単なるダイナマイトよりもはるかに危険な爆発物である: 自分自身の立場を理解し、既存体制に敵対する反対勢力の組織に必要となるあらゆるスキルを訓練された後で、その体制から打ち捨てられた教育あるアンダークラスである。

そして、2つ目の要素がある。つまり、いかなる支配的文化であれ永遠に支配を保つことはできないということだ。いずれにせよ、政治的権力と文化的カリスマの満潮の後には、いつも海へと帰る潮流が続く。支配的文化がその優勢を失うにつれて、インテリゲンチャはもはや取引のための唯一の株式の市場を持たなくなり、労働者階級からの反発は力を増していく。

そこで最初に起こることは、インテリゲンチャとしての訓練を受けたものの、準備をしてきた仕事へと踏み込むことができなかった人々で構成された教育あるアンダークラスの人間が、労働者階級と共通の大義を打ち立てることである。第三世界のヨーロッパ植民地の夜明けの年を見れば、そのダイナミクスが働いていることが分かるだろう。ものごとを推し進めて壁を乗り越えて急速な変化を起こすのは、アンダークラスに属してはいないインテリゲンチャのメンバーである。植民地体制のもとで良い職業と特権的な地位を得て、何が起きているのかに気付き、自身の選択肢を見極めて、アンダークラスと大衆の側に付いた人々である。おそらく読者もモハンダス・K・ガンジーという名の男のことを聞いたことがあるだろう; 彼について書かれた優れた伝記の最初半分を読めば、10フィートもの高さに達する手紙に書かれたそのダイナミクスを見られるだろう。

それではここで私が数週間追求してきたテーマに戻ろう。北米とロシアは未だに、文化的に言えばヨーロッパの植民地である; 両国のエリート階級は、第三世界諸国のエリート階級と同じく、裕福なヨーロッパ諸国の流行と習慣を熱心に猿真似している; どちらの国の主要都市の建築物、都市エリート層が熱心に消費する芸術形式、展示された衣服のスタイルさえも、すべてがヨーロッパの発明である。それは文化的植民地の道筋と同等であり、同じことをシュペングラーの用語で言うならば、支配的文化からの擬形態の影響下にある社会である。

およそ1世紀前にヨーロッパエリートの手から政治的権力が滑り落ちているとしても、実際には大差はない。ヨーロッパのエリートと彼らの国家は、真に重要な国家の支配者に対して2番目の細工を行うことができる。同じことは、二千年以上も昔、ギリシアがローマの支配下に下った時にも発生した。ローマの貴族 パトリキたちは依然として合争ってギリシア文化の知識をひけらかし、自身のヴィラをギリシアで購入した彫像で飾ったのだ。かつてアメリカ人のミリオネアたちが、今日ピッツバーグオマハの美術館を飾るヨーロッパの絵画を購入していたように。旧社会の文化的カリスマ性は、特権的エリートと、そのエリートの意によって雇われクビにされるインテリゲンチャ階層に留まり続ける。

私はロシアに住んだことはない。私のロシア文化への接触はほとんどが死者たちによって書かれた文学作品によるものであるため、個人的な経験からは、この植民地の社会構造がロシアで発生していることにどれほど正確に合致しているかを述べることはできない。アメリカでは、その一方で、これまでの私の生涯においてさまざまな地域に居住した経験を活用でき、その一致は正確である。アメリカ社会にも独自のコスモポリタンなエリート階級が存在しており、衰退段階に入ったあらゆる帝国で一般的な通り、贅沢さの馬鹿げた顕示に耽溺している; アメリカ社会にも独自のインテリゲンチャが存在している。上位の階級からの排除について苦悩し、下位の階級には、自身の唯一の取引材料であるヨーロッパの考え方と習慣を取り入れるように説得することもできないというありふれた束縛に囚われている。

アメリカのインテリゲンチャについて注目に値するのは、彼らがアメリカ人インテリゲンチャである限り、明確にヨーロッパの擬形態に執着し続けていることだろう。夢想の対象となる焦点は歴史の流れに従い移り変わっていくことは確かである; 植民地時代から20世紀初期には、インテリゲンチャのメンバーは英国を猿真似していた; 20世紀最初の2/3かそこらの間は、フランスがそのような執着の対象となった - 特にここで私が考えているのは、英国の作家サマセット・モームが小説『剃刀の刃』の中で述べた、 フランスは良きアメリカ人が死後に向かう場所であるという容赦ない皮肉なコメントである。

今日では、ふつうスカンジナビア諸国がそのモデルを提供している。つまり、アメリカのインテリゲンチャのメンバーが意識的または無意識的に、アメリカ合衆国がそうなるべきであると望む夢想のモデルである。(参考までに、それはスカンジナビア人の私の友人たちが困惑を覚える習慣である。) 数年前の本、マイケル・ブースによる『The Almost Nearly Perfect People: Behind the Myth of the Scandinavian Utopia』は、英語話者の国々で北欧諸国が理想化される傾向に対して、読者の誤解を解こうとするものであった; 私が知る限りでは、目的はあまり果たされていないようだ。また、もしそれがうまくいったとしても、その本が狙った対象の読者たちは、単に別のヨーロッパの国を見つけてそれを理想化し続けるだろう。

アメリカでは、アメリカ人ではないというフリをすること、自分自身の文化的・民族的なバックグラウンドへの教養ある軽蔑を示すことが、インテリゲンチャの自己認識の本質である。それが、インテリゲンチャが「アイツら [those people]」、つまり彼らが強く軽蔑するアメリカ人の大衆に属していないことを証明する方法である。(私は年を取っているので、中流・中上流階級の白人による「アイツら」という語が、同じ声のトーンで唇をつり上げて発せられるとき、それは有色人種の人々を指していたということを覚えている; 今ではその語が白人労働者階級の人々を意味するようになったという事実は、現在の特権階級の間で、階級的偏見が人種的偏見に取って代わったということの有力な証言である。)

けれども、アメリカ人インテリゲンチャによるアメリカ合衆国をヨーロッパ化せんとする望み薄の挑戦が直面する困難は、そのような不毛な試みが普通に相対する要因を超えている。きわめて重要な点として、ヨーロッパ文明のイデオロギー的な中心には、あらゆる人類の歴史はヨーロッパへの序曲であるという確信がある; 現在のヨーロッパの姿が、他のあらゆる社会が必然的に向かう行き先なのだ; ただヨーロッパのみが現代的であり、ヨーロッパをその細部に至るまで模倣していない社会は遅れており、未来の最先端にキャッチアップする必要がある、そしてその最先端とは (もう一度言えば) ヨーロッパなのだ。これを信じることは非常に心地良いことは確かだが、けれどもそれは真実ではない。

「ヨーロッパ」と「現代的」を同一視し、他すべてを概念上の過去と見なす混乱の蔓延は、現在を理解する上での巨大な障壁となっている。ヨーロッパが今の姿であるのは、そして今存在する習慣を備えているのは、過去数千年の極めて特異な歴史による膨大な遺産があるからだ。そのような歴史の無いところでは、ヨーロッパ文化の形態は、非常に異なる基盤を覆う薄い化粧板でしかなく、深い根を張っている兆候を示していない。そのような考え方を否定することが、アメリカのインテリゲンチャの世界観と自己認識の本質である。なぜならば、彼らの世界は、いつの日かアーカンザスが今日のボストンの態度の文化的習慣を持つようになるという確信の周りを回っているからだ。どの時代でも、確かにボストンはヨーロッパの都市と区別できないかもしれない。あるいは、より正確に言えば、アメリカ人インテリゲンチャの集合的イマジネーションの中でのあるべきヨーロッパの都市のファンタジーと区別できない。

ここで当然、ヨーロッパの都市は、スカンジナビアの都市でさえ、たった今示したファンタジーとの共通点を持っていない。ヨーロッパも現在、独自の困難なトランジションを迎えている。それを駆動するのは、過去の記事で見た通りの衝突である --シュペングラーが議論している通り、民主制を装ったエリート主義的な寡頭制と、大衆の支持を受けたポピュリスト的な君主制の間の不可避の闘争である。(少しだけネタバレしても良いだろうか? 長期的には、この闘争でエリート寡頭制の側が勝利する見込みはない。) けれども、それ以外の要因もある。前回の記事で議論したものである: 定義は難しいが無視することは危険な、文化とそれが生じた広い地域を結び付ける普遍的なリンクである。

ここアメリカ合衆国では、大西洋海岸沿い地域の古い沿岸入植地のような工業化以前のヨーロッパ世界の一部である地域と、ヨーロッパの文化的発展が完了するまで (シュペングラーの考えでは1800年ごろに起こった) 手付かずで残された広大な内陸部との間にある差異を捉えることは難しくない。[1970年代のロックバンド] イーグルスが当時歌っていた通り、[ロード・アイランド州] プロビデンスには「旧世界の影が空中に重く垂れ込めている」のだ。今日のプロビデンスの通りを歩けば、そこでははっきりとした半ヨーロッパ的雰囲気を味わえるだろう。20世紀の都市再開発による破壊を逃れたランカスター、ペンシルヴァニアなどの古い町並みでは、より強くその雰囲気を感じられる。

西へと進んで山脈へ至りそこを超えると、そのような雰囲気は完全に消える。それを置き換えるのは、何らかの未だ素[す]の、未完成の感覚であり、ショッピングモールと分譲住宅地の下をうごめく暗く静かな土壌である。何らかの成就へ向けて不器用に到達しようとしているものの、その成就の形は未だ明確になっていない。それが作家と詩人たちがアメリカ内陸部で何世紀もの間感じてきた感覚だ。フロンティア拡大の時期には、この感覚はヨーロッパアメリカ人の入植の広大な可能性への自覚として理解 (あるいは、私の考えでは誤解) されていた; 後のアメリカ帝国の全盛期には、ヨーロッパ化した世界に平和をもたらす普遍国家としてのアングロ-アメリカ帝国を夢見る集合的白昼夢と混ざり合った。

フロンティアは1世紀と四半世紀前に閉ざされ、私がこれを書いている間にも世界の大部分でアメリカ合衆国の一時的ヘゲモニーは終わりを迎えつつある。しかし、アメリカの大地のさまざまな場所を歩く間に、私は同じ胎動を感じられた。アーネスト・トンプソン・シートンがエッセイの中で生き生きと描写した「バッファローの風」、ロビンソン・ジェファーズが詩の中で力強くうたった未来をはらんだ土地の感覚。私はヴォルガ川の川沿いを歩く機会に恵まれず、土と風のなかに何らかの類似の蠢きが、異なる大文化の表現へと至る予感が感じられるのかは分からないが、しかしきっとそこに存在するだろうと私は確信している。

我々がアメリカ合衆国で今現在目撃している政治的けいれんは、ヨーロッパの擬形態が揺さぶられることによるプロセスの一部である。我々のインテリゲンチャの大多数がこれに酷くショックを受けているのは驚きではない。けれども、なぜあれほどの多数のインテリゲンチャが、甘やかされた2歳児のような終わりなき癇癪が意味あるまたは効果的な反応だと考えているのかは、私にはよく分からない。(今日、前衛的なサークル内で、感情を表現する演技が流行しているからではないかと思う。) この先の何年かにも、彼らには金切り声を上げる機会がたくさんあるだろう、またお祝いの機会もあるだろう; 我々が議論しているプロセスは、数年、あるいは一人の生涯の間にさえ達成されるものではない。けれども、歴史的な根拠から判断すれば、通常のタイムスケールとごく近いうちに、通常通りのやり方で演じられるだろう。

我々は、死と難産のインターバルを生きている。この先の記事で、そのインターバルの残りの期間がどのように進んでいくのかについて話そう。