Going Faraway

渡辺遼遠の雑記帳

翻訳:脱呪術化の仮面 (ジョン・マイケル・グリア)

ジョン・マイケル・グリアによる2020年9月30日の記事 "The Mask of Disenchantment" の翻訳です。

The Mask of Disenchantment

今月の始めに、9月には水曜日が5回あると気づいた時には、その5回目の水曜日にこのブログで何を投稿するかまったく決めていなかったので*1、最近復活させた以前の習慣に従い、読者に提案を求めた。いつも通り、そこで起きた議論は活発なものであり、かなりのトピックが議題に挙げられた; 相当数の投票を得た話題については、しかるべき時に記事を書くつもりだ。実際的な理由により、けれども、多くの読者が求めたのは、しばらく前に私が書いたコメントへの補足であった。

ジェイソン・ヨセフソン=ストーム
ジェイソン・ヨセフソン=ストーム

それに先立つ議論で、私はマックス・ウェーバーの「世界の脱呪術化」が現代特有の特徴であるという主張に対するコメントを述べ、その主張は数ヶ月前にある本によって挑戦を受けていると述べた。ジェイソン・ヨセフソン=ストームの『脱呪術化の神話: 魔術、近代、人文科学の誕生』(The Myth of Disenchantment: Magic, Modernity, and the Birth of the Human Sciences) という本である。ヨセフソン=ストームの基本的な主張は、ウェーバーは端的に間違っていたということだ - ウェーバーと、その後彼の主張を繰り返した人々は、軽率にも、魔術、占い、その他のオカルト実践が未だ現代工業世界の中でも栄えているという事実を、また我々全員が呪術なき世界に住んでいると提唱したウェーバー自身が、永遠に消え去ったはずのオカルト実践の世界と密接な関わりを持ってきたという事実を無視してきたのである。

そのことを考えて、今日のハイテクな都市とインターネット接続されたライフスタイルの真っ只中において、周囲に魔術的実践がありふれているにもかかわらず、あまりに多くの人々が魔術は過去に消え去ったものだと信じ込んでいるのは、現代の人々にかけられたいかなる悪しき魔術によるものなのだろうかと不思議に思ったのである。そしてそれこそが、読者が聞きたいことであった: その悪しき魔術はどこから来たのか、誰が、あるいは何が魔術をかけたのか、どのようにそれが我々全員の生活に影響を与えたのか、そして - もちろん - その呪文を解く見込みは何か、ということである。

それは多数の込み入った質問の集合であり、簡単に答えられないが、歴史の力を借りて迷宮の中を通り抜けられるかもしれない。

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マックス・ウェーバー

1904年、パイオニア的な社会学者であるマックス・ウェーバーは、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」というタイトルの影響力ある書籍を出版した。その中で、ウェーバーは現代資本主義の由来を、プロテスタント宗教改革、特にカルヴァン主義にまでさかのぼった。スイスの神学者ジャン・カルヴァンに起源を持つ宗派である。カルヴァンは、神は地上の行いとは無関係に、偉大なる栄光のため、少数の人間だけに救済を予定し、その他大多数の人間には永遠の劫罰を定めており、そのような神の慈悲に個人個人が委ねられているという厳しい宗教的ヴィジョンを唱えて、ほとんどすべての歴史的なキリスト教伝統を拒否したのである。

筋金入りのカルヴァン主義者にとっては、経済的な成功は神の恩寵のしるしの1つであり、そのため、カルヴァン主義者は、神に選ばれし者であると見なされるように自分の職業に熱心に打ち込む傾向があった。ウェーバーは、このようなカルヴァン主義の信念が後の資本主義的な労働倫理を構築する原型を作ったと指摘した。やがて、それはアイン・ランドによって焼き直されたヴィクトリア朝的な資本主義者マインドセットへと変化していった。そこでは、富める者は自明に豊かさに値し、貧しい者はその貧困に値するとされる。なんとなれば、資本主義者にとっての神の代替である全能の市場により、各々がふさわしい地位へと割り当てられているからだ。

世界の脱呪術化は、ウェーバーによると、カルヴァン主義によるまた別の資本主義への準備段階であった。カルヴァンが反対したルネッサンスカトリックの世界観によれば、物質世界とスピリチュアルな世界は絶えず相互に浸透しているとされる。そのような世界観では、聖者や天使が神と人間との間で仲立ちを助け、秘跡や聖遺物が世俗的な問題に対処するスピリチュアルな力をもたらし、そして惑星自体が強力な知的存在であり天界をめぐりながら三位一体への賛歌を歌っているのである。(このような世界観の全体像は、C.S.ルイスの『廃棄された宇宙像』[ノンフィクション] から学べる。あるいは、彼の小説『別世界物語』の三部作からは、より豊かな感覚を得られる。その三部作では上記の世界観をそのまま20世紀初頭のSFに翻訳している。)

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ジャン・カルヴァン

これらすべてが、カルヴァンにとっては嫌悪の対象だった。彼にとっては、極端なまでに隔絶され崇められる神と、神の前で畏れる弱く罪深い人間以外には存在しない。このような世界観から、現代の合理的な唯物論的世界観に至るまでは、ほんのささいな一歩しか必要としない: カルヴァンの神を、進化や自由市場などの非人格的な抽象物に取り替えるだけでよい。ウェーバーの説明によれば、カルヴァンによる聖人と秘跡の追放こそが、カルヴァンの後継者である唯物論者による、より広範なあらゆるスピリチュアルなものの追放を準備し、またそれを直接的に導いたと言われている。それは力強い物語であり、現代世界についてのある種のものごとをとても明確に説明する。

とは言うものの、現代世界を「脱呪術化した」と扱おうとすると、本当にたくさんの不都合な事実に直面することになる。現代人は脱呪術化した世界に住んでおり、我々はもはや精霊や魔術を (または更に言えば聖者や秘跡も) 信じていないと主張すること、またそのような主張自体が過去1世紀以上も現代性のレトリックとして重要な役割を果たしていると主張するのはまことに結構ではあるが、これに関する1つの小さな問題は、ジェイソン・ヨセフソン=ストームが指摘した通り、それは真実ではないということだ。

いくつもの調査が示すところによれば、工業諸国に住む教養ある人々の多数が、幽霊の実在、ESPのリアリティ、占星術の正しさなどを信じている。今日のアメリカでは、フルタイムの天文学者として雇用されている人の数を、フルタイムの占星術師として雇用されている人の数が大幅に上回っていることを覚えておいてほしい。インターネットに赴けば、最新の文化的概念の最先端の会場で、儀礼魔術の実践について熱心に議論する巨大で活発なコミュニティを発見できるだろう。その点について言えば、カトリック正教会の旧来の秘跡も未だに広く行なわれており、それと並列して、比較的近年輸入された諸宗教では、カルヴァンや近代の唯物論者が永遠に捨て去ろうとした精神と物質の繋がりという信念を備えるものもある。

脱呪術化の物語を作った現代の思想家たち - マックス・ウェーバー自身も、更に重要なことには、ウェーバーに続いたフランクフルト学派マルクス主義者の知識人たち、批判的人種理論やその他現在人気のあるアカデミックなイデオロギーの元となったアイデアを唱えた人々 - が、現代ドイツのオカルティズムの影響を受けていることを示して、ヨセフソン=ストームはこのミスマッチを証明している。フランクフルト学派が誕生した20世紀初頭のドイツは、オカルティズムの煮え立つ大釜であった; トゥーレ・ゲセルシャフトあるいはトゥーレ協会、その政治活動部門がナチスの母体となったロッジは、おそらく、現代で最もよく知られたオカルト組織であろう。

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コズミック・サークル

その他に、1933年まではもっと強い影響力を持っていたのは、コズミカクレイズあるいはコズミック・サークルと呼ばれた、ミュンヘンで活動した詩人、オカルティスト、ネオペイガンの集団であろう。(ドイツの文化的地理を知らない人のために言っておくと、ミュンヘンはドイツにおけるサンフランシスコである。ただしその道はサンフランシスコよりも綺麗だが。) マックス・ウェーバーは、コズミック・サークルのメンバー何人かと出会っており、フランクフルト学派の主要メンバーもそうであった。言うなれば、世界の脱呪術化と、呪術と精霊に対する信念の崩壊が現代の中心的特徴であると唱えたまさにその人たちが、魔術的な活動と精霊との交流を公然と実施していたオカルティストと密接な関係を持っていたのである。

言い換えると、ウェーバーフランクフルト学派があれほどまでに議論した世界の脱呪術化は、その通りのものではなかった。彼らは世界の脱呪術化を現代の記述として提示したものの、本質的にそれは規範的なものであり、記述的なものではなかった - 専門用語を使わずに言えば、世界の脱呪術化とは、現代工業世界がそうあるべきだと彼らが望んだ姿であり、現実の世界のありようを説明したものではなかったのだ。

記述的ではなく規範的な脱呪術化の役割は、歴史の皮肉の好例として、ヨセフソン=ストームの本に対する反応から印象的なほど明らかとなる。あまりに多くのレビュアーは、その本の中心的な論点を素通りしてしまっているのだ - つまり、実践的なオカルティストが未だ多数存在するにもかかわらず、脱呪術化した世界について語るのはバカげているということだ - そこで、レビュアーたちは彼の研究を真剣に捉えるのではなく、あらゆる面で粗探しをする方法を探している。儀礼魔術、占星術、その他の呪術形式の公然たる実践者として、私自身も同じ反応を受けたことがある; 実践的オカルティストを眼の前にしてさえ、あまりにも多くの人が、もはや誰も本当に魔術や精霊を信じていないなどと主張できることは驚きである。

もちろん、そのような奇妙な行動には多数の仲間が存在する。メディアの専門家が、ある国が高額なテクノロジーネオリベラル的な政策の塊を採用するよう圧力をかけられた際に、「[その国は] 21世紀に入った」とあまりにも頻繁に言うことを考えてみてほしい。そのほか、[カナダ首相] ジャスティン・トルドーが、最初の内閣組閣の際に「なぜ内閣の性別・民族的バランスにそれほどこだわるのですか」と問われた時に述べた、強く嘲笑された反応を考えてみてほしい: 「なぜなら今は2015年だから。」 どちらの場合にも、単なる日付が特定の政治的・経済的アジェンダの隠れ蓑となっている。あらゆるアジェンダと同じく、それは特定の人々を犠牲にしてまた別の人々に利益を与えるものである。そして、ほとんどのアジェンダと同じく、それは誰が利益を得て誰が支払いをするのかという直接的な計算を、神秘化の煙幕の下に隠すものである: ピーターから金を奪ってポールに渡しているのは、大企業の利益や政治家たちなどではない。オー、ノー、それは父の時代からの伝統だ!

このブログや本の中で、進歩への信念がいかにして我らが時代の宗教となったのかを論じてきた。信者のイマジネーションの中では、進歩は神性の役割を果たすとされる全能の抽象概念となる。世界の脱呪術化についての規範的主張は、我らが時代の進歩信仰のドグマの重要な一側面をなす。それこそが、5分かそこら明確に思考すれば、ヨセフソン=ストームの主張を証明できるにもかかわらず、世界の脱呪術化という主張が現代の主流派に固く保持されている理由である。けれども、このような検討に5分間の時間を費す人があまりにも少ないのには、十分な理由がある。ひとたび脱呪術化の仮面を取り去ってしまうと、進歩の宗教全体の最も重要な1つの側面を見逃すことが不可能になってしまうからだ。

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偉大な本、お粗末な映画

フランク・ハーバートは、著名なSF小説デューン』において、いつもの彼らしい正確さでその次元を捉えた。「かつて、」 あるベネ・ゲセリットの魔女は主人公ポール・アトレイデに言う。「人は自身の思考を機械へと引き渡した。それが自分たちを自由にすると信じて。しかし、それは機械を所有する人間たちに自身を奴隷化することを可能としただけだった。」 この原則はコンピュータのみに限らない。あなた自身の生活を形作るテクノロジーを見回してみたまえ。もっとシンプルな道具では不可能なことを実際にできるようにするテクノロジーがどれほど少ないか、またどれほど多くのテクノロジーが、あなたをテクノロジー依存とさせるように仕向けているのかに気付くだろう。

それが、進歩の神話の隠れたアジェンダである: 「進歩的」であるとラベル付けされた方向に進む「前向きの」ステップ1歩ごとに、あなたは、ますます制御不能となるテクロノジーにより完璧に支配されていく。したがって、必然的に、それらのテクノロジーを所有し、管理し、販売する人々に支配されていく。ところで、ここに意図的な陰謀の類いは必要とされない。単に、四半期毎の利益を増加させるべくテクノロジーへの依存を推進するため、個々の技術システムの担当者たちが多数の個人的な選択をしただけである。社会に権力差がある時にはいつでも、その差はますます拡大する傾向がある。それを防ぐため意図的な措置を講じない限りは; 現代のテクノロジーが、個人の自由な選択から社会統制の手段と変化したことは、とりわけこのルールの優れた実例である。

おそらくここで立ち止まって、このような考えに反論するため通常使われる2つのレトリック的な仕掛けに対抗する必要があるだろう。まず第一に、我々は抽象的な「テクノロジー」について話しているのではなく、今日、モダンなライフスタイルの不可欠な要素として販売されている、特定のテクノロジー一式について話している。人間を依存状態に陥らせないテクノロジーは多数存在するが、しかし、ウォルマートやそのライバル店で販売されているものの中には非常に少ない。第二に、この点に関するたくさんのゴマカシにもかかわらず、テクノロジーは価値中立的ではない。いかなるテクノロジーであれ、特定のことはうまく実行でき、他のことはあまりうまく実行できず、さらには別のことはまったく実行できない。このような生来のバイアスを備えたテクノロジーを作成し販売するという決定は、テクノロジーそのものに本質的に表現された価値判断である。

これらすべてが、逆に、産業革命の夜明け以来、我々の文化において魔術がタブーであった理由である。現代企業のテクノロジーとは異なり、魔術は還元不可能なほど個人的なものである。魔術的な活動に積極的に参加したくないと思う人々と一緒にグループで魔術の活動をしたいと思うのなら、最近の広告業界が振りかざすような、端的に言えば弱々しいシンボリックなトリックしか使えないであろう。魔術の学習と実践を少々行えば、そのような薄っぺらな広告の呪文に対抗して、それを笑い飛ばせるようになる。また、多くの人は、魔術の知識がまったくなくとも、広告の魔術を無力化できる: それが多額の資金提供を受けた広告キャンペーンがたびたび陰気に失敗する理由である。

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ダイアン・フォーチュン

意思に従って意識に変革をもたらす技法と理論 - オカルティストのダイアン・フォーチュンによる魔術の古典的な定義 - について何かを学べば、更に先に行くことができる。魔術の学習に関心のある少数の人を集めて、一緒に活動させれば、そこに限界はない。だからこそ、魔術が現代工業世界でタブーとなっているのである: 個人や少人数集団に対して、テクノロジーの所有者、管理者、マーケティング担当者が選択したのではない目標へ向けて進む機会を与えてくれるからだ。進歩の宗教の信者にとって、更に重要なのは進歩の宗教の受益者にとって、魔術は生存の脅威なのである。

クイ・ボノ? - 誰が利益を受けるのか? その優れた古いラテン語の成句は、現代生活の一見非合理に見える特徴について理解しようとした際、常に役に立つ。それでも、ここでは通常の搾取以上のことが起こっている。興味をそそる証拠の断片からは、魔術をかつての時代よりも弱体化させるため、過去数世紀に実際に何かが起こったことが示唆されている: 魔術は決して完全に効果を失なったわけではないが、かつては明らかにありふれていた偉業を成し遂げる力を失なっている。

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ヴァイン・デロリア Jr.

ここで有用な証言の1つは、ネイティブアメリカンの学者で活動家のヴァイン・デロリア Jr.『かつて我々が住んでいた世界 (The World We Used To Live In)』という本である。2005年に彼が亡くなった翌年に公表されたものだ。デロリアは、時代の一般常識への攻撃を厭わない偶像破壊者的な思想家であり、彼の最後の本はそれを示している。彼が行なったことは、ヨーロッパによるアメリカ大陸征服前と最中の、ネイティブアメリカンの祈祷師について、可能な限りの証言を収集することであった。さまざまな角度から魅力的な本であるが、しかしそれを研究したときには、私にとって2つの点が印象に残った。1つ目は、デロリアが、最近の祈祷師は、先祖たちには可能であったことができなくなっているようだと指摘したことである。2つ目は、私も、私と一緒に働いたことのある儀礼魔術師も、デロリアの記録に匹敵する偉業を成し遂げられないということだ。

祈祷師と儀礼魔術師の特定の制約については、説明は十分に簡単である。物質界は魔術的行動に直接反応しない。儀礼魔術師として私が学んだのは、物質界でものごとを実現させたいのであれば、それを実現できる意識的な存在に力を注ぐ必要があるということだ。道路に落ちた落石を移動させたい? 石を空中浮遊させたいと望んでも無意味であるが、高速道路管理局に仕事を遂行するよう働きかけて岩を撤去させることは、十分に効果的である。

デロリアが正しければ - また、彼以外にも同じ指摘をする人はいるのだが - この制約は数世紀前には存在せず、長期間にわたって少しずつ進んできたようである。17世紀後半には、たとえば、有能な冶金学者は法廷の宣誓下で、錬金術師が他の金属を金に変えるのを目撃したと証言し、また、灰吹法その他の試験によりそれが正しいことを確認したと述べた。対照的に、アーチボルド・コクランと神秘的なフルカネルリが20世紀初頭にグレート・ワークに成功した時、錬金術学徒はそれを信じているのだが、彼らは非常に、非常に限られた成功者だったのだ。

私が思うに、これらの変化は、単に、マックス・ウェーバーが信じていたような啓蒙時代における空虚な迷信の衰退によるものでも、ジェイソン・ヨセフソン=ストームが信じている通り、啓蒙という主張に端を発する脱呪術化の現代神話によるものでもない。歴史的な時間の流れに沿って展開する人間存在の諸条件に、現実に、客観的な変化が起こったことを反映しているという可能性を検討する価値はあると思う: 現代科学が決して不可能であると主張するようなある種の物事が実際に可能だったという意味において、過去の世界は現実に異なるものであったと。

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ジュリアン・ジェインズ

魅力的だが問題をはらむ本、ジュリアン・ジェインズの『神々の沈黙-意識の誕生と文明の興亡』の指摘によれば、非常に多数の証言が、太古の時代の人類は非肉体的な存在の声を実際に耳にしていたという考えを支持しているとされ、旧約聖書その他を辿って、そのような経験が薄れていくプロセスが追われている。同様のプロセスは、古代ギリシア文学のなかでも正確に辿ることができる。ヘシオドスのような初期の詩人の作品における霊的存在の確固たる経験から、そのほぼ千年後、洗練された都会人のプルタルコスは『神々の沈黙について』というエッセイを執筆し、なぜ神々はもはや理解可能なメッセージを人間に与えてくれないのかを説明するまでに至った。

ジェインズは、人間の脳機能における一方通行のシフトを仮定してこの現象を説明しようとした。大脳半球の機能をもとに自身の理論を基礎付けたのであるが、それ以後その説は大部分が疑問を持たれている。ジェインズが議論しなかったことは、プルタルコスから約500年後、古代世界が頂点に達したときに消え去った魔術と奇跡の全世界と一緒に、神々の声が再び蘇ったということだ。極東は中国の漢王朝から極西のローマにいたるまで、ユーラシア大陸の全土にわたってハイカルチャーが崩壊するとともに、宗教的ビジョナリーは再び神々や天使と会話し、魔術師は強力な呪文を振るい、ほとんどの人にとって見えざる者の存在は再びありふれたものとなった。数世紀が過ぎ、またもスピリチュアルな領域の存在は薄れ始めた: チョーサーの『バースの女房の物語』は、中世後期の、以前は可能であった不思議な可能性が消えていったことを示す多数の物語の一例である。

言い換えると、脱呪術の仮面の下には少なくとも3つの階層がある複雑な現象が存在している。1つ目の階層は、現代西洋世界におけるオカルティズムの抹消である - これは、アメリカ合衆国の魔術の歴史についての記事を書く際に、私が直面した抹消である。2つ目の階層は、そのようなオカルティズムの抹消の背後にある、一連の政治的・経済的な動機である - できるだけ多くの人々に、既存の権力と富の中心が所有、管理し販売するテクノロジーへの依存条件を受け入れさせようと説得する試みである。3つ目の階層は、特定の歴史周期と関連しているように見える、明らかな魔術実践の有効性の増減である。

その背後には? 私はまだそこに到達していない。この探求はまだ初期段階にあり、聖杯を発見し現代の意識という不毛の大地が癒されたとしても、奇妙な場所を苦労して通り抜ける必要がある。私はそこで見つけたものを投稿し続けよう。

*1:注: グリアは毎週水曜日にブログを定期更新している