Going Faraway

渡辺遼遠の雑記帳

スクール・ライブラリ・ジャーナルが選ぶ2018年ティーン向けの一般書 (ノンフィクション部門)

今年読んだ洋書の評判や翻訳出版状況を調べている間に、こんなリストを見つけました。私自身はほとんど未読ですが、面白そうな本が多かったのでここで紹介します。ティーン向けの本ということで、英語の語彙もそれほど難しくなさそうなので、あまり洋書を読んだことがない人にもおススメします。


 American Prison: A Reporter's Undercover Journey into the Business of Punishment

American Prison: A Reporter's Undercover Journey into the Business of Punishment

American Prison: A Reporter's Undercover Journey into the Business of Punishment

シェーン・バウアーは著名な調査ジャーナリストで、彼が(実名を明かして)ルイジアナ州の民間の刑務所の時給9ドルのアルバイト刑務官として働いた経験を執筆した潜入ルポ。アメリカでは企業の運営する民間刑務所が数十億ドルの産業になっているが、そのような刑務所では囚人の健康や更生に注意を払うインセンティブがないため囚人は非人道的に扱われており、またバウアー自身も刑務官として働くうちに、囚人に対して残酷に、攻撃的になっていったのだという。

Well-Read Black Girl: Finding Our Stories, Discovering Ourselves

Well-Read Black Girl: Finding Our Stories, Discovering Ourselves

Well-Read Black Girl: Finding Our Stories, Discovering Ourselves

「Well-Read Black Girl」は有名なブッククラブで、その創立者グローリー・エディム編集した黒人女性作家による読書エッセイのコレクション。「自分自身のために書かれたかのように感じる文学作品のキャラクター」との出会いについて扱ったエッセイだそう。

3 Kings: Diddy, Dr. Dre, Jay-Z, and Hip-Hop's Multibillion-Dollar Rise

3 Kings: Diddy, Dr. Dre, Jay-Z, and Hip-Hop's Multibillion-Dollar Rise (English Edition)

3 Kings: Diddy, Dr. Dre, Jay-Z, and Hip-Hop's Multibillion-Dollar Rise (English Edition)

 自主レーベルでのアルバム公開からキャリアをスタートさせ大スターとなった3人のヒップホップアーティスト、ディディ、ドクター・ドレ、ジェイ・Zの生涯を追い、またテレビや映画、ファッションからテクノロジーまで、いかにしてヒップホップが世界を変えたかを描き出す。

When They Call You a Terrorist: A Black Lives Matter Memoir

When They Call You a Terrorist: A Black Lives Matter Memoir

When They Call You a Terrorist: A Black Lives Matter Memoir

パトリッセ・カーン=カラーズはロサンゼルス出身の芸術家で、ブラック・ライブズ・マター運動の創始者。本書は彼女の自伝だそうで、警察と司法制度から残虐に扱われ、テロリスト扱いされた子供時代の経験を描いている。黒人女性版『ヒルビリー・エレジー』との呼び声もある。

Heavy: A Memoir

Heavy: An American Memoir

Heavy: An American Memoir

小説家、エッセイストのキース・レイモンによる自伝。幼少期の性的虐待や家族の薬物中毒など複雑な生涯を告白し、それを通してアメリカのモラル荒廃を問う。

Basketball: A Love Story

Basketball: A Love Story

Basketball: A Love Story

 今年放送された同名のドキュメンタリー番組をベースとした本。著名選手へのインタビューをもとに、バスケットボールの歴史から文化的な側面までを描き出している。

I’ll Be Gone in the Dark: One Woman’s Obsessive Search for the Golden State Killer

I'll Be Gone in the Dark: One Woman's Obsessive Search for the Golden State Killer

I'll Be Gone in the Dark: One Woman's Obsessive Search for the Golden State Killer

 1970年代~1980年代にかけてカリフォルニア州を恐怖に陥れた連続強姦殺人犯、通称「ゴールデン・ステート・キラー」事件の真相を追跡するノンフィクション。なお、著者のミッシェル・マクナマラは2016年に薬物中毒で亡くなっており、これが彼女の遺作であるという。なお、この事件の犯人は今年4月に逮捕されたそうだ。

Dopesick: Dealers, Doctors, and the Drug Company That Addicted America

Dopesick: Dealers, Doctors and the Drug Company that Addicted America

Dopesick: Dealers, Doctors and the Drug Company that Addicted America

 アメリカのオピオイド危機、その始まりから現在までを描くルポ。このブログで既に取り上げたのでそちらを参照。

 The Displaced: Refugee Writers On Refugee Lives

The Displaced: Refugee Writers on Refugee Lives (English Edition)

The Displaced: Refugee Writers on Refugee Lives (English Edition)

 ヴィエット・タン・グエンはベトナム出身の元難民のジャーナリスト。2017年1月に、トランプ大統領が難民受け入れ停止と厳格な入国審査を求める大統領令に署名したことを受けて、同じような「元難民」という境遇の人々のエッセイを集めたアンソロジー

So You Want To Talk About Race

So You Want to Talk About Race

So You Want to Talk About Race

白人の特権、警官の暴力、悪意の無い小さな差別的言動(マイクロアグレッション)からブラック・ライブズ・マター運動まで、アメリカの人種問題について語る上での必読書であるという。

Spying on Whales: The Past, Present, and Future of Earth’s Most Awesome Creatures

Spying on Whales: The Past, Present, and Future of Earth's Most Awesome Creatures

Spying on Whales: The Past, Present, and Future of Earth's Most Awesome Creatures

 クジラはこの惑星上で最も大きく、最も知的で、最も深くまで潜る生物である。クジラは、陸を歩き回る犬くらいの大きさの生き物から、魚のように泳ぎ我々のように呼吸する生物へと進化し、その体重は30万ポンド、寿命は200年にも達する。なぜクジラはそんなに大きくなったのか? なぜ彼らの祖先は陸から海へ帰っていったのか? そんなクジラの不思議な生態と進化の謎に迫る本。

We Matter: Athletes and Activism

We Matter: Athletes and Activism (Edge of Sports)

We Matter: Athletes and Activism (Edge of Sports)

 元NBA選手、イータン・トーマスが50人以上のアスリート、エグゼクティブ、メディア関係者に対して人種・政治問題に関するインタビューを行い、また彼自身のエッセイと批評を加えた作品。

The Girl Who Smiled Beads: A Story of War and What Comes After

Das Maedchen, das Perlen laechelte: Von der Macht der Geschichten in Zeiten des Krieges

Das Maedchen, das Perlen laechelte: Von der Macht der Geschichten in Zeiten des Krieges

クレメンティン・ワマリヤは、6歳でルワンダ虐殺に遭遇し、その後の6年間、15歳の姉クレアと共に、安全を求めてアフリカの7つの国をさまよった。12歳の時、彼女はアメリカで難民として認定され、後にイェール大学を卒業しアメリカンドリームを勝ち取る。それでも、人間以下の存在として扱われ、飢えと死の淵をさまよった日々の記憶は決して消すことはできない… 子供にとっての戦争とはいかなる意味を持つのかを問う、彼女の半生記である。

Educated: A Memoir

Educated: A Memoir (English Edition)

Educated: A Memoir (English Edition)

アイダホ州の山脈に囲まれた田舎で生まれたタラ・ウェストオーバーは、モルモン教徒で、文明崩壊に備え社会から孤絶した自給自足生活を送るサバイバリストの両親のもとで育った。教育や現代医療を否定し、初めて学校に入ったのは17歳のときであった。その後、ケンブリッジハーバード大学で学ぶ機会を得られたものの、次第に家族とは不和になっていく… 教育がいかに彼女を救ったかを描く回顧録である。

he Making of a Dream: How a Group of Young Undocumented Immigrants Helped Change What It Means To Be American

アメリカには「ドリーマーズ」と呼ばれる人々がいる。幼いころにアメリカに連れられ、あるいは送られ、法的な移民の身分や市民権を持たないまま成長した人々である。帰るべき祖国もなく、とはいえアメリカ市民でもない「移民」たちを取り上げたノンフィクション。

書評:トランプリスク 『The Fifth Risk』 (マイケル・ルイス)

ご存知超売れっ子ノンフィクション作家、マイケル・ルイスの新刊。 

The Fifth Risk: Undoing Democracy

The Fifth Risk: Undoing Democracy

さて、マイケル・ルイスと言えば、書く本すべてが大ヒットとなり、『マネー・ボール』、『世紀の空売り』は映画化もされ、行動経済学創始者を扱った『かくて行動経済学は生まれり』は、2017年のノーベル経済学賞行動経済学に関するものだったこともあり、日本でもベストセラーとなった。

そのルイスの新刊は、ドナルド・トランプ当選後の政権移行がテーマだ。「トランプの政権移行で、一体何が起こっていた (いる) のか?」あるいは、もっと正確に言えば、「何が起こらなかったのか?」を説明するものだ。

ここで、アメリカの政権移行について少し補足が必要かもしれない。日本では、ほとんどの公務員は試験を受けて任用され、政治家 (首相) が直接的に任命するのは大臣・副大臣など一部の役職に限られる。一方でアメリカは政治任用制を取っており、政権交代が起こるたびに公務員が入れ替わり、その数は数千人にも及ぶ。そのため、大統領候補者は立候補中から政権移行の準備を開始し、大統領選挙の当日から政権移行を始めることが一般的である。既存政権の側でも、11月の大統領選挙前から引き継ぎのための準備を行い、新大統領の決定後すぐに担当者へ業務の引き継ぎを行なう。

ところが、ドナルド・トランプの場合は、大統領選挙後も、数週間も、1ヶ月も経っても引き継ぎ者は現れなかった。本書で取り上げられているオバマ政権のエネルギー省、商務省、農務省の担当者たちは皆、後任への引き継ぎを準備していたにもかかわらず、無駄な待ちぼうけを喰らわされてしまったのだ。これは無理もないことかもしれない。そもそも、ドナルド・トランプ当人ですら、本気で大統領になるつもりはなかったらしいのだから。

リスクマネジメントの主体としての行政機関

ルイスは、各機関の公務員たちに緻密なインタビューを行い、トランプ政権の政権移行のゴタゴタを暴き、またそこで働く公務員たちの業務を魅力的に描き出している。

ルイスの (そして彼がインタビューした公務員たちの) 洞察として、政府とはリスクマネジメントを行う主体であるという観察がある。本書のタイトルである「第5のリスク」とは、エネルギー省の元職員との会話の中で出てきたものである。懸念しているリスクのトップ5を教えてほしいと問われ、エネルギー省の職員が最初の4つとして挙げたのは、核廃棄物の管理や北朝鮮やイランの核問題などの、具体的なリスクであった。しかし、5つ目のリスクは、言わばメタ・リスクとでも言うべきもので、「プロジェクト・マネジメント」についてのリスクであると答えた - つまりは、政府がリスクに対応する能力を失なうリスクである。

ルイスが言う通り、最も想像の容易なリスクが最も起こりやすいわけではない。そして、(あくまでたとえとして数値を挙げれば) 1万分の1の確率でしか起こらない大惨事のリスクが10倍になり1000分の1となったとしても、それだけで我々の生活が破綻し困窮するわけではない。けれども、行政機関のポストや予算を削り、その円滑な業務を妨げているトランプ政権は、確実にアメリカ政府の長期的なリスク対応を削いでおり、多くの人はそれを無意識のうちの不安として感じ取っているのではないかと説く。

以前にも書いた通り、私は2016年初頭からのトランプウォッチャーで、それなりに多くのトランプ本を読んできたけれども、本書が一番不安感を感じるものだった。

 

いつものルイスの作風通り、個々の人物に注目したエピソードもディテールが凝っていて面白い。特に面白かったのは、オバマ政権のチーフデータサイエンティストを勤めた DJ Patil氏の話。幼少期からハッカーの素質があり、中学生の時には近所の住人に仕掛けたイタズラで警察に補導されるほどであったという。その後、彼は数学に興味を持ち、大学院で博士号を取得する。その際、カオス理論についての自身の仮説を証明するため、農務省が保持していた気候データを使用した。気象学に特段の興味を持っていたわけではなく利用できるデータがそれしかなかったのだそうだが、それをきっかけとして米国の公的機関との繋がりを得て、オバマ政権のデータ基盤整備をする職に就いたという。

FEAR 恐怖の男 トランプ政権の真実

FEAR 恐怖の男 トランプ政権の真実

本書が「起こらなかったこと」についての本であるとすれば、こちらは「トランプ政権で起こったこと」に関する正統派のルポ。(ちなみに、2018年10月に私がアメリカを訪れた際には、『The Fifith Risk』とこの『Fear』がどこの本でも並んで平積みにされていた)

書評:しょぼい勤め人が読む『しょぼい起業で生きていく』(えらいてんちょう)

著者のえらいてんちょう (えらてん) 氏は、実は学生の頃からの数年来の友人だ。本書は、えらてん自身のリサイクルショップ、学習塾やイベントバーなどの起業と経営の実体験をもとに「しょぼい起業」の考え方と実践法を綴ったものだ。

しょぼい起業で生きていく

しょぼい起業で生きていく

とは言え、この本は単なる起業のマニュアルとハウツー本ではない。なにせ、冒頭の第一章には「消去法としての起業」や「日本にいるかぎり飢え死にはしない」といった内容が書かれている。起業の方法を説明するよりも前に、就職できなくても、究極的には起業すらしなくても生き延びられるというマインドセットが説かれているのだ。「成功方法」ではなく、「失敗してもOK」というメッセージは、現代社会の固定観念に凝り固まった人には刺さるのではないだろうか。

しかし、本書は心の持ちようとものごとの捉え方の変化のみを説いた本でもなく、実践的な「しょぼい自営業」で"やっていく"ためのノウハウもふんだんに書かれている。店舗と住居を兼用して生活とビジネス両方の固定費を下げること、自分が必要とするものの余剰でビジネスを行なうこと、完璧な計画を立てるのではなく、その時々で儲かりそうなことをすることなど、スモールビジネスを通して「生存」を目指すための方法として極めて実践的だ。

働くモチベーションについて

さて、私自身は、"普通の"企業勤めのサラリーマンとしてそこそこに生きているので、正直に言うと、本書の実際上のノウハウが即座に役に立つというわけでもない。それでも、第四章の「協力者を見つける」という章は、自分の働き方について考える上でも非常に面白いものだった。

中途半端な要約では誤解を受けそうではあるけれども、えらてんが本書の中で (あるいは彼自身の言葉と生き方の中で) 強調している考え方に、「正しいやりがい搾取」、つまり「他人を動かす対価は金銭だけではない」というものがある。ビジネスは金銭のやり取りであるが、実際のところその底には感情の交換が横たわっている。そして、そのような感情の交換は、なにも個人事業主に限ったものではない。

ある程度の規模がある企業であれば、多かれ少なかれ、仕事を部分的に細分化し、それぞれを動かすためのテクノロジーを整備して、また全体をまとめるためのシステムが作られている。そういったシステムの構築は、仕事から属人性を排除して一定水準の成果を保つためには必須である。しかし、そのようなシステムの中で働く人間は、自分がまるで取り替え可能な機械のパーツであるように感じるかもしれない。そこで働いている人は、まるで部品のように「疎外」されていく。そのような職場では、基本的には、命令と報告、金銭的・地位的なインセンティブにより人を動かすことになり、そこで働く人のモチベーションは「言われたことはやるが、それ以外のことはしない」という最低の状態にまで落ち込んでいく場合もある。

しかし、そういった企業の場合であっても、働く人々のモチベーションは報酬や恐怖だけから来ているわけではないだろう。少なくともその一部は、自尊感情と他者へのリスペクトからも生じているのではないだろうか。というよりも、企業内部のコラボレーションのほとんどは、厳密な対価支払いや業績評価がセットになっているわけではなく、感情的なやり取りを通して交換されている。それらの自尊感情や他者へのリスペクトは、他者からの認知と感謝から生じているものなのだ。

私自身を振り返ってみても、働く上でのモチベーションは、報酬や罰から直接生じているのではないように思う。実際は、他部署のプロジェクトで問題が発生した際に、自分の専門知識を頼られて問題解決への協力の依頼を受けたこと、他の専門家から私自身も専門家の一員として認められることが一番嬉しく感じた記憶がある。

とかく「感情労働」や「やりがい搾取」は昨今では評判の悪いものではあるけれど、(単なる雇用ではなく) 私たちが働くということを考えて、それを更に良くしていくためには、人間同士の感情的なやり取りにもっと注意を払う必要があるのだ。

その意味では、本書は「しょぼい起業」を実践することを検討している人だけではなく、何らかの形で働く人すべてに薦めたい。

書評:リベラル派によるリベラル批判の書 『リベラル再生宣言』(マーク・リラ)

最近では、日本でもアメリカでも、「リベラル派」は何となくうさん臭いものと思われている傾向があるようだ。「自由」を旗印に掲げながらも、その自由はリベラル派自身のみにしか適用されず、意見の異なる他者には極めて権威主義的に振る舞う態度を指摘されている。

しかし、そのような途方もない主張をするリベラル派ばかりではない。本書『リベラル再生宣言』は、中道左派を自認する著者による、リベラル派が道を誤った理由の解明とその批判、そしてリベラル再生のための提言だ。

リベラル再生宣言

リベラル再生宣言

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著者マーク・リラは、政治思想史を専門とするコロンビア大学歴史学部教授。上述の通り、穏健な左派の立場を取っており、本書の元になった論考はドナルド・トランプの大統領選出直後の2016年11月、ニューヨークタイムズ紙に掲載された。

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著者によれば、過去1世紀のアメリカ政治体制は大きく分けて「ルーズベルト体制」と「レーガン体制」を辿ってきたという。1930年代にルーズベルト大統領によって提示された「ニューディール」のビジョンは、1970年代のアメリカ社会の経済的成熟により終わりを迎え、その後レーガン大統領による「偉大な社会」のビジョンが続いた。

度々指摘されている通り、実際のところ、旧来の共同体や政府よりも個人の自己決定権と富の蓄積に対して無上の価値を置くレーガン体制は、何かを「守り保つ」という意味での伝統的な保守ではない。政府の存在そのものに対して敵意を持つレーガン主義的な共和党は、自己破滅的な運命を抱え込んでいたとも言える。

アメリカ国民は、もう何十年も、共和党が演じるブラック・コメディを見せられている。共和党は、自らが政権を持たない時には、「政府」というものを敵視することで、政権を奪取しようとする。また、政権を取った時にも、自分たちの支配下にある「政府」を壊すと国民に約束することで、政権を継続しようとする。

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レーガン体制下で、リベラル派もまた変化を遂げた。有権者に「市民」としての連携を訴えるのではなく、個人のアイデンティティを史上とし特定集団の利益のために声を挙げ、結果的にアメリカ人全体をバラバラに分断するアイデンティティ・ポリティクス (著者の用語ではアイデンティティ・リベラル) の袋小路へと陥っていったのだ。

もちろん、民族的マイノリティ、女性、同性愛者など、かつて、そして今でも平等の「市民」として扱われてこなかった人々は存在しており、それらの人々の解放運動の意義は否定できない。かつてのリベラルは、それらの人々との対等性を協調し、市民としての連携を促すものだった。ところが、近年のアイデンティティ・ポリティクスはむしろ人々を分断してしまう。マイノリティの属性を持つ人が、「○○の立場から言えば、××は許されない。」と宣言すれば、いかなる妥協や交渉もできず、そもそもその属性を持たない人には当該の問題について発言する権利すら持たないことにされてしまうからだ。

著者は、アイデンティティ・リベラルとは、超個人主義的な「左派レーガン主義」であると喝破する。

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著者は、現在のリベラル派の問題点を分析した上で、同志であるアメリカ人のリベラル派に対してリベラル再生のための提言を行っている。社会を分断し壁を作るアイデンティティリベラリズムではなく「市民」としての連帯を促すビジョンを提示すること、法廷や大学での現実社会から乖離した「反政治」ではなく、実効性のある方法で政治的権力を獲得して、反対勢力とも合意形成をすることが重要であるという。

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提言部分は若干抽象的なうえ、アメリカ人でもリベラルでもない私にはあまりピンとこない部分もあるものの、現代アメリカ社会の左派が社会と自身をどのように認識しているかを知る上で有用な本だった。

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ひるがえって、日本ではどうだろうか。日本では、人種や性差や性的志向を通したアイデンティティポリティクスによる社会の分断はそれほど激しくないように見える。それでも、ネット上の一部で過激化したフェミニズムやそれへのバックラッシュなど、分断が進みつつあるように見える部分もある。日本では、「市民」としての連携を促せるような思想的な伝統が存在しないことも懸念点だろう。

特に気がかりなのは、沖縄の基地問題に対する政府の対応が、むしろ沖縄の人々のアイデンティティポリティクス化を助長し、建設的な議論と対応が不可能になっているように見えることである。

合わせて読みたい

アメリカの保守政治の文脈から見たリベラル派の機能不全については、『破綻するアメリカ』でも取り上げられている。

過激化したリベラル派の問題点については、こちらのエッセイ(拙訳)も詳しい。

書評:タコであるとはイカなることか『タコの心身問題』/『Other Minds』(ピーター・ゴドフリー=スミス)

タコはとても知能が高い。なにせ、ワールドカップの優勝国を予想できるくらいなのだから…という冗談はさておき、本書『Other Minds』は、タコとイカに魅了された哲学者による、知能と意識の起源についての探究である。

Other Minds: The Octopus, the Sea, and the Deep Origins of Consciousness

Other Minds: The Octopus, the Sea, and the Deep Origins of Consciousness

著者ピーター・ゴドフリー=スミスは、オーストラリア出身でシドニー大学で教鞭を取る哲学教授で、特に科学哲学と生物学の哲学を専門としている。また彼はスキューバダイビングの愛好家でもあり、趣味でダイビングをしてタコを観察しているという。

本書には、頭足類、タコやイカたちの知能の高さを示すさまざまなエピソードが記されている。タコは迷路を解いたり、瓶の蓋を開けて食料を取り出したり、視覚的に物体を認識できる。更には、タコは人間を個人として識別可能である。特定の (嫌いな?) 研究者に対して水を吹き出したり、ラボへの新しい訪問者だけに水を掛けることもある。それ以外にも、ある水族館で飼育されていたタコは、夜の間に自分の水槽の蓋を持ち上げて隣の水槽へと忍び込み、そこで飼われていた魚を食べてしまい、そして何事もなかったかのように自分の水槽へと帰り蓋を戻して"隠蔽工作"を行なったという。

加えて、一部の頭足類は皮膚に埋め込まれた多数のメカニズムを使い、極めて高速で詳細に肌の色を変化させられる。これは、獲物と捕食者双方からのカモフラージュのためのメカニズムだと考えられているものの、肌の色を言語のように使ってコミュニケーションしている可能性も示されている (ただし、これには別の研究者からの懐疑的な意見もある)。

知能は少なくとも二度進化した

上で述べた通り、タコやイカたちの知能は高く、イヌと同程度の知能を持っていると考えられている。けれども、その身体の作りは人間や他の哺乳類、あるいは脊椎動物とはまったく異なっている。頭足類は中央集権的な脳を持っておらず、頭の中にあるニューロンは全体の3割から4割程度でしかない。ほとんどのニューロンは触手の中にあり、触手は独自に"思考"し動作しているようにも見える。その触手は、身体の本体から切り離されたとしてもしばらくの間は自律的に動いたり物を掴んだりできる。著者によれば、それは「通常の心身の分離の外側に位置している」のだ。

進化論的に言えば、我々を含む脊椎動物と、イカやタコを含む軟体動物の共通の祖先は、およそ6億年前の小さな扁形動物にまで遡る。進化上の分岐後、我々と頭足類とはまったく異なる経路を辿った。頭足類の祖先は、まず身体を保護するための貝殻のようなものを進化させ、地球上で最初期の捕食者となった。海底を這うこれらのカタツムリ状の動物たちは、やがて触手を使って海を泳ぎ始めたのだ。それから彼らは殻を捨て去った。最初の頭足類はおそらく約3億年前に出現し、貝殻を失なったことによる脆弱性を補うために、高い知能を発達させたのだ。つまり、タコたちは我々とはまったく別の経路で、別のデザインで知能を得たのである。そして、おそらくタコたちも我々と似たような主観的な経験をしている可能性が高い。「これはおそらく知的なエイリアンとの遭遇に最も近いだろう」と著者は言う。

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本書の若干の欠点を述べておくと、著者が多数挙げている逸話はやや散漫でまとまりに欠けるようにも感じられた。それでも、タコたちの知能の高さによるお茶目なエピソードはおもしろく、著者のタコ愛が感じられた。タコの寿命は短く、野生状態ではせいぜい1〜2年しか生きられないという。著者がそれを知ったときのショックを書いた文章は、こちらも少し悲しくなってしまうほどだ。

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本書の翻訳は11月17日に出版された。(原書を読んだため邦訳は未読)

タコの心身問題――頭足類から考える意識の起源

タコの心身問題――頭足類から考える意識の起源

 ロドニー・ブルックス氏も、本書の内容を取り上げ未来のロボットの意識と知能のありかたを議論している。

読書メモ:オピオイド危機あるいは"ピル"ビリー・エレジー 『Dopesick』 (ベス・メイシー)

現在アメリカでは薬物中毒が深刻な社会問題となっていると、おそらく一度は耳にしたことがあるのではないだろうか。過去20年の間に、700万人以上が薬物中毒となりそのうち20万人以上が死亡した。50代以下の若年層では、既に交通事故や銃器による年間の死者数を上回っており、HIV/AIDS問題の初期よりも速いペースで死者が増加しているという。2017年10月には、トランプ大統領により「公衆衛生上の非常事態」が宣言された。

本書『Dopesick』は、ヴァージニア州の地元新聞社の元記者であるノンフィクション作家、ベス・メイシーによって書かれたオピオイド危機の始まりから現在までのルポタージュだ。著者は、ヘロイン中毒で19歳の一人息子を亡くした母親の疑問「なぜ息子は死んでしまったのか?」という問いに答えるために、調査を進めていく。 

Dopesick: Dealers, Doctors, and the Drug Company that Addicted America (English Edition)

Dopesick: Dealers, Doctors, and the Drug Company that Addicted America (English Edition)

 第一部では、どのようにして現在の薬物危機が始まったのかが描かれている。

1996年、製薬企業のパーデュー・ファーマ社は鎮痛剤オキシコンチン (OxyContin) を発売した。「鎮痛剤」とは言っても化学的にはヘロインに似た化合物であり、もともとは末期癌患者の疼痛を抑えるものとして開発されたらしい。ところが、実際には癌患者以外にも大量に処方されるようになっていった。

背景には、パーデュー社の強烈なマーケティングキャンペーンがある。12時間という長い時間作用が継続し依存性も小さいという謳い文句で、医師に処方箋を書くよう積極的に売り込んだのだ。そればかりでなく、医師に金品を提供したり、研修などの名目で接待旅行に連れていくことすらあったという。2000年代までに、オキシコンチンは年間20億ドルを売り上げる大ヒット商品となった。

しかし、オキシコンチンの流行に伴なって、その依存や乱用も社会問題化した。実際のところ、オキシコンチンの持続時間は12時間以下であり、患者は短時間のうちに何度も服用しなければならなかった。加えて、パーデュー社は臨床実験により持続時間の問題を認識していながらも、売上を維持するために隠蔽していたのである。

当初、薬物乱用は個人の問題であり薬剤そのものに問題はないとパーデュー社は主張していた。しかし、2007年、パーデュー・ファーマ社は「誤った宣伝により世間をミスリードした」ことにより有罪判決を下され、示談金として約6億ドルを米国政府に支払うこととなった。(この示談金額は当時、米国史上最高額であったという) 更には、パーデュー社の社長、研究開発の責任者、代表弁護士の3名個人に対しても約3500万ドルの罰金刑が科されたのだった。

“The corporation feels no pain.”

普通の物語であれば、悪徳大企業とその幹部に罰が下されてハッピーエンドを迎えるところかもしれない。ところが、オピオイド危機はその後も続いていく。パーデュー社はその後もオキシコンチンを販売し続け、2007年の裁判前後で売上は一時落ち込んだものの、2010年代を通して年間20〜30億ドル程度の売り上げが続いている。

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上記グラフは 'You want a description of hell?' OxyContin's 12-hour problem #InvestigatingOxy - Los Angeles Timesより引用

更に悪いことに、乱用が社会問題化した結果オピオイド系処方薬の入手が難しくなったため、中毒患者は、オキシコンチンの禁断症状を抑えるために、コカインやヘロインなどの安価で入手の容易なハードドラッグを使用するようになっていった。

続く第二部と第三部では、深化する薬物危機と、今なお継続中の危機からの回復過程、特に依存症治療に関する問題に焦点が当てられている。

著者は多くの人にインタビューを行ない、薬物中毒のミクロな姿を描き出そうと試みている。中毒患者たちは郊外に住むごく普通のアメリカ人労働者で、薬物中毒になったきっかけも「親しらずの抜歯後に鎮痛剤として処方された」、「失業と貧困による不安を柔らげるために薬物から抜けられなくなった」、「両親が持っていた鎮痛剤を興味本位で試してみた」といった程度のものだ。

著者がインタビューした人々は、中毒患者本人や医師、冒頭でも取り上げた通りの息子を薬物中毒で亡くした母親、その息子に薬を売った売人にまで及ぶ。(取材対象者の人数が極めて多いため、人名を確認するために何度も本を行ったり来たりしなければならなかった。KindleX-Rayが便利でした…) 時として、著者と対象者の交流は、ジャーナリストとインタビューイの関係を越えて、心から共感し合っているようにも見える。


子を喪った親の疑問には、おそらく決して答えが与えられることはないだろうし、アメリカの薬物問題は現在でも続いている。それでも、著者の暖かな人柄が感じられるとともに、現代アメリカの薬物問題のさまざまな側面に光を投げ掛けるとても貴重な一冊なのではないかと思う。

余談

痛みの問題は意識の問題に似ている。それが自分にあることは確実だが、他人にそれを明確に証明することは難しい。形而上学的な議論であれば、「意識は客観的に証明できないから存在しない」と言い切ることもできるかもしれないが、臨床の現場ではそうはいかない。鎮痛剤乱用の根本には、そんな「痛み」の性質がある。

But what exactly was adequate pain relief? That point was unaddressed. Nor could anyone define it. No one questioned whether the notion of pain, invisible to the human eye, could actually be measured simply by asking the patient for his or her subjective opinion. Quantifying pain made it easy to standardize procedures, but experts would later concede that it was objective only in appearance—transition labor and a stubbed toe could both measure as a ten, depending on a person’s tolerance. And not only did reliance on pain scales not correlate with improved patient outcomes, it also had the effect of increasing opioid prescribing and opioid abuse.

合わせて読みたい 

ヒルビリー・エレジー アメリカの繁栄から取り残された白人たち

ヒルビリー・エレジー アメリカの繁栄から取り残された白人たち

 薬物問題そのものがテーマではないものの、昨年評判になった『ヒルビリー・エレジー』も、本書と同じくアパラチア地域での薬物・貧困問題を取り上げている。(ただし、この本の著者の、成功者が後ろ足で故郷に砂をかけていくような態度はあまり好きになれなかった)

翻訳依頼に関するスタンスについて

最近、Twitterやメール等で「記事や本を訳してほしい」という依頼を頂くことがあるので一応明記しておきます。

私の翻訳は純粋な余暇の趣味の活動なので、報酬の有無に関わらず基本的にはお受けしておりません。依頼があった記事について、気が向いた場合には趣味の範囲で訳すことがあるかもしれませんが、その場合にも期日やクオリティについてのお約束はできません。

とは言え、「こういう面白い記事や書籍があるよ」という情報提供はいつでも歓迎です!