Going Faraway

渡辺遼遠の雑記帳

翻訳:進歩の最晩年 (ジョン・マイケル・グリア)

ジョン・マイケル・グリアによる2021年2月3日の記事 "The Last Years of Progress" の翻訳です。

The Last Years of Progress

ノー、ここで私は過去数週間のアメリカの政治的混乱に関する議論に長い時間を費やすつもりはない。確かに、2020年中のほとんどの期間、暴力は完璧に許容可能な政治活動の手法であると主張していた [民主党の] 政治家たちが、対立する立場の人々がその言葉通りに行動したとき、無様なかんしゃくを起こしたのを見ることはとても楽しかったと認めよう。また、ソーシャルメディアの狂乱的な大量パージにより、どれほどの量の広告にも及ばないほどのブーストを敵対する陣営に与え、ソーシャルメディア企業が自滅していったのを見ることも、同様に楽しかったと認めよう。Reddit上のデイトレーダーが、オフィシャルな説明によれば、卑劣な金持ちだけが行えるとされる類いのマーケットスキームを実行したために、観衆の目前でウォールストリートが融解したという魅力的なスペクタクルもあった。それでも、オンラインでもオフラインでも、そのようなアイロニーを賞味できる場はたくさんあるだろうが、アメリカの 旧体制アンシャンレジー がその暮れ時を迎えるにあたって、その他にも我々が話さなければならないことはたくさんある。

政治は文化の下流であると言われている - 簡単に言えば、文化における変化が先に起こり、後に政治におけるシフトがその変化を反映するということだ。これは真理であるが、同じ洞察を更に進めることができる。文化は、まったく同じ意味で、想像力の下流である。歴史を形作った突発的な政治的変革を追ってみれば、辺縁部のビジョナリーたちの思想と夢想の文化的変化を通して辿ることができるだろう。この意味において、[パーシー・ビッシュ・]シェリーが主張した通り、詩人は世界の認められざる立法者であるのだ: 政治的混乱の前に、それを不可避ならしめる文化的なシフトが来る; 文化的シフトの前に、それを思考可能とする集合的想像力の中のささやきが来る。

詩人が世界の認められざる立法者であるという事実は、けれども、詩人が優れた法律を作ることを保障しない。昨年末に、社会主義を創造した軽薄なフランス人ビジョナリー、シャルル・フーリエのキャリアについて議論した。死後1世紀半の後、情熱的な魅力から誰もが進んで労働する完璧な世界というフーリエイカれた夢想は、現実世界に類似のユートピアを作る挑戦を生み出したが、その結果は、ポスト60年代のアメリカカウンターカルチャーの破綻した何千ものコミューンから、ソビエト連邦 強制収容所 グラーグ およびカンボジアの殺戮の地平にまで至る。同様に、第二次大戦直後のビート世代の詩人の夢想から、今日のアメリカ政治まで、直接的な関連を見出すことも可能であろう。アレン・ギンズバーグの『吠える』を読んでみれば、その感傷的な言葉と盲目的な怒りの支離滅裂な寄せ集めは、今日の政治情勢の驚くべきほどに優れた予告であることが理解できよう。

その他にも多数の事例がある。以前にもここで書いた通り、たとえば、J.R.Rトールキンファンタジー小説は、現代政治が絶望的なまでに機能不全となるにつれて、広く蔓延したテンプレートとなった。何十年もの間、政治界のあらゆる立場の人々は、敵対する立場を反射的にサウロンの化身として定義してきた。そして、何らかのトリックを使って、滅びの山に指輪を捨てる役割を演じようとするのである。(遠くでは、農民のよく通る声が聞こえる: 「意義ある政治的変化は大衆の参加からもたらされるもので、茶番じみた火山の儀式からではない。」今日の政治活動家は、アーサー王とまったく同じように応える。「黙れ! 黙れ!」) *1

我々の将来に控えたきわめて困難な未来をナビゲートすることに興味を持つ者は、それゆえ、集合的想像力における変化に注意を払う必要がある。ある事例が、たった今取り上げる価値があると思われる事例が、しばらく前、雑誌ワイアードの紙面に登場した。

エス、私も折に触れてワイアードを読む。それは一般常識の足元をウロつき、現代の企業貴族の間で流行している空疎な観念には何であれ情熱的なお世辞を言いながら、最先端の偶像破壊者であるかのように振るまう退屈な偽オルタナティブのゴミである。けれども、もしも最新の流行のテクノバブルについて行きたいと思うのならば、これ以上の場所はない。時々は、ついでに言えば、実際に面白い記事もある。私が取り上げたい記事は後者の事例である。

1995年に、カークパトリック・セールは、『Rebels Against the Future』という題名の思索深い書籍を発表した。それはラッダイトの主張を取り上げ、結局のところラッダイトは正しかったと主張する本であった。ラッダイトとは、ご存じかもしれないが、18世紀後期から19世紀初期のイギリスの労働者階級の人々で、初期の産業革命を拒否し、自分たちの仕事を取り上げ貧困へと追いやった機械を破壊することにより、自身の生活と熟練職人としてのアイデンティティを守ろうとした人々である。当然、彼らは負けた。首謀者は吊るされ、多数の追随者たちはオーストラリアの労働キャンプへと送られた - 当時のイギリスでは、シベリア送りに相当する。その後の人類学者による当時のイギリス人の骨格調査によると、19世紀の労働者の遺骨からははっきりと深刻な栄養失調と貧困の兆候が見て取れ、中世の暗黒時代を含めてそれ以前の時代の遺骨よりも状態が悪いのだという。

必然的に、それ以来ラッダイト運動は進歩好みな人々にとっての "藁人形" となった。セールは、そのような安易な侮辱を退け、彼らの主張に確固たる論拠を与えている。そのような公的に承認された我らが時代のドグマからの逸脱は、逆に、ワイアード誌の創刊者の1人であるケヴィン・ケリーには耐えがたいものであった。その記事では、ケリーはワイアード誌の「専任テクノ楽観主義者」と呼ばれている。ワイアードの記事が、大げさに言えば、きわめてバカげたトゥモローランドファンタジーを唱えているという無知さを考えれると、また、その結果生じた弱点を突けるようにセールが準備していたとしたら、彼はその対決を切り抜けられたかもしれない。

残念ながら、セールにも弱点があったので、ケリーは冷酷な残忍さでそこを突いたのであった。今昔の進歩批判者の多数と同じく、セールは工業社会の終わりなき物質的拡大を無限に続けることはできないと確信していた。セールが正しかったという強い証拠を上げられるが、しかし彼は先に進みすぎてしまい、すなわち工業社会はいずれすぐに崩壊すると確信してしまうという致命的な一歩を踏み出したのだ。それが、ケリーが目標とした弱点であった。テープレコーダーを動かし、ケリーは1000ドル分の小切手を取り出して、セールにそのような崩壊がいつ起こるか賭けるように言ったのである。セールは罠にかかり、賭けに応じた。選んだ日付は2020年であり、当然彼は負けた。

1つ注意しておくべき点は、セールはその勝負に完全に負けたわけではないということだ。彼は崩壊の指標を3点定めた: 1930年代よりも深刻な大恐慌をもたらす、ドルの価値の崩壊; 富者に対する貧者の叛乱; 前例のない頻度の環境的な大災害。セールは1.5得点を上げたが*2、けれども、賭けは3点すべてに対するものであったので、彼は敗北した。

その種の賭けは、無限の進歩の支持者たちの間では標準的なトリックである。そのようなトリックについて面白いと思うことは、私が耳にしたあらゆる事例で、賭けが一方通行であったということだ。

想像してみてほしい。反例として、セールがテーブルを引っくり返したとしよう。「ノー」彼はこうも言ったかもしれない。「別の賭けをしよう。キミの雑誌が言っているような未来 - 核融合スペースコロニーその他がいつ実現すると考えているのか、教えてくれ。そして、その日付を予想してほしい。それぞれに1000ドルを賭けて、どちらが正しいか確認しようじゃないか。」 もしケリーが2020年を選んでいたとしたら、そのような未来の非常にささやかなバージョンを指定していたとしても - 言わば、少なくとも1機の核融合炉が電力を供給している、少なくとも500人が地上を離れてフルタイムの生活を送っている - セールは今1000ドルを得ていたかもしれない。

この反例の問題点としては、1995年にワイアード誌の読者に対して、四半世紀後の未来にも核融合炉はいまだ未解決の問題であり、有人宇宙飛行は限定されたもので、ロケット先端の旧式カプセルで低地球軌道に行けるのみ、などといったことを言おうとしたら、読者投稿ページは罵倒で溢れたことだろう。当時の一般常識によれば、2020年までに我々は確実に宇宙への小さな一歩を踏み出しているはずだったのだから。セールがこのような賭けを要求していたとしたら、ケリーは今頃、セールに科したのと同じような無様な立場に置かれていたことだろう。もしケリーが賭けを拒否したとしたら、どうして彼は公の場でこれらすべての素晴しいことがすぐにでも実現すると主張し続けられただろうか?

この無様さの裏側には、我らが時代の最も言及し難い事実が隠されている。進歩がその約束を果たせなくなったことである。数十年前にさかのぼり、有資格者の専門家やマスメディアの厳粛たる予測を参考にして、2021年までに我々がいるはずだった世界と、我々が今現在いる世界を比較してみると良いだろう。違いは驚くべきものである。単に、未だ核融合スペースコロニー、設定上は2014年のバックトゥーザフューチャーのホバーボードに至るまで、その他何百もの実現していたはずのファンタジー的ガジェットが存在しないというだけではない。ここアメリカ合衆国では、乳児死亡率はインドネシアと同等であり、老朽化したインフラストラクチャーソビエト連邦の晩年を思い起こさせ、政治システムは、通常、大変動に先立つある種の強固な硬直状態にあるという事実も注目に値する。

これら何一つとして起こるはずではなかった。過去50年の有識者の専門家とされる人々の公的に承認された発言によれば、我々の未来には2つの選択肢しかないとされてきた - 核融合スペースコロニー、そしてすべての人々に豊かさを与える輝かしいテクノロジーのワンダーランド、もしくは大変動の絶滅への迅速な墜落である。バッキー・フラーの印象的なフレーズによれば、我々が直面するはずだったのは、ユートピアと虚無の間の選択であった。(私は時々、そのレトリック上のトリックをフラーの誤謬と呼ぼうかと考えたこともある。) 後者の終末論的なオプションが、常に承認された物語の一部であったことは奇妙に思えるかもしれないが、けれども、非常に正当な理由が存在する。ケヴィン・ケリーのセールに対する賭けは、その理由に対して明確な光を当てている。

これらあらゆる終末論的な予測のポイントは、結局のところ、失敗した進歩の物語よりもさらに不正確であるということだ。進歩の擁護者は、トレーニング中のボクサーがサンドバッグを必要とするように、終末の物語を必要とする。突然の大惨事を予想して誤った予測をしてしまった人を常に指摘し、「ヤツらがどれほど間違っていたかを見てみろ!」と繰り返すのである - そうすれば、自身の予測が完璧なまでに間違っていたことから注意を逸らさせ、他のあらゆる予測よりも更に不正確な最新の "絵に描いた餅" の約束を、人々に信じさせ続けられるかもしれない。

終末論的ファンタジーは、したがって、進歩のレトリックにおいて中心的な役割を果たす。それは脚本の一部であり、進歩の勝利を描く道徳劇の敗者が口にすべき決まり文句の中で重要な位置を占めている。もしもあなたが今日の工業諸国の背信者であり、進歩のプロパガンダを信じていない場合、それと同程度に誤りである終末論の誤謬を信じるようにと、かなりの強さのプレッシャーを受けることだろう。約14年前、工業諸国の未来についてのブログを書き始めた時から、私はこのプレッシャーにいつも対応しなければならなかった。ことによると、もしも私がアスペルガー症候群から来る複雑な長所を持っていなかったとしたら - それにより社会的プレッシャーに対して多かれ少なかれ無頓着になる - 私もずっと前に同じ罠に囚われていたかもしれない。

この先数年間、終末論の物語がさらに激しく宣伝されるだろうと予期しているが、それには十分な理由がある: 我々の社会の甘やかされたエリートの外にいる人々には、進歩の世俗的神話を信じることはますます困難になっているからだ。多くの人々がそれを完全に認めるとは思わないが - 少なくとも今は。たぶん今後数年はそうだろう - けれども、外れることを意図した終末論的な予測を振りかざせば、進歩の予測がさほど間違っていないように見えるだろうか? それは成長産業になるだろう。

それが成長産業となるのは、逆に、代替案が我々の選択が実際に引き起した未来に向き合うことであるからだ。結局のところ、未来予測はそれほど難しくない。進歩カルトのバラ色の眼鏡、もしくは終末カルトの灰色の眼鏡を着けていない限りは。例として、これは50年前に書かれた予測である。読者諸君は、この予測と今日我々が済む世界を比べられたい。

「衰えぬ進歩という輝かしい宣伝は、公的機関から雨のように我々の上に降り注ぎ続けている; あらゆるトンネンルの終端には、常に、よく研究された明るい予測が存在している; 多くの真の豊かささえ存在するだろう; けれども、セールスマンが約束した通りにうまく働くものはない; 組織的混乱と官僚的機能不全、絶え間ない環境的な緊急事態、スケジュール遅延の政策、ショートした回路の混乱、パイプラインの目詰まり、通信の途絶、過剰な社会サービスにより、豊かさは失われるだろう。データバンクは誤情報のジャングルになり、コンピュータは慢性的な電気精神病に苦しむだろう。正統な楽観主義の装飾にもかかわらず、その光景は間違いなく寂しく見苦しいだろう。未来的なファサードの後でものごとが緩んで崩壊を始めたとき、隅に瓦礫が蓄積し始めたとき、それは万国博覧会の最終日のようでさえあるかもしれない。クロムは汚れ出し、ネオンライトは切れて、あらゆるスイッチとボタンは動かなくなる。あらゆるものがプラスチックだけが持つはずの不快な粘着性を帯び、古びることも輝きを止めることも想定されていないものごとの見た目だけは、明るく、洗練され、完璧なものであり続ける。」

これは1972年の本『荒地が終わる場所』からのセオドア・ローザックによる技術社会の未来の予測である。その忘れられた時代の思慮深い他の作家たちと同じく、彼は永続的な進歩と突然の崩壊という偽の二分法の外側に出て、周りの世界をよく見て、その世界がどこに向かっているのかを明確に理解することができたのだ。進歩と終末の真の信者たちとは異なり、もちろん、彼は正しかった。

それと同じ時代になされた最も誤解されている将来の予測、1973年の『成長の限界』により、同じ点を等しく説明することができる。その悪評高い本には、未だ多くのナンセンスな批判が投げかけれらているので、厳しい限界のある有限な惑星で無限の成長を目指した場合に工業文明に何が起こるのか、著者たちが最善を尽して推定したスタンダードモデルを再確認しておく意義があるだろう。

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成長の限界』のスタンダードモデル。今なお最も正確な未来予測である。

このグラフは私の読者諸君には間違いなくお馴染みであろうが、2つの点は繰り返し述べておく意義がある。1点目は、これは急速な崩壊の予測ではないということだ - あるいは、更に言えば、何らかの崩壊ですらない。むしろ、没落の予測である。天然資源は徐々に減少し、食料供給と人口は長くゆっくりとした曲線で上下し、全世界の工業生産量はそれよりも急激に上昇し減少するものの、それでも2050年でも1950年より大幅に大きな値を示す。T.S.エリオットのフレーズを借用して言い換えればこう言えるだろう。「かくて進歩の終わり来たりぬ 地軸くずれるとどろきもなく ただひそやかに」

言い換えれば、もしケヴィン・ケリーが『成長の限界』の著者たちを待ち伏せして、世界の突然の崩壊が起こる期日を言うように求めたとしたら、著者たちは彼に対して疲れた表情を見せて、我慢強く説明をしなければならなかっただろう。けれども、私が目撃した他の類似事例から判断するならば、その説明はケリーの頭の上を通り過ぎてしまっただろうが。更には、このグラフはその書籍の中の1つの事例を示したものに過ぎない; スタンダードモデルは当時著者たちが得られた最善の情報を反映したものではあるが、しかし彼らは、世界の資源供給量が1972年における推定値の最大量であることが判明した場合のモデルも実行したのである。(ネタバレ: 曲線の形は同じであり、若干長い時間を要し、上昇は少し高くなり、下降は少し急激になる。)

2点目は、この誤解された悪評高い我らが未来についての見取り図は、当時と現在に散在する許容可能な代替案のいずれよりも、はるかに正確であることが判明したということである。絶え間ない進歩の預言者による大げさな演説にもかかわらず、核融合炉、スペースコロニー、およびその他すべての人類の全能性を表す安易な夢想を備えたすばらしき新世界は、1970年代初頭と同じく遠い未来にある。その点について言えば、差し迫った破滅の預言者による大げさな演説にもかかわらず、我々はまだここに居る。一方で、セオドア・ローザックが予測した慢性的な技術的失敗の悲惨で見すぼらしい世界は、宣言通り定刻に到着し、人口、資源減耗、食料供給量その他の無慈悲な曲線は、かなりの程度の正確さで『成長の限界』のスタンダードモデルが描いた通りの軌跡を辿り続けている。

したがって、我らが時代の想像力の中で場所を見つける必要がある概念は、我々はトゥモローランドや黙示録の瀬戸際に生きているというものではなく、我々は進歩の最晩年に生きており、私が長期没落と呼んだ時代の幕開けにいるという概念である。我々の目の前で身構え、飛び出さんとしているのは、進歩と終末の双子のファンタジーとは何の関係もない。関係があるのは、他のあらゆる文明の黄昏を満たした、長く、ゆっくりとした、不均一な没落である。ワイアード誌のような場所では、他の失敗した啓示的宗教の真なる信者に見られる不安な熱意を備えた、いつもと同じ古いテクノフェチな夢想が唱えられ続けるだろう。けれども、衰退の兆候を無視して、それらすべての20世紀SFの棚ざらしの決まり文句が近いうちに実現すると信じ続けるためには、ますます強い労力を要することであろう。

その一方で、工業文明の没落のペースは年を追うごとに少しずつ加速していき、それら小さいながらも累積的な増分が加えられていく。新たなテクノロジーは市場に登場し、あちらこちらでブレークスルーが起きるだろうか? もしかすると、人類は再び月面に降り立つだろうか。もちろん起こるだろう。けれども、それらは加速する劣化と経済収縮を背景として起こる。そこでは、最先端のテクノロジーは、ますます問題を抱える時代のゆっくりではあるが止まることのない下降を完全に上回ることはできず、名目上の経済発展は、蔓延する貧困およびゆっくりと崩壊するインフラストラクチャと快適に共存する。専門家と政治家たちは、進歩は今でも続いていると堂々と主張する一方で、直近の過去のつかの間の勝利は、次第に記憶の中へ、そして伝説の中へとフェードアウトしていく。

けれども、ワイアードの誌面や、偉大なる神プログレス様の必然的勝利を賞賛する場では、我々がどこに向かっているのか、そして、それは正気の人間が向かいたいと望む場所であるのか、という真剣な省察が行われている場を見つけることはできないだろう。あるいは、 もちろん、終末論的な主張が流行っている場所でも、それが取り上げられることもない。人々の生活において最も明白な現実についてほぼ誰もが公に語りたがらないのは、極限状態にある社会の確かなサインである。そういうわけで、読者諸君、心の準備をしておくと良いだろう。我々の前には険しい道程があるのだから。

Rebels Against the Future

Rebels Against the Future

*1:これは モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル のネタ

*2:1点目の「ドル価値の崩壊」は誤り、2点目の「貧者の叛乱」は正解、3点目の「環境的大災害」は引き分けとされた。