Going Faraway

渡辺遼遠の雑記帳

翻訳:アメリカとロシア: タマヌースとソボルノスト (ジョン・マイケル・グリア)

以下は、ジョン・マイケル・グリアによる"America and Russia, Part Two: The Far Side of Progress" の翻訳です。

パート1, 2はこちら



America and Russia: Tamanous and Sobornost

この連載の最初の2つのエッセイでは、オズワルト・シュペングラーのビジョンのフレームワークを説明した。それは、偉大なる諸文化が勃興し、それら自身の可能性を通して活動し、ひとたびそれらの可能性の限界に至ると化石化するというプロセスである。この歴史観は、西洋工業社会、シュペングラーが命名したファウスト文化で育った人々の間に、かなり確実に深刻な不快感を起こすだろう。ファウスト文化とは、西暦1000年ごろに始まった西・中央ヨーロッパで生じた偉大なる文化であり、一時的に全世界を支配している文化である。ファウスト文化の人々は歴史を、これとは異なるかなり単純な方法で捉えることを好むからだ。

ファウスト文化の世界観からは、世界の文化がそれぞれ独自の可能性、独自の価値観や洞察および世界の捉え方を持ち、いかなる単一の軌道にも縮小させられないということは理解不能である。ファウスト文化の世界観では、人間にはごく限られた範囲の可能性しかなく、それはファウスト文化自身によって定められるものである; それ以外のすべての文化は、ファウストのモデルに近付くための不完全な試みとしてしか見られない。相異なっていても同等に正当な、複数の価値観と洞察と世界の捉え方が存在するなどということは、考えられない; 単にファウスト的な方法のみがあり、それは自明な真実である。それ以外のすべての方法は、迷信であり、暗愚であり、明白な誤りである。(今日の西洋文化圏のエリートの価値観を共有していないからといって、過去世代の作家を非難する"イデオロギー的に正しい"文学批評家を見てほしい。この種の直情的な自己中心的思考が不名誉なほどに満開に開花していることが見られるだろう)

まったく同様に、ファウスト文化的な精神を持つ者にとっては、歴史が勃興と滅亡の異なる軌道の連続で構成されるという考え方は受け入れられない。唯一の軌道のみが存在し、それは洞窟の野卑と無知から始まり、自身と他者の差異に基づいて判断しまたは願望を発見して様々な文化的な形を探し回る。そしてその後、ついに唯一の真なる進歩の道を見つけ出し、宇宙進出の必然的運命へと向かって自信満々に上昇していくのである。ゆえに、シュペングラーのアイデアがほぼ確実に引き起こす反応が、狂ったほどに若さの幻影に執着する中年の人々の集団に対し、全員がすぐに老いて死ぬのだと指摘した場合と似た、神経質な笑いに続く怒りの反発であることはまったく驚きではない。

ファウスト的ビジョンを真に信じる者たちがたった今直面している問題は、逆に正確に世界がもはや彼らの夢想を満たすものではないということだ。いくつかの狭い分野でテクノロジーの発展は続き、独自の可能性を通して働いていくだろうが、西洋世界の現代的生活を形作る人工物の大半は1世紀またはそれ以前に描かれたパターンに沿っており、実質的な生活水準の広範な低下はここ数十年進行中である。また、最近一番激しく喧伝された勝利のいくつかは、既に手の届かないところへすべり落ちている。来年 [注: 2019年]、我々は人類最初の月面着陸から50周年記念を祝い、自尊心を満たすごまかしをたくさん得られるだろう; どれだけの人が、来年は人類が最後に月に足跡を残してから45周年となることを、あるいはそれ以来誰一人として低地球軌道を超えていないということを記憶しているのだろうかと思う。

近年の20世紀中盤の未来ファンタジーのあらゆる定番ネタの焼き直し --宇宙旅行、空飛ぶ車、ロボットによる人間の労働の代替やその他もろもろについてハッタリめいた与太話は、私の子供時代のマンガ本やペーパーバック本でさかんに取り上げられていたものだ --これらは、バーコードヘア、フェイスリフト、バイアグラやボトックスとの文化的な同等物と見なせるだろう。老人が、自身はもはや保持していない若さの残骸に執着し、老化とはただ自分以外の人々だけに起こるものだというフリをするための狂気じみた試みである。同じ動機により、大学は西洋文明の芸術的・文化的遺産の研究を放棄している: これらを最近のエピゴーネンと比較してほしい。そうすれば、アンディー・ウォーホルとジョン・ケイジが、たとえばレンブラントやバッハからの何らかの進歩を体現しているのだという主張が、どれだけバカげているかが不愉快なまでに明白になるだろう。

星々へと向かう偉大な進歩の行進は今でも継続中だという安易で空疎な主張を超えたところでは、それに反する根拠の山が成長を続けている。そこで、シュペングラーのビジョンは遠い将来を理解するための意味のある方法を提供する。歴史の循環的性質について論じた他の古典的な著者たち--ジャンバティスタヴィーコとアーノルド・トインビー--と同じく、シュペングラーは未来を垣間見る鏡として過去を捉えていた: 創造的ポテンシャルの疲弊; 永続的な正典を生み出すための過去の科学的、文学的、芸術的アチーブメントのふるい分け; 不可逆的な経済的・政治的衰退の到来、それ他のもろもろ。

その軌道の向こう側には、独自の価値観と洞察と世界の捉え方を備えた、新たな文化の出現がある。過去1世紀程度の思想家は、ファウスト文化の故地であるヨーロッパ東西の地域に平行して、そのような新たな文化が2つ出現する可能性が高いと指摘している: ヨーロッパロシア、特にヴォルガ川沿岸; そして、アメリカ北東部、特にオハイオ川沿岸と五大湖を含む領域である。私の考えでは、これらを考察し、未だ誕生していない大文化の形を想像してみることには意義があると思う。

アメリカとロシアの間には特筆すべき共通点が存在し、またそれと同じくらい重要な差異も存在する。共通点から始めよう。両者ともに、拡大するファウスト文化が、かなり単純なテクノロジーを使い自然界と安定した関係を保っていた部族文化と相対した境界地帯に発生した。北米とシベリアの部族文化は、今では消滅したベーリング地陸橋を通じて遺伝的・文化的に関連を持っており、またそれらの部族文化を部分的に奪い、部分的に吸収した拡大するファウスト文化ヘの影響は、重要な共通点である。更には、フロンティアの経験がある。ヨーロッパの限られた地平線からは決して得られない、信じがたいほどに広大な空間との出会いは、両方の文化を類似の形に作り上げた。

同時に、2つの文化の遭遇を区別する重要な差異、そして双方が極めて重要な場所を占めている広い歴史の中での決定的な違いがある: 時間の差異である。ロシアの偉大なフロンティア拡張時代は、16世紀から17世紀に起こった; アメリカでは18世紀から19世紀である。より一般的には、ロシアは英語話者の北米よりもはるかに長く一貫した文化的実体を備えている。ロシアは、外国からの文化的影響の最初の波を受け取れるほどに古い--シュペングラーの用語で、その最初の擬形態は--ビザンツ帝国を通じて中東のマギアン大文化の影響を受け、西ヨーロッパのファウスト文化からの2番目の影響を受けたのは、大西洋沿岸のヨーロッパ植民地が最初の存在段階を過ぎた時期であった。アメリカは、一方で、未だ最初の擬形態の末期にある。2回目の擬形態が独自の文化的形態の出現を促すまでには、何世紀かを経る可能性が高い。

時間の差異は、より大きな差異に対応づけられる。それは場所に関連している。シュペングラーの分析が強調する点として --そしてこれは、彼の研究の中でファウスト的な感性を最も強く批判する傾向にあるものだが-- 特定の大文化のあり方は、世界の特定の場所に結び付けられており、他の土地への移植は決して成功しないという点が挙げられる。たとえば、ファウスト文化のホームグラウンドは西・中央ヨーロッパであり、その領域外部で文化的形態や政治的支配を確立した場合の結果は、必然的にファウスト的エリート文化が非常に異なった文化的基盤の上を覆う形となる。我々が議論しているプロトカルチャーの両方でも、これが働いていることが見られるだろう; ニューヨークでもサンクトペテルブルクでも、インテリゲンチャと特権階級はヨーロッパ文化の動きの影響を受ける; 権力中枢から離れたオハイオ川とヴォルガ川の土手に沿った農村では、ヨーロッパの化粧板は仮に存在したとしても非常に薄く、田舎の土 (と魂) のより深いところに根を張った何かが表層に現れている。

聡明であるが無視された研究 『神は赤い [God is Red]』で、ネイティブ・アメリカンの哲学者ヴァイン・デロリア・ジュニアは、場所のスピリチュアルな重要性について長く論じている。場の重要性は、マギアン文化が暗黙的に理解していた--マギアン的な宗教は必然的に、特定の、地理的に特異な巡礼の中心地へと向けて配置される--しかしこれはファウスト文化がまったく理解できないことである。ファウスト的な精神にとって、ランドスケープとは英雄的な個人、その行いがファウスト的神話作りのパンとバターであるような個人の創造的意思に上書きされるのを待つ、空白の石版である。ファウスト文化では、場所ではなく空間について語ることが好まれることに注意してほしい: 独自のキャラクターと特性を備えた局所的な位置ではなく空白であり、少なくとも想像力の中では一時的にいかなる目的にも使えるようなところである。

あらゆる文化には盲点がある。これが我々の文化の盲点である。カール・ユングは、アメリカを旅していたとき、工場から労働者が出てくるところを眼にした。ユングのヨーロッパ人としての眼には、群集のメンバーの多数がはっきりネイティブ・アメリカンであるように見えた。そして、おそらくそこには一人もネイティブ・アメリカンは居ないとホストが主張するのを聞いて、ユングは驚いたのだ。両者とも正しい。土地は--あらゆる土地は、そこで生まれ育った人々の身体、行動および思考に独自の刻印を残す; ヨーロッパ人になろうとするアメリカ人の試みは、数世紀もヨーロッパで物笑いの種となっている。なぜならば、その結果は常にヨーロッパ人の耳には間違って聞こえるからだ。まったく同じことはヨーロッパ化されたロシアにも当てはまるが、ミスマッチのディテールは異なっている。ロシア人は異なる土地からの刻印を受けているためだ。

歴史と文化のディテールを反映したこの刻印により、我々が議論している2つの大文化の形態を垣間見ることが可能となっている。

それぞれ大文化は、シュペングラーが示した通り、独自のテーマに相当するものを保持している。その文化が重要と見なす問題を抽出し、また解決策へ向けてリソースを展開するための中心となる概念である。ファウスト文化の中心的なテーマは、無限の拡大である。新たな政治的大義や新たな食事法を思いついたファウスト的な思想家が、誰もが、どこであれ、その大義を受け入れてその食事を取らなければならないと主張することに気がついただろうか。我々の技術的な能力が、距離を消し去るための探求に強迫的に注力していることに気がつくだろうか; 横帆船から鉄道から自動車から飛行機からロケットに至るまで、腕木通信からテレグラフからラジオからテレビからインターネットに至るまで、すべてが直線を無限に伸ばすことに関連する。そこで、歴史のなかでただ我々の文化のみが芸術に線遠近法を使用していることは何ら驚きではない。

マギアン文化と比較してほしい。中東において何世紀も前に栄え、成熟し、永続形態へと定着した大文化である。マギアン文化の中心的テーマは、人間のコミュニティと神との間の関係である。ファウスト文化が外部の無限の空間へと向かう一方で、マギアン文化は内側へ、1人の特異な人間を取り巻く熱心なサークルを形成する。その特異な人間は、自身の言動を通して、天空からの同等に特異な啓示を伝えるのだ。使徒たちの中心にいるイエスや、教友の間にいるムハンマドを考えれば、基本的なイメージが掴めるだろう; アーサー王伝説のようなマギアン文化の擬形態であるような古典的作品にもそのテーマが反映されていることが分かるだろう。円卓の騎士たちの中心にいるアーサー王は、やや世俗化されたこのテーマを反映している。そうであっても、アーサー王の生涯の終わりからは、ファウスト的精神の最初の胎動を捉えられるだろう。彼は、墓の中で巡礼場所として仕える--マギアン文化の中心的人物の通常の運命-- のではなく、西の海を渡って消え去るのだ。「賢明な考えではない、アーサー王の墓[などというものは]。」と、古ウェールズ語のテクストは伝える。[19世紀イギリスの詩人] テニソンは、1000年後に同じテーマを反響させた。「深いところから深いところへと、彼は行く。」

他のあらゆる大文化にも独自の中心的テーマがあり、その基本的な存在のイメージを持っている。それらに興味を抱いた読者諸君は、シュペングラーの『西洋の没落』の中でディテールを発見できるだろう。しかし、ここでは未来に眼を向け、ロシアとアメリカの来たるべき大文化の中心的テーマを見てみよう。

もちろんここで言い訳が必要となる。私はロシア人ではない; ロシア文化に対する私の経験は、高校3年間のロシア語のクラス、その後のロシアの文学と歴史に対する若干の共感的な読書を通したものでしかない。私はロシアを訪れたことはなく、ユーラシア大陸の大ステップからヴォルガ渓谷を吹く風のささやきは、私の経験の外側にある。幸運なことに、未来のロシア大文化の形態についての疑問に取り組んできたたくさんの思索深いロシア人作家がいる。彼らの結論として、ロシア文化の中心的テーマは、英語では正確に対応する語が存在しない単語によって表現されている: ソボルノスト [sobornost; 露: Собо́рность] である。

もしも私がその概念を理解しているのであれば、--私が間違っていた場合には、ロシア人読者からの訂正を喜んで受け入れたいと思う-- ソボルノストとは、共有された経験と共有された歴史から生じる集合的アイデンティティである。それはマギアン文化の基本的テーマを提供する信仰コミュニティのように、上部から定義されるものではない。実際には、個人のアイデンティティの自然な実現のように、個別の人生のなかで有機的に育まれるものである。ソボルノストの文化では、各々の人の中心には、唯一の本質ではなく、全体との繋がりが存在している。伝統的なロシアの村落が連続した同心円として配置されていたのは、これが理由である。聖なる場所を中心として、その周りには家が、さらにその周りには庭があり、その外側を畑が、そして森が遠く離れたところまでを覆う: 村落のそれぞれの部分は、他者と形式的に等しくなるようなパターンで配置されている。

アメリカ大文化の最初の胎動は、今の時点ではかすかである--何ら驚きではない。アメリカ大文化の開花は、未来のかなり遠くで起きる可能性が高く、最初の擬形態を通り過ぎた後、2度目の擬形態が待ち構えている。そのかすかさを表しているのは、既にアメリカ文化をその他の社会から区別しているテーマを表現するための適切で明快な英単語が、未だ存在していないことである。土地はその基本的な影響力を放射し続けている一方で、人々はやって来て去って行くのだから、私はチヌーク族の用語を借用したい--北米大陸の北西部で使われたネイティブアメリカンの古い交易言語であり、かつてカリフォルニア北部からアラスカまで、太平洋からロッキー山脈の東側斜面までで話されていた言語である。それはタマヌース [tamanous] と言う。

ちなみに、tamanous は「tah-MAN-oh-oose」というふうに発音する。それは個人の守護霊であり、またその個人の幸運と運命である。非常に多くのネイティブアメリカン文化では、さまざまな伝統的実践を通して自身のタマヌースとの聖なる関係を発見し確立することが、人が取り組む第一の宗教的な行為である。またそれは成人となることの本質的な一部であるため、ほとんどの人々が当然のこととして行う。その結果は、他の誰とも似ていない宗教的なビジョンであり、ある個人と、同等に特異な個別のスピリチュアルな力との間のパーソナルな関係が舞台の中心を占めるものである。

私はかつてワシントン州エヴェレットの北にあるネイティブアメリカン保留地で、宗教的なセレモニーに出席する栄誉を受けたことがある。太鼓の轟きに合わせて、参加者たち --コースト・サリッシュ族と関係のあるいくつかの部族の男と女たち-- は、自分のタマヌースのダンスを踊るのだった。どの2つのダンスにも同じステップはなく、同じ動作もない; 各々が、太鼓の力に捉えられ、自身の特別なスピリチュアルな庇護者の性質と、授けられた才能を表現する。それがサリッシュ族の伝統的な信仰なのである -単一の包括的な力や組織化されたパンテオンではなく、スピリチュアルな存在との個人的な関係の輝く発揮である。それを共有する人間と精霊以外の誰かにとっては、必ずしも関連性があるわけではない。類似のパターンは他の多くのネイティブアメリカン文化にも発見できる。

アメリカの宗教史を見れば、マギアン擬形態の最後のスクラップから同じパターンが形作られているのが分かるだろう。伝統的キリスト教では、個人は普遍的なキリストの身体である教会の一部であり、共有された教義と実践により結び付けられている。アメリカにおいては、植民地時代でさえこれは壊れ始めており、イエスとの個人的な関係への注目と聖典の意味への個人的な直感によって置き換えられた。これはアメリカ土着版のキリスト教であり、パーソナルな変容を通して、イエスを自身の個人的守護者として捉えることを信徒に求めるものである。世代を経るごとに、それはクリスチャン的なビジョンの探求とますます類似のものとなっていった -そして、個人的な守護者とタマヌースとの間に何か違いはあるのだろうか?

より一般的には、西洋のファウスト文化から最初のはっきりとしたアメリカ文化の胎動を示す断層線は、すべて個人の自由リバティファウスト的精神に蔓延した力への意思との間の衝突に関わるものである。ファウスト文化の神話的ナラティブはすべて、真実を知るビジョナリーな個人と、彼の考えを強制的に受け入れさせられる必要がある無知で迷信深い大衆との間の衝突にまつわるものである。ファウスト文化の擬形態が支配しているところでは、ロシアでもアメリカでも、必然的に教育を受けた知識人のエリート階級が形作られる。彼らは、反抗的な大衆をいじめて威圧し、最新のファッショナブルなイデオロギーとなったものを毎週のお説教で受け入れさせようとする。

今から数世紀の間のロシアでは、そのような軌道はソボルノストのブロック塀と正面衝突するだろう。独自の永続的なパターンを復活させるため、ヨソ者の思想を脇へと押しやる強固で猛烈な反駁不能な集合的アイデンティティである。もしもシュペングラーと前述のロシア人思想家たちが正しければ、ファウストの擬形態の時代はほとんど終わりかけている。次の数世紀には、新生のロシア大文化がヨーロッパの遺産を揺さぶり、あるいは徹底的に再利用して、完全に異なる人類と宇宙のビジョンを打ち立てるだろう。そこでは、ソボルノストが中心的なテーマとして現れるはずだ。

そしてアメリカは? 我々はもっと長く進まなければならならず、別の擬形態を通過する必要がある。そうであっても、未来のアメリカ大文化の胎動は我々自身の時代にあっても追跡できる。というのは、ファウスト的思想を頭いっぱいに詰め込んだインテリゲンチャは、ロシアで発見できるのと同じくらいに、腹立たしいほど異なる人類と宇宙のビジョンと衝突しているからだ。蒙昧なる大衆に真実を啓示するビジョナリーな個人の役割を訴えようとする人々に対して、大衆は「それがあなたの真実であるならば、それに従えばいい。それは我々の真実ではない」と頻繁に言うようになっている。逆に、ダンスする民衆の側を詳細に調べてみると、どの2人も同じステップを踏んでおらず、同じ動作をしていない。

あらゆる人への1つの正しい道はない。それが、アメリカの大地がそこに住まう人にささやいてきたメッセージである。あるいは、メッセージの一部である。これはあらゆる人へ向けたメッセージではない--もう一度言えば、それぞれの大文化には独自のテーマがあり、未来のアメリカ大文化の中心テーマは、それ以外の文化によるテーマと同じく、普遍的なものではない。今から1000年後、ソボルノスト文化とタマヌース文化間の不整合は、巨大な政治的現実と化すかもしれない。ちょうど、西暦1600年ごろのマギアン文化とファウスト文化との間の基本テーマの解決不能な衝突のように。それでも、しばらくの間はこのメッセージは注目に値する。

唯一の真なる信仰というマギアン文化の伝統と、ひとたび発見された真実は何であれ宇宙の限界まで拡張されなければならないというファウスト文化の主張への未練がましいノスタルジアの間では、それは多くのアメリカ人が耳を傾けることが困難なメッセージである。けれども、アメリカ人たちは過去3世紀の間にますますそのメッセージを聞くようになっている。アメリカのファウスト擬形態が壊れて海へと帰っていくにつれて --ちょうど今、クリティカルな段階に達したように見えるプロセス-- そのメッセージは広がっているように見える。あなたは自分のタマヌースの働きかけに従うことができ、私は私自身のタマヌースに従うことができる。そして、我々が同じダンスを踊っていないという事実は、我々2人にとっての関心事ではない。

その認識は、政治的・文化的に重大な含意を持つ。この先の数週間で、それらのうちのいくつかを描き出したいと思う。

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