Going Faraway

渡辺遼遠の雑記帳

翻訳:シャルル・フーリエとレモネードの残り香 (ジョン・マイケル・グリア)

ジョン・マイケル・グリアによる2020年12月2日の記事 "A Faint Whiff of Lemonade" の翻訳です。

A Faint Whiff of Lemonade

このブログ、エコソフィアの先週の投稿では、グレート・リセットについて議論した。世界経済フォーラムおよびその他エリート演説者集団により現在総力を挙げて宣伝されている、新規でイノベーティブであるとされるグローバル経済改革の提案である。そのプログラムについて最も強い印象を受けた点は、前回記した通り、そのすべてが驚くほどに時代遅れなものであったことだ: すなわち、初期のソビエト連邦の焼き直しの、私有財産の完全撤廃、侵入的な監視国家、巨大かつ非人間的な官僚機構に対する全面的依存、労働者の楽園ではあらゆる人々が幸福であるという追従的なプロパガンダ。現代史を知る人にとっては、懐しい思い出のようでさえあった。

けれども、ブログのコメント欄で、グレート・リセット、および最近のポップカルチャーエンターテインメントとして流通している作品の中にある多数の類似物についての議論が始まったとき、世界経済フォーラムスターリニズム2.0への熱意の下に、はるかに奇妙で興味深いものが潜んでいることに私は気付いたのだ。グレート・リセットの根底をなす中核的なアイデア、および、言うまでもなく、今日の企業貴族により販売されているあらゆる種類の無知なトゥモローランド的ファンタジーの排出物においては、ソビエトイデオロギーからの借用がまったく存在しないのである。また、その他の多数のアイデアも、スターリンの下僕たちがそれを手にしたときには、既に中古品だった。それらのアイデアが最初に新品状態で発表されたのは、更にその1世紀前、もっと奇妙な所からだったのである。

エスシャルル・フーリエについて語る時が来た。

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シャルル・フーリエ

フーリエこそが、近代社会主義を発明した男である。現在、そのことを知るためにはかなり掘り下げなければならないし、フーリエの思想の完全な説明を見つけるためには更なる労力が求められるだろう。その理由については、後述する。フーリエは、1772年にフランスのブザンソンで地元の商家の息子として生まれた。父親が亡くなった後、彼は遺産をかなりの短期間で浪費してしまい、しばらくの間仕事を転々とした後、行商の職にありついた。彼は生涯未婚であった - 一生にわたって、金銭の支払いのないセックスパートナーがいなかった [要は、素人童貞だった] という噂があった - そして、余暇には完璧な社会のアイデアを考えることに時間を費した。彼の最初の本、『四運動の理論』は1808年に出版されたが、ごくわずかな部数しか売れなかった。

フーリエにとっては幸運なことに、奇矯な金持ちにより書籍が購入され、その金持ちはフーリエパトロンとなった。それによって、フーリエは執筆と自身のアイデアを世間に売り込むために必要な収入を得られた。1815年にナポレオン戦争終結し、続いてヨーロッパに保守主義が復活すると、より良い新社会が実現できると信じたい多数の人々に対して、彼のアイデアは強い魅力を放ったのだ。フーリエは、未来社会の基本単位はファランステールとなると提唱した - 現代的な言い方では農工業コミューンであり、そこではコミューンの人々が使用するあらゆる生産手段とあらゆる財産が共有される - そして、数十ものファランステールが正式に発足した。特にアメリカ合衆国には多数存在したが、そこに限られるわけではない。

彼らに何が起こったのかを話す前に、フーリエのアイデアの世界に飛び込むことが必要となる。フーリエによれば、無数の世界が「星間アロマ」から凝縮され、それら世界とその住人は、野蛮[Savagery]、未開[Barbarism]、文明[Civilization] (すべての中で最悪)、そして調和[Harmony]という予め定められた一連のステージを経るとされ、文明状態の惑星の知的存在がフーリエの哲学を受け入れると即座に調和の段階に達するとされる。文明と調和の違いは、調和の状態では、経済活動は競争ではなく協力的であり、私有財産は共有に取って代わられ、人々は貧困や欲望からではなく、情熱的な魅力により働くよう動機付けられているということだ。フーリエによれば、この変化により労働効率が4倍に向上するため、調和状態にある社会では、それぞれの市民のごくささやかな労働だけで、あらゆる人々に途方もない豊かさを提供できるのだという。

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ファランステールはこのようになるはずであった

未来のファランステールでの生活に関するフーリエの説明を読めば、彼の作品がなぜ大きな熱狂を呼び起こしたのかとても簡単に理解できるだろう。フーリエの主張によると、人間には12個の基本的感情が存在し、それが組み合わされて810個の性格タイプを形成する。それぞれの性格タイプを備えた人は、何らかの生産的な仕事に情熱的に惹きつけられる。そして、性格タイプの分布はしかじかの通りであるので、十分な規模の集団には必要なタスクをすべてこなすだけの人が存在するのである。調和状態下の労働効率はきわめて高いため、彼が想像した未来の人々は、1日のうちでごく短い時間しか働いておらず、また、各々の人はその人自身の性格タイプによって定められる仕事に情熱的に惹かれるのであるから、不満や不幸が存在する余地はない。残りの時間は、食事 - フーリエの用語では「ガストロソフィ」に当てられる。それは純粋芸術の一種となり - また、乱交セックスになるのだという。

それだけでは不十分だとでも言わんばかりに、フーリエは、ひとたび調和状態が実現すれば、世界自体も変容すると主張した。宇宙のクエン酸の雲が星間アロマから凝縮されて降下し、海がレモネードへと変わる。4つの新たな月が太陽系のどこかの隠れた場所から現れて街灯を不要にする。「北方コロナ」が北極点を覆い熱を放射してアラスカ、シベリアその他の不毛の大地を実り豊かな農業地帯へと変貌させる。一方、類似の「南方コロナ」が南極大陸に対して同じことを行う。それから、ライオンは平和な、菜食主義のアンチライオンとなって人間が乗りこなせるようになり、クジラはアンチクジラとなりレモネードの海で喜んで船を引くようになる。人間は144年の寿命を得て、そのうち120年間は性的にアクティブなままで過ごせるのだ。

このすべてが、精神錯乱的に見えるかもしれないが、西洋思想改革の立役者としてのフーリエの役割を示している。彼以前の時代には、千年王国 - 我々が住む不満足な世界は、すぐにでも望み通りの世界で置き換えられるという信念 - は、宗教的観念であり、奇跡的な事象で満たされ、西方教会を中心として周囲をキリストの再臨にまつわる信仰に囲まれていた。フーリエは、現代の世俗的千年王国の偉大なる伝統の創設者であり、彼の時代以降の人々はあからさまな宗教的要素の恩恵を抜きにして完璧な世界が実現しうると主張できるようになった。時代の先駆者であることから十分予想できる通り、フーリエは古い時代の伝統に囚われていた; アンチライオンは、来たるべき平和な王国のキリスト教的イメージを想起させる。けれども、エマヌエル・スウェーデンボリその他の異端思想家を見てみれば、乱交セックスに関して何らかの類似点を見つけられるかもしれない。

つまるところ、フーリエは、未だ多くの人々が、より良い世界という約束を望んでいたにもかかわらず主流派宗教からもたらされる理想世界のイメージをもはや信じられなくなった時代に、世俗的な麻薬としての再臨、それに加えてセックスとレモネードを提供したのである。来たるべき輝かしい未来についての彼のビジョンは、それゆえ、多数の人々を魅了し、調和の未来を構築する仕事へと身を投じさせた。彼らは、ファランステールを築くための資金を集めてフーリエの理論をテストしたのであるが、そのテストには確実に合格できると確信していた。情熱的な魅力? 確かに彼らはそのような大きな情熱を持ち合わせていた。そして、そのような莫大な努力を注いだ結果は…

はい。明日、海辺へ行かれる際には、非常に申し訳ないのですが、ご自身でレモネードをご持参くださいと申し上げなければなりません。

実際問題として、フーリエの理論は完全なる失敗であり、あらゆるファランステールは創設者がプロジェクトのために集めた資金を使い果たすと、即座に崩壊した。問題は、当然、フーリエ義経済は機能しないということだった。労働生産性の4倍の向上は見られなかった - まったく逆に、人々が仕事に情熱的な魅力を感じる間だけ働く場合には、賃金のために働き、雇用の継続が仕事の達成に依存していることを理解している人々よりも、はるかに効率が悪化する傾向があった。

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ルイーザ・メイ・オルコット

また、フーリエが主張した通りに、人間の性格タイプが異なる分布をしているために、あらゆる仕事について誰かしらが魅力を感じるというわけではなかった。まったく逆に、人々は面倒な仕事よりも簡単な仕事に情熱的な魅力を感じるため、面倒な仕事は放置された。(あるいは、それらの仕事は女性によって行なわれるのであった。フルーツランズ *1 - その地の住人の間では、若きルイーザ・メイ・オルコット *2 (父親のブロンソン・アルコットが創設メンバーであった) と同程度に名の知られたファランステール - が崩壊した後、彼女が苦々しく思い返している通り、男性たちが集まって、詩作その他のさほど労苦のない仕事を情熱的に果たしている一方で、妻たちは、これまで通りに時間通り夕食の準備や洗濯をすることを期待されたままであったという。)

それがフーリエ主義の終焉であった。19世紀後半にもフーリエのアイデアを再構築する試みが存在したものの、それらの試みは最初の流行よりも先に進むことはなく、元々の計画に参加した人々は、その失敗が無視できなくなるにつれて可能な限りの距離を取った。フーリエの思想は、1960年代に抜粋版アンソロジーが出版され、前衛的な知識人集団のなかで小さいながらも影響力のあるファンに発見されるまで、ほぼ完璧に忘れ去られていた。 (フーリエは、LSDをキメている分には完璧に筋の通った思想家であるため、そのことは私にとってはまったく驚きではない。) けれども、基本的には、フーリエの再評価は60年代以降には続かなかった; 今日では、未だ現存するフーリエ主義の擁護者は、ピーター・ランボーン・ウィルソンであろう。フーリエに関する彼のエッセイでは、レモネードの海に関するフーリエの話をあまりにも多くの人がバカにしていることに不満を述べている。それは、もちろん、もっともなことであるのだが、しかしウィルソンが満足するようなものだというわけではあるまい。

それでも、フーリエ主義の終わりはまた、社会主義の始まりでもあった。社会主義の初期の年表を見てみたまえ - 社会主義者として分類可能なサン・シモンの後期著作、救貧法改正を通して真正の協同組合を設立しようとするロバート・オーウェンの初期の活動、1830年代のリカード社会主義の勃興、その後のマルクス主義の登場。フーリエ主義運動が発端となり、プルードンマルクスの時代以前にさえ産業社会に対して絶大なインパクトをもたらしたことが理解できるだろう。本当に現実的な意味において、フーリエ主義運動は社会主義の苗床であり、フーリエ以降のあらゆる社会主義の理論と実践の潮流が、フーリエの約束のうちで、あまりバカげていない部分を実現する方法を発見するための探求に動機付けられていたと言える。

その結果生じたムーブメントの一側面は、最近のこのブログのテーマであるアメリカの魔術史とは反対の方向へ向かった。19世紀後期から20世紀初頭は、アメリカのコミューンの黄金時代であった - 誇大広告ぎみの1960年代における実験的コミューンは、実は二番煎じであったのだ - そして、その期間全体を通して、オカルティズムとニューソートのアイデアキリスト教千年王国信仰と混ぜ合わせたアメリカのオルタナティブスピリチュアリティ界でコミューン事業は広がった。現状維持に代わる実行可能な小さな代替案を創造する試みは、1世紀以上にわたって社会主義活動の主要テーマの1つであったのだ。近年それが絶滅した唯一の理由は、いかなるムーブメントであれ、繰り返される失敗のために継続が困難であるからだ。アメリカにおけるコミューンの平均寿命は2年であり、コミューンを始めた人の大多数は投資をすべて失なった。

何度も失敗が繰り返される理由は、きわめてシンプルである。非常に狭い1種類の例外を除いては、これまで私が関与したコミューンプロジェクトのすべてで、また、私が観察したプロジェクトの多くで、暗黙のうちに、自分たちが現実的に生産しうるより多くの物とサービスを消費できると参加者が想定していたのである。これは特に、農村へ回帰して自身の食料すべてを栽培することを計画したコミューン集団に当てはまる - そのようなプロジェクトは、かなり短い時間のうちに、自給自足農業は、産業経済で通常の労働を続けるよりも "労多くして益少なし" であることを理解する - けれども、その原則はより一般的に適用される。理論的には、そのような特徴はコミューンを本当に魅力的に見せる。実際には、それは失敗を必然とする。

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これがお探しのものであるなら、あなたはラッキーだ

それでは、1種類の例外とは何だろう? 宗教的な修道院生活である。禁欲的に信仰に奉仕する人々、貧困、独身、従順の誓いを進んで受入れる人々の集団が存在すれば、コミューン生活を確立して、それを続けられる。それは、聖ベネディクト [5~6世紀頃。『西欧修道士の父』と称される] や弘法大師の時代から、シェーカー教徒のマザー・アン・リーの時代 [18世紀] とその後に至るまで、多くの異なる宗教により何度も証明されてきた。修道院の誰もが、通常の消費生活水準を維持することを期待していない。快適な生活をまったく望んでいない人々の集団だから、最低限の生活必需品だけしか得られずとも、なお祈りや瞑想に使う時間を十分に取ることが可能なのである。

それを好ましく思うのなら、読者諸君、あなたはラッキーだ。数世紀以内に、それは外部で未来の流行となるだろう。工業文明が終わりを迎えていくにつれて、修道院生活は、暗黒時代における文化管理人というおなじみの役割を引き受けることになる。それが気に入らないのであれば、クラブへようこそ。ブロンソン・アルコットらと同じような困難に陥ることなく、コミューンから得られる利点を得る方法がある。ファランステールが崩壊し炎上した際、フリーメイソン、オッドフェロー、グランジなどの友愛結社が爆発的人気を得た理由は、コミューンが提供できると主張した拡張コミュニティと相互扶助を、深刻な経済的欠陥なしに提供できたからである。

そして、大規模な解決策を模索する政治運動としての社会主義の進化があった。それは、冷戦により全体主義共産主義と企業資本主義の二択を迫られるまでは、極端に創造的で多様な運動であった。けれども、その運命は、ほぼ間違いなく、予め定められたものであった。なんとなれば、共産主義には、他の社会主義運動が持たないアドバンテージを持っていたからだ。共産主義は、フーリエが、そしてその後のほとんどの社会主義者たちが答えられず残されていた2つの大きな問題に対して、ついに実行可能な答えを見つけたのである。思い出してほしい。フーリエにとって、調和状態を実現し、皆を永遠にハッピーにするためには、労働に対する情熱的な魅力だけしか必要なかったのである。ひとたび、あらゆる人々がフーリエ主義の素晴しさを認識し、レモネードの海のほとりで月が上がるのを眺め、友好的なアンチ・ライオンと愛人たちの集団と寄り添いさえすれば… 見たまえ。必然的に、大量のファランステールが創設され、社会は文明状態から調和状態へと変貌するのである。

暴力、弾圧、強制労働 - フーリエにとって、そられすべては調和が必然的に乗り越えるはずの歴史段階の名残りでしかなく、フーリエの世界観に入る余地はなかった。フーリエの確固たるユートピアのビジョンの帰結としては、当然、フーリエの影響下にあった社会主義運動に、新しい社会経済体制を確立するための実効性ある計画が欠けていること、および、新たな社会が確立された際、社会主義理論が想定する望ましい行動を人々に取らせるための実効性ある手段が欠けていることが挙げられる。この2つが、19世紀全体を通して社会主義の理論家と実践家が解答を見つけ出そうとしていた大きな問題であった。- どのようにすれば、人々に輝かしい社会主義の未来を受入れさせられるのか? そして、次に、人々をそれに沿って行動させるためには?

限られた状況においては、とても有効な解答もいくつか存在することが分かった。ただし、その場合、フーリエから受け継いだ社会主義の目標、そのほとんどを放棄することになったけれども。社会民主主義は一つの解答であり、社会主義を官僚制国家で置き換えて、フーリエがそうあるべきと考えたことを立法により人々に強制するものである; それには問題があるけれども、社会民主主義は、ヨーロッパおよび世界中のいくつかの国で1世紀以上にわたって有効であり続けており、多くの人は制度を好んでいるようだ。民主サンディカリズムも別の答えである。それは、労働者所有企業と労働組合を通して賃金階級を組織化し、それを用いてフーリエが考えていたことと似た変化を起こすものである; それにも固有の問題はあるが、1世紀以上にわたって有効であり、今日でも多数の国において重要な力を持ち続けている。

既に述べた友愛結社も存在する; 今では時代遅れであり、特有の問題も存在する。けれども、当時は途方もなく効果的なシステムであったのだ。膨大な人々に保障と相互扶助を提供し、加えて政治的な影響力をも提供した。(その当時の一例として言及しておかなければならないのは、農民の友愛結社であるグランジ [今で言うところの農協組合] が、19世紀後期のアメリカにおける鉄道の独占支配を崩したことが挙げられるだろう。) 最後に、フェビアン社会主義も存在する。これはイギリスの社会主義者の一派であり、富める人々に対して、自身の富と地位を維持し続けるために最高の方法は、、賃金階級への「上からの社会主義」を施すことだという説得を試みた人々である。その答えにも、同様に、固有の問題がある。また - まぁ、これはすぐ後で述べよう。

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一つの方法

社会主義史へのウラジミール・レーニンヨシフ・スターリンによる偉大な貢献は、はるかに効率的な選択肢が存在すると証明したことにある。その選択肢とは、もちろん、巨大規模の残酷な組織的暴力である。もしも人々が輝かしい社会主義の未来に参加したくないと思うのなら、そいつらを射殺しよう; 人々がマルクス主義の理論が言う通りに行動しないのであれば、やつらを強制収容所に送り、死ぬまで強制労働させよう。ヘイ、問題解決だ! それらは実行可能な解答であった。良い解答ではなく、フーリエマルクスが考えていたような類いの解答ではない。けれども、他の社会主義者たちが考えたほとんどすべての答えとは異なり、それらは機能したのである - 少なくとも、失敗した多数の社会主義経済がソビエト連邦とその衛星国家を破綻状態に追い込むまでは、また、中国を支配する老いた冷酷な男たちが、静かに社会主義経済を放棄し国家資本主義と自由市場の不恰好な混合体で置き換えるまでは。(その政治体制が長期的にも生存できるのかどうか、歴史の審判は未だ継続中である。)

少なくとも現段階においては、グレート・リセットを取り巻くスターリニストのレトリックにもかかわらず、世界経済フォーラムとその御用学者たちが、内的に矛盾した理論を実現するために、大量虐殺と強制収容所を利用しようとしているという兆候は見いだせない。彼らは、フェビアン社会主義運動の知的相続人に属しており、自身の富、影響力、および現代の集合的世論における立場を活用して、彼らが考える大衆の希望に施しを与える一方、自分たち特権階級の権勢を維持するような社会変化を大衆に受け入れさせることができると信じた人々である。

それでも、グレート・リセットにまつわる議論が思い出させるのは、シャルル・フーリエの知的DNAがフェビアン社会主義者の中に、広く言って、オルタナティブな思想の中に強く残り続けているということである。可能な未来はどのようなものであるかを検討し、その中から最良のものを選択しようとするという方法ではなく、完璧な未来を夢想し、それが実現可能だという理由を考え出すことが効果的な戦略であると人々が信じる時にはいつでも、レモネードの海の残り香が感じられる [シャルル・フーリエの思想の影響下にある]。ついでに言えば、政治シーンのいかなるところの活動家であれ、過去から学ぶことは何もないと主張し、また、同じことを何度も何度も繰り返しながら異なる結果を望むのは狂気の沙汰などではないと主張するときには、19世紀社会主義を作り上げたかつてのフーリエ主義者たちの残響を聞くのはまったく難しいことではない。彼らは、かつてのフーリエ主義者と同じように、実現不可能な理論を実行するためのトリックを次々と作り出し、新たな月が登りアンチライオンが登場するのをずっと待ち望んでいるのだ。

四運動の理論〈上〉 (古典文庫)

四運動の理論〈上〉 (古典文庫)

四運動の理論〈下〉 (古典文庫)

四運動の理論〈下〉 (古典文庫)

*1:1840年代、マサチューセッツ州ハーバードに設立された農業コミューン

*2:若草物語』の作者である女流作家

翻訳:後ろ向きグレートジャンプ (ジョン・マイケル・グリア)

ジョン・マイケル・グリアによる2020年11月25日の記事 "The Great Leap Backward" の翻訳です。

訳者補足:
ダボス会議の主催で有名な世界経済フォーラム (World Economic Forum) は、今年6月、2021年開催予定の次期総会のテーマを「グレート・リセット」とすることを発表した。WEF自身の主張によれば、グレートリセットとは、特にCOVID-19のパンデミックにより明らかになった世界的な矛盾に対して、"協力を通してより公正で持続可能かつレジリエンス (適応、回復する力)のある未来のために、経済・社会システムの基盤を緊急に構築するというコミットメント"*1 と主張されている。
ところが、テーマ発表の直後から、「パンデミックを、不確かな社会実験のための機会として利用しようとしている」として、特にアメリカのSNSを中心にWEFは強い批判にさらされた。その中で、一部には、「グローバルエリートが、グレート・リセットという旗印の下に、意図的に新型コロナウィルスを世界に蔓延させ、その機に乗じて世界の既存政治経済体制を崩壊させコントロールしようとしている。」、「かつての共産主義国家のような監視社会を作ろうと目論んでいる」という陰謀論めいた主張も見られた。(以下の議論は、そのような陰謀論じみた議論が存在することを念頭に置いていると思われる)
グリアはこの記事で、読者からのリクエストに応じてグレート・リセットについての論評を行なっているが、若干不自然なほどに、その陰謀論に対しては言及を避けている。おそらく、グリア自身は、記事執筆のリクエストをした読者 (陰謀論を信じているであろう人) の認識に対して挑戦することを、直接的な意図としていないからであろうと思われる。
陰謀の真偽についてはさておくとしても、グリアが指摘している通り、グレート・リセットに対するさまざまな反応は、世界経済フォーラムの参加者をはじめとするグローバルな政治経済界のリーダーが、どれほど一般市民の問題意識や関心から乖離しており、どれほど憎まれているのかを示す良い証拠であるように思われる。また、彼らの語るテクノユートピアな未来像が、もはや人々から拒絶されていることも示している。
(なお、本邦に関して言えば、半年ほど前までは、コロナ禍を奇貨として日本政府も社会統制と監視を強める方向へ向かうのだろうと私も漠然と予想していた。しかし、現実の政府は、決断力を欠き、ITによる監視どころか疫学統計や給付金に必要な住民の把握ですらお粗末で、最も基礎的な行政力にも欠くありさまであった。日本政府は、陰謀論が成立する程度にはもう少しシャンと支配を行なってほしい。)

The Great Leap Backward

最近、最先端のインターネットを読んだことがあるなら、おそらく、グレート・リセットと呼ばれるものについての話を眼にしたことがあるだろう。グレート・リセットに関する私の意見を聞きたいというお願いを何度か受けたので、また、工業世界の未来の姿は長年の私の関心事であったので、喜んでこの問題を議論したいと思う。グレート・リセットの議論をまだご存知でない方は、デンマークの政治家、アイダ・オーケンによるこの短いフィクションが優れたスタート地点となるだろう。その元々のタイトルは (世間からの反発により現在では変更されているが) 意図されたテーマをとても上手く要約している: 「2030年へようこそ。私は何も持たず、プライバシーもない。そして、人生はかつてないほど良くなった。」

アイダ・オーケン
アイダ・オーケン

このタイトルから考えるに、オーケンは想像上の未来を素晴しい場所だと捉えていたことはきわめて明らかである。注意してほしい。彼女は、そのような意図はなく、単に議論を引き起こそうとしただけだと主張しているものの、率直に言うならば、私には信じられない。この物語のネバついて熱狂的で壮大なトーンは彼女の主張のウソを示しており、世界経済フォーラムをはじめ、主要な企業団体によって未来世界のテンプレートとしてインターネット上で拡散されたこと、および、エスタブリッシュメントの現代の御用学者集団から賞賛の声でもって迎えられたという事実については言うまでもない。誤解しないでほしい。これが、我らの同時代の企業官僚制を動かす実力者たちが、たった今、夢見ている未来なのである。

オーケンの想像上の2030年において、彼女は何も所有していない。というのは、何かが欲しい時には、単にオンラインで注文すれば即座にドローンが配達してくれるのだから。彼女は自分の下着すら持っていない。更には、すべてが無料なのである; 自分の家の家賃すら払う必要はない。なぜなら、外出している間には、誰かが家をビジネスミーティングのために使うからである。彼女は、24時間365日あらゆる言動を記録する電子的監視下にあり、誰もそのデータを悪用しないでほしいという形ばかりの希望にもかかわらず、彼女はそれを不安に感じてはいないようだ。彼女は、同じライフスタイルを受け入れていない人々、農村のコミューンや不法占拠した田舎の廃屋で過酷な貧困に追いやられて暮らす人々のことを心配しているものの、けれども、なぜその人たちが自身の生活をビッグブラザーに委ねず、 最高の ダブルプラスグッド 未来を共有しないのか、彼女には理解できない。

輝かしい未来
理論上はこう見える

オーケンの未来のなかで語られていないことは、そこで語られたことよりも更に示唆的である。もちろん、統計は意味をなさない - 最も楽観的な見積もりをしてさえ、日中時間帯に利用可能な住居の数に比べれば、毎週開催されるビジネスミーティングの数はごく少ないだろう。[あらゆる人の家賃が無料になるほどには、ビジネスミーティングの数は多くないだろう] - そして、何度も何度も指摘されている通り、もしも人々が望みのものを何でもタダで手に入れられるようになったら、人々を工場や農場で厳しい労働をさせるように動機付けることはまったく不可能であろう。もちろん、デンマーク議会に出席することは、それほど苦労のない良い取引だろうけれども。それでも、オーケンの偽ユートピアにおける一番の深刻なギャップは、政治的なものである。

彼女の想像した未来は、全体主義者の夢精といってもまったく過言ではない。私有財産とプライバシーの無いところでは、自由もないからだ。実際の人間の実際のモチベーションを組み合わせれば、その不可避の結末までの展開を想像することはまったく容易い。「申し訳ありません、オーケンさん。その本は不適切であるとマークされており、現在は利用できません。」「申し訳ありません、オーケンさん。多数の不適切な本をリクエストしたため、他の本へのアクセスが停止されました。」「申し訳ありません、オーケンさん。監視対象リストに掲載された人と会話したため、あなたの海外旅行はキャンセルされました。」「申し訳ありません、オーケンさん。ディナーの席での政府批判を止めない限り、あなたの食料割当量はカットされます。」「申し訳ありません、オーケンさん。あなたの家は別の家族に再割り当てされました。あなたを収容所へお連れします…」

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実際にはこう見える

現代史をよく知る人にとっては非常にお馴染みの光景だろう。私有財産の廃止? チェック。常時の侵入的監視? チェック。党官僚幹部の行動に対する、あらゆる個人的生活の依存? チェック。労働者の楽園における生活の素晴しさを称える追従プロパガンダ? チェック。つまりは、世界経済フォーラムが新しい、エキサイティングな、最先端の人類のゴールとしての未来を想像したとき、彼らとその子飼いのデンマークの政治家がなしうる最上の行動は、ソビエト連邦の再発明なのである。

このような想像力の莫大な失敗は、代わって、大きな重要性を持つ歴史的変曲点を示している。

私が最初にインターネット上でエッセイを投稿して以来15年以上にわたって繰り返し議論してきたテーマとして、進歩の市民宗教がある: もっとあからさまな神学的信念と同じくらい熱心に信じられている信念体系であり、新しいものは常に優れており、変化は常に良いものであるという信念、過去は反証され、昔の習慣は単に時が過ぎれば時代遅れとなる、そして、歴史というのものは、過去の無知な卑しさから、宇宙の星々の間のどこかで輝かしいガジェット中心の未来へと、必然的な軌道を辿るという信念である。 その信念は、我々の社会の国教である。その信念を拒絶するほどの独立心を持つ人は、他種の盲信的信者に厳しい質問をしたときに受けるであろう反応と同じ種類の、困惑した激怒に直面することであろう。

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なんと素晴しい未来に我々は住んでいることか!

最近、そのような困惑した激怒がありふれたものになった理由は、ここ数十年、進歩がその約束に対して正確に応えていないからである。2020年の生活には、本来あったはずのドーム型都市や宇宙移民が存在しないだけではなく、そう遠くない昔にはあまりにも放漫に約束されていた、物質的な豊かさが欠けている。2020年の生活は、直近の過去の生活と比べてさえ、決定的にみすぼらしく見える。洞窟から宇宙へ至る進歩の偉大なる行進は、汚れた、暴力的な、機能不全の都市、永続的な田舎の貧困、朽ちたインフラ、破綻した公衆衛生、そして日常生活に蔓延した荒廃という未来をもたらすとは考えられていなかった - けれども、それが我々の居る場所である。

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今度こそうまく行く

人間の本性の常として、進歩の市民宗教の預言の失敗に対する最初の反応は、同じ預言を"倍プッシュ"することであった。ひとたび、偉大なる神プログレス様が約束されたユートピアへと導いてくれれば、いずれすぐに素晴しい未来が我々のものとなるだろうという、いっそうバラ色の予測を振りかざしたのである。それこそが、トランスヒューマニストのド派手なファンタジーと、たくさんの抗議デモを実行しさえすれば世界中が環境に配慮したヴィーガンの平和主義者になるだろうと確信した活動家世代の穏やかな無知を生み出した原因である。その種の過激化は、熱狂的に信じられている信念体系が現実によって裏切られる際に生じる認知的不協和への、通常の反応である。

"倍プッシュ" の習慣は、けれども、必ずしもうまくいくとは限らない。それは、既に失敗した預言より更に豪華で実現不可能なものを、真の信者たちに約束してしまうからである。それらも同様に失敗した場合の標準的な動作は、擁護可能な場所まで撤退することである: 進歩という予測は、集合的イマジネーションの中にあまりにも深く埋め込まれているため、その予測は決して実現しないと認めることは、ほとんどの人にとって受け入れ難い。今日の工業社会においての企業マスメディアの重要性を考慮すると、ポップカルチャーの中で、ミイラ化した状態となった何らかのメディアにより当該の予測が固定されることは、おそらく避けられないことであったのだろう。イエス、現代文化のスタートレックに対する奇妙な執着心について語ろう。

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54年もの間、人々が行くことになっていた場所へ向かう

何年も昔、オンライン上での私の執筆活動が、エネルギー資源の減耗とそのプロセスによる工業文明の未来への長期的影響に対して焦点を当てていたときに、多数の人々の未来を想像する能力に対して、スタートレックが決定的に不気味な効果をもたらしていることに気付いたのである。それはまるで、宇宙船エンタープライズ号が、フェイザー銃を「ロボトミー化」にセットして、21世紀の人々に無謀な放漫さで使用したようなものであった。産業プロジェクトの長期的な生存可能性についての真剣な問題が問われるときにはいつでも、困惑するほど多数の人々がレプリケーターとジリチウム結晶を動力源とするファンタジー的未来に逃げ込んでしまうのだ。私と論争していた人たちだけに限らない。現代社会のどのような片隅であっても、進歩の市民宗教を拒絶したにもかかわらず、スタートレックに関するひねくれたジョークを言う人を見つけられるだろう。

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これが輝く未来である: 1966年のハリウッド

最近まで、私がまったく考えていなかったことは、スタートレックの未来がどれほど年老いているかである。スタートレックが初めて放送されたのは、1966年であることを思い出してほしい。読者諸君、1966年を覚えているであろうか? 私はかろうじて覚えている; その年に4回目の誕生日を祝ったのだ。リンドン・B・ジョンソンが大統領で、自動車にはテールフィンがあり、LSDはまだ合法であり、ロックンロールシーンの評論家たちは、ビートルズは既に全盛期を過ぎたと見なしており、明日にでも新たなバンドに取って替わられるだろうと考えていた。スタートレックが放送された夜、当時の私のオヤスミの時間は過ぎていたものの、明るい黄色の足付きパジャマを着て夜ふかしして、家族共用の白黒テレビでそれを見たのである。その晩に生まれた赤子は、来年には高齢者割引を受けることができる。

半世紀以上も前に、企業マスメディアにより生み出された想像上の未来が、未だ我々の集合的イマジネーションの関心の的であるということは、進歩の市民宗教が転倒して死にかけており、呼吸を求めて喘ぎ、医者は匙を投げていることを示す良い証拠である。それでも、この文脈で特筆すべきは、世界経済フォーラムが宣伝した疑わしい想像上の未来はスタートレックのものではないということだ。ノー、それは1920年代の新しい、エキサイティングな、最先端の未来である。それが、結局のところ、ソビエト連邦の最初期の姿であった。当時、西ヨーロッパと北アメリカの膨大な数の知識人たちが、新しく設立されたロシアのボリシェビキ政権は人類の未来に対する最高の希望であると声高に主張しており、当時既に目立っていた収容所と集団埋葬を好んで利用するその政権の傾向について言及する者は誰であれ、容易に強い非難を受けるのであった。

それが示しているのは、逆に、スタートレックの未来は、もはやかつてのような盲目的信仰と反射的な熱狂をもたらすものではないということだ。現時点では推測に過ぎないけれども、より多くの人が他惑星の植民地化にまつわる明白な問題を認識するにつれて、宇宙における人類の未来に関する大言壮語の長い時代が暮れていくのではないだろうか。地球の磁気圏のバリアの外側では、我々が太陽と呼ぶ防壁のない巨大な核融合炉からの強烈な放射能で満たされ、地質学的時間以内に辿りつける世界はガンマ線の爆風にさらされる凍った、空気のない砂漠であり、酸素、水、食料、救助に必要なリソースからは何百万キロも離れているのだ。(それが、1970年代にアメリカとソ連が有人惑星探査ミッションを密かに取り止めた理由であることはご存知の通りである。)

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火星はネバダ砂漠と似ているが、空気が薄い

偉大なる神プログレス様が必ずや輝かしい未来をもたらしてくれるはずだという陳腐な思考への反射的な撤退は、果たされぬ約束の重みで防衛拠点が崩壊した際の、通常の反応である。そのような2回目の撤退は、けれども、1回目と同じようにうまく働くとは限らないのだが、それには2つの理由がある。最初の理由は、もちろん、進歩の信者は、既に2回の撤退を強いられており、3回目の防衛をしなければならないという事実は、士気に悪影響をもたらす。また、その信念体系に疑いを持つ人の数が増えていくことは、その信念をより強化するようには働かない。それでも、この場合では、2つ目の理由がもっと重要なものとなるだろう。

ソビエト連邦の終末期は、結局のところ、未だに生きた記憶である。私有財産の廃止、侵入的監視の全般的な導入、個人の自由な選択に自身の人生を任せるのではなく、より効率的な意思決定ができるとされる専門家集団の制御下に人生のあらゆる活動を置くことなどを主張するイデオロギーが何をなすのか、今日生きている人々はあまりにもよく知りすぎている。アイダ・オーケンの短い物語は、マルクス社会主義が権力を掌握した際に何をするかが示される以前の文学作品を彷彿とさせる。自分の眼でそれを見たいと望む読者は、ウィリアム・モリスの優れた社会主義ユートピア文学『ユートピアだより』を探して、読んでみると良いだろう。続いて、ソルジェニーツィンの『イワン・デニーソビッチの一日』を読めば、そのような輝かしい夢想が実際にどうなったのかを思い出させてくれるだろう。

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宣伝、約束されたもn

そのような類推を念頭に置くと、もしもグレート・リセットが実際に制定されたとしたら何が起こるかを予想することは、まったく難しくはない。ヨーロッパ連合が、世界のいろいろな所に位置する他のいくつかの国と共に、グレート・リセットを受け入れたと仮定してみよう。新たな消費者の楽園からの熱狂的なレポートがメディアに溢れ、多くの知識人は、ジョージ・バーナード・ショーといった人々が1920年代にレーニン体制のために行なったように、グレート・リセットの広報宣伝担当者として身売りするだろう。その間にも、保守派は足を強く踏みしめて、必死で押し返そうとするだろう - 覚えておいてほしい。第一次大戦後、東ヨーロッパでは共産主義革命が急増したのであるが、ロシアの革命を除くすべてが反革命的な流血事態のうちに終焉を迎えた。そうして世界は再び分裂する。未来に関する最新鋭の観念的流行を受け入れた国々と、そうではなく自由と呼ばれる何かを好む国々の間で。

それから、もちろん、強制収容所、集団埋葬、そして、ドローンの商品配達の遅延の増加 (現代版のパン屋の行列) などについて、ヨーロッパ連合のリセット主義共和国の輝かしい消費者の楽園から、厄介な噂が流れ始めてくる。難民たちは厳しい話を語り、インテリゲンチャは、その話は真実ではなく信じる人々は誰であれ (ここに罵倒語を挿入) であると怒って主張するものの、その話は聴衆を見つける。壁が破壊され、消費者の楽園から逃げ出そうとする人々が国境警備隊により射殺され始める頃には、最新の管理集産主義経済の試みが、過去とまったく同様に、経済的機能不全と政治的専制という同じ問題を抱えていることが明らかになるだろう。最終的に、21世紀の中頃には、おなじみの形ですべてが崩壊し、かつてのヨーロッパ連合の人々はついに世界に再参加するだろう。

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得られたもの

ノー、私はこんなことが本当に起こるとは思っていない。1917年の共産主義革命は、絶望的なまでに無能な当時のロシア王朝と壊滅的な戦争によって絶望の縁に追い込まれた農民の労働者の大集団と、彼らに対して有効な代替案を提供し、有力な政治勢力へと変化させた人々により引き起こされたのだ。グレート・リセットは、政治家、大富豪および御用学者たちのごった煮により宣伝されている: 地球上でもっともぬるま湯につかった人々であり、人生の厳しい現実に対する不意の遭遇から、居心地の良い特権的なシェルターで守られている。我々みんなが対処しなければならない世界に住んでいるわけではないのだ - 荒涼とした暴力的な都市隣人、田舎の進行する貧困、ひび割れて崩れかけた高速道路や橋梁、製品サイズの縮小と品質低下によるステルスインフレ! ゲート付きの住宅コミュニティや高級分譲住宅から、オフィスタワーと会員制バケーションリゾートを飛び回る彼らは、今日の世界のレーニンではない。ブレジネフ、アンドロポフ、チェルネンコ[1970年代~1980年代のソ連のリーダー]である。彼らが表しているのは、時代の始まりではなく、時代の終わりである。

グレート・リセットに対する幅広い世間からの反発は、逆に、今日の企業貴族たちがどれほど不愉快な声を発しているのかを示す良い指標である。極右から中道、極左までの政治スペクトル全体にわたって、巨大で説明責任のない企業テクノストラクチャーの気まぐれに、交換用下着や翌日の食事を依存するという予測を、人々は怒りとあざけりの眼で見ているが、それももっともなことだろう。ある意味では、アイダ・オーケンと産業界の彼女の雇い主たちは、米国にいる私達に好意を示しているのではないかと私は思う。約5年間の極めて分裂的な政治の後で、彼らは善意の人々が心から同意できる何かを与えてくれたのだ。

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実際にはこう見える

彼らは何か別のことをしたのかもしれない。上述の通り、進歩の市民宗教は、通常のように、人間が信じるあるべき姿とは無関係に存在する現実世界に対処するために、かなり長い間苦労してきた。年老いたスタートレックの未来を放棄し、それよりも更に古めかしいビジョンであるソビエト連邦の短期の歴史的名声を持ち出すことは、進歩にとっての致命傷となるかもしれない。ここに至り、大多数の人々は、歴史が特定の方向に進んでいると信じることを止め、甘やかされた今日の企業貴族たちがそうなるべきと信じる世界へと進むことを拒否し始めるのだ。

ひとたびそうなると、我々の多くの人々にとって、未来は選択できるものであり、必然ではないということを思い出すことが可能となる。個人、家族とコミュニティが、ガジェット中心主義的な生活を望まないと決断し、泥棒政治的な企業と政治制度への依存度を下げ、自身の欲求やニーズにもっと機敏に対応したいと決断するのであれば、そのような生活を送ることができる - そして、企業世界の政治委員や党官僚たちの、不要なものを受け入れさせるためのいじめじみた必死の試みは、克服できない障害物ではない。

翻訳:脱呪術化の仮面 (ジョン・マイケル・グリア)

ジョン・マイケル・グリアによる2020年9月30日の記事 "The Mask of Disenchantment" の翻訳です。

The Mask of Disenchantment

今月の始めに、9月には水曜日が5回あると気づいた時には、その5回目の水曜日にこのブログで何を投稿するかまったく決めていなかったので*1、最近復活させた以前の習慣に従い、読者に提案を求めた。いつも通り、そこで起きた議論は活発なものであり、かなりのトピックが議題に挙げられた; 相当数の投票を得た話題については、しかるべき時に記事を書くつもりだ。実際的な理由により、けれども、多くの読者が求めたのは、しばらく前に私が書いたコメントへの補足であった。

ジェイソン・ヨセフソン=ストーム
ジェイソン・ヨセフソン=ストーム

それに先立つ議論で、私はマックス・ウェーバーの「世界の脱呪術化」が現代特有の特徴であるという主張に対するコメントを述べ、その主張は数ヶ月前にある本によって挑戦を受けていると述べた。ジェイソン・ヨセフソン=ストームの『脱呪術化の神話: 魔術、近代、人文科学の誕生』(The Myth of Disenchantment: Magic, Modernity, and the Birth of the Human Sciences) という本である。ヨセフソン=ストームの基本的な主張は、ウェーバーは端的に間違っていたということだ - ウェーバーと、その後彼の主張を繰り返した人々は、軽率にも、魔術、占い、その他のオカルト実践が未だ現代工業世界の中でも栄えているという事実を、また我々全員が呪術なき世界に住んでいると提唱したウェーバー自身が、永遠に消え去ったはずのオカルト実践の世界と密接な関わりを持ってきたという事実を無視してきたのである。

そのことを考えて、今日のハイテクな都市とインターネット接続されたライフスタイルの真っ只中において、周囲に魔術的実践がありふれているにもかかわらず、あまりに多くの人々が魔術は過去に消え去ったものだと信じ込んでいるのは、現代の人々にかけられたいかなる悪しき魔術によるものなのだろうかと不思議に思ったのである。そしてそれこそが、読者が聞きたいことであった: その悪しき魔術はどこから来たのか、誰が、あるいは何が魔術をかけたのか、どのようにそれが我々全員の生活に影響を与えたのか、そして - もちろん - その呪文を解く見込みは何か、ということである。

それは多数の込み入った質問の集合であり、簡単に答えられないが、歴史の力を借りて迷宮の中を通り抜けられるかもしれない。

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マックス・ウェーバー

1904年、パイオニア的な社会学者であるマックス・ウェーバーは、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」というタイトルの影響力ある書籍を出版した。その中で、ウェーバーは現代資本主義の由来を、プロテスタント宗教改革、特にカルヴァン主義にまでさかのぼった。スイスの神学者ジャン・カルヴァンに起源を持つ宗派である。カルヴァンは、神は地上の行いとは無関係に、偉大なる栄光のため、少数の人間だけに救済を予定し、その他大多数の人間には永遠の劫罰を定めており、そのような神の慈悲に個人個人が委ねられているという厳しい宗教的ヴィジョンを唱えて、ほとんどすべての歴史的なキリスト教伝統を拒否したのである。

筋金入りのカルヴァン主義者にとっては、経済的な成功は神の恩寵のしるしの1つであり、そのため、カルヴァン主義者は、神に選ばれし者であると見なされるように自分の職業に熱心に打ち込む傾向があった。ウェーバーは、このようなカルヴァン主義の信念が後の資本主義的な労働倫理を構築する原型を作ったと指摘した。やがて、それはアイン・ランドによって焼き直されたヴィクトリア朝的な資本主義者マインドセットへと変化していった。そこでは、富める者は自明に豊かさに値し、貧しい者はその貧困に値するとされる。なんとなれば、資本主義者にとっての神の代替である全能の市場により、各々がふさわしい地位へと割り当てられているからだ。

世界の脱呪術化は、ウェーバーによると、カルヴァン主義によるまた別の資本主義への準備段階であった。カルヴァンが反対したルネッサンスカトリックの世界観によれば、物質世界とスピリチュアルな世界は絶えず相互に浸透しているとされる。そのような世界観では、聖者や天使が神と人間との間で仲立ちを助け、秘跡や聖遺物が世俗的な問題に対処するスピリチュアルな力をもたらし、そして惑星自体が強力な知的存在であり天界をめぐりながら三位一体への賛歌を歌っているのである。(このような世界観の全体像は、C.S.ルイスの『廃棄された宇宙像』[ノンフィクション] から学べる。あるいは、彼の小説『別世界物語』の三部作からは、より豊かな感覚を得られる。その三部作では上記の世界観をそのまま20世紀初頭のSFに翻訳している。)

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ジャン・カルヴァン

これらすべてが、カルヴァンにとっては嫌悪の対象だった。彼にとっては、極端なまでに隔絶され崇められる神と、神の前で畏れる弱く罪深い人間以外には存在しない。このような世界観から、現代の合理的な唯物論的世界観に至るまでは、ほんのささいな一歩しか必要としない: カルヴァンの神を、進化や自由市場などの非人格的な抽象物に取り替えるだけでよい。ウェーバーの説明によれば、カルヴァンによる聖人と秘跡の追放こそが、カルヴァンの後継者である唯物論者による、より広範なあらゆるスピリチュアルなものの追放を準備し、またそれを直接的に導いたと言われている。それは力強い物語であり、現代世界についてのある種のものごとをとても明確に説明する。

とは言うものの、現代世界を「脱呪術化した」と扱おうとすると、本当にたくさんの不都合な事実に直面することになる。現代人は脱呪術化した世界に住んでおり、我々はもはや精霊や魔術を (または更に言えば聖者や秘跡も) 信じていないと主張すること、またそのような主張自体が過去1世紀以上も現代性のレトリックとして重要な役割を果たしていると主張するのはまことに結構ではあるが、これに関する1つの小さな問題は、ジェイソン・ヨセフソン=ストームが指摘した通り、それは真実ではないということだ。

いくつもの調査が示すところによれば、工業諸国に住む教養ある人々の多数が、幽霊の実在、ESPのリアリティ、占星術の正しさなどを信じている。今日のアメリカでは、フルタイムの天文学者として雇用されている人の数を、フルタイムの占星術師として雇用されている人の数が大幅に上回っていることを覚えておいてほしい。インターネットに赴けば、最新の文化的概念の最先端の会場で、儀礼魔術の実践について熱心に議論する巨大で活発なコミュニティを発見できるだろう。その点について言えば、カトリック正教会の旧来の秘跡も未だに広く行なわれており、それと並列して、比較的近年輸入された諸宗教では、カルヴァンや近代の唯物論者が永遠に捨て去ろうとした精神と物質の繋がりという信念を備えるものもある。

脱呪術化の物語を作った現代の思想家たち - マックス・ウェーバー自身も、更に重要なことには、ウェーバーに続いたフランクフルト学派マルクス主義者の知識人たち、批判的人種理論やその他現在人気のあるアカデミックなイデオロギーの元となったアイデアを唱えた人々 - が、現代ドイツのオカルティズムの影響を受けていることを示して、ヨセフソン=ストームはこのミスマッチを証明している。フランクフルト学派が誕生した20世紀初頭のドイツは、オカルティズムの煮え立つ大釜であった; トゥーレ・ゲセルシャフトあるいはトゥーレ協会、その政治活動部門がナチスの母体となったロッジは、おそらく、現代で最もよく知られたオカルト組織であろう。

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コズミック・サークル

その他に、1933年まではもっと強い影響力を持っていたのは、コズミカクレイズあるいはコズミック・サークルと呼ばれた、ミュンヘンで活動した詩人、オカルティスト、ネオペイガンの集団であろう。(ドイツの文化的地理を知らない人のために言っておくと、ミュンヘンはドイツにおけるサンフランシスコである。ただしその道はサンフランシスコよりも綺麗だが。) マックス・ウェーバーは、コズミック・サークルのメンバー何人かと出会っており、フランクフルト学派の主要メンバーもそうであった。言うなれば、世界の脱呪術化と、呪術と精霊に対する信念の崩壊が現代の中心的特徴であると唱えたまさにその人たちが、魔術的な活動と精霊との交流を公然と実施していたオカルティストと密接な関係を持っていたのである。

言い換えると、ウェーバーフランクフルト学派があれほどまでに議論した世界の脱呪術化は、その通りのものではなかった。彼らは世界の脱呪術化を現代の記述として提示したものの、本質的にそれは規範的なものであり、記述的なものではなかった - 専門用語を使わずに言えば、世界の脱呪術化とは、現代工業世界がそうあるべきだと彼らが望んだ姿であり、現実の世界のありようを説明したものではなかったのだ。

記述的ではなく規範的な脱呪術化の役割は、歴史の皮肉の好例として、ヨセフソン=ストームの本に対する反応から印象的なほど明らかとなる。あまりに多くのレビュアーは、その本の中心的な論点を素通りしてしまっているのだ - つまり、実践的なオカルティストが未だ多数存在するにもかかわらず、脱呪術化した世界について語るのはバカげているということだ - そこで、レビュアーたちは彼の研究を真剣に捉えるのではなく、あらゆる面で粗探しをする方法を探している。儀礼魔術、占星術、その他の呪術形式の公然たる実践者として、私自身も同じ反応を受けたことがある; 実践的オカルティストを眼の前にしてさえ、あまりにも多くの人が、もはや誰も本当に魔術や精霊を信じていないなどと主張できることは驚きである。

もちろん、そのような奇妙な行動には多数の仲間が存在する。メディアの専門家が、ある国が高額なテクノロジーネオリベラル的な政策の塊を採用するよう圧力をかけられた際に、「[その国は] 21世紀に入った」とあまりにも頻繁に言うことを考えてみてほしい。そのほか、[カナダ首相] ジャスティン・トルドーが、最初の内閣組閣の際に「なぜ内閣の性別・民族的バランスにそれほどこだわるのですか」と問われた時に述べた、強く嘲笑された反応を考えてみてほしい: 「なぜなら今は2015年だから。」 どちらの場合にも、単なる日付が特定の政治的・経済的アジェンダの隠れ蓑となっている。あらゆるアジェンダと同じく、それは特定の人々を犠牲にしてまた別の人々に利益を与えるものである。そして、ほとんどのアジェンダと同じく、それは誰が利益を得て誰が支払いをするのかという直接的な計算を、神秘化の煙幕の下に隠すものである: ピーターから金を奪ってポールに渡しているのは、大企業の利益や政治家たちなどではない。オー、ノー、それは父の時代からの伝統だ!

このブログや本の中で、進歩への信念がいかにして我らが時代の宗教となったのかを論じてきた。信者のイマジネーションの中では、進歩は神性の役割を果たすとされる全能の抽象概念となる。世界の脱呪術化についての規範的主張は、我らが時代の進歩信仰のドグマの重要な一側面をなす。それこそが、5分かそこら明確に思考すれば、ヨセフソン=ストームの主張を証明できるにもかかわらず、世界の脱呪術化という主張が現代の主流派に固く保持されている理由である。けれども、このような検討に5分間の時間を費す人があまりにも少ないのには、十分な理由がある。ひとたび脱呪術化の仮面を取り去ってしまうと、進歩の宗教全体の最も重要な1つの側面を見逃すことが不可能になってしまうからだ。

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偉大な本、お粗末な映画

フランク・ハーバートは、著名なSF小説デューン』において、いつもの彼らしい正確さでその次元を捉えた。「かつて、」 あるベネ・ゲセリットの魔女は主人公ポール・アトレイデに言う。「人は自身の思考を機械へと引き渡した。それが自分たちを自由にすると信じて。しかし、それは機械を所有する人間たちに自身を奴隷化することを可能としただけだった。」 この原則はコンピュータのみに限らない。あなた自身の生活を形作るテクノロジーを見回してみたまえ。もっとシンプルな道具では不可能なことを実際にできるようにするテクノロジーがどれほど少ないか、またどれほど多くのテクノロジーが、あなたをテクノロジー依存とさせるように仕向けているのかに気付くだろう。

それが、進歩の神話の隠れたアジェンダである: 「進歩的」であるとラベル付けされた方向に進む「前向きの」ステップ1歩ごとに、あなたは、ますます制御不能となるテクロノジーにより完璧に支配されていく。したがって、必然的に、それらのテクノロジーを所有し、管理し、販売する人々に支配されていく。ところで、ここに意図的な陰謀の類いは必要とされない。単に、四半期毎の利益を増加させるべくテクノロジーへの依存を推進するため、個々の技術システムの担当者たちが多数の個人的な選択をしただけである。社会に権力差がある時にはいつでも、その差はますます拡大する傾向がある。それを防ぐため意図的な措置を講じない限りは; 現代のテクノロジーが、個人の自由な選択から社会統制の手段と変化したことは、とりわけこのルールの優れた実例である。

おそらくここで立ち止まって、このような考えに反論するため通常使われる2つのレトリック的な仕掛けに対抗する必要があるだろう。まず第一に、我々は抽象的な「テクノロジー」について話しているのではなく、今日、モダンなライフスタイルの不可欠な要素として販売されている、特定のテクノロジー一式について話している。人間を依存状態に陥らせないテクノロジーは多数存在するが、しかし、ウォルマートやそのライバル店で販売されているものの中には非常に少ない。第二に、この点に関するたくさんのゴマカシにもかかわらず、テクノロジーは価値中立的ではない。いかなるテクノロジーであれ、特定のことはうまく実行でき、他のことはあまりうまく実行できず、さらには別のことはまったく実行できない。このような生来のバイアスを備えたテクノロジーを作成し販売するという決定は、テクノロジーそのものに本質的に表現された価値判断である。

これらすべてが、逆に、産業革命の夜明け以来、我々の文化において魔術がタブーであった理由である。現代企業のテクノロジーとは異なり、魔術は還元不可能なほど個人的なものである。魔術的な活動に積極的に参加したくないと思う人々と一緒にグループで魔術の活動をしたいと思うのなら、最近の広告業界が振りかざすような、端的に言えば弱々しいシンボリックなトリックしか使えないであろう。魔術の学習と実践を少々行えば、そのような薄っぺらな広告の呪文に対抗して、それを笑い飛ばせるようになる。また、多くの人は、魔術の知識がまったくなくとも、広告の魔術を無力化できる: それが多額の資金提供を受けた広告キャンペーンがたびたび陰気に失敗する理由である。

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ダイアン・フォーチュン

意思に従って意識に変革をもたらす技法と理論 - オカルティストのダイアン・フォーチュンによる魔術の古典的な定義 - について何かを学べば、更に先に行くことができる。魔術の学習に関心のある少数の人を集めて、一緒に活動させれば、そこに限界はない。だからこそ、魔術が現代工業世界でタブーとなっているのである: 個人や少人数集団に対して、テクノロジーの所有者、管理者、マーケティング担当者が選択したのではない目標へ向けて進む機会を与えてくれるからだ。進歩の宗教の信者にとって、更に重要なのは進歩の宗教の受益者にとって、魔術は生存の脅威なのである。

クイ・ボノ? - 誰が利益を受けるのか? その優れた古いラテン語の成句は、現代生活の一見非合理に見える特徴について理解しようとした際、常に役に立つ。それでも、ここでは通常の搾取以上のことが起こっている。興味をそそる証拠の断片からは、魔術をかつての時代よりも弱体化させるため、過去数世紀に実際に何かが起こったことが示唆されている: 魔術は決して完全に効果を失なったわけではないが、かつては明らかにありふれていた偉業を成し遂げる力を失なっている。

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ヴァイン・デロリア Jr.

ここで有用な証言の1つは、ネイティブアメリカンの学者で活動家のヴァイン・デロリア Jr.『かつて我々が住んでいた世界 (The World We Used To Live In)』という本である。2005年に彼が亡くなった翌年に公表されたものだ。デロリアは、時代の一般常識への攻撃を厭わない偶像破壊者的な思想家であり、彼の最後の本はそれを示している。彼が行なったことは、ヨーロッパによるアメリカ大陸征服前と最中の、ネイティブアメリカンの祈祷師について、可能な限りの証言を収集することであった。さまざまな角度から魅力的な本であるが、しかしそれを研究したときには、私にとって2つの点が印象に残った。1つ目は、デロリアが、最近の祈祷師は、先祖たちには可能であったことができなくなっているようだと指摘したことである。2つ目は、私も、私と一緒に働いたことのある儀礼魔術師も、デロリアの記録に匹敵する偉業を成し遂げられないということだ。

祈祷師と儀礼魔術師の特定の制約については、説明は十分に簡単である。物質界は魔術的行動に直接反応しない。儀礼魔術師として私が学んだのは、物質界でものごとを実現させたいのであれば、それを実現できる意識的な存在に力を注ぐ必要があるということだ。道路に落ちた落石を移動させたい? 石を空中浮遊させたいと望んでも無意味であるが、高速道路管理局に仕事を遂行するよう働きかけて岩を撤去させることは、十分に効果的である。

デロリアが正しければ - また、彼以外にも同じ指摘をする人はいるのだが - この制約は数世紀前には存在せず、長期間にわたって少しずつ進んできたようである。17世紀後半には、たとえば、有能な冶金学者は法廷の宣誓下で、錬金術師が他の金属を金に変えるのを目撃したと証言し、また、灰吹法その他の試験によりそれが正しいことを確認したと述べた。対照的に、アーチボルド・コクランと神秘的なフルカネルリが20世紀初頭にグレート・ワークに成功した時、錬金術学徒はそれを信じているのだが、彼らは非常に、非常に限られた成功者だったのだ。

私が思うに、これらの変化は、単に、マックス・ウェーバーが信じていたような啓蒙時代における空虚な迷信の衰退によるものでも、ジェイソン・ヨセフソン=ストームが信じている通り、啓蒙という主張に端を発する脱呪術化の現代神話によるものでもない。歴史的な時間の流れに沿って展開する人間存在の諸条件に、現実に、客観的な変化が起こったことを反映しているという可能性を検討する価値はあると思う: 現代科学が決して不可能であると主張するようなある種の物事が実際に可能だったという意味において、過去の世界は現実に異なるものであったと。

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ジュリアン・ジェインズ

魅力的だが問題をはらむ本、ジュリアン・ジェインズの『神々の沈黙-意識の誕生と文明の興亡』の指摘によれば、非常に多数の証言が、太古の時代の人類は非肉体的な存在の声を実際に耳にしていたという考えを支持しているとされ、旧約聖書その他を辿って、そのような経験が薄れていくプロセスが追われている。同様のプロセスは、古代ギリシア文学のなかでも正確に辿ることができる。ヘシオドスのような初期の詩人の作品における霊的存在の確固たる経験から、そのほぼ千年後、洗練された都会人のプルタルコスは『神々の沈黙について』というエッセイを執筆し、なぜ神々はもはや理解可能なメッセージを人間に与えてくれないのかを説明するまでに至った。

ジェインズは、人間の脳機能における一方通行のシフトを仮定してこの現象を説明しようとした。大脳半球の機能をもとに自身の理論を基礎付けたのであるが、それ以後その説は大部分が疑問を持たれている。ジェインズが議論しなかったことは、プルタルコスから約500年後、古代世界が頂点に達したときに消え去った魔術と奇跡の全世界と一緒に、神々の声が再び蘇ったということだ。極東は中国の漢王朝から極西のローマにいたるまで、ユーラシア大陸の全土にわたってハイカルチャーが崩壊するとともに、宗教的ビジョナリーは再び神々や天使と会話し、魔術師は強力な呪文を振るい、ほとんどの人にとって見えざる者の存在は再びありふれたものとなった。数世紀が過ぎ、またもスピリチュアルな領域の存在は薄れ始めた: チョーサーの『バースの女房の物語』は、中世後期の、以前は可能であった不思議な可能性が消えていったことを示す多数の物語の一例である。

言い換えると、脱呪術の仮面の下には少なくとも3つの階層がある複雑な現象が存在している。1つ目の階層は、現代西洋世界におけるオカルティズムの抹消である - これは、アメリカ合衆国の魔術の歴史についての記事を書く際に、私が直面した抹消である。2つ目の階層は、そのようなオカルティズムの抹消の背後にある、一連の政治的・経済的な動機である - できるだけ多くの人々に、既存の権力と富の中心が所有、管理し販売するテクノロジーへの依存条件を受け入れさせようと説得する試みである。3つ目の階層は、特定の歴史周期と関連しているように見える、明らかな魔術実践の有効性の増減である。

その背後には? 私はまだそこに到達していない。この探求はまだ初期段階にあり、聖杯を発見し現代の意識という不毛の大地が癒されたとしても、奇妙な場所を苦労して通り抜ける必要がある。私はそこで見つけたものを投稿し続けよう。

*1:注: グリアは毎週水曜日にブログを定期更新している

翻訳:時の果ての踊り子たち Part 3: 「死すべき者の素晴しさ」 (ジョン・マイケル・グリア)

ジョン・マイケル・グリアによる2019年11月13日の記事の翻訳です。

Dancers at the End of Time, Part Three: A Mortal Splendor

私を批判する人の中には、私は絶対に自分の誤りを認めないと言いたがる人もいる。ある程度の期間、私のことを見てきた読者は、それが真実ではないことを知っているだろうが、我らが時代の多くのファッショナブルな歪曲と同じく、その言葉は実際には言及されていない真理を指し示している。そのような批判者たちが批判しているのは、もちろん、彼らが最も熱心に擁護する一般通念の一部である自明とされる真理を、私が否定していることである。当代の一般通念が常に間違っていて、それよりも私の予測のほうがはるかに正確であるという事実は、単に彼らのイラ立ちに拍車をかけるものでしかない。

そうとは言っても、我らが時代の理性からの逃避に関する3番目で最後の記事を、完全に間違った私の予測についての話から始めよう。過去のブログ The Archdruid Report で、2009年の『奇妙な輝く旗』というタイトルの記事から始まり、私は何度もある予測を述べていた。その記事では、アメリカ政治は経済的利益によって不条理なまでに腐敗していると口にすることを避けるために、政治的言説がねじ曲げられていることを述べ、また「ファシズム」という語がレトリック上の武器として誤った使い方をされているために、広大な盲点が広がっていることを述べた。

当時、オバマ政権は、保険業界が請求したい金額を、法的な罰のもとで強制したとしても、ほとんどのアメリカ人にはいずれにせよ健康保険に加入する余裕がないという事実を、何とかごまかそうと腐心していた。オバマは、医療費は安価になり、既存の保険プランと医師は維持できるだろうと声高に主張しており、人々はまだオバマの発言が全くの嘘であることに気付いていなかった - 我々の多くは、既にもっともな疑いを持っていたけれども。同時に、満足した20%の人々が住まうバブルの外側ではどこであれ、アメリカ人の労働者は、労働者階級の雇用のオフショアおよび、賃金と福利厚生を第三世界の水準にまで下げるために使用しうる (そして、実際にその目的のために使用された) 数百万人もの違法移民の輸入を積極的に奨励する連邦政府政策により、ますます貧困、悲惨と絶望へと押しやられていた。

どれ1つとして偶然ではない。これらすべては、労働者階級アメリカ人の生存よりも、大企業の利益と裕福な中流・中上流階級の利便を優先する超党派の政策コンセンサスの一部だったのである。当時の政治的風景を見て、オバマが推し進めたような政策によって貧困と悲惨の縁に押しやられた何千万という人々の絶望は、爆発へ向かっていると考えていた: 少なくとも、前回の記事で描いたような種類の再興運動が生じるかもしれない; もっと可能性が高いのは、西部山岳地帯と南部を根拠地とする巨大な国内暴動の発生かもしれない; ひょっとすると、十分な人数の軍の将兵が暴動の側に付くならば、内戦が勃発するかもしれない。

私は間違っていた。絶望した労働者階級の人々は、再興運動を起こさなかった。代わりに、彼らはドナルド・トランプといううさん臭いビジネスマン*1を得たのである。彼は労働者階級の懸念について語ることが権力への切符であると理解し、超党派コンセンサスの最も脆弱な場所へ挑戦するスローガンとシンボルを編み出し、絶望した大衆を有力な政治勢力へと鍛え、それに乗って、政治階級全体の統一的抵抗にもかかわらず、ホワイトハウスへと辿り着いたのである。ひとたびトランプのキャンペーンが吸引力を得ると、再興運動やゲリラ戦争に参加していたかもしれない人々は、代わりにトランプのキャンペーンへと集い、2016年11月8日の夜、自身の夢の実現という目もくらむような経験をしたのである。今日でさえ、トランプ派のサイトを訪れてみれば、「奇跡」について恍惚として調子で語る人々を見られるだろう - あまりに多くの失望と裏切りの後で、自身の希望と夢と要求が楽園のこちら側で実現するチャンスがあるのだと、突然に認識したあの夜の瞬間である。

その後、完璧な数学的バランスを取るかのように、トランプの敵対者たちは再興運動のコピーを作り始めた。それが、私の提唱するところでは、この連載記事の最初に議論した、神秘的思考への逃避の裏側にあるものなのだ。今日のアメリカの満足した階級、およびほとんどの英語圏諸国でそれに対応する人々は、耐えがたい現実からのドン・キホーテ的な逃走路を取り、アメリカ軍に対するインディアンの幽霊ダンスと同程度に不毛な、効果的な政治的反対運動とは言いがたい抽象的な儀式を始めたのである。

レジスタンスを自称する者たちが、トランプ大統領という受け入れ難い現実を消し去るために、どれほどの魔法の呪文を唱えたかを見たまえ。(実際に使われる魔法の呪文については、ここでは脇に置いておこう。効果が薄いことは証明されているのだから。) 最初に、選挙人団は一般投票を無視してトランプではなくヒラリー・クリントンホワイトハウスへ入れるべきだというオーバーヒートした主張が見られた*2。そして、ロバート・ミュラーの調査を元にさまざまに - ダジャレを言うことから逃がれられないが - デッチ上げられ トランプ・アップ たロシアとの共謀は、明確に弾劾訴追事由となるというオーバーヒートした主張が見られた。(さまざまな民主党系企業が大量に生産した「ミュラータイムだ!」と書かれたTシャツなどは、今や、私が聞いたところによると、トランプ支持者の間でお気に入りのアイテムとなっているそうだ。) いずれの試みも完全に失敗した。なぜなら、すべての主張は「我々がトランプをとても嫌っているのだから、トランプは追放されるのだ。」ということでしかないからだ。

下院での弾劾をめぐる現状の政治劇も、同じ布から切り取られたものだ。弾劾もすべてパフォーマンスでしかない、なぜなら、弾劾により大統領を罷免することはできないからだ; 上院議員の2/3の投票により弾劾訴追され、有罪判決を受けなければ、大統領は罷免されない。上院が共和党に支配され、共和党支持者のトランプ支持率が95%を超えている時、そんなことは起こりそうにない - 特に、すべてのバカ騒ぎが、トランプのすることは間違っているが、オバマが同じことをトランプに行うのは問題ないという主張にもとづいているからだ: つまりは、対立する党の大統領候補を、選挙キャンペーン中に、外国政府との共謀の容疑で捜査することである。ゆえに、民主党員はまた別の自分たちの墓穴を掘っている。そして、その過程で更に多くの無党派層有権者を遠ざけ、2020年の選挙で自分自身を撃つための弾薬を供給しているのだ。

しかしここで、この議論が始まった場所に戻ろう。つまり、この連載記事の最初に引用したアラン・ジェイコブズと「ジェーン」の2人が丁寧に議論した、理性からの逃走についてである。冷静で、公平で、客観的な思考だけが、民主党に2016年の選挙を結果を覆す力を与え、トランプが捨て去った政策を再確立できるはずなのだが、彼らは正反対の方向へと急ぎ、極端な政策 - たとえば、違法移民への無償医療 - を主張している。まるで自身の岩盤支持層以外は誰にも見られていないかのように。そして、2016年の選挙でヒラリー・クリントンの勝利を予測したフェイク世論調査とまったく同じものを見て自身を慰めている。更には、それを指摘したとすると、確実に、先に述べた通り同じようなうつろな眼をして決まり切った話の繰り返しをされるだろう - 実際、その反応は、ドン・キホーテにあなたはガウルのアマディスやその当時の流行小説の世界に住んでいるのではないのですよと説得しようとした人が受ける反応と同じだろう。

検討すべき問題は、なぜこれが今起きているかということだ。

議論はいろいろな所から始められるだろうが、今のところ最高の方法は、カリフォルニアと呼ばれる破綻国家の話から始めることではあるまいか。ほとんどの読者諸君は、PG&E、カリフォルニアの巨大電力コングロマリットが、重大な火災が発生した際には常に何百万もの利用者への電力供給を遮断していると耳にしたことがあると思う。その理由は、きわめてシンプルである。PG&Eは、インフラ維持と送電線路の清掃に対してあまりにもずさんな仕事しかしてこなかったために、電力網自体がカリフォルニアの山火事の主原因となっているからだ。これは、PG&Eが資金を欠いているからではない。退屈だが必須のメンテナンス業務から、よりメディア受けするプロジェクトや高給取りの管理カーストの膨大な給与やコンサルタント料へと、資金が横流しされたからである。

カリフォルニアの田舎地帯の焦げた森林から、サンフランシスコとロサンゼルスの腐敗しスプロール化した都市圏に向かうと、別種の機能不全に出会うだろう。サンフランシスコに行くなら、有名な歌のアドバイスとは異なり、髪に花を差す必要はない*3; それよりも、靴の外側を覆うビニール袋のほうが役に立つだろう。都市の通りには人糞が落ちているからだ。カリフォルニアの主要都市はホームレスにより壊滅的な問題を抱えており、LAの保健当局は、発疹チフスの蔓延を防ぐために苦労している - そう、シラミに媒介される感染症であり、ほとんどの工業国は1世紀も前に克服したものだ。州政府は、ホームレス問題に対処するために数十億ドルもの連邦政府の資金援助を要求している; トランプ政権の指摘によれば、前政権はその問題に対して既に十億ドルの資金を支出しているのだが、ものごとは継続的に悪化し続けている。

10年前、私が最後にカリフォルニアでしばらく過ごした時には、これほどまでに悲惨ではなかった。確かに、良くはなかった - サンフランシスコは、クリーブランドボルチモアに匹敵する程度の汚れて崩れかけた犯罪多発地域であり、カリフォルニア北部は、農村部の疲弊と悪意ある無視のあらゆる典型的な兆候を示していた。犯罪率は州全体を通してひどいものであり、あらゆる家の窓には鉄格子があり、扉には蹴破られることを防ぐための鉄棒が据えられていた - けれども、最近のニュースは、他のほとんどの人と同じく、私にとっても驚きであった。カリフォルニアの状況は何年にもわたって悪化し続けているため、ここに至り広範なシステミックな崩壊が現実の可能性となるポイントに近づきつつある。

全体として、カリフォルニアは急速に第三世界の地位に近づいている。カリフォルニアは、そのあらゆる標準的な特徴を供えている: 崩壊するインフラ、不十分な公共サービス、泥棒政治的な富裕層と絶望的な貧困層の間の拡大し続けるギャップ、レトリックと責任転嫁に長けているが、住民への基本的サービス提供のスキルを欠く機能不全の政府。あぁ、それと大量の人口流出も忘れてはいけない。ほとんどの第三世界諸国と同じく、カリフォルニアからはより機能不全ではない地域に向かう人々が大量に流出している。ドナルド・トランプは、カリフォルニアをアメリカから切り離すための壁の建設を提案していないが、トランプ支持者のなかにはそう言っている人もいる。彼らが冗談を言っているのか、私には分からない。

心に留めておくべきことは、カリフォルニアが今の困難に陥った原因は、我らが時代の集合知が「後進的」とラベルを貼るようなことを実行したからではないということだ。カリフォルニアは、アーカンソーアラバマウェストバージニア、あるいは、満足した階級の人々が「遅れている」と侮辱するような州を真似したわけではない。まったく逆に、アーカンソーアラバマウェストバージニアの田舎の人々は、気温が高く風が強い時期でも電気を使うことができ、リトルロックバーミンガム、ホイーリングの人々は歩道の人糞を洗い流すことを心配する必要はない。ノー、カリフォルニアは、文化的主流派の人々が先進的と称える政策を取ったことにより今の状況に至ったのである。現在の状況へと進歩したのだ。

カリフォルニアが今日行くところが、アメリカ全体が明日行くところであるというのは、長い間アメリカのパブリックライフの自明の理であった。非常に現実的な意味において、ドナルド・トランプホワイトハウスへ入れたポピュリストの蜂起は、アメリカの大部分の人々がその見通しを見て、震えて「ノー、もう結構だ!」と叫んだときに発生したのである。特にそれが問題とされるのは、カリフォルニアを現在の状況に陥らせたものと同じ広いトレンドが、数十年にわたってアメリカ中で働いているからだ。満足した階級の人々が堕落した贅沢な生活を送る、固く閉じられたバブルの外に出てみれば、眼にするのは朽ちていくインフラ、老朽化した建物、そして最高の日々は既に過ぎたのだという浸透した感覚である。それが、トランプのスローガン「Make America Great Again」に力を与えたものである: この国は、正気の人間であれば誰も望まないところへ"歩"を"進"めているという感覚であり、また、何らかの改善へ向かうためには、前に進むモメンタムを止めて、我々が後に残してきたものへと戻らなければならないという感覚である。

それこそがまさに、逆に、トランプの反対者が最も熱心に否定したものなのだ。「我々は戻りません」ヒラリー・クリントンは選挙キャンペーン中に言い放った。「我々は前へ進むのです。」 人種差別というブラシでトランプとその支持者に泥を塗ろうとする継続的な試みは、都市部アフリカ系アメリカ人の投票を保持する意図 - 民主党の選挙戦略の要 - があるというだけではなく、その核心の一部なのである。それはまた、過去を可能な限り最悪の光で照らす試みでもあったのだ。そうすれば、民主党員は現在の状況と数十年前に存在していた状況とを比較して、なぜそれ以来これほどまでにものごとが悪化しているのかと問わなくても済むからだ。

そこで、2016年の選挙以来、アメリカの左派のかなりの数を捉えた理性からの逃走、完全なる神秘世界への突入、その本質を垣間見ることができる。その大統領選挙は、壮大なる進歩の行進の、次の偉大な一歩となるはずであった。アメリカ初の黒人大統領に続く、最初の女性大統領である。神話的な世界観の中から見れば、2008年の投票が締め切られた瞬間、オバマが選挙キャンペーンの公約を破棄したことは問題ではなかったし、また、オバマジョージ・W・ブッシュ政権の第三期と第四期とも思えるような創造的模倣を続けたことも、ドローン攻撃と国外戦争を遂行したことも問題ではなかった。それらは、共和党が同じことを行なっていたときには民主党が憎悪すると言っていた政策だったのだが。クリントンが、同じ政策を倍にして実行すると約束したことも、問題ではなかった。政党への帰属意識と彼女の性別が、信者の眼のなかでは他のすべての問題をささいなものにした。

そして彼女は負け、トランプが政権を取り、先に述べた超党派の政策コンセンサスの中で宙吊りにされていた多数の人々の状況は改善し始めた。利益を得たのは白人労働者階級だけではない; アフリカ系アメリカ人コミュニティの失業率も統計開始以来最低の水準に達し、他のマイノリティ集団の数値も遅れを取っていない。

それが、私が思うに、選挙以降に見られたファンタジーへの逃避を駆り立てているものである。1960年代の社会革命の失敗により、アメリカ左派は産業界と悪魔の取引を行ない、あらゆる人々の犠牲のもとに大企業とその株主に利益をもたらす経済政策の支持に合意し、引き換えに、1960年代以降の左派が望む文化政策の支持を大企業から取り付けたのである。これらすべては、この種の取引が一般的に曖昧である通りに、左派が支援するとされるマイノリティコミュニティに及ぼす経済政策の効果に対する意図的な無視により、曖昧にされた。専門家も政治家も、雇用のオフショアリングと違法移民による労働市場の洪水は、賃金を低下させることはないと声高に主張したが、もちろんその通りになった; その他にも、一方には民族的マイノリティを莫大なスケールで大量投獄することを容易ならしめる努力があり、 - ヒラリー・クリントンの「スーパープレデター」についての話が思い出される - 他方では、企業エスタブリッシュメントの価値観を揺るぎなく受け入れる限りにおいて、わずかばかりの非白人を管理階級へと登用する制度装置があった。

それこそが、2016年の選挙の結果、クローゼットから踊り出てきた骸骨なのである。両党に採用されたネオリベラルな経済政策は、ほとんどのアメリカ人にとって完全な厄災であったという事実から眼を背けることは不可能となった。ネオリベラルの正統性に同調しない者を嘲笑するいじめっ子としてメディアで名声を得たポール・クルーグマンも、数ヶ月前、自分の誤りを認めることを余儀なくされた*4。左派的な政治観を持つ何百万ものアメリカ人は、自身の信じていた専門家と信頼していたメディアが嘘吐きであるか単に完全なる誤りであったという事実、そして、それらの人々は、膨大なアメリカ人を貧困と絶望に陥れさせた政策を支持していたというだけではなく、そこから利益を得ていたという事実に直面せざるをえなかった。それは飲み込みづらい苦い薬であり、また更には、その薬を処方した赤ら顔の医者は、満足した階級の繊細な感情を気にかけていないことを誇示するために、よりいっそう薬を飲み込むことが難しくなる。

であるから、民主党の下院議員が、ドン・キホーテに風車への突撃を行わせたのと同種の精神状況で、政治的動機にもとづいた調査を次々と実施したり、左翼的な世界観を持つ多数の人々が、自分はアニメのキャラクターであると信じ込んだ若者のごとく、自分はファシズムと戦うヒーロー的な戦士だと信じ込んだりしても、全く不思議はないのである。彼らの人生の根底をなす信念の一つ - 世界はより明るく良い未来へと向けて進んでおり、自身に個人的利益をもたらす政策は、その偉大なる前進を後押しする政策でもあるという確信 - は、周囲で取り返しがつかないほどコナゴナに砕け散ってしまっている。それこそが、彼らが幽霊ダンスその他の模倣へと駆り立られ、世界が決して与えてくれない奇跡的な救済を待ちながら、時の果てで踊っている理由なのである。

そうしている間にも、この国の残りの部分が、カリフォルニアと同じ状況へ陥ることを防げるかもしれない政策は、この瞬間にも制定される可能性がある。そのような政策は単純明快である: もはやまかない切れなくなった国外への軍事的コミットメントからの段階的な撤退、ドルが世界の基軸通貨でなくなり、我々が望むものを何でも借用書 [IOU] を発行して支払うことができなくなった時に備えるための、国内製造業の再建を目指した貿易障壁、既存の労働者階級を悲惨に陥らせることなしに受け入れ可能な毎年の移民の人数に関する、持続的で思慮深い国家的議論、社会立法の権限を個々の州へと戻し、左であれ右であれ単一の道徳的イデオロギーを合衆国全体に課そうとする試みに対する終止符、そして、政治を妥協と共存へ向けて方向転換することであり、それ以外に、これほどまでに広大で、多様性に富む、意固地な共和国において相対的な調和を取り戻す方法はないだろう。

これらの政策は、私が「長き没落」と呼んだゆっくりとした衰退、つまり、あらゆる文明の物語を紡ぐ下方への軌道を防ぐことができるのだろうか? もちろん、そうではない。トランプは前へと進み、2024年かそこらには、1969年のイベントを再演して月面に更なる足跡をつけるという約束を果たすかもしれない - 他の文明は何世紀も耐えるピラミッドや寺院を残した一方、我々の文明の月面着陸という偉業は、その仕事を終えた瞬間に金属のスクラップと化すロケットを使用したということは、示唆的ではないだろうか? - しかし、結局のところ、それはまた別の儀式的行為である。

それでも、ある種の衰退は他のものよりも早い。ピークオイルシーンの最盛期には、衰退の影響をやわらげるために経済的な再ローカル化の価値をたくさんの人が議論していた。ここまでに私が議論した個々の別のステップも、その目標を更に促進するであろう。偉大なアメリカ人詩人のロビンソン・ジェファーズがうまく表現している通りである:

You who make haste haste on decay; not blameworthy; life is good, be it stubbornly long or suddenly A mortal splendor: meteors are not needed less than mountains: shine, perishing republic.

なんじ腐敗へ急ぐ者; 責めてはいない; 人生は良い、頑固に長くとも突然でも 死すべき者の素晴しさ: 流星は山々ほどは必要ない: 輝け、滅びる共和国。

死すべき者の素晴しさから、少なくともしばらくの間は、眼を逸らすことができるかもしれない。それでもやるべき仕事はまだたくさん残されている。時の果ての踊り子たちは、儀礼的なステップを踏みながら空想的な未来を待ち望んでいるのだが、そのような未来はそもそも決して起こるはずのなかったものだ。その一方で我々は、腕まくりをして、自分たちが達成しうることを考えたほうが良いかもしれない。

*1:日本語訳はこちら 翻訳:ドナルド・トランプと憤怒の政治 (ジョン・マイケル・グリア) - Going Faraway

*2:アメリカ大統領選挙は、制度上は直接選挙ではなく、大統領候補へ投票する選挙人を選ぶ選挙であるため、理論上、選挙人団は一般投票に従わず別の候補を選んでもよい。ただし、多くの州では選挙人団は一般投票の結果に従うことが義務づけられており、これに違反した投票が大統領選挙の結果を左右した事例はこれまで存在しない

*3:スコット・マッケンジーの 『花のサンフランシスコ』を指す。

*4:日本語訳はこちら グローバル化の弊害を見落とし、トランプ台頭を招いた経済学者のいまさらの懺悔 | ワールド | 最新記事 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト

翻訳:時の果ての踊り子たち Part 2: 「事実は真実の敵」 (ジョン・マイケル・グリア)

ジョン・マイケル・グリアによる2019年11月6日の記事の翻訳です。

Dancers at the End of Time, Part Two: “Facts are the Enemies of Truth”

先週、この記事の第1回目では、最近、多くの人々がある種の政治的な問題について、明確に、または完全に思考する能力を失ったように見える奇妙な現象について検討した。哲学者アラン・ジェイコブズと、「ジェーン」を名乗る聡明なブロガーからの洞察を通して、この奇妙で自滅的な習慣の背後にある精神障害に迫ることができた。我々の意味と価値についての感覚は、神話とも呼ばれる共有された物語への個人的関与からもたらされるが、我々の精神が健全である場合は、そのような物語と実際的な関心との間でバランスを取って、我々の遭遇する世界において、好みの物語がもはや機能しないときには気づけるように、細心の注意を払っている。

神話的な経験モードと実際的な経験モードの間で相互にバランスを取るという習慣を、最近、あまりに多くの人が見失っている。そのような人々にとっては物語だけがすべてであり、もしもその物語の要求することが世界に起こらないとしたら、それは世界が誤っているのである。ミュージカルの『ラマンチャの男 ドン・キホーテ』が軽やかに宣言する通り、「事実は真実の敵」なのである。しばらく前に、これと実質的に同じ言葉を、民主党の大統領候補ジョー・バイデンが口にした - ジョークでも、ミュージカルへの言及でもなかった - のだが、控え目に言って、驚くようなことであった。

ドン・キホーテは、ここで議論しようとしている種類の誤りについて極めてすぐれた描写を提供している。ミゲル・デ・セルバンテスの優れた風刺小説を読んだ者であれば思い出すであろうが、穏かな郷士であったアロンゾ・キヤナが、最も きしがい ・・・・ [errant] じみた騎士道物語 [knights-errant] を演じた理由は、当時の誇張された騎士物語にあまりにもハマりすぎたからであった。ポップなフィクションにハマる行為が、純粋に現代的な現象であると捉えている読者は、ガウルのアマディスをご存知ないのであろう。それは15世紀の指輪物語に相当する作品である。トールキンの作品と同じく、それは爆発的なファンタジーのベストセラーであり、膨大な、ほとんどが見るにたえない模倣とコピーの業界を生み出した; セルバンテスの小説では、キヤナがニセのヒーローもののポップカルチャーへ強迫的にハマったことこそが、現実世界との繋がりを喪失し、実在しない巨人との戦闘へと向かった原因なのであった。

言わば、ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャは、現在「フィクションキン fictionkin」と呼ばれる現象の、最初の、そしておそらく最も優れた描写であろう。

現代オンラインポップカルチャーの奇妙な片隅で長い時間を過したことのない読者諸君のために、この語の解説が必要かもしれない。今日では、誰もが性同一性障害の現象について多かれ少なかれ知っているのではないかと思う。つまり、自分は間違った性別の身体に生まれてきてしまったと信じる人々の状況である。(公平に言えば、そのような人々の状況は、少なくとも、何らかの測定可能な生物学的要素と関連した原因が認められるのではないかと思う。) 同じベクトルを更に伸ばして、いかなる生物学的な正当性もなく、"人種同一性障害" および、異論の多い現象である「トランス人種」を発見できるだろう。つまり、あらゆる客観的な指標から見て、当人が属していない人種グループに所属していると信じる人々である *1 - レイチェル・ドレザル*2民主党大統領候補者のエリザベス・ウォーレンはこの著名な事例である。また、同じく論争的な現象である "トランス障害者" がいる。自分は特定の身体的障害を持って産まれてくるはずであったと信じる人たちで、一部のケースでは、自分が持つべきであると信じる障害を得るために外科手術を受けることもある。

同じ道を更に遠くへ進めば、「アザーキン otherkin」を見つけられる。間違った種の身体に産まれてきてしまったと信じる人々である。ある場合では、そのような種は実際に存在することもある - しばらく前、私は、本当は自分は農用馬なのだと信じている若い男とかなり長く話したことがある。彼は化石燃料不足の未来における馬による農業の可能性について、きわめて多くの主張を持っていた - 一方で別のケースでは、そのような種は、ドン・キホーテが闘いたいと望んだ巨人や竜のような幻想であることもある。今日のインターネットの適切な片隅を頻繁に訪れるなら、アザーキンの人々に使う適切な代名詞の、強迫的に詳細なリストを発見できるだろう: たとえば、「チャー/チャーズ/チャープセルフ chir/chirs/chirpself」 は、自分を鳥類であると自認する人々の代名詞である、など。

その道の終わりには - まぁ、少なくともこの場では - フィクションキンがいる。本、テレビ、アニメ、その他何であれ、自分はフィクションのキャラクターであると信じる人々である。これは、経験の神話的モードにおいて中心的な、通常の空想的な関与を意味するのではない。また、単なるコスプレを意味するのでもない。反対に、フィクションキンは、自分が本当に何らかのフィクション上のキャラウターであると信じる人々であり、そのキャラクターのアイデンティティを24時間365日保ち続ける人である。単なるお芝居ではない; 何かもっと大きな問題が進行しているのである。

今年 [2019年] 初め、ある若い女性が、ボーイフレンドがこのような状態に陥っていく過程を、Redditの板 r/relationshipadvice に投稿した。最終的には、投稿はサイト管理人によって削除されたのだが、削除される前にバイラルを起こしていた; これが、投稿当時のままのウェブサイトを保管しているコピーサイトである。簡潔に言えば、彼女のボーイフレンド、典型的なお喋りのオタクっぽい若者が、『Loveless』のアニメシリーズを一気視した後で、劇的なパーソナリティの変化を起こしたのだという。彼は数週間を非常に静かに引き込もって、Lovelessのマンガ版を読んで過ごしたのだ。そしてその後突然に、柔らかで、笑顔で、幸福な、奇妙に人工的な状態へと変化したのだという。彼女がボーイフレンドにこのことを問いただした時、彼は自分が本当はLovelessの主人公であるソウビだと気付いたのだと言った。

それだけではなかった。その若者は、2人きりのときには常に自分をソウビと呼ぶようにとガールフレンドに要求したのである。男は、恋人のことをリツカと呼び始めた。ソウビの12歳の恋人 *3 である。そして、ベッドではリツカのロールプレイをするよう要求したのであった。ソウビのヘアスタイルを真似るために、彼は髪を伸ばした。アニメとマンガのソウビの服装と同一の服装に変えるために、クローゼットを空にした。ソウビと似た伊達眼鏡を掛けた。以前の彼の習慣、行動やパーソナリティの特徴は消え去り、アニメキャラから借用した商品に置き換えられた。ガールフレンドは、何度も何度も何度も、彼に協力しようとした - そして、偽のソウビは、当時未成年であったトランスジェンダーの人物を加えて三人組を作ろうと言い出したのだが、それは彼が正気であった時には決してしなかったであろう行動であった。ついにガールフレンドはもはや付き合い切れないと思い至り、恋人と別れたのである。

恐しい話である; 誰か他人が精神的な疾患に陥っていくのを目撃した人にとってはお馴染みの話であろう - もちろん、それが我々の議論していることだ。そのプロセスは、セルバンテスドン・キホーテの序章で明確に描写している事象と一致している: 精神のタガが次第に緩んでいき、その後、現実世界との最後の繋がりが急に途絶え、狂気の淵に常に存在していた薄暗い光が突然爆発し、種々の適切な外観により新たなアイデンティティを獲得する試みが始まる - ドン・キホーテの場合では、曾祖父の鎧を狂ったように磨くことであり、そのすぐ隣にはニセのソウビのヘアスタイルと伊達眼鏡を身につけることが並ぶ - その後、実際的なモードが沈黙してしまうと、その振る舞いはますます奇妙になっていく: そのすべてが、人々が狂気に陥っていく典型的な過程の、古典的描写である。

私は、このような物語についてあまり普通ではない視点を取り上げたい。私はフィクション作家であり、つまり、想像上の人々と長い時間を一緒に過ごしているからだ。私の小説のキャラクターたちは生き生きとしており、イマジネーションの中で確固たる存在を持つ。そして彼らはいくぶんか自律的である - つまり、小説の登場人物たちは単に私が命じたことだけを行なうのではない。たとえば、私が『ショゴス・コンチェルト』という小説を書き始めたとき、ブレッケン・ケンダール - その物語の主人公で、ニュージャージー州の架空の州立大に通う混血の音大生 - が、小さなショゴスと友達になることを知っていた; しかし私には、その関係が最終的にどうなるか分からなかった。彼女がショゴスにショーというニックネームを付けるまでに至り、私はかなり驚いたのだ。

強調しておきたいことは、これはブレッケンやショーが、私やあなたと同じ意味でリアルであることを意味するのではないということだ。ギリシアの哲学者サルスティウスによるいかにも気の効いた言い回しを借りれば、小説のキャラクターは、サルティウスが語っていた神話と同じく、決して起こらないが常にそうであるものごとなのである。フィクション作品を読むことは、前回の記事で議論した通りの神話的モードへの想像力による関与をもたらす。それは意味や価値観を変容させる経験の強力な源となりうる。それこそがフィクションというものであり、しばしばフィクションが我らの時代における神話として働く理由である。

このような経験を引き起こさない物語は、偉大な文学作品たりえない。かなり前に、ハリウッド俳優のマーク・ハミルが、個人的な倫理観と人生へのアプローチの形成において、バットマンのコミックが果たした役割についてコメントしていたことを読んだのを思い出す。ディック・グレイソンあるいはロビン・ザ・ボーイ・ワンダーの冒険は、ハミル少年が最もヴィヴィッドにのめり込んだものであった。少年時代を通して、倫理的・個人的な困難に直面すると、最初に彼が自問することは「ロビンであればどうするだろう?」であったという。コミック本と共に育った人でなければバカバカしく聞こえるかもしれない。しかし、ハミルは決して唯一の事例ではない; バットマングリーンアローは、私自身が子供であったころに最も熱心に読んだ冒険であったのだが、それと似た効果をもたらした。コミック本は、若いアメリカ人の数世代にとってフォークロア神話として働いている。あらゆることを考慮しても、私はそれが悪いことであったとは思っていない。

けれども、ハミルは自分自身がディック・グレイソンであると信じ込むという罠に陥っていないことに注意してほしい。彼は、ロビンのスーツを着込んで、バットマンが現れてバットケイブへ連れられ犯罪と戦う生活を、来る日も来る日も待ち望んでいたのではない。彼は、経験の神話モードと実際モードのバランスを保ち、物語への想像的な参加による利益を得ていたが、現実の代替として物語を使用することはなかった - つまりは、彼は正気であり、狂っていなかった。

同じような区別は、純粋な個人的関心を超えたレベルでも見られる。社会の全体でも、そのようなボーダーラインの一方に倒れることがありうる。もしもそのような社会があまりにも不運であれば、逆側へと倒れるかもしれない。アメリカ社会は、ここではあまり良い事例ではない。部分的には、それは我々の歴史からもたらされる神話的モードへの態度が、複雑で不毛であるからであり、部分的には、次の記事で議論する理由による。他のほとんどの社会では、神話に向かう態度はもっと健全である。神話的モードの思慮深いクリエイティブな使用方法の、1つの優れた事例としては、ネイティブアメリカン部族のスピリチュアリティに関する古典である、ジョン・ナイルハルトの『ブラック・エルクは語る』のページで詳細に解説されている、ラコタ族の風習が挙げられるだろう。

その本を読んだことのない方のため、簡単に言えば、 黒ヘラジカ ブラック・エルク として知られるネイティブ・アメリカンの人物が、少年期に激しい幻覚を経験し、以来聖者と見なされるようになった。ブラック・エルクがシャーマン的なトランス状態から回復し、自分の見たビジョンを語ると、長老たちはそれを聞いて議論し、その暗示を考えて、それは受け入れるに値すると考えたのだ。ひとたびそのようなプロセスが完了すると、部族全員がそれを礼拝の儀式として定め、スピリチュアルな修練とイマジネーションのリソースとして、部族の口承文学の一部となしたのである。

ほとんどの伝統社会では、これと同種の適正検査プロセスが存在する。それが、弘法大師伝教大師、中国から日本へ仏教の密教を持ち込んだ僧侶たちが、日本への帰還後にその教えを天皇へ示し、天皇の宗教専門家集団から好意的な判定を受けた後でなければ、自身が学んだ教えを広めることが許されなかった理由である。それが、ローマに寺院を建てたいと考えた新たな宗教運動は、建設を進める前に頑固で懐疑的なローマ元老院の老人たちから許可を得なければならなかった理由である。経験の神話的モードは、人生と健康と意義の源泉となる一方で、狂気と厄災の源泉ともなりうる。伝統社会はそれを知っており、それに従って行動していたのだ。

そのため、ある伝承によれば、1870年代後半、ウォヴォッカという名のパイユート族の男が、グレートプレーンズのネイティブ・アメリカン部族のより良き未来のビジョンを受けたとき、パイユート族長老たちの最初の反応はそのビジョンを拒否することであった。そのような拒否には理由もあった。ウォヴォッカのビジョンが教えていたのは、もしネイティブ・アメリカンの人々が自身を純化し、聖なるダンスを踊れば、白人の侵略者は無力化され、バッファローは帰り、祖先たちは復活し、あらゆる悪と死は永遠に消滅するということだった。パイユート族の長老たちがなぜそのような決断を下したのかという理由は伝わっていないが、しかし、グレート・プレーンズのネイティブ部族は決して愚かではなかった; 彼らは厳しい環境下で何世紀にもわたって生き延びており、神秘的な体験を建設的に扱う、微妙で効果的な方法を知っていた。Lovelessやガウルのアマディスよりもはるかに奇妙で非現実的な物語を、文字通りの真実として受け入れない程度の分別はあったのだ。

けれども、そのレベルの明晰さは、続く数年の間、グレートプレーンズの部族がもはや後のない状況に追いやられるにつれて、維持が困難になった。東方の、人口も技術的にもはるかに圧倒的な社会による侵略と征服に直面し、彼らは1世代以上も絶望的な戦争を戦い続けなければならなかった。そこでは、最も圧倒的な勝利でさえ、単に侵略者がより大きな力で戻ってくる前のつかの間の休息でしかなかった。あらゆる社会が暗黙のうちに世界と代わす取引 - 我々はこのように生きる、そして世界はそのような生き方を可能とする状況を維持する - は、後戻りできないほどに破壊された。そして、プレーンズの部族の多数は、耐えがたい現実から抜け出す方法を与えてくれると思われるものは何であれ、それを喜んで受け入れるまでになったのである。

1889年1月1日、日食が起きた。日食の間、ウォヴォッカは以前より更に詳細なビジョンを受け取った。このときは、彼のビジョンは広く受け入れられた。グレートプレーンズの全体で、ネイティブ部族は、後に幽霊ダンスと呼ばれるようになったダンスを受け入れた。ウォヴォッカの指示に従い、自身を純化するために聖なるダンスを踊った。突飛な噂が広がっていった。ウォヴォッカの元のビジョンを詳細化し、幽霊ダンスのために作り上げられた精巧なダンス用シャツを着用すれば、銃弾を跳ね返せるというのだ。パイユート族の地方からカナダ国境に位置するラコタ族地方に至るまで、ネイティブ部族はダンスを踊って、侵略者が無力化され、祖先とバッファローが帰ってくる輝かしい希望を待ち続けたのだ。

その代わりに、1890年12月28日に起こったのはウンデッド・ニーの大虐殺 *4であった。大砲、そして当時最新鋭のホチキス機関銃で武装したアメリカ兵が、大部分が非武装ラコタ幽霊ダンサーの集団に攻撃を加えたのだ。幽霊ダンサーシャツは、銃弾と砲弾の嵐から守ってくれなかった。153名が死亡し、ほとんどが女性と子供であった。その後すぐ、侵略者に対する最後の抵抗は潰えた。事実が真実の敵と化したときには、言い換えれば、たいていの場合、敵対者よりも更にやっかいな敵と衝突することになるのだ。ドン・キホーテが、風車を戦うべき巨人と見間違えたときには、ただ打撲を負い恥をかいただけであった。ゴーストダンサーたちは、それほど幸運ではなかった。

きわめて長い期間にわたって、西洋の人類学者は、幽霊ダンスやその他同種の事象 - そのような事例はきわめて多数あり、特に16世紀から19世紀までのヨーロッパの世界制服キャンペーンへの反応として多く見られるが、しかしそれだけではない - に対し、不毛な精神性である 自民族中心主義 エスノセントリズム から、あるいは、おそらく、 技術中心主義 テクノセントリズム からアプローチしてきた: すなわち、そのようなことは純粋に「原始的な」人々のみに、ヨーロッパ人が先進的と考えるテクノロジーを欠いた人々のみに見られるもので、聖なるシャツの着用や聖なるダンスといった神話志向の行動では、大量の火力に勝利できないと認識できないほどに単純な考えを抱いているという偏見である。古い人類学の論文誌には、その分野の学者たちが言うところの「再興運動」について大量の文献がある; 価値のある例外はあるものの、その種の文献のほとんどには、今述べた技術中心主義的な傲慢さが、少なくともその痕跡が存在している。

単純な優越感による無知な捉え方は、20世紀まで生き延びるべきではなかった。ナチズムと共産主義という苦い事例は、当世の科学と疑似科学から語を借用して着飾った古典的な再興運動が、地球上で最も進んだ技術的な社会でも栄えることができると示している。更に最近では、2012年12月21日のマヤ歴の偽予言を取りまく希望的観測のバカ騒ぎは、再興運動のほとんどの特徴を備えている。また、率直に言えば、その狂った信念体系の支持者は、ほぼ例外なく、快適で、教育のある中上流階級の現代アメリカ社会からもたらされた。

再興運動の中心である集団的な妄想へ人々を駆り立てるものは、言い換えれば、現代テクノロジーや現代教育の有無とはいかなる関係もない。それは、この記事で取り上げた若い男を狂気の縁へと追い立てたのと同じ力である。アニメキャラとしての妄想的なアイデンティティを取らせた個人的・社会的な原因は、彼を個人的に知らない我々にとっては、推測不可能である。一方で、今日のアメリカ社会の "満足した階級" に、この連載の最初の記事で議論した通りに、理性からの逃避を起こさせている巨大な心理的・文化的圧力を認識することは、それほど難しくはない - 古典的なスケールの再興運動であり、その参加者は自身にとってのバッファローと祖先に相当するものを取り戻すことを目的とした、ますます華やかになる儀式の一連の行動に関与している。次はそれについて話そう。

The Shoggoth Concerto (English Edition)

The Shoggoth Concerto (English Edition)

  • 作者:John Michael Greer
  • 出版社/メーカー: Founders House Publishing LLC
  • 発売日: 2019/07/17
  • メディア: Kindle
LOVELESS: 1 (ZERO-SUMコミックス)

LOVELESS: 1 (ZERO-SUMコミックス)

*1:まわりくどい書き方をしているが、要は「自分は黒人だ」と主張する白人のこと

*2:Rachel Dolezal - Wikipedia

*3:グリアは (また、redditの元記事の投稿者も) リツカはソウビのgirlfriendであると書いているが、Lovelessの設定ではソウビもリツカも両方男性である。これがアメリカで作品が改変されためか、それとも元記事投稿者のカン違いであるのかは不明。

*4:ウンデット・ニーの虐殺 - Wikipedia

翻訳:時の果ての踊り子たち Part 1: 理性からの逃走 (ジョン・マイケル・グリア)

ジョン・マイケル・グリアによる2019年10月30日の記事の翻訳です。

Dancers at the End of Time, Part One: The Flight from Reason

かなり長い間、我らが時代の最大級に奇妙な特徴について語る方法を私は考えてきた - ある種の、とてもシンプルな思考方法が、突然に、豊かで教育も教養もある人々、何があろうともその思考方法に固執するであろうと考えられてきた人々、の頭からすっぽりと抜け落ちてしまうことである。幸運にも、偶然目にした3件の記事のおかげで、私が考えていることが、とある迷宮を通る1本の糸であることが分かった。古くからの私の読者は、その3件の記事は、奇妙な取り合せになるだろうと予想しているかもしれない - そして、実際のところその通りである。お堅い雑誌に掲載された、哲学者による堅固に考えられたエッセイ、レズビアンの神学徒によるブログ記事、恋人がある種の狂気に陥っていく様子を目撃した若い女性によるソーシャルメディアフォーラム上の投稿である - しかし、すべてを合わせると、この3つの記事は我らが時代の危機の、最も認識されていないにもかかわらず最も重要な特徴を指し示しているのである。

哲学者、アラン・ジェイコブズのエッセイから始めよう。そのエッセイのタイトルは『キャンパスにおける覚醒と神話』であり、ニューアトランティス誌に2年前に掲載されたのだが、私が注目したのは先週であった。このエッセイには優れた点が多数あるが、その中でも、私が今考えている思考方法の崩壊が、詳細に、整理されていることである。

[ジェイコブズの記事は、大学生の政治的過激化と社会の分断について説明するもの]

『たぶん私はこれを一人称に変換したほうが良いだろう。それは、3年前[2014年]、タナハシ・コーツがアトランティック誌で、有名な『[奴隷制に対する] 損害賠償の論拠』というエッセイを発表したときの経験を部分的に説明しているからだ。Twitter上で友人と会話して、私が言ったのは、そのエッセイは奴隷制時代と後のジム・クロウ法時代の余波およびその後の状況が、今なお続く[アメリカ黒人の] 破滅的な結果を生み出していることについて、圧倒的なまでに力強い論拠を提示していると考えたけれども - 同時に、コーツは、実際のところ、賠償金の支払いこそが、そのような悲劇的な状況に対処する最も適切な方法であるという主張の論拠を示せていないとも感じたのである。友人たちが私に言ったのは、「オマエは人種差別の現実を否定している。」ということだった。その後何を言っても、コーツのエッセイすべてを私が拒否したという友人たちの誤解を解くことはできなかったのだ。』

少なくとも、理論上は、目的と手段を、目標の説明とそこへ到達する手段の提案を、あるいは、何かが非常に間違っていると認めることと、ある特定のプログラムがその問題を解決するための最適な手段であると認めることとの区別をはっきりとつけて考えることは、それほど難しくないように思える。ジェイコブズの友人たちは、このような比較的シンプルな思考活動すらできなかったように見える。彼の経験談がこれほどまでに意義深いのは、今日では我々のあまりに多数が似たような経験をしてきたからだ。

私の場合の同等の話、つまり、我らが時代の集合的思考に何らかの非常に、非常に良くないことが発生したのだと確信した出来事は、ドナルド・トランプの選挙後数ヶ月間に起こった。何百万人というアメリカ人がトランプの立候補を受け入れたという不都合な事実に直面して、ヒラリー・クリントンに投票した人たちは、トランプに投票した人は皆レイシストに違いないと主張したのである。このようなリベラル派のヘイトスピーチがあまりにたやすく反証可能であるという事実も、影響を及ぼさなかった; 私よりもはるかに影響力のある多数の人々たちが、トランプを大統領とすることは、トランプが破壊せんとしている破綻済みの超党派コンセンサスをもうあと4年間続けることよりも、有権者たち自身と家族とコミュニティにとってほんの少しだけ破滅的ではないギャンブルであるという問題を詳細に議論したことも、影響がなかった; トランプを大統領とした上中西部の人口分布は、8年前、バラク・オバマホワイトハウスに送り込んだときの人口分布とまったく同じであったという事実さえ、まったく影響を持たなかった。

もし、これらのことを「ヤツらは単なるレイシストだ。」と繰り返す人々に対して指摘したとすると - イエス、私はオンラインでもオフラインでも一度ならずそう試みたのだが - その反応は (少なくとも、私が受けた反応は) 真なる信仰者にはありがちな遠い目をして、反論を試みたのとまったく同一の論点を繰り返すだけであったのだ。もしも、民主党員が2020年のトランプ再選を阻止したいと望むのであれば、まさに民主党員がレイシストとして退けた有権者たちの信頼を取り戻す必要があり、その同じ有権者たちにおそらく誤った中傷を投げかけたとしても主張を受け入れさせることはできないだろうと指摘することさえ、無意味であった。私がそう言ったときに受けた反応は、お分かりの通り、再び遠くを見つめて、論破されたお決まりの論点をもう一度繰り返すのであった。それは、率直に言ってきわめて不気味な光景であった。

エッセイの中で、ジェイコブズは、この種の会話に示される奇妙な疑似ロジックの背後に存在している事象に対して、正確な診断を提供しているように思える。ポーランドの哲学者レシェク・コワコフスキのアイデアを引用し、ジェイコブズは、非常に広く言って、世界を理解するための2つの方法 - コワコフスキの用語では、2つのコア - について述べている。それらは、我々自身の社会も含むあらゆる人間社会で重要な役割を果たしている。一つは、神話的なコアであり、もう一方は技術的なコアである。(後者の用語は、私にとってはほとんど皮肉のように思える。それは、 技術 テクノロジー は現代の神話的思考において最も一般的なテーマであるからだ。しかし、その語はコワコウスキが選んだものである。) 技術的なコアとは、我々が世界を操作可能とする一連の行動と知識を指す; 神話的なコアは、一方で、人間経験の非理性的な背後へ達する一連の行動と知識である。

ジェイコブスの推測によれば、今日のあまりに膨大な人々が「技術的コア」を見失ない、「神話的コア」の中からだけで考えているというのだ。そのような思考の神話的モードからは、問題と解決策の区別も、ましてや、ある人の投票行動の動機を理解し、彼らの心を変える方法を見いだすことはまったく視界に入らない。ジェイコブズの指摘するところによれば、大学キャンパスなどにおける「目覚め」の文化は、その代わりに冒涜やタブーといった古風な神話的概念に依拠しているのだという。誤った意見、およびそのような意見を持つ人々は集団から排除されなければならない。なぜならば、それらは恐しい瘴気を運んできて、近づいた者は呪われてしまうかもしれないからだ: それが、「安全空間」と「トリガリング」からの逃走のロジックである。

私は、ジェイコブズのこの診断は極めて正しいと思う。この議論を更に先へと進めるためには、けれども、彼がコワコフスキから借用したいくつかのアイデアを再検討し、コワコフスキが考えるよりもさらにあいまいで広がりを持つ、現代社会における神話と理性の理解を調査することが必要となるであろう。

それでは、数式の神話側から始めよう。神話 [myth] とは正確には何であろう? ギリシア語の単語 μυθος ミューソス、の元々の意味は、単に「語ること」 であった。その後に、"真に重要である語り" という意味を強調したにすぎない: すなわち、我々はどこから来たのか、我々は何者であるか、そして我々はどこへ行くのかを教える物語である。それでも、根本的な意味は中心に留まり続けている: 神話とは、物語である。それにはキャラクターがいて、設定があり、プロットがある; マーク・トウェインが言ったとおり、あらゆるすぐれた物語は、どこかへ行って何かを行うものである - そして、どこへ行くか、何を行うかは、人間の生涯において中心的な機能を持つ。

読者諸君が小さな子供であったころ、親は寝る前に同じ物語を毎晩毎晩読み聞かせただろうか?そうであるならば、あなたは神話を自然生息状態にて経験したということになる。お馴染みの物語の繰り返しは、すべてと言わずともほとんどの人間文化において子育ての中心的な要素なのである。なぜなら、そのような物語から、子供たちは個人的、社会的、そして自身の住む自然世界にまつわる最も重要な態度と価値観を吸収するからである。これらの物語は、逆に、そのようなものごとを理性的、論証的に伝えるわけではない。むしろ、空想的な関与を通して伝達するのである。

それが、等式の一側面である。それでは、コワコフスキの誤解を招きやすい「技術的」という用語を無視して、等式の逆側を「 実際的 ラクティカル な」側面と呼ぼう。人間の経験の神話的モードが関与型である一方で、実際的なモードは、道具型である; そのモードは、我々が何かを実現したいと考えたとき、あるがままの世界に関与するだけではなく、世界の中で行動したいと思うときに使う方法である。神話的モードのなかで考えているときに鳥が飛び去るのを見れば、ある意味では、その光景がもたらす空高く飛び立つ自由を経験することができる; 実際的なモードで思考しているときに同じ鳥が飛び去るのを見れば、翼の機能を解明しようと挑戦し始めるであろう。

もし私がコワコフスキを正しく理解しているならば - もし間違っていれば、喜んで訂正を受け入れたいと思う - 彼はこの2つのコアを異なるものとして見ていたようだ。全般的に、人間は、どちらかのモードだけを通して世界にアプローチするのである、と。彼の「技術的」という用語の使用法が誤解を招くものであるのと同じく、シンプルだが深い理由により、私にはこれも誤りであるように思える。実際的なモードは、何かをどのように行えば良いかを教えてくれるが、しかし何をすれば良いのかは教えてくれない。実践的なモードを使えば翼の機能を理解できるが、けれども、ライト兄弟に最初の飛行機を作ることを夢見させたのは、実際的なモードではなかった; それは、翼を使い飛ぶ鳥を見るということ、そして、人間も同じことができるはずだという物語を熟考するという関与型の経験から来た、空を飛ぶ夢からもたらされたのだ。手段と方法は実際的な経験のモードからもたらされるが、目標や目的や価値は、完全に神話的モードからもたらされる。

これが議論の余地のある主張であることは、私も理解している。今日の工業諸国のほとんどの人々は、自分たちは神話を信じていないと強く主張し、自分たちが信じていない物語のみを指して「神話」という語を使用するようになった。それでも、さほどの努力を要せずとも、今日の人々が自身の人生に意味、目的や価値を与えるために神話的な物語を使用していることを読み取る方法を学習できる: そのような神話の使用は、生産的な場合もそうではない場合もある。

1960年代から70年代には、交流分析として知られる精神科医の一派が、神経症および人格障害に対するナラティブアプローチを開発した。その物語の非常にシンプルなバージョンは、精神的な問題を抱える人々は、自滅的な脚本を生きているという発見であった: そのような物語の患者自身は無自覚であるが、他の人々とのインタラクションに強力な重力的引力を行使する。もしも患者が、自身の演じる脚本を認識するようになれば、魔法は解け、いくらか機能不全的ではない方法で人生に向かう方法を学べるのである。交流分析は、精神的な治療職に対して製薬産業が強力なプレゼンスを獲得して以降流行遅れとなってしまったが、交流分析の発見は、それ自身のイメージの中で価値観と目的を形成する物語の力の生き証人として留まり続けている。

我々のほとんどは、自分の人生を形作る物語との間で、それほど問題のない関係を保っている。その物語がどのようなものであるか確固たる認識を抱いているかもしれないし、そうではないかもしれないが、我々が何に価値を置くか、何が人生に意義を与えるのかを知っている。人生の価値や意義を知った上で、我々は実際的なモードに転じ、それらを自身の人生にもたらす方法を考え出すのである。その結果は、神話的モードと実際的モードの対話であり、そこでは神話的モードが目的を提供し、実際的モードが手段を提供する。けれども、それだけに留まらない。なぜなら、何が現実的に到達可能であるのかについての実際的な省察が、必然的に、いかなるゴールに価値を置くかという我々の考えを形作るからであり、一方で、何に価値を置くのかという神話的な省察が、必然的に、目標へ辿りつくために用いる手段についてのアイデアを形作るからだ。

(よくある誤解を予防するために、人間が自分自身と、相互に、あるいは世界との関係を築く方法は、経験の神話的モードと実際的モードの2つのみではないと指摘しておかなければならないだろう; それ以外のモードも存在する。たとえば、エロティックなモードもある。神話的モードが価値と意義に関わり、実際的モードが手段と実用性に関わるのに対して、エロティックなモードは欲望と充足に関わる - 性的なコンテキストのみではないが、けれども、それにも関係する。比較的バランスの取れたパーソナリティにおいては、神話的モードと実際的モードが交流に入り、代わって、エロティックなモードもまた会話に参加する; エロティックモードが我々の欲求を形作り、実際的モードがそれを獲得する方法を探す。そして、神話的モードが、欲望とその充足を人生の意義と価値というより広いコンテキストに置くのである。)

だから、我々の精神の中にはさまざまなものが存在するが、我々が関与する神話的あるいは半神話的な物語というものが存在しており、それが意義や価値の感覚を与える。また、我々には、道具的に評価する実際的な関心事項があり、それが意義や価値の感覚に沿って行動するためのツールと選択肢しを与える。ここで概略を示した分析の用語を使い、ジェイコブズは、「目覚め」の文化に参与する大学生は、政治問題に対する際に実際的なモードを見失い、実際的なモードがもたらすはずであったリアリティテストの利益や現実性への感覚を失い、政治問題に純粋に神話的な視点から反応しているのだという。

私が言及しようと考えていた2つ目の、偶然眼にした記事が、この推測を強く支持している。書き手は、トランスジェンダーの問題に関心を持つ、恋多きレズビアンの神学徒 (本人の自己紹介による) で、ジェーンというハンドルネームを使っており、また彼女のブログは「トッピングは定言命法に反する [Topping Violates The Categorical Imperative]」という題を付けられている。(オンライン文化の自己言及的複雑性を学んだことのない遠い未来の学者たちが、このシンプルな平叙文の意味を理解しようとするところを、私はとても見てみたい。) 私が注目しているジェーンの無題のエッセイでは、現代における理性崩壊の異なる面に着目している - 現代リベラル派の想像力の中で、抗議デモが、政治活動の戦略から暗黙の政治的終末論を前提とする魔術的行動へと変貌したことである。

ジェーンの分析は辛辣である。彼女の指摘によれば、マーティン・ルーサー・キング Jr. およびその他の公民権運動のリーダーたちは、実際的な理由により自身の取る戦略を選択したのであるが、けれども、1960年代以降の企業リベラリズムは、キング牧師の遺産を可能な限り無害化しながらも世俗的聖人として受け入れるために、隠された終末論の用語から抗議デモを再定義したのだという。それによると、「真実を権力者に語る」という単なる事実により、魔法のごとく真理が遍く広がり、権力が真理に従うことを保証するとされる。ジェーンはこのように説明している:

「そして、これが現代リベラル政治が受け継いだものである - 正しくあることは勝利することよりも重要であるという信念である。なぜなら、誰かが、最高裁判所かもしれないし神かもしれないが、ペナルティ・フラッグを投げ入れ、すべてが正されるであろうから。民主党はもはや選挙に勝とうとはしていない。彼らは、何らかの審査で、自分たちが勝利すべきであり、自分たちは正しいということを示す論拠を構築しようとしている。そうすれば、何らかの審判員が審査を行なったとき、彼らに報いてくれるだろうというのである。しかし、このアプローチの起源を述べておく必要があるだろう。白人リベラルのエスタブリッシュメントは、大衆の関与を否定する公民権運動についての物語を作り、 (なぜなら革命的ポピュリズムは危険であるが、しかし公民権の獲得を支持すると主張しながらも、一方で、あらゆる公民権運動のリーダーおよびそのような獲得をもたらした手段を批判することがどうしてできようか?) その後即座に自身が作ったフィクションと恋に落ちたのだ。彼らは、相互にまた我々に対して、何度も何度も、MLKが勝利したのは彼が正しく、彼が正義であったからだと語ったのである。そして彼らはあまりにそのフィクションを語りすぎたために、自分自身でもそれを信じるようになったのだ。」

私はこの説明に1つ異議がある。それは、ペナルティ・フラッグを投げ入れると想定されているのは、最高裁でも神でもないといことだ。社会変革の提唱者たちが取る態度は、使い古された「権力者に真実を話す」というフレーズを下支えするロジックを考え通してみれば完璧に理解できるだろう。そのフレーズは、典型的には、今日、抗議デモが路上にくり出すときには常に使われるものだ。中世においては、「権力者に真実を話す」のは、宮廷道化師の役割であった。道化師たちは、他の誰もが口にできないようなことを言うことにより、主人を楽しませるのである。そんなことが道化師に可能であるのは、逆に、宮廷にいる誰もが、実のところ、道化師は重要人物にとっての脅威でないということを理解していたからである; 道化師はふざけて、杖の先についたベルを振り、宮廷の同輩らからは嘲笑されると思いもしなかった罪や欠点を言い立てて、主人たちを楽しませる。道化師の主人は、権力を固く保持しており、笑って拍手し、公の場での自身の侮辱を許す寛大さを示すのである。つまり、道化師の役割は、まさに最近、ダボススウェーデン人のティーン活動家、グレタ・トゥーンベリに与えられたものとまったく同等である。

「権力者に真実を話す」というファッショナブルなお喋りの問題は、言い換えれば、そのフレーズが2つの自己敗北的な仮定を含んでいることである。1つ目は、ただ自分たち抗議者のみが真実を所持しているという仮定である; 2つ目は、彼らが語る対象の人々だけが権力を持っているということである。成功した社会変革運動は、逆に、自分たちは真実の一部しか持っていないことを常に心に止めている; これにより彼らは融通が効くようになり、自分たちが変えようとしている状況に対する新しい捉え方ヘと自身を適合させられる。また、異なる信念を持っているかもしれないが潜在的には相互支援し同盟を結びうる別の集団と、共通の基盤を見いだすことにもオープンでいられる。また、成功した社会運動は、自身が既に持つ権力に常に注意を払い、社会に対して最大限の影響力を行使するためにその権力を活用するのである。この2つのアプローチを放棄した場合は、今日の左翼活動家の典型的な状況に陥るであろう。つまり、自分自身の完璧な善と徳を完全に確信して、また権力のある他人が何かを与えてくれるさえすれば望みのものが手に入ると確信し、それゆえに権力者のテーブルで何らかのおこぼれにあずかろうと望み、独りよがりのかんしゃくを起こすだけに陥った人々である。

けれども、それは、ここ数十年の間誰も興味を持っていないように見える考察であった。まったく逆に、最近、抗議デモは大きな成果を上げることに失敗していると議論しようとするたびに、私は、アラン・ジェイコブズが友人から受けたのと同じ反応に晒されるのであった。つまり、「その解決策はうまく行かない。」と言うことは「その問題はリアルではない」と意味するのではないと理解できない人々からの反応である。あるいは、この件に関して言えば、実際には他人種の人々に偏見を抱いていない人々に向かって「レイシスト!」と叫ぶことは、その人たちに話を聞いてもらうために有効な方法ではなく、まして自分の支持する候補に投票させるための効率的な方法ではないと指摘したときに受ける反応であった。そのような奇妙な近視眼的イマジネーション、およびそれを不可視とする自傷的な敗北は、我々の社会においては比較的新しい現象である。けれども、それらは歴史上のさまざまな事象で不気味な反響を響かせている。次の記事では、三番目に偶然眼にしたエッセイの助けを借りて、より深く迷宮へと潜ろう。

翻訳:選ばれし者の墜落 (ジョン・マイケル・グリア)

ジョン・マイケル・グリアによる2019年9月4日の記事 "The Fall of the Chosen Ones" の翻訳です。

The Fall of the Chosen Ones

もう長いこと、私は現代の危機と将来の最初の胎動に関する洞察をどこで得られるのか予測しようとすることを止めてしまった。私はたくさんのニュースとたくさんのブログを読み、それらは旧来の右派と左派のカテゴリがせいぜい暫定的なカタマリでしかないような非ユークリッド的な光景をカバーしているのだが、それほど頻繁ではないものの別の情報源からのデータが私の思考を促し、その中の一つが毎週のエッセイとなることもある。今回の場合、それは私の小説についてのレビュー、またDreamwidthブログ上でそのレビューについて語った時に受けた反応であった。

ほとんどの読者はお気づきだろうと思うが、私が執筆するものには多少のフィクション作品が含まれている。そちら側での私の最新作は、H.P.ラブクラフトクトゥルフ神話のまったく新しい解釈で、巨大な廃墟とそこでの触手的恐怖を描くものだ。それらの小説は結構な数のレビューを受けたが、ほとんどが好意的なものだった。私が驚いたのは、けれども、そのシリーズの第四作へのレビュー中のディテールである: レビュアーは、その本の主人公が単なる普通の人物であることにたいそう驚いたのだ。

当然、レビュアーはとても正しい。『ウィアード・オブ・ハリ: ドリームランド』の主人公は、末期癌と闘病するマサチューセッツ州の小さな大学に勤める年老いた教授である。彼女は超人的パワーを持たず、神秘的な出自もなく、偉大な運命もなく、伸縮性のスーツとマントも着ていない。ただ強い好奇心と頑固な性格を持つだけである。これらの性格およびまったくの偶然の結果により、彼女はラブクラフトが "夢の地" と呼んだ奇妙な存在次元での冒険に突き落されることになる。その結果 - まぁ、私は皆と同じようにネタバレを嫌っている。この辺りで終わりにしておこう。

彼女は、そのような平凡さの唯一の事例ではない。私の小説と短編のほぼ全ての主人公は、特異な状況に相対した普通の人々である。普通の人間から少しだけ逸れた能力を持つ唯一のリードキャラクター - 『ウィアード・オブ・ハリ: キングスポート』の主人公ジェミー・パリッシュは、他の点ではごく普通の若い女性であり、最も特筆すべき点は、読書好きの性格と並外れて不器量な顔立ちである。その他は? 何らかの形で変わった人もいる。ちょうど、我々の多くがそうであるように; いかなる想像可能な意味においても、 模範人物 パラゴン ではない。登場人物たちは、私や読者と同じような人々であり、ファンタジー的な冒険の完全に予想外の出来事に対処するための彼らの闘いは、物語のエンターテインメント的な価値の多くを提供する。

そのため、ミリアム・エイクリーが普通の人物であることにレビュアーが気づいたことは、私にとって驚きではなかった。私が驚いたのは、彼がこれに驚いたということだ。私はそのことについて熟考し、私が読んだ最近のファンタジー小説 (あるいは、むしろ最近多いのは、読み始めて退屈し、積んでいるもの) を考えて、そしてそれをDreamwidthブログで取り上げた。そこでは、他のテーマと合わせて、このブログに書くまでには準備できていない雑多なテーマについての断章を投稿しているのだが - 私は意外な点に気がついた。

どうやらここ数十年ほどの間 - まったく別の理由で、ファンタジーとSFの最新作品のほとんどに私が退屈してしまった時から - それらのジャンルは、同一の基本的なストーリーをエンドレスに語り直すことを吐き気を催す程度にまで詰め込んでいる。既にそのストーリーはご存じであろう、読者諸君、たとえファンタジーSF小説の表紙を一度も開いたことが無かったとしても。それは、"選ばれし者" の物語である: 勇敢で、 不当に扱われた子供もしくは若者であり、他の誰よりも才能があり、輝かしく偉大な運命に特徴づけられている。もしかしたら、おでこには雷の形をした傷があるかもしれない。もしかすると、血管のなかには多数のマイクロハンドワヴィアンが流れているかもしれない。もしかすると - まぁ、読者自身でこの空白を埋められるだろう。

ところで、当のキャラクターは、我々が今議論しているような役割を割り当てられるために、何かをしたり学んだりする必要はない。ノー、選ばれし者が選ばれし者であるのは、彼または彼女または 「お好きな代名詞を記入」が、選ばれし者であるからだ。それが理由であり、そしてまたあまりに多くの場合、プロット全体である特定のキャラクターの周囲を宇宙全体が転回する理由である。更には、選ばれし者は常に特別である。彼または彼女またはその他何であれ、プロットの中心となる何かしらの問題を解決できる唯一の存在であるという形で、何かしら痛ましいほどの特別な点の特別な特別性により他の人類全体からは常に区別されており、純粋で無目的な悪意より生み出した問題を起こす、何らかの邪悪なる邪悪性の邪悪卿を蒸発させるのである。(それはまた別の、今日のファンタジーの中心にあまりにありふれた神経症的けいれんである。しかし、それはまた別の議論のテーマである。)

そのような物語のすべてが、この要約から受ける印象通り退屈であるわけではない。私はハリー・ポッターのファンではないが - 魔法使いの少年とその友人たちの物語は、最初の数巻を通してほとんど私の興味を引くことがなく、第四巻で私は完全に興味を失ってしまった - しかし、それが選ばれし者の物語であることは確かだ。初期の本のハリー少年は他のほとんどのファンタジー小説よりも少しだけ興味深いのだが、その理由の大部分は、彼と同世代の子供が一般的に行うであろうおバカな行動を取ることについて、エンターテインメント的な余地が残されているからだ。選ばれし者についての物語で、それよりもはるかに、はるかに退屈なものは多数ある。はなはだしい形では、実質的に、選ばれし者を回転する台座の上に据え付けて、さまざまな角度からあらゆるご立派な性質を顕示できるようにすることで構成される物語も存在する - 最近では、そのようなものは極めてありふれている。

誤解される可能性のある点を、すぐに解消しておかなければならないだろう。このような物語は、人々がお話を語り初めた時以来存在してきたということである。アーサー王伝説の、過熟した後期のガラハッド卿は偉大な事例である。キリスト教神秘主義者は彼を愛しているが、それ以外の誰も彼に耐えられないだろう。なぜなら、ガラハッド卿は選ばれし者であり、何も間違ったことをできないからだ; 聖杯を発見するために旅に出て、予め定められた一連の冒険を乗り越え、そして、とてつもない神聖さという悪臭のなかで即座に死に、天国へと向かう。アーサー王伝説の他の騎士や女性たちはそれよりはるかに普通であり、それゆえにもっと興味深いので、誰もアーサー王伝説を問題視しないのだ。

更に言えば、英語の小説を発明した男 - サミュエル・リチャードソン - は、更にひどい同種の事例である。彼の最初の2つの物語、『パミラ』と『クラリッサ』は、嫌がるヒロインを熱心に追い求める、好色な悪漢が登場するロマンス小説であった。(イエス、その通りである。初の英語小説は官能エロ小説であったのだ。) 彼の3番目の作品、『サー・チャールズ・グランディソン』にも、嫌がるヒロインと好色な悪漢が登場するのだが、しかし他のメインキャラクターも存在する。それが前述のチャールズ卿で、カタブツの道徳的な模範人物なのであった。たとえば、ヒロインをめぐって彼と悪漢が決闘をしようとする際、何が起こったと思うだろう? いやはや、チャールズ卿は、決闘の邪悪さについて悪漢に教えを垂れるのだ。案の定、悪漢は彼のもったいぶったウンチクの誇示に感銘を受け、その場で決闘を放棄するのである。話は更にひどいことになるのだが、しかし読者のなかには最近そのような物語を見たことがあるかもしれないので、ここではこの先は言わないでおこう。

ここで心に留めておくべきことは、当時、リチャードソンは唯一の事例ではなかったということだ。彼の小説は、最初の優れた英語小説家、ヘンリー・フィールディングをインスパイアし、彼にペンを執らせ、一連の反作用を解き放った; 最初は、『パメラ』に対する友好的なパロディである『シャミラ』; そして、『ジョセフ・アンドリューズ』、リチャードソンの最初の2つの小説の基本的なプロットを採用し、性別を入れ替えることで『シャミラ』を更に改善した作品、つまり、無垢な若者のジョセフが、欲深い高貴な夫人に求愛され、何度も滑稽な逃避行をするのである; そして、一般的に英語小説の最初の傑作とみなされている『トム・ジョーンズ』は、若く、温和で、必ずしも純粋ではない若者が、最終的に幸福と真実の愛を得るまで、冒険から冒険へ、ベッドからベッドへと渡り歩く (さまざまな意味で) 途方もない物語である。

その後の英語文学史は、少数のチャールズ・グランディソン卿と大多数のトム・ジョーンズにより特徴づけられる - つまりは、完璧さのパラゴンであるごく少数のキャラクターであり、それゆえに驚くべきほどにつまらない者たち、他方では、膨大な数のもっとありふれたキャラクターで、はるかに面白い生涯を送る者たちである。1895年、ウィリアム・モリスが突然に『The Wood Beyond The World』でファンタジー小説を発明したときにも、同様の基本的分断が適用された。モリスは、自身の想像上の世界の中心に位置する、普通の、実在を信じられるような、脆弱なキャラクターを作ることにかけては天才であった。『The Wood Beyond The World』の主人公は、たとえば、ワルターという名の若い商人であり、破滅的に破綻した結婚から逃げて、次の船に乗る; そして、冒険が続く。彼は、とてつもない物語となった、普通の状況にいる普通の男である。

モリスの次の小説、『The Well at the World’s End』 - トールキンの時代まではファンタジー小説の最高傑作であり、今でもこのジャンルの代表作の一つ - にはラルフという名の主人公が存在する。彼は、その名前と同じ程度に平凡である; 彼は若く、いくぶんバカであり、実際のところ、そのきわめて複雑な小説の多数のテーマには、無知な若者が偉大なことを成し遂げるプロセスも含まれている。疑問に感じている読者諸君のために、イエス、モリスの小説には女性キャラクターも存在する。彼女たちは、トールキンのほとんどの小説とは異なり、単なるお飾りではない。『The Well at the World’s End』の女性リードキャラクター、ウルスラは、独自の長い旅をして、半分以上の冒険の責任を担う; 『The Water of the Wondrous Isles』のヒロイン、バーダローンは、身の毛もよだつような子供時代を経て、今日の"目覚めた"ファンタジー小説のヒロインが恥じるほどに強くタフな女性となる - そして、どのようなわけか、モリスは、自身のキャラクターに何らの生まれつきの特別な力や輝かしい運命を授けることもなく、これらすべてを実現したのだ。

私はトールキンと [指輪物語の主人公] ビルボ・バギンズについて語る必要があるだろうか? おそらく彼は、(毛むくじゃらの脚その他を除けば) おそらく、あらゆる文学の中でとは言えないまでもあらゆるファンタジー小説の中で最も困惑するほどに平凡な登場人物であろう。ノー、ビルボその他の数え切れないほどの完璧に平凡なキャラクターが、ファンタジー小説の中で完璧に驚愕の冒険に遭遇する事例はスキップしよう。そして、私が議論したいと思っている変化の直前にまで進もう。イエス、それは1977年となるだろう。ルーク・スカイウォーカーの名を突然に誰もが知るようになったときである。オリジナルのスターウォーズ映画では、後の後付け設定を除けば、スカイウォーカーはたまたま面白い父を持っただけの未熟で無知な農民の子供であり、たまたま宇宙から適切な2体のドロイドが孤立した砂漠の星であるタイトゥーンに墜落した際、適切な時期に適切な場所に居たからという理由により、彼は壮大な冒険に出発するのである。ルークは特別ではない。- 実際のところ、映画の大半で、彼は絶望的に力を欠いている - それによりルークは危機、愛、悲しみの長い旅路を経て、そして古代の叡智と遭遇し、ふさわしい瞬間にふさわしい行動を取れるようになるまでに至り、大切に思う人々と正義を守るのである。

1977年には、ルーク・スカイウォーカーは "ふつうの子供" であったのだ。(だから、私は最初にスターウォーズが劇場公開されたとき、シアトルのダウンタウンにあるUA150シネマで、7回もその映画を見たのである; 最前席に座っていると、帝国の宇宙船が轟音を上げながら頭上を飛ぶオープニングシーンは、その強烈さにおいてほとんど幻想的であった。) ビルボ・バギンズ、そして彼の甥であるフロドもそうであった。当時私が貪るように読んでいたファンタジーSF小説の、他何百というヒーローとヒロインもそうであった: エドガー・パングボーンの、その主人公の名を冠した小説『デイヴィー』は、明らかに、トム・ジョーンズの遠い子孫であった; マイケル・ムアコックの『エターナル・チャンピオン』シリーズの最高傑作である、紅衣の公子コルム; アン・マカフリーの『竜の歌』のメノリー、アンドレノートンの何十もの小説のすべてのキャラクター、そして、他にもたくさん、たくさんある。ジャンルを越えて、私が最後に定期的に視たTVドラマ、『燃えよ! カンフー』のクワイ・チャン・ケインも、ヘルマン・ヘッセの幻想的な傑作、『デミアン』のエミール・シンクレールもそうである。何らかの形で特別であるキャラクターたちでさえ - フランク・ハーバートの『デューン』のポール・アトリーズが良い例だろう - 完璧とはほど遠く、努力する必要があり、自身の運命の挑戦に立ち向かうためにずっと戦わなければならなかった。

そして、2017年の『最後のジェダイ』の主人公であるレイがいる。レイは "ふつうの子供" のアンチテーゼである。彼女は特別に特別である。レイは、文字通り、誤ちを犯したり何かの挑戦に失敗することができない。言わば、彼女は性別を変えてライトセーバーを持ったチャールズ・グランディソン卿なのだ。そして彼女のあらゆる言動は、18世紀の同等者と同じように、驚くほど退屈である。最後のジェダイが、スターウォーズシリーズのかつてのファンの大多数から冷たい反応を受けた理由は、他にもたくさんある - その愚かしさについての徹底的な批判は、SF作家であるジョン・C・ライトのレビューで読めるだろう - しかし、そのまったくの退屈さは、無敵のキャラクターが力を発揮できるように作られた、形ばかりの危機への対応を眺めることから生じている。

レイは極端なケースではあるが、しかし唯一の事例ではない。もはやクリエイティブであることを止めたハリウッドスタジオの神経症的チックとなった、古いマンガ本の終わりなき再演を考えてみてほしい。部分的には、もちろん、ベビーブーマー世代は老化への道を順調に辿っており、子供時代の情熱を思い出すことは、老人がしばしば行うことであるからだ。部分的には、また、あらゆる他の芸術形式と同じく、映画にも探索し消費するためのある種の概念的空間が存在するのだが、その空間は20世紀の終わりに使い果たされてしまったからだ。半世紀程度の間に、映画が通常通りのサイクルを辿ると、新作映画は現在のグランドオペラの新作と同じ程度にまれなものとなるだろう。そして、映画は今日のクラシック音楽と同じように、古典作品を再演し鑑賞することで生き延びていくだろう。その間には、文化的な死体愛趣味 ネクロフィリア は、死に向かう文化形式の、通常最後の抵抗なのである。

しかし、スーパーヒーローとスーパーデューパーヒーローの終わりなき退屈なパレードは、最後のジェダイと同じ退屈なニッチを満たしてもいる。スーパーヒーローは特別である; それが彼らの唯一の存在意義である。数少ない例外 - バットマングリーンアローは、その代表である - は、恐しい経験と狂信的な自己規律を通して特別な存在となった、相対的に普通の人間である。(おそらく、読者にとっては驚きではないだろうが、この二人を取り上げた作品は、私が子供であったころ最も熱心に読んだマンガ本である。) ほとんどのヒーローは、けれども、特別であるがゆえに特別なのであり、良い物語の第一の要求事項を満たすため、そして、見る人に何が起こるか関心を持つ理由を与えるため、冒険は [スーパーマンの弱点] クリプトナイト的な仕掛けの終わりなきパレードを作る必要がある。

まだまだ長く続けることもできるだろうが、しかしポイントは明らかになったと信じている。異常な状況に投げ込まれた普通のキャラクターは、かつて空想的な文学および他メディアにおける同等物の主原料であったのだが、過去数十年の膨大な量のストーリーテリングは、強迫的に、特別な存在に固定されている。そのような立場に達するために何かをしたからではなく、単に、彼らが特別であるというだけで。彼らは他の人よりも優れており、また他の人よりも優れているからという理由で、何かしらの偉大で輝かしい運命が約束されており、通常、それはただ彼らだけが世界に何が起こるかを決められるということを意味する。

それでは、このような強迫観念の政治的な含意についてしばし考えてみよう。

ルーク・スカイウォーカーが一世代をインスパイアした理由は、まさに彼がふつうの子供であるということだった。最初のスター・ウォーズ映画を宝物のように思ったティーンエイジャーは、何も私だけではないだろう。なぜならば、その映画は、我々も自身にとってのタイトゥーンに永遠に閉じ込められているわけではないと我々に語りかけていたからだ。我々がまったく特別な存在ではないということは何も問題ではない、なぜならば、ルーク・スカイウォーカーもそうだったのだから。彼は、我々に立ち塞がる困難に向き合って立ち上がることを教え、フォースの何らかのメタフォリカルな等価物の使い方を学び、何らかの重大な問題について適切な時に適切な場所に居合わせたいと望ませたのである。

けれども、それはレイ、およびエンドレスに繰り返される彼女の同等者たちが教えることではない。そのようなキャラクターたちが教えるのは、特別で、重要で、偉大になるべく運命付けられたある種の人々が存在しており、それは彼らが何かを成したからでも学んだからでも何かに打ち勝ったからでもなく、純粋に何者であるかのみによるのである。そのような人々だけが意義があるのであり、もしあなたがそのような特別な人々の一人でないのであれば、あなたは重要ではなく、この先に何が起こるかを定めることについて、いかなる役割をも持つことは期待できない。あなたはフォースの使い方を学ぶこともできないし、何かしら重要なことを成すこともできない - それは特別な人々の役割であり、あなたではない。あなたにできることは、厳格に区別された2つの選択肢を選ぶことだけである。受動的に傍観し、特別な人々を賞賛し、その特別性を称え、彼らが世界を救うための行動を取るあいだ、言われた通りのことをするのみである。さもなければ、特別な人々の前に立ち塞がることもできるが、その場合はあなたは邪悪な存在となり、無力化されるであろう。

参考までに言えば、これが意図的なプロパガンダであるとは私は考えていない - そうだとすれば、あまりにバカバカしいまでに露骨すぎる。そして、それは巨大な規模での金の無駄遣いでもある。結局のところ、さまざまな種類の大量の宣伝をされたドブに何億ドルものお金を注ぎ込んでいるのは、何もハリウッドだけではない。ニューヨークの大出版社は、ニュージャージーの工業地区に次々と倉庫を借りて、何百万という売れ残りの小説を保管しなければならない。それらの本は、ベストセラーとなるはずで、マディソン・アベニューの広告代理業者が知るあらゆるトリックを使って宣伝されたのだが、巨大な失敗となったのである。それは皆が書店で数ページをめくるかオンラインでサンプルをクリックして、それ以外の何か別のより退屈ではないものを購入したからである。もしも意図的なプロパガンダキャンペーンを打ち、それが働かないと分かったら、アプローチを変える必要がある; 読者や観客を離れさせる原因となったあらゆる失敗の特徴を、次のプロジェクトで"倍賭け"するべきではない。

ノー、我々が眼にしているのは、工業諸国の管理カーストイデオロギーの産物であると私は考えている。つまり、どのような小説が巨大出版社に取り上げられるのか、どのような脚本がハリウッド映画となるかなどを決めることにより、莫大な額の給料を稼ぐ人々である。より正確に言うなら、我々が眼にしているのは、そのようなイデオロギーの極端な形であり、ある種の信念体系の擁護者が最終防衛線へと追い落とされる時に見られるものである。最後のジェダイのプロデューサーたちは、ルーク・スカイウォーカーを特別さの欠如したキャラクターとして侮辱する必要はなかったし、あれほどまでに崇拝される石膏の聖者としてレイを描く必要もなかったのだ; 彼らがそのようなことをしたという事実は、もはや彼らが何も失うものが残っていないと認識していることを示している。

我々の誰もが、2016年の選挙で誰が選ばれし者となるはずであったかを知っているだろうと思う。そして、彼女が負けたことも。感嘆して傍観し、合図に合わせて拍手し、善人を自称する人々が決めて未来に従い、言われた通りのことをするだけのはずであったあまりに多くの普通の人々は、その選ばれし者が、人々から嫌悪されているにもかかわらず腐敗した傲慢な職業政治家の一派により選ばれたことに気付いたのだ。その人たちは投票日に家に留まったか、現代のうちで最も困惑するほどに普通の大統領候補者に票を投じたのである。それ以降、新しい選ばれし者を発見するための狂乱した試みは、せいぜいが雑多な結果を生んだに過ぎない - 私が思うに、現在のメディアの寵児、グレタ・トゥーンベリに対して注がれる熱狂的な称賛の理由の一つとして、彼女のストーリーが、少なくとも、輝かしく資金力のある広報キャンペーンマネージャーに操作された彼女のストーリーが、我々の議論してきた特別なキャラクターのステレオタイプ化された起源物語に非常によく似ているからではないか。

これがどのように進んでいくのかを確認するためには、今後数年間にわたって観察する必要があるだろう。推測はあるが、しかし推測は推測でしかない。いずれにせよ、けれども、自称選ばれし者の期限が間近に迫っていることは、かなり明らかであると思う。その後、スカイウォーカー風の時代が始まるかもしれない。いずれにせよ、親愛なる読者諸君、もしも何らかの特別な存在が、あなたのために世界を修正するのを待つ必要があると考えているならば、そのような考えをどこから得たのかを自問することは良いアイデアであるかもしれない - また、普段は読んだり観たりしないものを見つけて、あなたや私と同じくらい普通の人々が、本当に困難に立ち向かい、行動を起こし、ものごとを変えることができるのだと気づいてほしい。

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