Going Faraway

渡辺遼遠の雑記帳

翻訳:バーキアン保守主義に関する解説 (ジョン・マイケル・グリア)

この記事は2016年5月11日に書かれた。ジョン・マイケル・グリアによる2016年ドナルド・トランプ当選予測に関するエッセイはこちら

A Few Notes on Burkean Conservatism

最近何度か、このブログ上で現代のアメリカ政治の異常事態について議論しているとき、私は自分自身の政治哲学的な立場を表明する機会があった。それはかなりの混乱と興味を起こしたようだ。なぜならば、私が口にした用語 - 「穏健なバーキアン保守主義」は、今日の集合的言説で許容された政治的意見の狭い範囲に位置づけられないからだ。

もちろん、ここで少なからぬ混乱を引き起した原因は、「保守」という言葉がかつての意味を失なっているからだ。すなわち、何かを本当に "守り保つ" ことを望む人である。今日のアメリカでは、実際に何かを守り保ちたいと思う保守派は、実際に解放リベレート したいと思うリベラル派と同じく稀である。古い時代にかつて大きな意味を持っていた言葉は、現在ではそこから意味を吸い取られてしまっている。両側のエスタブリッシュメント政党が等しく参加した、泥棒政治的な強奪合戦をカモフラージュするために。

言葉の意味を復活させることはリスキーな提案であるかもしれない。大多数のアメリカ人は、漠然とした種々の感情が結び付けられた恣意的なノイズによって、平静を失ってしまうからだ。それは現代アメリカの生活の大部分で、冷静な思考の代用品として通用している。

けれども、そのリスクを取ることには価値があると思う。賢明なる保守主義 -つまりは、守り保つに値するものを発見し、そしてそれを実際に守り保つための行動をすること- は、アメリカ合衆国が終末の危機にある民主主義という既知の軌道を加速していく間に、未来へ向けた実行可能な戦略を提供する数少ない選択肢であるからだ。

それでは、私が上で述べた言葉のなかで最も馴染みのない部分から始めよう「バーキアン」。これはアングロ=アイリッシュの文筆家、哲学者、そして政治家であるエドムンド・バーク (1729-1797) を指している。一般的には、英米保守主義の伝統の創始者であると見なされている。非常に面白いのは、バーク自身は今日のアメリカで「保守」とラベル付けされるような人物ではなかったということだ。たとえば、彼自身は英国国教会の信徒であったものの、カトリック信仰の自由の権利を擁護した。これは当時極めて不人気な立場であった - 今日のアメリカで言えば、悪魔主義者の権利を擁護することとだいたい等しい - また、バークは自身の屋敷をイギリス旅行中のヒンズー教徒のグループに使わせた。別の場所では、彼らは自身の宗教的祭日を祝うことを拒否されたのだ。

またバークはアメリカ植民地の率直な擁護者であり、英政府の収奪的かつ懲罰的な貿易政策への救済を求めるアメリカ植民地を支持した。そして、あらゆる平和的な選択肢が潰え、植民地が反乱を起こした際にも支持を続けたのである。それでも、この男こそが、生涯の終わりへ向かう間に「フランス革命への省察」の筆を取ったのだ。それはフランス革命を痛烈な言葉で批判するもので、アングロ=アメリカの保守主義の歴史においては、現代の急進的左派の歴史においての「共産党宣言」とほぼ同じ地位を占めている。

これは、ところで、バーキアン保守主義者が、マルクス主義者がマルクスを引用するように、あるいは客観主義者がアイン・ランドを引用するようなやり方で、バークの著作を引用すると意味するわけではない。他の人類と同じく、バークも強さと弱さの、原則と実践の混合物であり、彼の時代と場所の政治文化は今日のほとんどの人が疑わしいと見なす行動を許容していた。バークが実際に何を言ったのかを知りたい読者諸君は、「フランス革命への省察」をオンラインで、あるいは、ちゃんとした古本屋であればどこでも発見できるだろう; ad hominem論法すなわち人身攻撃論法に取り組みたいと考える人は、何であれバークの伝記を読めば大量の材料を発見できるだろう。ここで私が提案したいことは、少し異なる - バークのコアとなるアイデアを取り上げ、読者の多数がすぐに認識できる枠組みの中でそれらを提示することだ。

バーキアン保守主義の根本には、人間は自分で考えているより半分も賢明ではないという認識がある。この認識による1つの含意としては、複雑な政治と歴史のリアリティを、人間が理解できるくらい単純な一連の抽象的原則へと還元可能であると主張されるとき、それは間違いであるということだ。別の含意は、歴史的経験の中から自然的に形成された統治制度ではなく、抽象的な原則をベースとした統治制度を人間が作り上げようとするとき、その結果はかなり確実に悲惨なものとなるということだ。

これらが意味するのは、代わって、社会の変化は必ずしも良いものではないということだ。ある変化は、その意図がどれほど良いものであったとしても、それが解決するはずだった問題よりも悪い帰結を生み出す場合がある。実際のところ、社会的変化があまりにもずさんなやり方で追求されたならば、その帰結は、制御不能が連鎖し、破綻状態へと国を追いやり、それを暴君の手に委ね、あるいはそれと同じくらいに望ましくない結果をもたらすことがある。更には、将来の改革者たちの視線がはっきりと抽象的な原則に固定されていればいるほど、また彼らが歴史の教訓に注意を払わないほど、一般的にその結果は破滅的なものとなるだろう。

それが、バークの考えでは、フランス革命の誤った点であった。彼の思考は、[王族や貴族の特権を擁護した] 大陸ヨーロッパの保守主義者とは大きく異なっていた。彼には、独裁的で無能な統治機構の変化を求めるフランスの人々の権利に反対する理由がなかったからである。フランス人が進まんとしていた道 - 既存の統治機構を根こそぎに破壊し、それを流行の抽象的原則に基づいた新しく輝やかしい制度で置き換えること- こそが問題なのだ。これが問題であるのは、単純に機能しなかったからである。自由、平等、博愛の理想の共和国を設立するはずであったが、国民議会によって推し進められたフルリフォームはフランスを混乱に陥れ、狂信的殺人者の集団へと国家を手渡し、次に偏執的自己愛者エゴマニア の戦争狂、その名はナポレオン・ボナパルト、の手に渡したのだ。

抽象的なベースを持つ2つの間違った考えが、フランス革命の崩壊を促し、混乱、大虐殺、暴君と全ヨーロッパ戦争へとフランスを追いやった。最初の誤った考えとは、人間の本性は完全に社会的な秩序の産物であるという確信であった。その思想がフランス革命を導いた哲学者フィロゾフ たちの間では、ほぼ普遍的な考えであった。この信念によれば、人々が天使のように振る舞わない唯一の理由は、人々が不公正な社会に住んでいるからだ。ひとたびそれが公正な社会に取り替えられたならば、あらゆる人々がフィロゾフたちの主張する道徳観念に従って振る舞うようになるだろう。このような信念を抱いていたために、国民議会は、輝かしい最新のシステムを、たとえば権勢欲や党派的な憎悪といった旧来の悪徳から保護する措置を講じなかったのである。その結果は、パリの街路での流血事態であった。

二つ目の間違った考えも、最初のものと同様の効果をもたらした。これもフィロゾフたちの間でほぼ普遍的であったのだが、歴史は必然的に彼らが望む方向へと進んでいくという確信であった: 迷信から理性へ、専制から自由へ、特権から平等へ、などなど。この信念によれば、革命が自由、平等、博愛をもたらすためにすべきことは、旧来の秩序を取り除くことだけであった - そうすれば、ご覧あれヴォワラ - 自由、平等、博愛が自動的に出現するのである。ここでもまた、ものごとはそのようには進まなかった。フィロゾフたちが歴史は未来の黄金時代へと向けて進み続けると主張し、大陸ヨーロッパの保守派は反対に歴史は過去の黄金時代から下降を続けていると主張したのだが、バークの論文は - そして歴史の根拠も - 歴史はいかなる方向性も持たないことを示唆している。

ある社会に存在する法律と制度は、バークが示すところによれば、その社会の歴史と経験を通して有機的に成長してきたものであり、その中には数多くの実践的な英知が埋め込まれている。そのような社会制度には、世界改革者の抽象的ファンタジーにはない一つの特徴がある、つまり、実際に機能すると証明されていることだ。ゆえに、法と制度の変更提案は、最初に、そのような変化の必要性を示すことから始める必要がある; 次に、そのような変更提案が解決すると主張している問題が、実際に解決されるということを示す必要がある; 3番目に、変更による利益はその費用を上回るということを示す必要がある。非常に多くの場合、これらの質問に回答していくと、既存の制度に関するいかなる問題を解決する場合であれ、最善の方法は、機能しているものが機能し続けられるように、可能な限り混乱を引き起こさないようにする選択肢であることが分かる。

つまり、バーキアン保守主義とは、単に予防原則の政治分野への適用として要約できる。

予防原則とは? 何かをする以前に、それが被害よりも利益をもたらすと理解する必要があるという常識的なルールだ。現代の工業世界ではそうではない。我々は生物圏に農薬を、大気に二酸化炭素を撒き散らし、不十分にしかテストされていない薬品を身体へ投入している。その後で、何か悪い結果が起きてから初めてその原因は何かと考え始める。それはものごとを行う方法としては完璧にバカげており、現代工業世界を廃墟へと引き倒しつつある予防可能なカタストロフィは、このような習慣からの直接的な帰結である。

その背後には、代わって、上述の間違った考えのうちの一つが存在する - 歴史は必然的に進歩の方向へと進むという概念である。イエス、それは進歩の神話だ。歴史は永遠に前へ上へと行進を続けるという、奇妙であるが恥ずべきほどに蔓延した概念である。それゆえ、何か新しいものはただ単に新しいからという理由で優れているとされる。またそれが、我々の文明は一体どこへ向かっているのか、正気の人間であればそんな未来へ行くことを望むだろうかという明白な疑問を考えることを、あまりに多数の人から遠ざけているものだ。このことは、過去の本ブログの多数の記事、また私の本『After Progress』の中でも議論した; ここでそれらに言及したのは、現在説明している私の政治的立場と、これまで私がいろいろな場所で議論してきた他のアイデアが関連しているということを示すためである。

穏健なバーキアン保守主義が実際にどのように働くのかについては、実例を通して説明したほうが簡単だろう。これを念頭に置いて、同性婚の権利を擁護するための完璧に保守的な主張 - もともとの、バーキアン的な言葉の意味においての「保守的」である、もちろん - を提示することにより、あらゆる人を怒らせてみたいと思う。

けれども、ここで最初にしばらく一時停止して、「権利」という言葉について語らなければならない。一時停止が必要であるのは、アメリカ人が「権利」という言葉を聞くと、脳が融けてドロドロの水たまりになってしまうからだ。今日では、何らかの概念空間のなかを飛ぶ無数の抽象的な権利が存在し、それらの権利はすべて絶対的で議論の余地がないものであると想定されている。そこで、「私は○○の権利を持つ!」と宣言しさえすれば、直ちにみんながそれを与えてくれるものとされる。もちろん、全員がそれに同意するわけではない。そこで、次のステップは、最近のアメリカの政治的非会話の大部分を占めるようになった、金切り声の絶叫合戦である。そこでは、権利Xの支持者と権利Yの支持者が、お互いが主張する権利を剥奪するため大声で非難し合うのである。

あなたが信仰心の篤い人で、神または神々から人間が従うべき一連のルールが授けられたと教える宗教を信じているのであれば、おそらくこのように話すことには意味があるかもしれない。なぜならば、当の神または神々の心のなかにそのような権利が存在すると信じているからだ。もしもあなたが信心深くないのであれば、そしてそのような他人が認識できない権利を持っていると主張するのであれば、次のような疑問に答えてみると面白いかもしれない: どのような形で、想定されたその権利が存在しているのか? どのようにしてあなたはその権利を「持って」いるのか?

これらあらゆる混乱が生じている原因は、そのような権利がそれ自体何らかの抽象的な存在を持つと主張しようとしていることにある。バーキアン保守主義の観点から言えば、これは完全なるナンセンスである。権利とは、バーキアンの立場からは、何らかの行動を許可するコミュニティのメンバー間の合意である。権利とはそのようなものであり、それがすべてだ。投票の権利が存在するのは、たとえば、ある国の人々が、政治的制度を通した行動を、特定の人々の集団に - たとえば、すべての成人市民 - に授与しているからだ。

もしもあなたが何らかの権利を持っておらず、そしてあなたはその権利を持つべきであると信じているならば、それは何だろうか? それは「意見を持っている」と呼ばれる。意見を持つことは何も間違っていないが、それは権利を授与するわけではない。あなたが当然持っているべきだと考える権利を得たいのであれば、あなたの仕事は、自身のコミュニティにそれを与えてくれるように説得することである。完璧な世界であれば、即座に、誤りのない方法で権利が確立されることには疑いがない。しかし、我々は完璧な世界に住んでいない。我々の住んでいる世界においては、パブリックな議論に裏付けされた、代議制民主主義と司法審査という低速で不器用なツールが、このようなタスクを遂行するために我々が生み出した方法のなかでは最も容易には悪用されにくいオプションなのだ。(注意してほしい、これは制度が悪用されないということを意味するものではない; 実際には、神権政治軍事独裁ほどには悪用されやすくないということを意味する)

それを念頭に置いて、同性婚の権利についての議論に進もう。最初に問うべき質問は、そもそも政府はこのような問題に関わるべきなのかということである。これはささいな質問ではない。立法だけがすべての問題に対する解決策なのだという考えは、回避可能であったはずの厄災を多数生み出してきた。この場合には、けれども、同性カップルの結婚を妨げているのは政府の規制によるものである。そのような規制を変えるためには政府の行動が必要とされる。

2つ目に問うべき質問は、政府が既存の状況に対して、何らかの切迫した利害 [compelling interest] を保持しているのかどうかである。歴史が示す通り、政府が人々のプライベートな生活に干渉することは極めてリスキーな行為である。一方で、それが必要とされることもあるかもしれないが、その場合には政府の干渉を正当化する切迫した利害が存在しなければならない - たとえば、児童虐待を禁じる法律の場合、切迫した利害とは、子供を暴力から保護することである。法的に責任能力のある、同意した成人同士の婚姻の決定において、そのような政府の干渉を正当化する切迫した利害は存在しない; 付け加えるなら、「ウワー、おぞましい!」[という感情または声] は切迫した利害であるとは見なされない。

3つ目に問うべき質問は、変化によって影響を受ける人々がその変化を実際に望んでいるのかどうかである。これもささいな質問ではない; 歴史には壮大なプロジェクトで溢れており、それらは何らかの人々のグループを援助する意図があったのだが、「援助」されるはずであった人々から拒否され、悲惨な結果をもたらしたものもある。この場合、けれども、結婚を望んでいながらできていない同性カップルは多数存在していた。提案された変更は、義務的なものではなく許可的なものであることに注意してほしい - つまりは、同性カップルは結婚することもできるし、結婚しないままに留まることもできる。一般的な指針として、許可的な規則は、義務的な規則に求められるレベルの配慮を必要としない。

4つ目に問うべき質問は、その変化によって誰かが害を受けるのかどうかである。ここで心に留めておくべき重要なことは、「害を受ける」とは「気分を害される」ことを意味するのではないということだ; あるいは、この場合でいえば、他人に対してあなたの望む通りの行動を取らせられないことにより、あなたが害を受けるわけではない。自由 リバティ についての永遠の難題は、他の人々はあなたの気に入らないような方法で自由を使うことは避けられないということだ。我々はその不自由に耐えなければならない、なぜならば、それが我々が自由であることの代償であるからだ。誰かが変更によって被害を受けるという主張は、ゆえに特定の、具体的な、測定可能な被害を示さなければいけない。この場合においては、その基準には当たらない。強烈な憤慨バットハート に対する名誉勲章パープルハーツ は存在しないのだ。

5番目に問うべき質問は、変更の提案が、完全に新規の権利なのか、既存の権利の大幅な拡大であるのか、それとも現状ではそれまで権利を持っていなかった人々への既存の権利の拡大のいずれなのかである。完全に新しい権利の創設は、リスキーな作業となりうる。というのは、既存の権利や制度とどのように相互作用するかを、事前に把握することが困難であるからだ。既存の権利の大幅な拡大はそれよりも危険ではないが、しかしそれでも注意して進める必要がある。現状ではそれまで権利を持っていなかった人々へ既存の権利を拡大することは、反対に、最も安全な変更となる傾向がある。それは結果がどうなるかを把握することが容易である - すべきことは、制限された適用範囲の中でどのような効果を持っているかを確認することだけである。この場合には、既存の権利を同性カップルに拡大することである、同性カップルは既存の法のもとで結婚した [異性] カップルと同等の権利と義務を持つことになる。

問題となっている権利が、現状ではそれまで権利を持っていなかった人々へ既存の権利を拡大することであるという前提のもとで、6番目の質問は、その権利はこれまでにも拡大されてきたのかどうかである。この場合、答えはイエスだ。異人種間の結婚は、かつてアメリカの多数の州で非合法であった。異人種間カップルへの結婚の権利拡大が議論されるようになると、同性婚への反対と同じ主張が使われた。しかし、それらすべての議論は、実際上は、誰かが気分を害されるということにすぎなかった。異人種間の結婚は合法化され、異なる人種のカップルの多数が結婚したけれども、反対派によって想像されていたような恐るべき事態はまったく起こらなかった。

つまり、要約すれば、他の人々が既に保持する権利を許可してほしいと望む人々の集団がいる。そのような権利の付与への反対する人々は、実際の危害を示しておらず、政府がそのような権利を付与することを妨げる切迫した利害は存在しない。同様の権利は過去にも拡大されてきたが、何ら悪い結果をもたらさなかったし、既存の婚姻法の文言に非常にシンプルな変更を加えればその権利を与えられる。これらの状況においては、権利の付与を拒否するよりも許可する理由がはるかに多く、それゆえ権利は許可されるべきである。

このような遠回りな賛成意見と反対意見の追加に腹を立てる人も間違いなくいるだろうと思う。正義、平等その他の壮大な抽象原則への確固たる肯定はどこへ行ったのか? もちろん、それがポイントだ。現実の世界においては、壮大な抽象原則は大して役に立たない。 自由リバティ に価値を置く社会においては - 注意してほしい。これは壮大な抽象原則としての自由ではなく、他者の確立された権利を侵害しない限りにおいて、人々は望むことを何でもできるという相互の合意としての自由である - 問題になるのは、誰かが不平への救済を求めたとき、そのような権利侵害を起こすことなく救済策を実現できるか否かである。上記の質問、また代議制民主主義と司法審査の制度は、これらを確実にするために存在する。それらの制度はいつもうまく行くのだろうか? もちろんそうではない; それらは単に他のどの制度よりもわずかに良い仕事をする。現実の世界では、その理由だけで十分なのだ。

そのような権利に反対する宗教的コミュニティはどうするだろうか? (ここで、政治的スペクトラムの右側にいる読者を怒らせることから、反対側の読者を怒らせるためにシフトチェンジしよう)

保守的なキリスト教徒の集団は、今日のアメリカでは宗教的なマイノリティである。そして、アメリカの法律と習慣のなかで十分に確立された規則によれば、他の人々の合意された権利を侵害することなく対応可能である場合には、合理的な配慮がなされるべきである。それはユダヤ教徒に対して、アメリカの食料品店での豚肉販売を禁止する権利を与えるものではないのと同様、保守的なキリスト教徒に対して、他の人々を保守的キリスト教の教えに従わせる権利を与えるものではない。それは、ユダヤ教徒のデリカッセンで豚肉の販売を強制されるべきではないのと同じく、保守的キリスト教徒が、罪深いとみなす活動への参加を強制されないことを意味する。

通常の場合、一般の人々にサービスを提供する企業は、適切に一般の人々にサービスを提供することが求められ、誰にサービスするかしないかを選り好みするべきではない。しかし、ここにも有効な例外があり、宗教はそのうちの一つである。私が聞いたところによると、ニューヨーク州では、正統派ユダヤ教徒の企業は、敷地内ではユダヤ教の戒律が適用されると示す看板の掲示を法的に許可されており、これは他の企業を支配する特定の法律を免除するという; したがって、たとえば、髪を隠さずにそのような店に入った女性はサービスを受けられない。保守的キリスト教徒の結婚式を行なう企業に対する合理的配慮としては、宗教的な戒律により認可された種類の結婚式にのみサービスを提供するという注意書きの看板を掲示できるようにすることが挙げられるだろう。それにより、同性愛カップルはどこか別の場所で企業を探せるようになる; またそれは同性婚の権利を支持する人々にどの企業をボイコットすればよいかを知らせ、同時に保守的キリスト教徒には支持するべき宗教的な同胞を知らせるだろう。

再び、保守的キリスト教徒の企業はそんな権利を持つべきではないと主張するために、いくつもの輝かしい抽象概念を振りかざすこともできるだろう。しかし、ここでも再び、我々は抽象概念を扱っているわけではない。少なくとも理論上は、自由に価値を置く社会において、互いに異なる信念の間で合理的な配慮を見つける必要性を扱っているのである。宗教的マイノリティが個人所有ビジネスの敷地内で信念を実践したことにより、誰かしらが傷つけられると主張するためには、再び、特定の、確実な、測定可能な被害を示す必要がある。気分を害されることはここでは理由にはならないし、他人に対してあるべきと思う行動を強制する力を否定されたことから来る苦痛が何であれ、問題にはならない。

読者諸君はお気付きかもしれないが、ここでアウトラインを示した取り決めのもとでは、同性婚の議論において、誰も自分の望むことすべてを手に入れられない。この記事で私が提案した他のことと同じくらいに不快であるかもしれないが、しかし、それがバーキアン保守主義の基礎、広く言って民主政治の基礎なのである。乱雑な、荒々しい現実政治の世界では、誰も自分が望むことすべてを手に入れられない - たとえ、どれほど声高にその権利を持っていると言い立てたとしても - 最大でも、議論のどちらの側も獲得できると予期できるのは、それぞれが最も必要としていることだけである。それは、アメリカが近年陥っているような永久的分極化の中でフリーズするのではなく、社会が機能するための一種の解決策である。またそれは、我々の目の前に迫り来る危機の時代を通して、代議制民主主義の何らかの姿を保存できるかもしれない解決策でもある。

(後略。原文には、前週に実施された『The Archdruid Report』の10周年記念企画についてのお礼と小説出版の告知があるが、訳出にあたっては省略した)

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