Going Faraway

渡辺遼遠の雑記帳

翻訳:権威のたそがれ (ジョン・マイケル・グリア)

ジョン・マイケル・グリアによる2018年4月21日の記事 "The Twilight of Authority" の翻訳です。

The Twilight of Authority

数週間前、私はレトリック教育の必要性について書いた - つまり、何が正しく何が誤りであるかを定める法則が所与であると仮定することなく、個々人が真実と虚偽についての主張を理解し評価する方法を教えることである。そのような概念は、今日では多くの人にとって困難であるだろう。我々は 抽象 アブストラクション 時代の最終段階にあり、今日ほとんどの人々が考える真理の概念はこのようなものだ: 人々が真理について語るとき、一般的に意味しているのは、自分の頭の中に蓄えられた一連の一般法則が、抽象的な意味で常に真実であると仮定することである。たとえ、我々が実際に住む乱雑で複雑な世界では、それらの法則が時として (あるいはまったく) 成り立たないとしても。

周囲の人々が真理であると捉えていることについて考えてみてほしい。(私は、諸君自身が真理であると捉えていることについて考えるように言いたいのだが、ナザレの男 [ナザレのイエス] が言った通り、兄弟の眼の中にあるちりを見つけることは、自分の眼の中にある梁を見ることよりも通常はるかにたやすい。) 異常なほど哲学的教養のある集団に遭遇したのではない限り、これら真実であるとされる主張の大部分は、「あらゆるXはYである」という形式の文として表現される: 「あらゆる白人はレイシストである」、「あらゆる福祉に頼る人々は怠惰である」など。それが、私が考えている抽象的な一般化である。

人々は、自分の好む抽象的一般化について非常に防衛的になる。もしもその背後にあるロジックについて質問したとすれば、無知であると言われるか、またかなりの確率で邪悪であるとも言われるだろう。それに関連して、もしも一般法則に合わない現実に遭遇し、また諸君がそれを公言するほど悪趣味であるとすれば、複数の具体的事例はデータではないと言われるだろうと想定できる。抽象的な意味ではその通りなのかもしれないが、複数の事例は、データから構築された抽象法則が、絶望的なまでに現実世界から乖離していることを知るための数少ない方法の1つである。

この線に沿った最近の黄金則は、ヒラリー・クリントンの2016年の大統領選挙キャンペーンから得られる。激戦州の現場選挙事務所にいた人々は、クリントンの試みが有権者の反発を招いている一方でトランプは勢いを増していることを観察したのだが、選挙本部からは軽くあしらわれてしまった。「我々のデータはあなたたちの事例を否定しています。」クリントンの大統領への野望にとっては不幸であったことに、選挙はデータによって決着がつけられるのではなかった; それは、何千万人もの、抽象的でもなく一般化されてもいない現実の世界で暮らす、完全に事例的な有権者によって決められるのであり、彼らの投票は決定的にクリントンの選挙キャンペーンのデータを否定するものであった。きわめて皮肉なことに、クリントンは何らかの抽象的な意味において選挙に勝利したのだという主張を続けている - それは正しいのかもしれないが、現在クリントンペンシルベニア通り1600番地 [ホワイトハウス] に居住していないことを示す膨大な事例的根拠が存在する。

抽象化は強力なツールである、けれども、ほとんどの強力なツールと同じように、適切な注意をもって使用する必要がある。そうでなければ自分の指を切り落してしまうだろう。逆に、確実に切断された指の流血する塊を床一面に作り上げるであろう方法は、お好みの一連の抽象的なルールのほうが、その抽象的ルールが引き出された現実の世界の乱雑な現象よりもリアルであると主張することだ。

それはアブストラクション時代の後期にいつも出現する主張であり、ひとたびそのような主張が表れたら、厄災が近くに迫っていることが分かる: 理論上しっかりと建っているべき橋は崩壊し、理論上健康をもたらすはずの食品は病気を起こし、理論上安全で有効であるはずの薬品は病気の治療に失敗し、大量の有害あるいは致死的な副作用を引き起こす。理論上は平和、安全、繁栄をもたらすはずの政府の政策は、その正反対の結果を生む、など。もしもこれが馴染み深く聞こえるのであれば、読者諸君、それは偶然ではないと言っておこう。

それでも、これらはアブスラクション時代がその有効期限を過ぎたことを示す唯一の症状ではない。その中でも1つ、現在注目に価することがある。というのは、現代アメリカの生活においてほぼ言及されないにもかかわらず巨大な存在になったからである: 今日、恥ずべきほどに多くの人々が、労せずして得る権威への狂気じみた追求に捉われていることだ。

小さく奇妙なマイノリティ宗教の教師および元リーダーとして、私はこのような大騒ぎを特等席で見物した。アメリカの宗教的奇抜さの長い歴史の常として、宗教は社会の隅に追いやられた人々が権威を主張するための標準的な手段の1つであった。アメリカ史の最も印象的な出来事、また最もありえそうにない出来事は、一般常識から垂直離陸した宗教的リーダーによって創始され、人格と手本の力によって、何千あるいは何万というアメリカ人を運動へと引き付けたものもある。

ジョセフ・スミス [モルモン教創始者、大統領候補者] とマーティン・ルーサー・キング [牧師、公民権運動の指導者]、我々の歴史のなかで時おり頭角を表す宗教的リーダーは、非常に広いスペクトラムの端に位置している。その間には、宗教的コミュニティでリーダーシップを取る無数の男と女たちがいる。何を良いと見なすかという意見への賛否はあれども、世界を少しだけより良い場所に変えられるという信念を持っているからだ。その対極には、宗教的リーダーシップについての唯一の関心事は、それが他人に対して何を考え何を行うかを命じる権限を与えると考えるだけの人がいる。そのような人々はアメリカの公人の中では常にありふれたものであったのだが、しかし最近ではまったく珍しくない。

エス、我々のドルイド教にもそのような人々がいるのだが、そこには巨大な皮肉がある。ドルイド教の奇妙な歴史全体を通して、あらゆる運動を始動した18世紀のドルイド復興以来、ドルイド教は聖職者に対する服従が期待あるいは許容されているような種類の信仰からは最も隔たっている。これは我々の中心的教義に近いのだが - ただし、我々は本当に、真に、真剣に、教義を持たないのであるが - あなたが崇めるスピリチュアルな力とあなたの関係は、私とは一切の関係が無い。逆も然りである。たとえ、私が奇妙な帽子を身につけ、華麗な称号を持っていたとしてもである。それでも、狂ったような頻繁さで、私がアメリカのエンシャント・オーダー・オブ・ドルイド教団にて大アーキドルイドとしてリーダーを務めていた12年間の間に、様々な華麗な称号と奇妙な帽子を求めて人々は私に近付いてきた。そうすれば、他人に対して何を考え何をなすべきかを命令することができると考えて。非常に多くの場合、彼らはドルイド教とはいかなる関係もないことに興味を抱いていた。

もちろん、そのような人々は何ら特別ではない。今日のアメリカには福音派クリスチャンが大勢いるが、概して、彼ら自身では従っていない道徳的規則に他人を従わせるために、他のあらゆる人をいじめることを神が望んでいると心から信じている。彼らのすぐ隣には福音派無神論者がいて、彼ら自身のイデオロギーの彼らが信じるところの自明性により、他人の喉を掻き切る権利を持っていると考えているようだ。左派の 政治的正しさ ポリティカルコレクトネス から右派の愛国的正しさに至るまで、アメリ政治界の荒れた無人地帯に位置する人々は、他人に対して何を考え何をするべきかを命じる権利を持つと主張する傾向がある。なぜ? なぜならば、自分は正しいからだ、もちろん - けれども、怒り狂った真理信奉者の群集に怒鳴られたいと思うのでない限りは、彼らにその主張の裏付けを求めないほうが良いだろう。

それはアブストラクション時代の終わりの標準でもある。そこで、その理由を理解することはたぶん意義があるだろう。アブストラクション時代の夜明けは、厳選された一握りの抽象的一般法則が、突然に、驚愕すべきほどに宇宙の片隅の姿を明らかにしたときに訪れる。現代科学の最初の大勝利が、現在終わりを迎えつつあるアブストラクション時代を開始する際、そのような役割を担った。ちょうど、古代ギリシア時代における幾何学や中世におけるスコラ論理が果たした役割と同様である。これらアチーブメントの文化的インパクトはあまりに巨大であるため、あらゆる種類の知識がモデル化されるパラダイムとなる。

当初、それは極めて効果的なアプローチである、というのは、それら驚異のアチーブメントに当初使用されたアブストラクションのツールが何であれ、それが他の知識分野に適用された際には、かなり頻繁に有効であると判明するからだ。このようにして、ギリシア幾何学に抽象的理解の勝利をもたらした思考方式は、論理学に適用された際にも有用であると判明した。また、ニュートンが天体の移動の説明に用いた思考方式は、ドルトンが化学物質の結合方法を説明することにも、ダーウィンが生物種の変化方法を説明することにも有用であることが理解された。よろしい - けれども、あらゆる知識分野が何らかの抽象ツールに適しているわけではないし、抽象化がまったく意味をなさない分野もある。

それがアブストラクション時代を最終的に粉砕する岩である。特に、人間の生命に最も劇的なインパクトを与える知識分野 - イエス、我々は政治と経済について語っている - は、容赦なく抽象化に抵抗している。政治的・経済的な生活において、あなたは決して抽象化を扱っているのではない; 常に人間を、あらゆる生得的な複雑さと頑固さを備えた人間を扱っているのだ。人間を抽象物として扱えば、失敗するだろう。人間の日常生活に最も重大な影響を与えることに対応する政策と提案を扱うのではなく、人間を抽象物として扱えば、少なくとも、かなりひどく失敗するだろう。

ここでの困難さは、当然、アブストラクション時代に育った人々は、何が真実であるかを知っていると考えがちであるということだ。もしもそのような人々が社会の特権階級に属しているとしたら - たとえば、教育を受けたインテリゲンチャ - 彼らは他人に何が真実であるかを伝えることにも慣れており、自分たちよりも特権的でない人々は、それを黙って聞くであろうと予期している。アブストラクション時代が不透明になるにつれて、特権者たちは必然的に、人々を黙らせ話を聞かせる何かを探し始める - 同時に、真理の提唱者としての地位を熱望する非特権階級の人々は、人々に自分の話を聞かせられる何かを探し始める。

アブストラクション時代の終わりは、真理の提唱者になりたいと望む人にとって寒く恐しい場所である。それは黙って話を聞く人が誰もいなくなるからだけではない。かなりの場合において、自分たちが真理として扱ってきた抽象的一般法則が、実際にはうまく働いていないことに彼ら自身が気付き始めるからである。人間の本性の常として、そのような人々が通常取る反応は"倍賭け" [うまく行かなかった方法を更に強めて繰り返すこと] をして金切り声を上げることであり、そして、地元の習慣が許す限りの身体的暴力を数式に付け加えることである。

遅かれ早かれ、けれども、抽象の支配を維持しようとする最後の無益な試みは衰えるか、普通の場合、新興世代から無用の長物として無視され、それらを擁護する世代と一緒に捨て置かれる。続いてリフレクション時代の初期段階が起こり、そこではかつてのアブストラクション時代の業績が整理され評価されて、優れた部分は保存され、無用の部分は遺棄される。何らかの信任を得た偉ぶったお喋り屋が世間に対して流行りの絶対的真理を語る習慣は、それに相応しい人が獲得する。

我々はそのサイクルの後半のポイントに近づいているが、まだそこには至っていない。あまり良くない形でそれを教えてくれるのは、トランプの台頭に対する政治的エスタブリッシュメントからの最も一般的な反応が、お好みの抽象法則を倍賭けするというものであり、それは、競合する様々な「すべてのXはYである」式の抽象法則の配列へ、トランプと彼への投票者を押し込めるものであった。2016年の選挙キャンペーン期間中およびその後にも繰り返し私が述べてきた通り、過去40年間にアメリカの労働者階級に何が起こったのかに気付いてさえいれば、なぜ多数の労働者階級のアメリカ人が2016年にトランプに投票したのかを理解することは全く難しくない。

1976年に労働者階級の1人の給与に頼るアメリカ人家族は、普通、家、車、1日3回の食事、そして他すべての日常生活の必需品を支払うことができ、またおそらく少しの余りを時々の贅沢品に使うこともできた。2016年、労働者階級の1人の給与に頼るアメリカ人家族は、おそらく路上で暮らしている。それは、偶然に起こったことでもない; 両側の主流派政党および公式認定された経済専門家たちによって熱狂的に支持された、特定の政策による直接的な結果である; しかし、その結果は、そのあらゆる人々の悲惨さは、レーガン時代からオバマ時代に至るまで、アメリカの政府政策を導く抽象的な一般法則の世界からは完全に除外されており、次の食事をどうやって得ようかを心配する必要の無い人々たちの具体的事例の領域からは眼に見えない。

選挙結果を左右する別の問題も存在した - ヒラリー・クリントンの軍事的冒険主義に対するチキンホーク的愛着は、家族の一員が死体袋に入って帰ってくることを怖れる人々にとって見すごせるものではなかった; 。オバマケアの大失敗により、勤労世帯に課される経済的負担の上昇; クリントンを有利にするために民主党が候補者指名のプロセスを歪めたこと; これらすべてが、同じテーマのバリエーションであった。政治的エスタブリッシュメントは、一連の抽象的一般法則を推進し - 「グローバル経済」、「民主主義のために立ち上がる」、「すべての人々のためのヘルスケア」、「私たちの最初の女性大統領」 - その一方で、具体的事例の領域、我々が実際に行きている場でこれらの抽象法則がどう働くかについては無視した。事例的なリアリティに対処しなければならない人々は、代わって、もう十分だと思ったのだ。確かに、彼らが選んだ候補者に対して意義を唱えることはできるけれども、それは政治的なエスタブリッシュメントが、空疎な抽象法則についての語りを止めることを望んでおり彼らの生活の厳しい現実について言及してくれる別の人間を提供してくれることを意味するのではない。

トランプの当選に対する直後の反応が、抽象的な一般化へと議論を引き戻すための狂乱した努力であったということ、またそのような結果を引き起こした痛々しい具体事例的なリアリティを消し去ろうとする更なる狂乱した試みであったということは、完全に予測可能であり、また無意味でもあった。アブストラクション時代の終わりをもたらすものは、現実からあまりにも遠ざかった抽象法則にもとづいた政策の必然的な失敗である; その終わりは、選挙を通してもたらされるかもしれないし、あるいはより過酷な別の手段によってもたらされるかもしれない。しかし、いずれにせよ、終わりは訪れる - なぜなら、リアリティは、結局のところ、常に個別事例的であり、そしてもし抽象法則がリアリティを無視するのであれば、負けるのはリアリティの側ではない。

、その後に何が来るのかという議論を開始するのにふさわしいタイミングだろう。今後の連載記事では、私はそのような議論を教育の観点からフレーミングするつもりであるが、それには十分な理由がある。結局のところ、アブストラクション時代の最終的崩壊に向けた準備のためにできることは自分自身の教育であり、そうすれば、もはや誰も真理への特権的なアクセス権を持っているとは主張できない世界において、うまくやっていく方法を知ることができる。

このような、真理ではなく真理についての主張が提供されている世界を進むことをはるかに容易ならしめるスキルが存在する - つまり、そのようなすべての主張が疑問に対して開かれており、定期的な再考と再評価の対象となるような世界である。幸運なことに、そのようなスキルは、過去の時代においてアブストラクションが独自の誤った確信により崩壊し、リフレクションがその残骸を集めた際に、既にきわめて詳細に作り上げられている。続く数ヶ月の間に、そのようなスキルについて話そう。また、人間性の重要性 - ヒューマニオレス・リタラエ 「更なる人間の研究」という破滅的に時代遅れなテーマについても議論しよう。それは、ルネサンスの思想家たちが中世のスコラ学の残骸から脱出して、人間文化の偉大な時代を開始することを助けたものである。

そのようなテーマについて話す前に、けれども、1点ここで話しておく意義があるだろう。私がここで議論したいと考えているスキルは、正しい権威を発見する方法、つまり、あなたは何も考える必要なく彼または彼女が言うことを何でも信じられるような人を見つける方法 "ではない"。その道は破滅へと続いている。いかなる権威であれ、あなたが何を考え、何をなすべきかを命じることはできない。なぜならば、権威は抽象以外のものとしてあなたの人生を知ることができないからだ。そして、そのような抽象化には、我々の周囲で現在衰退しつつあるアブストラクション時代のあらゆる重荷を背負わされているのだ。諸君自身以外には、具体的事例の領域で、(もう一度言えば) 我々が現実に生きている場所で生きる諸君自身の人生に遭遇することはできないのだ。

この原則は、当然、他の誰にも言えることだが、私自身にも当てはまる。今後の記事で、私はさまざまなツールと実践と、やるべきことを提示するつもりであり、読者諸君も実際に挑戦するよう勧めたい。何か別のことをすると決心したのであれば、ご自由にそれを実行してほしい。上記の注意にもかかわらず、あなたの代わりにするべきことを考えてくれる権威者を探して、彼または彼女が施してくれる唯一の真理を受け入れるのでも良い。あなたにはそうする自由もある。けれども、もしも読者が我らが時代の権威のたそがれに対して立ち向かう準備ができているのであれば - その場合は、冒険へようこそ。

更にもう1つのコメント。近年の知的生活の中で、一見したところでは橋渡し不可能なほどの分裂の1つは、一方では伝統的宗教の範囲内の信者と、もう一方では無神論者の間に存在する。その分裂はほぼ完全に抽象化の問題であり、それがちょうど今我々の周囲で終わりを迎えているアブストラクション時代にこれほど野蛮に戦われてきた理由を説明するのに役立つかもしれない。リフレクションの時代には、信仰者と無神論者の間のギャップはかなり狭くなり、その間の立場に立つこと、あるいはそこに長期的に落ち着くことさえ比較的簡単になるかもしれない。今後の記事で私が提案しようと考えているツールと実践は、無神論者と同様に信仰者にとっても有用であるだろうし、またその中間の立場- アブストラクション時代には理解不能な立場 - の人々にも有用だろう。そこでは、宗教が教義への信念の問題ではなく、探求に対する態度の問題となる。旅が進むにつれて、そのことも話そう。