Going Faraway

渡辺遼遠の雑記帳

翻訳:管理社会の夢 (ジョン・マイケル・グリア)

ジョン・マイケル・グリアによる2019年8月21日の記事 "The Dream of a Managed Society" の翻訳です。

The Dream of a Managed Society

2週間前のこのブログのエッセイ、工業諸国のエリートたちは「エコファシズム」のお喋りを都合の良い口実として利用し、環境保護主義から撤退を始めていると指摘した記事は、私が予想していた通り、活発な反応を生んだ。公平に言えば、ある程度のノイズも存在しており、企業メディアによる流行の物語に対する不同意を止めるようにという一定の憤慨した要求も存在した; ここで私は特に、見たところ3人の別々の人間が書いたと思われる3件のコメントについて考えているのだが、メディアの寵児、グレタ・トゥーンベリへの熱狂的な敬意が不足していることを、区別できない言葉遣いと区別できない親密なお叱り口調で非難するものであった。[左派オンラインメディア] シェアブルーおよびその類似の 荒らし トロール サイト に馴染んでいる人々は、問題のコメントが即座にゴミ箱送りにならなかったとすれば、そのスタイルを即座に認識できただろうと思う。

幸運なことに、ほとんどの反応は、別の誰かのお決まりの論点を繰り返すだけではない人々から来ており、一部には重要な課題を提起したものもあった。その中でも特に優れた質問は、このブログの定期的なコメンターから発せられたものだが - Mogさんに感謝 - 彼は、他人の金を最後の一銭まで巻きあげるための言い訳として、エリートが人為的な気候変動を受け入れた理由は、炭素排出量削減のための手法が、ほぼ常に炭素クレジットやその他類似のマーケットの設立を伴うことと大きな関係があるのではないかと指摘したのである。ちょうど、今日取引されている投機資金とまったく同じ方法で。

それは正しい指摘である。今日のグローバル経済は、"幻想のファイナンス" とでも呼ぶことが最も適切であるような、広大な上部構造に支配されている。そこでは、現実世界の商品やサービスとほどんど繋がりのない投資資金が、恣意的な価値を割り当てられ、世界規模のマーケットで熱心に取引されている。そのような上部構造を支えるためには、定常的にリアルな富のフロー - 上部構造におけるガルガンチュア級の莫大な名目上の価値に比較すればささやかであるが、人間の観点からは決して少なくはない量の富 - を加えることが必要となる。つい最近まで、そのほとんどは、自称「グローバル経済」とリンクしたさまざまなギミックを通して、工業諸国の実体経済から引き出されたものであった。沿岸部の裕福な少数の飛び地の外側にあるアメリカの市や町でメインストリートを歩いてみれば、その結果を簡単に眼にすることができるだろう。

当初は成功していたものの、この戦略には深刻な欠陥がある。その中にはポピュリスト運動の勃興もある - トランプとブレグジットを考えてみてほしい - それは、ゴジラ長者とその取り巻き連中の私利のためにメインストリートから資金を引き出すことを阻止する狙いがあったのだ。(エコノミストのモハメド・エル=エリアンの最近のビデオは、ついうっかりこの秘密について口を滑らせてしまっている。トランプ政権の政策は、アメリカの実体経済からの富の「流出」を劇的に減少させることにより、グローバリゼーションのメカニズム全体を逆転させていると述べている。これは、企業メディアがいつもトランプを悪魔化している理由の説明になるだろうか? 教えてほしい。)

炭素税、そしてその結果としての炭素クレジットは、それゆえ、既に過剰なまでに締め上げられたメインストリートから、異なる口実を用いて更なる血液を絞り出し、ゲームをもう少しだけ長く続けようとする試みであると見なせる。エリートたちが自分のカーボンフットプリント削減に何の関心も持っていないことは、このコンテキストでは完璧に理解できる。このギミックのすべての目的は、超特権階級の人間にお好みの不道徳な浪費的ライフスタイルを維持する手段を、少なくとももうしばらくの間与えることだからだ。これが、超富裕層の人々が、他の環境問題ではまったく見られないほどに人為的な地球温暖化への懸念を見せびらかす理由を説明するというMogさんの指摘は、極めて正しいのではないかと思う。

同一の旗印の下にいる主流派の知識人も、間違いなく、同じ言い訳を使い回している。知識人階級が存在する限り、そのメンバーのかなりの数の人が、金持ちが聞きたいことが何であれ、それをオウムのように繰り返すことが、生計を立てる確実な方法であると理解するようになる。この種のオウムの歌は、強制されることもある; あまりに多くの分野のあまりに多くの科学者たちから、研究助成金を獲得するために、地球温暖化 物語 ナラティブ を強化するような売り文句を使って助成機関へプロジェクトを売り込まなければならないということを私は聞いた。 (イエス、人為的な気候変動は現実である; イエス、その現実はさまざまな操作的な政治ゲームの口実に使用されている。この2つの考えを頭の中で両立させられる人が、どうしてこれほどまでに少ないのか私には分からない。)

そうとは言え、ここにはそれ以上があると思う。ここで私が考えているのは、ワシントン州民主党が、上手く設計された炭素税 法案 イニシアチブ を廃案に追い込んだことである。2週間前の記事で議論した通り、イニシアチブが、ソーシャルエンジニアリング目的の巨大な 秘密政治資金 スラッシュファンド を州政府に提供するのではなく、レベニューニュートラルなものとして設計されていたからだ。また私はローマクラブの報告書が、最近ではまったく言及されないということについて考えている。それも2週間前に議論した - つまり、グローバル経済を非選挙の専門家集団の手に引き渡しさえすれば、成長の限界は問題ではなくなるだろうと主張する人々である。ここでもっと一般的に私が考えていることは、ある種のハイブロウなポップカルチャーのなかに蔓延するテーマの一つ、グローバルマネジメントという考え方で、世界は受動的なオブジェクト であり、人類 (あるいはむしろ、結果的に、我々の種族のうちの特定の選ばれしメンバー) がコントロールすべきであるというものだ。

そして、このすべては、もちろん、ピレウスの港町からアテネへ至る道での出会いへと戻っていく。それは、奴隷の少年が2人の男に駆け寄り、待つようにお願いをすることから始まる。

それがプラトンの偉大な哲学的対話編、『国家』のオープニングシーンである。それは優れた作品であり、哲学的かつ文学的な傑作である。また、それはどのような思想的、芸術的伝統の始まりにも存在する新鮮さに満ちている。偉大なる精神が、ある一連の問題に対して、記録のある歴史上初めて取り組んだ時である。それを読むことは、熟練の鍛冶屋が、白熱した金属を叩き永続的な形を作っている金床のそばに立っているようなものだ。

プラトンが生きていた時代は、ギリシア哲学が根本的な変化を遂げようとしていた時であった。そこでは、思想的な伝統全体のフォーカスが、自然についての思弁から、人間が認識しうることと人間がなすべきことについての探求へと変化していった。(現代西洋科学も、過去1世紀ばかり同様の変化を必死で回避しようとしている。それが、ニール・ドグラース・タイソンその他の組織科学のチアリーダーたちが、哲学をこれほどの毒物として非難している理由である。) プラトンの『国家』はそのような劇的な変化のエッセンシャルな部分であった。人間の知識の本質についての重要な疑問から始まる正義という概念の探求から初まり、そこから人類史におけるおそらく最初のユートピア社会の構想へと進む。

思想史においてプラトンを重大な存在としている1つの特徴は、後世の思想家にとって、プラトンの失敗は彼の成功よりも有用であったことである。『国家』は、この好例である。なぜならば、それが依拠する仮定は、絶望的なまでの誤りであると判明したからだ。『国家』中のあらゆる問題点を分析することに費した文献もあり、フォローアップしたい読者は、この分野の古典の1つであるカール・ポパーの『開かれた社会とその敵』から始めるのも悪くないかもしれない。ここでは、けれども、私は焦点を絞って、ある特定の問題とその帰結について語りたい。

非常に多くのユートピア論者と同じく、プラトンは、人間の本性についての特定の見方にもとづいて自身の理想社会を構築した。それはとりたててバラ色の見方ではないのだが - プラトンはその落とし穴を避けている - しかし、そこには微妙ではあるものの致命的な欠陥があった。プラトンのモデルでは、人間の本性を3つの基本的な部分に分割している。1つ目は、動物的な欲求の集まり、ギリシア語では 情欲 エピテュメーテース で、食物や性やその他の生物的な欲望を指し、プラトンはそれを腹部と対応づけた。2つ目は、英語には適切な集合名詞がないような人格的要素を表すもので - ギリシア語では 気概 テューモス という - 誇り、積極性、名誉や自尊心を指す。プラトンは、これを胸部と対応させた。最後に、ギリシア語では ヌース と呼ばれる理性的な部分があり、知識や理解を求める部分である。これは頭部に対応する。

プラトンにとっては、当時と後世の他の知識人と同じく、この3つの部分には厳格な階層 ヒエラルキー が存在した。エピテュメーテースは最下層に位置し、テューモスがその上にあり、ヌースが最上部に位置する。理想の共和国を作るためにプラトン - および、後世の他多数の人々 - が行なったことは、 この3つの部分を社会のヒエラルキーに対応させることであった。エピテュメーテースに対応するのは労働[奴隷]階級であった; テューモスに対応するのは軍人階級であり、社会秩序の維持および国家内外の敵からの防衛という職務を持つ武装した戦士たちであった; ヌースに対応するのは、もちろん、哲人王のエリート階級であり、統治カーストの役割を果たすために全的な教育を受けた人々である。

それは極めて広く行きわたった概念である。人類の思想史に対するプラトンインパクトが、誇張することが不可能なほどに巨大だからという理由だけではない - もしも読者が西洋かイスラム社会で育った人であれば、読者諸君、あなたが何かを考えるたびに、プラトンが発明した概念やカテゴリを使用しているのである。また、それが非常に人気のある概念である別の理由としては、きわめて多くの知識人階級の人間が、プラトンの言う哲人王の役割に魅了されたことが挙げられる。防衛者のカーストに賢明な命令を下し、大衆はその命令に疑念を持つことなく従うのである。人気のある説であることは確かだが、これはプラトンのまずいアイデアの中でも最大の欠陥である。我々がそれを知っているのは、歴史のなかで何度も試され、その度に失敗してきたからである。

問題はきわめて単純である。プラトンが言う通り、あらゆる人間はエピテュメーテース、テューモス、ヌースの3つの部分から構成されると仮定しよう。そうであるならば、ある1つの社会階級に対して、これらの1つの役割を割り当てる方法はうまく働かないだろう。なぜならば、あらゆる人間はこの3つを備えているからだ。ちょうど、あらゆる人が頭と胸と腹を持っているのと同じように。労働階級は単なるエピテュメーテースではない; 彼らも独自のテューモス - 誇り、自尊心と暴力への能力 - を備えており、また独自のヌース - 思考する能力を、特に、哲人王が発する法律が、本当に賢明な命令であるのか、それとも単なる自己利害を取りつくろっただけの言葉であるのかを考える能力がある。

重要なことは、プラトンのトーテムポールの逆側の端でも、同じことが成り立つということだ。哲人王は、単に真理を熟慮するだけのヌースの泡ではない。プラトンは、彼らにそのような振るまいをさせるための手法を示している - 基本的には、支配階層の人々に哲学教育を施すことだ - そして、これは当初提案された際には興味深い仮説であったと言える。過去2300年以上にわたって、これほど徹底的にテストされてきた仮説を挙げることは難しい。けれども、評決はこうだ: それはうまく行かない。

ある社会の将来の支配階級の人々にいかなる教育を施したとしても、なおもそのメンバーはエピテュメーテースとテューモスを持ち続けるだろう; 彼らは、他の人々と同じく動物的な情欲を持ち、また誇りと自尊心も持ち、自分のエゴが踏みにじられたときには暴力的に過剰反応する傾向もあるだろう。それが意味することは、逆に、彼らはプラトンが割り当てた役割を果たせないということだ。彼らは社会全体にとっての善のみを考える啓蒙的リーダーという賢明な階級となることはできない - ところが当然、テューモスの影響により、彼らは自分自身をそのように捉えるだろう。彼らが下す決断は、テューモスとエピテュメーテース、一方では名誉と賞賛への欲求、もう一方では身体的快楽と安楽への欲求により、常に少しだけ真理から歪められている。

そこで、エリート階級のメンバーたちは自分たちは賢く、正当で、善であると主張するだろうが、しかし彼らの行動は常に自己利害により形作られる。たとえそれが社会全体に対して害を与えるものであったとしても; また、管理者階級も存在する - それは防衛者たちが変化したものだ、もちろん - 彼ら自身も身体的な快楽と安楽への欲求を持ち、社会がいかに運営されるべきかという独自のアイデアを持っているという事実により、管理者階級の体制に対する忠誠心は、少なくとも、弱められてしまうか、非常に多くの場合損なわれてしまう。そして、完全に身体的な快楽だけを望むものとされている労働者階級が存在する。しかし、実際には、彼らにも高い集団的プライドと暴力に対する頑健な能力がある。また、エリート階級から課される政策、公共善のためとされる政策が、実際のところ、あらゆる人の犠牲のもとにエリートの私腹を肥やしエゴを満たすだけの別の機会に過ぎないのかを認識する完全な能力がある。もしこれが馴染み深く聞こえるならば、読者諸君、更に先に進む必要がある。

それが、プラトンを読む価値がある1つの理由である; もしもプラトンが言ったことを考え通し、また彼の疑わしい仮定に疑問を呈すれば、現在の世界についてたくさんのことが理解できるだろう。この場合、彼のロジックの含意は、社会にエリート階級が存在する際、実際に何が起こるのかをほぼ正確に表している。- そして、いかなるサイズの人間社会であれ、それを認めるか否かにかかわらず、エリート階級が存在する; 人間は社会性霊長類であり、他の社会性霊長類と同じく、社会的に、ほとんどの決断を下してほとんどの資源を得るインナーサークルと、それよりも限られたインプットしか持たず、わずかな利益しか得られないアウターサークルとに別れる。(階級が存在しないと主張する社会、たとえば厳格なコンセンサスにもとづいて運営されると主張する組織は、単に、公然のエリートではなく隠れたエリートが存在するにすぎない。)

教養ある管理スペシャリストのエリートが、システムに呪われた社会にとっての厄災となる理由は、逆に、スペシャリストが他のエリートたちよりも道徳的に劣っているからではない。そのようなエリート教育の特定のイデオロギーによって、自身の誤りを認識することが不可能になるからである。専門知識の神秘性に支配されていない普通の政治家であれば、最大の優先事項は、自身の選挙区民が望むことを見つけ出しその一部を与えることであると認識している。そうすれば、選挙民たちはほどほどに自分たちのリーダーに満足し消極的な支持を与えるだろう。そのような支持が無ければ、いかなる政府といえども権力を失う。専門的なスペシャリストたちは、多かれ少なかれ、互いの話を聞き、お気に入りのデータソースを見ることに忙しく、それらのソースからのデータと、それをもとにした専門家のコンセンサスの意見が現実世界から乖離してしまったとしても気付くことができない。

ヒラリー・クリントンの2016年の大統領選挙キャンペーンは、皮肉なことに、この種の失敗のこれ以上ない実例を提供する。キャンペーン後半の数ヶ月を通して、トランプは北中西部の激戦州に莫大なリソースを投入し結果的にそれが彼をホワイトハウスへと導いたのだが、激戦州のクリントン選挙キャンペーンの現場選挙スタッフたちは、狂ったように選挙本部に何が起こっているのかを伝え、反撃に必要な援助を与えてくれるようにと要請した。ますます絶望的になっていく彼らの訴えは、クリントンのトップスタッフに、軽い拒絶とともに無視されてしまった。「我々のモデルはあなたの事例を否定しています。」それがクリントンの大統領への野心に対する墓碑銘となった。なぜなら、モデルそのものは何も証明も否定もしないからだ: むしろ、モデルはリアルな、事例的な世界を反映する - あるいは、反映しないものである。

これは、管理者や政治家への教育がマズいアイデアであることを意味するのか? 必ずしもそうではない - けれども、もしもその教育があまりにも専門化しすぎていれば、また、あるいは、経験された現実に対してテストされない恣意的なイデオロギー的モデルにフォーカスしていれば、確実に教育は悪い影響をもたらしうる。これが意味することは、教育ある管理エリートが存在する場合、エリートが好む政策が大衆にあまりに大きな悲惨をもたらすようになった時には、その拘束から逃れる方法が必要とされるということだ。これまでのところ、少なくとも、全成人市民が定期的な投票を行う代議制民主主義は、誰もが思いつく集合的な引き綱を提供する最良の方法である。イエス、それは、ときどき "嘆かわしい人々" が、善き人々を自称する人々に何をするべきかを命じることを意味する - そして、それが起きた際には、自称善き人々は口をつぐみ、変化のために耳を貸さなければならない。なぜならば、彼らのモデルは現実によって反証されるかもしれないからだ。

お分かりの通り、管理社会の夢には更に深い問題がある。そしてその一つは、西洋哲学が - そして、実際、西洋文化全体が - 未だに把握できていないものである。我々はやがてはそこへ辿りつくだろう。ちょうど、あらゆる他の哲学的マインドを持った文明がそうしたように。しかし、それは洗い道のりであり、我々は未だその上を走っている。

その問題は、近代科学の言葉できわめてシンプルに表現できる。人間の脳は、20センチばかりの脂肪の多い肉の塊である。それはアフリカのサバンナで、食料を発見すること、交配相手を引きつけること、飢えたヒョウの牙から逃れることといった目的のために何百万年もかけて進化を遂げた。それらのすべては、知的に困難なものではなかった。たとえ、その時点ではどれほど重要そうに見えるとしても。脳には、思考のための特定の生得的なプロセスが組み込まれており、それは同じ期間をかけて同じ環境で同じ目的のために進化してきたものだ。今や、我々はそのようなプロセスを明示的に表現する方法を発見し、それらは「論理」と呼ばれている。しかし、生存競争において、未だ同じ習慣が勝利を収めることがある。なぜならば、すべてを考慮して、それらは、競合する他の習慣よりも少しだけ多く我らの祖先を生き延びさせたものだからである。

それが、何十億光年もの広がりを持つ宇宙の莫大さと複雑さを理解するための、我々の精神的な道具である: ミートローフサイズの肉の塊、あまり正確ではない感覚器官、食事し、交接し、ライオンから逃走するためには有用である、いくつかのデータ処理のクセ、そして、一定量の記録された経験が存在し、お望みであれば、ガイダンスの源として使いうる。それは、専門家がほぼ常に達成したと幻想を抱く神のごとき全知を提供するのだろうか? まったくそうではない。

それゆえに、管理社会の夢が常に失敗する究極的な理由は、単純に我々という社会性霊長類が、世界を管理できるほどに賢くないからである。我々のモデル、理論、イデオロギーは、圧倒的なまでに複雑な世界が我々に投げかけてくるものに対しては、不可避的にシンプルすぎる。また、ところで、この問題は、我々が奇妙にも「人工知能」という名で呼ぶものに世界を渡したとしても解決されないだろう - 直接的にであれ間接的にであれ、人間により設計され製造されたものは、何であれ人間精神の欠陥を共有するであろう。(クリントンのキャンペーンを思い出してほしい。最先端のコンピュータテクノロジーを使って、破滅的に間違ったモデルを生成したのだ。) また当然、コンピューターを所有し実行する人々の一部にも、エピテュメーテース、テューモスの決して小さくない問題がある。[SF作家] フランク・ハーバートが『デューン』で警告した通りである:「かつて人類は、機械が人間を自由にするだろうという望みのもとに、思考を機械へと引き渡した。けれどもそれは機械を持つ人類が他人を奴隷とすることを許しただけであった。」

上手く機能すると思われるものは、問題の当事者にほとんどの選択を委ね、より大きなスケールで選択を行なわなければならないときには、そのような選択から直接的に影響を受ける人の声を確実に聞けるようにすることである。たとえ、彼らの言うことが、自称善き人々の聞きたいことではなかったとしても。それが、民主主義の偉大な美徳である - ところで、これは言葉通りには、民衆 デモス 、一般の嘆かわしい市民の大衆による統治を意味する。民主社会は他の社会と同程度のミスを犯す。しかし、そのミスを正すことは比較的容易である。もちろん、それはまた、管理社会の夢を捨て、プラトンが考えていた知識人の役割よりも控え目な役割を受け入れることを意味する。私自身も知識人として言わなければならないだろうが、公平な交換であると思える。

国家〈上〉 (岩波文庫)

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開かれた社会とその敵 第1部 プラトンの呪文

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