Going Faraway

渡辺遼遠の雑記帳

翻訳:政治的愚かさの原因としての科学教育 (ジョン・マイケル・グリア)

この記事は2016年7月13日に書かれた。ジョン・マイケル・グリアによる2016年ドナルド・トランプ当選予測に関するエッセイはこちら

Scientific Education as a Cause of Political Stupidity

このブログ 『The Archdruid Report』の連載記事のテーマとして我々は教育について議論しているのだが、ここで考慮しなければならない教育の利点と欠点を指摘しておく必要がある。日常生活の雑事には絶望的なまでに無能な、抽象的思考で頭が満たされた学識者は、数世紀もの間文学作品のなかで笑い者になってきた。その理由は、そのような人々の実例があらゆる時代で容易に発見できるからというだけではない。

とは言うものの、ある種の教育ではよりはっきりと欠陥に焦点が当てられている。たとえば、エンジニアは、他のほとんどの専門職以上に、頭のイカれた文芸作品へ多大な貢献をなしてきた。地球空洞説、古代宇宙飛行士の妄想、プラトンが実際に述べた場所以外のほぼあらゆる場所に失われたアトランティス大陸が存在すると主張する論文 - まぁ、いくらでも続けられるだろう; エンジニアたちは、そのような分野でのド派手な作品を、印象的なほどの量で執筆してきた。無為な若年時代、私は空想的なエンターテインメントの源としてそのような本を収集していた。著者は何らかのエンジニアだと本のカバーに記されているのを見ると、私は楽しみな気分になったものだった。

シアトルで、ボーイングを退職したエンジニアが経営するマイクロフィルム会社に勤めて何年か過ごすまで、私はそれを面白い偶然の一致であると考えていた。彼はまた熱心な根本主義者クリスチャンで、"若い地球説"を信奉する創造論*1であった; 彼はかなりの量の創造論の文献を書いていたが、私が聞いた限りでは、それらの原稿のどれも手刷りのコピー以外で出版されたことはないようだった - そして、すべては極めて限定されたロジックを示していた: 地球は、神により紀元前4004年10月23日の朝9:00に創造されたと仮定すると、今日地球上で発見される物体はどのようにして説明されるだろうか?

言うなれば、彼はそれをエンジニアリング上の問題であるかのように扱ったのだ。

エンジニアたちは、機能するものを発見するように訓練される。ある問題が与えられると、エンジニアは解決策を見つけるまでその問題に取り組み続ける - それが彼らの仕事なのだ。そして、エンジニアリングの専門職には長い歴史があり、教育方法を洗練させる機会は十分にあった。そこで、エンジニアリングの訓練は、問題から解決策を発見する方法を教えることにかけては優れた仕事をする。エンジニア教育が教えないことは、どのようにして問題を問うかである。そこで、別の事例を挙げるなら、エゼキエル書はUFO目撃を扱ったものであるという仮定からスタートして、UFOの外見はどのようなものであるべきか、動力は何であるか、などを印象的なまでのディテールで証明する書籍が得られる。「しかし、そもそもそれがUFO目撃を記したものだったということは、どうすれば分かるのだろうか?」という質問は問われることはない。

最近そんなことを考えたのは、異なる特有の盲目さが、また別の教育方法に固く結び付けられているように見えたからだ。今日では尊敬されており人気のある、科学教育である - つまり、ハードサイエンスの一分野の、理論と実践におけるテクニカルな教育である。そのような教育の欠陥として私が述べたいのは、政治についてバカになるということだ。大量の事例が思いつくので、後でその他の例も簡単にいくつか言及するつもりであるけれども、ここで最初に私が取り上げたいのは、単純な模範例である。もちろん、単純な思考でもあることは言うまでもない。最近、天文学者のニール・デグラス・タイソンによって提案されたものだ。全文を引用しよう。

地球は仮想国家を必要としている: 理性国、一行の憲法: あらゆる政策は根拠エビデンス の重みにもとづくべし - Neil deGrasse Tyson(@neiltyson)2016年6月29日

これは、Twitterの140文字制限による思考力低下の性質を表すまた別の一事例として無視できるかもしれない - 陶工potter陶器pot を作るのなら、Twitterは何を作るのだろうか? *2 - タイソンが述べていないこと、「これが憲法を裏付ける原則だ。詳細は以下の通り」- があるのかもしれないが、それが彼の提案した憲法の全体である。

より正確には、それは憲法に偽装したキャッチフレーズである。現実の憲法は、それを読んだ人であれば誰もが知っている通り、どのように意思決定がなされるべきかの抽象的なスローガンなどではない。誰が決定を下すのか、意思決定者はどのように選ばれるか、意思決定者が自身の地位を乱用しないよう、いかなるチェック・アンド・バランスの機構が存在するのか、などの細部を憲法は定めている。もし、たとえばドナルド・トランプが、「我々は、正しい解答を発見する方法のみからなる科学的方法論を必要としている。」とスピーチしたとしたら、科学の初歩についてすら知らないと嘲笑されるだろう。ここでも同様の反応が適切である。

言うなれば、タイソンの提案は政治について別次元の無知を示している。政治的決定はただ根拠のみにもとづいて決められるべしとの主張は素晴しく聞こえる。それを現実政治に適用するまでは。そして、現実へ一歩踏み出すと、根拠はほとんどの場合、政治的な決定とさほど関連を持たないということが理解できるだろう。

EU脱退に関する最近のイギリスの国民投票を検討してみよう。その決定は、根拠にもとづいて下すことはできなかった。なぜならば、どちらの側も、私の知る限りでは、事実について同意していたからである。それらの事実には、イギリスは (当時の) 欧州経済共同体 [European Economic Community] に1973年に加盟したということ、その加盟によりイギリスは特定の国家主権をEU官僚へと委任したこと、そして、EUの政策はイギリスの一部の人々に利益をもたらした一方で他の人々には不利益を与えたということなどが挙げられる。それら事実のいずれも問題ではなかった。問題であったポイントは、一方では価値観であり、もう一方では利害であった。

"価値観" という言葉で私が意図しているのは、何が重要で何が重要ではないか、何が望ましく何がそうではないか、何が許容でき何ができないかなどについての、個人ないし集団による判断である。これらは単なる根拠についての質問に還元できない。「国境を越えた人々の移動は善いことであり重要である」といった言説は、どれほどの二重盲検対照試験を行なっても証明も反証もできない。ある人は何かの価値観を持ち、別の人は持っていない。「国民の自己決定権は、ブリュッセル [EU本部] の非選挙官僚による侵害から保護されなければならない」という言説のように。それらの価値観は互いに衝突した。EU脱退投票で争われ決定されたことも、大部分がそういった価値観に関連していた。

"利害" という言葉で私が意図しているのは、費用コスト利益 ベネフィットの相対的な配分である。いかなる政治的決定であれ、本当にささいな問題を除いては、利益をもたらし費用を生じさせる。非常に多くの場合、利益を得る人々と費用を負担する人は同じではない。イギリスのEU加盟が好例である。大抵の場合、裕福な人々が大部分の利益を得た - 彼らは子弟をドイツの大学へ送り、休暇中にはスペインへ国境無しの旅行へ行くことができた - 一方で、貧しい労働者は大部分の費用を支払った - 彼らは溢れ返る移民と雇用を争わなければならず、一方で低賃金諸国への産業オフショアリングを奨励するEUの政策により雇用は減少した。

少なくとも私にとって、EU脱退の国民投票を魅力的にしたのは、あまりに多数の親EU派の富裕層が、選択は純粋に価値観の問題だと主張し、一方で、貧しい労働者の利害についてのいかなる議論であれ、純粋に人種差別主義と外国人嫌い - つまり、価値観 - に動機付けられていると主張していたことである。私が過去記事で何度も述べてきた通り、工業諸国の裕福な階級は、過去40年ほどの間、貧しい労働者をバスの下へと放り投げ、そしてその上で車輪を前後に走らせ、一方でそのようなことは何もしていないと声高に主張してきた。

賃金階級は、そして仕事を見つけられさえすれば賃金を稼ぐことのできる何百万人という人々は、もっとよく理解している。たとえば、ここアメリカでは、富裕層の反響室エコーチャンバー の外にいるほとんどの人は、40年前、1人の労働者階級の収入を持つ家族が、家、自動車、その他の生活必需品を買うことができたことを記憶している。一方今日では、1人の労働者階級の収入に頼る家族は、おそらく路上で暮らしている。あらゆる政治的決定はただ価値観によってのみ決められるべきだと主張し、利害についてのオープンな議論を封じることは、富裕層の一部にとっての共通戦略であった; ブレグジット国民投票の結果は、この戦略が消費期限に近づきつつあることを示す兆候の一つである。

現実の世界 - 政治が機能すべき世界 - では、真っ先に利害が来る。あなたが、あるいは私が、利益を得るのか被害を受けるのか、一連の政府政策によって豊かになるのか貧しくなるのか、これらが政治的リアリティの根底に存在する。根拠は一定の役割を持つ: イエス、この政策は、これらの人々に利益をもたらす; ノー、これら別の人々はそのような利益を共有していない - それらは事実に関する質問であるが、しかし、そのような質問に答えたとしてもより広い問題を解決することはできない。価値観もまた一定の役割を持つ、しかし、いかなる重要な政治的決定であれ、それに影響を与える価値観は常に競合している; 自由の追求は平等の追求と対立する。正義と慈悲は反対方向へと働く、など。

政治的決定を下すためには、問題に最も関連がある事実を発見するために、根拠を比較する必要がある - ここで、「関連がある」も価値判断であり、単なる事実についての問題ではないことに注意してほしい。関連のある根拠をフレームワークとして使い、競合する価値観の間で重み付けをする - これにも同様に価値判断が絡む - そして、競合する利害の間で重み付けを行い、対立する党派間でおおむね同意できる妥協案を探す。もしもそのような妥協案が発見できなければ、民主社会においては、それを投票にかけて多数派が言うことを実行する。これが政治が行なわれる方法である; 政治的方法論とでも呼べるかもしれない。

けれども、これは科学の方法ではない。科学的方法論は、自然に関するどの言説が誤りであるかを発見してそれを破棄する方法であり、その下には、自然に関する言説のうちで真実に可能な限り接近した仮説が残されるだろうという非合理ではない仮定がある。そのプロセスに妥協の余地はない。もしも読者がラヴォアジェであったとして、燃焼のしくみを発見しようとしているのならば、こちらには酸化の理論があり、あちらにはフロギストン理論があるのだから、燃焼の半分は酸化でもう半分はフロギストンであることに合意しよう、とは言えない; どちらか一方の説を反証する実験を行い、その評決を受け入れなければならない。科学では許容されない妥協は、けれども、有能な政治の中心に位置する。

科学においては、更には、利害は理論とまったく関係がない。 (実際は - まぁ、ちょっと関係がある。) 価値観についての決定は、査読などの慣習を通して個々の科学者から科学コミュニティへと伝達される。個々の研究分野では、それにより何が良く、何が関連があり、何を重要であるとみなすかという価値判断を定め、強制する。この慣習のポイントは、科学者たちが可能な限り純粋に根拠に注目できるようにすることであり、そこで価値観や利害からの影響なしで、事実は事実として知られうる。科学研究において、事実に関する質問から可能な限り価値観と利害を排除するという精神的な慣習こそが、現代科学を人類史の中での偉大な知的アチーブメントたらしめているものであり、それは古代ギリシア人による論理の発明にも匹敵する。

古代世界の巨大な知的危機としては、代わって、論理はあらゆる人間の問題に対する解決策ではないという発見であった。科学があらゆる人類の問題を解決可能であるという主張の擁護はますます困難になっているために、同様の危機が現代世界にも迫っている。そして、タイソンのような著名人による絶叫は、単に本当のトラブルが迫っているという根拠としてのみ捉えるべきではない。タイソン自身は、一流の天文学者でさえ、初等政治科学の講義で落第点を取ってしまうような初歩的な誤りを防ぐことができないことを明白に示している。彼は、科学教育の限界を示している唯一の例ですらない; リチャード・ドーキンスは完全に聡明な生物学者である、しかし、彼が宗教について口を開くときにはいつも、大学の2年生ですら恥ずかしいまでに未熟であると感じるほどの粗野な一般化と、驚愕すべき詭弁を使っているのだ。

そのような科学の慣習があってさえ、価値観と利害にかかわる問題について、根拠ではなく、純粋に科学の社会的権威にもとづいて決定されるべきだと科学者が要求することを止められなかった。このような態度は科学コミュニティでますます一般的になりつつある。ここで私が考えているのは、遺伝子組み換え米の試験と販売に反対するグリーンピースを攻撃するため、ノーベル賞受賞者が署名した怒りに満ちたオープンレターである。これは複雑な問題であるので、後で詳しく見ていこうと思うが、しかし、そのような複雑さはオープンレターに反映されていないことが分かるだろう。その主張はシンプルである; 我々は科学者だ、お前たちはそうではない。ゆえに、お前たちは黙って我々の言う通りにすべきである。

この主張を1ステップずつ分離してみよう。最初に、遺伝子組み換え米の試験と販売を許可または禁止するという決定は、本質的に、科学的ではなく政治的な問題である。科学研究は、上述の通り、価値観や利害への言及なしに事実を事実として扱う。「もしXをすれば、Yが起こるだろう。」 - これが科学的言説である。そして、科学的言説が十分な研究と再現可能な実験に裏付けられるならば、意思決定の枠組みとして有用である。意思決定は、けれども、価値観と利害という基盤から逃れられない。「Yは善いことだ、ゆえにあなたはXをすべきだ。」は、価値判断である。「Yは私にコストを課し、あなたに利益を与える。ゆえに、私がXに同意してほしいのであれば、あなたは私に何らかの補償を与えるべきだ。」は、利害についての言説である - そして、いかなる政治的決定であれ、価値観と利害を無視すると主張するものは、役に立たないか不誠実であるかのどちらかである。

そこには、遺伝子組み換え米を取り巻く、価値観と利害についての深刻な疑問が存在する。その品種の米は、ビタミンAを生成するよう遺伝子組換えされている。ビタミンAは他品種の米には含まれていない。そしてそれゆえに、ある種の失明を防ぐだろう - これが価値観の衝突の一側面である。別の面としては、第三世界でのほとんどの種籾は、前年の収穫から得られており、種の販売業者から購入されたものではない。そしてそれゆえ、GMO米のマーケティングは、巨大な多国籍企業が、地球上で最も貧しい人々のポケットからお金を吸い上げ、工業諸国の株主を更に富ませるための更なる手段を与えるだろう。第三世界の人々がビタミンAを摂取する方法は他にも多数存在する。しかし、ノーベル賞受賞者のオープンレターでその方法は議論されていないことが分かるだろう - もちろん、オープンレターに署名した科学者の誰も、GMO米の特許を購入するための募金キャンペーンを起こしてはいないし、国連にその資金を寄付してもいない。言わば、あまりにも貧しい第三世界の農民たちが、彼らの持っていない種へ支払うためのお金を費すことなく、そのような米から利益を受けられる方法を取っていないのだ。

これらがグリーンピースその他の人々が提起した問題であった。これに対する反応は、argumentum ad auctoritatemすなわち権威論証という論理的誤謬を直接的に示すものである - 「私はこの分野の権威なのであるから、私の言うことは正しい」 - これは誤ったロジックであり、それ以上に政治的な愚行である。あなたが言ったことが実際には誤りであると判明しない限りにおいて、何回かはそのトリックを使ってごまかせるかもしれない。体制的科学は、今日ではあまりに多くの誤りを犯してきているため、その権威に頼ることは難しくなりつつある。私は、これまでの記事で、体制的科学が壁の外側から自分がどう見られているかに気付かなくなっていることを指摘した。人間の食事、医学・薬学分野における研究からマーケティングへの直接的な変換、科学者たちが誇示する安全性と有効性への約束と、ますます危険で無意味になりつつある薬品、テクノロジー、そして政治的決定との間の拡大しつつある亀裂は、一般の人々の生活に重荷を課している。

これには多数の問題が存在する、しかし最も重要なのは政治的な問題である。人々は、所与の受け入れられた事実というフレームの中で、自身の価値観と自身が知覚した利害にもとづいて政治的決定を下す。事実の提示と解釈を仕事とする人々が、彼ら自身の公平性に対して疑問を投げかけるような振る舞いをするようになると、「受け入れられた事実」はもはや受け入れられなくなる。多くの科学者を雇用している巨大多国籍企業の利害のため、科学者たちが一般の人々の価値観と利害を無視するようになったら、科学者のいかなる発言であれ、一般の人々の犠牲のうえに自身の利益を得ようとする試みとして無視されるようになるのは時間の問題でしかない。

それが、私が信じるところでは、気候変動への反対運動、広く言って環境保護活動の失敗の拡大の背後にある主要な力の一つである。最近では、タイソンのような科学者が舞台の上に上がって発言しても、それを聞いたかなり多くの割合の人々は、「ワオ、私はそれを知らなかった!」というふうに考えて反応することはない。人々は、「誰が金を出して彼にそう言わせているのだろう?」と考えるようになっている。それは、完全に不当でないとしても十分に悪いことかもしれないが、しかし、科学の多くの分野において - 特に、先に述べた通り、医学と薬学分野では - 再現性の欠如した研究が増え、露骨な研究データ改竄が暴露され、最高の科学的権威が安全で有効だとお墨付きを与えた製品がまったく逆であると判明するに従って、そのような警告は必須となっている。

正統性の危機を気候変動活動の歴史に広げた要因があるが、共通する部分を見分けるのは難しくない。15年前、人為的な気候変動を止めるための運動は、巨大な力を持っていた; 今日では、それは空手形であり、国内政治ではリップサービスしか与えられないか、完全に無視されている。大きく宣伝されているものの、実際には誰も温暖化ガス排出削減を約束しない国際協定は、不条理劇と化した。気候変動活動家によるレトリックは、大部分が既に述べた政治的に役に立たない言葉と同じである - 「我々は科学者だ。お前たちはそうではない。ゆえに黙って言われた通りにすべきである。」 - 科学者たちは正しかったし、また人為的気候変動は今現在我々の周囲で制御不能に陥りつつあるものの、そのような言葉が人々を引きつけるよりも遠ざけ、ゆえに運動の失敗を確実としたという事実を変えるものではない。

もちろん、気候変動にはより広い問題が絡んでいた。そしてそれは今日一般に見られる。利害の問題である。具体的には、人為的な気候変動を防止するための費用は、誰が負担すると予期されていただろうか? あるいは、その費用を免除されていたのは誰であったか? それは、注目に値するような類いの疑問であるとは見えないかもしれない - 少なくとも、今日の政治的メインストリームにおいて受け入れられる言説ではない。次回はそれについて話そう。

*1:訳注: 聖書に書かれた通りの期間の間に、神が地球と生物を創造したと信じる立場。 若い地球説 - Wikipedia

*2:訳注: 「twit」を辞書で引いてください。