Going Faraway

渡辺遼遠の雑記帳

翻訳:環境保護主義の次のたそがれ (ジョン・マイケル・グリア)

ジョン・マイケル・グリアによる2019年8月7日の記事 "The Next Twilight of Environmentalism" の翻訳です。

The Next Twilight of Environmentalism

あぁ、同じことがまたも起きようとしている。現代の政治文化におけるある種の政略結婚が、どれほどすぐに無様な離別を迎えるのだろうかと考えてきたが、現在、典型的な差し迫った決裂の警告サインが見られる。環境問題を懸念している読者たち - 実際に懸念しており、つまり、環境問題を階級自覚的な徳性のシグナリングのための機会として単に都合よく利用しているのではない人たち - は、ショックに備えてほしい。

私が考えている警告サインは、左派メインストリームメディアで、エコファシズムの危険性を訴える記事が最近急増したことである。エコファシズムとは? 我らが社会のファシスト的フリンジの下位グループであり、現代の過激派集団の標準以上に、環境問題に対する懸念を人種的偏見および権威主義的な政治的夢想と結び付けるグループを指して使われる用語であり、また一般的に自称としても使われている。もしこれを耳にしたことがなければ、それには充分な理由があるのだが、しかしメインストリームメディアのかなりの部分が、エコファシズムに関する報道に興味を抱いているようだ。これは、ニュー・ステイツマン誌の最近の記事で、これはガーディアン誌からの別の記事である。そしてこちらはニューヨーク・レビュー・オブ・ブック誌の記事である; もし、メディアがデッチ上げた怒りのキャンペーンの経過を見たことがあるならば、そのレトリック上のスタイルを認識できるだろうし、この最新事例がどう展開していくかをさほど困難なく推測できるだろう。

ここで最初に私が読者に指摘しておきたいことは、既に述べた通り、エコファシズムは、 変わり者 フリンジ 中のフリンジであるということだ。規模と文化的影響力という観点からは、エコファシズムは、地球平面説協会やエルヴィス・プレスリーが神であると真剣に信じる人々よりも下位に位置する。それは小さく自己排除的なサブサブサブカルチャーの1つであり、ごく限られた数の人々が快適なあいまいさの中で自己矛盾したファンタジーを演ずるためのものであり、非常に、非常に小さな池の中で一番大きなゾウリムシであるというささやかな喜びを得るためのものである。つまりは、読者諸君の生涯の中でエコファシズムが政治的・文化的に重大な影響力を得る可能性は、ベーコン合同教会 *1世界宗教となる可能性よりも低い。

それではなぜ、こんな顕微鏡サイズのフリンジイデオロギーが、重要なリベラル系の新聞と雑誌、およびそれに対応する左派ソーシャルメディアとパブリックなブログ圏で、これほど多数の不安を装ったエッセイを集めるようになったのだろうか? その理由として、私が主張したいのは、ついにメディアから注目を集め始めた別の事象と関係があるということだ。

しばらく前、読者の一部は気付いているだろうが、ある大手ハイテク企業 [Google] がシチリア島で開催された環境問題カンファレンスのスポンサーとなった。出席者は300人で、全員が今日の経済的・文化的エリート界の酸素欠乏的な 頂上 サミット からの人々であった。イベント会場との往来のため、少なくとも119機のプライベートジェットおよび燃費の悪い豪華なモーターヨット船団が必要であった - 当然、飛行機とヨットは、個人アシスタント、召し使い、およびその他の「セレブリティ」と呼ばれる脆弱な商品を、現実世界という鋭いエッジへの不要な接触から保護するために必要となる人員の大集団も運んできた。カンファレンスでの他多数のアメニティの中には、参加者たちを昼夜待機するマセラッティの車もあった。めったにない空き時間のあるときにどこかへ行って、観光をするためである。

つまりは、すべての直接および間接的なエネルギーコストを計算すると、この1回のカンファレンスは、第三世界の数ヶ国の年間排出量にも匹敵するカーボンフットプリントを持っていた。 - おそらくお分かりの通り、このカンファレンスの目的は、人為的な気候変動の脅威について話すことであった。

気候変動がセレブリティによるファッショナブルな主義主張となって以来、この種のことはもう何年も続いている。今年のカンファレンスを過去の同種の残念な事例と区別するものは、今回ついに、政治的スペクトラムの逆側の人々が、バカげた気候変動偽善に対する非難を始めたことである。このレックス・マーフィーによるナショナル・ポスト誌の手強い記事は、たとえば、シチリア島のカンファレンスときらびやかに輝くセレブリティの参加者たちに対して、小気味良い批判を行なっている。メインストリームポップカルチャーの気密性バブルの外側へと踏み出せば、容易に別の事例も発見できるだろう - 今日では、そのバブルの気密性はかつてより失われており、一部の批判は内部へと漏れ出してきている。

この時点において、実際のところ、気候変動活動家たちの現在の憧れの的、スウェーデンティーンエイジャー、グレタ・トゥーンベリは、商業航空旅行が引き起こす莫大なカーボンフットプリントを理由に、飛行機への搭乗を拒否している。賢明にも、彼女はヨーロッパを電車で旅行しており、お金持ちの友人たちは、大西洋を渡って今後の北米ツアーに参加するためのセイルボートを貸したという。もしも、トゥーンベリが人為的気候変動への意識向上を目指している一般市民であったとしても十分に悪いニュースだったかもしれないが、しかしそれだけではない - 彼女はダボス族のお気に入りで、普通の若者らしい注目への欲求を活かして相当な文化的プレゼンスを得た、特権階級の子弟なのだ。彼女が電車に乗るたびに、上述したシチリア島のカンファレンス参加者を見て、「それでは、あなたのカーボンフットプリントはどうなのだ?」と問いかける人々の数は増えていくのだ。

それは、逆に、現状のあり方の気候変動反対活動にとって致命的である。何年か前、私がピークオイルムーブメントのちょっとしたスターであったごく短い期間以来、気候変動を中心とする環境保護活動の一派における興味深いダイナミクスについて書いた。ほぼ常に、ピークオイル関係のイベントで出会い、ピークオイル、および広く言えば工業文明の命運に懸念を持つ人々は、気候変動や大型愛護動物の苦境といったメディア受けする主義主張を唱える人々よりも、政治運動への関与に加えて、容易に、また進んで自分自身の生活を大きく変える傾向があった。ほぼ常に、人為的気候変動のみに関心を抱いている人は、自分の生活を変えようとしなかったのだ。

もっと正確に言うこともできる。消滅しそうなほどのごく稀な例外を除いて、人為的気候変動のみに関心を抱いている人は、どこかで、自分以外の別の誰かが、大量の炭素使用を止めるべきだと大声で主張していたのだ。彼らが行ってもよいと思う唯一の気候変動への貢献は、本当に、本当に、申し訳ないと思うことだけなのだ。これがジョークだったら良かったのにと思う。環境保護活動シーンの 文化的前衛 アヴァンギャルド に位置するイベントに何度か参加したことがあるのだが、そこでは、参加者たちの母なる地球 ガイア への悔恨を促進するための打楽器の 即興演奏会 ドラムサークル が開かれていた。ノー、私はそこには加わらなかったのだが、しかし、近くを通りかかるたびに、高級なスリーピーススーツに匹敵する値段のオフィスカジュアル服を着た人が、サークルのなかで、この星の状態について嘆き、泣き叫んでいた。日曜日の午後、各々が大きく輝くSUVに乗り込んでイベントにやって来て、そして、ただ化石燃料のバカげたまでに浪費的な過剰消費によってのみ可能となるライフスタイルへと戻っていくのであった。

これは、いくらかは典型的な偽善であり、もしも自身の罪を真剣に悔悟すれば、神は人が罪を犯し続けるという事実を無視するだろうという奇妙な信念 - あまり誠実でない自由主義的クリスチャンから借用された - にもとづいている。それでも、ここにはそれ以上のものがある。その他にも表面化してきたのは、数年前、ワシントン州環境保護活動家グループが、炭素税を課す 市民発案法 イニシアチブ を提案したときのことである。そのようなものの常として、イニシアチブは非常にうまく設計されており、その優れた点としては 歳入中立 レベニューニュートラ だったことが挙げられる: つまり、炭素税として徴収された資金はすぐ直接的に市民への還元支払いに充てられるので、炭素税によるエネルギー価格の上昇が経済停滞を起こしたり貧困者を苦しめたりすることがないということだ。

それは、逆に、ワシントン州の民主党にとっては受け入れられないものであった。そこで、民主党は支持を拒否し、イニシアチブの廃案は運命付けられてしまった。その後すぐに、民主党は独自の炭素税法案を提案したのだが、それはまったくレベニューニュートラルではなかった。むしろ、炭素使用料から得られたすべての資金を、非選挙の理事会が運営する 秘密政治資金団体 スラッシュファンド へと横流しするもので、それは、同じくパブリックな監督を逃れた各種の社会正義的な大義へと資金を施すはずのものであった。驚きではないだろうが、2つ目のイニシアチブも大きく失敗した - 息を呑むほどに腐敗した政治的エスタブリッシュメントたちが、一般大衆の犠牲のもとにまた別の不正資金源を獲得することを、ワシントン州有権者たちは信用しなかったのだ。

新人議員アレクサンドラ・オカシオ=コルテスの元首席補佐官であったサイカット・チャクラバルティは、既に誰もが内心では気付いていることを公に認めたことで、しばらく前にメディアのある一部で波乱を引き起した: つまり、過剰宣伝されているオカシオ=コルテスの「グリーンニューディール」は、実際のところ環境保護に関するものではないということだ。もちろん、彼はきわめて正しい。それは、ワシントン州の2番目の炭素税イニシアチブが気候変動に関するものではなかったのと同じである。両者ともに、環境保護主義のレトリックを、富と権力の移転を強制するために用いている - 通常通りのレトリックの大盤振る舞いにもかかわらず、その"富の移転"は、豊かな者から貧しい者への移転を意図したものではなかったのだ。(将来の記事で、これがどこへと進むのか、またそこで何をするつもりなのかを語ろうと思う。)

この時点において、私は無為な私の若年時代の思い出に圧倒されていることに気がついた。なぜなら、我々は以前にも同じ状況にいたからだ。私の読者のほとんどは、ローマクラブに支援された1972年の革新的研究『成長の限界』について耳にしたことがあるだろうと思う。それは、有限の惑星上で無限の成長を追求することが、必然的に、長期的で段階的な人口および経済アウトプットの衰退を引き起こすことを示したのだ。(イエス、それが研究の結果である。これほどあまりに多くの人々が、過去の終末論的ファンタジーを検証できないこと、メドウズらが何を実際に書いたのかを読めないことには驚きだ。) ところが、どれだけの人が知っているだろうか、その後ローマクラブは『成長の限界』をフォローアップして、問題への解決策を提案する一連の研究を実施していたということを: 『Mankind at the Turning Point (1975)』、『Reshaping the International Order (1976)』と『Goals for Mankind (1977) 』が、その最初の三部作であった。

これらのフォローアップ研究を耳にしたことがなければ、読者諸君、それには正当な理由があるのだ。彼らは、説得力のない議論で、世界中の国々がグローバル経済のコントロールを非選挙の専門家集団へと委託し、その下であらゆる民主的な統治組織を権限のない議論用の社交場へと変化させ、一方で、重要な意思決定は、都合良くパブリックな監視を逃れた産官の委員会により定められる、そのようにしさえすればすべてはうまくいくだろうと主張していたのだ。(もし、これがたった今EUの支配に耐えている読者諸君に馴染み深く聞こえるのであれば、それには充分な理由がある; ここで説明した状況は、ヨーロッパの特権階級およびその子飼いの知識人にとって、過去数十年間の夢想であったからだ。) それが、通常言及されることのないものの『成長の限界』が激しい反発を受けた理由である: 1972年の多くの人々は、それが政治的アジェンダのカモフラージュであることを見抜いたのだ。

それは、『成長の限界』での予測が不正確であるということを意味しない。それが我々の状況の苦い皮肉である。その書籍の『標準予測』モデルは、当時の時代の1972年以降の未来に関する最も正確な予測であり続けている - 当時、より現実的だと考えられていた、高速の進歩というテクノ中心主義的なファンタジーや、同等に妄想的な予測である即時の絶滅よりも、確かに、はるかに正確であった。ワールド3モデルが予測した通りに、グラフが曲がり始めているのを我々は眼にしている。そして、モデルが予測した長期の没落は、目前に姿を現しつつある。それはまるで、あなたの家が火事で燃えている時、誰かが家のドアを叩いて、消火活動を実施するために、あなたの資産すべてを譲渡する契約書にサインせよ、と主張するようなものである。あなたは契約書にサインするべきではなく、彼が契約書にサインさせようとして話す動機は不順であるが、しかしそれは、本当に家が火事であるという事実を変化させるものではない。

同様に、ある種の人々が気候変動を無関係な政治的アジェンダのカモフラージュに使おうとしている事実は、大気中に何兆トンもの温室効果ガスを排出することが良いアイデアだと意味するわけではなく、またそうすることが既に不安定な世界の気候に大きな混乱を引き起こさないと意味するわけでもない。注意してほしい。人為的気候変動は、長い眼で見れば、世界の終わりではない; 地球は、その長い歴史のなかで何度も突然の気温変化を経験してきた。その中には、巨大規模の二酸化炭素放出が原因であったものもある - これは、たとえば、本当に巨大な火山噴火によっても生じる。

ヨハネの黙示録から借用した装飾で気候変動を装飾する試み - 怒れるガイアの手の上にいる罪人たちよ! - は、我らが文化の終末への強迫観念と、人々を脅して自身のアジェンダにサインさせようとする野心を持つ人々と強い関連があり、それは人為的な気候変動よりも大きい。とは言えども、沿岸の洪水、気象関連の災害、作物の不作、その他のお楽しみは確実に増加するだろうと予期できるし、それは年が経つにつれてますます増加する深刻な経済的負担となろう。そして、数パラグラフ前で言及した通り、人口と経済的アウトプットの減少をもたらすだろう。イエス、これが『成長の限界』が、我々の目前にある長くゆっくりとした衰退の弧を予測したときに語っていたことの1つである。

気候変動活動を推進してきた人々が直面した問題は、彼らの政敵が非常に効果的な反撃方法を発見したことである; その人々は、人為的気候変動により我々が直面する終末的な未来を長時間話しているような人々が、自分自身の主張を真剣に受け止めていないということを暴いたのだ。したがって、前述したシチリア島の環境カンファレンスの参加者たちは、もはや惑星を食べると同時に持っていることはできない - あるいは、より正確に言えば、そういった行動を取りながら、自分たちの主張は真剣に受け止められるべきだと他人を説得することはできない。これは、ある種のデリケートな自我を持った人には困難であろうし、驚愕すべきレベルのエネルギーと資源の浪費に支えられたバカげたまでに浪費的なライフスタイルを続けながら、前述したアジェンダの追求を困難にする。

その困難さには、けれども、シンプルな解決策がある: セレブリティ、その子飼いの知識人、および背後の利害関係者たちは、熱い岩のごとく環境保護主義を投げ捨てることができる。

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私を覚えていますか?

結局のところ、1980年代初頭に起こったのはそれだ。その時点まで、環境保護主義は、政府資金の広告キャンペーンに支えられ巨大な文化的プレゼンスを持っていた - 私の読者の中には、確実に、ウッディー・オウルと印象的なスローガン、 「ホーホー、森を汚さないで! [Give a hoot, don’t pollute!]」を思い出せるほど歳を取っている人もいるだろう。- また、自然に対して慈悲的なセンチメントを発した膨大な著名人によっても支えられていた。そして、バン! ロナルド・レーガンが登場し、ウッディー・オウルは退場した。ジョン=ボーイ・ウォルトン *2 と [フォーク歌手] ジョン・デンバーは、[映画『ウォールストリート』]「強欲は善だ」のゴードン・ゲッコーとマドンナの「マテリアル・ガール」に道を譲った。[環境保護団体] シエラ・クラブとフレンズ・オブ・アースは役員会に企業の重役を採用し、効果的な組織戦略を徹底的に無効化するためありとあらゆることを行ない、大気浄化法、河川浄化法、絶滅危惧種保護法その他の環境保護法の "規制緩和" へと繋った。

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私はどうですか?

1980年代初期、効果的に環境保護活動を骨抜きにしたプロセスには、他にも多数のファクターがあったが、しかし、その崩壊の背後にあった重大な力の1つとして、かつて環境保護活動に勢いを与えるために重要であった著名人の支持、政治的な影響力や補助金などの提供を停止するという、利害関係者たちの決定があったと考えている。私がこう考えるようになった理由は、まったく同じことが2010年以降のピークオイル運動にも起こったのを目撃したからだ。当時、ASPO [the Association for the Study of Peak Oil] および他の多種多様なピークオイルの提唱団体が、突然電源プラグを抜かれ、ウェブサイト、メンバーシップ組織、年次のミーティングなどの社会的生態系全体が地面へ墜落した。

私は、気候変動活動にも同じことが起こるだろうと考えている。急変化が近づいているというサインは、小さなフリンジ的現象であるエコファシズムにマスメディアが突然注目しだしたことである。この先数ヶ月以上、同じラインに沿ったストーリーが、左派メディアとブログで更に多数見られるだろうと予期している。そのようなストーリーは、環境問題に過剰に注目する人 - 特に、著名な気候変動活動家以外の人が、大声で主張された理想論に適合するようライフスタイルを変化させる人 - は誰でも、おそらくエコファシストであると、甲高い声で主張するものである。実のところ、環境的な限界を信じる人々はレイシストであると訴えるメディアの記事を見たとしても特に私は驚かないだろう; そのような主張は既にブログ圏の中では見られるし、メインストリームの左派が同じことを言うのも、私が思うに、単に時間の問題でしかないからだ。

この突然の兆候が過去の事例と同じ軌道を辿るのであれば、気候変動活動への資金供給は突然枯渇し、そのような資金を受けていたグループは、フォーカスを気候変動からより広く無害なテーマに変えるように説得されるだろう。(ピークオイルシーンの古参の人々は、[オンラインフォーラム] Energy Bulletin が突然名前を Resilience.org に変更し、そのフォーカスをピークオイルから当たり障りのない環境保護の雑多な寄せ集めに変更したとき、何が起きたかを思い出せるだろう。私が今考えているのはそんなことだ。) セレブリティたちは、バカげたまでに浪費的なライフスタイルを維持したまま善行を演じられるような、何か別の主義主張を見つけるだろう。グレタ・トゥーンベリについて言えば、エリートからの注目を可能な限り楽しんだほうが良いだろう; 気候変動について話すのを止めて、次の流行りの大義について行くほど彼女が賢明でなかったら、今からそう遠くないうちに、現在彼女に媚びているお金持ちで影響力のある人々は、「グレタって誰だ?」と言うようになるだろう。

これらすべての苦い皮肉は、人為的な気候変動が現実であるということだ。気候変動は、長期的にも短期的にも世界の終わりではないが、しかしこの先数十年の間に、莫大な人間の苦痛と経済的な貧困をもたらすことは確実である。更には、現在、人為的気候変動について騒ぎ立てているだけの著名な活動家たちでさえ、何かをできる可能性がある。もしも、自身が進んで模範となり、自分のカーボンフットプリントを劇的に削減し、我々のように一歩踏み出した人々が既に知っている世界を示しさえすれば: つまり、工業諸国の人々が必要であると考えるエネルギーと資源の量よりもはるかに少ない量で、完璧に楽しく、まっとうで、快適な生活が送れるということだ。

それは、気候変動活動と環境保護主義一般がファッショナブルでなくなるにつれて、この先数年で失なわれるであろうチャンスである。それらの大義に自身の時間と労力を注いだ多数の人々は、1980年以降の適正技術運動、2010年以降のピークオイル運動と似た、まったくうらやましくもない状況に置かれるだろう。そして、もし、読者諸君、こんなことは起こりえるはずがなく、私は完璧に間違っていると言いたいのであれば - あるいはおそらく、私自身も、最近メディアが騒ぎ始めた邪悪なエコファシストの仲間であるに違いないと言いたければ - それでは、このエッセイを保存し、5年後か10年後にもう一度見返すことをお勧めしたい。そこで誰が正しかったかが分かるだろう。

*1:注: 豚肉のベーコンを崇めるパロディ宗教 ベーコン合同教会 - Wikipedia

*2:注: 戦前のアメリカで田舎暮らしする大家族を描いた、1970年代~1980年代のテレビドラマの登場人物