Going Faraway

渡辺遼遠の雑記帳

翻訳:長期的な視座 (ジョン・マイケル・グリア)

ジョン・マイケル・グリアによる2019年7月3日の記事 "The Long View" の翻訳です。

The Long View

過去3年以上にわたって、このブログ、および旧ブログ『The Archdruid Report』上でのオンラインエッセイのテーマは、現在のできごとに比較的固く焦点を当てていた。それはまったくの偶然ではない。2016年には、西洋工業文明の中で何年にもわたって構築されてきた緊張が開放され、非常に多くの政治的・文化的な伝統を混乱させ、一般常識を引っくり返した。このように主張するために、「ブレグジット」と「トランプ」という語をささやく必要はないと信じている。

歴史とは直線ではなく円環であり、文明にはライフサイクルがあり、文明興亡の巨大な弧の上では対応する点において類似した事象が発生すると理解している人にとっては、驚きではなかった。オズヴァルト・シュペングラーは、その1人であるが、1世紀以上も前、『西洋の没落』のページに、近年のニュースヘッドラインを賑わず出来事について書いていた。彼は、乾いたゲルマン人的なユーモアと共に、裕福な人々が政治制度を操作するために金銭を用いることを学ぶやいなや直ちに民主主義は金権政治へと変化するということ、それが無知なエリートの台頭を招き、彼らは社会全体に対して何をもたらすのかに気付かないままに私腹を肥やすことに励むということ、そして、野心ある男 - ほとんどの場合、金権政治階級の内部から登場する - が、同時代の "嘆かわしい人々" の主義主張を擁護することにより、権力を獲得できると認識するということを示した。

シュペングラーは、このプロセスの結果として発生するカリスマ的なポピュリズムをカエサリズムと呼んだ。この名は、人類の中で歴史に残る事例のうちの1つにちなんでいる。(現在のアメリカの事例が、"オレンジ・ジュリアス" [米国のジューススタンドチェーン。現在、ドナルド・トランプを揶揄する呼び名としても使われている] と呼ばれることは、このブログEcosophia上で繰り返し発せられるジョークである。) 組織化された寡頭制政体とカエサリズムの勃興の間の衝突は、シュペングラーが示した通り、不可避の歴史的事象であり、それは社会が千年程度の成長期を終え、成熟形態へと落ち着く際に起こる。シュペングラーが1918年に予想したところによれば、この衝突は、21世紀初頭の西洋世界全体にわたる政治を決定するテーマとなるだろうとされていた。今日のニュースを見てみれば、彼が正しかったという認識を逃れるのは困難である。

アーノルド・トインビーは、シュペングラーよりも慎重で注意を払っていたのだが、予言を避け、過去のプロセスの正確な説明で満足した。トインビーの分析では、成功した社会が繁栄する理由は、その統治階級が創造的少数派と呼ばれる集団を形成しているからなのである。 - 文明がその歴史の道程で直面する問題に対して、創造的な解決策を生み出すことができたために、社会全体から尊敬を得て模倣される集団である。 あまりに頻繁に、けれども、統治階級は重要なイノベーションを止めてしまい、解決策を現在の状況に合わせて変更するよりも、決まり切った解決策に問題を合わせようとすることに興味を持つようになる。その後、彼らはトインビーが呼ぶところの支配的少数派となり、もはや尊敬の念を起こすことはできず、不承不承に服従されるようになる。

ひとたび社会が支配的少数派に支配されるようになると、そのような社会の中の人々が、責任ある人々がもはや解決しようとしなくなった問題に対処するために用いる一連の標準的行動が存在する。世間から隠遁して暮らしていたのでもない限り、読者諸君、諸君は既にそれらすべての行動を知っているだろう。トインビーは、それらを超脱、変貌、未来主義、復古主義と呼んだ。超脱とは、別の土地、または世界の別の場所、あるいは現状の出来事を遮断するのに十分な気密性のあるサブカルチャーの中へと戻ることで、社会をその運命に委ねることである。変貌とは、宗教への回帰である - シュペングラーはこれを第二宗教と呼んだ - これは、人々が現世に不満を抱き来世に希望を置くようになるに従い、あらゆる文明の後期に起こることである。未来主義とは、未来において完璧な社会を構築する、または少なくとも夢想する試みである。復古主義とは、最後に、失敗した現状維持を拒絶し、過去に機能していた政策を支持することにより "メイク・○○・グレート・アゲイン" を追求するものである。

トインビー自身には、これらのうちに自身の好みの方法があった - 彼は敬虔なクリスチャンであり、またそれを示した - しかし、この4つの標準的行動すべてが実行可能なオプションとなりうる。そして、未来主義と復古主義はとりわけ政治的爆弾となるかもしれない。現代西洋工業社会の管理上中流階級は、創造的少数者から我らが時代の組織的金権政治を運営する支配的少数者となり果てたのだが、彼らは、世界恐慌の発生時に先代の金権政治家たちから未来主義の方法によって権力を奪取した。自身により大きな権力を与える変化を「社会進歩」と定義することにより技術的変化のカリスマ性を借用したのである。お決まりの通り、その方向へ向けた最初の動きはかなりうまく働き、その後はあまりうまく働かなかった; 40年ほどの間、これは公然の秘密であったのだが - 少なくとも、特権的な人々の暮らす気密性のバブルの外では - ほとんどのアメリカ人にとって物事は確実に悪化を続けている。必然的な反発が続いた。

長期的には、言い替えると、ドナルド・トランプが来年の選挙で二期目の勝利を収めるのか否かは実際にはさして重要ではない。(短期的には、けれども、極めて重要であるので、私は両サイドで膨大な選挙不正がなされる苦々しい選挙戦が起こるだろうと予期している。) トランプは、次世代のポピュリスト政治家たちに、ネオリベラル的コンセンサスは打ち負かせると示したのである。また、あらゆる重要な問題について企業と政府官僚の絡み合った利害を支持する一方で、常に労働者階級へとコストを押し付ける環境保護主義と社会正義イデオロギーに形ばかりの支持を示しているネオリベラル的コンセンサスを、ますます多くの選挙区が拒否するようになった。これからも、更に多くの動乱があるだろう。この先の数年の間に、政治情勢を揺るがす地殻変動が多数起こるだろう。けれども、ネオリベラル時代は既に死に、マンガのカエルがその墓の周囲を飛び跳ねている。

このような状況であるので、しばらくの間一歩下がって、再び長期的な視座を取るのには適した時期である。

私のブログ記事が未来の議論を止めたため、時々、過去数年間の私の予測がどれほど当たったのかという質問を受けることがあった。もちろん、このような質問をした人の多くは、私の予測に対するさまざまな誤解にもとづいていた; たとえば、このような質問はまったく珍しいものではないのだが、困惑から冷笑に至るまでの口調で、なぜ社会は未だピークオイルの結果により崩壊していないのかと聞かれることがある。私はピークオイルによって社会の急速な崩壊がもたらされるとは言っていないため、これは私にとっては皮肉な喜びの源泉であったのだが、しかしこれはまた我々の困難さの一つを示している: あまりに多くの人々が、永続的な進歩でも突然の崩壊でもない未来を想像できないという奇妙な状況である。

エス、このことについては以前にも書いた。『The Archdruid Report』の当時の記事で私はその奇妙な精神的問題を分析し、未来を明確に思考する方法を提案した。当時、少なくとも、人々が私の言葉に耳を傾けてうなずき、その後で、永続的な進歩に対する唯一の代替は全面的なカタストロフィであるという同じ奇妙な信念に帰っていくことを見るのは面白いものであった - まるで、停滞と没落が、過去40年の間ほとんどの工業諸国の人々にとっての日常的な経験が、起こり得ないものであるかのように。人々の心からこの奇妙な精神的な霧を追い払うための信頼できる手法の一つとして私が発見したことは、直近の未来が我々に何をもたらすのかについて率直話すことであった。

少なくとも私にとって、これを特別に痛快なものとしているのは、過去の特段スリリングではない日々に時計を戻すことにより、これを行うことができるということだ。最後に、経済成長への厳しい限界が語られていた時期である - イエス。それは2008年~2009年の原油価格急騰中と後のことだ。『The Archdruid Report』および他の既に消滅したピークオイルフォーラムの古い読者は、技術的なイノベーションが必ずや我々を救ってくれるだろうと主張していた、オンラインであれオフラインであれ、非常に規模と声の大きい集団のことを思い出すだろう。そして、トランジションタウンや何らかの類似のイデオロギーが我々を救ってくれるだろうと主張し、奇妙なことに、提唱者たち自身が実践することに全く興味を持っていないようなライフスタイルを、人々が熱狂的に受け入れるだろうと主張していた、オンラインであれオフラインであれ、また別の非常に規模と声の大きい集団のことを思い出すかもしれない。最後に、これまた別の非常に規模と声の大きい集団が、オンラインであれオフラインであれ、何らかの絶大な終末的事件によりすべてが無力化され、いずれすぐに、ごく少数の疲れ切ったサバイバーはゴミあさりや狩猟採取のライフスタイルへと戻り、その一方で他の70億人は、フランス語のシャレた言い回しにもある通り、タンポポを根っこの端まで噛むことになるのだ。

我々の仲間の中で、それよりも人気のないことを言った人たちがいた。壮大な技術的ブレークスルーは起こらず、壮大な社会の覚醒も起こらず、壮大な終末論的大惨事も起こらないと我々は予測した。加えて、これらが起こらないという確固たる理由も示したのだ。代わりに、 需要破壊 デマンド・デストラクションと一時的な小細工の組み合わせがものごとを継続させ、生活水準は継続的に下り坂を進み、人々は何も間違ったことが起きていないというフリをするために、政治と社会がますます破壊され不合理化すると予測した。そして、私が "長期没落" と呼んだ長きにわたる不規則な衰退のプロセスが速度を上げ続けていくと予測した。

このようなことを言ったために、私はありとあらゆる形で非難された。そのような主張をした他の人に言うことは特に無いのだが、しかし、同じ1つの記事が、テクノフィックスと壮大な社会変革の信奉者からは単なる厄介な悲観主義として、突然の黙示録の信奉者からは単なる盲目的な楽観主義として激しく非難を受けたことは、私にとって定期的な喜びであった。現時点において、けれども、2008年の原油価格急騰からの10年ほどを振り返ってみると、2つのことが極めて明らかになる。1つ目は、そのような非難をしていた人々は間違っていたということである。2つ目は、我々のように自分の主張を守り続け、広く人気のある主張に不同意であった人々が正しかったということだ。

それでは今は? この先の数十年も、同じことが更に起こり続けるだろうと私が予測したとしても、読者諸君にとっては耐え難い驚きではないだろうと信じている。

そもそも、我々の苦境の厳しいリアリティは何ら変化していない。このエッセイを投稿した前日には、人類は約1億バレルの原油、2100万トンの石炭、90億立方メートルの天然ガスを燃焼させた。その前日にも同量を燃焼させており、今日も、明日も、明後日も同じ量を燃焼させるだろう。人類が使用するエネルギーの大部分 - おおよそ80%程度、ほぼあらゆる輸送用燃料を含む - は、これら3種類の化石燃料に由来している。(太陽光と風力は、盛んに喧伝されているものの、全世界の総エネルギー生産の約3%程度しか占めていない。) そのすべての炭素はどこかから得なければならないし、そのすべては燃焼した際にどこかに行かなければならない。

ほぼすべての炭素が由来するのは、世界中の着実に減耗しつつある化石燃料の埋蔵である。石油会社は新しい油田を発見するために世界中を調査しているのではないか? 確かに。毎年の新たな埋蔵量の発見は、古い油田の埋蔵量減少と等しい量なのだろうか。まったくそれには届かない。もしも、一年に数十万ドルを支出する一方で収入が1万ドル程度でしかないとしたら、当初の貯蓄がどれほど膨大であったとしても、いずれは貧困に陥るだろう。化石燃料についても同じロジックが当てはまる。

それは、いずれすぐに工業文明が化石燃料の枯渇により崩壊するということを意味するのだろうか。ノーだ。けれども、将来、原油価格が上昇し急騰するにつれて、そのような主張が頻繁になされるのを耳にすることだろう。それは、今日の総エネルギー生産のなかでごく僅かな割合しか占めていない太陽光や風力テクノロジーが、バカげたまでに浪費的な我々のライフスタイルを魔法のように支えられるようになることを意味するのだろうか? あるいは、何らかのエキサイティングな新しいエネルギー技術がどこからともなく現れて、すべてを解決することを意味するのだろうか? 同じ主張が、1970年代と2000年代のエネルギー危機の最中にもなされていた。読者諸君には、周囲を見渡してそれが正しかったかを確かめることを勧めたい。

ノー。実際に起こることは、エネルギー価格が上昇し、人々はパニックに陥り、経済は急降下して身震いし、問題を抱えた時代を迎えるということだ。その後、別のラウンドの必死の間に合せの手法がシェールオイルよりさらに汚く高価な液体燃料源を発見し、別のラウンドのデマンド・デストラクションが、より多くの人を貧困に追いやり、茶番は続けられる。燃料価格が急騰前の水準に戻ることは決してなく、エネルギー費用は経済活動への更に大きな負担となり、世界金融システムは自由市場のフィクションを維持するために、ますます異様な形にねじれていく。かつては普通と考えられていたライフスタイルが、ますます多くの人々にとって手の届かないものとなる。

その一方で、壮大な技術的ブレークスルーないしは壮大な社会運動、あるいは壮大な終末論的災害を予期している人々は、何が起こったのかを疑問に思いながら、塵の中に取り残されるだろう。ちょうど、過去2回の石油価格急騰の際、それらが現れなかったのと同じように。イエス。それはまったく同じものであり、細部に至るまで同様である; 今日、革新的なエネルギーイノベーションとして推進されている技術 - 太陽光発電風力発電、増殖炉、核融合、リストはまだ続けられる - が、私の少年時代に推進されていた技術と正確に同一であるということは、私にとって確かな娯楽の源泉である。また、率直に言えば、目立ったイノベーションも壮大な社会運動も壮大な終末論的災害も起こらなかった。我々の文化の常として、アイデアが最先端で革新的であると言い立てられるほど、現在90歳代の人々が誕生した時には既に存在ていた、完全なる非オリジナルの焼き直しである可能性は極めて高い。

しかし、話は脱線する。ほぼあらゆる炭素が向かう先は、代わって、地球の大気であるが、そこでは世界の気候の微妙なバランスが損なわれている。終わりなき誤解に陥らず、このことについて会話できるようになるまでにはまだ数十年が必要になるかもしれない。なぜならば、気候変動活動家たちは、これらの主張を伝えることについて驚くべきほど無様な仕事しかできなかったというだけではなく、様々な種類の不毛なアジェンダを抱いた特別な利害関係者に自身の主義主張をハイジャックされ、歪められることを許してきたからである。その意味では、現在我々が直面している複雑な変化を、あまりに単純すぎる「 地球温暖化 グローバル・ウォーミング」という名前にまとめてしまったことは、印象的な科学的愚行である - トマス・フリードマンによる「 地球奇怪化 グローバル・ウィアーディング 」という名前のほうがはるかに正しい。しかし、これは活動家たちが提唱する物語にフィットしないのだ。

地球の気候は、最も単純な用語へと還元すれば、太陽と深宇宙の温度差によって駆動する熱機関である。1772年には、ジェームズ・ワットは、蒸気機関から外部に失なわれる熱の割合を減らすことで、当時使われていた原始的な蒸気機関の効率を高め、そうしてより多くの仕事をさせる方法を発見し、産業革命を開始したのである。大気に温室効果ガスを加えることは、これとまったく同じことを行う。そして、地球の気候が行う仕事は「天気」と呼ばれる。ゆえに、温室効果ガス汚染の結果は、気温の定常的増加などではない - あらゆる種類の極端な天候事象の増加である。

それは、いずれすぐに工業文明が気候関連のカタストロフィにより崩壊することを意味するのか? ノーだ。けれども、将来、そのような主張が頻繁になされるのを耳にすることだろう。それは、太陽光と風力、あるいは何らかの新エネルギー技術が我々を救ってくれることを意味するのだろうか? ノーだ。けれども、将来、そのような主張が頻繁になされるのを耳にすることだろう。ここでもまた、1970年代と2000年代のエネルギー価格急騰の際にもそのような同一の主張がなされ、同じような疑わしい結果をもたらした。

ノー、実際に起こることは、気象関連災害による年間コストが毎年毎年不連続に上昇していき、数十年のうちに、経済活動に対してまた別の重荷を課していく。かつては普通と考えられていたライフスタイルが、ますます多くの人々にとって手の届かないものとなる。新たな災害が発生するたびに、保険会社の支払いや政府の資金が需要をまかなえなくなるために復興はますます少なくなる。以上なほどに気象災害に対して脆弱であるアメリカの田舎は、静かに19世紀の状況へと戻っていくだろう。沿岸部の貧しい地域は、ゆっくりと暗黙のうちに、上昇する海面に沈んでいく。その一方で、壮大な技術的ブレークスルーないしは壮大な社会運動、あるいは壮大な終末論的災害を予期している人々は、何が起こったのかを疑問に思いながら、塵の中に取り残されるだろう。

それが我々の未来の形である。同様に覚えておく価値があるのは、化石燃料だけが、自滅的なまでの速度で消費されている非再生可能資源ではないということだ。その意味では、地球の気候だけが、自滅的な速度で汚染されている自然システムではないとも言える。ケネス・ボールディングがかつて指摘した通り、有限の地球上で無限の経済成長が可能であると考えるのは、狂人かエコノミストだけである。現実の世界では? - 我々が、否応なしに住まざるをえない世界では - 作用には反作用が伴う。経済成長のペダルを全力で踏み締めようとすることは、単に燃料の枯渇を早める意味しか持たない。

それが長期没落のロジックである: ゆっくりとした、不連続で不均衡なペースで進む冷酷なプロセスであり、資源ベースをオーバーシュートした文明を歴史のゴミ箱の中へと収めるプロセスである。西洋世界は、その軌跡を1世紀以上にわたって進んでおり、非工業化した暗黒時代の底に行き着くまでにはおそらくもうあと数世紀を要するだろう。この先の数ヶ月、通常通りの中断を挟みながら、我々がひきずり下される軌跡の各々の場所で何が起こるのかを調べてみたいと思う。次の記事では、私はそのうちの1つについて語るつもりである: 差し迫ったピークオイルの逆襲である。