Going Faraway

渡辺遼遠の雑記帳

翻訳:レトリック教育 (ジョン・マイケル・グリア)

以下は、ジョン・マイケル・グリアによる "A Rhetorical Education" の翻訳です。

A Rhetorical Education

このブログと旧ブログ上でのきわめて多くの議論は、論争的なテーマに、レトリックを次々と繰り出すような類いのテーマにフォーカスしている。これらのエッセイで議論したいテーマを考えると、そのようなことは避けがたいものである。我らが時代は論争によって切り裂かれた時代であり、そこではかつて制限の少ない時代において身体的暴力が占めていた空間の大部分が、ディベートに取って替わられている。(ヒラリー・クリントンの代わりにドナルド・トランプホワイトハウスに押し込む闘争において、どれだけの人間が死んだだろうか? 人類の歴史のほとんどの期間において、これはまったく皮肉な質問ではなかったのだ。)

それでも、この論争好き時代には奇妙な特徴がある。このブログの最近の記事で一度ならず言及したことだ: 今日の論争で活用されるレトリックのかなりの大多数が、驚くべきほどに無力であるという事実である。

今日、広く議論を生じる問題がどのようにディベートされるかを考えてみてほしい: たとえば、議会に現在提出されている、ウェブサイトのホスティング会社とコンテンツプロバイダーに、第三者が投稿した違法コンテンツの責任を負わせる法案についての言い争いである。当該の法案の支持者は、これはすべてオンラインでの性的な人身売買を止めるためのものだと主張し、そして法案に反対する者は誰であれ性犯罪を擁護するのだと主張している。法案の反対者は、こちらはこちらで、それは検閲の口実にすぎないと主張し、そして法案を支持する者は誰であれインターネットを破壊せんとしているに違いないと主張している。

ここでは、実質的な問題に関しては棚に上げておこう - それは現実の、重要な問題であるのだが、今週の記事のテーマとは関係がない - つまり、レトリックについて考えることだ。両方の側とも、自身に同意しない者に過剰なまでの非難を投げつけるという戦略を選択した。この戦略は最近ではあまりにもありふれているため、誰も明白な疑問を考えようとはしないようだ: それはうまく行くのか? もしも、声高に他人に対して、あなたが支持していることに同意しないのは、何かおぞましい理由によるものだと主張し、また彼らは、そのような意見への支持を非難されていることを支持していないと完璧に認識しているとしたら、そのような人たちは考えを変えてあなたに同意するようになるだろうか?

もちろん、そうはならない。もしもそんな戦術を使って他人を説得しようとするならば、彼らは頑なに自分の意見に固執するだろう。更には、彼らがそうすることは正しいのである。前述の法案の支持者が、自分に賛成しない人はみんな性的人身売買を支持するのだと主張するとき、法案の反対者はそれが完璧なウソであることを知っている。それも、悪意の込められたウソだ。逆に、その法案の反対者が、自分に賛成しない者はみんなインターネット全体に検閲を課したいのだと主張するときには - まぁ、諸君も私と同じ計算ができるだろう。

もちろん、今述べた機能不全のレトリックが使われているのはこの一つの問題に限らない。今日では、そうでない問題を見つけることのほうが率直に難しい。更には、心ある人々がどちらかの側の失敗したレトリック戦略にまつわる問題について指摘しようとすると、通常の場合、指摘を受けた側からは、我々に賛同しないおぞましい人々と会話することすらすべきではないという反応が返ってくる。なぜならば、そのようなおぞましい人々は単におぞましいからだ。なぜ? なぜなら、我々がそう言っているからだ。それが理由である。

このような特定の事例から遠く離れたところでは、誰かに何かを説得することは不可能であると示す比較的最近の科学研究が大量に存在している。特に私の興味をそそるのは、2016年の大統領選挙でドナルド・トランプに投票した人々のグループを集め、熱心な 専門家 トーキングヘッド が、なぜあなたたちはヒラリー・クリントンに投票するべきだったかをと説明するビデオを見せる実験である。たいていの場合、トランプへの投票者たちは、トランプへの支持をいっそう倍増させることで応えた。研究を報じたメディア、およびこの件を議論したクリントンの支持者は、自身の15分の名声 [一時の注目] を繰り返しながら、熱の込もった調子で、この研究は「そのような人々」が理性に対する抵抗力を持っていることを証明するものだと主張した。

逆に、この研究が証明したのは「そのような人々」が - そして他多数の人々も - が、何度も繰り返される無力なレトリックに対する抵抗力を持っていると証明するものである。選挙の終了までに、結局のところ、2016年の間じゅう岩の下に隠れて過ごしたのではないアメリカ人全員が、各候補者を支持または反対するあらゆる議論を知っていた。そして、ほとんどの人々は選挙よりもかなり以前に投票先を決めていたのである。選挙が終了し、未だに勝利した側の投票者が夢を見ているのではないかと時おり疑っている間に、お決まりの論点を更にもう一度繰り返したとしても、決して望ましい反応は得られないだろう。仮に、クリントンが勝利していたとして、大喜びしているクリントン支持者集団を座らせて、オーバーオールとメイク・アメリカ・グレート・アゲイン帽子を着用したオクラホマの農民が登場し、トランプに投票するべきだったと説得しようとするビデオを見せたとしたら、どれほどの印象を与えられるだろうか?

もちろんそこには同じ問題の別の側面も存在する。トランプ支持者に対してクリントンに投票するべきであると呼び掛ける熱心なトーキングヘッドは、それらの支持者が初めて出会った熱心なトーキングヘッドではなかったということだ。読者諸君、思い出せるだろうか。経済的なグローバリゼーションは、労働者階級のアメリカ人にたくさんの高賃金の雇用をもたらすと主張した熱心なトーキングヘッドを。労働者階級のアメリカ人が膨大な負債を負って大学の職業訓練を受けたとすれば、卒業後には大量の仕事があるだろうと主張した人はどうだろうか? ホワイトハウスに居たトーキングヘッドが、オバマケアにより全員の保険料プレミアムが安価になると、また誰もが既存の保険プランと医師を維持できるだろうと主張したことはどうだろうか?

もしもあまりに頻繁に他人にウソをついたとすれば、その人たちはあなたの言うことを信じなくなるだろうという事実を指摘するために、科学的な研究は必要あるまい。それでも、この直接的なポイントは、どうやら選挙の衝撃で大多数の人から忘れ去られてしまったようだ。更には、政治的な壁の両サイドにいる膨大な数の人々から等しく忘れられ続けている - ご都合主義なナンセンス製造業は、結局のところ超党派の産業なのだ。

ここでの問題は、極めてシンプルに表現できる: これらのディベートに関与している人は誰も、初歩的なレトリック教育すら受けていないのだ。そのフレーズ - レトリック教育 - は、一見したところで想像されるものよりもはるかに広大な範囲をカバーしている。

あらゆる文化の知的活動は、我々自身の文化も含めて、何世紀かのタイムスケールの間で、世界を理解するための2つの競合sita方法の間を行き来する傾向がある。その2つは、 抽象 アブストラクション 省察 リフレクション と呼べる。アブストラクションとは、我々の周囲の世界は、人間の精神が認識できる法則に従うという信念である。アブストラクション時代の知的活動は、それゆえに、我々が経験する世界の騒々しく咲き乱れる混乱から、そのような法則を抽象化する (英語の語源的には、「引き出す」) ことに注力する。

アブストラクションは自信に満ち拡張的であり、経済的、政治的、帝国的な - 拡大の時代に栄える。そのような時代には、ある種の重要な知的活動が、外部の世界に、人間が経験する世界に注目し、世界を秩序、数、システムへ還元することを目指すのは当然である。ある限界までは、それはとても有効なアプローチである。なぜならば、アブストラクション時代の知的な最先端の人々は、外部の世界に注意を向けているため、当初その人たちは、人間の思考する概念と、それら概念が説明しようとしている世界との間の整合性に細心の注意を払う傾向がある。その結果として、説明は機能する - もう一度言えば、ある限界までは。

時間が経つにつれて、けれども、アブストラクションの成功は広大な思考のシステムをもたらす。完璧に合理的で、細部に至るまで相互に関連する思考のシステムである。少しずつ、自身がそんなことをしているとは気付かずに、アブストラクションの実践者たちは、自分たちは世界を研究しているという錯覚のもとで、自分自身の思考システムについての研究を行うようになる。森羅万象を説明する壮大で包括的な理論が舞台の中央を占め、最先端の思索者たちは、重要な問題すべてが確実に理解される日もそう遠くないという夢を抱くまでに至る。ギリシア哲学はそのような夢想をもたらした; 中世のスコラ神学、現代の唯物科学も同様である。

けれども、森羅万象が説明される日は決して訪れない。なぜならば、理論がより包括的になればなるほど、人間が実際に経験する世界との関連が失われていくからだ。知的エリートの狭まりゆくサークルの外側では、アブストラクションの世界理論が想定する普遍性は、それに当てはまらない無数の事象を排除することによって得られるという事実を無視することは不可能になる。それら除外された事象の一部は、壮大な理論と矛盾するデータの断片でしかないが、別の事象ははるかに広大である: 人間の経験という領域全体が無関係なものであるとして却下される。なぜならば、理論的なモデルやアブストラクションの時代に好まれる問いの方法に合わないからだ。

これはまた望ましくない実際的な帰結をもたらす。アブストラクションが支配的である時代には、政治と経済は、知的な問いを導く抽象的理性の同一の概念に従うようになり、政策は抽象的規則にもとづいて提案され施行され、実際にそれらの政策が実施された際にうまく働くのかには注意が払われることはない。その結果は、かなり一貫して破滅的なものである。遅かれ早かれ、ほとんどの人々、特に政治、経済、知的な権威のあるポジションにいるほとんどの人々が直面するのは、一方では、彼らが好む一連の抽象的なルールによって定められる世界であり、他方では、我々が実際に住む世界との間の破滅的で広がり続ける断絶である。そこから抜け出す唯一の道は、- まぁ、我々はすぐにそこに到達するだろう。

あらゆる大事な問題に関する論争が、対立し合う人間同士の闘争ではなく、競合する観念の間の争いであるかのように扱われるとき、我々の社会がそのような具体的な修正に着手したということが分かるだろう。政治 - かつて存在し今後存在するであろうあらゆる社会における、本当の政治 - とは、常に、誰が利益を得て、誰が費用を支払うのかについてのものである。しかし、アブストラクションが限界にまで達した時代における政治で使われる言葉からは、それは決して分からないだろう。ノー、そのような時代に聞かれるのは複数の抽象概念の争いであり、そこでは誰が利益を得て誰が費用を支払うのかという汚い現実は決して言及されることはない。もちろん、それらは政治プロセスの中心であり続ける; それは幾層ものタブーに覆い隠されており、ヴィクトリア朝時代の人々がセックスを覆い隠していたものにも匹敵する。馴染み深く聞こえるだろうか? そうであるに違いない。

そこから抜け出す唯一の道は、私が述べた通り、あらゆるファンシーな抽象理論は人類の精神の中にある概念であり、我々が経験する世界に存在する現実ではないと認識することである。それがアブストラクションの時代がリフレクションの時代に道を譲るときである。アブストラクションが、人間精神は真理を掴み取りそれを明白に示せるという確信を抱き、自信を持って外部の世界に対峙する一方で、リフレクションは、人間の精神には世界そのものを把握することさえできず、世界についての偉大なる宣言を表明することとは何も関係がないという認識を持ち、哀しく内部の世界に向き合う。

省察 リフレクションは、概念とは自然に関する客観的な真実ではなく人間の構築物であり、我々が確信を抱けるのは日常生活の騒々しく乱れた混乱だけであるという認識に根ざしている。「実際に何が起きたのか?」という質問が、「何が永遠の真理なのか?」という質問よりも重要になる。事例と経験にもとづく個人的で暗黙の知識が、抽象的な普遍的理論よりも重視されるようになる - アブストラクションが、世界を理解することに成功したために当初尊敬を勝ち得たのと同じく、リフレクションも、世界に対処することに成功するため、対応した状況で尊敬を勝ち得る。(リフレクションも、もちろん長期的には問題に陥る。しかし、我々はその結末から数世紀離れているため、今のところはそれを無視できる。)

アブストラクションからリフレクションへの変化は、それゆえに知的な優先順位の重大な変化を伴う。ギリシア文化の黄金時代がローマ文化の銀の時代に移行したとき、以前の時代の中心的な研究テーマ - 論理、数学、物理学 そして特に思弁的な哲学 - は、異なる種類の中心的研究テーマに替わった - 文学、歴史、法学と道徳哲学である。これらの一つのテーマから別のテーマへのシフトを辿れば、2つのアプローチを導く異なるテーマをよく理解できるだろう。同じように、ペストの惨禍と政治闘争の大激変に破壊された世界に対して何らの方向性を示すことができなかった中世後期の知的文化が、複雑化したスコラ的推論のもやの中へと消え去るにつれて、ヒューマニオレス・リテラエすなわち人文学と呼ばれた学問を受け入れた人々の間で、ルネサンスの最初の胎動が形を取り始めた。 それは歴史、文学、芸術などの「更なる人間の研究」を意味し、現在我々が人類学や社会学と呼ぶ学問の最初の胎動であった。[17世紀イギリスの詩人] アレキサンダー・ポープは、そのビジョンをこのように書いた:

汝自身を知れ! 神意を知ろうなどと思い上がるな。
人類の正しい研究対象は人間である。

ルネサンスのヒューマニオレス・リタラエが、ここでは特に有用なモデルとなる。この記事の前半部のテーマと直接的に関わりがあるからだ。というのは、それらの「更なる人間の研究」は、レトリックを中心的なテーマに据えたからだ。レトリックという言葉を今日の知的コンテキストで発したとすると、虚偽であることを信じさせる方法、あるいはそこからそう遠くない何かしらの方法を研究するのだと捉えられるかもしれない。ここに、現代の知的文化を支配するアブストラクションと、アブストラクションの盲点から抜け出す建設的な方法を提供しうるリフレクションのギャップが見られるだろう。アブストラクション時代の人々にとって、真実である言葉の真実性は、こぶのようにあらゆるところにはっきりと付属しているものであるとされており、そこで、レトリックの技術を用いて広める必要があるのはただ偽物のみであるとされるのである。

そうではない。我々が実際に住んでいる世界では、アブストラクションの最新の流行で描かれる世界とは異なり、真実は極めてまれな商品である。代わりに存在するのは真実についての主張であり、それは個々の人間によって述べられるもので、そのような人間がそのような主張を述べる理由は、理性から感情から最も粗野な自己の利害に至るまで、観念的なランドスケープ全体に広がっている。 我々全員が、これらすべての理由からの影響を受ける - 何が真実であるかという信念において、自己の利害が果たす役割を認めない人々は、特に、自分にウソを付いているか単なるウソ付きであるかのどちらかだ - また、我々が真実についての主張に出会ったとき、それを受け入れるか拒絶するかのプロセスは、複雑で、微妙で、個人的なものである。

ここがレトリックの登場する場面である。レトリックとは、差し当たり、"説得的なコミュニケーションの技芸" [the art of persuasive communication] であると定義できる。その定義の中の各々の実体的な言葉は、理由があって存在している。それは技芸 [art] であって理論ではない; これが意味するのは、他の何よりも増して、個人的な側面が最優先であるということであり、問題となるのは普遍的な応用可能性ではなく、個別具体的なパフォーマンスである。それはコミュニケーション [communication] の技芸である; これが意味するのは、他の何よりも増して、その個人的な側面では、聴衆の主観的な要求、願望と経験と同様に演者のそれらも受け入れるということだ。それは説得的 [persuasive] なコミュニケーションの技芸である。これが意味するのは、他の何よりも増して、成功したレトリックのパフォーマンスは、聴衆がどう考え、どう感じるかを変化させ、そしてそれゆえに何らかの行動を変化させるものである。

これは、逆に、リフレクション時代のスタイルで実践されるレトリックが、知識の手段となることを意味する。

もしも誰かに何かを説得したいのであれば、結局のところ、なぜ誰かがそのことを信じるに至ったかを理解する必要がある - これが意味するのは、あなたはなぜ別のことを信じているかを理解する必要があるということだ。つまり、あなたは自分自身の信念が、理性、感情や自己の利害などのさまざまな誘引にどれほど依存しているのかを理解しなければならない。そして、かなりの場合においてこれが意味するのは、他人の信念も、あなた自身の信念と同じくらいに確固たるものであるという事実に向き合う必要があるということだ。または、(同じ論点をより明晰にするならば) あなたの信念も他人のものと同じくらい不確かであるかもしれないという事実に向き合う必要がある。

これは、アブストラクションの熱心な支持者が主張するように、あらゆる信念を他のすべての信念と同等であるかのように扱わなければならないことを意味するのではない。実際には、真理についての主張が信じられたり信じられなかったりする豊かな人間のコンテキストと向き合わなければならないことを意味するのである。すなわち、誰もが真理への特権的なアクセス権を持っているわけではないという事実を把握する必要があるのだ。たとえ、特権者が狂信的にその権限を所持していると主張するとしても。

このような真理と虚偽についての質問へのより人間的なアプローチから得られる一つの帰結は、それが妥協と寛容への余地を開くということだ。もちろん、現代の文化的な生活における2つの競合し合う力の党派は - いつもただ2つだけの力しかなく、両者が共にその2つが提供する以外の選択肢はないと主張していることに気付いただろうか? - 妥協と寛容を、自身の崇める抽象的な真理の観念に対する冒涜と捉えている。この記事の最初に書いた通り、けれども、実際上それはうまく働くわけではない。敵対し合うさまざまな勢力が、シンプルに敵対者を消し去りたいとどれほど願ったとしても、そんなことは起こらない; 我々は、同様の願望があまりにも実現しすぎた20世紀と同じような大変動へと盲目的に進んでいくこともできるし、あるいは歴史から学び、他人と共に生きることを望まないものは、共倒れに陥るだろうということを認識するかもしれない。

レトリック教育は、そのような認識へと至る道を提供する。それには、最初想像するものよりも膨大なことがらが絡んでいる - 実際のところ、ほとんど全てのことが、教育一般に含まれるものすべてに絡む。この先の投稿では、それが何を含意するのか、また、個人、家族、小集団によって、アブストラクションに満ちた教育機関のコンテキストの外側で、どのように今ここでそれを追求できるのかを語りたいと思う。シートベルトを締め手すりを掴むように; この先は険しい道のりになるだろう。