Going Faraway

渡辺遼遠の雑記帳

翻訳:ドナルド・トランプの5段階説 (ジョン・マイケル・グリア)

この記事は2019年5月1日に書かれた。ジョン・マイケル・グリアによる2016年ドナルド・トランプ当選予測に関するエッセイはこちら

Present at the Death

あぁ、ようやく意味が分かった。なぜ私が認識するまでにこれほど時間を要したのかは定かではないが、ドナルド・トランプの大統領選挙以来過去2年半の間、アメリカのマスメディア、インテリゲンチャ、そして特権階級全体を捉えていた集合的かんしゃくは、1970年代に悲しみの研究のパイオニア、エリザベス・キューブラー=ロスによって詳細に至るまで説明されていたのだった。もちろん、彼女が語っていたことは、余命宣告というリアリティに直面したときに人々が辿る5つの心理段階についてであるが、しかしそれはドナルド・トランプの5段階とでも呼びうるものの正確なモデルとなる。

最初の段階は、もちろん、"否認" である: キューブラー=ロスの順番では、発生したできごとが本当に発生したという認識を呆然と拒否することである。トランプが大統領宣誓を行なったとき、「ノー!!!」と叫んでいたアイコニックな抗議者は、この段階の典型例である。しかし、ここで私が考えているのは、民主党員の間に広まった一般投票の得票総数に対する執着、当選は単なるまぐれ当たりに過ぎないという主張や、ロシアによる選挙介入があったのだという主張、自分は絶対に「トランプ大統領」という言葉を発しないと宣言した著名人などである。これらすべては、アメリカ人が、合衆国憲法に定められた規則にもとづいて、ドナルド・トランプを第45代アメリカ合衆国大統領に選出したという事実を否定するための、無意味であるが直接的な試みである。

第二段階は"怒り"である: キューブラー=ロスの順番では、期待と現実の間に突然出現した大きなギャップによって生じる、盲目的で不合理な激怒である。再び、インターネットは即座にこの段階の典型例を提供していた。しかし、マスメディアやアメリカ社会の特権的階層を眼にしていた人であれば誰でも、トランプ自身のみならず、彼と繋がりや関連を持つとされたありとあらゆるものに対する不毛な激怒の奔流が噴出していたことに気づいただろうと思う。

第三段階は"取引"である。この段階を誤解しないようにすることが重要である。というのは、ここで言う取引は、このプロセスを始動させたものに対しては何も影響を及ぼさないからだ。キューブラー=ロスの著作では、余命宣告された人々が自分の罪を悔やんだり、神や家族や医者に対して抜本的な約束をする段階であり、それによって望まぬ現実を追い払えるという希望を持つ。現在の取引段階には豊富な発現が存在している: 2つの最も目立つものは、一方ではミュラー報告書、他方では「グリーンニューディール」や奴隷制への保障などの集合的な徳性への忠誠である。前者においては、民主党員は、ロバート・ミュラーの報告書がトランプを大統領の座から追放することを確実にするという信仰を大声で告白しているかのように行動している。後者の場合 - まぁ、私はここに大したロジックが存在するとは考えていない。選挙での勝利を求める政党が、有権者のせいぜい5分の1にしか支持されない政策への忠誠を誓うことは、賢明ではないからだ。取引段階での行動は、キューブラー=ロスが指摘する通り、誰にとっても意味を持たないのだ。

第四段階は"抑鬱"であり、現在我々はその最初の胎動を感じ始めている。ミュラー報告書をこねくり回して、民主党員が望む通りの意味を読み取ろうとする狂乱した努力が失敗するにつれて、トランプの敵対者たちは、熱狂的な支持基盤および既に莫大な額に達したキャンペーン資金を備えた現職大統領を負かすために必要となる苦しい戦いの困難さを予想している。しかも、経済は好調で、反トランプメディアは多数の有権者の信頼を失い、劇的な速さで視聴者を失っており、民主党は内部抗争により真っ二つに分裂している時に。ブログ界の左側の端に位置するウェブサイトは、それに伴って、トランプがホワイトハウスで2期目も勝利したとすれば何を意味するのかという憂鬱なエッセイを投稿し始めている。

そう遠くないうちに、ついに、第五段階へと至る。受容である。ここでもまた、この段階を誤解しないことが重要である。受容とは、起きたことを喜ぶというわけでない。受容は、好ましくないからといって何かを追い払うことはできないという事実を受け入れることを意味する。これは世界が変わってしまったという事実に折り合いを付けるプロセスであり、他の段階には存在しなかった見返りをもたらす: 新たなリアリティについて、何らかの意義のある行動を取れるようになるのだ。余命宣告を受けた人の場合であれば、いくらかの尊厳を持って死を迎えられるようになる準備や、自身の財産が自分の望んだ通りに相続されるための準備を行えるようになる。政治的なリアリティに対処する場合であれば、地に足を付けて、投票者たちに自分のしたいことをさせるのではなく、投票者たちが望むことを提供する方法を検討できるようになる。

我々は、ちょうどそのような新たな政治的リアリティの初期段階に位置している。新たなリアリティの到来を示す最高の指標は、メインストリームメディアの「ポピュリズム」に対する激しい非難だろう。それではお聞かせいただきたい。ポピュリズムとは何だろうか? それは、集団的な意思決定において、マジョリティが声を上げる権利を持つと主張する政治的スタンスである。ポピュリズムの対義語は、私が考えているような非難において言及されることはないけれども、エリート主義である: "善き人々" を自称する人のみが意思決定における声を上げる権利を持つという立場である。それが現在粉砕されようとしているイデオロギーの中心的な特徴だ。

新たな政治的リアリティの出現について、さまざまな形で語りうるだろう。そして、過去記事ではそのうちのいくつかを取り上げた。今週の記事で私が考察したいと思っているのは、先ほど使ったメタファー、つまりキューブラー=ロスが書籍で議論した悲哀の5段階に由来するものである。言うなれば、我々は死について語っているのだ。

3年前の記事において、2016年の選挙の熱の中で、当時死につつあり、現在死後硬直を迎えている思想を、「アメリカン・リベラリズム」というラベルで表現した。それは欠陥のあるラベルであったと今では考えている。なぜならば、そのラベルはあまりに広すぎる意味を持っているからだ。アメリカン・リベラリズムは異なる多数の要素を含む織物であり、その多くは過去数十年の間に既に消え去っており、またそのうちのいくつかはポスト・トランプの未来においても多大なる有用性を発揮することだろう。私が考えている特定の政治的立場は、リベラリズムのサブセットに属するもので、革新主義 [progressivism] とでも呼べるだろう - 我々が「歴史」と呼ぶこの複雑な事象が、一方向のみに進むよう定められているという信念であり、必然的にリベラル派があるべきと信じる方向へと進んでいくという信念である。同時に、進歩主義にも多数の派閥があるが、そのうちの一つが過去60年程度にわたってアメリカの政治的言説を支配してきたのである。

それは特権的進歩主義と呼べるだろう: 歴史は常に良い方向へ向かって進み、また必然的に、既に特権を持つ者の望みを叶えるという信念である。

一歩下がって、アメリカ社会における階級と特権のリアリティについて少しだけ語ろう。過去記事で私が一度ならず言及した通り、今日のアメリカの複雑なカースト制度のなかで、ある人がどこに位置するかを調べる最も効率のよい方法は、その人たちが収入の大部分を何から得ているかと聞くことである。投資の利得から収入を得ているのか? 月ごとの給与から、福利厚生付きで収入を得ているのか? 時間ごとの賃金から、通常の場合ほとんど福利厚生なしで収入を得ているのか? 政府の福祉支出から得ているのか? 今日のアメリカにおいて、普通は4つのうちの1つである - そこで、投資階級、給与階級、賃金階級、および福祉階級は、現代アメリカ社会の4つの大階級である。

それらのカテゴリに当てはまらない人々もいるのではないか? その通り。私がそうだ; 私の収入の大部分は、書籍の売り上げのロイヤリティによるものだ。私の小階級に属する人々は、今示した階級構造の片隅に位置している。もしも、そういった人々が私のようにささやかだがしっかりした収入を得ているならば、給与階級レベルの教育および賃金階級レベルの収入と福利厚生を備えて、賃金階級と給与階級の間のどこかに収まる; もしも上中流階級レンジ内の収入を得て、適切な態度と価値観を示せるのであれば、給与階級の中に受け入れられるだろう; 大ヒットを飛ばして多額の投資収益を上げられるようになれば、投資階級に含まれる。その階級内の別の人は、そういった人達を、 新富裕層 ヌーボー・リッチ の野心家なり成金なりとして扱うだろう。4つの大階級は、私のような変わった小階級の人間が当てはめられるフレームワークを提供する。

第二次大戦以来、更には、給与階級は上昇を続けた。大戦間期に書かれた小説を読めば、特権階級のメンバーとして人々を区別するものは、労働を必要としない十分な投資資産の所有であることが分かるだろう。ここで私が考えているのは、私のお気に入りの本でありしばらく前に再読したからなのだが、サマセット・モームの小説『剃刀の刃』である。その結末において、[小説の主人公] ラリー・ダレルが、他の登場人物には模倣も理解もできない自分独自の運命を歩んでいることを示すものは、自分の投資資産を捨てて、お金を手放し、それゆえ彼の時代の自称 "善き人々" の間から後戻り不能な形で離脱することである。

もしもモームが今日小説を書いたとしたら、ダレルの自由を求める探求には、十分な福利厚生パッケージ付きの6桁か7桁の給与が得られる仕事を辞めることが関わるだろう。それこそが、現代世界における "善き人々" の一員であることを、言い換えるならば特権階級のメンバーであることを示すからだ。1920年代には、大企業のCEOは取締役会に追従する下僕でしかなかったが、現在ではそれが逆転しているのは、給与階級の上昇が原因である; また、金利が、つまり投資階級に収入を与えるリターンの最も基本的な指標が、長年に渡って最低水準に留まり続けているのもこれが原因である; 投資階級のメンバーは、借金の額よりも投資の額が多い。そのため、金利水準は2つの階級間のパワーバランスを示す優れた指標である。

また、給与階級の地位向上は、より貧しい2つの階級を支援するために、環境保護のために、あるいは他の問題を解決するために立法されるあらゆる提案が、その提案の受益者とされる人々よりも給与階級に大きな利益を与える理由を説明する。今日のアメリカで福祉に頼り生活する人々は、かろうじて生存できるだけのみじめな生活水準に陥っているが、しかし同じ福祉プログラムを監督する給与階級の官僚軍団には、それは当てはまらない。同様に、賃金階級のアメリカ人失業者を大学に送り込み、もはや存在しない仕事への職業訓練を行なうことは、返済も破産もできない学生ローンの負担を負った何百万という人々に厄災をもたらした。一方で、そのスキームから巨大な利益を得て、何らのコストを支払わなかった大学と銀行の給与階級の雇い人たちにとって、それは巨大な成功であった。

また、資金力の豊富なシンクタンクと企業メディアが奨励する環境保護策が、農民、炭鉱鉱夫、その他の給与階級外部の人々のみにコストを課す一方で、給与階級の地球破壊的な行動 - SUVでの長距離通勤、プエルト・バヤルタやマサトラン [メキシコの観光地] での休暇、東ヨーロッパの都市の一区画やインドネシアの町全体に匹敵する電気を浪費する、スプロール化した、アメニティ満載の、ほとんど断熱されていないマックマンション、その他もろもろ - が、何のお咎めも受けていないのはそれが理由である。

おそらく、この種の特権者の利己主義を示す最も極端な事例は、けれども、最近のR.F."ベト"・オルーク、現在の民主党の大統領候補指名の候補者だろう。選挙キャンペーンのイベントで、「食料砂漠」の問題をどのようにして解決するのかと質問された。- つまりは、食料品店の存在しない地域である。合衆国憲法のもとで、食料品店の地理的配置を規制することは連邦政府に割り当てられた義務ではなく、まして大統領府の職務でもないという決して些細ではない問題は、この際脇に置いておこう。ここで関連のあるポイントは、オルークが、サステイナブルでオーガニックな産地直送のレストランがあらゆる地域に存在するべきだ、と答えたということである。

レポーターすら言葉を詰まらせた。というのは、産地直送レストランは裕福な人々の間での最近の流行であり、そういった店での2人分のささやかなディナーは、たいてい賃金階級の4人家族を一週間以上養うだけのコストがかかるからだ。賃金階級や福祉階級の人々、食料砂漠の問題に苦しむ2つの階級の人々は誰も、産地直送レストランで食事をするような余裕はない - ついでに言えば、私にもない。オルークの提案は、貧困者の食料不足という問題に対する最高の解決策は、給与階級の人々にすばらしい食事をする選択肢を与えることだと主張するのに等しい。どういうわけか、「[パンがなければ] 有機ルッコラを食べればいいのに。」*1という言葉が否応なしに浮かんでくる。

けれども、重要なのはこれらの状況から多かれ少なかれ利益を得ている人々は、自分たちのことを、公共善を踏み躙っているとか他人の苦しみから利益を得ているとは捉えていないということだ。たとえ、実際に行なっていることが基本的にはそうであったとしても。それが、特権的革新主義と、トランプ以前の時代の共和党の特権的保守主義とを区別する。そのイデオロギーは、おおむね「オレのものはオレのものだ、ジャック。[I’ve got mine, Jack.]」という言葉に要約できる。特権的革新主義の信奉者たちは、自分たちが"善き人々"であることを確信しており、自分たちの態度はあらゆる道徳的に善い人々に共有され、自分たちのライフスタイルはあらゆる人間が本当に望んでいると信じている。更には、歴史の弧は自分たちの方向に必然的に向かっていると信じている: 最終的には、絶え間ない進歩の行進の結果として、地球上の人々が一人残らず、特権的革新主義者と同じ態度とライフスタイルを持つようになるのである。なぜならば、彼らの態度とライフスタイルは善、真理、正しさと正義を体現するものに他ならないからだ。

もしもこれらの信念が実践されているところを見たければ、給与階級の上位ランクのメンバーになりたいと望む有色人種の人々が、給与階級の他のメンバーから区別されるあらゆる特徴をシステマティックに捨て去ることが期待されているのを観察してほしい。(私はアスリート、ミュージシャン、大学教授やその他エンタメ分野の人々について語っているのではないことに注意してほしい。そういった人たちは、給与階級の規範からの差異を示すことを期待されており、それゆえに彼らは庇護されるのである。) それがの生物学的問題 - たとえば、肌の色 - の問題ではないとしたら、それは態度、価値観、ライフスタイルなど、すべてが特権的革新主義のテンプレートを満たさなければならないのだ。ほとんど無害な表面上の装いのバリエーション以外に、受け入れられる余地はない。

これは単なる通常の順応主義の問題でない。ただし当然、その問題も関わってはいるけれども。特権的革新主義者たちにとって、自分の態度とライフスタイルは、輝かしい未来の証明書であり、いずれはすべての人が受け入れるものである。その人たちが望むと望まざるとに関わらず。最終的勝利に先んじてそれらを受け入れ、そのプロセスの中で自分の価値観と好みを捨て去った人たちは、特権的革新主義のユートピア到来を加速させることができる。そのユートピアでは、すべての大陸のすべての性別と民族の人々が例外なく、正確に同一の強固にドグマ的なイデオロギーを信じ、正確に同一の息詰まるほどに狭い範囲のライフスタイルを受け入れるとされる。

それが、逆に、ドナルド・トランプが2016年の選挙キャンペーンで共和党候補の集団から抜け出したときに、特権的革新主義が分裂を始めた理由である。読者諸君も記憶している通り、給与階級の態度とライフスタイルのすべての費用を支払うと見なされている、何百万人という労働者階級のアメリカ人、彼らの犠牲のもとに給与階級を利する政策の40年により貧困と悲惨のうちに突き落された人々の懸念を表明することにより、トランプはそれを実行した。特権者が抱くほどんどのイデオロギーと同様、特権的革新主義が意味を持つのは、その提唱者が自分たちの立場のみが重要であるというフリをし続けられる限りにおいてである。ひとたび、排除された者たちがトランプの選挙での勝利を通してパブリックステージに乱入してくれば、もはやれは当てはまらなくなる。

今日のアメリカで我々が直面している新たな政治的リアリティは、給与階級の人間がたまたま望んでいるものを実現する方向へ歴史が自動的に進んでいくと装うことができなくなったということだ。それが意味するのは、逆に、何かを望む給与階級のメンバーは、それを手にするために取引をして、他の階級の人々が望む何かを提供しなければならないということだ。たとえ、それが給与階級に不利益をもたらすときでさえ。読者の中にはお気づきの人もいるだろうが、給与階級のテーブルからこぼれ落ちるパンくずをおとなしく待っているように言われてきた非特権階級の集団は、自分自身のために声を上げ始めており、自分たちの要望も考慮に入れるようにと要求している。本当にありがとうございました。

これを示唆しているのは、メディアが、遅まきながら給与階級の政治家たちが口にする信念と彼らの実際の生活様式の間にある拡大するギャップについて指摘し始めていることだ。ニューヨーク市長、ビル・デブラシオは、この現象の最近の典型例である: 彼は壮大な環境保護改革の提唱者であるが、同時に彼はファッショナブルなジムで運動するために毎日10マイルもSUVを運転している。グレーシー・マンション [ニューヨーク市長官邸] にエクササイズマシンを設置して、不要な炭素排出を減らすことはできなのだろうか。もちろんだ。しかし、最近になるまで、給与階級のメンバーは望むものを何でも手に入れられるという規則が、批判から彼を保護していた。現在デブラシオに向けられている批判は、その規則がもはや適用されないことを示している。

言わば、我々は 通常の政治 ポリティクス・アズ・ユージュアル に回帰しつつある。否認と怒りの叫び声、取引のお喋り、抑鬱の嘆きが静まるにつれて、現れつつあるのは通常の政治である。そこでは、選挙民の異なるセクターが政治家を支持し、その代わりに政治家は彼らの要求と要望を叶える。そして、政治家が支持者に期待されていた約束を叶えられなければ、彼らは次の回には別の誰かのところへ行くだろう。これが示しているのは、逆に、2016年に終焉を迎えた期間は、異常な政治の期間であったということだ。そこでは単一の階級の利害が一時的にあらゆる人の要求を覆い隠していた。

エスアメリカの歴史の中にもそのような時期がある。興味深いのは、そんな時期は白熱した選挙戦によって終焉を迎えたということだ。その選挙戦においては、最終的に勝利を収めた候補者は、エスタブリッシュメントとその子飼いのメディアに本当に嫌悪されていたのだ。もしもそのリストを見たいなら、読者諸君、優れた合衆国史の本を持って腰を落ち着けて、自分自身でリストを作ることを勧めたい。アメリカ史の基礎知識は昨今では極めて珍しいものであり、おそらくその経験はあなたに良いものをもたらすだろう。

最後に、異常な政治の期間をもたらすのは、2018年の後半からこのサイトで発展させてきたテーマと同じだ: 一つの階級、人種、または個人のグループに対し、他のすべての他者よりも特権的な立場を与える単一の、自己中心的な 物語 ナラティブ が、あらゆるリアリティを従わせようとしたときに何が起こるかである。2世紀以上も前に、詩人のウィリアム・ブレークはそのような思考の習慣に適切な名前を与えた: 「シングル・ビジョン」 今後の記事では、シングル・ビジョンの探求を続けて、それを超えたところに何があるのかを垣間見てみたいと思う。

死ぬ瞬間―死とその過程について (中公文庫)

死ぬ瞬間―死とその過程について (中公文庫)

*1:訳注:もちろんこれは、マリー・アントワネットが言ったとされる「(パンがなければ) お菓子を食べればいのに。」のもじり。