Going Faraway

渡辺遼遠の雑記帳

翻訳:ドナルド・トランプと憤怒の政治 (ジョン・マイケル・グリア)

この記事は2016年1月20日に書かれた。本記事の2週間前の記事で、ジョン・マイケル・グリアは2016年の予測としてドナルド・トランプが大統領に当選すると述べた。本記事は、その予測記事に対する反響への補足である。

DONALD TRUMP AND THE POLITICS OF RESENTMENT

2週間前、私が新年に立てた予測のうちで一番大きな困惑と冷笑を引き起こしたのは、来年の1月に聖書に手を置いて立ち、次期合衆国大統領としての宣誓をする可能性が最も高い人物が、ドナルド・トランプであるという提案であったようだ。その予測は、人々をイラ立たせるつもりで、あるいは楽しませるつもりで立てたものではない; あるいは、それは世論調査でのトランプ支持率上昇に対する単純なリアクションでもなければ、共和党のどうでもいいライバルたちのトランプを減速させる試みが、散々に失敗したことに対するリアクションでもない。

ドナルド・トランプの台頭は、むしろ、私がこれらのエッセイで既に何度も議論してきたターニングポイントの到来を示すものである。未来の舞台におけるその差し迫った姿をここで説明してきた他のターニングポイントと同じく、それは世界の終わりではない; そのため、もしトランプが当選したらアメリカを去るという民主党員の主張を聞くと、もしオバマが再選されたらアメリカを去ると主張していながら今でもアメリカに居る共和党員たちを思い出し、私は愉快な気分を覚える。それでも、この二者の間にはいくらかの重要性の差異が存在する。なぜならば、アメリカ合衆国の歴史的な軌道という観点からは、トランプはバラク・オバマよりもはるかに意義深い人物であるからだ。

2008年の選挙キャンペーンを取り巻いていたホープとチェンジという空疎なレトリックにもかかわらず、結局のところ、オバマは前任者ジョージ・W・ブッシュの政策を容赦なく継続したため、それらの政策 -21世紀初頭のアメリカ政治の一般常識 [conventional wisdom] あるいは、一般非常識 [conventional folly]- は、ダビーオバマ・コンセンサスとでも呼びうるだろう。トランプの立候補は、そしてある程度は民主党のトランプのライバル、バーニー・サンダースも同様であるが、それら政策への反発が巨大な政治的現実と化したことを示している。この反発が、多くの左派の人々が望んだ形を取らなかったのは、まったく驚きではない; そんなことは決して起こらなかっただろう。なぜならば、このような反発を不可避のものにしたダビーオバマ・コンセンサスへの反対は、左派の目標ではないからだ。

その後何が続いたかを理解するために、読者諸君にお願いする必要がある -特に、自分をリベラル派だと考えている人たち、あるいは、今日の複雑なアメリカ政治シーンのなかで、自分は中心よりも左側のどこかに位置していると考えている人たちに。しかしそれに限らないのだが- 2つの一般的なクセを一度棚上げしてほしい。最初は、今日のアメリカで有意義な政治的思考の欠如を埋め合わせるためにしばしば使われる、あざけりの言葉の反射的な利用である-もう一度言っておくと、左派に顕著であるが、しかしそれだけではない。ドナルド・トランプの選挙キャンペーンに対して繰り返し投げつけられる殺伐とした侮辱は、この好例である: 「腐ったチートウ[スナック菓子]」、「トマト頭の愚か者」、「妄想チーズ生物」などなど。

これらほとんどの侮辱の目標は、トランプの身体的外見を狙った単なるひねくれた男子生徒めいた悪口でないのならば、彼が愚かであると主張するものである。これはまったく驚きではない。アメリカ文化の左側に位置する多数の人々は、自分に賛同しない人々に愚かさを割り当てるために、このような無意味な言葉を使うことを好むからだ。ゆえに、たぶんここで指摘しておく必要があるだろうが、トランプはまったく愚かではない。彼はとんでもなく賢く、その賢明さを示す指標の1つとしては、たくさんの敵対者を引きつけて、自身の選挙キャンペーンにとって最も重要である有権者へのアピールを強めるような行動を取らせていることである。自分が後者のカテゴリに属しているのかどうか分からない場合、読者諸君、もしもあなたがトランプの髪型をチーズウィズと比較するツイートの投稿を好むのであれば、ノー、あなたはトランプがアピールしたい有権者ではない。

だから、これがトランプ現象を理解するために止めなければならないことの1つ目である。2つ目は、私の読者の多数にとってさらに困難だろう; アメリカ社会で問題となる分断は、何らかの生物学的な基礎を持つものだけであるという考え方である。肌の色、性別、民族性、性的指向、障害など。-これらは、アメリカ人が好んで語る社会の分断線であり、それは分断線のどちらか一方に属する人々に対する態度がどうであれ変わらない。(ところで、上記の4個の単語、「何らかの生物学的な基礎 [some basis in biology]」には注意してほしい。私は、これらが本質的に純粋な生物学的カテゴリであると主張しているわけではない; これらすべては実際のところ膨大な文化的構築物と偏見により定義されるものであり、生物学へのリンクは、定義というよりはむしろ直示的カテゴリに対するマーカーである。私がこの注釈を挟んだのは、あまりに多くの人がここで私が説明しようとしているポイントを誤解していることに気付いたからだ。)

ここで名前を挙げた分断線は重要であるのだろうか? もちろんその通り。今日のアメリカの生活では、これらの要素に基づいた差別的扱いが広く蔓延している。それでも、アメリカ社会には生物学的なアンカーを欠いた異なる分断線も存在するという事実、そしてその中には少なくとも上記の分断線と同じくらい蔓延しているものも存在するという事実は残っている-また、その中で最も重要なものはタブーの話題であり、今日アメリカのほとんどの人々が語りたがらないテーマである。

これが関連のある事例である。今日のアメリカ人の経済的・社会的な将来の見通しの大部分は、非常に簡単な質問をするだけで判断できる: 収入の大部分をどうやって得ているのですか? 広く言えば、 -すぐ後で説明する通り例外があるものの- 収入源は、4つのうちのいずれか1つである: 投資の利得、月ごとの給与[salary]、時間ごとの賃金[wage]、または政府の福祉支給である。これら4つのうちの1つから大部分の収入を得ている人々は、共通の大きな利害を持っている。そこで、アメリカ人を投資階級、給与階級、賃金階級、福祉階級に区分して話すことには意味がある。

ここで明確に指摘しておかなければならないだろうが、これら4つの階級はアメリカ人が好んで語る分断と一致するものではないということだ。つまり、福祉階級には薄い色の肌の人が多数存在し、賃金階級にも濃い肌の人が多数存在する。2つの富裕階級では白人が増える傾向にあるものの、それでも有色人種の人々も存在している。同様に、女性、同性愛者、障害者なども4つの階級すべてに発見でき、その人たちがどう扱われるかは、これら階級のどこに属しているかに大きく依存する。たとえば、もしも読者が障害者であるならば、障害に対処する有意義な支援を受けられる可能性は、時給労働をしている場合よりも、給与を受け取っている場合のほうが、概してかなり大きくなる。

上記の通り、これらの階級に分類されない人々も存在する。私がそうだ; 作家として、私は収入の大部分を書籍の売り上げに対するロイヤリティから得ている。つまり、あらゆる販売チャンネルで流通する私の書籍が売れるたびに約1ドルが得られ、それは年に2度私に送付される。ただし、Amazonで売れた場合にはそれよりもかなり少ない-Amazonの大きな値引きは、あなたのお気に入りの作家のポケットから直接的に奪われたものなのだ。このようにして生計を立てている人はとても少ないので、ロイヤリティ小階級はアメリカ社会で重要な要素ではない。今日アメリカで生計を立てる他の方法についても、それは同様に当てはまる。かつて大きな利益を上げていた階級、自分自身が所有するビジネスの利益から収入を得る人々[自営業者]も、今日ではあまりに縮小してしまったため、集合的な存在感を欠いている。

これらの4つの主要階級について議論できることは莫大な量になるだろう。しかし、私は政治的な側面に注目したい。なぜならば、現在進行中の2016年大統領選挙キャンペーンで、圧倒的なまでの関連性を持っているからだ。4つの階級を極めて単純な質問で特定できるのと同じく、先に言及した反発をドライブする政治的爆弾は、また別の単純な質問によって確認できる。過去半世紀程度の間、4つの階級の暮らし向きはどう変化したのか?

答えは、もちろん、4つのうちの3つはほぼ同じ場所に留まってきたということだ。投資階級にとっては、実際には少しだけ厳しい時代だった。かつて安定した収入をもたらしてきた投資手段-預金証書、政府債券など-の利益率が落ち込んでいるからだ。それでも、代替の投資手段と政府による株式市場価格への狂った介入により、ほとんどの投資階級の人々は慣れ親しんだライフスタイルを維持できた。

給与階級は、同様に、半世紀間蓄積された変化を通して親しんだ特権と能力を維持し続けた。現在投機バブルに捉えられている少数の沿岸都市エリアの外では、月給から収入の大部分を得る人々は、概して家を所有し、数年毎に車を買い替え、毎年の休暇には旅行をするなどの余裕がある。スペクトラムの逆の末端、福祉階級は、ほとんど以前と同じような窮地が続いている。変わりばえのしない過酷な貧困という厳しい現実への対処、非効率的な政府官僚機構、国家生活への完全な参画を妨げる膨大な直接的・間接的障壁。ちょうど、1966年における同等の人々の状況と同じである。

それでは、賃金階級は? 過去半世紀以上、賃金階級は破壊されてきた。

1966年、時給制でフルタイムの労働をする1人の働き手が居るアメリカ人家族は、家、車、1日3回の食事、その他の普通の生活必需品を所有でき、その余りを時々の贅沢品に使用できた。2016年、時給制でフルタイムの労働をする1人の働き手がいるアメリカ人家族は、路上生活を余儀なくされている可能性が高い。そして、現在の条件以下でも喜んでフルタイムで働くであろう多数の人々が、まったく職を見つけられないか、あるいはパートタイムや一時雇用しか得られていない。アメリカ賃金階級の貧困化と悲惨化は、我らの時代の最も巨大な政治的現実である-またそれは、最も言及されることのないものでもある。それについて話そうとする人、あるいはそれが発生していることさえ認める人はごく少ない。

賃金階級の破壊は、大部分がアメリカ経済生活の2つの大きな転換によって達成された。最初は、アメリカの工業経済の融解と第三世界搾取工場 スウェットショップ によるその代替である; 2番目は、第三世界諸国からの大量の移民である。これら2つのどちらとも、賃金を低下させるための手法であった-注意してほしい。給与、投資利得や福祉支給ではない-賃金が支払われる仕事の数を経らすこと、その一方で、それらの仕事へ競争する人の数を増加させることである。両方とも、逆に、政府の政策によって強く推奨されたのだ。また、議会のどちらか片方からの大量の空疎なレトリックにもかかわらず、[共和党民主党の]双方は、実際的な目標のために手を取り合い、政治的エスタブリッシュメントから超党派の支持を受けたのである。

最後のポイントについては少しだけ話しておく必要があるかもしれない。両党は、アメリカ人労働者とその家族に対してときどきワニの涙[ウソ泣き]を流して見せるけれども、徹底的に雇用のオフショアリングを支持した。移民は、これよりも少しだけ複雑な問題だ; 民主党は移民を支持し、共和党はいつも反対しているものの、実際上それが意味することは、合法的な移民を困難にして違法移民を容易にすることである。その結果は、何らの経済的・政治的権利も持たない膨大な非市民の労働力の創造である。賃金を低下させ、労働条件を低下させ、それら賃金労働者たちを雇用する者の利益を上げるために使用しうる-そして実際に何度も何度も使用されてきた-人々である。

次の点はここで議論する必要があるだろう-そして、私の読者の大部分は困惑するかもしれない。つまり、誰がアメリカ人賃金階級の破壊から利益を得たのかである。アメリカの保守派と見なされる人々は、あらゆる人が今示した変化から利益を得たのであり、そうでない人たちは自分自身の責任であると主張することを好んできた。同様に、アメリカのリベラル派と見なされる人々の間で人気のある主張は、それらの変化から利益を得たのは上位1%に属する悪辣な超資本家であるというものだ。これら2つともごまかしである。なぜならば、賃金階級の破壊は、先に私が示した4つの階級のうちの1つに不釣り合いなほどの利益を与えたからだ: すなわち、給与階級である。

これがその理由だ。1970年代以来、上述の給与階級のライフスタイル -郊外の持ち家、数年毎の新車、マサトラン [メキシコの観光地] での休暇、など- は、時代錯誤 アナクロニズム と化した: ジェームズ・ハワード・クンスラーの有用なフレーズを使えば、未来なきアレンジメントである。それは完全に、第二次世界大戦の勃発によって発生したアメリカ合衆国によるグローバル経済支配の産物であった。当時、地球上の他のあらゆる主要工業諸国は、敵対国の爆撃機に工場を破壊しつくされ、ペンシルヴェニア、テキサスとカリフォルニアの油田は、地球上の他のすべての国の合計よりも多くの石油を算出していた。アメリカによる世界支配は、けれども、急速に過ぎ去ってしまった。当時、1970年代にアメリカの在来型石油生産はピークを迎え、ヨーロッパとアジアの工場はアメリカの工業的ハートランドを打ち負かした。

そのような変革の歯のなかで、給与階級のライフスタイルを維持するための唯一の方法は、給与階級の平均的購買力に比例させて商品およびサービス価格を強制的に低下させることであった。給与階級は、その規模に対して不均衡に大きい経済的・政治的影響力を行使した (そして、今でも行使し続けている)ため、これが1970年代の規範となった。そしてそれは今日までアメリカの公的生活における政治的コンセンサスとして留まり続けている。賃金階級の破壊は、そのプロジェクトの1つの帰結でしかない-アメリカにおけるあらゆる種類の製品の劇的な品質低下、国家的インフラの卸売などは、そのプロジェクトによるまた別の結果である。しかし、それが今日の政治という観点から関係のある帰結である。

注目に値するのは、同様に、賃金階級に対して給与階級から提示されるあらゆる救済策は、実際には賃金階級の犠牲のもとに給与階級に利益を与えるものであったということだ。過去数十年間、賃金が支払われる仕事の消滅により職を失なった人は、大学に通い職業訓練を受ければ再び繁栄のパレードに参加できると大声で主張されていたことを考えてみてほしい。学生ローンにサインして大学の講義を受け-職業訓練を受けた人々にとって、それは大してうまく行かなかった。結局のところ、存在しない仕事への訓練を受けたとしても大して役に立つわけではない。そして、あまりに多数の元賃金労働者は、大学教育を修了した後でも以前より職業上の見込みが向上したわけではなく、引き換えに何万ドルもの学生ローンの負債を負わされたのだ。彼らにローンと講義を押し付けた銀行と大学にとっては、けれども、これらプログラムは莫大な額の金のなる木 キャッシュカウ だった。そして、銀行と大学で働いている人は、ほとんどが給与階級だったのだ。

賃金階級の経済的希望を破壊し、彼らに劣等な未来を割り当てた変化に対して何らかの実効性ある異議申し立てを行なう試みは、これまでのところほとんどなされていない。ある意味では、宗教的・道徳的な基盤のもとで賃金階級の有権者共和党候補を支持するよう仕向けさせる、共和党による継続的な努力の目的はこれだ。それは左側の末端で民主党が採用してきた策略の鏡像である-確かに、民主党はあなたにとって最も重要な問題に取り組んでくれないかもしれない。けれども、あなたは共和党員ではないので、一番感情を害されない政党に投票する。そうではないだろうか? よろしい。もしもあなたが、あなたにとって最も重要な関心事にまったく対処されないことを確実にしたいのならば。

けれども、更なる障害が存在する。それは、賃金階級にとって本当に重要な問題を提起する試みに対する、給与階級の広い範囲 -左、中道、右、どんな名前であれ- からの反発である。稀な場合にこれがパブリックな空間で発生した時には、賃金階級の代弁者はコキ下ろされる。私がこの記事の最初に議論したような大盛りのあざけりによって。同様のことがプライベートで起きた場合は、異なるスケールで同じことが起きる。もしも疑うのであれば -読者はおそらく疑っているだろう、もしもあなたが給与階級に属しているのなら- 以下の実験を試してほしい: あなたの給与階級の友人たちを何かしら気楽な状況に置いて、一般的なアメリカ人労働者についての話をさせてみるのである。そこであなたが耳にすることは、粗野で、戯画的な一面的ステレオタイプから、正真正銘のヘイトスピーチまでの範囲に及ぶだろう。賃金階級の人々はこれに気付いている; 彼らはすべてを聞いているのだ; 彼らは馬鹿で、無知だなどと呼ばれている。

そこで、読者諸君、ドナルド・トランプの登場である。

トランプは聡明である。これにはいささかの皮肉も込めているつもりはない。トランプは、賃金階級を自身の旗印のもとに結集させる最も効果的な方法は、給与階級からの通常通りの鋭いあざけりによって自分自身を攻撃させることであると気付いたのだ。あなたは本当に思うだろうか? - 数億ドルを持つ男が、給与階級から受け入れられるような髪型をする余裕が無いなどと。もちろん、彼にはそれが可能だ; 彼は意図的に異なる方法を選択しているのだ。なぜならば、メディアの特権的なコメディアンの誰かが、あるいはインターネットの荒らしが、トランプが給与階級の好みを満たせないことを直接的に侮辱するたびに、別の数万人もの賃金階級の有権者たちは、自分が経験した給与階級からの終わりなき侮辱を思い出して、こう考えるのだ。「トランプは私たちの一員だ。」

トランプが、許容される政治的言説に関する現行のルールに意図的に違反していることも、同一のロジックが支配している。トランプが何かを口にして専門家を極度の混乱に陥れさせるたびに、また、今度こそ彼はやりすぎで選挙キャンペーンは必ずや無様に崩壊するだろうとメディアが自分自身と視聴者を信じ込ませようとするたびに、トランプの支持率が上昇していくことに気がついただろうか? トランプが話していることは、労働者向けの居酒屋やボウリング場で、違法移民やムスリムのジハード戦士テロリストが議論に登るときに話されていることとまったく同じなのである。メディアの金切り声は、トランプのアピール対象である賃金階級の有権者たちの心の中では、トランプは彼らの仲間であるということ、スーツの人間に見下された賢明な考えを抱く普通のアメリカ人だということを確証するものでしかない。

また、トランプが発する専門家にとって受け入れ難いコメントが、レーザーのごとき正確さで移民問題に焦点を当てていることにも気がついただろうか。それは入念に選定されたスタート地点なのである。というのは、違法移民の削減は、共和党がしばらくの間支持すると主張していたことであるからだ。トランプがリードを広げるにつれて、今度は、方程式の逆側についての話も始めている。雇用のオフショアリングである。海外のアップルのスウェットショップに対する最近のトランプの攻撃がこれを示している。トランプのジャブに対する主流派メディアの反応は、この事例を証明する好例である: 「もしもスマートフォンアメリカで製造されていたら、我々はスマートフォンにより多く支払わなければならないだろう!」というものだ。そして、もちろんこれは正しい: もしも賃金階級が家族を養えるだけの真っ当な仕事を得るのならば、給与階級は自分のオモチャにもっと多く支払わなければならない。これは給与階級の多くの人々にとっては考えられないことである -自分たちが使うエレクトロニクス製品が、海外にある地獄の穴の底で飢餓的賃金で製造されていることに対して、給与階級の人々は完全に満足している、それによって価格が低下する限りは- それが、トランプが極めて効率的に活用している煮えたぎった憤怒の釜を理解する一助になるかもしれない。

トランプが、人々の憤怒に乗って一直線にホワイトハウスへと至るのかはまったく定かではない。けれども、現時点ではそれが一番可能性の高そうな結果だと思える。とはいえ、彼が敗北したとしても、それが政治的エスタブリッシュメントがあらゆる批判を投げかける中で彼をフロントランナーの地位へ引き上げた現象の終焉を意味するなどと考えるほど、読者諸君がナイーブだとは信じていない。私は、トランプの立候補をアメリカの政治生活における大きな分水嶺と捉えている。賃金階級 - アメリ有権者の最大階級であることを忘れないでほしい- が自分自身の力のポテンシャルに目覚め始め、給与階級の上昇に対し反発を始めた地点である。

トランプが勝とうが負けようが、その反発は今後数十年間のアメリカ政治を定義する力となるだろう。それでも、トランプの立候補は、ありえないほどの最悪の形だというわけでもない。もしもトランプが敗北したとすると、特に、明白に不誠実な手段によって負かされたならば、賃金階級の大義を継承する次のリーダーが好むものは、軍隊の腕章、さらに言えば、路肩爆弾である可能性がとても高い。ひとたび憤怒の政治が開始されたならば、いかなることでも起こりうる。とりわけそれが当てはまるのは、おそらく言っておかなければならないだろうが、当の怒りがそれを向けられた人々の行動によって十分に正当化される場合である。

2016年米大統領選挙 ジョン・マイケル・グリアのトランプ当選予測エッセイ集

既にこのブログで何度も取り上げているジョン・マイケル・グリアですが、彼は2016年1月の時点でドナルド・トランプの大統領当選を正確に予想していました。それもただの思い付きや当てずっぽうではなく、アメリカの田舎町で自身が見聞きしたことをベースとして、その上に歴史の知識と歴史の勃興サイクルについての深い洞察を加え、アメリカ政治の (そして、民主国家の) 現在と未来を極めて説得力高く描き出していました。

そこで、グリアの2016年の時事評論のなかでも特に興味深いものをピックアップしてみました。日付は、特に明記していなければすべて2016年ものです。またグリアの旧ブログ『The Archdruid Report』は既に閉鎖されているため、有志のミラーサイトにリンクしています。

Down the Ratholes of the Future (1月6日)

新年の企画として、毎年グリアは昨年の予測振り返りと当年の予測を行っている。この記事でドナルド・トランプの当選の可能性について初めて言及した。

一方で、アメリカ人の生活の政治的コンテキストは、爆発へと向けて定常的に加熱されている。私がこれを書いているとき、重武装民兵集団がオレゴン州南東の砂漠にある連邦の野生動物保護区の建物を占拠し、膠着状態を起こそうと試みている。このようなスタントが道化じみたものであることは疑いがないが、ジョン・ブラウンといった暴力的奴隷廃止論者の行動も、同時代にはそれと同じくらい無意味なものだと見なされていたことを忘れてはいけない; 彼らが重要であるのは、純粋に、内戦へ向かう圧力の高まりの目安としてである-そして、それこそがまさに私がたった今説明したイベントから読み取ったことである。

つまりは、私はいかなる規模の武装蜂起であれ、今年の合衆国で発生するとは予期していない。田舎と都市部でのゲリラ戦闘の時代、路肩爆弾、強制収容所、あらゆる側からのおぞましい人権侵害、そしてあらゆる方向へと逃げる何百万人もの難民、などがアメリカ合衆国で発生するまでには、まだしばらくの時間がある。それには一つの決定的な理由がある: 近い将来において武装蜂起する可能性が最も高い人々のほとんどは、最後の挑戦として政治プロセスに賭けると決断したからだ。そして、彼らにそれを仕向けたのは、ドナルド・トランプの立候補である。

トランプの、フロントランナーの立場への驚くべき進歩の重要性は、あまりに巨大で複雑であるため近い将来にこのブログで独立の記事を書くつもりだ。今のところ、関連のあるポイントは、名目上の共和党員は、党の公式認定候補者によって宣伝され平常運転にあまりにも疲れているため、彼らはダビーオバマ時代とでも呼びうる超党派のコンセンサスを壊すためであれば、ほぼ誰にでも進んで投票するだろうから: ダビーオバマコンセンサスとは、アメリカ人の膨大なマジョリティを悲惨へと追いやり、しかし特権的なマイノリティに利益を与え続けているコンセンサスである- 延々と批判されている1%ではなく、アメリカ人の収入上位20%程度のマイノリティである。

ヒラリー・クリントンは、20%の有権者の候補者である。過去20年かそこらの間ずっと続いていたものごとを、今後も継続したいと願う者たちの選択肢である。より正確には、彼女は平常運転の ビジネス・アズ・ユージュアル軍団の左翼の候補者の1人である。というのは、民主党へ投票する上位20%の半数は彼女のまわりへと集い、競争を行なわせないために最大限の努力をしたからであり、一方で共和党へ投票する半数は、ジェブ・ブッシュあるいはそれ以外の凡庸で代替可能なライバルのもとへ集うことに失敗したため、下位80%の人間が独自の選択をした際に妨害を受けたからである。未だバーニー・サンダースが困難をくぐり抜けて逆転する可能性はある、もしも彼がこの先の初期の予備選挙のいくつかでクリントンを完全に打ち負かし、民主党の下位80%が自身の声を聴かせられたら。けれども、それは途方もない挑戦である。現時点においてそれよりも可能性が高そうなのは、ヒラリー・クリントンドナルド・トランプである。そして、サンダースであればトランプを負かせられるかもしれないが、クリントンではほぼ確実に不可能である。

長く、鈍重で、派手に腐敗した選挙プロセスをアメリカが進むにつれて、確実にたくさんの転換点が存在するだろう。共和党が何らかの方法によりトランプを指名から締め出すことはありうる。そのような場合には、誰が共和党候補となったとしても、共和党支持者の下位80%は家に留まるために地滑り的な敗北を喫するだろう。多くの選挙不正が行なわれた場合、-選挙不正が純粋に共和党の習慣であると考える人は、シーモア・ハーシュの『The Dark Side of Camelot』を読むべきだ。そこでは、1960年の大統領選挙で、ジョー・ケネディが彼の息子[ジョン・F・ケネディ]のために買収を行なったことが詳細に記されている-クリントンが勝ち進み、ホワイトハウスに入る可能性もある。サンダースが、民主党エスタブリッシュメントによって上げられた防壁をよじ登り、選挙戦に勝つ可能性さえある。

現時点においては、しかし、これについて私が言いたいことよりは少ないものの、2016年の選挙の結果として最も可能性が高いのは、2017年1月にドナルド・トランプが大統領として任命されることであると思う。これがスペシフィックな予測の3番目である。

Donald Trump and the Politics of Resentment (1月20日) 
ドナルド・トランプと憤怒の政治

トランプの躍進に関する、最初のまとまった記事。アメリカの労働者階級の苦境と、それを効果的に活用したトランプの戦略。

The End of Ordinary Politics (4月6日)
ふつうの政治の終わり
Where On The Titanic Would You Like Your Deck Chair, Ma’am? (4月27日)
タイタニック号の上のどのデッキチェアをお好みで?ご夫人。
A Few Notes on Burkean Conservatism (5月11日)
バーク保守主義についてのいくつかの覚書
Outside the Hall of Mirrors (6月29日)
鏡の間の外で

Brexitに関する評論

Scientific Education as a Cause of Political Stupidity (7月13日)
政治的愚かさの原因としての科学教育

エンジニアの思考が政治について誤った判断を下すことについての解説

The Coming of the Postliberal Era (9月28日)
ポストリベラル時代の到来
Reflections on a Democracy in Crisis (11月9日)
危機における民主主義についての省察

11/8 の大統領選挙直後に書かれた記事。政敵を悪魔化するレトリックについて。

When The Shouting Stops (11月16日)
叫び声が止むとき

「なぜ彼らはトランプに投票したのか?」 その答えをトランプに投票した人に聞いてみる。

The Kek Wars (2018年7月)
ケク戦争

番外編。トランプを大統領の座へと押し上げた、アメリカの2ちゃんねるに集った混沌の魔術師たちの話。

書評: AIレジェンド大盛りインタビュー集 『The Architects of Intelligence』 (マーティン・フォード)

AI (人工知能) 研究に大きな貢献をなし、現在も最先端を走り続けている伝説的な研究者・技術者たちへのインタビューをまとめた書籍で、人工知能の過去と未来を考えるための必読書であると思う。

Architects of Intelligence: The truth about AI from the people building it

Architects of Intelligence: The truth about AI from the people building it


著者マーティン・フォードは、シリコンバレーでソフトウェア会社を起業した経営者だ。最近ではフューチャリストとして、情報技術の未来と、その社会への影響に関して活発な執筆活動を行なっている。訳書に『ロボットの脅威 人の仕事がなくなる日 (日経ビジネス人文庫)』があり、こちらの本では空疎で無根拠な未来予測を避けながら、未来のAIと労働・技術的失業について地に足のついた考察を行なっていた。

本書『知能の建築家たち』は、2018年11月に出版された本で、人工知能研究の現状と未来について総勢23名の研究者・技術者、起業家たち、そして思想家や政策立案者なども含む多種多様な専門家と1対1で行なった対談をまとめたものだ。(元になったインタビュー自体は、2018年2月から10月にかけて行なわれたものだという)

インタビュー対象者の名前と主要な業績を簡潔にまとめておく。

名前 業績
デミス・ハサビス 認知神経科学者、DeepMind創業者
レイ・カーツワイル 起業家、Google 技術ディレクター、シンギュラリティの伝道師
ジェフリー・ヒントン トロント大学教授、ディープラーニング研究者、現在のディープラーニングブームの立役者の一人
ロドニー・ブルックス MIT人工知能研究所所長、iRobot社の共同創業者
ヤン・ルカン Facebook人工知能研究所所長、ヒントンの教え子
フェイフェイ・リー Googleチーフデータサイエンティスト、スタンフォード大学教授、ImageNetプロジェクトに参与
ヨシュア・ベンジオ モントリオール大学教授、ディープラーニングブームの立役者の一人
アンドリュー・ング Google Brain 創設者、Baidu チーフサイエンティスト、オンライン教育企業 Coursera の共同創業者
ダフニ・コラー スタンフォード大学教授、オンライン教育企業 Coursera の共同創業者
スチュワート・ラッセ カリフォルニア大学バークレー人工知能システム研究所(CIS)所長
ニック・ボストロム オクスフォード大学教授、哲学者、超知能に関する思弁的な考察
バーバラ・グロッツ ハーバード大学教授、米国人工知能学会の初の女性会長
デヴィッド・フェルッチ IBMディレクター、ワトソンプロジェクトリーダー
ジェイムズ・マニカ マッキンゼー・グローバル・インスティチュート(MGI)ディレクター、オバマ政権の科学技術政策の諮問委員
ジュディア・パール ベイジアンネットワーク、統計的因果推論の研究、チューリング賞受賞者
ジョシュア・タネンバウム MIT教授、認知神経科学
ラナ・エル・カリオビー MIT教授、Affectiva社CEO、顔認識・感情認識アプリケーションデバイスの開発
ダニエラ・ルス MIT教授、人工知能研究所所長
ジェフ・ディーン Google Brainディレクター、分散システム、Google翻訳 (ニューラル翻訳) の開発など業績多数
シンシア・ブリジー ソーシャルロボットJibo社の創業者、ブルックスの教え子
オーレン・エツィオーニ アレン人工知能研究所CEO
ゲイリー・マーカス ニューヨーク大学教授、認知神経科学者、ディープラーニングのハイプ批判で知られる
ライアン・ジョンソン 起業家、Kernel社創業者、人工神経、ブレイン・コンピュータ・インターフェイス (BCI) デバイスの開発


AI関連のニュースを追っている人は、上記のリストだけですごい本だということが分かるだろう。 第三次人工知能ブームのきっかけとなったディープラーニングに多大な貢献をした第一人者たちが勢揃いしている一方で、記号処理的AI、確率的アプローチやロボティクスなどの異なる手法を提唱する研究者、また現在の過剰なAIブームの盛り上りに対して苦言を呈する人々も対象に含まれる。

インタビューで、著者はそれぞれの研究者がどんなキャリアを辿ってきたかを聞き出し、それを人工知能研究の歴史的文脈のなかに位置付けている。また、話題は過去の業績だけに留まらず、現状のAIの可能性と課題、AGIの実現方法や実現時期についての予測、更にはAI技術の社会に対するインパクトやベーシックインカムの必要性にまで及ぶ。

ほとんどの研究者は、今後のAIの進歩および社会への影響については楽観的だ。けれども、その進歩のペース、今後の研究の方向性、あるいは社会への悪影響を低減するための政策や対応法には、多様な意見があり見方はまったく一致していない。似通った話題を複数の人と話しているために微妙に冗長な記述もあるものの、単なる個人の意見や抽象的なサマリではなく、さまざまな角度から人工知能に光を投げかけている極めて優れた本だ。

また、インタビューアであるマーティン・フォードの技量も素晴しい。幅広い知識をベースに識者と対等に渡り合い、ほとんどの場合には黒子として意見を聞き出すことに徹しながらも、時には読者の目線で専門用語の説明を求め、時には批判者としてインタビューイが提唱するアプローチの弱点を指摘し、議論に深みを与えている。

汎用人工知能はいつできるのか?

インタビューされている識者たちは多くのトピックについてまったく意見が一致していないものの、1点だけ、「汎用人工知能の実現時期」については、かなり明確なコンセンサスがあるように見える。つまり、ほとんどの識者は、「まったく分からん」という一致した意見を述べているのだ。

著者は、インタビュー対象者全員に「人間レベルのAI、汎用人工知能 (AGI) が50%の確率で実現する時期はいつだと思いますか?」と質問しており、巻末の25章に回答をまとめた章がある。

ほとんどの対象者は、AGI実現時期の明確な予測を避けている。(ちなみに、名前を明かして予測を提示したのはただ2人だけで、レイ・カーツワイルの「2029年」、ロドニー・ブルックスの「2200年」のみ。私が大好きなこの2名が、楽観と悲観の両端に位置しているのは面白い) 23名のうち、AGIの実現時期を述べたのは16名で、平均は2099年である。(上記2名以外は全員匿名での回答)

(注:予測の起点は2018年)

  • 2029 ..........11 年後
  • 2036 ..........18 年後
  • 2038 ..........20 年後
  • 2040 ..........22 年後
  • 2068 (3名) .....50 年後
  • 2080 ..........62 年後
  • 2088 ..........70 年後
  • 2098 (2名) .....80 年後
  • 2118 (3名) .....100 年後
  • 2168 (2名) .....150 年後
  • 2188 ..........170 年後
  • 2200 ..........182 年後

平均:2099年 2018年から81年後
(ちなみに、カーツワイル、ブルックス2名の「外れ値」を除外した場合の平均は、90年後の2108年である)

「平均で2099年という結果は、これまでに行なわれた別の調査と比較するとかなり悲観的である… 他のほとんどの調査では、人間レベルのAIが50%の確率で実現する時期として、2040年から2050年の範囲に集まる結果が得られることが多い。これらの調査のほとんどにはより多くの対象者が含まれており、一部のケースでは、AI研究の分野外の人々が含まれている場合があることを見逃してはならない。」と、著者は指摘する。

インタビューの中では、いわゆる「ディープラーニング派」の研究者はAGIの早期実現について比較的楽観的であり、記号処理的AI・ロボティクスなど、それ以外の分野出身者は悲観的な傾向があるようだ。同様に、学術界に軸足を置く研究者はやや悲観的である一方、産業界のキャリアが長い起業家・技術者は楽観的であるように見える。ただし、いずれの研究者もAGIはそれほどすぐには実現できず、解決すべき問題がまだたくさん残されていると答えていることは印象的だった。AIの楽天家として語られることが多いアンドリュー・ング(1976年生)でさえ、自分の生涯の間にAGIが実現しない可能性はあるかもしれないと語る。


対談をベースにした本のため、文章も短く平易なので、それほど英語が得意でない人も是非原書に挑戦してほしい。名前を知っている研究者のインタビューを拾い読みするだけでもタメになると思う。とはいえ、2018年現在のAI研究の現状を知るための、またトップ研究者たちが何を考えて研究を進めているかを知るための貴重な本であるため、早く翻訳されてほしい。

ミニレビュー:NiZ atom66 キーボード

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キーボードとiPad

年末にiPad Proを新調し、ブログなど文章書きの環境を一新するべく Bluetoothキーボードを購入したので、感想を書いてみたい。中国製のNiZ plum ATOM66 というキーボードだ。

(なぜか私が買ったモデルへはAmazonのリンクが貼れなかったので、66キーではなく84キー版にリンクしている。)

ちなみに、これまで私用のデスクトップPCではマジェスタッチの赤軸テンキーレスを使い、また会社の同僚と先輩が使っているHappy Hacking Keyboard (HHKB) ProとRealforce(初代)を試し打ちさせてもらったことがあり、比較対象としてはこの3台となる。

このキーボードの優れた点をいくつか挙げておこう。

1. 静電容量無接点方式でありながら比較的安価であること
このキーボードは、高級キーボードでしか使われていない静電容量無接点方式を使っている。この方式についての説明は別サイトを見てほしいが、機械的接触する部品が少なくなるので耐久性に優れ、非常に打ち心地が良いという利点がある。

ノートパソコンでよく使われるパンタグラフ/メンブレン方式では、打ち始めに一番大きな力が必要で、それを超えると一気に抵抗感が減る。一方で、静電容量方式の場合は、力を加えるとスッとキーが押し下がりリニアに抵抗が増していく特性がある。このおかげであまり指が疲れにくい。長時間タイピングをしていると恩恵がよく感じられる。

価格は約1万5千円弱で、キーボードとしては比較的高価な部類に入るものの、日本製の静電容量方式のキーボードの場合は2万円代からスタートすることを考えると、相対的には安価である。

2. Bluetooth接続ができること
この種のキーボードでBluetooth接続ができるものはかなり限られているが(ほぼHHKB一択)このキーボードはBluetoothで3台までの機器に接続できる。iPadiPhone、会社の貸与PCにペアリングしているが、それぞれの切り替えもスムーズだ。

3. プログラマブルであること
梱包のQRコードのURLから、キー配置を変更するためのソフトウェアがダウンロードでき、これを使うとほぼ全てのキーマッピングを変更できる。私は、CapsLockキーをCtrlキーに置き換えて使っている。ちなみに、このキーマッピングはキーボード側のファームウェアに記録されるため、別の機器に接続しても有効だ。

ただし、やや気になる部分もある。

1. バッテリーが内蔵式で交換不可能
無線接続のための充電池がキーボードに搭載されているが、キーボードの筐体は開けられず、交換はできない。また、USB接続時に充電を止めることもできないようだ。高級キーボードは10年単位で使うものであるため、バッテリーのヘタりは多少気になるところである。ちなみに、私の使い方だと数日から1週間弱で再充電が必要になる。

2. 品質の甘さ
一昔前の中国製製品のような安かろう悪かろうではないし、ネット上の別のレビューにあるような筐体の歪みなども無かったものの、キーキャップのバリの処理が甘い、キャップの色によって高さが微妙に異なる、USBのケーブルが抜き差ししにくいなど、細やかな部分の品質は決して高くないと思う。ただし、タイピングに支障があるレベルではない。あくまでHHKB Proなどの高級キーボードと比較してみると若干気になるという程度だ。

3. タイピング音
打鍵はそれなりに静かである (メカニカルキーボードのようなカチャカチャというクリック音はない)ものの、それなりの音はする。特に、キーを離した後の跳ね返りのプラスチック音は、キーストロークが深いせいもあるのか結構大きな音がする。とはいえ、オフィスや喫茶店で使う分にはほとんど問題にならず、図書館で使う場合は若干気を使わなければならないという程度の音である。

というわけで、気に入って毎日持ち歩いて職場と自宅で使っている。本記事もこのキーボードを使って書いた。

書評:トランプ政権の暴露本決定版、だが…『FEAR 恐怖の男』(ボブ・ウッドワード)

FEAR 恐怖の男 トランプ政権の真実

FEAR 恐怖の男 トランプ政権の真実

トランプ政権の内幕を暴露する本は、『炎と怒り』(本サイト書評) など、これまでにも何冊か出版されている。しかし、本書は2018年までのトランプ政権を描き出した書籍としては決定版になるだろうと思う。

『炎と怒り』の著者、マイケル・ウォルフは無名のゴシップライターであり、その情報ソースはスティーブ・バノンにかなり偏っていたと言われる一方で、本書の著者ボブ・ウッドワードは、ニクソン政権のウォーターゲート事件をスクープした伝説的ジャーナリストであり、複数の関係者に綿密な取材を行っている様子がうかがえる。

内容も極めて堅実で、ゴシップ的な政権高官同士の不和だけではなく、トランプ政権の意思決定プロセスがどれほど混乱しているかを丁寧に書き出している。トランプ自身は自分の直感を絶対的に信じている一方で、軍事と経済の主流派・良識派は、必死でトランプを説得し、時には書類の下書きを隠して(!)それをトランプが忘れるのを待つといった滅茶苦茶な方法を取り、何とか政策に一貫性を持たせようとしているのだという。

 

煽情的でもなく、党派的立場に偏らない記述は好感が持てるし、良書であることは間違いなく、アメリカの政治史を語る上で今後数十年間参照され続ける本となるだろうけど、正直なところ、若干読んでいてダレてしまった感は否めない。トランプ劇場も多少食傷気味かもしれない。

合わせて読みたい

過去読んだトランプ関連本で印象に残ったものを紹介。

トランプの前半生と選挙戦を扱った(大統領当選以前の)ものは、『トランプ』(ワシントンポスト取材班)、と『熱狂の王 ドナルド・トランプ』(マイケル・ダントニオ) で詳細に書かれている。

政権高官の目線ではなく、アメリカの行政機関の職員たちが見たトランプ政権の混乱っぷりは、『The Fifth Risk』(マイケル・ルイス) (本サイト書評)が面白かった。

翻訳:インテリゲンチャのたそがれ (ジョン・マイケル・グリア)

以下は、ジョン・マイケル・グリアによる"The Twilight of the Intelligentsia" の翻訳です。

元記事は2018年11月9日、米中間選挙の翌日に公開された。記事冒頭には選挙結果について簡単な論評が書かれているが、訳出にあたっては省略した。

The Twilight of the Intelligentsia

これまでのところの連載では、これら歴史の深淵なるサイクルを理解するための主要なフレームワークとして、オズワルト・シュペングラーの洞察を利用してきた。議論を先に進めるにあたって、読者諸君にはシュペングラーの基本的な概念を心に留めておくよう勧めたい。今週の記事では、けれども、歴史的サイクルの別の学徒を重点的に取り上げたいと思う。シュペングラーの英国人のライバル、アーノルド・トインビーである。彼の膨大な12巻本『歴史の研究』において、トインビーはシュペングラーの比較文明論的な方法論を取り上げ、彼が収集できた充分な量のデータをもとに、あらゆる文明に対して百科事典的なスコープでその方法論を適用したのである。

トインビーの研究から派生した理論は、全体として、私にはシュペングラーよりも説得力が高くないように見える。けれども、当時彼はこの問題に対してシュペングラーよりもはるかに大きな個人的利害を持っていたのだ。シュペングラーは高校教師として平穏に生計を立てており、博識家としての研究生活を意図的な曖昧さの中で追求していたのに対して、トインビーは英国支配カーストの一員であり、政府と密接な関係を築いていた名高い非営利団体の秘書として働き、彼の歴史研究はイギリスとアメリカのエリート集団の支援のもとで行なわれた。シュペングラーは、イギリスは衰えつつあるアテネであり、それを覆い隠すローマはニューヨークかベルリンに位置する可能性が最も高いだろうと冷静に観察していた; トインビーは、あまりに無慈悲な明晰さから逃げ出し、シュペングラーが先へと進み (これまでのところ最も成功した) 予測を立てたまさにその地点から、ごまかしへと撤退していったのだ。

細かなディテールについて言えば、けれども、トインビーは正確であり、それゆえ多くの点において有用である。彼はシュペングラーが擬形態と呼んだ現象 --新興文化が、旧来のより権威のある文化の政治、経済、宗教および社会的な形態を取り入れることによるプロセス-- について記している。そしてそれを詳細に調べ、ありとあらゆる場所と時間での文明間の遭遇について精査したのである。このプロセスについてトインビーが強調したことの一つに、そのような文化間の遭遇で知識人インテリゲンチャが果たす役割があった。

ところで、「インテリゲンチャ」は元々はロシア語の単語であるが、この語が作られたのは--多数の言語における多くの語の起源と同じく--ある言語の単語を借用し、その語に別の言語の文法的接尾辞をくっ付けたものである。[intelligentsiaはラテン語に起源を持つロシア語の単語で、そこから英語に借用された] これはインテリゲンチャが出現するプロセスとだいたい同じものである。インテリゲンチャとは、トインビーの用語では、ある文化に属していながらも別の文化の考え方、習慣と実践によって教育を受けた者たちである。

それは第一の文化が第二の文化によって征服され、新たな大君主オーバーロードが自身の文化的形態を新たな領域へと課すことによって起こるかもしれない; それは、第一の文化のエリート階級が、第二の文化に支配された世界で競争するために、第二の文化の考え方や習慣を最大限に取り入れた場合にも起こりえるかもしれない。最初のカテゴリの事例としては、19世紀全体を通してヨーロッパの植民地帝国によって採用された地元の教師や下級官吏を想像してほしい; 2番目のカテゴリの事例としては、民主的な議会を持ち、首都に高層ビルを建築し、エリート階級はビジネススーツとネクタイで身を包んだ今日の第三世界の諸国を想像してほしい。

インテリゲンチャは擬形態の歩兵である。彼らの任務は、外国文化の形態を自分自身で受け入れ、また自らがその一員である社会のメンバーに対しても、説得を通してであれ強制であれ、それを課すことである。このプロセスをどの程度まで浸透させられるかには、必然的に厳しい制約が存在する。そこには常に反発がある。インテリゲンチャは常にかなりの少数派であるために、反発を単に無視することはできない。それが植民地社会の標準的パターンである。コスモポリタンなエリート階級 (外国人であれ自国出身であれ)、自身は絶対に得られないコスモポリタンのステータスを熱望する地元のインテリゲンチャ、そしてインテリゲンチャと彼らが推進する外国文化に対して鬱屈した敵意を持つ、莫大な、疲労した労働者階級である。

インテリゲンチャの地位には、どれほど特権的であろうとも苦い欠点がある。一方では、インテリゲンチャは、既に述べた通りの莫大で疲労した労働者階級のメンバーから憎まれ嫌われている。他方では、彼らが入念に模倣する外国人エリートからの承認を得ることは決してできない。魚も鳥も上等の赤身肉であれ、インテリゲンチャは文化間のギャップに囚われている。植民地社会の世界観の限界の中では、彼らの苦境から脱出するすべはない。彼らが取り入れた外国文化へと大衆を改宗させることもできないし、一方では、外国文化に属する人々から完全に受け入れられることもない。

インテリゲンチャを苦境から逃れさせる要因は、むしろ、まさに彼らが最も恐れることによるものである。最初に、個人的な失敗がある。数カ月前に私が記した通り、成熟した社会の教育制度は、社会が吸収できるよりもはるかに多くの人々を管理的地位に向けて教育することが一般的である。我々が議論しているような社会では、インテリゲンチャの数は、必然的に教員、下級官吏、その他類似の地位への求職マーケットが求める数よりも増大する。その結果は、単なるダイナマイトよりもはるかに危険な爆発物である: 自分自身の立場を理解し、既存体制に敵対する反対勢力の組織に必要となるあらゆるスキルを訓練された後で、その体制から打ち捨てられた教育あるアンダークラスである。

そして、2つ目の要素がある。つまり、いかなる支配的文化であれ永遠に支配を保つことはできないということだ。いずれにせよ、政治的権力と文化的カリスマの満潮の後には、いつも海へと帰る潮流が続く。支配的文化がその優勢を失うにつれて、インテリゲンチャはもはや取引のための唯一の株式の市場を持たなくなり、労働者階級からの反発は力を増していく。

そこで最初に起こることは、インテリゲンチャとしての訓練を受けたものの、準備をしてきた仕事へと踏み込むことができなかった人々で構成された教育あるアンダークラスの人間が、労働者階級と共通の大義を打ち立てることである。第三世界のヨーロッパ植民地の夜明けの年を見れば、そのダイナミクスが働いていることが分かるだろう。ものごとを推し進めて壁を乗り越えて急速な変化を起こすのは、アンダークラスに属してはいないインテリゲンチャのメンバーである。植民地体制のもとで良い職業と特権的な地位を得て、何が起きているのかに気付き、自身の選択肢を見極めて、アンダークラスと大衆の側に付いた人々である。おそらく読者もモハンダス・K・ガンジーという名の男のことを聞いたことがあるだろう; 彼について書かれた優れた伝記の最初半分を読めば、10フィートもの高さに達する手紙に書かれたそのダイナミクスを見られるだろう。

それではここで私が数週間追求してきたテーマに戻ろう。北米とロシアは未だに、文化的に言えばヨーロッパの植民地である; 両国のエリート階級は、第三世界諸国のエリート階級と同じく、裕福なヨーロッパ諸国の流行と習慣を熱心に猿真似している; どちらの国の主要都市の建築物、都市エリート層が熱心に消費する芸術形式、展示された衣服のスタイルさえも、すべてがヨーロッパの発明である。それは文化的植民地の道筋と同等であり、同じことをシュペングラーの用語で言うならば、支配的文化からの擬形態の影響下にある社会である。

およそ1世紀前にヨーロッパエリートの手から政治的権力が滑り落ちているとしても、実際には大差はない。ヨーロッパのエリートと彼らの国家は、真に重要な国家の支配者に対して2番目の細工を行うことができる。同じことは、二千年以上も昔、ギリシアがローマの支配下に下った時にも発生した。ローマの貴族 パトリキたちは依然として合争ってギリシア文化の知識をひけらかし、自身のヴィラをギリシアで購入した彫像で飾ったのだ。かつてアメリカ人のミリオネアたちが、今日ピッツバーグオマハの美術館を飾るヨーロッパの絵画を購入していたように。旧社会の文化的カリスマ性は、特権的エリートと、そのエリートの意によって雇われクビにされるインテリゲンチャ階層に留まり続ける。

私はロシアに住んだことはない。私のロシア文化への接触はほとんどが死者たちによって書かれた文学作品によるものであるため、個人的な経験からは、この植民地の社会構造がロシアで発生していることにどれほど正確に合致しているかを述べることはできない。アメリカでは、その一方で、これまでの私の生涯においてさまざまな地域に居住した経験を活用でき、その一致は正確である。アメリカ社会にも独自のコスモポリタンなエリート階級が存在しており、衰退段階に入ったあらゆる帝国で一般的な通り、贅沢さの馬鹿げた顕示に耽溺している; アメリカ社会にも独自のインテリゲンチャが存在している。上位の階級からの排除について苦悩し、下位の階級には、自身の唯一の取引材料であるヨーロッパの考え方と習慣を取り入れるように説得することもできないというありふれた束縛に囚われている。

アメリカのインテリゲンチャについて注目に値するのは、彼らがアメリカ人インテリゲンチャである限り、明確にヨーロッパの擬形態に執着し続けていることだろう。夢想の対象となる焦点は歴史の流れに従い移り変わっていくことは確かである; 植民地時代から20世紀初期には、インテリゲンチャのメンバーは英国を猿真似していた; 20世紀最初の2/3かそこらの間は、フランスがそのような執着の対象となった - 特にここで私が考えているのは、英国の作家サマセット・モームが小説『剃刀の刃』の中で述べた、 フランスは良きアメリカ人が死後に向かう場所であるという容赦ない皮肉なコメントである。

今日では、ふつうスカンジナビア諸国がそのモデルを提供している。つまり、アメリカのインテリゲンチャのメンバーが意識的または無意識的に、アメリカ合衆国がそうなるべきであると望む夢想のモデルである。(参考までに、それはスカンジナビア人の私の友人たちが困惑を覚える習慣である。) 数年前の本、マイケル・ブースによる『The Almost Nearly Perfect People: Behind the Myth of the Scandinavian Utopia』は、英語話者の国々で北欧諸国が理想化される傾向に対して、読者の誤解を解こうとするものであった; 私が知る限りでは、目的はあまり果たされていないようだ。また、もしそれがうまくいったとしても、その本が狙った対象の読者たちは、単に別のヨーロッパの国を見つけてそれを理想化し続けるだろう。

アメリカでは、アメリカ人ではないというフリをすること、自分自身の文化的・民族的なバックグラウンドへの教養ある軽蔑を示すことが、インテリゲンチャの自己認識の本質である。それが、インテリゲンチャが「アイツら [those people]」、つまり彼らが強く軽蔑するアメリカ人の大衆に属していないことを証明する方法である。(私は年を取っているので、中流・中上流階級の白人による「アイツら」という語が、同じ声のトーンで唇をつり上げて発せられるとき、それは有色人種の人々を指していたということを覚えている; 今ではその語が白人労働者階級の人々を意味するようになったという事実は、現在の特権階級の間で、階級的偏見が人種的偏見に取って代わったということの有力な証言である。)

けれども、アメリカ人インテリゲンチャによるアメリカ合衆国をヨーロッパ化せんとする望み薄の挑戦が直面する困難は、そのような不毛な試みが普通に相対する要因を超えている。きわめて重要な点として、ヨーロッパ文明のイデオロギー的な中心には、あらゆる人類の歴史はヨーロッパへの序曲であるという確信がある; 現在のヨーロッパの姿が、他のあらゆる社会が必然的に向かう行き先なのだ; ただヨーロッパのみが現代的であり、ヨーロッパをその細部に至るまで模倣していない社会は遅れており、未来の最先端にキャッチアップする必要がある、そしてその最先端とは (もう一度言えば) ヨーロッパなのだ。これを信じることは非常に心地良いことは確かだが、けれどもそれは真実ではない。

「ヨーロッパ」と「現代的」を同一視し、他すべてを概念上の過去と見なす混乱の蔓延は、現在を理解する上での巨大な障壁となっている。ヨーロッパが今の姿であるのは、そして今存在する習慣を備えているのは、過去数千年の極めて特異な歴史による膨大な遺産があるからだ。そのような歴史の無いところでは、ヨーロッパ文化の形態は、非常に異なる基盤を覆う薄い化粧板でしかなく、深い根を張っている兆候を示していない。そのような考え方を否定することが、アメリカのインテリゲンチャの世界観と自己認識の本質である。なぜならば、彼らの世界は、いつの日かアーカンザスが今日のボストンの態度の文化的習慣を持つようになるという確信の周りを回っているからだ。どの時代でも、確かにボストンはヨーロッパの都市と区別できないかもしれない。あるいは、より正確に言えば、アメリカ人インテリゲンチャの集合的イマジネーションの中でのあるべきヨーロッパの都市のファンタジーと区別できない。

ここで当然、ヨーロッパの都市は、スカンジナビアの都市でさえ、たった今示したファンタジーとの共通点を持っていない。ヨーロッパも現在、独自の困難なトランジションを迎えている。それを駆動するのは、過去の記事で見た通りの衝突である --シュペングラーが議論している通り、民主制を装ったエリート主義的な寡頭制と、大衆の支持を受けたポピュリスト的な君主制の間の不可避の闘争である。(少しだけネタバレしても良いだろうか? 長期的には、この闘争でエリート寡頭制の側が勝利する見込みはない。) けれども、それ以外の要因もある。前回の記事で議論したものである: 定義は難しいが無視することは危険な、文化とそれが生じた広い地域を結び付ける普遍的なリンクである。

ここアメリカ合衆国では、大西洋海岸沿い地域の古い沿岸入植地のような工業化以前のヨーロッパ世界の一部である地域と、ヨーロッパの文化的発展が完了するまで (シュペングラーの考えでは1800年ごろに起こった) 手付かずで残された広大な内陸部との間にある差異を捉えることは難しくない。[1970年代のロックバンド] イーグルスが当時歌っていた通り、[ロード・アイランド州] プロビデンスには「旧世界の影が空中に重く垂れ込めている」のだ。今日のプロビデンスの通りを歩けば、そこでははっきりとした半ヨーロッパ的雰囲気を味わえるだろう。20世紀の都市再開発による破壊を逃れたランカスター、ペンシルヴァニアなどの古い町並みでは、より強くその雰囲気を感じられる。

西へと進んで山脈へ至りそこを超えると、そのような雰囲気は完全に消える。それを置き換えるのは、何らかの未だ素[す]の、未完成の感覚であり、ショッピングモールと分譲住宅地の下をうごめく暗く静かな土壌である。何らかの成就へ向けて不器用に到達しようとしているものの、その成就の形は未だ明確になっていない。それが作家と詩人たちがアメリカ内陸部で何世紀もの間感じてきた感覚だ。フロンティア拡大の時期には、この感覚はヨーロッパアメリカ人の入植の広大な可能性への自覚として理解 (あるいは、私の考えでは誤解) されていた; 後のアメリカ帝国の全盛期には、ヨーロッパ化した世界に平和をもたらす普遍国家としてのアングロ-アメリカ帝国を夢見る集合的白昼夢と混ざり合った。

フロンティアは1世紀と四半世紀前に閉ざされ、私がこれを書いている間にも世界の大部分でアメリカ合衆国の一時的ヘゲモニーは終わりを迎えつつある。しかし、アメリカの大地のさまざまな場所を歩く間に、私は同じ胎動を感じられた。アーネスト・トンプソン・シートンがエッセイの中で生き生きと描写した「バッファローの風」、ロビンソン・ジェファーズが詩の中で力強くうたった未来をはらんだ土地の感覚。私はヴォルガ川の川沿いを歩く機会に恵まれず、土と風のなかに何らかの類似の蠢きが、異なる大文化の表現へと至る予感が感じられるのかは分からないが、しかしきっとそこに存在するだろうと私は確信している。

我々がアメリカ合衆国で今現在目撃している政治的けいれんは、ヨーロッパの擬形態が揺さぶられることによるプロセスの一部である。我々のインテリゲンチャの大多数がこれに酷くショックを受けているのは驚きではない。けれども、なぜあれほどの多数のインテリゲンチャが、甘やかされた2歳児のような終わりなき癇癪が意味あるまたは効果的な反応だと考えているのかは、私にはよく分からない。(今日、前衛的なサークル内で、感情を表現する演技が流行しているからではないかと思う。) この先の何年かにも、彼らには金切り声を上げる機会がたくさんあるだろう、またお祝いの機会もあるだろう; 我々が議論しているプロセスは、数年、あるいは一人の生涯の間にさえ達成されるものではない。けれども、歴史的な根拠から判断すれば、通常のタイムスケールとごく近いうちに、通常通りのやり方で演じられるだろう。

我々は、死と難産のインターバルを生きている。この先の記事で、そのインターバルの残りの期間がどのように進んでいくのかについて話そう。

翻訳:アメリカとロシア: タマヌースとソボルノスト (ジョン・マイケル・グリア)

以下は、ジョン・マイケル・グリアによる"America and Russia, Part Two: The Far Side of Progress" の翻訳です。

パート1, 2はこちら



America and Russia: Tamanous and Sobornost

この連載の最初の2つのエッセイでは、オズワルト・シュペングラーのビジョンのフレームワークを説明した。それは、偉大なる諸文化が勃興し、それら自身の可能性を通して活動し、ひとたびそれらの可能性の限界に至ると化石化するというプロセスである。この歴史観は、西洋工業社会、シュペングラーが命名したファウスト文化で育った人々の間に、かなり確実に深刻な不快感を起こすだろう。ファウスト文化とは、西暦1000年ごろに始まった西・中央ヨーロッパで生じた偉大なる文化であり、一時的に全世界を支配している文化である。ファウスト文化の人々は歴史を、これとは異なるかなり単純な方法で捉えることを好むからだ。

ファウスト文化の世界観からは、世界の文化がそれぞれ独自の可能性、独自の価値観や洞察および世界の捉え方を持ち、いかなる単一の軌道にも縮小させられないということは理解不能である。ファウスト文化の世界観では、人間にはごく限られた範囲の可能性しかなく、それはファウスト文化自身によって定められるものである; それ以外のすべての文化は、ファウストのモデルに近付くための不完全な試みとしてしか見られない。相異なっていても同等に正当な、複数の価値観と洞察と世界の捉え方が存在するなどということは、考えられない; 単にファウスト的な方法のみがあり、それは自明な真実である。それ以外のすべての方法は、迷信であり、暗愚であり、明白な誤りである。(今日の西洋文化圏のエリートの価値観を共有していないからといって、過去世代の作家を非難する"イデオロギー的に正しい"文学批評家を見てほしい。この種の直情的な自己中心的思考が不名誉なほどに満開に開花していることが見られるだろう)

まったく同様に、ファウスト文化的な精神を持つ者にとっては、歴史が勃興と滅亡の異なる軌道の連続で構成されるという考え方は受け入れられない。唯一の軌道のみが存在し、それは洞窟の野卑と無知から始まり、自身と他者の差異に基づいて判断しまたは願望を発見して様々な文化的な形を探し回る。そしてその後、ついに唯一の真なる進歩の道を見つけ出し、宇宙進出の必然的運命へと向かって自信満々に上昇していくのである。ゆえに、シュペングラーのアイデアがほぼ確実に引き起こす反応が、狂ったほどに若さの幻影に執着する中年の人々の集団に対し、全員がすぐに老いて死ぬのだと指摘した場合と似た、神経質な笑いに続く怒りの反発であることはまったく驚きではない。

ファウスト的ビジョンを真に信じる者たちがたった今直面している問題は、逆に正確に世界がもはや彼らの夢想を満たすものではないということだ。いくつかの狭い分野でテクノロジーの発展は続き、独自の可能性を通して働いていくだろうが、西洋世界の現代的生活を形作る人工物の大半は1世紀またはそれ以前に描かれたパターンに沿っており、実質的な生活水準の広範な低下はここ数十年進行中である。また、最近一番激しく喧伝された勝利のいくつかは、既に手の届かないところへすべり落ちている。来年 [注: 2019年]、我々は人類最初の月面着陸から50周年記念を祝い、自尊心を満たすごまかしをたくさん得られるだろう; どれだけの人が、来年は人類が最後に月に足跡を残してから45周年となることを、あるいはそれ以来誰一人として低地球軌道を超えていないということを記憶しているのだろうかと思う。

近年の20世紀中盤の未来ファンタジーのあらゆる定番ネタの焼き直し --宇宙旅行、空飛ぶ車、ロボットによる人間の労働の代替やその他もろもろについてハッタリめいた与太話は、私の子供時代のマンガ本やペーパーバック本でさかんに取り上げられていたものだ --これらは、バーコードヘア、フェイスリフト、バイアグラやボトックスとの文化的な同等物と見なせるだろう。老人が、自身はもはや保持していない若さの残骸に執着し、老化とはただ自分以外の人々だけに起こるものだというフリをするための狂気じみた試みである。同じ動機により、大学は西洋文明の芸術的・文化的遺産の研究を放棄している: これらを最近のエピゴーネンと比較してほしい。そうすれば、アンディー・ウォーホルとジョン・ケイジが、たとえばレンブラントやバッハからの何らかの進歩を体現しているのだという主張が、どれだけバカげているかが不愉快なまでに明白になるだろう。

星々へと向かう偉大な進歩の行進は今でも継続中だという安易で空疎な主張を超えたところでは、それに反する根拠の山が成長を続けている。そこで、シュペングラーのビジョンは遠い将来を理解するための意味のある方法を提供する。歴史の循環的性質について論じた他の古典的な著者たち--ジャンバティスタヴィーコとアーノルド・トインビー--と同じく、シュペングラーは未来を垣間見る鏡として過去を捉えていた: 創造的ポテンシャルの疲弊; 永続的な正典を生み出すための過去の科学的、文学的、芸術的アチーブメントのふるい分け; 不可逆的な経済的・政治的衰退の到来、それ他のもろもろ。

その軌道の向こう側には、独自の価値観と洞察と世界の捉え方を備えた、新たな文化の出現がある。過去1世紀程度の思想家は、ファウスト文化の故地であるヨーロッパ東西の地域に平行して、そのような新たな文化が2つ出現する可能性が高いと指摘している: ヨーロッパロシア、特にヴォルガ川沿岸; そして、アメリカ北東部、特にオハイオ川沿岸と五大湖を含む領域である。私の考えでは、これらを考察し、未だ誕生していない大文化の形を想像してみることには意義があると思う。

アメリカとロシアの間には特筆すべき共通点が存在し、またそれと同じくらい重要な差異も存在する。共通点から始めよう。両者ともに、拡大するファウスト文化が、かなり単純なテクノロジーを使い自然界と安定した関係を保っていた部族文化と相対した境界地帯に発生した。北米とシベリアの部族文化は、今では消滅したベーリング地陸橋を通じて遺伝的・文化的に関連を持っており、またそれらの部族文化を部分的に奪い、部分的に吸収した拡大するファウスト文化ヘの影響は、重要な共通点である。更には、フロンティアの経験がある。ヨーロッパの限られた地平線からは決して得られない、信じがたいほどに広大な空間との出会いは、両方の文化を類似の形に作り上げた。

同時に、2つの文化の遭遇を区別する重要な差異、そして双方が極めて重要な場所を占めている広い歴史の中での決定的な違いがある: 時間の差異である。ロシアの偉大なフロンティア拡張時代は、16世紀から17世紀に起こった; アメリカでは18世紀から19世紀である。より一般的には、ロシアは英語話者の北米よりもはるかに長く一貫した文化的実体を備えている。ロシアは、外国からの文化的影響の最初の波を受け取れるほどに古い--シュペングラーの用語で、その最初の擬形態は--ビザンツ帝国を通じて中東のマギアン大文化の影響を受け、西ヨーロッパのファウスト文化からの2番目の影響を受けたのは、大西洋沿岸のヨーロッパ植民地が最初の存在段階を過ぎた時期であった。アメリカは、一方で、未だ最初の擬形態の末期にある。2回目の擬形態が独自の文化的形態の出現を促すまでには、何世紀かを経る可能性が高い。

時間の差異は、より大きな差異に対応づけられる。それは場所に関連している。シュペングラーの分析が強調する点として --そしてこれは、彼の研究の中でファウスト的な感性を最も強く批判する傾向にあるものだが-- 特定の大文化のあり方は、世界の特定の場所に結び付けられており、他の土地への移植は決して成功しないという点が挙げられる。たとえば、ファウスト文化のホームグラウンドは西・中央ヨーロッパであり、その領域外部で文化的形態や政治的支配を確立した場合の結果は、必然的にファウスト的エリート文化が非常に異なった文化的基盤の上を覆う形となる。我々が議論しているプロトカルチャーの両方でも、これが働いていることが見られるだろう; ニューヨークでもサンクトペテルブルクでも、インテリゲンチャと特権階級はヨーロッパ文化の動きの影響を受ける; 権力中枢から離れたオハイオ川とヴォルガ川の土手に沿った農村では、ヨーロッパの化粧板は仮に存在したとしても非常に薄く、田舎の土 (と魂) のより深いところに根を張った何かが表層に現れている。

聡明であるが無視された研究 『神は赤い [God is Red]』で、ネイティブ・アメリカンの哲学者ヴァイン・デロリア・ジュニアは、場所のスピリチュアルな重要性について長く論じている。場の重要性は、マギアン文化が暗黙的に理解していた--マギアン的な宗教は必然的に、特定の、地理的に特異な巡礼の中心地へと向けて配置される--しかしこれはファウスト文化がまったく理解できないことである。ファウスト的な精神にとって、ランドスケープとは英雄的な個人、その行いがファウスト的神話作りのパンとバターであるような個人の創造的意思に上書きされるのを待つ、空白の石版である。ファウスト文化では、場所ではなく空間について語ることが好まれることに注意してほしい: 独自のキャラクターと特性を備えた局所的な位置ではなく空白であり、少なくとも想像力の中では一時的にいかなる目的にも使えるようなところである。

あらゆる文化には盲点がある。これが我々の文化の盲点である。カール・ユングは、アメリカを旅していたとき、工場から労働者が出てくるところを眼にした。ユングのヨーロッパ人としての眼には、群集のメンバーの多数がはっきりネイティブ・アメリカンであるように見えた。そして、おそらくそこには一人もネイティブ・アメリカンは居ないとホストが主張するのを聞いて、ユングは驚いたのだ。両者とも正しい。土地は--あらゆる土地は、そこで生まれ育った人々の身体、行動および思考に独自の刻印を残す; ヨーロッパ人になろうとするアメリカ人の試みは、数世紀もヨーロッパで物笑いの種となっている。なぜならば、その結果は常にヨーロッパ人の耳には間違って聞こえるからだ。まったく同じことはヨーロッパ化されたロシアにも当てはまるが、ミスマッチのディテールは異なっている。ロシア人は異なる土地からの刻印を受けているためだ。

歴史と文化のディテールを反映したこの刻印により、我々が議論している2つの大文化の形態を垣間見ることが可能となっている。

それぞれ大文化は、シュペングラーが示した通り、独自のテーマに相当するものを保持している。その文化が重要と見なす問題を抽出し、また解決策へ向けてリソースを展開するための中心となる概念である。ファウスト文化の中心的なテーマは、無限の拡大である。新たな政治的大義や新たな食事法を思いついたファウスト的な思想家が、誰もが、どこであれ、その大義を受け入れてその食事を取らなければならないと主張することに気がついただろうか。我々の技術的な能力が、距離を消し去るための探求に強迫的に注力していることに気がつくだろうか; 横帆船から鉄道から自動車から飛行機からロケットに至るまで、腕木通信からテレグラフからラジオからテレビからインターネットに至るまで、すべてが直線を無限に伸ばすことに関連する。そこで、歴史のなかでただ我々の文化のみが芸術に線遠近法を使用していることは何ら驚きではない。

マギアン文化と比較してほしい。中東において何世紀も前に栄え、成熟し、永続形態へと定着した大文化である。マギアン文化の中心的テーマは、人間のコミュニティと神との間の関係である。ファウスト文化が外部の無限の空間へと向かう一方で、マギアン文化は内側へ、1人の特異な人間を取り巻く熱心なサークルを形成する。その特異な人間は、自身の言動を通して、天空からの同等に特異な啓示を伝えるのだ。使徒たちの中心にいるイエスや、教友の間にいるムハンマドを考えれば、基本的なイメージが掴めるだろう; アーサー王伝説のようなマギアン文化の擬形態であるような古典的作品にもそのテーマが反映されていることが分かるだろう。円卓の騎士たちの中心にいるアーサー王は、やや世俗化されたこのテーマを反映している。そうであっても、アーサー王の生涯の終わりからは、ファウスト的精神の最初の胎動を捉えられるだろう。彼は、墓の中で巡礼場所として仕える--マギアン文化の中心的人物の通常の運命-- のではなく、西の海を渡って消え去るのだ。「賢明な考えではない、アーサー王の墓[などというものは]。」と、古ウェールズ語のテクストは伝える。[19世紀イギリスの詩人] テニソンは、1000年後に同じテーマを反響させた。「深いところから深いところへと、彼は行く。」

他のあらゆる大文化にも独自の中心的テーマがあり、その基本的な存在のイメージを持っている。それらに興味を抱いた読者諸君は、シュペングラーの『西洋の没落』の中でディテールを発見できるだろう。しかし、ここでは未来に眼を向け、ロシアとアメリカの来たるべき大文化の中心的テーマを見てみよう。

もちろんここで言い訳が必要となる。私はロシア人ではない; ロシア文化に対する私の経験は、高校3年間のロシア語のクラス、その後のロシアの文学と歴史に対する若干の共感的な読書を通したものでしかない。私はロシアを訪れたことはなく、ユーラシア大陸の大ステップからヴォルガ渓谷を吹く風のささやきは、私の経験の外側にある。幸運なことに、未来のロシア大文化の形態についての疑問に取り組んできたたくさんの思索深いロシア人作家がいる。彼らの結論として、ロシア文化の中心的テーマは、英語では正確に対応する語が存在しない単語によって表現されている: ソボルノスト [sobornost; 露: Собо́рность] である。

もしも私がその概念を理解しているのであれば、--私が間違っていた場合には、ロシア人読者からの訂正を喜んで受け入れたいと思う-- ソボルノストとは、共有された経験と共有された歴史から生じる集合的アイデンティティである。それはマギアン文化の基本的テーマを提供する信仰コミュニティのように、上部から定義されるものではない。実際には、個人のアイデンティティの自然な実現のように、個別の人生のなかで有機的に育まれるものである。ソボルノストの文化では、各々の人の中心には、唯一の本質ではなく、全体との繋がりが存在している。伝統的なロシアの村落が連続した同心円として配置されていたのは、これが理由である。聖なる場所を中心として、その周りには家が、さらにその周りには庭があり、その外側を畑が、そして森が遠く離れたところまでを覆う: 村落のそれぞれの部分は、他者と形式的に等しくなるようなパターンで配置されている。

アメリカ大文化の最初の胎動は、今の時点ではかすかである--何ら驚きではない。アメリカ大文化の開花は、未来のかなり遠くで起きる可能性が高く、最初の擬形態を通り過ぎた後、2度目の擬形態が待ち構えている。そのかすかさを表しているのは、既にアメリカ文化をその他の社会から区別しているテーマを表現するための適切で明快な英単語が、未だ存在していないことである。土地はその基本的な影響力を放射し続けている一方で、人々はやって来て去って行くのだから、私はチヌーク族の用語を借用したい--北米大陸の北西部で使われたネイティブアメリカンの古い交易言語であり、かつてカリフォルニア北部からアラスカまで、太平洋からロッキー山脈の東側斜面までで話されていた言語である。それはタマヌース [tamanous] と言う。

ちなみに、tamanous は「tah-MAN-oh-oose」というふうに発音する。それは個人の守護霊であり、またその個人の幸運と運命である。非常に多くのネイティブアメリカン文化では、さまざまな伝統的実践を通して自身のタマヌースとの聖なる関係を発見し確立することが、人が取り組む第一の宗教的な行為である。またそれは成人となることの本質的な一部であるため、ほとんどの人々が当然のこととして行う。その結果は、他の誰とも似ていない宗教的なビジョンであり、ある個人と、同等に特異な個別のスピリチュアルな力との間のパーソナルな関係が舞台の中心を占めるものである。

私はかつてワシントン州エヴェレットの北にあるネイティブアメリカン保留地で、宗教的なセレモニーに出席する栄誉を受けたことがある。太鼓の轟きに合わせて、参加者たち --コースト・サリッシュ族と関係のあるいくつかの部族の男と女たち-- は、自分のタマヌースのダンスを踊るのだった。どの2つのダンスにも同じステップはなく、同じ動作もない; 各々が、太鼓の力に捉えられ、自身の特別なスピリチュアルな庇護者の性質と、授けられた才能を表現する。それがサリッシュ族の伝統的な信仰なのである -単一の包括的な力や組織化されたパンテオンではなく、スピリチュアルな存在との個人的な関係の輝く発揮である。それを共有する人間と精霊以外の誰かにとっては、必ずしも関連性があるわけではない。類似のパターンは他の多くのネイティブアメリカン文化にも発見できる。

アメリカの宗教史を見れば、マギアン擬形態の最後のスクラップから同じパターンが形作られているのが分かるだろう。伝統的キリスト教では、個人は普遍的なキリストの身体である教会の一部であり、共有された教義と実践により結び付けられている。アメリカにおいては、植民地時代でさえこれは壊れ始めており、イエスとの個人的な関係への注目と聖典の意味への個人的な直感によって置き換えられた。これはアメリカ土着版のキリスト教であり、パーソナルな変容を通して、イエスを自身の個人的守護者として捉えることを信徒に求めるものである。世代を経るごとに、それはクリスチャン的なビジョンの探求とますます類似のものとなっていった -そして、個人的な守護者とタマヌースとの間に何か違いはあるのだろうか?

より一般的には、西洋のファウスト文化から最初のはっきりとしたアメリカ文化の胎動を示す断層線は、すべて個人の自由リバティファウスト的精神に蔓延した力への意思との間の衝突に関わるものである。ファウスト文化の神話的ナラティブはすべて、真実を知るビジョナリーな個人と、彼の考えを強制的に受け入れさせられる必要がある無知で迷信深い大衆との間の衝突にまつわるものである。ファウスト文化の擬形態が支配しているところでは、ロシアでもアメリカでも、必然的に教育を受けた知識人のエリート階級が形作られる。彼らは、反抗的な大衆をいじめて威圧し、最新のファッショナブルなイデオロギーとなったものを毎週のお説教で受け入れさせようとする。

今から数世紀の間のロシアでは、そのような軌道はソボルノストのブロック塀と正面衝突するだろう。独自の永続的なパターンを復活させるため、ヨソ者の思想を脇へと押しやる強固で猛烈な反駁不能な集合的アイデンティティである。もしもシュペングラーと前述のロシア人思想家たちが正しければ、ファウストの擬形態の時代はほとんど終わりかけている。次の数世紀には、新生のロシア大文化がヨーロッパの遺産を揺さぶり、あるいは徹底的に再利用して、完全に異なる人類と宇宙のビジョンを打ち立てるだろう。そこでは、ソボルノストが中心的なテーマとして現れるはずだ。

そしてアメリカは? 我々はもっと長く進まなければならならず、別の擬形態を通過する必要がある。そうであっても、未来のアメリカ大文化の胎動は我々自身の時代にあっても追跡できる。というのは、ファウスト的思想を頭いっぱいに詰め込んだインテリゲンチャは、ロシアで発見できるのと同じくらいに、腹立たしいほど異なる人類と宇宙のビジョンと衝突しているからだ。蒙昧なる大衆に真実を啓示するビジョナリーな個人の役割を訴えようとする人々に対して、大衆は「それがあなたの真実であるならば、それに従えばいい。それは我々の真実ではない」と頻繁に言うようになっている。逆に、ダンスする民衆の側を詳細に調べてみると、どの2人も同じステップを踏んでおらず、同じ動作をしていない。

あらゆる人への1つの正しい道はない。それが、アメリカの大地がそこに住まう人にささやいてきたメッセージである。あるいは、メッセージの一部である。これはあらゆる人へ向けたメッセージではない--もう一度言えば、それぞれの大文化には独自のテーマがあり、未来のアメリカ大文化の中心テーマは、それ以外の文化によるテーマと同じく、普遍的なものではない。今から1000年後、ソボルノスト文化とタマヌース文化間の不整合は、巨大な政治的現実と化すかもしれない。ちょうど、西暦1600年ごろのマギアン文化とファウスト文化との間の基本テーマの解決不能な衝突のように。それでも、しばらくの間はこのメッセージは注目に値する。

唯一の真なる信仰というマギアン文化の伝統と、ひとたび発見された真実は何であれ宇宙の限界まで拡張されなければならないというファウスト文化の主張への未練がましいノスタルジアの間では、それは多くのアメリカ人が耳を傾けることが困難なメッセージである。けれども、アメリカ人たちは過去3世紀の間にますますそのメッセージを聞くようになっている。アメリカのファウスト擬形態が壊れて海へと帰っていくにつれて --ちょうど今、クリティカルな段階に達したように見えるプロセス-- そのメッセージは広がっているように見える。あなたは自分のタマヌースの働きかけに従うことができ、私は私自身のタマヌースに従うことができる。そして、我々が同じダンスを踊っていないという事実は、我々2人にとっての関心事ではない。

その認識は、政治的・文化的に重大な含意を持つ。この先の数週間で、それらのうちのいくつかを描き出したいと思う。

西洋の没落 I (中公クラシックス)

西洋の没落 I (中公クラシックス)

西洋の没落 II (中公クラシックス)

西洋の没落 II (中公クラシックス)