Going Faraway

渡辺遼遠の雑記帳

翻訳:ケク戦争 Part1 貴族制とその不満 (ジョン・マイケル・グリア)

以下は、ジョン・マイケル・グリアによる"The Kek Wars, Part One: Aristocracy and its Discontents" の翻訳です。


The Kek Wars, Part One: Aristocracy and its Discontents

2016年の大統領選挙キャンペーンが最高潮に達して以来、この選挙キャンペーンの最も奇妙で興味を引く側面について、私に何か書いてほしいというお願いを毎月のように受けていた: すなわち、マンガのカエルの旗印のもとへ短期間集合した、右派オカルティストの緩い集まりが選挙において果たした役割である。そこそこの数の読者は、おそらく、カエルのペペ、古代エジプトの神ケク、1980年代のユーロポップソング「シャディレイ」、そしてまとめて「ちゃん[ねる] [the chans]」として知られるオンラインフォーラムの集まり -- 4chan.org, 8ch.netなど -- と、ドナルド・トランプの勝利との関連に対する謎めいた言及に遭遇したことがあるだろう。ご存知でない方は、この先は険しい道のりになるかもしれない。

ケク戦争と私が名付けた事象への記事化のリクエストの奔流がやって来たとき、最初は返事をするまでしばらく待っていようと決めた。私の考えでは、1年かそこらで、敗北した側が敗北したという事実を受け入れ怒りも落ち着くだろうし、そうすれば何が、なぜ起きたのかについての理性的な対話を初められるだろうと思っていたからだ。2016年の選挙とその結果の興味深い特徴としては、負けた側の怒りが未だに収まっていない点が挙げられる。これはまったく前例の無いことではない。--後で見る通り、アメリカ史の初期にも極めて具体的かつ明白な前例が存在する。--しかし、それは何か尋常ではないことの発生を示す良い兆候である。

トランプ当選以来20ヶ月が経過した後でも、アメリカ政治の左端は未だメルトダウンを続けている。そろそろ先へと進み対話を試みる時期が来ているのではないだろうかと思う。何が起きたかを理解するためには、マンガのカエルとインターネットフォーラムとは直接関係が無いように見える背景も広くカバーしなければならない。ここでは魔術について語るつもりだが、魔術は常に政治的なコンテキストを持つのである。

魔術は、排除された者にとっての政治である。このような状況下では典型的な逆転であるが、排除する者にとっての政治でもある。後者のポイントはこのエッセイの後半で扱おう。今のところは、政治的プロセスへのアクセスを否定された者たちにとって、どうして魔術がデフォルトの選択肢となるのかを見ていこう。

大多数の人々が日々の政治に対して少なくとも小さな影響力を及ぼし、自身の要求が聞き入れられ不満が宥められる機会を持つ場合には、魔術は無視される傾向にある。ほとんどの人の影響力が限定されており、他の人間が彼らより大きな力を持っていても、これは正しい。たとえば、アフリカ系アメリカ人の民間魔術の黄金時代は、1900年から1945年の間であった--南部で最も荒々しくジム・クロウ法が執行されていた時代、そして、南北戦争後にアフリカ系アメリカ人に理論上与えられた市民権を否定するため、様々な制度装置が利用されていた時期である。-- そして、それらは奴隷時代のアフリカ系アメリカ人によって形作られた魔術の伝承の上に作られたのである。アフリカ系アメリカ人が政治権力に対していくらかアクセスできた時代、1865年から1900年のレコンストラクション *1 の目覚めの時代、そして1945年から今に至るまでの公民権運動の目覚めの時代には、魔術に対する関心は薄れたのである。

もしもオペレイティブ・メイジのように魔術を理解していれば、これは完璧に理解できるだろう。(オペレイティブ・メイジとは? 魔術を実際に実践する人間であり、単に魔術を理論化するスペキュレイティブ・メイジの反対語である) 20世紀の偉大なる魔術師、ダイアン・フォーチュンの言葉によれば、魔術とは意思に従って意識に変化をもたらす技芸アート理論サイエンスである。もしも、他の権力の源へのアクセスを否定されたとしても、なお自分自身の意識に対しては力を行使できる。それだけではない。自身の意識に変革を起こしその能力に習熟すれば、自分自身の思考と感情を形成するテクニックは、他者の思考や感情を形作るためにも利用できる。対象者の同意や認識のあるなしにかかわらずである。それゆえ、自身の目的追求や不満の救済に対処する方法を否定された者にとって、魔術は論理的なフォールバックオプションとなる。

魔術が人気を博す時期とは、つまり、通常よりも多数の人々が、不満の救済のために社会が提供するあらゆるメカニズムから排除されている時期である。ここでは、よくある二分法、たとえば民主制vs.独裁制について語っているのではないということが重要である。有能な独裁者は、被支配民の要求と要望を知るためにさまざまなチャンネルを確保するものであり、また、体制を脅かさないような被支配民の要求と要望を即座に満たすことも非常によくある。これが、ナチスが新しい一連の国立公園を建設し、非ユダヤ系ドイツ人に対して有給休暇を導入し、またイタリアのムッソリーニ体制が雇用者に対して労働者の定期昇給を義務化した理由である。この2つの国の多数派が体制に対して忠誠心を保っていた理由はまさに、少なくとも民主体制下と同程度には、自分たちの非政治的な不満が聞き入れられる機会があると知っていたからである。

この点においては、民主制においても、大多数の人々から政治システムに対する影響力を奪い、要求と要望を聞かせることを不可能にするのも可能である。これにはさまざまな方法があるが、ここ1世紀ばかりで最も人気がある手法は、マーガレット・サッチャーによる有名なスローガン「代替策はない」という便利なラベルを付与することであろう。代議制民主主義体制の政治的エスタブリッシュメントが、ただ1種類の政策セット以外は思考可能ではないと定めれば、またすべての主要政党がその政策セットに署名すれば、通常の場合、代替策に対する議論を封じ込めることができる。たとえ、その政策が人口のほとんどに破滅的な結果をもたらすとしてもである。

これは社会的な階層流動性があっても可能となる。当該の政策に対する合意を、影響力と富へのアクセスに対する要件とする限りは。教育制度はこのフィルタリングプロセスの典型例である。中華帝国で生まれ、科挙のメンバーシップを通した影響力と富を熱望する人であれ、大英帝国で生まれ、高等文官のメンバーシップを通した影響力と富を熱望する人であれ、あるいは現在のアメリカ帝国で生まれ、どこかの企業ヒエラルキーのメンバーシップを通した影響力と富を熱望する人であれ、同じ法則が適用される。自身の野心を成就するチャンスは、いかなる思想であれ、上位者が望む思想に対してどれほど揺るぎない忠誠心を示せるかに依存する。そしてその思想とは、上位者の権力を維持するものである。

既に多少触れた通り、アメリカ、あるいは広く言って西側工業諸国にもこれは当てはまる。特権階級、彼らの下僕と取り巻き連中、そして影響力や富を求める者たちの間では、承認される政治、経済、社会、文化的な態度の範囲は極めて狭く、厳格に定義されている。影響力と富を持つ人間は、時々はそれらの規範に違反し逃れることもできる。ただし、ライバルの誰もが、彼らの逸脱を武器として用いることを決断しない限りにおいて。けれども、影響力と富を持たず、それらを得たいと望む人々は、自身のライバルと上司にも監視されていることを知り、言葉と行動に細心の注意を払う必要がある。その試験に合格し、彼らの上位者が認める才能と技能を持ち、また古風な幸運の女神の助けを通常よりも多く受けている人は、産業文明の貴族階級の最下層へ参入を望むことができる。

エス、このような文脈で「貴族制」という言葉が使われることは多くないことは私も理解している。しかし、ここから学べることは少なくない。この用語自体が示唆するように--貴族 [aristcracy] という言葉は、ギリシア語のアリストイ [aristoi]、 「最良のもの」、および クラテリア [krateria]、「力、支配」から成り立っている-- 貴族とは、自分たちが支配者である理由は、他の人々よりも自分たちが優れているからだと信じる人々の集団である。

今日の英語の「noble [気高い]」、「gentle [紳士的]」といった語の意味を考えてみよう。元々は、これらの語は単に「上層階級に属している」という意味しか持たなかった。同様に、「churl [下衆]」や「villan [ごろつき]」という語の意味を考えてみよう。元々は、これらの語も「下層階級に属している」という意味しか持っていなかった。このような言語史のディテールが、今説明した標準的なパターンを表現している。あらゆる貴族は、自身が支配する人々よりも道徳的に優位であると信じるようになる。貴族たちは、必然的に自分自身を良い人間であり、道徳的に徳が高い人間であると考え、必然的に、自身の善性を他階級の人間へと示すために、また一般大衆を排除するために使用される美徳誇示の凝ったコードを作り上げるようになる。

この排除の問題は高い重要性を持つ。あらゆる貴族制は、誰を排除するかによって定められる。しかし、何を排除するかという観点から定義されているかのように装おうとする。実際にいかなる条件を排除の基準として用いるのかは、文化ごとに、また時代ごとに異なっている。せいぜい100年程度前まで、アメリカの貴族は性別と人種のマーカーによって厳格に定められていた。権力の最高位サークルは、異性愛者の男性、ヨーロッパ北西部出身の祖先を持ち、その文化的背景は圧倒的にアングロアメリカ的で、日曜日には聖公会 (あるいは、もっと珍しい場合はメソジスト教会) に通う者たちに限定されていた。

時が経ち、アメリカの貴族が才能ある者をあまりに排除しすぎる危険性に捉われるようになると、排除の条件は変更された。20世紀を通して、人種・性別マーカーは、ある程度までは政治的・文化的なマーカーにより置き換えられた。それでも、権力の最高位サークルに位置する人々は、1900年における等位の者達とほとんど異なっていない -- 時々はアメリカ上院議員の集合写真を見てほしい。女性と民族的マイノリティのごく少数は、彼らと同等の地位にまで登ることを許されるようになった。--彼(女)らが、すべての"正しい"意見を受け入れて、直近の祖先が持っていたであろうあらゆる民族文化を、ごく薄い化粧板を除き、すべて洗い流す限りにおいて。

一般大衆を排除する方法の探求は、極めて大きな影響を持っている。20世紀全体を通して、アメリカの画家、彫刻家、作曲家その他の芸術プロデューサーは、19世紀の先人たちが保持していた膨大な観衆を追い払うため英雄的な努力を注いだのである。19世紀には、美術ギャラリーのオープニングや新しいオペラの封切りは一般大衆の関心と後援を引き付けており、美術家たちも意図的にその線に沿って成功を訴えた。19世紀後半のオペラ作曲家の一人、ジュゼッペ・ヴェルディは、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場の総支配人となった者に、批評家を無視して興行収入に細心の注意を払うよう忠告した。

その後何が起こったのだろうか? 少なくともアメリカでは、芸術は、貴族たちが自身を大衆と異なる存在として定義するための排除の手段となったのだ。教育を受けた人が賞賛しうる絵画は、芸術家のキャリアにおける死神のキスとなった。権威あるショーと金銭的な報酬をもたらしたのは、2度見ると犬の朝食のようにも見える芸術作品であった。なぜならば、エリートのサークル外では誰も、それが理解できるというフリさえしていなかったからである。その頃、若き作曲家は、聴衆が聞いて楽しめる楽曲を作ることは、どんなものであれ避けるようにと教えられていた。メロディーも、トーンもなく、専門家の狭いサークルの外には何も訴えることのないような曲を。一般大衆に我々の音楽を楽しませてはならない。

20世紀を通したこの種の操作により、ただ特権階級とその取り巻きと下僕以外は誰も芸術に注意を払わないまでに至った。それで、ただ特権を持つ者だけがアンディ・ウォーホルの絵画、ジョン・ケイジの音楽、その他同種の芸術作品について語り、カーストマーカーと自身のステータス誇示のため使ったのである。お気付きの通り、この時点において、美術学校、コンサーバトリーその他における観衆を追い払う方法の追求は、特権階級の人間のほとんどをも追い払うまでの傾斜に達した。今日の画家、作曲家、その他芸術家は、ただ身内と、ほとんどがアカデミックシーンに属するごくわずかな観衆に向けて創作している。芸術とはコミュニケーション行為であり排除の手段ではなく、また観衆へと意図を伝えるのは芸術家の仕事である。-- 不明瞭で魅力のない作品から含意やその他の意味を読解するために格闘することは、観衆の仕事ではない。それを芸術家が思い出すまでには、おそらく、学生ローンバブルが弾け、それと共にアメリカの高等教育の大部分が失われるのを待たなければならないだろう。

これは、アメリカの貴族および西洋産業諸国における同等の者達が、自身以外の社会全体に対して階級を閉鎖するために取った方法の、ほんの一例にすぎない。過去40年間にわたる魔術の劇的な普及は、私が示唆した通り、そのような階級的閉鎖に対する直接的な反応である。もう一度言うと、人々は、自身の要望と要求を追求する手段がないとき、あるいは自身の不満を聞き入れさせる方法を持たないとき、魔術へと向かう。ポジティブシンキングの福音が埃を払われ再び流通した理由、ウィッカのような魔術を中心とする宗教が前例のない規模の人気を獲得した理由、また由緒正しき西洋のオカルティズムが、ルネッサンス終焉以前例のないほどの全盛期を迎えている理由は、西洋の工業諸国の特権階級が自己参照的バブルの中へと閉じ込もった結果なのである。この結果については、本連載の後の記事で扱おう。

ここでは、しかし、方程式の片側のみに集中し、たった今言及した自己参照バブルの住人である貴族についての話をしたい。そのような自己参照的バブル中への撤退は、貴族にとってありふれた職業上の危機であり、貴族が自分自身の後継者を意図せず育てる最もありふれた方法なのである。残念なことに私はこの歴史家の名前を忘れてしまったのだが、ある歴史家は、中国史の長いリズムを表現して、絹のスリッパが静かに下へと下降するのに続いて、甲冑のブーツが階段を上へと行進する、と述べている。これは完璧なイメージである。そして、これは中華帝国の歴史に限らない。

あらゆる貴族制は、先代の支配エリートたちがあまりにも長い間無視してきたリアリティを受け入れて立ち向かう、タフで有能な個人の集団によって開始される。彼らはリアリティを破城槌として用い、現状維持の扉を打ち砕き、前任者のあまりにか弱い手からその権力を奪取する。新たな貴族たちは、自身のサークル外の世間と接触を保ち、被支配民に対して実効性のある形で不満を救済する手段、および、要望と要求をコミュニケートする手段を提供する限りは、権力の座に留まるだろう。-- けれども、このような不可欠のコミュニケーションから撤退し、支配下の民の要求に対して耳を閉ざしたとき、貴族はみずからの死刑執行令に署名することになる。

現代アメリカの管理貴族もまったく同等の軌跡を辿った。大恐慌という 危機の時代に旧来の貴族から権力を奪取したのは、フランクリン・ルーズベルトが、非暴力的な旧権力の包囲への先鞭を付け、破綻した社会的・経済的な正統性の把手を破壊したときであった。ルーズベルトが作り出すまでは代替策はなく [There Was No Alternative]、彼の目覚めにおいて新しい官僚と知識人の幹部は権力の把手を握り、アメリカの生活の確立された確実性のトップに立ったのである。第二次世界大戦と冷戦初期における国際的な裸拳の打撃戦は、新たな貴族階級という製粉器に穀物を供給した。そして、戦争が最優先事項である時期には、いかなるところであれ特権階級サークル外の人々の不満と要求に注意を払うことは常識にかなっていた。

2000年代頃に進むと、この同じカーストの構成員たちは、ニューディール時代以前のエリートたちとまったく同じ罠に陥っていた。更には、彼らが打ち倒した前任者と同様に毒性の社会的・経済的な正統性を抱いていた。更に悪いことに、彼らは前任者と同一の誤りを犯している。あらゆる人々の犠牲のもとに自身の利害を押し進める政策に対して代替策はないと確信しているのみならず、道徳的にも代替策はないと信じているのだ。

問題の政策とは? さまざまなものが存在するが、三層のコアは、中央集権への転移、経済的グローバリズムと無制限の違法移民である。1932年以来の連邦規制のおびただしい増殖は、小規模ビジネスを窒息死させ、大企業と政府官僚へと富と権力とを移転させた; 貿易障壁の撤廃は、何百万という労働者階級の雇用のオフショアリングを推奨した。主流派のメディアは、決して雇用の代替は起こらず、また決して雇用代替も意図していないと延々と主張していたにもかかわらずである; 無制限の違法移民の暗黙的奨励は、言及する価値すら持たない非市民の広大な下層民を創り出し、非人道的な条件のもとで飢餓的賃金で雇用され、結果として労働者階級の雇用の全範囲に渡って労働条件と賃金の低下をもたらした。

これらの政策の帰結について私は何度も議論しているけれども、ここで再び繰り返しておく価値があるだろう。1960年代には、労働者階級の1人分の収入に頼る4人のアメリカ人家族は、住居、自動車、1日3回の食事、その他すべてのまともなライフスタイルに要求される品々を購入することができた。2010年、その50年後には、1人の労働者階級の収入に頼る4人のアメリカ人家族は、路上生活を避けるため苦闘しなければならない。もしも、既に路上で暮らしているのでなければだが。これは偶然に起こったことではなく、非人間的な経済の力による産物でもない。超党派の合意によって進められ、左右の政治的立場全体にまたがる特権階級によって裏打ちされた、特定の、容易に識別可能な政策による結果である。

善い人々、道徳的に徳の高い人々は、それゆえ、数千万人のアメリカ人を悲惨な状況に陥れた政策を熱心に支持したのである。その上、貴族制の通常のやり方の通り、自分たちが利益を享受する政策こそが唯一の道徳的な選択肢であり、それに反対する者は誰であれ意図的な悪意によって動機付けられていると主張した。エリート文化の自己参照バブル内部にいる人たちにとっては、すべてが単純に見えていたことだろう。特権を持つ人々の利害に沿った人々の苦しみは、すべてが重要であり対処されなければならず、特権階級を利する政策によって押し潰された人々の苦しみは、彼ら自身の過ちであり問題ではない。

このように考えることは容易ではない。実際のところ、このような考え方を持つためには、意思に沿って意識に変革を起こす技芸と理論 -- すなわち、魔術-- の、きわめて体系的な使用を要する。これこそが、特権階級外の人々がロンダ・バーンズの「ザ・シークレット」を読み、ウィッカを取り上げ、古典的な西洋オカルティズムに手を出して (あるいはのめり込んで) いた一方で、特権階級の人々も独自の魔術を取り入れていた理由である。これが、フォーチュン500企業が、高い地位にある従業員に対してマインドフルネス瞑想、あるいは元々の道徳的・宗教的内容を除去した軽くエキゾチックな精神的鍛錬を推奨している理由である。これが、裕福な人たちの間で、多くの同様に除菌化されたスピリチュアリティが広く蔓延している理由である。

文化批評家の中には、これらをあまり化学的ではない形態の精神安定剤トランキライザーであると批判する者もいる。そのジャブには鋭い点もあるものの、それが話のすべてではない。特権階級の魔術の存在意義は、その実践者に対して、世界に間違いは何も存在しえないこと、すべてはあるべき姿であるということ、そして、残っている問題でさえ、適切な時期に正しい改革がなされ、正しい人々が選出されたならば消え去るであろうと確信させることにある。これは不愉快なリアリティを排除して、快適にお過ごしいただけるツールなのだ。

しかし、ここでもまた、排除された不愉快なリアリティの数が増えるに従って、特権階級の魔術もますます蔓延していく。これが発生すると、今度は、既存の政治秩序のなかで自身の要求と不満を対処されない人々の数も増加していく。それゆえに、ある種の危機に直面した社会では、二重の魔術の盛り上がりを経験する。排除された者の間では、ものごとを変える方法として。特権を持つ者の間では、ものごとを変える必要性を隠す方法として。

2つの魔術が衝突するとき、ケク戦争が始まった。次回はそれについて語ろう。

*1:訳注: 南北戦争後の再建期

翻訳:オルト・ライト、コントロール・レフト、エスケープ・センター (ジョン・マイケル・グリア)

以下は、ジョン・マイケル・グリアによる"The Alt-Right, the Ctrl-Left, and the Esc-Center" の翻訳です。この記事は、2018年の7月4日、アメリカ独立記念日に公開されました。

The Alt-Right, the Ctrl-Left, and the Esc-Center

2016年の1月、ドナルド・トランプは次期アメリカ合衆国大統領となるだろうと私が予測したとき、彼の立候補はアメリカの政治と公共生活における潮流の変化となるだろうとも推測していた。それは私が予期していた以上に正しかったようだ。トランプ大統領が挑戦したのは、1980年以来この国を支配していた超党派のコンセンサス - ネオリベラル的な経済政策、ネオコンサバティブ的な対外政策その他のみに留まらない。トランプ大統領は、我々の国で最も影響力のある政治運動の1つを自滅的なきりもみ降下へと追い込んだ。通常その帰結は、歴史のゴミ箱への片道旅行である。

連邦最高裁判所判事アンソニーケネディの辞任に対するトランプの敵対者の反応が好例である。最高裁判所判事の指名権は、憲法が大統領に付与する能力のうちの1つである; その指名を承認または拒否する権利は、憲法が上院に対して付与する能力のうちの1つである。トランプは大統領であり共和党は上院の多数派であるため、彼らはケネディの後任を選定できる。マル。それで話は終わりだ。

ところが、これは民主党員の間の声の大きな少数派が、受け入れを拒否していることなのだ。メディアとブログ界の左端は、何らかの方法でトランプが憲法上の義務履行を停止するよう要求する声で満たされており、そこで、2014年と2016年の国政選挙で敗北した側が、いずれにせよ次の最高裁判所判事を選ぶべきであるとされている。これらの主張を唱える人々は、見たところ癇癪主義 [tantrumocracy] 国家に住んでいるつもりなのかもしれない。そこでは、自身の傷付けられた感情を最も声高に主張した者が、それ以外の人々に何をするべきかを指示するのだ。幸運なことに、彼らは間違っている。

この種の途方もない主張は、リベラル派の間では決して普遍的な態度ではないと指摘しておくのは公平だろう。それどころかその逆に、ここ数週間の間に聞いたところによれば、決して少なくない数の賢明なリベラル派たちは、過去1年半にわたって、仲間のリベラル派たちに将来の選挙で勝てる方法を採るよう説得の努力を続けているのだそうだ。- つまり、まず最初に、2016年の選挙に敗北した原因が何かを探り、そしてそれを止めることである。そして、敗因となった言動から抜け出し、民主党エスタブリッシュメントがあまりにも長い間無視してきた人々の支持を取り戻せるように、何らかの旧来の草の根運動を始めるのである。これらは、政党および政治運動が勝利を望んだ場合に果たすべきことであり、リベラル派の特派員たちがこれを指摘された場合に行うような激しい非難は、当該の声のデカい少数派の未来にはあまり適していないだろう。

その少数派には、独自の名前を付けておく意義があるだろう。少し後で議論する理由により、「オルトライト [Alt-Right]」という用語と同じく、コンピュータのキーボードのスラングから採った名前を再利用しよう。このフレーズを紹介してくれた、私のブログの定期的な読者である LeGrand Cinq-Mars に謝意を示しながら、ここで議論している人々を「コントロールレフト [Ctrl-Left]」と呼ぶことにしたい。

コントロールレフトは、その名が示す通り、リベラリズム権威主義的な派閥である。穏健な保守派の多くは、すべてのリベラル派がこのカテゴリに入るのだと主張しがちであるが、けれどもそれは大きな誤りである。個人の自由リバティに価値を置くリベラル派はたくさんいる。たとえそれが、リベラル派自身が好まないことを行う人の存在を意味したとしてもである。それが、もちろん、自由リバティに対する本当のコミットメントの礎石である。コントロールレフトは、そのコミットメントを共有していない。コントロールレフトの中核には、誰もが正しい行動を強制されるべきであるとする主張がある。 - ここで「正しい」と言ったのは、もちろん、コントロールレフトが述べる正しさである。他者に適用される必要はないのだ。

最近の、マスターピース・ケーキショップ対コロラド州公民権委員会事件*1に対する最高裁判所判決が、これを実証している。多数派の意見が正しく指摘している通り、結婚式へのウェディングケーキを望む同性カップルの権利と信仰上の信念から同性婚に反対するケーキ屋の権利は、古典的な個人の自由の衝突であり、両者の権利は保護される必要がある。対照的に、コントロールレフトは、同性愛者のカップルが正しくケーキ屋は純粋かつシンプルに誤っていると声高に訴え、ケーキ屋は自身の良心を無視して彼らに従うよう政府勅令により強制されるべきだと主張している。

我々の住む世界は、良き人々が各々複雑な道徳的問題に取り組んだ場合に正反対の結論に至ることもありうる世界であり、実際のところそのような状況は一般的である。過去2世紀半以上の間、ここアメリカ合衆国では、個人の自由こそがこれら難問に対するベストな解決策であるという認識へと、ゆっくりと歩を進めていった。ただし、ある個人による自由の行使が、他人に対して重大な害を引き起こさない限りにおいて - そして、他人から選択を非難されることは、重大な害であるとはみなされない。強烈な憤慨バットハートに対する名誉勲章パープルハーツは存在しないのだ。また、おそらく、同性婚カップルが別のケーキ屋からウェディングケーキを入手する必要があるということは、重大な害であるとは見なされないであろう。

まったく同様に、まったく同じ理由で、同性カップルが結婚するべきかどうかを定める権限を持つのは、ただお互いに結婚を考えている2人の人間のみである。というのは、2人の男性または2人の女性が互いに恋に落ち結婚を決断したとしても、誰も重大な害を受けていないからである。- ここでも、誰かからその決断を酷く非難されたとしても、それは重大な害ではない。- 同性婚を合法化した最高裁判所の決定は、アメリカのデモクラシーの最良の伝統に沿っている。

そこで、マスターピース・ケーキショップ対コロラド州公民権委員会事件の判決も同様である。同性婚の祝福が自身の良心に反する場合には、その人たちに対して政府が行動を強制することを禁じている。自由リバティとは、あなたが承認しないことも人々が行うことを意味する。それは同性カップルが絆を結ぶことを意味し、ケーキ屋がどんな種類のケーキを作るか作らないかを選択することを意味する。それは、自由を行使する人々が衝突することを意味するのではないか? その通りだ。裁判所や議会は、そのような紛争に対処するため、裁判や法律制定を任されている。それはゆっくりとした、煩雑で、誤りうる手続きであるものの、人間の簡約不能な強情さを扱うための方法としては、他のやり方よりも効率的に機能する唯一の方法であるように思える。

これは、ところが、コントロールレフトが受け入れることを拒否する考え方である。私もときどきそうする通り、リベラル派のオンラインフォーラムを度々訪れる人には既におなじみであろうが、コントールレフトの人々が、彼らが保持すると考えている徳性を定義し他人を従わせる排他的な権利に対して果敢にも挑戦する人間を、野蛮にいじめる行為を目撃したことがあるだろう。これは、古典的な権威主義者の振る舞いであり、政治的立場の反対側にいるハードコアな宗教的根本主義者たちとほとんど見分けがつかない。本当に自由リバティに価値を置く人にとっては心配の種だろう。

政治運動は、既に合意を得ている人々以外も説得する必要がある。その事実を忘れた場合、運動は道を見失うということは既に承知だろうと思う。それがトランプ就任以降にコントロールレフトに発生している状況である。以来、あまりに巨大な数の民主党支持者が、トランプに投票した人に手を差し伸べて、次の選挙で民主党に投票するよう説得することは完全に無理だと主張するようになった。なぜ? トランプに投票した者は全員、定義上、折り紙付きのナチであるに決まっているからだ。それが理由である。そう考えて、彼らはピンクの帽子を被っているかのように振る舞い、インターネット上で侮辱の言葉を叫び、甘やかされた2歳児の癇癪を連想させるような振る舞いで、選挙結果は覆されるべきだと主張している。もちろん、そんなことは起こっていない。更には、将来にもそれは起こらないだろう。彼らが未だそんな状態にある中でも、トランプの支持率は上昇し続けており、民主党候補が2018年の中間選挙で勝利する見込みは定常的に落ち込んでいる。

彼らの驚くほど逆効果的な戦略の背後には複雑で厄介な歴史がある。しかし、それは別の記事のテーマだ。ここで私が議論したいのは、コントロールレフトの連鎖的な失敗と、その運動の写し絵であるオルトライトが得た、かなり異なる結果の対比である。

「コントロールレフト」という言葉は「オルトライト」をモデルにしているものの、これら2つの運動の歴史的関係は逆の方向に進んだ。オルトライトは、コントールレフトより後に出現し、コントロールレフトをモデルにしたのである。思想史を学ぶ学生にはお馴染みであろう。旧来の悪魔主義者が、価値観を逆転させた上でキリスト教の前提すべてを受け入れたように、またアイン・ランドの客観主義が、マルクス主義者によって邪悪な資本家の属性とされたあらゆる性質を善きものとして受容したのと同様に、オルトライトは、コントロールレフトの社会正義ソーシャルジャスティイデオロギーに対して、ミルトンの悪魔のごとく「悪よ、なんじは我の善」と唱えた場合に得られるものである。

ゆえに、たとえばコントロールレフトは人種差別を嫌悪しているが、彼らが言う「人種差別」という語の定義は慎重に定められているため、そこには彼らが拒絶する人種的偏見のみが含まれている。オルトライトは、コントロールレフトの人種差別の定義を受け入れ、そこで定義された通りの人種差別を熱狂的に肯定するのである。人種という概念全体が、生物学的・遺伝学的な根拠を持たない時代遅れな19世紀の民族学の残りカスに過ぎない;  明るい色の肌を持ち、目に蒙古ひだを持たない人全員が「白人」に属するという主張は、[超大型犬の] ピレネー犬から [超小型犬の] ティーカッププードルまでの白い毛の犬すべてが「白犬」に属するという主張と同じくらい馬鹿げている。コントロールレフトが人種について語るのは、自分たち自身の問題、つまり階級的偏見とアメリカ労働者階級の搾取への関与の問題への直面を避けるためである。

こういった考えは、オルトライトのサークルではそれほど広がっていない。とはいえ、コントロールレフトにとっては、ヤツらが否定するものを全て肯定するというような単純な種類の反対よりもはるかに危険になるだろう。

けれども、ある重要な一点において、オルトライトはコントロールレフトを模倣していない。コントロールレフトは、既に合意していない人も説得する必要があるという事実を見失なってしまった一方で、オルトライトはそのようなハンディキャップに苦しんではいないのだ。更には、オルトライトは、ドナルド・トランプが選挙キャンペーンの最初期に学習した教訓と同じことを学んでいる。つまり、コントロールレフトは容易に自滅的な過剰反応へと追い込まれるかもしれない。

多くの事例の中から一つを挙げれば、大学のキャンパスのあらゆる場所に「白人であることは問題ない [IT'S OKAY TO BE WHITE]」と書かれた標語を掲げるという、オルトライトによる極めて巧みな戦略であろう。この標語に対するコントロールレフトの典型的反応は、細粒度に飛散するメルトダウンとでも言うべきもので、このような害のない言葉でもヘイトスピーチとみなされるべきであり、処罰されるべきだと主張するのである。コントロールレフト内部の視点からは、このようなメルトダウンが道徳的な徳性の適切な標示であることは疑いがない。外部の視点からは、コントロールレフトの中核的なイデオロギーである社会正義運動は、白人の人々に対する偏見によって裏付けられていると自白しているように見えるだろう。ゆえに、コントロールレフトは、彼らが非難する人々よりも道徳的に優れているわけではない。

これは巧みな戦略であることは確かだが、オルトライトのイデオロギーにまつわる他多くの問題点を埋め合せるものではない。その点において、オルトライトのような運動は決して広がりを持つことはないだろう。悪魔主義や客観主義が、それぞれキリスト教共産主義に不満を抱いた人を引き付ける周縁的な運動以上にはならなかったのと同じく、オルトライトも、コントロールレフトのイデオロギーに攻撃された人々が傷を舐め合う場所以上にはならないだろう。通常、悪しき思想の反対は、私が機会がある度に何度も指摘している通り、別の悪しき思想なのである。

それでは、代替は? ここアメリカでは、実際に政治的伝統が存在しており、それはオルトライトとコントロールレフトの双子の愚行を回避し、アメリカ社会の大部分を広大な絶叫勝負へと変化させてしまった苦く苦しい二極化から抜け出すための最良の方法を提供するように思われる。それはかなり長い間普及しており、近年では無視されてきたけれども、一般的なアメリカ人から広範な支持を得ている。コンピュータのキーボードのメタファーを続けて、その思想をエスケープセンター [Esc-Center] と呼ぼう。

エスケープセンターの中核をなす思想は何だろうか? 議論の出発点としていくつか提案してみたい。

(以下の議論へのサウンドトラックを求める読者は、古き日々と私がここで伝えたい精神を考慮して、ここをクリックしてほしい。) *2

個人の自由

合衆国のように広大で多様性のある国においては、ほとんどの社会問題に対してコンセンサスを得ることは不可能であろう。唯一のコンセンサスを見つけようとすることは時間の無駄であるし、政府勅令により1つを強制しようとすれば無益な争いの原因となる。それゆえに、不完全で不器用ながら、アメリカの伝統は、ある個人の行動が他者に対して重大な害を及ぼさない状況においてはどんな状況であれ、個人の自由の原則を受け入れたのである。社会変革を目指す者は、その動機が宗教的であれ世俗的であれ、他者の説得により自身のアジェンダを進めることを許されている。けれども、自身のイデオロギーを政府機構を通して強要しようと試みた場合には、その行為は許容されない奪取であり、止められなければならない。

代議制民主主義

市民が不満の救済を求めるための制度が存在する。それは政治と呼ばれており、参加したいと考える者には誰であれ開かれている。政治的エスタブリッシュメントによる統一された反対の牙の中でのドナルド・トランプの当選が示したのは、この国の政治システムが左右両方の過激派の主張ほどには壊れていないという事実である。(トランプの反対者の多数が、彼とその支持者を「ポピュリスト」として非難するのは、彼らが状況を完全に理解していることを示している。ポピュリズムの反対は? もちろん、エリート主義である。) あなたがものごとのやり方を変えたいと望むのであれば、あなたの考えを聞く聴衆を見つけ、支援団体を組織し、変革を起こすための方法は多数存在する。その一方で、2年か4年おきに既製品の候補者に対して投票するだけであった場合、あなたが望むものを政府が施してくれることを期待して待っている他にない。

政治的連邦制

我々の憲法は、修正第九条と第十条で定められた通り、連邦政府に一定の権限と責任を付与し、それ以外のすべてを州と人民に委ねている。これは、過去1世紀の3分の2にわたって何度も無視され続けてきたが、しかし多様性のある国が内政問題に対処する方法としては、ほぼ唯一の選択肢であり続けている。マサチューセッツ州オクラホマ州の人民に等しく許容可能な社会政策は存在せず、マサチューセッツ人はオクラホマ人の首元を押さえつけたり、あるいはオクラホマ人がマサチューセッツ人の首元を押さえつけるのではなく、各々の州は選挙で選ばれた代表者を通して自身の問題を扱う。それはマサチューセッツ州オクラホマ州の人々が、それぞれ相手の州で成立した法律により激しく攻撃されることを意味するのではないか? その通りだ。取引しようディール

機会の平等

平等という語は2通りの意味を持つ - 機会の平等と結果の平等である - そして、どちらか1つを得ることはできるが両方は得られない。機会の平等とは、性別、人種、社会階層などに関わらず、人生において誰もが等しい機会を持つことを意味する。結果の平等とは、社会のあらゆる下位グループが人生において均等な配分を受けることを意味する。前者は不可欠であり、後者は不公平である。もしも、性別、人種、社会階層あるいは別のカテゴリのメンバーシップにより、教育、居住、雇用、政治的代表などからアメリカ市民が不正に排除されているのであれば、それは是正されるべき誤りである。- けれども、人々の才能、利害や仕事への意欲はそれぞれに異なっており、イデオロギー的な目標の追求のためにそれらの違いを打ち消すことは、政府の仕事ではない。

個人の責任

あなたは、あなたの曾祖父が誰であったか、あるいは何をしたかについて責任を負わない。あなたが責任を負うのは、ただ自身の言葉と行いだけである。そして逆に、あなたの曾祖父が誰であったかによって、フリーパスを得られるわけでもない。集合的な罪というドクトリン、あるグループに所属するメンバー全員が過去のそのグループの行いによって永遠に非難されるとする考えは、中世の神学者によってユダヤ人に対する集団虐殺ポグロムを正当化するために発明された。その後も、同じ概念が利用される場合の結果は同等である。もしも、歴史的な原因が現在において何らかの不正義をもたらすならば、その不正義は対処される必要がある。しかし、過去に遡ってものごとを変えることはできないため、ひとたび政府がすべての市民に対して機会の平等を保証し、救済策が立法されたならば、過去に対する責任は終了する。

市民社会

政府の行動は、あらゆる問題に対するベストな解決策ではない。多くの場合において、自発的な民間組織がはるかに優れた仕事をなす。アレクシス・ド・トクヴィルが19世紀初頭に若きアメリ合衆国を視察したとき、彼が気付いた新しい共和国を他の国と区別する特徴は、社会問題に対処するために自発的に組織を作るアメリカ人の熱意であった。この習慣は、第二次大戦以降における連邦政府の移転性の拡大によって消え去ったが、それでも枠組みはそのまま残っており、アメリカの誤った帝国時代よりもはるかに有用なものである。

帝国の終焉

アメリカ合衆国は世界の警察官ではなく、まして世界の刑務所でもない。現在、世界中の100以上の国で軍事基地を維持するために毎年何億ドルも費されている一方で、我々の国内インフラストラクチャは、何十年にもわたる悪意ある放置によって崩壊している。帝国的なほとんどの国は - イエス、自分自身に正直になろう、それが我々の現状だ - ひとたび帝国を維持するコストが利益を上回るようになると、経済的な崩壊に至る。我々は危険なほどその状態に近付いており、大英帝国の先例に習い、世界帝国の座から引きずり下ろされる前に自発的に立ち止まる必要がある。イエス、つまり海外の同盟国は自身の防衛費を自分で支払うか立ち去るかを選ばなければならない。そしてその選択は彼らに任されている。

リアリズムの政治

世界から苦しみと不正義が無くなることはなく、あらゆる社会問題が解決されることもないだろう。政治的リーダと市民の両方が、できる限り不満に対処し不正義を正さなければならない。しかし、政治システムが完璧ではないからといって、それが許容され難い邪悪であると主張することは、甘やかされた子供の論理である。また、社会の中のごく一部の人間が、他の全員に対して自分の望むもの全てを与えてくれるように説得できないからといっても、それは不正義であるとは見なされない。我々が住んでいるのは限界のある世界であり、そこではトレードオフは必須であり個人の自由は必然的に衝突する; 政府の仕事は、コミュニティにおける生活の負担と利益を、可能な限り公平に分配する妥協案を仲介することである。

これが、私が考えるエスケープセンターの最初のおおまかな見取り図である。過去においてある程度機能してきた社会的・政治的な問題へのアプローチであり - 確実に、政治的な主流派でエスケープセンターを代替した壮大なスキームよりも優れている - また、現在でも多くの一般的なアメリカ人の間で多くの支持を得ているものである。コントロールレフトとオルトライトという奇妙な双子の代替案として、これらの思想を再度普及させることは、7月4日を祝うアメリカ合衆国でいくつかの価値観を深める助けとなるだろう。

そして、親愛なる読者諸君、もしも上記の私の記事に対する読者の反応が、私をファシストとして非難すること - 今日のコントロールレフトの、穏健な不合意に対してさえ標準的な反応 - であった場合、私は一つ質問してみたい。我々のどちらも「ファシスト」という言葉の意味を知っているだろう。そしてそれは、個人の自由、代議制民主主義、他国への侵略の熱意の欠如を意味してはいない。そうであるならば、私に対して明らかに間違った告発をしたことによって、次の選挙において、私はあなたの支持する候補へ投票するようになるだろうか? また、もしも次の選挙での支持候補への投票を気にかけていないとしたら、それではあなたは正確には何を気にしているのだろうか?

*1:訳注:マスターピース・ケーキショップ対コロラド州公民権委員会事件 - Wikipedia

*2:訳注:リンク先の曲はシカゴの『サタデー・イン・ザ・パーク』 7月4日の土曜日に公園で過ごす人たちを歌った曲である。

書評:開発経済学+認知科学 『Factfulness』(ハンス・ロスリング)

ビル・ゲイツが絶賛しているコメントを見て読んでみた。タイトルからはフェイクニュースの話題かと思ったけど、実際は、世界の人口動態、所得、経済や健康状態に関する知識の誤りを正し、また、何故そのような誤りが生じるのかを認知科学的なバイアスから説明する本だった。

Factfulness: Ten Reasons We're Wrong About The World - And Why Things Are Better Than You Think

Factfulness: Ten Reasons We're Wrong About The World - And Why Things Are Better Than You Think

著者ハンス・ロスリングは、スウェーデン出身の医師・公共衛生学者。著者本人は2017年に逝去しているが、遺稿を息子夫婦が編集して出版したものが本書である。

さて、本書の冒頭には、このような三択のクイズが13問掲載されている。(他すべてのクイズに興味のある方は、以下を参照してほしい。英語日本語)

質問1 世界中のすべての低所得国で現在、どれだけの割合の女の子が小学校を卒業していますか?
(A)20%(B)40%(C)60%

多くの人のクイズの成績は平均して2〜3割程度で、ランダムよりも低い結果であるという。そして、世界の実態の姿よりも悪い方向に誤答してしまう傾向がある。これは、国、学歴や地位の差異によらず、システマティックに世界の姿を悪く回答してしまうのだという。

著者は最初、学校卒業後に学ぶことを止めてしまった人たちが、古い知識を保持し続けているために、このような間違いが起こるのではないかと考え、統計データをもとに現在の世界の姿を説明する活動を始めた。けれども、教育活動を続けても、なお人々のネガティブなものの見方を払拭できなかったのだという。

そこで、我々の思考にはものごとを悪く見てしまうような本能的バイアスがあるのではないか。ロスリングはそう考えて、我々が世界を歪めて見てしまう10個の認知科学的な「本能」を検証していく。

10個の本能

ロスリングが提唱する10個の本能を紹介しよう。

  • ギャップ本能 (Gap Instinct)
    「我々」と「彼ら」、「先進国」と「発展途上国」のように、ものごとを二分してその間にギャップがあると考えてしまう。
  • 悲観的本能 (Negativity Instinct)
    悪いニュースは報道され記憶されやすいが、日々の地道で小さな改善は認識されにくい。
  • 直線的本能 (Straight Line Instinct)
    過去のトレンドがそのまま継続されると思い込む。過去の指数関数的な人口増が恒久的に続いていくと信じ込んでしまうなど。
  • 恐怖本能 (Fear Instinct)
    災害、紛争、航空機事故など、恐怖をかき立てる事象のリスクを過大に見積もってしまう。
  • サイズ本能 (Size Instinct)
    孤立した大きな数字だけの印象で判断し、歴史的な推移や比率を無視してしまう。
  • 一般化本能 (Generalization Instinct)
    少数の事例を一般的な傾向だと思い込んでしまう。
  • 運命本能 (Destiny Instinct)
    宗教、文化、風習などは不変のものであると思い込んでしまう。宗教・文化的な理由により、アフリカでの産児制限や経済開発は不可能だと考えてしまうなど。
  • 単一視点本能 (Single Perspective Instinct)
    自身の観点や解決策からだけしかものごとを考えられない。
  • 非難本能 (Blame Instinct)
    政治家、企業、テクノロジー、外国人など、何らかの悪者がすべての問題の原因であり、その原因を取り除けば問題が解決すると考えてしまう。
  • 緊急本能 (Urgent Instinct)
    遠い将来の不確かなリスクに対する緊急度を誤って想定してしまい、結果不適切な意思決定をしてしまう。

これら10個の本能についての検証と同時に、著者ロスリング氏自身の失敗談や貧困国での医療支援活動に関する心を揺さぶられるエピソード、そして、世界の実態を示すとても分かりやすいグラフなどがふんだんに盛り込まれており、とても面白く読めた。

世界の見方を変え、同時に我々自身の考え方も変えてくれる良い本だった。

読書メモ:イスラーム人生論 『みんなちがって、みんなダメ』(中田考)

北大生シリア渡航未遂事件で一躍有名になった(?)イスラーム法学者、ハサン中田考先生の新刊。 

みんなちがって、みんなダメ

みんなちがって、みんなダメ

イスラームの世界観から言えば、「何をするべきか」、何に価値があり、何が正しく、何が善いことであるかは、すべて神からの預言を通して示されています。イスラームの宣教未到達の地である日本では、いかなる義務も禁止もなく、「価値がある」と信じられているあらゆることが幻想であるのだから、普通の(非ムスリムの)日本人は「できること」を「したい」通りにやって生きていけば良い。

現代の日本で「生きづらさ」を抱くのは、実は、他人や自分が勝手に定めたおかしな基準、「何をするべきか」という幻想に縛られていたり、自分に「何ができるか」、「何がしたいか」をカン違いしているからだ。この本のメッセージを要約すると、こんなふうに言えるのではないかと思います。

(こういう考え方は、たぶん多くの日本人にとっては取っ付きにくいものだと思いますが、少し噛み砕いて言うなら、「善悪や価値にからむ問題は、必ずしも経験的事実を引き合いに出して決着がつくようなものではなく、どこかに「信じるしかない部分」がある」と言えば分かるでしょうか)

そんなイスラーム的な価値観をベースとして、「承認欲求」、「自由と民主主義」、「資本主義」から「領域国民国家」まで日本人的な価値観がバッサバッサと切り捨てられ、身も蓋もない人生論が展開されています。個人的には、私は中田先生とも直接面識があり、これまで出版された一般書をほとんど読んできているため (正直なところ、全てを理解・共感できているわけではないのですが)、本書の議論はほとんど納得のできるものなのですが、これまで中田先生の本を読んだことがなく、一神教的な世界観や価値観に触れたことがない人にとっては、自分がいかに狭い了見に捕われれていたのかに気付き、価値観そのものを揺さぶる本になるのではないかと思います。

合わせて読みたい

イスラーム内部の考え方にもとづく、イスラーム自体の平易な解説としては、『イスラーム 生と死と聖戦』を挙げておきます。池内恵先生が日本的な価値観の内部から、イスラームの「外側」から見た解説を書いてるので、合わせて読むと理解が深まるかと思います。

書評:『知ってるつもり――無知の科学』(S. スローマン & P. ファーンバック)

とても面白く、また現代的な意義の大きい本である。ぜひ読むことを薦めたい。

しかし、おいそれと内容を要約して紹介することは多少はばかられる本である。なにせ、扱っている内容が「無知」-- 我々は、自分が思っているほどにはものごとを知っていないこと--を示す本なのだから。

知ってるつもり 無知の科学 (早川書房)

知ってるつもり 無知の科学 (早川書房)

とは言え、私なりに本書の中心的なメッセージを要約してみようと思う。

本書の冒頭では、ファスナー、水洗トイレやミシンなど、身の周りにあるありふれた物の機構を説明してくださいと言われると、自分自身が思うよりも自分は物事を理解していないことが示される、という心理学実験が紹介されている。これを「説明深度の錯覚」と呼ぶのだそうだ。

本書前半部分では、このような錯覚が起こる認知科学的なメカニズムの説明が挙げられている。大きな理由としては「人間は、世界や環境そのもの、あるいは書籍、インターネットや他者の知識」と協調しながら、分業してものごとを考えるからである。著者の言葉では、「知識のコミュニティ」の中で人間が生きているからなのだ。そして、必要に応じて参照可能な知識は、まるで自分が持っている知識であるかのように感じてしまう。このような錯覚は、時として大事故、非合理な意思決定や政治的な分断を引き起こすことがある一方で、個人では到底理解不能な複雑な世界で人々が暮らしていくための、「知識のコミュニティ」の中で生きていくための不可欠の特性なのであるという。

本書の後半部分の5つの章では、個人の「説明深度の錯覚」と集合的な「知識のコミュニティ」の存在を前提として、科学コミュニケーション、政治的な政策議論、教育などの分野でどういった方法を取るべきかという著者らの提言が述べられている。個人の能力と知識のみを深める教育ではなく、「知識のコミュニティ」の中で他者と協調する方法を学ぶべきだという主張には頷けた。


帯に多分野の著名人からの推薦の言葉が掲載されていることからも分かる通り、本書が扱う内容は多方面に渡っている。(やや散漫に感じるほどである)

その中でも目を引いた (そして他の人のレビューであまり取り上げられていない) 話題を挙げておくと、認知科学人工知能研究の間にある関連性、古き良き人工知能および認知科学が想定してきた「知能」と、生物や人間の実在の「知能」のあり方の差異を説明している部分だろう。

伝統的な人工知能認知科学の想定とは異なり、人間や昆虫は世界のモデルを構築し、膨大な計算をしてから行動するわけではない。「世界についての事実(ボールや地面の光学的特性)を活用して、行動を単純化するのである。」本書の言葉を借りるなら、「世界が私たちのコンピュータ」なのであり、これが生物が「フレーム問題」に陥らない理由である。

そして、人工知能の進歩によって「スーパーインテリジェンス」 (本書の訳語では「超絶知能」) が発生するという主張に対し、「コミュニティとしての知識と知能」の見方から、著者たちは安直なシンギュラリティ論には与していない。

コンピュータに志向性を共有する能力がなく、またそれを獲得しつつある兆候もないことから、人類の利益に反して自らの目標を追求するような邪悪な超絶知能が誕生することはあまり懸念されていない。地平線上に超絶知能の姿はまったく見えない。関心や目標を共有するという人間の最も基本的な能力を持たない機械には、人間を理解することはできない。だから人間の心を読み、出し抜くこともできない。(p.164)

しかし、著者らは別の形での「超絶知能」がありうると述べている。それは、史上前例のない規模で人々の協業を可能にするテクノロジー的な基盤であり、地球規模に拡大した「知識のコミュニティ」なのだ。

 

ここまで本書を紹介してきたが、こうやって「分かったつもり」になって説明をしていること自体が、実は本書の主張する通り「知識の錯覚」に陥っている証拠なのかもしれない。私たちの自身の考え方自体を揺さぶる優れた本であるため、ぜひ手に取って (良ければこのページのリンクから購入して(笑))、直接著者の言葉に触れていただきたい。

読書メモ:シンギュラリティの宗教性 『Apocalyptic AI』 (ロバート・ゲラチ)

キリスト教神学について僅かなりとも触れたことのある人であれば、特にカーツワイル氏のシンギュラリティの物語と、キリスト教終末論の類似性には即座に気が付くだろうと思う。

慈悲ぶかい超知能AIが神の位置を占め、ナノボットは貧窮と病苦に終止符を打ち、そして我々の精神はコンピュータにアップロードされ永遠の生命を得る。あるいは、宇宙が精霊で満たされ死者すら復活するのだという。そしてそんな超越的な出来事は、我々が生きているうちのごく近い将来に起こることなのだ。このような議論が「宗教」でなかったとしたら、一体何が宗教なのだろうか。

SF作家ケン・マクラウドは、シンギュラリタリアニズムと宗教的終末論との関連を揶揄して、「オタクの昇天 (Rapture of the Nerds)」*1という言葉を造語したとされている。ナノテク研究者でありトランスヒューマニズムへの批判者、リチャード・ジョーンズ教授が述べた通り、「このあざけりが壊滅的なまでに効果的である理由は、それが深淵な真理を含んでいるから」("The reason this jibe is so devastatingly effective is that it contains a deep truth.") *2だろう。

そして、実際のところ、シンギュラリタリアニズムの宗教性は、学術的考察の対象にもなっている。

本書『Apocalyptic AI』は、シンギュラリタリアニズム/トランスヒューマニズムの宗教性についての研究における最も基本的な書籍であり、シンギュラリティ懐疑論の多くでこの本は言及されている。私の記憶にあるだけでも、『そろそろ、人工知能の真実を話そう』(ジャン=ガブリエル・ガナシアの) や『ロボットの脅威』(マーティン・フォード) などでも参照・引用されていたし、軽いエッセイなどまで含めると膨大な数に登る。


おそらく確実にこの本は翻訳されないと思うので、興味を持った人向けの読書ガイドとしての意味も込め、内容を詳細に紹介してみたい。

終末のAI

序文によれば、この本は人類学的な本であるのだという。すなわち:

I am not interested in evaluating the moral worth of Apocalyptic AI. This book is about the social importance of Apocalyptic AI; it is an anthropological, not a theological work. (...) This book is neither supporting nor debunking the claims of Moravec and Kurzweil.(p.1-2)

私は、終末のAIの道徳的意義を評価することに興味はない。この本は、終末のAIの社会的な重要性に関するものである; これは人類学的なものであり、神学的な研究ではない。(...) この本は、モラベックやカーツワイルの主張を支持するものでも反駁するものでもない。

つまりは、あくまで興味深い宗教的な活動が存在している状況を受け、文化人類学的に活動を観察し、記録し、考察するものである。

それでは、「終末のAI」とは何か。第一章では、黙示録信仰 (Apocalypticism) の性質として以下の4つが挙げられている。(この本を読む人向けのアドバイスをすると、第一章前半部はユダヤキリスト教神学史、科学史・科学哲学などの広範な知識を要求されるので、初めて読む際にはp.21まで、もしくは第二章まで飛ばしても良いと思う。)

Apocalypticism refers 1) a dualistic view of the world, which is 2) aggravated by sense of alienation that can be resolved only through 3) the establishment of a radically transcendent new world that abolishes the dualism and requires 4) radically purified bodies for its inhabitants.

黙示録信仰とは、 1) 二元論的な世界観であり、それは 2) 疎外された感覚によって悪化し、それを解決しうるのはただ 3) 二元論を廃止する根本的に超越的な新たな世界の確立により、そしてそれは 4) その住人に対し根本的に浄化された身体 を要求する。

著者によれば、この種の黙示録的なモチーフは、ロボティクス、人工知能バーチャルリアリティの研究、およびポピュラーサイエンス本とサイエンスフィクション小説の中に存在しているのだという。

「終末のAI」の支持者としては、ロボット研究者ハンス・モラベック、エンジニアであり実業家のレイ・カーツワイル、サイボーグ研究者として知られるケヴィン・ワーウィックや人工知能研究者のヒューゴ・デ・ガリスなどの著名人が挙げられており、第一章の後半部では彼らの主張が簡単に紹介されている。


続く第二章では、理論的な記述からはやや離れて、フィールドワーク的なインタビューと「終末のAI」の政治性に関する考察が取り上げられている。ゲラチは、カーネギーメロン大学 (CMU) のロボティクス研究所を訪れ、大学院生や若手研究者へのインタビューを行った。そこで彼が発見したのは、「終末のAI」のナラティブと現実のロボティクス研究の間にある隔りであった。

Quite clearly, many of the faculty were fond of Moravec but simultaneously mystified by his religious claims.
The mundane reality of robotics research bears little resemblance to the apocalyptic imagination of Moravec or his followers. (...) No one is building a super-intelligent robot that will either a) take over all human work or b) take over the world. (p.39-40)

かなり明白に、研究所の多数はモラベックのことを好いていたが、同時に彼の宗教的主張に困惑していた。
ロボティクス研究の世俗的な現実は、モラベックや彼の追随者の黙示録的なイマジネーションとはまったく似ていない。(...) a) 全ての人間の仕事を奪うあるいは b) 世界を支配するであろう超知能ロボットを構築している人は誰も居ない。

けれども、これは「終末のAI」が現実のロボティクス研究に全く関係がないということを意味するわけではない。カーネギーメロン大学の学生は、非公式にではあるものの、ヴァーナー・ヴィンジの『マイクロチップの魔術師』(原題:True Names) などのSF小説を読むように推奨されていたのだという。(p.51) この種のSF小説のイマジネーションが、間接的にロボティクス研究に影響を与えている。日本では、さしずめ鉄腕アトムドラえもんガンダム攻殻機動隊タチコマToHeartのマルチなどが挙げられるかもしれない。

更に、「終末のAI」の役割は、研究者コミュニティ自身に対するイマジネーションの源泉に留まらない。「終末のAI」は、ロボティクス・AI研究者の公的なプレゼンスを強化し、威信を強化し、経済的資源を獲得するために活用されている。この点については、ジャン=ガブリエル・ガナシアの『そろそろ、人工知能の真実を話そう』から要約を引用する。

今ではもう、科学者もエンジニアも自分たちの研究の動機をSFの中に求めている。(…)そうなった原因の一端は、ロバート・ゲラチが、その著書『終末のAI』でいみじくも指摘したように、夢をもたらし人々をわくわくさせるプロジェクトを優遇するような研究費の支給方式にある。研究分野の選定を民主化しようとすると、得てして、大衆への説明がわかりやすく、創造力を刺激するという理由だけで、そういった研究に資金を支給するという結果に陥りがちだ。たとえ研究目標が実現不可能であったり、無意味なものに思えたりしても、である。(p.91-92)

ゲラチは、「終末のAIは、実際のところ、資金の要求である(p.64)」と喝破する。


第三章では、バーチャルリアリティサイバースペースの聖性について議論されている。この章では、特にゲームの世界に集ったトランスヒューマニストの世界観が紹介されている。ここで取り上げられている題材はMMORPGWorld of WarcraftSecond Lifeなどであり、2018年現在から見るといささか古びて見える部分もある。けれども、「VRは、マインドアップローディングの萌芽である(p.88)」という言葉は、最近ではVRChatなどの利用者によっても主張されることがあり、その分析は現在でも有効であると思う。(なお、カウンターカルチャー分野におけるVRの神話的・宗教的なモチーフは、以前に紹介した『サイバネティクス全史』でもかなり詳細に取り上げられていたため、興味のある方はそちらも参照してほしい)


第四章は、ロボティクス・人工知能の進歩による倫理的・法的・政治的な問題、たとえば、人工知能が意識や人格を持つようになった場合にいかなる問題が起きうるかというテーマが取り上げられている。私の見たところ、本章は他の哲学者や研究者による議論の要約が多く、筆者独自の観点はそれほど多くないため、見るべきところはそれほど多くない。


最終章、第五章「宗教、科学と技術の統合」"integration of religion, science, and technology" は、本書全体の議論のまとめである。


本書の出版は2010年であり、元となった論文は2000年代に書かれたものである。2010年代初頭の第三次AIブーム以前の本であるため、2018年現在から見ればやや古さを感じる部分もある。それでも、科学技術研究の中に埋め込まれた宗教的モチーフの分析として、そして、宗教と科学の2つを包含する「社会」との関わりの考察として、長く読み継がれるべき本だと言えるだろう。

*1:"Rapture"は、キリスト教終末論の文脈では通常「携挙」と訳されるが、ここでは文体上の観点から「昇天」という語を当てた

*2:Against Transhumanism – the e-book – Soft Machines

書評:ルポ・セラノス事件 『Bad Blood』 (ジョン・カレイロウ)

下手なサスペンス小説よりも面白くて、硬派で難解な本であるものの一気読みしてしまった。ベンチャー企業の詐欺行為を最前線で追求した迫真のルポタージュというだけでなく、「起業家や経営者が語る夢想的で荒唐無稽なビジョン」に対する態度の再考を迫る、極めて優れた本である。 

Bad Blood: Secrets and Lies in a Silicon Valley Startup

Bad Blood: Secrets and Lies in a Silicon Valley Startup

シリコンバレーのテック企業のニュースを追っている人であれば、おそらくセラノス(Theranos)の名前をたびたび眼にしたことがあるのではないかと思う。

「医療の民主化」を掲げ、「指先からの血液1滴で200種類以上の病気が診断できる」とうたうセラノス社は、わずか数年前まで、未上場ながら90億ドルを上回る評価を受けていた。創業者であるエリザベス・ホームズは、当時未だ20代後半の若き女性でありながら、その資産はセラノス社の過半、5000億円にも達するとも言われ、彼女は「自力でビリオネアとなった最年少女性」、「第二のスティーブ・ジョブズ」としてメディアで賞賛を集めていた。

現在、彼女は詐欺容疑で刑事訴追され、証券取引委員会からは50万ドルの罰金を課され、向こう10年間は公開企業への役員就任を禁止されている。同社が標榜する「血液1滴での検査」が完全なる嘘であり、検査の信頼性は著しく低く、ほとんどの検査は他社の機械を改造して行っていたと判明したからだ。

本書は、セラノス社の疑惑の第一報を報道し、追求を続けたウォールストリートジャーナル紙のジャーナリスト、ジョン・カレイロウによる過去3年以上にわたる報道の総集編である。彼は、この事件の報道でピューリッツァー賞を2度受賞し、その他ジャーナリズムに関する賞を多数受賞している。

エリザベス・ホームズ

物語は、セラノス創業者エリザベス・ホームズの生い立ちと起業の経緯から始まる。

彼女の曾祖父は医師であり、その妻はパン酵母の開発と食料品販売で財を成した米国有数の実業家の娘であった。そのため、彼女は医療者と起業家の2つのDNAを受け継いでいたのだという。しかし、彼女の祖父の職業上の失敗、複数回の離婚とアルコール依存により、ホームズ家の財産は浪費されてしまった。彼女の父親はワシントンD.Cの政府機関に勤める官僚であり、どうやらエリザベスが誕生した頃のホームズ家は、上流の名家ではあるが大富豪というわけでもないというような階層の家であったらしい。

そんなご先祖の物語を聞かされ育ったホームズは、既に幼少期から起業家になりビリオネアになるという確固たる意思を抱いていた。2004年、スタンフォード大学の化学工学部2年生のときには「身体に貼りつけられるパッチで血液の診断と投薬を行なうデバイス」に関する特許を申請した。当時19歳だったホームズは、特許申請にも協力したロバートソン教授からのアドバイスにより、その年にスタンフォードを中退してセラノスを起業した。会社名は治療(therapy)と診断(diagnosis)に由来し、当初は血液検査のみではなく、ナノテクノロジーを応用したドラッグデリバリーシステムの製品化を目指していたようである。しかし、最初期の目標であった「診断と治療」はあまりに野心的すぎることが分かり、製品開発の目標は診断デバイスへと絞られた。

最初のプロダクト開発目標は、マイクロ流体工学とナノテクノロジーを用いた血液検査デバイスであったという。何度かの資金調達の後も製品化に至らず、再度このプロダクト開発の方針も変更された。最終的に完成した「エジソン1.0」という名を与えられたプロトタイプは、既製品の小型ロボットアームを使い、機械的な操作によって血液検査を自動化する小型のデバイスであった。

当初の壮大な目標からは下方修正されたものの、高速で安価、どこでも実施できる血液検査が医療業界に革新を起こすはずだったことは疑いはないだろう。その後、彼女は「ミニラボ」という名の、200種類以上の検査ができるという触れ込みの小型デバイスの開発を目指していく…

 

本書の中では多くの人がホームズへの印象を語っているが、彼女の聡明さ、ハードワークを厭わないバイタリティの強さと強烈なカリスマ性には多数の人が賞賛を述べている。その一方で、我が強く、独善的で、自分の能力に対する信頼が強く、嘘を付くことに罪悪感がなく、また他人の意見に耳を貸さず部下には強い忠誠心と自分と同等の働きを求めるというソシオパス的なパーソナリティを持つ人物でもあったようだ。正直なところ、上司にだけはしたくない人物である。たとえば、「エジソン1.0による臨床試験の実施は時期尚早である」と具申した幹部を有無を言わさず解雇したり、経営者としての彼女の未熟さに危機感を抱いた取締役会によるクーデターを受け、逆に彼らを説得し返した(その後やはり役員たちは解雇された)のだという。社内では、厳格な秘密主義を取りあらゆる情報の流れをコントロールし、同じ機能を開発する2つの独立したチームを作って成果を競わせたというエピソードが記されている。

プロトタイプは不完全なものであったが、セラノスは各国の政府機関、そして米国の製薬企業や小売・薬局チェーンに売り込みを掛け、提携契約を結んでいった。実際のところ、検査結果の信頼性は非常に低いものであり、提示された結果はあらかじめ準備されたものであったり、他の検査会社へと外注されたものであったという。もちろん、提携企業の中にはセラノス社のテクノロジーに疑問を抱き、詳細な調査を要求する者もいた。彼らの疑惑は、秘密保持契約とホームズのカリスマによって阻まれ、表に出ることはなかった。

ジョン・カレイロウ

前半部も十分に面白いが、本書のヤマ場は語り手たるジャーナリストのカレイロウ自身が「疑惑の追求者」として物語への関与を始める19章以降だろう。

医療詐欺問題の取材経験があったカレイロウは、2015年のはじめごろ、医師であるブロガーからのタレ込みを受けてセラノス社の疑惑を知り、元従業員やセラノスの検査を受けた被験者など、様々な筋から疑惑の追求を始めていく。同時に、セラノス社の社員の側でも内部告発者が現れ、またセラノス上層部もそれを察知し、ニセ情報、脅迫や圧力など、あの手この手でネガティブな報道を握り潰そうと試みる。

情報提供者の一人である元従業員は、セラノスの代理人である弁護士に尾行され、訴訟をチラつかせた警告を受ける。カレイロウ自身のオフィスにも弁護士が訪れ、長時間の押し問答をくり広げる。更に、ウォールストリートジャーナル紙の本体、そのオーナーであるメディア王ルパート・マードックにも接触する。実は、マードック自身もセラノス社へ投資をしていた株主であった。ホームズはマードックに対して、記事を公開しないよう圧力をかけることを依頼する。

しかし、度重なる妨害にも負けず、2015年10月、ついにセラノス社の疑惑はウォールストリートジャーナル紙上で報道された。その後もカレイロウは20本以上の追求記事を執筆し続け、一時はユニコーン企業として注目を集めたセラノスの評価は地に堕ちたのだった。

「企業秘密」というぶ厚い壁によって隠された疑惑を暴き、ついには規制当局を動かすまでに至った緻密な調査報道の過程は、下手なサスペンス小説よりも面白い。とはいえ、本書のあまりに巧みなストーリーテリングには、ノンフィクションのドキュメンタリーとしては警戒感を覚える部分もある。その点をさし引いたとしても、長期間最前線で疑惑を追求し続けた当事者による熱のこもったレポートとしてきわめて意義があるものなので、その賛否については是非本を手に取って判断してほしい。(日本でも注目を集め始めているようなので、そのうち翻訳もされると思う)

セラノスの教訓 -ビジョンと嘘-

まず、本書を通読して気付いたのは、超能力主義社会であると考えられているシリコンバレーの起業家界隈の縁故主義である。

最初期段階の資金調達の際、ホームズは両親の人脈をフル活用し、幼馴染の父親でもある著名ベンチャーキャピタリスト、ドン・ルーカスからの投資を受けたという。この出資がセラノスに一種のお墨付きを与え、更なる投資への呼び水となった。Oracle創業者であるラリー・エリソン、前述のルパート・マードックといった実業家も、個人の資金をセラノスへ投じている。更に、父親が政府機関に勤務していたコネを生かし、元国務長官ジョージ・シュルツヘンリー・キッシンジャー、後にトランプ政権で国防長官を務めるジェームズ・マティスなどそうそうたる著名人を取締役会に迎え入れている。ところが、投資や役員就任にあたって、法的・技術的な調査はほとんど重視されなかったようである。

それだけではなく、セラノスではホームズの恋人がナンバー2の地位を占め、それ以外にもスタンフォードの同級生や弟が従業員として働いていたという。むろん、未だ世界に存在しないビジョンを実現するにあたっては、小手先の技術的な実現可能性よりも、個人の人柄や関係性が大きな判断材料となるであろうことは理解できるし、公開企業ではないため従業員や役員に誰を雇うかも自由である。けれども、これはあまりにも杜撰すぎるガバナンスであろう。


そして、もう一つは「技術開発における将来の夢想的で壮大なビジョン」を、いかに取り扱うべきかという問題である。これと同じ問題については、核融合研究の研究不正の歴史を扱った本を紹介したときにも書いたことがある。

テクノロジーの開発は、「かつて不可能だったこと」を可能にするものだ。これまで不可能だった領域に、前人未踏の領域に踏み込み、かつて誰も成し遂げたことのない新たなテクノロジーを開発するためには、何らかのビジョン --「世界をこう変えたい」という希望と信念-- が必要とされる。--「無尽蔵のエネルギー」、「人間レベルの知能」、「不老長寿」など。こういったビジョンは、科学者が直接的に言及することは少なくても、科学研究を裏付ける原動力なのだ。テクノロジーには、希望的観測を実現していく力があることは否定できない。

ところが、この「希望的観測」が暴走したり悪用されたりした場合、存在しない現象を観察・捏造してしまったり、既に間違いが示された結論を延々と擁護し続ける状況に陥ってしまう。最後は、社会がそのビジョンを是認するか否かという、科学的な根拠と論理とは別レベルでの決着となることがある。

「ビジョン」と「嘘」は想像力という共通の起源を持ち、「ビジョンを語る行為」と「他人や自分を騙す行為」の間にある違いは、思った以上に小さいようである。現在では、アカデミアの研究から企業の技術開発に至るまで、「将来のビジョン」に対して莫大な値札が付けられている。「楽観的で壮大なビジョン」が「自己欺瞞と詐欺」へと変貌するセラノスの物語は、科学者や経営者が語る夢想的ビジョンを、「元気が出る」、「夢がある」と安直に肯定する風潮に対して、再考を迫るものである。

 

カレイロウ自身が強く主張している通り、人命や健康が問題となる生命科学や医療研究において、シリコンバレー的な「信じれば夢は叶う (fake it till make it)」の成功哲学を適用することは、端的に誤りである。情報テクノロジーやソフトウェアとは異なり、物理世界や生命分野でのイノベーションは多大な時間と労力と資金を要し、安易なイノベーションを追求すれば似非科学的な代替医療や詐欺の温床となる。医療産業が極めて強力な法規制を受けていることは、決して偶然ではない。


けれども、結びの言葉にもある通り、おそらく19歳で起業した時のエリザベス・ホームズは、投資家や患者を騙して大金をせしめようなどという悪意は持っていなかっただろう。彼女は、純粋に自身のビジョンを信じ、手軽で安価で高速な診断・治療デバイスの普及が人類を病魔から救うと固く確信していたはずだ。

「皮肉屋は世界を変えられない。変革者たちは皆、最初は大ボラ吹きとして笑われたのだ」とよく言われることがある。しかし、ここには見落としがある。ホラ吹きは世界を悪い方向へと変えてしまうこともあるのだ。

映画

『マネー・ショート (The Big Short)』のアダム・マッケイ監督が、本書を原作とした同名の映画を撮影しているそうで、2019年に公開予定とのこと。こちらも期待。