Going Faraway

渡辺遼遠の雑記帳

ハンナ・アーレント『暴力について』の未来学者に関する抜粋

暴力について―共和国の危機 (みすずライブラリー)

暴力について―共和国の危機 (みすずライブラリー)

アーレントは、人間が行動アクションを通して外界に変化を及ぼす能力と、嘘をつき、自分や他人を騙す能力の間にある共通点を見ている。

…変化は、もしわれわれがいま自分の肉体がいるところから頭のなかで自分自身を移して、さまざまな事物がいま現にあるのとは異なるものであるかもしれないことを想像する丶丶丶丶ことができなければ、不可能である。いいかえれば、〈事実の真理〉の意識的な拒否--嘘をつく能力--と事実を変える能力--行為する能力--は相互に関連しているのであって、両者は想像力という共通の源泉によってはじめて存在するのである。実際には雨が降っているときに「太陽が照っている」という丶丶ことができるのは、けっしてあたりまえのことではない (何らかの脳の障害のためにこの能力が失なわれることもある)。むしろ、それは、われわれは感覚的にも精神的にも世界にたいして十分やっていけるだけの能力を備えているけれども、世界の譲渡されない部品の一つとして世界にぴったりはまっていたり埋め込まれているわけではないということを示している。(p.3-4)

現実リアリティは、論理的帰結を引き出すための前提のようなきちんとしたものを提供することはけっしてない。AとCとをともに望ましくないものとし、それゆえにBをよしとするような種類の思考は、無数にある真の可能性から人の気をそらし、判断力を鈍らせる以外のどんな役にも立たない。これら問題解決家たちとほんものの嘘つきとの共通点は、事実を抹消しようとする目論見と、事実がほんらい偶然的なものであるがゆえに抹消は可能であるという自信をもっていることである。(p.11-12)

未来学者は、この「行動のためのビジョン」と「欺瞞」とを意図的に、または無意識のうちに混同していると言える。

未来の出来事をこのように仮説として構築するにあたって生じる論理的な欠陥は、つねに同一である。それは、最初に仮説として登場するものがーその精緻さの程度に応じて、言外の選択肢があるにせよないにせよー二、三節先ではいきなり「事実」となり、さらにその事実から同じように一連の事実ではないものが生み出され、その結果、その企画全体の純然たる思弁的な性格が忘れ去られてしまうということである。いうまでもなく、これは科学ではなく似非科学であり、ノーム・チョムスキーの言葉を借りていえば、「真に重要な知的内容をもつ諸科学の上辺を真似ようとする」「社会科学や行動科学の絶望的な試み」である。そして、「この種の戦略的な理論にたいする」最も明白で「最も根底的な反対の理由は、それがあまり役に立たないということではなくて、それが危険だということである。というのは、この種の理論はわれわれが理解していない出来事を理解しているかのように、その流れを支配していないのに支配しているかのように信じ込ませるからである。」(p.101)

これらの文脈を少し補足しておく。アーレントはドイツ出身のユダヤ人で、ナチスの政権掌握後に迫害を逃れフランスへ、その後アメリカ合衆国へと亡命し、そこで後の生涯を過ごした。

彼女の著書の中ではナチズムや全体主義に関する政治哲学研究が有名ですが、この本は1960年代〜70年代に英語で書かれたアメリカの政治問題を扱った時事評論で、特に冷戦、ベトナム戦争時のアメリカ外交・軍事政策における意思決定の欺瞞と錯誤について論じている。ここで言われている「問題解決者」、「未来学者」は、大学や政策シンクタンク等に所属し、冷戦中の核軍拡やベトナム戦争への介入を正当化する戦略論を構築した人々を念頭に置いている。

更に以下の通り続く。

出来事というものは、ほんらい、決まりきった過程や手続きを中断するものである。重要なことが何も起こらない世界でなければ未来学者の夢は実現しない。未来の予言は現在の自動的な過程や手続きの投影以外の何物でもないのであって、もし人間が行為せず予期せぬことが何も生じないとすれば起きそうなことにすぎない。良かれ悪しかれ、すべての行為とすべての偶発的な出来事は、予言が行なわれたりその兆候が見いだされる枠組み全体を破壊するのは避けがたい。(プルードンがことのついでにいった「予期せぬことの量の多さは政治家の思慮分別をはるかに超えている」という言葉は、幸いにもいまだに真実である。それが専門家の計算を超えていることはいっそう明白である。) このような予期されず、予言されず、予言することのできない突発的な出来事を「偶発事故」とか「過去の末期」と呼んで、どうでもいいもの、あるいは有名な言葉である「歴史のゴミ箱」として貶めるのは大昔から見られる巧妙なやり口である。このやり口はなるほど理論をきれいにわかりやすくしてくれるが、その代わりに理論はますます現実離れしてしまう。危険なのは、これらの理論が実際にそれとわかる現在の趨勢を証拠としているためにもっともらしいだけでなく、それらの理論が内在的につじつまがあっているために人びとを催眠術にかけてしまうという点である。それらはわれわれの常識を眠らせてしまうのであるが、この常識こそがわれわれが現実性リアリティ事実性ファクチュアリティを知覚し、理解し、処理するための心的器官にほかならない。(p.101-102)

ここでの未来学者に対するアーレントの指摘は、繰り返し予測に失敗する未来学者たちが、単に無知で無能であり知的に不誠実であるということだけに留まらない。歴史をある種の宿命的なものとして描き出すことによって、現実の歴史のあり方とあるべき未来に対する議論を不当に歪めるものであり、人々が国家や超巨大企業の利害に反する行動を取る手段を無力化するための手段として「未来」が利用されていることを述べている。

対象も文脈も違っているが、もちろんこれは現代の「未来学者」にも当てはまるように思える。

書評:『サイバネティクス全史』(トマス・リッド)

「サイバー」という語の起源と変遷を辿ることでさまざまな技術史と技術の文化史を統一的にまとめ上げる、ポピュラーサイエンス本かくあるべしというお手本のような本。二匹目のどじょう狙いのようなあからさまなタイトルによって、むしろ本書の企画のオリジナリティが分かりづらくなってしまっているのが残念だ。

サイバネティクス全史――人類は思考するマシンに何を夢見たのか

サイバネティクス全史――人類は思考するマシンに何を夢見たのか

「サイバー」という言葉は、すっかり日常の語彙に馴染んでいる。サイバースペース、サイバーセキュリティ、サイバー戦争… しかし、改めて「サイバー」とは一体何なのかと考えてみると、よく分からなくなってしまう。

辞書やWikipediaを軽く調べてみると、「サイバー」という接頭語は「サイバネティクス」に由来し、日常言語やサブカルチャー分野での「サイバー(スペース)」という言葉は、SF作家ウィリアム・ギブスンの1980年代の小説「ニューロマンサー」によって普及したのだとされている。

本書によれば、この単純化された「サイバー起源物語」は、一種の"神話"であるという。「サイバー」の起源も普及も、決して創始者や伝道師のみに帰せられるものではなく、学術的な研究としても文化的ムーブメントとしても、はるかに大きな広がりがある。帯のケヴィン・ケリーの推薦文に「戦争兵器からコンピュータ・ネットワーク、ソーシャル・メディア、監視技術、VRまでを一つのテーマで接続する。…」とある通り、本書が扱う対象は極めて多岐にわたる。著者によれば、このさまざまなテクノロジーの裏にあるのは、サイバネティクスの神話であるのだという。「サイバー」は、いつも「未だこの世界のどこにも存在しないマシン」を指しており、現実の研究開発と未来予測の物語が、サイエンスとサイエンスフィクションが織り合わされながら進んできたのだ。

サイバネティクスに共通の批判の一つは、それが栄えた1950年代にあってさえ、その構想が空想的で、技術の多くはまだ構築できておらず、当面実現しそうにないということだった。しかしながら、実在しないマシンについて理論化するのは欠陥ではない。その方面では、物理学という熟練の領域が先んじていた。物理学も重要できわめて成功した科学の分野であり、実在しない系を調べる。質量のないばね、質量はあるが体積のない粒子、理想的にふるまう気体のように。そういうものは実在しない。それでもそういうものを純然たる理論の形で理解することは、時計のような単純な物でさえ、それを理解するうえで肝要となる。(p.92)

ノーバート・ウィーナーとサイバネティクス

サイバネティクス」という用語の創始者は、MITの変わり者の数学者、ノーバート・ウィーナーであった。戦時中に従事した対空砲の偏差射撃に関する研究 (この研究自体は成果を上げられず、それほど評価されなかった) に着想を得て、戦後の1948年に「人間とマシンを統合する理論」を『サイバネティクス――動物と機械における制御と通信』という著書で提示したのである。サイバネティクスの核となる概念は、一言で言えば「人間と機械が密接に関連したフィードバック制御」である。飛行機を例に取れば、レーダーがパイロットの眼を拡張し、翼とエンジンが四肢と筋肉を拡張し、自動操縦装置は神経系を補足する。ウィーナーはこの概念を大きく拡張し、制御と通信を含むあらゆるシステムを対象とする理論を構築した。そして、ウィーナーの思想の影響はエンジニアリング分野に留まらず、社会学や人文学分野の著名な研究者も引き付けていったのである。

サイバネティクスの文化史

既に述べた通り、この本の内容は多岐にわたるため、一言で要約できるような本ではないのだけれど、本書を類書から区別する特徴的なポイントを挙げておくと、学術的なサイバネティクスの研究と同時に、その文化的な側面、特に未来に関する物語としての「サイバネティクス」を取り上げている点だろう。

 サイバネティクスの神話は未来を予測できるという強力な錯覚を生む。私を信じなさいと神話は言う。未来はこうなるのですと。それは虚構や予測ではない。まだ起きていない事実なのだ。したがって、技術の神話を未来への効果的で持続可能な道筋として維持するには、つねにそれを使って反復する必要がある。神話の約束を何度も繰り返し述べて、それが福音となり、そうであり続けるようにしなければならない。ドイツの哲学者、ハンス・ブルーメンベルクが著書の『神話に基づく変奏』で鋭く見て取った、「神話に基づく変奏」が必要なのだ。(p.14)

この「神話」の力を借りたのは科学者や技術者、人文学者に留まらない。マシンに人格を見出し、あるいは人間をマシンのように捉える見方は、技術開発の範疇を超えて広く影響をもたらした。

SF作家の作品のテーマとなったのはもちろんのこと、自己啓発作家やL・ロン・ハバートのような宗教家も自身のビジョンを説明するためにサイバネティクスの語彙を利用した。ポストモダン思想家やフェミニストは、「人間」と「マシン」、「科学」と「SF」の境界線をぼやけさせるサイバネティクスを、あらゆる二項対立を「脱構築」するものとして好意的に取り上げ、また、サイバネティクスカウンターカルチャーの世界にも根を張った。『ホール・アース・カタログ』で有名なスチュアート・ブランドもサイバネティクスに影響を受け、読者と世界との間でのフィードバック制御を実現するものとして雑誌を創刊したのだという。

Rise (and Fall) of Machines

サイバネティクスの神話は、決してユートピア的な明るい世界のみを語るものではなかった。新たな未来像が描き出され、アイデアが生み出され、技術が想像力へと追い付きそれを上回る(上昇)ものの、予想/約束された未来は到来せず、更に先の未来へと移し替えられ、ある種ディストピア的な世界観が支配的になって(下降)ていく。

既に1950年代にはウィーナー自身も自動化された戦争によるマシンの支配を予想していた。オートメーション化による労働力の過剰と技術的失業も、当時から今に至るまでずっと懸念されていたという。暗号通信が確立し本格的にサイバー化された社会は、サイバー戦争という新たな戦争を生み出した…

現在、大ざっぱに「AI」という旗印のもとにある技術と文化も、既に「サイバネティクスとサイバー」のもとで語られてきたことだと言える。「サイバネティクス」の歴史に留まらず、現在の情報テクノロジーの全体像、技術と文化全体を捉えたいと考える人に本書を薦めたい。

「人工知能と仕事」に関する本を2冊読んだ

AIは人間の仕事を奪うのか?~人工知能を理解する7つの問題

AIは人間の仕事を奪うのか?~人工知能を理解する7つの問題

タイトルにこそ「仕事」が入っているものの、仕事、ベーシックインカムから法律や倫理まで広く扱った本。
議論提起型の両論併記な書き方をされていて、安直にAIの期待と恐怖を煽るわけでも一方的に否定するわけでもない、良心的な本だった。

こちらは、労働ジャーナリストの著者による「仕事」のみに焦点を当てた本。

直近の未来における労働と雇用のあり方について、実務を知らないAI研究者が想像した話ではなく、各種統計と実務者へのヒアリングから、短中期的なタイムスパンでの現実的なシナリオを検討している。

短期的には、テクノロジーによって雇用は大きな変化を受けつつも、トータルでは「人口減による労働力減少」、「テクノロジーによる雇用代替」と「テクノロジーによる新たな雇用創出」がほぼ釣り合うのではないかと試算されている。それは、以下のような理由があるからだという。

  • オートメーション化可能なデータ処理や単純作業は、既に大半が実現されている
  • AI化以前でも、単純なIT化による省力化の効果も大きい
  • 完全な自動化と雇用代替にはロボティクスの発展が必要

中期的な予想のポイントとしては、AIとロボットによる雇用代替よりも前に、まず「すき間労働」の世界が来るとしている点だろう。もしも機械化が進んでいくならば、機械(資本)の価値は低下する一方で労働の価値は上がるため、人手不足と賃金増が続いていく。(この点は、ノードハウス氏の指摘と似ている) そこで、労働者は、細切れの、習熟やノウハウが不要であるが高賃金の仕事に従事するのだと言う。著者によれば、この「すき間労働」の期間に来たるべき完全なベーシックインカム社会への準備を進めるのだという。

直近15年程度の近未来予測としては比較的説得力があるものの、長期的な予測についてはほとんど根拠も無くシンギュラリティだのマインドアップロードだのと言い出すのは、ご愛嬌と言ったところ。

 

フレイ&オズボーン論文 (オクスフォード大学の研究) について

どちらの本も、2013年のフレイ・オズボーンによる『雇用の未来』論文の功罪について触れている。

約5年前、「近い将来、47%の職業が失われる」とセンセーショナルな報道が盛り上がったことを記憶している人も多いだろう。きっかけになったのが、しばしば「オクスフォード大学の研究」と呼ばれるこの論文、『The Future of Employment』である。

この論文の手法は、端的に言えば「その職業は自動化が可能かを、研究者が主観的に評価する」というものであり「原理的に自動化できると考えられるのか」を確率的に評価するものである。論文中にも明記されている通り、「いつ、いかなる方法で実際に自動化されるのか」は、この論文のテーマの範囲外になる。

現実に仕事が自動化・機械化されるためには、機械化に対するニーズ・コスト効率や、政治的な原因も絡んでくる。

この論文は、「機械化による雇用の喪失」を定量的に扱ったという点に一定の意義はあると思うし、「AIと雇用」に関する議論に大きく注目を集める効果があったことは否定できない。けれども、予測の手法や議論の前提やスコープが省略され、センセーショナルな結論だけが取り上げられたことにより、AIに対する過剰な期待ないし反発が生まれているように見える。

少し前に英国で「人工知能は将来、人間の47%の仕事を置き換える」というショッキングな研究が出された。これは日本でも話題になったが、欧州でも当然、驚きを持って受け止められた。ところでドイツでは、この問題に関して、追検証のスタディを複数の研究機関に委託した(ドイツは連邦制なので、各地の州政府が独立して動く気風がある)。

その追試研究の結果の数字はまちまちながら、ドイツでは「せいぜい1割程度」という答えとなった。それでも、その報告を重く見て、ドイツは「雇用(Arbeit) 4.0」という次の国家プロジェクトを始動した。同じ時期、日本では、この研究を客観的に再評価する指令を、国や財界が学会に下したという話を聞かない。むしろ47%という数値を、あちこちの人が我田引水や威かしのために、メディアで触れ回った印象しかない。

欧州におけるIndustry 4.0 − その虚像と実相(1) : タイム・コンサルタントの日誌から

どちらの著者も、AIに対する過剰な期待や恐怖が反転して、「なんだ、AIなんて大して仕事に影響しなかったじゃないか」と過小評価に継がることを懸念しているのではないかと思った。私自身も新テクノロジーが産業構造に影響を与えることは当然といえば当然だと思っているので、地に足の付いた議論が増えてほしいと思う。

 

書評:核融合研究 錯誤と不正の歴史『Sun in a Bottle』(チャールズ・サイフェ)

Sun in a Bottle: The Strange History of Fusion and the Science of Wishful Thinking

Sun in a Bottle: The Strange History of Fusion and the Science of Wishful Thinking

数年前、ロッキード・マーティン社が、10年以内に小型核融合炉を実用化すると発表したニュースを覚えている人は居るだろうか。当時も、核融合研究の将来性と未来のエネルギー供給に対する、なんとなしの楽観論が広がっていたように思う。どうやら、核融合には私たちの心を捉えて離さない「何か」があるらしい。

本書『Sun in a Bottle』は、副題にも表されている通り、核融合研究の失敗史を通して、その「何か」--希望的観測 (wishful thinking) -- が、どんなふうに表れるのかに迫った本だ。

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著者チャールズ・サイフェは、数学とジャーナリズムの修士号を持つ著名科学ライター。日本語には、『異端の数ゼロ』、『宇宙を復号する』といった本が翻訳されている。後述する通り、Science誌のニュース記者として働いていた経歴があり、核融合に関する科学スキャンダルにも若干の縁がある人だ。

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核分裂核融合について、簡単にまとめておく。(2章、1章)

核分裂核融合も、根底にある原理は同じものだ。物理学に詳しくない人でも、アインシュタインの等式 E=mc^2 を一度は眼にしたことがあるのではないかと思う。この式は、(原理的には) 質量m が、光速cの二乗を掛けた膨大な量のエネルギーE へと変換できることを述べている。核分裂の場合は、ウランやプルトニウムのような重く不安定な原子核が分かれる時、核融合の場合は、(重)水素のような軽い物質の核がくっつく際に、わずかながら質量が失なわれる。その失われた質量が、熱などの形でエネルギーに変わる。太陽や夜空の星が輝くのも、その内部で核融合が起こっているからだ。

核物理学の物理理論は1930〜1940年代ごろまでにほぼ発見され、商用核分裂炉の実用化とほぼ時を同じくして核融合炉の研究開発も始まった。1952年には、アメリカの水素爆弾実験アイヴィー・マイクによって、核融合を人工的にも発生させられることが証明された。以来60年以上にわたって、核融合反応から持続的にエネルギーを取り出す方法の開発が進められている。

しかし、核分裂炉は、もともと不安定な物質を使うため、(核融合と比較すれば)容易に実現できる(それゆえに暴走の危険もある)のに対して、核融合炉は普通の環境では自然には進まない反応を利用するため、反応を発生させ持続させることは非常に困難であることが分かったのだ。

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本書は、核融合炉研究が始まる少し前、原子爆弾(核分裂の爆弾)および水素爆弾(核融合爆弾)の研究開発から語られる。核融合研究の科学的・工学的側面の説明と共に、研究者たちの人間模様にも光が当てられている。ややドラマチックすぎるようにも感じるものの、小説のように面白く読めた。(核物理学の専門用語を除けば、英語の文章も明快で非常に読み易いと思う)

優秀な物理学者でありプロジェクトマネージャであったものの、身内に多くの共産党員が居たためにソ連のスパイではないかと疑われた「原爆の父」ロバート・オッペンハイマーと、共産党政権下のハンガリーからアメリカへと亡命し、それゆえに強硬な反共・反ソ派である「水爆の父」エドワード・テラーの確執と対立。(1章) オッペンハイマーは反原子力運動にかかわり、核物理学の研究から追放されることになる。その後、テラーは水爆を開発し、土木工事のために水爆を用いる "plowshare" 計画を進めるものの、放射能汚染の問題を解決できず、結局計画は放棄されてしまう。(3章) テラーは、変人的なまでの楽天主義者であったという。同僚科学者は、楽観の度合いを表して「1テラー」という単位を使っていたそうだ。

核融合炉研究における不正と錯誤の歴史は、研究自体の歴史と同じ程度に古い。さしたる物理学上の業績もないまま、アルゼンチンのフアン・ペロン大統領に取り入り、全世界に「人類初の制御核融合実現」を宣伝した元ナチスの科学者ロナルド・リヒター。やはり世界中に成功を宣伝したものの、結果的に実験装置の不備による誤検出であったと判明した、英米の共同研究プロジェクトであるZETAプロジェクト。(4章)

それでも、1950年代〜1960年代ごろまでにはアメリカで、その後世界各地でも、短時間の制御された核融合反応が実現した。ただし、そのためには外部から大量のエネルギーを投入しなければならず、対して発生したエネルギーはごく僅かなものではあった。

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核融合反応を起こすためには、互いに反発し合う原子核同士を、極めて近い距離まで接近させる必要がある。そのためには、燃料となる重水素を、超高温かつ超高圧に保たなければならない。水素爆弾の場合は原爆の熱エネルギーが、恒星の場合は巨大な重力がそのエネルギーを供給している。

数十年以上にわたって、「超高温かつ超高圧」を実現するための方式として、2種類の方法が研究されてきた。電磁力を用いて重水素のプラズマを狭い範囲に圧縮する「磁気閉じ込め方式」、もう1つはレーザー光線の照射で燃料を圧縮する「慣性閉じ込め方式」だ。しかし、研究が進められるにつれて、磁気閉じ込め方式も慣性閉じ込め方式も、小規模の装置では核融合反応を実現できないと判明した。装置の規模は巨大化し、その建設費用も1国の予算では到底賄えない規模にまで膨れ上がっていった。(5章)

常温核融合という「科学史上最大のスキャンダル」が発生したのは、核融合の新たな原理が求められていた、ちょうどそんな時代であった。

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1989年に発生した常温核融合の騒動 (6章) にはかなりの紙面が割かれている。「常温核融合」を「発見」したのは、アメリカ、ユタ大学のポンズ教授とイギリス、サウサンプトン大学のフライシュマン教授だ。彼らは、核物理学を専門とする物理学者ではなく、化学者であった。核融合炉の実験炉の建設費用は数十億ドル、数百億ドル単位にも達しようかという時期、2人の研究者の主張によれば、ビーカーに入れた重水にパラジウムの電極を使って電気を流すだけで核融合反応が発生するのだという。

おそらく、2人の教授が観察した現象は、最初はちょっとした思い込みと実験条件の不備だったのだろう。(当時アメリカで行なわれていた核実験から生じた放射性降下物の混入を、核融合の生成物と取り違えたのではないかと言われている) 次第に、新たな発見がメディアから注目され、州・連邦政府から補助金が支出される計画が立てられるに従い2人は後に引けなくなり、実験結果の改竄にまで手を染め、科学会から追放されアメリカを去るハメになってしまう。

常温核融合スキャンダルの展開は、まるで研究不正のテンプレートのように見える。科学論文の発表よりも、一般メディアのプレスリリースを通して大々的に世間の注目を集めたこと。当初は、他の科学者からも「追試に成功した」という報告があったこと(その後ほとんど取り下げられた)。次第にネガティブな結果が増えていっても、当の本人たちは決して自身の誤りや不正を認めなかったこと。最後は、科学的な議論よりは社会的・政治的なレベルで決着を付けるしかなかったこと。これは近年の研究不正の騒ぎとも酷似している。

ちなみに、発表当初から2人の教授を擁護したブリガムヤング大学のスティーブン・ジョーンズ教授は敬虔なモルモン教徒でもあり、その後「ナザレのイエスは、実は中央アメリカを訪れていた」ことを証明しようと試みる研究に入り込んでいったというオマケが付いている。

その後も、1990年代のバブル核融合 (7章) において、常温核融合の悲喜劇は繰り返されることになる。潜水艦モノの映画が好きな人であれば、スクリューから生じる「キャビテーションノイズ」という言葉を聞いたことがあるかもしれない。単純に言えば、船のスクリューなどにより液体が高速で動かされると、液体の内部に「キャビテーション」という(真空の)小さな泡が生成される。ここで観察されたバブル核融合は、重水素を含む液体 (アセトン) に超音波を当てた際に生じるキャビテーション内で生じるとされた。泡が潰れる時にその内部は高温高圧になるため、そこで核融合反応が起きることが「観測」されたという主張がされたのである。付け加えておくと、キャビテーション内部の温度と圧力は、核融合が起こると考えられていた条件よりも数桁低く、発見者のグループ以外の研究者は誰も追試に成功していない。

バブル核融合の論文がScience誌に受理されたとき、サイフェ氏はScience誌のニュース編集部 (査読論文の編集部とは別部門) に勤務しており、一連の騒ぎを "ground zero" で目撃することになった。かなり早い段階から、彼は論文著者や査読者とコンタクトを取り、独自の取材と考察を深めていった。論文誌の査読プロセスの自律性を守ろうとするScience誌の編集長と、常温核融合の二の舞を防ぎたい核物理学コミュニティ(特に、論文著者の所属機関であるオークリッジ研究所) の間の綱引きへと、否応なしに著者は巻き込まれていく… バブル核融合の顛末は、著者が騒動に近い場所にいたこともあり、非常に臨場感があって面白かった。

***

主流派の核物理学者たちも、大して好成績を挙げているとは言い難い。1985年に米ソ間の合意から始まった国際的な核融合炉研究プロジェクト「ITER」は、各国の政治的な思惑から遅れに遅れ続け、建設地を決めるのでさえ20年近く要するありさまだ。当初計画では2018年には稼動開始の予定であったものの、現在でも更に遅れが続いている。

私も明確には知らなかったのだけど、これら現在実際に進行中のプロジェクトは、あくまで「核融合とプラズマ」に対象を絞った一種の学術研究であり、「実用的な発電所」の実現を目指したエンジニアリングではないのだという。持続的に核融合反応を継続させることは、おそらく可能ではある。それでも、発生したエネルギー (中性子) を吸収して、熱を発生させて、利用可能な形でエネルギーを取り出す方法の開発は、こういった「核融合炉」プロジェクトの対象外である。たとえて言うならば、「薪木」に点火して燃やし続ける方法はようやく分かってきたものの、火にくべて湯を沸かすための「ヤカン」の作成方法を理解するには、まったく別の研究を進めなければならない。だから、今のところヤカンの耐久性、運用方法や処分方法もよく分かっていないというのだ。

核融合の研究においては、ほぼ60年の全史を通して、あまりに度が過ぎた楽観主義と錯誤、最悪の場合は研究不正が繰り返し繰り返し起こってきたことが、豊富な事例をもとに示されていた。

***

最終章 (10章) では、科学研究の推進力であり不正と失敗の温床でもある「希望的観測」についての考察が取り上げられている。

テクノロジーの開発は、「かつて不可能だったこと」を可能にするものだ。これまで不可能だった領域に、前人未踏の領域に踏み込み、かつて誰も成し遂げたことのない新たなテクノロジーを開発するためには、何らかのビジョン --「世界をこう変えたい」という希望と信念-- が必要とされる。--「無尽蔵のエネルギー」、「人間レベルの知能」、「不老長寿」など。こういったビジョンは、科学者が直接的に言及することは少なくても、科学研究を裏付ける原動力なのだ。テクノロジーには、希望的観測を実現していく力があることは否定できない。

ところが、この「希望的観測」が暴走したり悪用されたりした場合、存在しない現象を観察・捏造してしまったり、既に間違いが示された結論を延々と擁護し続ける状況に陥ってしまう。最後は、社会がそのビジョンを是認するか否かという、科学的な根拠と論理とは別レベルでの決着となることがある。この種の社会的レベルでの決着は、たいていの場合、科学コミュニティそのものを傷つけ、更には「自身の権威や利権が脅かされることを恐れた守旧派科学者の圧力だ!」という陰謀論を産み出し、いっそう深く永続的な傷をもたらす場合すらある。

科学とテクノロジーは、希望的観測に対する解毒剤となる一方で、希望的観測そのものとなってしまう場合もあるらしい。では、一体科学におけるビジョンと希望的観測をどう扱えば良いのだろうかという問題に、本書は明確な解答を示していない。おそらく、誰も解答を与えることはできないだろうと思う。それでも、我々が自身の思考パターンから逃れられないのならば、せめてそのパターンの存在を知っておく必要があるのだろう。

***

本書は少し古いため、近年の状況には追い付けていない部分もある。たとえば、著者は核融合炉の研究よりは既に実用化された核分裂炉の利用を推進するべきだと述べているものの、福島第一原発の事故を見た後では安直に原発を推進する気にはなれないのではないだろうか。

それでも、ITER計画は遅延と予算超過が延々と続き、常温核融合の子孫を奉じるフリンジ的な科学者グループが論文ではなくプレスリリースを公表している状況を見る限りでは、本書で書かれた状況はそれほど変化していないのではないかと思う。核融合を専門とする研究者が語りたがらない失敗史、そして科学研究の裏にひそむ「希望的観測」の分析として、稀有で有用な本だった。

なお、最初に取り上げたロッキード・マーティン社の小型核融合炉は、その後ひっそりと、当初の設計サイズの100倍に巨大化する可能性があるという報道がされている*1。おそらく、この小型核融合炉も「希望的観測」の新たなページを刻み、その後世間から忘却されることになるのだろう。

The real danger of wishful thinking comes not from the individuals but from the wishful thinking at the very core of the science, is what makes the dream of fusion energy so dangerous to science. (p.225)

希望的観測の本当の危険は、個人からではなく科学の最央部にある希望的観測から生じる。これが、核融合エネルギーの夢を科学に対して極めて危険なものとしている。

【Deep Learning with Python】Kaggleアカウント登録方法とデータのダウンロード

次の例では、Kaggleというデータ分析コンペのサイトで公開されているデータセットを使って、CNNで分類をする。

Kaggleのアカウント登録

Kaggleのサイトからアカウントを登録する。SNSのアカウントを使っても良いし、メールアドレスから登録してもOK。

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今回はメールアドレスからアカウントを作成してみた。 Usernameはユーザ名、Display NameはKaggleのサイト上での表示名になる。なお、Display Nameは登録後にも変更できるけど、Usernameは変更できないので注意。

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送られてきたメールのリンクをクリックして、メールアドレスを確認すれば登録完了。

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ざっとコンペの内容を見てみると、コンテストという体裁を取った、企業からのデータマイニング案件の外注サイトのようにも感じる。

その他にも、データサイエンスと機械学習の学習コンテンツなどもあるようだ。

Learn | Kaggle

データのダウンロード

今回の例では、"Dogs vs. Cats"というデータセットを用いる。

Kaggle|Dogs vs. Cats

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"Download" をクリックしてデータをダウンロードする。このとき、初回ダウンロード時のみ、携帯電話のSMSを使った認証をする必要がある。 その後、"train.zip"と"test1.zip"の両方をダウンロードしておこう。(合計で800MBくらいあるので少し時間がかかる)

ダウンロードしたzipファイルを展開すると、いぬぬこ画像がたくさん展開される。

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本日はここまで。次回からはこのデータをディープラーニングを使って分類していく。

感想文:近代日本一五〇年――科学技術総力戦体制の破綻 (山本義隆)

確固たるエネルギー観に裏打ちされた、重厚な日本文明論。幕末の「黒船」到来から、平成の「福島」の原発事故までを俯瞰し、日本の歪んだ「科学技術立国」観に対して見直しを迫る名著だった。


著者の山本義隆氏を初めて知ったのは、私が受験生の頃でした。その頃は、硬派な物理の参考書を書く駿台講師としてしか認識していなかったけど、実は1960年代の東大物理学科の在学中に東大全共闘議長を務め、その後は在野で科学史の研究を続けているという特異な経歴を持った方です。

経歴から想像できる通り、日本の科学技術に対する著者の見方は極めてシビアです。明治以降日本の科学技術の受容においては、その裏にある思想を欠いたまま、生産力増強による経済成長を至上命題として科学技術の振興が図られたことが示されています。その根底にある流れは、明治期の「殖産興業・富国強兵」から戦時中の「総力戦体制」を経て戦後の「経済成長・国際競争」まで、一貫して引き継がれています。

印象深いのは、自分が好きな研究を続けるためであれば、体制におもねり合理性と科学的態度や見解を歪めてしまう科学者の情けなさです。戦後、科学者に対して行なわれたアンケートで、学問の自由が一番保障されていた時期は「戦時中」であるという回答が多かったことが記されています。そして、戦時に協力する対価として自由と豊かさを謳歌した研究者たちが、戦後、戦争協力に対する「総括」をすることもなく「科学技術の不足によって日本は戦争に負けたのだ」という責任逃れの言説を広め、戦後もほぼ無傷のまま「科学技術振興」は継続されました。(日本は科学技術の不足が原因で中国に負けたわけではない) 戦後も、公害問題から原子力政策に至るまで、経済成長と体制擁護のために科学者自身が「科学」を歪めていたことが記されています。

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もう一つ印象深いのは、著者の確固たるエネルギー観です。人畜の筋力から化石燃料の利用による蒸気機関・電気へという「エネルギー革命」、そしてエネルギー革命の「オーバーラン」たる原子力エネルギーへの幻想と失敗までが大胆に繋げられています。

しかし増殖炉開発計画の事実上の破綻と、福島第一原発の事故は、科学技術の限界を象徴し、幕末・明治以来の一五〇年にわたって日本を支配してきた科学技術幻想の周縁を示している。
科学技術の進歩によってエネルギー使用をいくらでも増やすことができ、それにより経済成長がいくらでも可能になるというようなことがありえないことを示したのである。(p.289)

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本書全体を貫く視点は、一貫して「反権力」であり、「体制外」のものです。そのイデオロギー的な単純な世界観にはやや首肯できない部分もありますが、おそらく、著者の市井の研究者としての生き様が反映されているのだろうと思います。しかし、ユートピア的・夢想的な科学技術幻想の裏に隠された、国家と企業のエゴイスティックな利害と抑圧に対する指摘は、極めて重要であると感じました。

「合理的」であること、「科学的」であることが、それ自体で非人間的な抑圧の道具ともなりうるのであり、そのことの反省をぬきに、ふたたび「科学振興」を言っても、いずれ足元をすくわれるであろう。(p.214-215)

『シンギュラリティ教徒への論駁の書』自選10記事

過去、『シンギュラリティ教徒への論駁の書』で書いた記事の中で、自分が気に入っているものをまとめておきます。 

『論駁の書』の論旨に沿って時系列でまとめているので、以下の記事だけでも私のシンギュラリティ懐疑論の骨子が理解できると思います。

問題の難易度と複雑性の指数関数的な増加が、指数関数的的な成長をオフセットしてしまう…「指数関数的な加速論」に対する、わりと本質的な批判だと思う。

ブログ初期のヒット作。「進歩」が加速しているという説を反駁しつつ、第2部のテーマである「停滞と没落」の予告も盛り込んだ意欲作。(ちなみにこのころは、すぐに2部を始める予定だったのです)

マインドアップロードの難易度の見積もりの過小評価に対するわりと根本的な批判だと思う。

リスクマネジメントにおける「(期待値)=(発生確率)x(インパクト)」の議論を、発生確率が極小でインパクトが無限大の事象に適用すると、途端に非合理的な結論が生じる、という状況を指して「パスカルの賭けの誤謬」という言葉を造語してみた記事。

純粋な情報分野ではない、社会インフラや生命科学や制度の変化には時間を要する。そういった状況を「質量」の大きさにたとえて、「社会の慣性の法則」という語を造語してみた記事。

ありがちな話ではあるけれど、「なぜ地球外知的生命体が観測できないのか」という「フェルミパラドックス」の宇宙論に関する話から、資源減耗と環境問題について話を繋げ、人類文明の行く末について論じられたので、古い知人からの評判が良かった。

氏の過去発言をまとめただけだけど、氏の予測に対する根本的な批判になっていると思う。

たぶん、全エントリの中で一番時間の掛かった労作。しかし、労力のわりにあまりバズらなかった哀しい記事。

「性格の悪さがにじみ出ている」と言われた記事。それでも、「認知的不協和」理論の実社会での事例として面白いと思っている。ちなみに、『論駁の書』の目次ページの日付を2045年「12月21日」に設定しているのは、この本へのオマージュだったりする。

最後は翻訳記事。「知能爆発」 説に対する極めて本質的かつ決定的な反駁だと思う。かなり有名な人工知能研究者にも読まれ、数ヶ月経っても未だにシェアされ続けているので、訳した甲斐があったと思う。