Going Faraway

渡辺遼遠の雑記帳

翻訳:時の果ての踊り子たち Part 1: 理性からの逃走 (ジョン・マイケル・グリア)

ジョン・マイケル・グリアによる2019年10月30日の記事の翻訳です。

Dancers at the End of Time, Part One: The Flight from Reason

かなり長い間、我らが時代の最大級に奇妙な特徴について語る方法を私は考えてきた - ある種の、とてもシンプルな思考方法が、突然に、豊かで教育も教養もある人々、何があろうともその思考方法に固執するであろうと考えられてきた人々、の頭からすっぽりと抜け落ちてしまうことである。幸運にも、偶然目にした3件の記事のおかげで、私が考えていることが、とある迷宮を通る1本の糸であることが分かった。古くからの私の読者は、その3件の記事は、奇妙な取り合せになるだろうと予想しているかもしれない - そして、実際のところその通りである。お堅い雑誌に掲載された、哲学者による堅固に考えられたエッセイ、レズビアンの神学徒によるブログ記事、恋人がある種の狂気に陥っていく様子を目撃した若い女性によるソーシャルメディアフォーラム上の投稿である - しかし、すべてを合わせると、この3つの記事は我らが時代の危機の、最も認識されていないにもかかわらず最も重要な特徴を指し示しているのである。

哲学者、アラン・ジェイコブズのエッセイから始めよう。そのエッセイのタイトルは『キャンパスにおける覚醒と神話』であり、ニューアトランティス誌に2年前に掲載されたのだが、私が注目したのは先週であった。このエッセイには優れた点が多数あるが、その中でも、私が今考えている思考方法の崩壊が、詳細に、整理されていることである。

[ジェイコブズの記事は、大学生の政治的過激化と社会の分断について説明するもの]

『たぶん私はこれを一人称に変換したほうが良いだろう。それは、3年前[2014年]、タナハシ・コーツがアトランティック誌で、有名な『[奴隷制に対する] 損害賠償の論拠』というエッセイを発表したときの経験を部分的に説明しているからだ。Twitter上で友人と会話して、私が言ったのは、そのエッセイは奴隷制時代と後のジム・クロウ法時代の余波およびその後の状況が、今なお続く[アメリカ黒人の] 破滅的な結果を生み出していることについて、圧倒的なまでに力強い論拠を提示していると考えたけれども - 同時に、コーツは、実際のところ、賠償金の支払いこそが、そのような悲劇的な状況に対処する最も適切な方法であるという主張の論拠を示せていないとも感じたのである。友人たちが私に言ったのは、「オマエは人種差別の現実を否定している。」ということだった。その後何を言っても、コーツのエッセイすべてを私が拒否したという友人たちの誤解を解くことはできなかったのだ。』

少なくとも、理論上は、目的と手段を、目標の説明とそこへ到達する手段の提案を、あるいは、何かが非常に間違っていると認めることと、ある特定のプログラムがその問題を解決するための最適な手段であると認めることとの区別をはっきりとつけて考えることは、それほど難しくないように思える。ジェイコブズの友人たちは、このような比較的シンプルな思考活動すらできなかったように見える。彼の経験談がこれほどまでに意義深いのは、今日では我々のあまりに多数が似たような経験をしてきたからだ。

私の場合の同等の話、つまり、我らが時代の集合的思考に何らかの非常に、非常に良くないことが発生したのだと確信した出来事は、ドナルド・トランプの選挙後数ヶ月間に起こった。何百万人というアメリカ人がトランプの立候補を受け入れたという不都合な事実に直面して、ヒラリー・クリントンに投票した人たちは、トランプに投票した人は皆レイシストに違いないと主張したのである。このようなリベラル派のヘイトスピーチがあまりにたやすく反証可能であるという事実も、影響を及ぼさなかった; 私よりもはるかに影響力のある多数の人々たちが、トランプを大統領とすることは、トランプが破壊せんとしている破綻済みの超党派コンセンサスをもうあと4年間続けることよりも、有権者たち自身と家族とコミュニティにとってほんの少しだけ破滅的ではないギャンブルであるという問題を詳細に議論したことも、影響がなかった; トランプを大統領とした上中西部の人口分布は、8年前、バラク・オバマホワイトハウスに送り込んだときの人口分布とまったく同じであったという事実さえ、まったく影響を持たなかった。

もし、これらのことを「ヤツらは単なるレイシストだ。」と繰り返す人々に対して指摘したとすると - イエス、私はオンラインでもオフラインでも一度ならずそう試みたのだが - その反応は (少なくとも、私が受けた反応は) 真なる信仰者にはありがちな遠い目をして、反論を試みたのとまったく同一の論点を繰り返すだけであったのだ。もしも、民主党員が2020年のトランプ再選を阻止したいと望むのであれば、まさに民主党員がレイシストとして退けた有権者たちの信頼を取り戻す必要があり、その同じ有権者たちにおそらく誤った中傷を投げかけたとしても主張を受け入れさせることはできないだろうと指摘することさえ、無意味であった。私がそう言ったときに受けた反応は、お分かりの通り、再び遠くを見つめて、論破されたお決まりの論点をもう一度繰り返すのであった。それは、率直に言ってきわめて不気味な光景であった。

エッセイの中で、ジェイコブズは、この種の会話に示される奇妙な疑似ロジックの背後に存在している事象に対して、正確な診断を提供しているように思える。ポーランドの哲学者レシェク・コワコフスキのアイデアを引用し、ジェイコブズは、非常に広く言って、世界を理解するための2つの方法 - コワコフスキの用語では、2つのコア - について述べている。それらは、我々自身の社会も含むあらゆる人間社会で重要な役割を果たしている。一つは、神話的なコアであり、もう一方は技術的なコアである。(後者の用語は、私にとってはほとんど皮肉のように思える。それは、 技術 テクノロジー は現代の神話的思考において最も一般的なテーマであるからだ。しかし、その語はコワコウスキが選んだものである。) 技術的なコアとは、我々が世界を操作可能とする一連の行動と知識を指す; 神話的なコアは、一方で、人間経験の非理性的な背後へ達する一連の行動と知識である。

ジェイコブスの推測によれば、今日のあまりに膨大な人々が「技術的コア」を見失ない、「神話的コア」の中からだけで考えているというのだ。そのような思考の神話的モードからは、問題と解決策の区別も、ましてや、ある人の投票行動の動機を理解し、彼らの心を変える方法を見いだすことはまったく視界に入らない。ジェイコブズの指摘するところによれば、大学キャンパスなどにおける「目覚め」の文化は、その代わりに冒涜やタブーといった古風な神話的概念に依拠しているのだという。誤った意見、およびそのような意見を持つ人々は集団から排除されなければならない。なぜならば、それらは恐しい瘴気を運んできて、近づいた者は呪われてしまうかもしれないからだ: それが、「安全空間」と「トリガリング」からの逃走のロジックである。

私は、ジェイコブズのこの診断は極めて正しいと思う。この議論を更に先へと進めるためには、けれども、彼がコワコフスキから借用したいくつかのアイデアを再検討し、コワコフスキが考えるよりもさらにあいまいで広がりを持つ、現代社会における神話と理性の理解を調査することが必要となるであろう。

それでは、数式の神話側から始めよう。神話 [myth] とは正確には何であろう? ギリシア語の単語 μυθος ミューソス、の元々の意味は、単に「語ること」 であった。その後に、"真に重要である語り" という意味を強調したにすぎない: すなわち、我々はどこから来たのか、我々は何者であるか、そして我々はどこへ行くのかを教える物語である。それでも、根本的な意味は中心に留まり続けている: 神話とは、物語である。それにはキャラクターがいて、設定があり、プロットがある; マーク・トウェインが言ったとおり、あらゆるすぐれた物語は、どこかへ行って何かを行うものである - そして、どこへ行くか、何を行うかは、人間の生涯において中心的な機能を持つ。

読者諸君が小さな子供であったころ、親は寝る前に同じ物語を毎晩毎晩読み聞かせただろうか?そうであるならば、あなたは神話を自然生息状態にて経験したということになる。お馴染みの物語の繰り返しは、すべてと言わずともほとんどの人間文化において子育ての中心的な要素なのである。なぜなら、そのような物語から、子供たちは個人的、社会的、そして自身の住む自然世界にまつわる最も重要な態度と価値観を吸収するからである。これらの物語は、逆に、そのようなものごとを理性的、論証的に伝えるわけではない。むしろ、空想的な関与を通して伝達するのである。

それが、等式の一側面である。それでは、コワコフスキの誤解を招きやすい「技術的」という用語を無視して、等式の逆側を「 実際的 ラクティカル な」側面と呼ぼう。人間の経験の神話的モードが関与型である一方で、実際的なモードは、道具型である; そのモードは、我々が何かを実現したいと考えたとき、あるがままの世界に関与するだけではなく、世界の中で行動したいと思うときに使う方法である。神話的モードのなかで考えているときに鳥が飛び去るのを見れば、ある意味では、その光景がもたらす空高く飛び立つ自由を経験することができる; 実際的なモードで思考しているときに同じ鳥が飛び去るのを見れば、翼の機能を解明しようと挑戦し始めるであろう。

もし私がコワコフスキを正しく理解しているならば - もし間違っていれば、喜んで訂正を受け入れたいと思う - 彼はこの2つのコアを異なるものとして見ていたようだ。全般的に、人間は、どちらかのモードだけを通して世界にアプローチするのである、と。彼の「技術的」という用語の使用法が誤解を招くものであるのと同じく、シンプルだが深い理由により、私にはこれも誤りであるように思える。実際的なモードは、何かをどのように行えば良いかを教えてくれるが、しかし何をすれば良いのかは教えてくれない。実践的なモードを使えば翼の機能を理解できるが、けれども、ライト兄弟に最初の飛行機を作ることを夢見させたのは、実際的なモードではなかった; それは、翼を使い飛ぶ鳥を見るということ、そして、人間も同じことができるはずだという物語を熟考するという関与型の経験から来た、空を飛ぶ夢からもたらされたのだ。手段と方法は実際的な経験のモードからもたらされるが、目標や目的や価値は、完全に神話的モードからもたらされる。

これが議論の余地のある主張であることは、私も理解している。今日の工業諸国のほとんどの人々は、自分たちは神話を信じていないと強く主張し、自分たちが信じていない物語のみを指して「神話」という語を使用するようになった。それでも、さほどの努力を要せずとも、今日の人々が自身の人生に意味、目的や価値を与えるために神話的な物語を使用していることを読み取る方法を学習できる: そのような神話の使用は、生産的な場合もそうではない場合もある。

1960年代から70年代には、交流分析として知られる精神科医の一派が、神経症および人格障害に対するナラティブアプローチを開発した。その物語の非常にシンプルなバージョンは、精神的な問題を抱える人々は、自滅的な脚本を生きているという発見であった: そのような物語の患者自身は無自覚であるが、他の人々とのインタラクションに強力な重力的引力を行使する。もしも患者が、自身の演じる脚本を認識するようになれば、魔法は解け、いくらか機能不全的ではない方法で人生に向かう方法を学べるのである。交流分析は、精神的な治療職に対して製薬産業が強力なプレゼンスを獲得して以降流行遅れとなってしまったが、交流分析の発見は、それ自身のイメージの中で価値観と目的を形成する物語の力の生き証人として留まり続けている。

我々のほとんどは、自分の人生を形作る物語との間で、それほど問題のない関係を保っている。その物語がどのようなものであるか確固たる認識を抱いているかもしれないし、そうではないかもしれないが、我々が何に価値を置くか、何が人生に意義を与えるのかを知っている。人生の価値や意義を知った上で、我々は実際的なモードに転じ、それらを自身の人生にもたらす方法を考え出すのである。その結果は、神話的モードと実際的モードの対話であり、そこでは神話的モードが目的を提供し、実際的モードが手段を提供する。けれども、それだけに留まらない。なぜなら、何が現実的に到達可能であるのかについての実際的な省察が、必然的に、いかなるゴールに価値を置くかという我々の考えを形作るからであり、一方で、何に価値を置くのかという神話的な省察が、必然的に、目標へ辿りつくために用いる手段についてのアイデアを形作るからだ。

(よくある誤解を予防するために、人間が自分自身と、相互に、あるいは世界との関係を築く方法は、経験の神話的モードと実際的モードの2つのみではないと指摘しておかなければならないだろう; それ以外のモードも存在する。たとえば、エロティックなモードもある。神話的モードが価値と意義に関わり、実際的モードが手段と実用性に関わるのに対して、エロティックなモードは欲望と充足に関わる - 性的なコンテキストのみではないが、けれども、それにも関係する。比較的バランスの取れたパーソナリティにおいては、神話的モードと実際的モードが交流に入り、代わって、エロティックなモードもまた会話に参加する; エロティックモードが我々の欲求を形作り、実際的モードがそれを獲得する方法を探す。そして、神話的モードが、欲望とその充足を人生の意義と価値というより広いコンテキストに置くのである。)

だから、我々の精神の中にはさまざまなものが存在するが、我々が関与する神話的あるいは半神話的な物語というものが存在しており、それが意義や価値の感覚を与える。また、我々には、道具的に評価する実際的な関心事項があり、それが意義や価値の感覚に沿って行動するためのツールと選択肢しを与える。ここで概略を示した分析の用語を使い、ジェイコブズは、「目覚め」の文化に参与する大学生は、政治問題に対する際に実際的なモードを見失い、実際的なモードがもたらすはずであったリアリティテストの利益や現実性への感覚を失い、政治問題に純粋に神話的な視点から反応しているのだという。

私が言及しようと考えていた2つ目の、偶然眼にした記事が、この推測を強く支持している。書き手は、トランスジェンダーの問題に関心を持つ、恋多きレズビアンの神学徒 (本人の自己紹介による) で、ジェーンというハンドルネームを使っており、また彼女のブログは「トッピングは定言命法に反する [Topping Violates The Categorical Imperative]」という題を付けられている。(オンライン文化の自己言及的複雑性を学んだことのない遠い未来の学者たちが、このシンプルな平叙文の意味を理解しようとするところを、私はとても見てみたい。) 私が注目しているジェーンの無題のエッセイでは、現代における理性崩壊の異なる面に着目している - 現代リベラル派の想像力の中で、抗議デモが、政治活動の戦略から暗黙の政治的終末論を前提とする魔術的行動へと変貌したことである。

ジェーンの分析は辛辣である。彼女の指摘によれば、マーティン・ルーサー・キング Jr. およびその他の公民権運動のリーダーたちは、実際的な理由により自身の取る戦略を選択したのであるが、けれども、1960年代以降の企業リベラリズムは、キング牧師の遺産を可能な限り無害化しながらも世俗的聖人として受け入れるために、隠された終末論の用語から抗議デモを再定義したのだという。それによると、「真実を権力者に語る」という単なる事実により、魔法のごとく真理が遍く広がり、権力が真理に従うことを保証するとされる。ジェーンはこのように説明している:

「そして、これが現代リベラル政治が受け継いだものである - 正しくあることは勝利することよりも重要であるという信念である。なぜなら、誰かが、最高裁判所かもしれないし神かもしれないが、ペナルティ・フラッグを投げ入れ、すべてが正されるであろうから。民主党はもはや選挙に勝とうとはしていない。彼らは、何らかの審査で、自分たちが勝利すべきであり、自分たちは正しいということを示す論拠を構築しようとしている。そうすれば、何らかの審判員が審査を行なったとき、彼らに報いてくれるだろうというのである。しかし、このアプローチの起源を述べておく必要があるだろう。白人リベラルのエスタブリッシュメントは、大衆の関与を否定する公民権運動についての物語を作り、 (なぜなら革命的ポピュリズムは危険であるが、しかし公民権の獲得を支持すると主張しながらも、一方で、あらゆる公民権運動のリーダーおよびそのような獲得をもたらした手段を批判することがどうしてできようか?) その後即座に自身が作ったフィクションと恋に落ちたのだ。彼らは、相互にまた我々に対して、何度も何度も、MLKが勝利したのは彼が正しく、彼が正義であったからだと語ったのである。そして彼らはあまりにそのフィクションを語りすぎたために、自分自身でもそれを信じるようになったのだ。」

私はこの説明に1つ異議がある。それは、ペナルティ・フラッグを投げ入れると想定されているのは、最高裁でも神でもないといことだ。社会変革の提唱者たちが取る態度は、使い古された「権力者に真実を話す」というフレーズを下支えするロジックを考え通してみれば完璧に理解できるだろう。そのフレーズは、典型的には、今日、抗議デモが路上にくり出すときには常に使われるものだ。中世においては、「権力者に真実を話す」のは、宮廷道化師の役割であった。道化師たちは、他の誰もが口にできないようなことを言うことにより、主人を楽しませるのである。そんなことが道化師に可能であるのは、逆に、宮廷にいる誰もが、実のところ、道化師は重要人物にとっての脅威でないということを理解していたからである; 道化師はふざけて、杖の先についたベルを振り、宮廷の同輩らからは嘲笑されると思いもしなかった罪や欠点を言い立てて、主人たちを楽しませる。道化師の主人は、権力を固く保持しており、笑って拍手し、公の場での自身の侮辱を許す寛大さを示すのである。つまり、道化師の役割は、まさに最近、ダボススウェーデン人のティーン活動家、グレタ・トゥーンベリに与えられたものとまったく同等である。

「権力者に真実を話す」というファッショナブルなお喋りの問題は、言い換えれば、そのフレーズが2つの自己敗北的な仮定を含んでいることである。1つ目は、ただ自分たち抗議者のみが真実を所持しているという仮定である; 2つ目は、彼らが語る対象の人々だけが権力を持っているということである。成功した社会変革運動は、逆に、自分たちは真実の一部しか持っていないことを常に心に止めている; これにより彼らは融通が効くようになり、自分たちが変えようとしている状況に対する新しい捉え方ヘと自身を適合させられる。また、異なる信念を持っているかもしれないが潜在的には相互支援し同盟を結びうる別の集団と、共通の基盤を見いだすことにもオープンでいられる。また、成功した社会運動は、自身が既に持つ権力に常に注意を払い、社会に対して最大限の影響力を行使するためにその権力を活用するのである。この2つのアプローチを放棄した場合は、今日の左翼活動家の典型的な状況に陥るであろう。つまり、自分自身の完璧な善と徳を完全に確信して、また権力のある他人が何かを与えてくれるさえすれば望みのものが手に入ると確信し、それゆえに権力者のテーブルで何らかのおこぼれにあずかろうと望み、独りよがりのかんしゃくを起こすだけに陥った人々である。

けれども、それは、ここ数十年の間誰も興味を持っていないように見える考察であった。まったく逆に、最近、抗議デモは大きな成果を上げることに失敗していると議論しようとするたびに、私は、アラン・ジェイコブズが友人から受けたのと同じ反応に晒されるのであった。つまり、「その解決策はうまく行かない。」と言うことは「その問題はリアルではない」と意味するのではないと理解できない人々からの反応である。あるいは、この件に関して言えば、実際には他人種の人々に偏見を抱いていない人々に向かって「レイシスト!」と叫ぶことは、その人たちに話を聞いてもらうために有効な方法ではなく、まして自分の支持する候補に投票させるための効率的な方法ではないと指摘したときに受ける反応であった。そのような奇妙な近視眼的イマジネーション、およびそれを不可視とする自傷的な敗北は、我々の社会においては比較的新しい現象である。けれども、それらは歴史上のさまざまな事象で不気味な反響を響かせている。次の記事では、三番目に偶然眼にしたエッセイの助けを借りて、より深く迷宮へと潜ろう。