Going Faraway

渡辺遼遠の雑記帳

翻訳:ケク戦争Part2 大聖堂の影で (ジョン・マイケル・グリア)

以下は、ジョン・マイケル・グリアによる"The Kek Wars, Part Two: In the Shadow of the Cathedral" の翻訳です。


The Kek Wars, Part Two: In the Shadow of the Cathedral

ケク戦争に関する前回のスリリングなエピソードでは、アメリカの管理貴族とその下僕と取り巻き連中が、自身の好みの政策の帰結を認識することを避けるために、自己参照バブルの中へと閉じ込もったことについて語った。

そうすることで、それらの政策 --政府規制の転移性の増大は、小規模ビジネスを締め殺し権力と富を巨大企業と連邦政府官僚へと移転し、貿易政策は、労働者階級の賃金と福祉を最低生活水準以下へと押し下げ、暗黙的な無制限の違法移民の奨励政策は、何らの権利も持たず咎めなく搾取しうる広大な非市民の貧困労働者を作り出した-- は、何千万というアメリカ人を困窮と悲惨の中へと追い込んだのである。

今回は、これらの政策形成に対する揺り戻しについて見ていこう。

揺り戻しの一部は、たった今指摘した政策の犠牲者である労働者階級から生じており、また超党派の政治的コンセンサスによる恩恵から締め出され、不均衡なコストを支払わされている別の社会部門からも生じている。しかし、その他の要素は、エリートたちが遅かれ速かれ確実に採用する政策に由来している: 教育システムが、既存の組織で吸収できる以上の人々を、管理業務のために訓練するという慣習である。

どうしてエリートはそんなことをするのだろうか? 彼らにとっては、少なくとも短期的な利点は明白である。恵まれぬ大衆からの地位向上を許されているものの、巨大な特権を持つエリート階級への参加を絶対に許可されない使用人どもの手に社会の運営を委ねようとするならば、-- そしてこれは、もちろん、複雑な社会の正常な状態である-- 使用人たちに対して、 体制と、許容可能な思想に対する厳格な忠誠心を植え付ける必要がある。これを行なう最も効果的な手法は、ほとんどの者が敗退するような野蛮な競争の中で使用人候補者たちを互いに競わせることである。

有望な使用人候補が互いに上を目指し、富と影響力を得られるごく限られた地位へと向かってもがき進む場合には、いかなる弱点であれ競争相手に使われる武器となりうる。このようにして、 最良で聡明な者 ベスト・アンド・ブライテストが、それに加えて一般通念から事前承認されていない思想を考える傾向を丹念に自身の心から消し去った者たちが競争を勝ち上がってくると期待される。候補者たちは熱心で、理想主義的で、責任感があり、野心的であるだろう。もしも、それが支配エリートの望む性格であった場合は; 何か別の特性を求めれば、やはりそれを得られるだろう。なぜならば、笑顔で毛並みの良い候補者たちの表皮の下には、ただご主人様の不興を買うことのみを強烈に恐怖する、パニックを起こした順応主義者の群れが存在しているのだから。

けれども、ここでは競争の敗者が問題となる。いかなる場合であれ競争の敗者は存在するが、現代アメリカでは大量の敗者がいる; 富と影響力の地位から脇に押しやられ、しかも、もっと幸運な落伍者たちに社会が提供するさまざまな慰安品を受け取ってもいない、多くの若い男と女たち。彼らの失敗の理由は各々に異なっている--金銭の不足、才能の不足、意欲の不足-- 適切な講義を受けられなかった、適切な課外活動を行えなった、適切な試験に合格できなかった、適切な思想を身につけられなかった、などの理由により、道端に捨て置かれているのである。

問題の敗者すべてが、ママの地下室に住んで一日中ビデオゲームをして過ごしているわけではないが、しかし大多数はそうしているのだろう。思い出してほしい。今日のアメリカでは、仕事は乏しく、家賃は人為的に不条理な水準まで膨らまされており、かつては独立した大人の生活へ向かう普通の道のりとして考えられていた生活から多数の若者は占め出されている。だから、それら占め出された人々、教育ある敗残者たちは、オンラインで集い、ビデオゲームで遊び、「ちゃんねる [chans] 」-- 4chanや8chanといったウェブサイト-- のようなオンラインフォーラムに頻繁に集まっているのだ。それらのウェブサイトでは、投稿は匿名であり、許容された言説を支配する規則はもはや適用されず、特権階級に対して攻撃的な考え方であればあるほどより賞賛を集める。

これは、雇用可能な人数よりも多くの人間を教育するという間違いをエリートが犯した場合、普通に発生することである。革命の長い歴史を見てみれば、はるかに頻繁に事例を発見できるだろう。政府を転覆し、国家を崩壊させる人々は、今日の地下室旅団とまったく同等の人々である: アウトサイダーとしてのステータスを何らかの方法で武器化する方法を編み出した、教育を受けたが機会を得られずに富と威信のため奮闘する敗者たちである。

このような状況下において、敗者たちが極めて危険になる理由の1つとして、成功したクラスメイトが欠いている自由を持っているという点が挙げられる: すなわち、自身の望むことを何でも考え口にする自由である。思い出してほしい。成功への闘争においては、許容された言動からの逸脱を示すごく僅かな兆候でさえライバルの武器になるのであり、それはライバルを押し退け地位を奪うために無慈悲に使用されるのだ。(このプロセスの素晴しい実例を見たければ、人種差別や性差別批判という口実を求めるアメリカの著名大学の学生を見てほしい) 闘争から脱落した人たちは、成功した同僚には求められる窒息的な順応主義に従う必要はない。そして必然的に、自身の自由を、旧来の考え方を抱く人々に対する攻撃のために利用する。

一般常識が機能しているならば、これは無害である。これが急速に有害になるのは、貴族が採用した政策がエリート文化の自己参照バブル外部にいる人々の多数に、あまりにも悲惨な結果をもたらすようになった時である。賢明な貴族はこれを認識しており、自身の政策が多数派の人生にいかなる影響を与えるのかに注意を払う。けれども、アメリカには賢明な貴族は存在しない。我々の国に居るのは、承認された政策の悪影響についての話題が注意深く除去された 残響室 エコーチャンバーの中へと自分を囲い込んだ、無知な貴族だけだ。

このような状況では、大多数の人にとっての最重要課題を話してくれるのは、ただ敗残者だけとなる。そこで、その敗者たちが受け入れたイデオロギーは、いかなるものであれ急進的な政治変革の指針となりうる。もしも政治変革が十分に進めば、そのイデオロギーは国家に課せられる可能性すらある。運が良ければ、問題の敗者たちは民主的ナショナリズムを受け入れ、現代のアイルランドやインドのような成功した民主国家が得られるかもしれない。運が悪ければ、敗者たちはより毒性のイデオロギーを受け入れ、ナチスドイツやソビエト連邦を得ることになる。

それでは、我々が議論している敗者とは誰か? ここで物語にオルトライトが登場する。

私のように思想史に興味がある読者であれば、過去10数年程度の間の最も魅力的なイベントは、レーガン時代の疑似保守主義のたそがれと、本物の保守主義の復活へ向けた最初の試験的集団の出現であろう: つまりは、何かを本当に「守り保つ」政治的・社会的な運動である。レーガンおよびポストレーガン時代の疑似保守主義者たちは、フランクリン・ルーズベルトによるニューディール政策のほぼすべての政策を盗用した --財政赤字支出、私有企業に対する政府補助金、中間層に対する終わりなき権利付与プログラム、連邦規制の終わりなき拡大、軍事介入に取り憑かれた対外政策など-- 一方で、宗教保守派および他のわずかな右派圧力団体に対して時たまにパンくずを投げ渡すのだ。

今日の「保守」政策を1960年の共和党大会で提案した者は、道端に穴を残すほどの力で会合から投げ出されただろうと言っても過言ではあるまい。最近まで、しかし、その偽の保守イデオロギーに対する唯一の代替策は、一方では、アメリカの疑似保守主義の悪い特徴すべてを倍増させた、 新保守主義 ネオコンサバティブを自称するイデオロギーであり、もう一方は、過激な宗教的狂信者の一団および自由市場のリバタリアンであり、彼らの考える保守主義は自身の恣意的なユートピア的ファンタジーの追求に過ぎず、その教条主義的な熱狂は彼らが心から嫌悪するマルクス主義者の写し絵にも見えるものだった。

2007年ごろ、状況に変化が始まった。カーティス・ヤーヴィンが、メンシウス・モールドバグのペンネームでブログを書き始め、後に「新反動主義 [Neoreaction]」と呼ばれるようになる一連の思想に対してオンライン上で注目を集め始めたときである。新反動主義は、本質的には古典的な19世紀ヨーロッパの反動思想を21世紀初期の状況に合わせて作り直した思想であり、絶対的独裁制への熱意およびあらゆる範囲の民主的価値観への拒絶をすべて備えていた。新反動主義は排除された者たちが膨大な暇を潰すオンラインのサークルで多少流行したが、すぐにその新規さは失われ、分配主義[distributism]、社会三層化[social threefolding]、民主サンディカリズム[democratic syndicalism] その他の思想が独自の住処を見つけたのと同じく、壮大な大義の地下世界へと帰っていった。それでも、新反動主義は、我らの時代の疑似保守主義の正統性に一穴を穿ち、現状維持に対する真の代替策はいかなるものであるのかというハードな疑問を提示することに成功したのだ。

ここで、オルトライトの語彙となった便利な用語を紹介しておこう。「大聖堂 [the Cathedral]」である。ヤーヴィンの用語では、主流派による強制的コンセンサスであり、既存の社会秩序を正当化する価値観および信念である。また、これは偶然の一致ではないのだが、その社会秩序の中にいる管理貴族の特権的な場所をも意味している。これは聡明な命名である。というのは、今日の一般常識の信者が集う場の、敬虔な信仰と道徳的な熱意を捉えているからだ。同時に、当然、大聖堂は思想の集まりではない; それは莫大な影響力と富とが配備される組織でもあり、信者と異端とが厳密に定められた場所を占めるヒエラルキーの目に見える表現でもある。

注意してほしい。新反動主義には多くの反対意見がある。そして、その覚醒に従って起きた批判の中には、毒性の高いものもある。言うまでもなく、種々のファシズム国家社会主義の焼き直しも会話に割り込んできている--文化的主流派たちは、ヒトラーを今日のエリート的価値観に対する究極的な対比として描写することに多大な労力を払っている。それは避けられないことであるが、自己破壊的な道でもある。ユリウス・エヴォラや他の伝統主義者たちも、彼ら自身の番組への放送時間の割当を持っていた。最近焼き直しされたイデオロギーも同様である。それらのイデオロギーの共通点は、アメリカ貴族にとって絶対に受け入れられないという点であった--そして、もちろん、それは彼らが必要とする特徴なのである。現状維持の門番たちによって見捨てられ軽蔑された者たちが関心を持つのは、それら同じ門番たちが言葉にできないほど攻撃的であると考えるイデオロギーだけなのだ。

そこで、ここまで議論してきた敗者たちが共有するイデオロギーは未だ存在していない。「オルト・ライト」のラベルは、競合する観念の福袋のようなものであり、特定の提案の集合ではない。ところで、オルトライトとはつまるところ人種差別主義なのだという主流派メディアの声高な主張は、単純な誤情報である; アメリカ貴族が何よりも恐れているのは、白人労働者階級と有色人種労働者階級の和解であり、特権階級からの「人種差別!」という絶え間ない叫び声は、部分的には、エリートの究極的悪夢を阻止するための戦略なのだ。

ゆえに、ゲームにある1枚の重大なワイルドカードは、ひとたび社会が十分な量の敗者を抱え込んだ際に、いかなるイデオロギーがエリートに対する反対の焦点になるかである。現在の状況では、そのイデオロギーは未だ決定されていない。オルトライト運動の多くは、2015年ごろに始まったトランプの選挙運動の周囲に閉じ込められているため、昔ながらの民主的ナショナリズムとそれほど異ならないイデオロギーが現状の状況から浮上してくることも十分にありえるだろう。この場合、長期的な帰結はいくぶんか良いものであるかもしれない--それでも、より毒性の高い結果が起きる可能性は十分に残っている。

もう1枚の重大なワイルドカードは、基本戦略の選定である。もしも革命戦争が排除された人々の想像力を引き付けるようになった場合、また多数の将兵と多数の退役軍人を抱える人口セクターに共通の大義を提示できた場合には、社会が内戦に突入し多数の人々が死ぬ可能性は本当に大きい。もしもテロリズムが魅力的であれば、少数の人がそれ以上に無益に死ぬだろう。テロリズムは、社会から殉教者の複合体を取り除くためには非常に役に立つが、常に失敗するものである。(実際に政治的目標を達成したテロ組織の名前を挙げられるだろうか? ノー、私には思いつかない。)

けれども、それ以外の選択肢もある。そのうちの1つが魔術である。

魔術とは、先週の記事で記した通り、20世紀の偉大なる魔術師ダイアン・フォーチュンによる定義では、意思に従って意識に変化をもたらす技芸と理論である。大衆の中にいる人間はシンボルや儀式行為によって簡単に操作されるため、魔術は極端なまでに政治に適している。中身の無い呪文、たとえば「Hope」、「Change」や「Yes We Can」といった言葉が、バラク・オバマを大統領の座に押し上げた状況を見れば、政治における魔術の力の一端を垣間見られるだろう。けれども、魔術を並外れて強力な力としているのは、オバマの大統領選挙キャンペーンにおいて、有権者にブランドと笑顔の商品を売りつけるために費されたような巨額のマーケティング予算を必要としないことである。もしも、魔術の原理を十分に熟知した者によって十分に巧みに実行されれば、少数のパートタイムの人間による手弁当の予算でも効果を挙げることができるのだ。

2015年に、その頃私が読んだのだが、「ちゃんねる」の住人たちが頻繁に現代魔術の特定流派を訪れ、それを彼らが好むオンラインフォーラムへと持ち帰り、そして魔術について情熱的に語り始めたという。彼らが地下室旅団の同胞たちに紹介した魔術の流派は、ケイオス・マジック [chaos magic; 混沌の魔術] と呼ばれていた。そして、ここに物語が繋がっていく。

何十年か毎に、その時点の科学のトレンドから借用した概念を用い、科学者たちが許容できない伝統的な西洋オカルティズムの要素を排除することにより、科学と魔術の間のギャップへ橋渡しを試みる者が現れる。当然のことながら、橋渡しには決して成功することはない。というのも、現代の科学は常にオカルティズムの反対としてアイデンティティを定義しているために、魔術師が科学の領域にあまりに近付きすぎると、科学者は単にゴールポストを動かすのだから。それでも、これらの橋渡しの努力から生まれた魔術の体系は、実践上ある程度うまく働くことが多く、広範な支持を得られることもある。(…)

ケイオス・マジックは、1970年代後半におなじみの形で現れ始めた。ちょうど、当代の急進的な唯物論者たちの歩みが最高潮に達した時期に対応している。また、急進的な科学的唯物論者が嫌悪した概念--特に、一方では神々と精霊の実在、他方では占星術の有効性--が、初期のケイオス・マジシャンたちからも同様に激しく拒絶されたことは印象的である。新たな魔術の創設者の目標は、これもおなじみの通り、旧弊な迷信から逃れ、それゆえ現代科学の世界観に取り込まれた人々にも観念的に許容できる魔術体系の構築であった。

その結果として生まれた魔術のアプローチは、神々、精霊、および他の魔術的な存在を、人間が生得的に持つ魔術のエネルギーを集中させるためだけに用いられる、完全なる空想の産物と見なすアプローチであった。それは機能するのか? もちろん、自身が定めた限界の範疇においては。伝統的な西洋オカルティズムの臆することのない実践者として、ケイオス・マジックが私に思い起こさせるのは、強烈なライトビールである。対照的に、私が好む種類の魔術は、豊穣で深みのある醸造酒とでも言えようか。しかしもちろんライトビールを好む人もいる。魔術においては、他のものごとと同じように個人の好みがすべてであり、「唯一の真なる道」はないのだ。私はケイオス・マジックを利用して好ましい結果を得ている人を知っている。

しかし、ケイオス・マジックは、2つの中核的要素により、とりわけちゃんねらー文化に適したものとなった。そして、3つ目の要素は、ケク戦争が勃発した際、ものごとがどのように展開していくかを定める上で決定的な重要性を持つことが明らかになった。最初の要素は、ケイオス・マジックの方法論が、今日のアウトサイダー文化の特定の側面と非常によく合致していたことである。ケイオス・マジックのごく基本的な作業ツールはシジル、つまり魔術の働きの意図を表現する記号的なイメージやパターンである。インターネットミームは概して良いシジルを作り、その中にはきわめて優れたハイパーシジルもある -- ケイオス・マジックの用語で、人間集団に共有された意図を表すシジルである。

2つ目として、ケイオス・マジックをマスターするためには、他種の魔術と同じく多大な労力を必要とするけれども、その単純化された性質により、初級者はある程度の基本能力を素早く身につけることを可能にする。特に、ちょっとした量の読書と実践により、熱意のあるビギナーでさえ適切なシジルを作成する方法を学ぶことができ、簡単な方法を利用してシジルに魔術のエネルギーを充填できる。これにより、ちゃんねるはケイオス・マジックのブートキャンプとなり、体制から遺棄され体制への逆襲を熱望する何千人もの若者に魔術を教えたのである。

3つ目のポイントはより微妙である。ケイオス・マジックのほとんどのバージョンでは、神々や精霊は、旧来の信仰や魔術的伝統によって力を与えられ作り出されたハイパーシジルに過ぎないと教えており、それらを独自の意思と力を持った意識のある非物理的な存在とは見なしていない。実際に、多くのケイオス・マジシャンは、宇宙を 空白の石版 ブランクスレートとして扱い、その中では人間のみが唯一のアクティブな存在であると考えている。結果として、ほとんどのケイオス・マジシャンたちは、人間の精神の産物ではない神々や精霊と安全に付き合う方法を学んでいない。これは、伝統的なオカルティストであれば知っていることであり、伝統的オカルティストの基本的な実践と教育で教えられることだった。しかし、これらの保護方法は、初期のケイオス・マジシャンが伝統的なオカルティズムを放棄したとき、一緒に捨ててしまったのだ。

その結果、ちゃんねるやその他の類似のオンラインコミュニティに参加した、何万人もの若く怒れるアウトカースト民たちが、非物理的な存在とのインタラクションをどのように管理するかという感覚を持たず--あるいは、実際には、そのようなインタラクションに管理が必要であるかもしれないと考えることすらせず、基本的な魔術の操作を熱心に学習し実践していった。すなわちそれは、人間以外の存在がこの状況に興味を抱いた場合には、ちゃんねらーの魔術ブートキャンプの卒業生の多数が、まったくコントロール不能な何かに一掃されることを確定的にしたのである。

それが起こったことである。次回はそのプロセスがどのように進んだかについて話そう。

翻訳:ケク戦争 Part1 貴族制とその不満 (ジョン・マイケル・グリア)

以下は、ジョン・マイケル・グリアによる"The Kek Wars, Part One: Aristocracy and its Discontents" の翻訳です。


The Kek Wars, Part One: Aristocracy and its Discontents

2016年の大統領選挙キャンペーンが最高潮に達して以来、この選挙キャンペーンの最も奇妙で興味を引く側面について、私に何か書いてほしいというお願いを毎月のように受けていた: すなわち、マンガのカエルの旗印のもとへ短期間集合した、右派オカルティストの緩い集まりが選挙において果たした役割である。そこそこの数の読者は、おそらく、カエルのペペ、古代エジプトの神ケク、1980年代のユーロポップソング「シャディレイ」、そしてまとめて「ちゃん[ねる] [the chans]」として知られるオンラインフォーラムの集まり -- 4chan.org, 8ch.netなど -- と、ドナルド・トランプの勝利との関連に対する謎めいた言及に遭遇したことがあるだろう。ご存知でない方は、この先は険しい道のりになるかもしれない。

ケク戦争と私が名付けた事象への記事化のリクエストの奔流がやって来たとき、最初は返事をするまでしばらく待っていようと決めた。私の考えでは、1年かそこらで、敗北した側が敗北したという事実を受け入れ怒りも落ち着くだろうし、そうすれば何が、なぜ起きたのかについての理性的な対話を初められるだろうと思っていたからだ。2016年の選挙とその結果の興味深い特徴としては、負けた側の怒りが未だに収まっていない点が挙げられる。これはまったく前例の無いことではない。--後で見る通り、アメリカ史の初期にも極めて具体的かつ明白な前例が存在する。--しかし、それは何か尋常ではないことの発生を示す良い兆候である。

トランプ当選以来20ヶ月が経過した後でも、アメリカ政治の左端は未だメルトダウンを続けている。そろそろ先へと進み対話を試みる時期が来ているのではないだろうかと思う。何が起きたかを理解するためには、マンガのカエルとインターネットフォーラムとは直接関係が無いように見える背景も広くカバーしなければならない。ここでは魔術について語るつもりだが、魔術は常に政治的なコンテキストを持つのである。

魔術は、排除された者にとっての政治である。このような状況下では典型的な逆転であるが、排除する者にとっての政治でもある。後者のポイントはこのエッセイの後半で扱おう。今のところは、政治的プロセスへのアクセスを否定された者たちにとって、どうして魔術がデフォルトの選択肢となるのかを見ていこう。

大多数の人々が日々の政治に対して少なくとも小さな影響力を及ぼし、自身の要求が聞き入れられ不満が宥められる機会を持つ場合には、魔術は無視される傾向にある。ほとんどの人の影響力が限定されており、他の人間が彼らより大きな力を持っていても、これは正しい。たとえば、アフリカ系アメリカ人の民間魔術の黄金時代は、1900年から1945年の間であった--南部で最も荒々しくジム・クロウ法が執行されていた時代、そして、南北戦争後にアフリカ系アメリカ人に理論上与えられた市民権を否定するため、様々な制度装置が利用されていた時期である。-- そして、それらは奴隷時代のアフリカ系アメリカ人によって形作られた魔術の伝承の上に作られたのである。アフリカ系アメリカ人が政治権力に対していくらかアクセスできた時代、1865年から1900年のレコンストラクション *1 の目覚めの時代、そして1945年から今に至るまでの公民権運動の目覚めの時代には、魔術に対する関心は薄れたのである。

もしもオペレイティブ・メイジのように魔術を理解していれば、これは完璧に理解できるだろう。(オペレイティブ・メイジとは? 魔術を実際に実践する人間であり、単に魔術を理論化するスペキュレイティブ・メイジの反対語である) 20世紀の偉大なる魔術師、ダイアン・フォーチュンの言葉によれば、魔術とは意思に従って意識に変化をもたらす技芸アート理論サイエンスである。もしも、他の権力の源へのアクセスを否定されたとしても、なお自分自身の意識に対しては力を行使できる。それだけではない。自身の意識に変革を起こしその能力に習熟すれば、自分自身の思考と感情を形成するテクニックは、他者の思考や感情を形作るためにも利用できる。対象者の同意や認識のあるなしにかかわらずである。それゆえ、自身の目的追求や不満の救済に対処する方法を否定された者にとって、魔術は論理的なフォールバックオプションとなる。

魔術が人気を博す時期とは、つまり、通常よりも多数の人々が、不満の救済のために社会が提供するあらゆるメカニズムから排除されている時期である。ここでは、よくある二分法、たとえば民主制vs.独裁制について語っているのではないということが重要である。有能な独裁者は、被支配民の要求と要望を知るためにさまざまなチャンネルを確保するものであり、また、体制を脅かさないような被支配民の要求と要望を即座に満たすことも非常によくある。これが、ナチスが新しい一連の国立公園を建設し、非ユダヤ系ドイツ人に対して有給休暇を導入し、またイタリアのムッソリーニ体制が雇用者に対して労働者の定期昇給を義務化した理由である。この2つの国の多数派が体制に対して忠誠心を保っていた理由はまさに、少なくとも民主体制下と同程度には、自分たちの非政治的な不満が聞き入れられる機会があると知っていたからである。

この点においては、民主制においても、大多数の人々から政治システムに対する影響力を奪い、要求と要望を聞かせることを不可能にするのも可能である。これにはさまざまな方法があるが、ここ1世紀ばかりで最も人気がある手法は、マーガレット・サッチャーによる有名なスローガン「代替策はない」という便利なラベルを付与することであろう。代議制民主主義体制の政治的エスタブリッシュメントが、ただ1種類の政策セット以外は思考可能ではないと定めれば、またすべての主要政党がその政策セットに署名すれば、通常の場合、代替策に対する議論を封じ込めることができる。たとえ、その政策が人口のほとんどに破滅的な結果をもたらすとしてもである。

これは社会的な階層流動性があっても可能となる。当該の政策に対する合意を、影響力と富へのアクセスに対する要件とする限りは。教育制度はこのフィルタリングプロセスの典型例である。中華帝国で生まれ、科挙のメンバーシップを通した影響力と富を熱望する人であれ、大英帝国で生まれ、高等文官のメンバーシップを通した影響力と富を熱望する人であれ、あるいは現在のアメリカ帝国で生まれ、どこかの企業ヒエラルキーのメンバーシップを通した影響力と富を熱望する人であれ、同じ法則が適用される。自身の野心を成就するチャンスは、いかなる思想であれ、上位者が望む思想に対してどれほど揺るぎない忠誠心を示せるかに依存する。そしてその思想とは、上位者の権力を維持するものである。

既に多少触れた通り、アメリカ、あるいは広く言って西側工業諸国にもこれは当てはまる。特権階級、彼らの下僕と取り巻き連中、そして影響力や富を求める者たちの間では、承認される政治、経済、社会、文化的な態度の範囲は極めて狭く、厳格に定義されている。影響力と富を持つ人間は、時々はそれらの規範に違反し逃れることもできる。ただし、ライバルの誰もが、彼らの逸脱を武器として用いることを決断しない限りにおいて。けれども、影響力と富を持たず、それらを得たいと望む人々は、自身のライバルと上司にも監視されていることを知り、言葉と行動に細心の注意を払う必要がある。その試験に合格し、彼らの上位者が認める才能と技能を持ち、また古風な幸運の女神の助けを通常よりも多く受けている人は、産業文明の貴族階級の最下層へ参入を望むことができる。

エス、このような文脈で「貴族制」という言葉が使われることは多くないことは私も理解している。しかし、ここから学べることは少なくない。この用語自体が示唆するように--貴族 [aristcracy] という言葉は、ギリシア語のアリストイ [aristoi]、 「最良のもの」、および クラテリア [krateria]、「力、支配」から成り立っている-- 貴族とは、自分たちが支配者である理由は、他の人々よりも自分たちが優れているからだと信じる人々の集団である。

今日の英語の「noble [気高い]」、「gentle [紳士的]」といった語の意味を考えてみよう。元々は、これらの語は単に「上層階級に属している」という意味しか持たなかった。同様に、「churl [下衆]」や「villan [ごろつき]」という語の意味を考えてみよう。元々は、これらの語も「下層階級に属している」という意味しか持っていなかった。このような言語史のディテールが、今説明した標準的なパターンを表現している。あらゆる貴族は、自身が支配する人々よりも道徳的に優位であると信じるようになる。貴族たちは、必然的に自分自身を良い人間であり、道徳的に徳が高い人間であると考え、必然的に、自身の善性を他階級の人間へと示すために、また一般大衆を排除するために使用される美徳誇示の凝ったコードを作り上げるようになる。

この排除の問題は高い重要性を持つ。あらゆる貴族制は、誰を排除するかによって定められる。しかし、何を排除するかという観点から定義されているかのように装おうとする。実際にいかなる条件を排除の基準として用いるのかは、文化ごとに、また時代ごとに異なっている。せいぜい100年程度前まで、アメリカの貴族は性別と人種のマーカーによって厳格に定められていた。権力の最高位サークルは、異性愛者の男性、ヨーロッパ北西部出身の祖先を持ち、その文化的背景は圧倒的にアングロアメリカ的で、日曜日には聖公会 (あるいは、もっと珍しい場合はメソジスト教会) に通う者たちに限定されていた。

時が経ち、アメリカの貴族が才能ある者をあまりに排除しすぎる危険性に捉われるようになると、排除の条件は変更された。20世紀を通して、人種・性別マーカーは、ある程度までは政治的・文化的なマーカーにより置き換えられた。それでも、権力の最高位サークルに位置する人々は、1900年における等位の者達とほとんど異なっていない -- 時々はアメリカ上院議員の集合写真を見てほしい。女性と民族的マイノリティのごく少数は、彼らと同等の地位にまで登ることを許されるようになった。--彼(女)らが、すべての"正しい"意見を受け入れて、直近の祖先が持っていたであろうあらゆる民族文化を、ごく薄い化粧板を除き、すべて洗い流す限りにおいて。

一般大衆を排除する方法の探求は、極めて大きな影響を持っている。20世紀全体を通して、アメリカの画家、彫刻家、作曲家その他の芸術プロデューサーは、19世紀の先人たちが保持していた膨大な観衆を追い払うため英雄的な努力を注いだのである。19世紀には、美術ギャラリーのオープニングや新しいオペラの封切りは一般大衆の関心と後援を引き付けており、美術家たちも意図的にその線に沿って成功を訴えた。19世紀後半のオペラ作曲家の一人、ジュゼッペ・ヴェルディは、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場の総支配人となった者に、批評家を無視して興行収入に細心の注意を払うよう忠告した。

その後何が起こったのだろうか? 少なくともアメリカでは、芸術は、貴族たちが自身を大衆と異なる存在として定義するための排除の手段となったのだ。教育を受けた人が賞賛しうる絵画は、芸術家のキャリアにおける死神のキスとなった。権威あるショーと金銭的な報酬をもたらしたのは、2度見ると犬の朝食のようにも見える芸術作品であった。なぜならば、エリートのサークル外では誰も、それが理解できるというフリさえしていなかったからである。その頃、若き作曲家は、聴衆が聞いて楽しめる楽曲を作ることは、どんなものであれ避けるようにと教えられていた。メロディーも、トーンもなく、専門家の狭いサークルの外には何も訴えることのないような曲を。一般大衆に我々の音楽を楽しませてはならない。

20世紀を通したこの種の操作により、ただ特権階級とその取り巻きと下僕以外は誰も芸術に注意を払わないまでに至った。それで、ただ特権を持つ者だけがアンディ・ウォーホルの絵画、ジョン・ケイジの音楽、その他同種の芸術作品について語り、カーストマーカーと自身のステータス誇示のため使ったのである。お気付きの通り、この時点において、美術学校、コンサーバトリーその他における観衆を追い払う方法の追求は、特権階級の人間のほとんどをも追い払うまでの傾斜に達した。今日の画家、作曲家、その他芸術家は、ただ身内と、ほとんどがアカデミックシーンに属するごくわずかな観衆に向けて創作している。芸術とはコミュニケーション行為であり排除の手段ではなく、また観衆へと意図を伝えるのは芸術家の仕事である。-- 不明瞭で魅力のない作品から含意やその他の意味を読解するために格闘することは、観衆の仕事ではない。それを芸術家が思い出すまでには、おそらく、学生ローンバブルが弾け、それと共にアメリカの高等教育の大部分が失われるのを待たなければならないだろう。

これは、アメリカの貴族および西洋産業諸国における同等の者達が、自身以外の社会全体に対して階級を閉鎖するために取った方法の、ほんの一例にすぎない。過去40年間にわたる魔術の劇的な普及は、私が示唆した通り、そのような階級的閉鎖に対する直接的な反応である。もう一度言うと、人々は、自身の要望と要求を追求する手段がないとき、あるいは自身の不満を聞き入れさせる方法を持たないとき、魔術へと向かう。ポジティブシンキングの福音が埃を払われ再び流通した理由、ウィッカのような魔術を中心とする宗教が前例のない規模の人気を獲得した理由、また由緒正しき西洋のオカルティズムが、ルネッサンス終焉以前例のないほどの全盛期を迎えている理由は、西洋の工業諸国の特権階級が自己参照的バブルの中へと閉じ込もった結果なのである。この結果については、本連載の後の記事で扱おう。

ここでは、しかし、方程式の片側のみに集中し、たった今言及した自己参照バブルの住人である貴族についての話をしたい。そのような自己参照的バブル中への撤退は、貴族にとってありふれた職業上の危機であり、貴族が自分自身の後継者を意図せず育てる最もありふれた方法なのである。残念なことに私はこの歴史家の名前を忘れてしまったのだが、ある歴史家は、中国史の長いリズムを表現して、絹のスリッパが静かに下へと下降するのに続いて、甲冑のブーツが階段を上へと行進する、と述べている。これは完璧なイメージである。そして、これは中華帝国の歴史に限らない。

あらゆる貴族制は、先代の支配エリートたちがあまりにも長い間無視してきたリアリティを受け入れて立ち向かう、タフで有能な個人の集団によって開始される。彼らはリアリティを破城槌として用い、現状維持の扉を打ち砕き、前任者のあまりにか弱い手からその権力を奪取する。新たな貴族たちは、自身のサークル外の世間と接触を保ち、被支配民に対して実効性のある形で不満を救済する手段、および、要望と要求をコミュニケートする手段を提供する限りは、権力の座に留まるだろう。-- けれども、このような不可欠のコミュニケーションから撤退し、支配下の民の要求に対して耳を閉ざしたとき、貴族はみずからの死刑執行令に署名することになる。

現代アメリカの管理貴族もまったく同等の軌跡を辿った。大恐慌という 危機の時代に旧来の貴族から権力を奪取したのは、フランクリン・ルーズベルトが、非暴力的な旧権力の包囲への先鞭を付け、破綻した社会的・経済的な正統性の把手を破壊したときであった。ルーズベルトが作り出すまでは代替策はなく [There Was No Alternative]、彼の目覚めにおいて新しい官僚と知識人の幹部は権力の把手を握り、アメリカの生活の確立された確実性のトップに立ったのである。第二次世界大戦と冷戦初期における国際的な裸拳の打撃戦は、新たな貴族階級という製粉器に穀物を供給した。そして、戦争が最優先事項である時期には、いかなるところであれ特権階級サークル外の人々の不満と要求に注意を払うことは常識にかなっていた。

2000年代頃に進むと、この同じカーストの構成員たちは、ニューディール時代以前のエリートたちとまったく同じ罠に陥っていた。更には、彼らが打ち倒した前任者と同様に毒性の社会的・経済的な正統性を抱いていた。更に悪いことに、彼らは前任者と同一の誤りを犯している。あらゆる人々の犠牲のもとに自身の利害を押し進める政策に対して代替策はないと確信しているのみならず、道徳的にも代替策はないと信じているのだ。

問題の政策とは? さまざまなものが存在するが、三層のコアは、中央集権への転移、経済的グローバリズムと無制限の違法移民である。1932年以来の連邦規制のおびただしい増殖は、小規模ビジネスを窒息死させ、大企業と政府官僚へと富と権力とを移転させた; 貿易障壁の撤廃は、何百万という労働者階級の雇用のオフショアリングを推奨した。主流派のメディアは、決して雇用の代替は起こらず、また決して雇用代替も意図していないと延々と主張していたにもかかわらずである; 無制限の違法移民の暗黙的奨励は、言及する価値すら持たない非市民の広大な下層民を創り出し、非人道的な条件のもとで飢餓的賃金で雇用され、結果として労働者階級の雇用の全範囲に渡って労働条件と賃金の低下をもたらした。

これらの政策の帰結について私は何度も議論しているけれども、ここで再び繰り返しておく価値があるだろう。1960年代には、労働者階級の1人分の収入に頼る4人のアメリカ人家族は、住居、自動車、1日3回の食事、その他すべてのまともなライフスタイルに要求される品々を購入することができた。2010年、その50年後には、1人の労働者階級の収入に頼る4人のアメリカ人家族は、路上生活を避けるため苦闘しなければならない。もしも、既に路上で暮らしているのでなければだが。これは偶然に起こったことではなく、非人間的な経済の力による産物でもない。超党派の合意によって進められ、左右の政治的立場全体にまたがる特権階級によって裏打ちされた、特定の、容易に識別可能な政策による結果である。

善い人々、道徳的に徳の高い人々は、それゆえ、数千万人のアメリカ人を悲惨な状況に陥れた政策を熱心に支持したのである。その上、貴族制の通常のやり方の通り、自分たちが利益を享受する政策こそが唯一の道徳的な選択肢であり、それに反対する者は誰であれ意図的な悪意によって動機付けられていると主張した。エリート文化の自己参照バブル内部にいる人たちにとっては、すべてが単純に見えていたことだろう。特権を持つ人々の利害に沿った人々の苦しみは、すべてが重要であり対処されなければならず、特権階級を利する政策によって押し潰された人々の苦しみは、彼ら自身の過ちであり問題ではない。

このように考えることは容易ではない。実際のところ、このような考え方を持つためには、意思に沿って意識に変革を起こす技芸と理論 -- すなわち、魔術-- の、きわめて体系的な使用を要する。これこそが、特権階級外の人々がロンダ・バーンズの「ザ・シークレット」を読み、ウィッカを取り上げ、古典的な西洋オカルティズムに手を出して (あるいはのめり込んで) いた一方で、特権階級の人々も独自の魔術を取り入れていた理由である。これが、フォーチュン500企業が、高い地位にある従業員に対してマインドフルネス瞑想、あるいは元々の道徳的・宗教的内容を除去した軽くエキゾチックな精神的鍛錬を推奨している理由である。これが、裕福な人たちの間で、多くの同様に除菌化されたスピリチュアリティが広く蔓延している理由である。

文化批評家の中には、これらをあまり化学的ではない形態の精神安定剤トランキライザーであると批判する者もいる。そのジャブには鋭い点もあるものの、それが話のすべてではない。特権階級の魔術の存在意義は、その実践者に対して、世界に間違いは何も存在しえないこと、すべてはあるべき姿であるということ、そして、残っている問題でさえ、適切な時期に正しい改革がなされ、正しい人々が選出されたならば消え去るであろうと確信させることにある。これは不愉快なリアリティを排除して、快適にお過ごしいただけるツールなのだ。

しかし、ここでもまた、排除された不愉快なリアリティの数が増えるに従って、特権階級の魔術もますます蔓延していく。これが発生すると、今度は、既存の政治秩序のなかで自身の要求と不満を対処されない人々の数も増加していく。それゆえに、ある種の危機に直面した社会では、二重の魔術の盛り上がりを経験する。排除された者の間では、ものごとを変える方法として。特権を持つ者の間では、ものごとを変える必要性を隠す方法として。

2つの魔術が衝突するとき、ケク戦争が始まった。次回はそれについて語ろう。

*1:訳注: 南北戦争後の再建期

翻訳:オルト・ライト、コントロール・レフト、エスケープ・センター (ジョン・マイケル・グリア)

以下は、ジョン・マイケル・グリアによる"The Alt-Right, the Ctrl-Left, and the Esc-Center" の翻訳です。この記事は、2018年の7月4日、アメリカ独立記念日に公開されました。

The Alt-Right, the Ctrl-Left, and the Esc-Center

2016年の1月、ドナルド・トランプは次期アメリカ合衆国大統領となるだろうと私が予測したとき、彼の立候補はアメリカの政治と公共生活における潮流の変化となるだろうとも推測していた。それは私が予期していた以上に正しかったようだ。トランプ大統領が挑戦したのは、1980年以来この国を支配していた超党派のコンセンサス - ネオリベラル的な経済政策、ネオコンサバティブ的な対外政策その他のみに留まらない。トランプ大統領は、我々の国で最も影響力のある政治運動の1つを自滅的なきりもみ降下へと追い込んだ。通常その帰結は、歴史のゴミ箱への片道旅行である。

連邦最高裁判所判事アンソニーケネディの辞任に対するトランプの敵対者の反応が好例である。最高裁判所判事の指名権は、憲法が大統領に付与する能力のうちの1つである; その指名を承認または拒否する権利は、憲法が上院に対して付与する能力のうちの1つである。トランプは大統領であり共和党は上院の多数派であるため、彼らはケネディの後任を選定できる。マル。それで話は終わりだ。

ところが、これは民主党員の間の声の大きな少数派が、受け入れを拒否していることなのだ。メディアとブログ界の左端は、何らかの方法でトランプが憲法上の義務履行を停止するよう要求する声で満たされており、そこで、2014年と2016年の国政選挙で敗北した側が、いずれにせよ次の最高裁判所判事を選ぶべきであるとされている。これらの主張を唱える人々は、見たところ癇癪主義 [tantrumocracy] 国家に住んでいるつもりなのかもしれない。そこでは、自身の傷付けられた感情を最も声高に主張した者が、それ以外の人々に何をするべきかを指示するのだ。幸運なことに、彼らは間違っている。

この種の途方もない主張は、リベラル派の間では決して普遍的な態度ではないと指摘しておくのは公平だろう。それどころかその逆に、ここ数週間の間に聞いたところによれば、決して少なくない数の賢明なリベラル派たちは、過去1年半にわたって、仲間のリベラル派たちに将来の選挙で勝てる方法を採るよう説得の努力を続けているのだそうだ。- つまり、まず最初に、2016年の選挙に敗北した原因が何かを探り、そしてそれを止めることである。そして、敗因となった言動から抜け出し、民主党エスタブリッシュメントがあまりにも長い間無視してきた人々の支持を取り戻せるように、何らかの旧来の草の根運動を始めるのである。これらは、政党および政治運動が勝利を望んだ場合に果たすべきことであり、リベラル派の特派員たちがこれを指摘された場合に行うような激しい非難は、当該の声のデカい少数派の未来にはあまり適していないだろう。

その少数派には、独自の名前を付けておく意義があるだろう。少し後で議論する理由により、「オルトライト [Alt-Right]」という用語と同じく、コンピュータのキーボードのスラングから採った名前を再利用しよう。このフレーズを紹介してくれた、私のブログの定期的な読者である LeGrand Cinq-Mars に謝意を示しながら、ここで議論している人々を「コントロールレフト [Ctrl-Left]」と呼ぶことにしたい。

コントロールレフトは、その名が示す通り、リベラリズム権威主義的な派閥である。穏健な保守派の多くは、すべてのリベラル派がこのカテゴリに入るのだと主張しがちであるが、けれどもそれは大きな誤りである。個人の自由リバティに価値を置くリベラル派はたくさんいる。たとえそれが、リベラル派自身が好まないことを行う人の存在を意味したとしてもである。それが、もちろん、自由リバティに対する本当のコミットメントの礎石である。コントロールレフトは、そのコミットメントを共有していない。コントロールレフトの中核には、誰もが正しい行動を強制されるべきであるとする主張がある。 - ここで「正しい」と言ったのは、もちろん、コントロールレフトが述べる正しさである。他者に適用される必要はないのだ。

最近の、マスターピース・ケーキショップ対コロラド州公民権委員会事件*1に対する最高裁判所判決が、これを実証している。多数派の意見が正しく指摘している通り、結婚式へのウェディングケーキを望む同性カップルの権利と信仰上の信念から同性婚に反対するケーキ屋の権利は、古典的な個人の自由の衝突であり、両者の権利は保護される必要がある。対照的に、コントロールレフトは、同性愛者のカップルが正しくケーキ屋は純粋かつシンプルに誤っていると声高に訴え、ケーキ屋は自身の良心を無視して彼らに従うよう政府勅令により強制されるべきだと主張している。

我々の住む世界は、良き人々が各々複雑な道徳的問題に取り組んだ場合に正反対の結論に至ることもありうる世界であり、実際のところそのような状況は一般的である。過去2世紀半以上の間、ここアメリカ合衆国では、個人の自由こそがこれら難問に対するベストな解決策であるという認識へと、ゆっくりと歩を進めていった。ただし、ある個人による自由の行使が、他人に対して重大な害を引き起こさない限りにおいて - そして、他人から選択を非難されることは、重大な害であるとはみなされない。強烈な憤慨バットハートに対する名誉勲章パープルハーツは存在しないのだ。また、おそらく、同性婚カップルが別のケーキ屋からウェディングケーキを入手する必要があるということは、重大な害であるとは見なされないであろう。

まったく同様に、まったく同じ理由で、同性カップルが結婚するべきかどうかを定める権限を持つのは、ただお互いに結婚を考えている2人の人間のみである。というのは、2人の男性または2人の女性が互いに恋に落ち結婚を決断したとしても、誰も重大な害を受けていないからである。- ここでも、誰かからその決断を酷く非難されたとしても、それは重大な害ではない。- 同性婚を合法化した最高裁判所の決定は、アメリカのデモクラシーの最良の伝統に沿っている。

そこで、マスターピース・ケーキショップ対コロラド州公民権委員会事件の判決も同様である。同性婚の祝福が自身の良心に反する場合には、その人たちに対して政府が行動を強制することを禁じている。自由リバティとは、あなたが承認しないことも人々が行うことを意味する。それは同性カップルが絆を結ぶことを意味し、ケーキ屋がどんな種類のケーキを作るか作らないかを選択することを意味する。それは、自由を行使する人々が衝突することを意味するのではないか? その通りだ。裁判所や議会は、そのような紛争に対処するため、裁判や法律制定を任されている。それはゆっくりとした、煩雑で、誤りうる手続きであるものの、人間の簡約不能な強情さを扱うための方法としては、他のやり方よりも効率的に機能する唯一の方法であるように思える。

これは、ところが、コントロールレフトが受け入れることを拒否する考え方である。私もときどきそうする通り、リベラル派のオンラインフォーラムを度々訪れる人には既におなじみであろうが、コントールレフトの人々が、彼らが保持すると考えている徳性を定義し他人を従わせる排他的な権利に対して果敢にも挑戦する人間を、野蛮にいじめる行為を目撃したことがあるだろう。これは、古典的な権威主義者の振る舞いであり、政治的立場の反対側にいるハードコアな宗教的根本主義者たちとほとんど見分けがつかない。本当に自由リバティに価値を置く人にとっては心配の種だろう。

政治運動は、既に合意を得ている人々以外も説得する必要がある。その事実を忘れた場合、運動は道を見失うということは既に承知だろうと思う。それがトランプ就任以降にコントロールレフトに発生している状況である。以来、あまりに巨大な数の民主党支持者が、トランプに投票した人に手を差し伸べて、次の選挙で民主党に投票するよう説得することは完全に無理だと主張するようになった。なぜ? トランプに投票した者は全員、定義上、折り紙付きのナチであるに決まっているからだ。それが理由である。そう考えて、彼らはピンクの帽子を被っているかのように振る舞い、インターネット上で侮辱の言葉を叫び、甘やかされた2歳児の癇癪を連想させるような振る舞いで、選挙結果は覆されるべきだと主張している。もちろん、そんなことは起こっていない。更には、将来にもそれは起こらないだろう。彼らが未だそんな状態にある中でも、トランプの支持率は上昇し続けており、民主党候補が2018年の中間選挙で勝利する見込みは定常的に落ち込んでいる。

彼らの驚くほど逆効果的な戦略の背後には複雑で厄介な歴史がある。しかし、それは別の記事のテーマだ。ここで私が議論したいのは、コントロールレフトの連鎖的な失敗と、その運動の写し絵であるオルトライトが得た、かなり異なる結果の対比である。

「コントロールレフト」という言葉は「オルトライト」をモデルにしているものの、これら2つの運動の歴史的関係は逆の方向に進んだ。オルトライトは、コントールレフトより後に出現し、コントロールレフトをモデルにしたのである。思想史を学ぶ学生にはお馴染みであろう。旧来の悪魔主義者が、価値観を逆転させた上でキリスト教の前提すべてを受け入れたように、またアイン・ランドの客観主義が、マルクス主義者によって邪悪な資本家の属性とされたあらゆる性質を善きものとして受容したのと同様に、オルトライトは、コントロールレフトの社会正義ソーシャルジャスティイデオロギーに対して、ミルトンの悪魔のごとく「悪よ、なんじは我の善」と唱えた場合に得られるものである。

ゆえに、たとえばコントロールレフトは人種差別を嫌悪しているが、彼らが言う「人種差別」という語の定義は慎重に定められているため、そこには彼らが拒絶する人種的偏見のみが含まれている。オルトライトは、コントロールレフトの人種差別の定義を受け入れ、そこで定義された通りの人種差別を熱狂的に肯定するのである。人種という概念全体が、生物学的・遺伝学的な根拠を持たない時代遅れな19世紀の民族学の残りカスに過ぎない;  明るい色の肌を持ち、目に蒙古ひだを持たない人全員が「白人」に属するという主張は、[超大型犬の] ピレネー犬から [超小型犬の] ティーカッププードルまでの白い毛の犬すべてが「白犬」に属するという主張と同じくらい馬鹿げている。コントロールレフトが人種について語るのは、自分たち自身の問題、つまり階級的偏見とアメリカ労働者階級の搾取への関与の問題への直面を避けるためである。

こういった考えは、オルトライトのサークルではそれほど広がっていない。とはいえ、コントロールレフトにとっては、ヤツらが否定するものを全て肯定するというような単純な種類の反対よりもはるかに危険になるだろう。

けれども、ある重要な一点において、オルトライトはコントロールレフトを模倣していない。コントロールレフトは、既に合意していない人も説得する必要があるという事実を見失なってしまった一方で、オルトライトはそのようなハンディキャップに苦しんではいないのだ。更には、オルトライトは、ドナルド・トランプが選挙キャンペーンの最初期に学習した教訓と同じことを学んでいる。つまり、コントロールレフトは容易に自滅的な過剰反応へと追い込まれるかもしれない。

多くの事例の中から一つを挙げれば、大学のキャンパスのあらゆる場所に「白人であることは問題ない [IT'S OKAY TO BE WHITE]」と書かれた標語を掲げるという、オルトライトによる極めて巧みな戦略であろう。この標語に対するコントロールレフトの典型的反応は、細粒度に飛散するメルトダウンとでも言うべきもので、このような害のない言葉でもヘイトスピーチとみなされるべきであり、処罰されるべきだと主張するのである。コントロールレフト内部の視点からは、このようなメルトダウンが道徳的な徳性の適切な標示であることは疑いがない。外部の視点からは、コントロールレフトの中核的なイデオロギーである社会正義運動は、白人の人々に対する偏見によって裏付けられていると自白しているように見えるだろう。ゆえに、コントロールレフトは、彼らが非難する人々よりも道徳的に優れているわけではない。

これは巧みな戦略であることは確かだが、オルトライトのイデオロギーにまつわる他多くの問題点を埋め合せるものではない。その点において、オルトライトのような運動は決して広がりを持つことはないだろう。悪魔主義や客観主義が、それぞれキリスト教共産主義に不満を抱いた人を引き付ける周縁的な運動以上にはならなかったのと同じく、オルトライトも、コントロールレフトのイデオロギーに攻撃された人々が傷を舐め合う場所以上にはならないだろう。通常、悪しき思想の反対は、私が機会がある度に何度も指摘している通り、別の悪しき思想なのである。

それでは、代替は? ここアメリカでは、実際に政治的伝統が存在しており、それはオルトライトとコントロールレフトの双子の愚行を回避し、アメリカ社会の大部分を広大な絶叫勝負へと変化させてしまった苦く苦しい二極化から抜け出すための最良の方法を提供するように思われる。それはかなり長い間普及しており、近年では無視されてきたけれども、一般的なアメリカ人から広範な支持を得ている。コンピュータのキーボードのメタファーを続けて、その思想をエスケープセンター [Esc-Center] と呼ぼう。

エスケープセンターの中核をなす思想は何だろうか? 議論の出発点としていくつか提案してみたい。

(以下の議論へのサウンドトラックを求める読者は、古き日々と私がここで伝えたい精神を考慮して、ここをクリックしてほしい。) *2

個人の自由

合衆国のように広大で多様性のある国においては、ほとんどの社会問題に対してコンセンサスを得ることは不可能であろう。唯一のコンセンサスを見つけようとすることは時間の無駄であるし、政府勅令により1つを強制しようとすれば無益な争いの原因となる。それゆえに、不完全で不器用ながら、アメリカの伝統は、ある個人の行動が他者に対して重大な害を及ぼさない状況においてはどんな状況であれ、個人の自由の原則を受け入れたのである。社会変革を目指す者は、その動機が宗教的であれ世俗的であれ、他者の説得により自身のアジェンダを進めることを許されている。けれども、自身のイデオロギーを政府機構を通して強要しようと試みた場合には、その行為は許容されない奪取であり、止められなければならない。

代議制民主主義

市民が不満の救済を求めるための制度が存在する。それは政治と呼ばれており、参加したいと考える者には誰であれ開かれている。政治的エスタブリッシュメントによる統一された反対の牙の中でのドナルド・トランプの当選が示したのは、この国の政治システムが左右両方の過激派の主張ほどには壊れていないという事実である。(トランプの反対者の多数が、彼とその支持者を「ポピュリスト」として非難するのは、彼らが状況を完全に理解していることを示している。ポピュリズムの反対は? もちろん、エリート主義である。) あなたがものごとのやり方を変えたいと望むのであれば、あなたの考えを聞く聴衆を見つけ、支援団体を組織し、変革を起こすための方法は多数存在する。その一方で、2年か4年おきに既製品の候補者に対して投票するだけであった場合、あなたが望むものを政府が施してくれることを期待して待っている他にない。

政治的連邦制

我々の憲法は、修正第九条と第十条で定められた通り、連邦政府に一定の権限と責任を付与し、それ以外のすべてを州と人民に委ねている。これは、過去1世紀の3分の2にわたって何度も無視され続けてきたが、しかし多様性のある国が内政問題に対処する方法としては、ほぼ唯一の選択肢であり続けている。マサチューセッツ州オクラホマ州の人民に等しく許容可能な社会政策は存在せず、マサチューセッツ人はオクラホマ人の首元を押さえつけたり、あるいはオクラホマ人がマサチューセッツ人の首元を押さえつけるのではなく、各々の州は選挙で選ばれた代表者を通して自身の問題を扱う。それはマサチューセッツ州オクラホマ州の人々が、それぞれ相手の州で成立した法律により激しく攻撃されることを意味するのではないか? その通りだ。取引しようディール

機会の平等

平等という語は2通りの意味を持つ - 機会の平等と結果の平等である - そして、どちらか1つを得ることはできるが両方は得られない。機会の平等とは、性別、人種、社会階層などに関わらず、人生において誰もが等しい機会を持つことを意味する。結果の平等とは、社会のあらゆる下位グループが人生において均等な配分を受けることを意味する。前者は不可欠であり、後者は不公平である。もしも、性別、人種、社会階層あるいは別のカテゴリのメンバーシップにより、教育、居住、雇用、政治的代表などからアメリカ市民が不正に排除されているのであれば、それは是正されるべき誤りである。- けれども、人々の才能、利害や仕事への意欲はそれぞれに異なっており、イデオロギー的な目標の追求のためにそれらの違いを打ち消すことは、政府の仕事ではない。

個人の責任

あなたは、あなたの曾祖父が誰であったか、あるいは何をしたかについて責任を負わない。あなたが責任を負うのは、ただ自身の言葉と行いだけである。そして逆に、あなたの曾祖父が誰であったかによって、フリーパスを得られるわけでもない。集合的な罪というドクトリン、あるグループに所属するメンバー全員が過去のそのグループの行いによって永遠に非難されるとする考えは、中世の神学者によってユダヤ人に対する集団虐殺ポグロムを正当化するために発明された。その後も、同じ概念が利用される場合の結果は同等である。もしも、歴史的な原因が現在において何らかの不正義をもたらすならば、その不正義は対処される必要がある。しかし、過去に遡ってものごとを変えることはできないため、ひとたび政府がすべての市民に対して機会の平等を保証し、救済策が立法されたならば、過去に対する責任は終了する。

市民社会

政府の行動は、あらゆる問題に対するベストな解決策ではない。多くの場合において、自発的な民間組織がはるかに優れた仕事をなす。アレクシス・ド・トクヴィルが19世紀初頭に若きアメリ合衆国を視察したとき、彼が気付いた新しい共和国を他の国と区別する特徴は、社会問題に対処するために自発的に組織を作るアメリカ人の熱意であった。この習慣は、第二次大戦以降における連邦政府の移転性の拡大によって消え去ったが、それでも枠組みはそのまま残っており、アメリカの誤った帝国時代よりもはるかに有用なものである。

帝国の終焉

アメリカ合衆国は世界の警察官ではなく、まして世界の刑務所でもない。現在、世界中の100以上の国で軍事基地を維持するために毎年何億ドルも費されている一方で、我々の国内インフラストラクチャは、何十年にもわたる悪意ある放置によって崩壊している。帝国的なほとんどの国は - イエス、自分自身に正直になろう、それが我々の現状だ - ひとたび帝国を維持するコストが利益を上回るようになると、経済的な崩壊に至る。我々は危険なほどその状態に近付いており、大英帝国の先例に習い、世界帝国の座から引きずり下ろされる前に自発的に立ち止まる必要がある。イエス、つまり海外の同盟国は自身の防衛費を自分で支払うか立ち去るかを選ばなければならない。そしてその選択は彼らに任されている。

リアリズムの政治

世界から苦しみと不正義が無くなることはなく、あらゆる社会問題が解決されることもないだろう。政治的リーダと市民の両方が、できる限り不満に対処し不正義を正さなければならない。しかし、政治システムが完璧ではないからといって、それが許容され難い邪悪であると主張することは、甘やかされた子供の論理である。また、社会の中のごく一部の人間が、他の全員に対して自分の望むもの全てを与えてくれるように説得できないからといっても、それは不正義であるとは見なされない。我々が住んでいるのは限界のある世界であり、そこではトレードオフは必須であり個人の自由は必然的に衝突する; 政府の仕事は、コミュニティにおける生活の負担と利益を、可能な限り公平に分配する妥協案を仲介することである。

これが、私が考えるエスケープセンターの最初のおおまかな見取り図である。過去においてある程度機能してきた社会的・政治的な問題へのアプローチであり - 確実に、政治的な主流派でエスケープセンターを代替した壮大なスキームよりも優れている - また、現在でも多くの一般的なアメリカ人の間で多くの支持を得ているものである。コントロールレフトとオルトライトという奇妙な双子の代替案として、これらの思想を再度普及させることは、7月4日を祝うアメリカ合衆国でいくつかの価値観を深める助けとなるだろう。

そして、親愛なる読者諸君、もしも上記の私の記事に対する読者の反応が、私をファシストとして非難すること - 今日のコントロールレフトの、穏健な不合意に対してさえ標準的な反応 - であった場合、私は一つ質問してみたい。我々のどちらも「ファシスト」という言葉の意味を知っているだろう。そしてそれは、個人の自由、代議制民主主義、他国への侵略の熱意の欠如を意味してはいない。そうであるならば、私に対して明らかに間違った告発をしたことによって、次の選挙において、私はあなたの支持する候補へ投票するようになるだろうか? また、もしも次の選挙での支持候補への投票を気にかけていないとしたら、それではあなたは正確には何を気にしているのだろうか?

*1:訳注:マスターピース・ケーキショップ対コロラド州公民権委員会事件 - Wikipedia

*2:訳注:リンク先の曲はシカゴの『サタデー・イン・ザ・パーク』 7月4日の土曜日に公園で過ごす人たちを歌った曲である。

書評:開発経済学+認知科学 『Factfulness』(ハンス・ロスリング)

ビル・ゲイツが絶賛しているコメントを見て読んでみた。タイトルからはフェイクニュースの話題かと思ったけど、実際は、世界の人口動態、所得、経済や健康状態に関する知識の誤りを正し、また、何故そのような誤りが生じるのかを認知科学的なバイアスから説明する本だった。

Factfulness: Ten Reasons We're Wrong About The World - And Why Things Are Better Than You Think

Factfulness: Ten Reasons We're Wrong About The World - And Why Things Are Better Than You Think

著者ハンス・ロスリングは、スウェーデン出身の医師・公共衛生学者。著者本人は2017年に逝去しているが、遺稿を息子夫婦が編集して出版したものが本書である。

さて、本書の冒頭には、このような三択のクイズが13問掲載されている。(他すべてのクイズに興味のある方は、以下を参照してほしい。英語日本語)

質問1 世界中のすべての低所得国で現在、どれだけの割合の女の子が小学校を卒業していますか?
(A)20%(B)40%(C)60%

多くの人のクイズの成績は平均して2〜3割程度で、ランダムよりも低い結果であるという。そして、世界の実態の姿よりも悪い方向に誤答してしまう傾向がある。これは、国、学歴や地位の差異によらず、システマティックに世界の姿を悪く回答してしまうのだという。

著者は最初、学校卒業後に学ぶことを止めてしまった人たちが、古い知識を保持し続けているために、このような間違いが起こるのではないかと考え、統計データをもとに現在の世界の姿を説明する活動を始めた。けれども、教育活動を続けても、なお人々のネガティブなものの見方を払拭できなかったのだという。

そこで、我々の思考にはものごとを悪く見てしまうような本能的バイアスがあるのではないか。ロスリングはそう考えて、我々が世界を歪めて見てしまう10個の認知科学的な「本能」を検証していく。

10個の本能

ロスリングが提唱する10個の本能を紹介しよう。

  • ギャップ本能 (Gap Instinct)
    「我々」と「彼ら」、「先進国」と「発展途上国」のように、ものごとを二分してその間にギャップがあると考えてしまう。
  • 悲観的本能 (Negativity Instinct)
    悪いニュースは報道され記憶されやすいが、日々の地道で小さな改善は認識されにくい。
  • 直線的本能 (Straight Line Instinct)
    過去のトレンドがそのまま継続されると思い込む。過去の指数関数的な人口増が恒久的に続いていくと信じ込んでしまうなど。
  • 恐怖本能 (Fear Instinct)
    災害、紛争、航空機事故など、恐怖をかき立てる事象のリスクを過大に見積もってしまう。
  • サイズ本能 (Size Instinct)
    孤立した大きな数字だけの印象で判断し、歴史的な推移や比率を無視してしまう。
  • 一般化本能 (Generalization Instinct)
    少数の事例を一般的な傾向だと思い込んでしまう。
  • 運命本能 (Destiny Instinct)
    宗教、文化、風習などは不変のものであると思い込んでしまう。宗教・文化的な理由により、アフリカでの産児制限や経済開発は不可能だと考えてしまうなど。
  • 単一視点本能 (Single Perspective Instinct)
    自身の観点や解決策からだけしかものごとを考えられない。
  • 非難本能 (Blame Instinct)
    政治家、企業、テクノロジー、外国人など、何らかの悪者がすべての問題の原因であり、その原因を取り除けば問題が解決すると考えてしまう。
  • 緊急本能 (Urgent Instinct)
    遠い将来の不確かなリスクに対する緊急度を誤って想定してしまい、結果不適切な意思決定をしてしまう。

これら10個の本能についての検証と同時に、著者ロスリング氏自身の失敗談や貧困国での医療支援活動に関する心を揺さぶられるエピソード、そして、世界の実態を示すとても分かりやすいグラフなどがふんだんに盛り込まれており、とても面白く読めた。

世界の見方を変え、同時に我々自身の考え方も変えてくれる良い本だった。

読書メモ:イスラーム人生論 『みんなちがって、みんなダメ』(中田考)

北大生シリア渡航未遂事件で一躍有名になった(?)イスラーム法学者、ハサン中田考先生の新刊。 

みんなちがって、みんなダメ

みんなちがって、みんなダメ

イスラームの世界観から言えば、「何をするべきか」、何に価値があり、何が正しく、何が善いことであるかは、すべて神からの預言を通して示されています。イスラームの宣教未到達の地である日本では、いかなる義務も禁止もなく、「価値がある」と信じられているあらゆることが幻想であるのだから、普通の(非ムスリムの)日本人は「できること」を「したい」通りにやって生きていけば良い。

現代の日本で「生きづらさ」を抱くのは、実は、他人や自分が勝手に定めたおかしな基準、「何をするべきか」という幻想に縛られていたり、自分に「何ができるか」、「何がしたいか」をカン違いしているからだ。この本のメッセージを要約すると、こんなふうに言えるのではないかと思います。

(こういう考え方は、たぶん多くの日本人にとっては取っ付きにくいものだと思いますが、少し噛み砕いて言うなら、「善悪や価値にからむ問題は、必ずしも経験的事実を引き合いに出して決着がつくようなものではなく、どこかに「信じるしかない部分」がある」と言えば分かるでしょうか)

そんなイスラーム的な価値観をベースとして、「承認欲求」、「自由と民主主義」、「資本主義」から「領域国民国家」まで日本人的な価値観がバッサバッサと切り捨てられ、身も蓋もない人生論が展開されています。個人的には、私は中田先生とも直接面識があり、これまで出版された一般書をほとんど読んできているため (正直なところ、全てを理解・共感できているわけではないのですが)、本書の議論はほとんど納得のできるものなのですが、これまで中田先生の本を読んだことがなく、一神教的な世界観や価値観に触れたことがない人にとっては、自分がいかに狭い了見に捕われれていたのかに気付き、価値観そのものを揺さぶる本になるのではないかと思います。

合わせて読みたい

イスラーム内部の考え方にもとづく、イスラーム自体の平易な解説としては、『イスラーム 生と死と聖戦』を挙げておきます。池内恵先生が日本的な価値観の内部から、イスラームの「外側」から見た解説を書いてるので、合わせて読むと理解が深まるかと思います。

書評:『知ってるつもり――無知の科学』(S. スローマン & P. ファーンバック)

とても面白く、また現代的な意義の大きい本である。ぜひ読むことを薦めたい。

しかし、おいそれと内容を要約して紹介することは多少はばかられる本である。なにせ、扱っている内容が「無知」-- 我々は、自分が思っているほどにはものごとを知っていないこと--を示す本なのだから。

知ってるつもり 無知の科学 (早川書房)

知ってるつもり 無知の科学 (早川書房)

とは言え、私なりに本書の中心的なメッセージを要約してみようと思う。

本書の冒頭では、ファスナー、水洗トイレやミシンなど、身の周りにあるありふれた物の機構を説明してくださいと言われると、自分自身が思うよりも自分は物事を理解していないことが示される、という心理学実験が紹介されている。これを「説明深度の錯覚」と呼ぶのだそうだ。

本書前半部分では、このような錯覚が起こる認知科学的なメカニズムの説明が挙げられている。大きな理由としては「人間は、世界や環境そのもの、あるいは書籍、インターネットや他者の知識」と協調しながら、分業してものごとを考えるからである。著者の言葉では、「知識のコミュニティ」の中で人間が生きているからなのだ。そして、必要に応じて参照可能な知識は、まるで自分が持っている知識であるかのように感じてしまう。このような錯覚は、時として大事故、非合理な意思決定や政治的な分断を引き起こすことがある一方で、個人では到底理解不能な複雑な世界で人々が暮らしていくための、「知識のコミュニティ」の中で生きていくための不可欠の特性なのであるという。

本書の後半部分の5つの章では、個人の「説明深度の錯覚」と集合的な「知識のコミュニティ」の存在を前提として、科学コミュニケーション、政治的な政策議論、教育などの分野でどういった方法を取るべきかという著者らの提言が述べられている。個人の能力と知識のみを深める教育ではなく、「知識のコミュニティ」の中で他者と協調する方法を学ぶべきだという主張には頷けた。


帯に多分野の著名人からの推薦の言葉が掲載されていることからも分かる通り、本書が扱う内容は多方面に渡っている。(やや散漫に感じるほどである)

その中でも目を引いた (そして他の人のレビューであまり取り上げられていない) 話題を挙げておくと、認知科学人工知能研究の間にある関連性、古き良き人工知能および認知科学が想定してきた「知能」と、生物や人間の実在の「知能」のあり方の差異を説明している部分だろう。

伝統的な人工知能認知科学の想定とは異なり、人間や昆虫は世界のモデルを構築し、膨大な計算をしてから行動するわけではない。「世界についての事実(ボールや地面の光学的特性)を活用して、行動を単純化するのである。」本書の言葉を借りるなら、「世界が私たちのコンピュータ」なのであり、これが生物が「フレーム問題」に陥らない理由である。

そして、人工知能の進歩によって「スーパーインテリジェンス」 (本書の訳語では「超絶知能」) が発生するという主張に対し、「コミュニティとしての知識と知能」の見方から、著者たちは安直なシンギュラリティ論には与していない。

コンピュータに志向性を共有する能力がなく、またそれを獲得しつつある兆候もないことから、人類の利益に反して自らの目標を追求するような邪悪な超絶知能が誕生することはあまり懸念されていない。地平線上に超絶知能の姿はまったく見えない。関心や目標を共有するという人間の最も基本的な能力を持たない機械には、人間を理解することはできない。だから人間の心を読み、出し抜くこともできない。(p.164)

しかし、著者らは別の形での「超絶知能」がありうると述べている。それは、史上前例のない規模で人々の協業を可能にするテクノロジー的な基盤であり、地球規模に拡大した「知識のコミュニティ」なのだ。

 

ここまで本書を紹介してきたが、こうやって「分かったつもり」になって説明をしていること自体が、実は本書の主張する通り「知識の錯覚」に陥っている証拠なのかもしれない。私たちの自身の考え方自体を揺さぶる優れた本であるため、ぜひ手に取って (良ければこのページのリンクから購入して(笑))、直接著者の言葉に触れていただきたい。

読書メモ:シンギュラリティの宗教性 『Apocalyptic AI』 (ロバート・ゲラチ)

キリスト教神学について僅かなりとも触れたことのある人であれば、特にカーツワイル氏のシンギュラリティの物語と、キリスト教終末論の類似性には即座に気が付くだろうと思う。

慈悲ぶかい超知能AIが神の位置を占め、ナノボットは貧窮と病苦に終止符を打ち、そして我々の精神はコンピュータにアップロードされ永遠の生命を得る。あるいは、宇宙が精霊で満たされ死者すら復活するのだという。そしてそんな超越的な出来事は、我々が生きているうちのごく近い将来に起こることなのだ。このような議論が「宗教」でなかったとしたら、一体何が宗教なのだろうか。

SF作家ケン・マクラウドは、シンギュラリタリアニズムと宗教的終末論との関連を揶揄して、「オタクの昇天 (Rapture of the Nerds)」*1という言葉を造語したとされている。ナノテク研究者でありトランスヒューマニズムへの批判者、リチャード・ジョーンズ教授が述べた通り、「このあざけりが壊滅的なまでに効果的である理由は、それが深淵な真理を含んでいるから」("The reason this jibe is so devastatingly effective is that it contains a deep truth.") *2だろう。

そして、実際のところ、シンギュラリタリアニズムの宗教性は、学術的考察の対象にもなっている。

本書『Apocalyptic AI』は、シンギュラリタリアニズム/トランスヒューマニズムの宗教性についての研究における最も基本的な書籍であり、シンギュラリティ懐疑論の多くでこの本は言及されている。私の記憶にあるだけでも、『そろそろ、人工知能の真実を話そう』(ジャン=ガブリエル・ガナシアの) や『ロボットの脅威』(マーティン・フォード) などでも参照・引用されていたし、軽いエッセイなどまで含めると膨大な数に登る。


おそらく確実にこの本は翻訳されないと思うので、興味を持った人向けの読書ガイドとしての意味も込め、内容を詳細に紹介してみたい。

終末のAI

序文によれば、この本は人類学的な本であるのだという。すなわち:

I am not interested in evaluating the moral worth of Apocalyptic AI. This book is about the social importance of Apocalyptic AI; it is an anthropological, not a theological work. (...) This book is neither supporting nor debunking the claims of Moravec and Kurzweil.(p.1-2)

私は、終末のAIの道徳的意義を評価することに興味はない。この本は、終末のAIの社会的な重要性に関するものである; これは人類学的なものであり、神学的な研究ではない。(...) この本は、モラベックやカーツワイルの主張を支持するものでも反駁するものでもない。

つまりは、あくまで興味深い宗教的な活動が存在している状況を受け、文化人類学的に活動を観察し、記録し、考察するものである。

それでは、「終末のAI」とは何か。第一章では、黙示録信仰 (Apocalypticism) の性質として以下の4つが挙げられている。(この本を読む人向けのアドバイスをすると、第一章前半部はユダヤキリスト教神学史、科学史・科学哲学などの広範な知識を要求されるので、初めて読む際にはp.21まで、もしくは第二章まで飛ばしても良いと思う。)

Apocalypticism refers 1) a dualistic view of the world, which is 2) aggravated by sense of alienation that can be resolved only through 3) the establishment of a radically transcendent new world that abolishes the dualism and requires 4) radically purified bodies for its inhabitants.

黙示録信仰とは、 1) 二元論的な世界観であり、それは 2) 疎外された感覚によって悪化し、それを解決しうるのはただ 3) 二元論を廃止する根本的に超越的な新たな世界の確立により、そしてそれは 4) その住人に対し根本的に浄化された身体 を要求する。

著者によれば、この種の黙示録的なモチーフは、ロボティクス、人工知能バーチャルリアリティの研究、およびポピュラーサイエンス本とサイエンスフィクション小説の中に存在しているのだという。

「終末のAI」の支持者としては、ロボット研究者ハンス・モラベック、エンジニアであり実業家のレイ・カーツワイル、サイボーグ研究者として知られるケヴィン・ワーウィックや人工知能研究者のヒューゴ・デ・ガリスなどの著名人が挙げられており、第一章の後半部では彼らの主張が簡単に紹介されている。


続く第二章では、理論的な記述からはやや離れて、フィールドワーク的なインタビューと「終末のAI」の政治性に関する考察が取り上げられている。ゲラチは、カーネギーメロン大学 (CMU) のロボティクス研究所を訪れ、大学院生や若手研究者へのインタビューを行った。そこで彼が発見したのは、「終末のAI」のナラティブと現実のロボティクス研究の間にある隔りであった。

Quite clearly, many of the faculty were fond of Moravec but simultaneously mystified by his religious claims.
The mundane reality of robotics research bears little resemblance to the apocalyptic imagination of Moravec or his followers. (...) No one is building a super-intelligent robot that will either a) take over all human work or b) take over the world. (p.39-40)

かなり明白に、研究所の多数はモラベックのことを好いていたが、同時に彼の宗教的主張に困惑していた。
ロボティクス研究の世俗的な現実は、モラベックや彼の追随者の黙示録的なイマジネーションとはまったく似ていない。(...) a) 全ての人間の仕事を奪うあるいは b) 世界を支配するであろう超知能ロボットを構築している人は誰も居ない。

けれども、これは「終末のAI」が現実のロボティクス研究に全く関係がないということを意味するわけではない。カーネギーメロン大学の学生は、非公式にではあるものの、ヴァーナー・ヴィンジの『マイクロチップの魔術師』(原題:True Names) などのSF小説を読むように推奨されていたのだという。(p.51) この種のSF小説のイマジネーションが、間接的にロボティクス研究に影響を与えている。日本では、さしずめ鉄腕アトムドラえもんガンダム攻殻機動隊タチコマToHeartのマルチなどが挙げられるかもしれない。

更に、「終末のAI」の役割は、研究者コミュニティ自身に対するイマジネーションの源泉に留まらない。「終末のAI」は、ロボティクス・AI研究者の公的なプレゼンスを強化し、威信を強化し、経済的資源を獲得するために活用されている。この点については、ジャン=ガブリエル・ガナシアの『そろそろ、人工知能の真実を話そう』から要約を引用する。

今ではもう、科学者もエンジニアも自分たちの研究の動機をSFの中に求めている。(…)そうなった原因の一端は、ロバート・ゲラチが、その著書『終末のAI』でいみじくも指摘したように、夢をもたらし人々をわくわくさせるプロジェクトを優遇するような研究費の支給方式にある。研究分野の選定を民主化しようとすると、得てして、大衆への説明がわかりやすく、創造力を刺激するという理由だけで、そういった研究に資金を支給するという結果に陥りがちだ。たとえ研究目標が実現不可能であったり、無意味なものに思えたりしても、である。(p.91-92)

ゲラチは、「終末のAIは、実際のところ、資金の要求である(p.64)」と喝破する。


第三章では、バーチャルリアリティサイバースペースの聖性について議論されている。この章では、特にゲームの世界に集ったトランスヒューマニストの世界観が紹介されている。ここで取り上げられている題材はMMORPGWorld of WarcraftSecond Lifeなどであり、2018年現在から見るといささか古びて見える部分もある。けれども、「VRは、マインドアップローディングの萌芽である(p.88)」という言葉は、最近ではVRChatなどの利用者によっても主張されることがあり、その分析は現在でも有効であると思う。(なお、カウンターカルチャー分野におけるVRの神話的・宗教的なモチーフは、以前に紹介した『サイバネティクス全史』でもかなり詳細に取り上げられていたため、興味のある方はそちらも参照してほしい)


第四章は、ロボティクス・人工知能の進歩による倫理的・法的・政治的な問題、たとえば、人工知能が意識や人格を持つようになった場合にいかなる問題が起きうるかというテーマが取り上げられている。私の見たところ、本章は他の哲学者や研究者による議論の要約が多く、筆者独自の観点はそれほど多くないため、見るべきところはそれほど多くない。


最終章、第五章「宗教、科学と技術の統合」"integration of religion, science, and technology" は、本書全体の議論のまとめである。


本書の出版は2010年であり、元となった論文は2000年代に書かれたものである。2010年代初頭の第三次AIブーム以前の本であるため、2018年現在から見ればやや古さを感じる部分もある。それでも、科学技術研究の中に埋め込まれた宗教的モチーフの分析として、そして、宗教と科学の2つを包含する「社会」との関わりの考察として、長く読み継がれるべき本だと言えるだろう。

*1:"Rapture"は、キリスト教終末論の文脈では通常「携挙」と訳されるが、ここでは文体上の観点から「昇天」という語を当てた

*2:Against Transhumanism – the e-book – Soft Machines