Going Faraway

渡辺遼遠の雑記帳

ハンナ・アーレント『暴力について』の未来学者に関する抜粋

暴力について―共和国の危機 (みすずライブラリー)

暴力について―共和国の危機 (みすずライブラリー)

アーレントは、人間が行動アクションを通して外界に変化を及ぼす能力と、嘘をつき、自分や他人を騙す能力の間にある共通点を見ている。

…変化は、もしわれわれがいま自分の肉体がいるところから頭のなかで自分自身を移して、さまざまな事物がいま現にあるのとは異なるものであるかもしれないことを想像する丶丶丶丶ことができなければ、不可能である。いいかえれば、〈事実の真理〉の意識的な拒否--嘘をつく能力--と事実を変える能力--行為する能力--は相互に関連しているのであって、両者は想像力という共通の源泉によってはじめて存在するのである。実際には雨が降っているときに「太陽が照っている」という丶丶ことができるのは、けっしてあたりまえのことではない (何らかの脳の障害のためにこの能力が失なわれることもある)。むしろ、それは、われわれは感覚的にも精神的にも世界にたいして十分やっていけるだけの能力を備えているけれども、世界の譲渡されない部品の一つとして世界にぴったりはまっていたり埋め込まれているわけではないということを示している。(p.3-4)

現実リアリティは、論理的帰結を引き出すための前提のようなきちんとしたものを提供することはけっしてない。AとCとをともに望ましくないものとし、それゆえにBをよしとするような種類の思考は、無数にある真の可能性から人の気をそらし、判断力を鈍らせる以外のどんな役にも立たない。これら問題解決家たちとほんものの嘘つきとの共通点は、事実を抹消しようとする目論見と、事実がほんらい偶然的なものであるがゆえに抹消は可能であるという自信をもっていることである。(p.11-12)

未来学者は、この「行動のためのビジョン」と「欺瞞」とを意図的に、または無意識のうちに混同していると言える。

未来の出来事をこのように仮説として構築するにあたって生じる論理的な欠陥は、つねに同一である。それは、最初に仮説として登場するものがーその精緻さの程度に応じて、言外の選択肢があるにせよないにせよー二、三節先ではいきなり「事実」となり、さらにその事実から同じように一連の事実ではないものが生み出され、その結果、その企画全体の純然たる思弁的な性格が忘れ去られてしまうということである。いうまでもなく、これは科学ではなく似非科学であり、ノーム・チョムスキーの言葉を借りていえば、「真に重要な知的内容をもつ諸科学の上辺を真似ようとする」「社会科学や行動科学の絶望的な試み」である。そして、「この種の戦略的な理論にたいする」最も明白で「最も根底的な反対の理由は、それがあまり役に立たないということではなくて、それが危険だということである。というのは、この種の理論はわれわれが理解していない出来事を理解しているかのように、その流れを支配していないのに支配しているかのように信じ込ませるからである。」(p.101)

これらの文脈を少し補足しておく。アーレントはドイツ出身のユダヤ人で、ナチスの政権掌握後に迫害を逃れフランスへ、その後アメリカ合衆国へと亡命し、そこで後の生涯を過ごした。

彼女の著書の中ではナチズムや全体主義に関する政治哲学研究が有名ですが、この本は1960年代〜70年代に英語で書かれたアメリカの政治問題を扱った時事評論で、特に冷戦、ベトナム戦争時のアメリカ外交・軍事政策における意思決定の欺瞞と錯誤について論じている。ここで言われている「問題解決者」、「未来学者」は、大学や政策シンクタンク等に所属し、冷戦中の核軍拡やベトナム戦争への介入を正当化する戦略論を構築した人々を念頭に置いている。

更に以下の通り続く。

出来事というものは、ほんらい、決まりきった過程や手続きを中断するものである。重要なことが何も起こらない世界でなければ未来学者の夢は実現しない。未来の予言は現在の自動的な過程や手続きの投影以外の何物でもないのであって、もし人間が行為せず予期せぬことが何も生じないとすれば起きそうなことにすぎない。良かれ悪しかれ、すべての行為とすべての偶発的な出来事は、予言が行なわれたりその兆候が見いだされる枠組み全体を破壊するのは避けがたい。(プルードンがことのついでにいった「予期せぬことの量の多さは政治家の思慮分別をはるかに超えている」という言葉は、幸いにもいまだに真実である。それが専門家の計算を超えていることはいっそう明白である。) このような予期されず、予言されず、予言することのできない突発的な出来事を「偶発事故」とか「過去の末期」と呼んで、どうでもいいもの、あるいは有名な言葉である「歴史のゴミ箱」として貶めるのは大昔から見られる巧妙なやり口である。このやり口はなるほど理論をきれいにわかりやすくしてくれるが、その代わりに理論はますます現実離れしてしまう。危険なのは、これらの理論が実際にそれとわかる現在の趨勢を証拠としているためにもっともらしいだけでなく、それらの理論が内在的につじつまがあっているために人びとを催眠術にかけてしまうという点である。それらはわれわれの常識を眠らせてしまうのであるが、この常識こそがわれわれが現実性リアリティ事実性ファクチュアリティを知覚し、理解し、処理するための心的器官にほかならない。(p.101-102)

ここでの未来学者に対するアーレントの指摘は、繰り返し予測に失敗する未来学者たちが、単に無知で無能であり知的に不誠実であるということだけに留まらない。歴史をある種の宿命的なものとして描き出すことによって、現実の歴史のあり方とあるべき未来に対する議論を不当に歪めるものであり、人々が国家や超巨大企業の利害に反する行動を取る手段を無力化するための手段として「未来」が利用されていることを述べている。

対象も文脈も違っているが、もちろんこれは現代の「未来学者」にも当てはまるように思える。