Going Faraway

渡辺遼遠の雑記帳

シモーヌ・ヴェイユ『自由と社会的抑圧』のエネルギー問題に関する議論について

以前、ブログを読んでくれている友人から、20世紀フランスの哲学者 シモーヌ・ヴェイユが、ある論文の中でエネルギー問題を扱っている、と教えていただきました。

エネルギー問題の議論に関する歴史として注目すべき事例なのではないかと考え、該当部分を引用しておきます。

…動物の労力、石炭、石油など、呈示される[エネルギーの]様態はさまざまであるが、自然がエネルギーを無償で与えることはない。われわれは労働によって自然からエネルギーを奪いとり、固有の目的にあわせてエネルギーの形態を変えねばならない。しかも労働が時間の経過とともに軽減されるとはかぎらない。現実には逆の事態が生じている。石炭や石油の採掘では、継続的かつ自動的に、収益は減り、経費は増えている。加えて、既知の鉱脈はわりあい短期間で枯渇する定めである。あたらしい鉱脈の発見もありうる。ただし、採掘にむけての調査や敷設など、どれもこれも経費がかかる。しかも、そのうち何割かはおそらく頓挫するだろう。そもそも一般論として、未知の鉱脈がどれほど存在するのかを、われわれは知らない。いずれにせよ埋蔵量は無尽蔵ではない。

いつの日か、人間はあたらしいエネルギー源を発見するだろうし、おそらく発見する必要にも迫られるだろう。ただし、それを活用するにあたって、石炭や石油を活用するよりも少ない労働ですむという確約はない。逆もまたありうる。下手をすると自然エネルギー源の活用には、それが代替するはずの人間の努力をこえる労働を求めかねない。こうした領域では偶然が決定権を握っている。新種の入手しやすいエネルギー源の発見、もしくは既知エネルギーに変容する安価な手順の発見というものは、方法にのっとって思索し時間をかけさえすれば確実に到達できるとはかぎらない。科学の発展を外部から総括的に観察する習慣のせいで、われわれはこの点について幻想をいだいてしまう。科学上の成果には科学者による理性の賢明な運用にもっぱら依拠するものがある一方で、幸運なめぐりあわせを条件とするものもあることを、理解しないからだ。自然の諸力の活用は後者に属する。たしかに、あらゆるエネルギー源は確実に変換できる。しかし、科学者が経済的に有益な事象に研究過程でめぐりあえる確率は、探検家が肥沃な土地にたどりつける確率とおなじく、きわめて低い。これについては、あれほどさかんに喧伝されながらもから騒ぎに終わった、海熱エネルギーをめぐる例の有名な実験に、教訓とすべき実例をみいだせよう。 

 

シモーヌ・ヴェイユ『自由と社会的抑圧』 富原眞弓訳 岩波書店 P.25-27

 ヴェイユの論文が出版されたのは1934年であり、当時人類はまだ、1970年代の、そして現在進行中の深刻なエネルギー危機を経験していませんでした。しかし、後世のピークオイル論者が前提としている論点に、純粋な論理的思考だけで到達していたことには驚かされます。つまり、以下のエネルギー資源開発に関する事実です。

  • エネルギー資源開発は偶然に左右され、エネルギー的な意味での投資の利得 (EROI) は、技術的知識の積み重ねのみによって常に改善されるものではないということ
  • 資源採掘の費用対効果は、開発が進むに従って低下する傾向があること
  • 自然エネルギーは、一般的には化石燃料よりも利得が低いこと

ヴェイユ自身はエネルギー問題の専門家でありません。この文章の主題は、マルクス主義者と資本主義者の両者が、技術的観点からの人類の進歩が歴史的必然だと主張していることを批判するものであり、あくまでその一例としてエネルギー問題を取り上げているに過ぎません。

しかし、エネルギーの専門家ではない彼女がこの問題を取り上げていることから考えると、現代のピークオイル論者による議論は、少なくとも80年以上前からヨーロッパの知識人が問題視してきたと言えるのではないでしょうか。