Going Faraway

渡辺遼遠の雑記帳

経済学が科学ではない、たった1つの根本的な理由

経済学が基礎としている概念は、その根底において、個々人の価値観と無縁では存在しえません。

根本的な概念があやふやである以上、表面上をどれほど数学的に取り繕ったとしても、経済学はまともな科学とは言えず、その人が信じる価値観を表明する政治的プロパガンダとしての性質を逃れられないのです。

 

これは、経済学の概念を物理学における基礎概念と比較してみれば理解できます。

例として、力学における質量を取り上げます。全ての物質は質量を持っていますが、そのことは何らの道徳的な意義を持っていません。どうして物質に質量が存在するのかという理由は、最近ようやく理解が進み始めたところですが、しかし古典力学の範囲においても、質量は完全に操作的定義が可能です。質量の定義は、キリスト教徒だろうとムスリムだろうと無神論者だろうと議論の余地はありません。

一方で、経済学の基礎概念は物理量とは全く異なります。「商品」、「サービス」あるいは「価値」や「効用」といった概念の意味は、各個人の価値観を考慮に入れなければ定義ができません。例えば、人間の臓器や、セックスは、「商品」、「サービス」なのでしょうか。何ら信仰を持っていない平均的な日本人であっても、臓器売買や売春の合法化による経済効果を論じるエコノミストの議論を見ると、どこかしら違和感を感じるのではないでしょうか。つまり、これは「商品」や「サービス」といった経済学の根底をなす概念ですら、個々人の価値観と無縁ではないということです。

 

経済学、広い意味での社会科学において、道徳的な価値判断が入り込んでしまう理由は、経済学が「実証的」な側面と、「規範的」な側面を持っているからです。物質の運動の記述は、純粋に「実証的」です。運動方程式は、人々が物質のあり方について持っている信念に影響を受けません。一方で、経済の法則は、人々が何を信じ、何を考え、どう行動するかに強く影響を受けます。そのため経済法則は、人々が何を信じるべきか、何を考えるべきか、どんな行動をするべきか、というエコノミスト個人の判断から逃れられないのです *1 。そのために経済理論は、必然的に、経済世界を客観的に表現する側面と、人々の考え方や価値観に影響を及ぼそうとする側面の2つを持つことになります。

 このような性質は、物質を対象とする(教義の自然)科学には存在しません。物理学者は、物体や電磁波が道徳的にどのように振る舞うべきかについて関心を持っていないからです。

もしエコノミストが語っていることについて、論理的には完全に筋が通っているのに、何故か納得できないと感じたのであれば、その人がどういう価値観を持っておりどんな社会が望ましいと思っているのか、語られない価値観について考えてみてください。

*1:社会がどうあるべきか、という議論は、経済学において「規範的な」議論と呼ばれています