Going Faraway

渡辺遼遠の雑記帳

翻訳:進歩の最晩年 (ジョン・マイケル・グリア)

ジョン・マイケル・グリアによる2021年2月3日の記事 "The Last Years of Progress" の翻訳です。

The Last Years of Progress

ノー、ここで私は過去数週間のアメリカの政治的混乱に関する議論に長い時間を費やすつもりはない。確かに、2020年中のほとんどの期間、暴力は完璧に許容可能な政治活動の手法であると主張していた [民主党の] 政治家たちが、対立する立場の人々がその言葉通りに行動したとき、無様なかんしゃくを起こしたのを見ることはとても楽しかったと認めよう。また、ソーシャルメディアの狂乱的な大量パージにより、どれほどの量の広告にも及ばないほどのブーストを敵対する陣営に与え、ソーシャルメディア企業が自滅していったのを見ることも、同様に楽しかったと認めよう。Reddit上のデイトレーダーが、オフィシャルな説明によれば、卑劣な金持ちだけが行えるとされる類いのマーケットスキームを実行したために、観衆の目前でウォールストリートが融解したという魅力的なスペクタクルもあった。それでも、オンラインでもオフラインでも、そのようなアイロニーを賞味できる場はたくさんあるだろうが、アメリカの 旧体制アンシャンレジー がその暮れ時を迎えるにあたって、その他にも我々が話さなければならないことはたくさんある。

政治は文化の下流であると言われている - 簡単に言えば、文化における変化が先に起こり、後に政治におけるシフトがその変化を反映するということだ。これは真理であるが、同じ洞察を更に進めることができる。文化は、まったく同じ意味で、想像力の下流である。歴史を形作った突発的な政治的変革を追ってみれば、辺縁部のビジョナリーたちの思想と夢想の文化的変化を通して辿ることができるだろう。この意味において、[パーシー・ビッシュ・]シェリーが主張した通り、詩人は世界の認められざる立法者であるのだ: 政治的混乱の前に、それを不可避ならしめる文化的なシフトが来る; 文化的シフトの前に、それを思考可能とする集合的想像力の中のささやきが来る。

詩人が世界の認められざる立法者であるという事実は、けれども、詩人が優れた法律を作ることを保障しない。昨年末に、社会主義を創造した軽薄なフランス人ビジョナリー、シャルル・フーリエのキャリアについて議論した。死後1世紀半の後、情熱的な魅力から誰もが進んで労働する完璧な世界というフーリエイカれた夢想は、現実世界に類似のユートピアを作る挑戦を生み出したが、その結果は、ポスト60年代のアメリカカウンターカルチャーの破綻した何千ものコミューンから、ソビエト連邦 強制収容所 グラーグ およびカンボジアの殺戮の地平にまで至る。同様に、第二次大戦直後のビート世代の詩人の夢想から、今日のアメリカ政治まで、直接的な関連を見出すことも可能であろう。アレン・ギンズバーグの『吠える』を読んでみれば、その感傷的な言葉と盲目的な怒りの支離滅裂な寄せ集めは、今日の政治情勢の驚くべきほどに優れた予告であることが理解できよう。

その他にも多数の事例がある。以前にもここで書いた通り、たとえば、J.R.Rトールキンファンタジー小説は、現代政治が絶望的なまでに機能不全となるにつれて、広く蔓延したテンプレートとなった。何十年もの間、政治界のあらゆる立場の人々は、敵対する立場を反射的にサウロンの化身として定義してきた。そして、何らかのトリックを使って、滅びの山に指輪を捨てる役割を演じようとするのである。(遠くでは、農民のよく通る声が聞こえる: 「意義ある政治的変化は大衆の参加からもたらされるもので、茶番じみた火山の儀式からではない。」今日の政治活動家は、アーサー王とまったく同じように応える。「黙れ! 黙れ!」) *1

我々の将来に控えたきわめて困難な未来をナビゲートすることに興味を持つ者は、それゆえ、集合的想像力における変化に注意を払う必要がある。ある事例が、たった今取り上げる価値があると思われる事例が、しばらく前、雑誌ワイアードの紙面に登場した。

エス、私も折に触れてワイアードを読む。それは一般常識の足元をウロつき、現代の企業貴族の間で流行している空疎な観念には何であれ情熱的なお世辞を言いながら、最先端の偶像破壊者であるかのように振るまう退屈な偽オルタナティブのゴミである。けれども、もしも最新の流行のテクノバブルについて行きたいと思うのならば、これ以上の場所はない。時々は、ついでに言えば、実際に面白い記事もある。私が取り上げたい記事は後者の事例である。

1995年に、カークパトリック・セールは、『Rebels Against the Future』という題名の思索深い書籍を発表した。それはラッダイトの主張を取り上げ、結局のところラッダイトは正しかったと主張する本であった。ラッダイトとは、ご存じかもしれないが、18世紀後期から19世紀初期のイギリスの労働者階級の人々で、初期の産業革命を拒否し、自分たちの仕事を取り上げ貧困へと追いやった機械を破壊することにより、自身の生活と熟練職人としてのアイデンティティを守ろうとした人々である。当然、彼らは負けた。首謀者は吊るされ、多数の追随者たちはオーストラリアの労働キャンプへと送られた - 当時のイギリスでは、シベリア送りに相当する。その後の人類学者による当時のイギリス人の骨格調査によると、19世紀の労働者の遺骨からははっきりと深刻な栄養失調と貧困の兆候が見て取れ、中世の暗黒時代を含めてそれ以前の時代の遺骨よりも状態が悪いのだという。

必然的に、それ以来ラッダイト運動は進歩好みな人々にとっての "藁人形" となった。セールは、そのような安易な侮辱を退け、彼らの主張に確固たる論拠を与えている。そのような公的に承認された我らが時代のドグマからの逸脱は、逆に、ワイアード誌の創刊者の1人であるケヴィン・ケリーには耐えがたいものであった。その記事では、ケリーはワイアード誌の「専任テクノ楽観主義者」と呼ばれている。ワイアードの記事が、大げさに言えば、きわめてバカげたトゥモローランドファンタジーを唱えているという無知さを考えれると、また、その結果生じた弱点を突けるようにセールが準備していたとしたら、彼はその対決を切り抜けられたかもしれない。

残念ながら、セールにも弱点があったので、ケリーは冷酷な残忍さでそこを突いたのであった。今昔の進歩批判者の多数と同じく、セールは工業社会の終わりなき物質的拡大を無限に続けることはできないと確信していた。セールが正しかったという強い証拠を上げられるが、しかし彼は先に進みすぎてしまい、すなわち工業社会はいずれすぐに崩壊すると確信してしまうという致命的な一歩を踏み出したのだ。それが、ケリーが目標とした弱点であった。テープレコーダーを動かし、ケリーは1000ドル分の小切手を取り出して、セールにそのような崩壊がいつ起こるか賭けるように言ったのである。セールは罠にかかり、賭けに応じた。選んだ日付は2020年であり、当然彼は負けた。

1つ注意しておくべき点は、セールはその勝負に完全に負けたわけではないということだ。彼は崩壊の指標を3点定めた: 1930年代よりも深刻な大恐慌をもたらす、ドルの価値の崩壊; 富者に対する貧者の叛乱; 前例のない頻度の環境的な大災害。セールは1.5得点を上げたが*2、けれども、賭けは3点すべてに対するものであったので、彼は敗北した。

その種の賭けは、無限の進歩の支持者たちの間では標準的なトリックである。そのようなトリックについて面白いと思うことは、私が耳にしたあらゆる事例で、賭けが一方通行であったということだ。

想像してみてほしい。反例として、セールがテーブルを引っくり返したとしよう。「ノー」彼はこうも言ったかもしれない。「別の賭けをしよう。キミの雑誌が言っているような未来 - 核融合スペースコロニーその他がいつ実現すると考えているのか、教えてくれ。そして、その日付を予想してほしい。それぞれに1000ドルを賭けて、どちらが正しいか確認しようじゃないか。」 もしケリーが2020年を選んでいたとしたら、そのような未来の非常にささやかなバージョンを指定していたとしても - 言わば、少なくとも1機の核融合炉が電力を供給している、少なくとも500人が地上を離れてフルタイムの生活を送っている - セールは今1000ドルを得ていたかもしれない。

この反例の問題点としては、1995年にワイアード誌の読者に対して、四半世紀後の未来にも核融合炉はいまだ未解決の問題であり、有人宇宙飛行は限定されたもので、ロケット先端の旧式カプセルで低地球軌道に行けるのみ、などといったことを言おうとしたら、読者投稿ページは罵倒で溢れたことだろう。当時の一般常識によれば、2020年までに我々は確実に宇宙への小さな一歩を踏み出しているはずだったのだから。セールがこのような賭けを要求していたとしたら、ケリーは今頃、セールに科したのと同じような無様な立場に置かれていたことだろう。もしケリーが賭けを拒否したとしたら、どうして彼は公の場でこれらすべての素晴しいことがすぐにでも実現すると主張し続けられただろうか?

この無様さの裏側には、我らが時代の最も言及し難い事実が隠されている。進歩がその約束を果たせなくなったことである。数十年前にさかのぼり、有資格者の専門家やマスメディアの厳粛たる予測を参考にして、2021年までに我々がいるはずだった世界と、我々が今現在いる世界を比較してみると良いだろう。違いは驚くべきものである。単に、未だ核融合スペースコロニー、設定上は2014年のバックトゥーザフューチャーのホバーボードに至るまで、その他何百もの実現していたはずのファンタジー的ガジェットが存在しないというだけではない。ここアメリカ合衆国では、乳児死亡率はインドネシアと同等であり、老朽化したインフラストラクチャーソビエト連邦の晩年を思い起こさせ、政治システムは、通常、大変動に先立つある種の強固な硬直状態にあるという事実も注目に値する。

これら何一つとして起こるはずではなかった。過去50年の有識者の専門家とされる人々の公的に承認された発言によれば、我々の未来には2つの選択肢しかないとされてきた - 核融合スペースコロニー、そしてすべての人々に豊かさを与える輝かしいテクノロジーのワンダーランド、もしくは大変動の絶滅への迅速な墜落である。バッキー・フラーの印象的なフレーズによれば、我々が直面するはずだったのは、ユートピアと虚無の間の選択であった。(私は時々、そのレトリック上のトリックをフラーの誤謬と呼ぼうかと考えたこともある。) 後者の終末論的なオプションが、常に承認された物語の一部であったことは奇妙に思えるかもしれないが、けれども、非常に正当な理由が存在する。ケヴィン・ケリーのセールに対する賭けは、その理由に対して明確な光を当てている。

これらあらゆる終末論的な予測のポイントは、結局のところ、失敗した進歩の物語よりもさらに不正確であるということだ。進歩の擁護者は、トレーニング中のボクサーがサンドバッグを必要とするように、終末の物語を必要とする。突然の大惨事を予想して誤った予測をしてしまった人を常に指摘し、「ヤツらがどれほど間違っていたかを見てみろ!」と繰り返すのである - そうすれば、自身の予測が完璧なまでに間違っていたことから注意を逸らさせ、他のあらゆる予測よりも更に不正確な最新の "絵に描いた餅" の約束を、人々に信じさせ続けられるかもしれない。

終末論的ファンタジーは、したがって、進歩のレトリックにおいて中心的な役割を果たす。それは脚本の一部であり、進歩の勝利を描く道徳劇の敗者が口にすべき決まり文句の中で重要な位置を占めている。もしもあなたが今日の工業諸国の背信者であり、進歩のプロパガンダを信じていない場合、それと同程度に誤りである終末論の誤謬を信じるようにと、かなりの強さのプレッシャーを受けることだろう。約14年前、工業諸国の未来についてのブログを書き始めた時から、私はこのプレッシャーにいつも対応しなければならなかった。ことによると、もしも私がアスペルガー症候群から来る複雑な長所を持っていなかったとしたら - それにより社会的プレッシャーに対して多かれ少なかれ無頓着になる - 私もずっと前に同じ罠に囚われていたかもしれない。

この先数年間、終末論の物語がさらに激しく宣伝されるだろうと予期しているが、それには十分な理由がある: 我々の社会の甘やかされたエリートの外にいる人々には、進歩の世俗的神話を信じることはますます困難になっているからだ。多くの人々がそれを完全に認めるとは思わないが - 少なくとも今は。たぶん今後数年はそうだろう - けれども、外れることを意図した終末論的な予測を振りかざせば、進歩の予測がさほど間違っていないように見えるだろうか? それは成長産業になるだろう。

それが成長産業となるのは、逆に、代替案が我々の選択が実際に引き起した未来に向き合うことであるからだ。結局のところ、未来予測はそれほど難しくない。進歩カルトのバラ色の眼鏡、もしくは終末カルトの灰色の眼鏡を着けていない限りは。例として、これは50年前に書かれた予測である。読者諸君は、この予測と今日我々が済む世界を比べられたい。

「衰えぬ進歩という輝かしい宣伝は、公的機関から雨のように我々の上に降り注ぎ続けている; あらゆるトンネンルの終端には、常に、よく研究された明るい予測が存在している; 多くの真の豊かささえ存在するだろう; けれども、セールスマンが約束した通りにうまく働くものはない; 組織的混乱と官僚的機能不全、絶え間ない環境的な緊急事態、スケジュール遅延の政策、ショートした回路の混乱、パイプラインの目詰まり、通信の途絶、過剰な社会サービスにより、豊かさは失われるだろう。データバンクは誤情報のジャングルになり、コンピュータは慢性的な電気精神病に苦しむだろう。正統な楽観主義の装飾にもかかわらず、その光景は間違いなく寂しく見苦しいだろう。未来的なファサードの後でものごとが緩んで崩壊を始めたとき、隅に瓦礫が蓄積し始めたとき、それは万国博覧会の最終日のようでさえあるかもしれない。クロムは汚れ出し、ネオンライトは切れて、あらゆるスイッチとボタンは動かなくなる。あらゆるものがプラスチックだけが持つはずの不快な粘着性を帯び、古びることも輝きを止めることも想定されていないものごとの見た目だけは、明るく、洗練され、完璧なものであり続ける。」

これは1972年の本『荒地が終わる場所』からのセオドア・ローザックによる技術社会の未来の予測である。その忘れられた時代の思慮深い他の作家たちと同じく、彼は永続的な進歩と突然の崩壊という偽の二分法の外側に出て、周りの世界をよく見て、その世界がどこに向かっているのかを明確に理解することができたのだ。進歩と終末の真の信者たちとは異なり、もちろん、彼は正しかった。

それと同じ時代になされた最も誤解されている将来の予測、1973年の『成長の限界』により、同じ点を等しく説明することができる。その悪評高い本には、未だ多くのナンセンスな批判が投げかけれらているので、厳しい限界のある有限な惑星で無限の成長を目指した場合に工業文明に何が起こるのか、著者たちが最善を尽して推定したスタンダードモデルを再確認しておく意義があるだろう。

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成長の限界』のスタンダードモデル。今なお最も正確な未来予測である。

このグラフは私の読者諸君には間違いなくお馴染みであろうが、2つの点は繰り返し述べておく意義がある。1点目は、これは急速な崩壊の予測ではないということだ - あるいは、更に言えば、何らかの崩壊ですらない。むしろ、没落の予測である。天然資源は徐々に減少し、食料供給と人口は長くゆっくりとした曲線で上下し、全世界の工業生産量はそれよりも急激に上昇し減少するものの、それでも2050年でも1950年より大幅に大きな値を示す。T.S.エリオットのフレーズを借用して言い換えればこう言えるだろう。「かくて進歩の終わり来たりぬ 地軸くずれるとどろきもなく ただひそやかに」

言い換えれば、もしケヴィン・ケリーが『成長の限界』の著者たちを待ち伏せして、世界の突然の崩壊が起こる期日を言うように求めたとしたら、著者たちは彼に対して疲れた表情を見せて、我慢強く説明をしなければならなかっただろう。けれども、私が目撃した他の類似事例から判断するならば、その説明はケリーの頭の上を通り過ぎてしまっただろうが。更には、このグラフはその書籍の中の1つの事例を示したものに過ぎない; スタンダードモデルは当時著者たちが得られた最善の情報を反映したものではあるが、しかし彼らは、世界の資源供給量が1972年における推定値の最大量であることが判明した場合のモデルも実行したのである。(ネタバレ: 曲線の形は同じであり、若干長い時間を要し、上昇は少し高くなり、下降は少し急激になる。)

2点目は、この誤解された悪評高い我らが未来についての見取り図は、当時と現在に散在する許容可能な代替案のいずれよりも、はるかに正確であることが判明したということである。絶え間ない進歩の預言者による大げさな演説にもかかわらず、核融合炉、スペースコロニー、およびその他すべての人類の全能性を表す安易な夢想を備えたすばらしき新世界は、1970年代初頭と同じく遠い未来にある。その点について言えば、差し迫った破滅の預言者による大げさな演説にもかかわらず、我々はまだここに居る。一方で、セオドア・ローザックが予測した慢性的な技術的失敗の悲惨で見すぼらしい世界は、宣言通り定刻に到着し、人口、資源減耗、食料供給量その他の無慈悲な曲線は、かなりの程度の正確さで『成長の限界』のスタンダードモデルが描いた通りの軌跡を辿り続けている。

したがって、我らが時代の想像力の中で場所を見つける必要がある概念は、我々はトゥモローランドや黙示録の瀬戸際に生きているというものではなく、我々は進歩の最晩年に生きており、私が長期没落と呼んだ時代の幕開けにいるという概念である。我々の目の前で身構え、飛び出さんとしているのは、進歩と終末の双子のファンタジーとは何の関係もない。関係があるのは、他のあらゆる文明の黄昏を満たした、長く、ゆっくりとした、不均一な没落である。ワイアード誌のような場所では、他の失敗した啓示的宗教の真なる信者に見られる不安な熱意を備えた、いつもと同じ古いテクノフェチな夢想が唱えられ続けるだろう。けれども、衰退の兆候を無視して、それらすべての20世紀SFの棚ざらしの決まり文句が近いうちに実現すると信じ続けるためには、ますます強い労力を要することであろう。

その一方で、工業文明の没落のペースは年を追うごとに少しずつ加速していき、それら小さいながらも累積的な増分が加えられていく。新たなテクノロジーは市場に登場し、あちらこちらでブレークスルーが起きるだろうか? もしかすると、人類は再び月面に降り立つだろうか。もちろん起こるだろう。けれども、それらは加速する劣化と経済収縮を背景として起こる。そこでは、最先端のテクノロジーは、ますます問題を抱える時代のゆっくりではあるが止まることのない下降を完全に上回ることはできず、名目上の経済発展は、蔓延する貧困およびゆっくりと崩壊するインフラストラクチャと快適に共存する。専門家と政治家たちは、進歩は今でも続いていると堂々と主張する一方で、直近の過去のつかの間の勝利は、次第に記憶の中へ、そして伝説の中へとフェードアウトしていく。

けれども、ワイアードの誌面や、偉大なる神プログレス様の必然的勝利を賞賛する場では、我々がどこに向かっているのか、そして、それは正気の人間が向かいたいと望む場所であるのか、という真剣な省察が行われている場を見つけることはできないだろう。あるいは、 もちろん、終末論的な主張が流行っている場所でも、それが取り上げられることもない。人々の生活において最も明白な現実についてほぼ誰もが公に語りたがらないのは、極限状態にある社会の確かなサインである。そういうわけで、読者諸君、心の準備をしておくと良いだろう。我々の前には険しい道程があるのだから。

Rebels Against the Future

Rebels Against the Future

*1:これは モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル のネタ

*2:1点目の「ドル価値の崩壊」は誤り、2点目の「貧者の叛乱」は正解、3点目の「環境的大災害」は引き分けとされた。

翻訳:未知の領域へ (ジョン・マイケル・グリア)

ジョン・マイケル・グリアによる2020年12月30日の記事 "Into the Unknown Region" の翻訳です。

Into the Unknown Region

ほぼ14年にわたって私はブログを書いてきたが、年末の最後の記事 (または、時々は、新年の最初の記事) では、いつも新たな年の予測をしてきた。今年はそれをしない。来年 [2021年] に予期されることをいくつか予測することは、十分に可能であるとは思う。今は、けれども、未だ我々が分からないことに焦点を当てるのがより重要であると思う。なんとなれば、我々の目前で形作られている未来において、決定的な役割を果たすものがその中にあるからだ。

未知の未来へ向かうこの旅路は、不安なものである。科学者は数式を立て、政治家は有資格の専門家とされる人々に答えを求め、広告屋はフォーカスグループを招集し、神秘主義者はビジョンを求め、占星術師は星図を描き、陰謀論者は世界が誰かの支配下にあると確信する: それらすべては、未知であり不可知のグリップから未来を導き出そうとする試みである。何らかの不可知なものが不可知であるのは、誰かしらの人間の行動によるものであると分かる時、そのグリップはとりわけ不愉快なものとなる - そして、それこそが現在の状況である。

それを心に留めて、明日の夜、2021年という未知の領域への突入に備えて、これらの謎のいくつかを見ていこう。

最初に思い浮かぶのは、現在、世界中の国々で、Covid-19 コロナウィルスのワクチンが、長蛇の列をなしたレシピエントに注射されていることである。少なくともここアメリカの企業メディアは、その電子の肺から大声を出して「ザ・ワクチン」(もちろん、ワクチンにはいくつかの種類がある) は安全で効果的であると主張してきた。はっきりとした真実は、誰にも分からないということだ。ワクチンが安全で効果的であるかどうかは、数年にわたる繰り返し試験と長期評価が必要であり、ファイザー社のワクチン (アメリカとイギリスで最初に承認された) は、販売承認前に合計8週間の緊急試験を受けた。医薬品の問題 - より深刻な問題 - が表面化するまでには、数ヶ月から数年を要することもまれではない。また、ファイザー社とモデルナ社の製品は、これまで人間の被験者に用いられたことがない種類のワクチン - mRNAワクチン - であり、それゆえ、何百万もの人に接種された際に何が起こるのかを知る人はいない。

私が興味深く思うのは、ワクチンの想定上の安全性と有効性をメディアが主張する甲高い口調である。ここ数年の間、今日のアメリカの "満足した中産階級" は、世論のコントロールは、その世論の根底をなす事実をコントロールすることではないという事実を忘れている。参考までに言うと、バーバラ・エーレンライクが『ポジティブ病の国 アメリカ』で描いたようなポジティブシンキング病の 蔓延 パンデミック が、このような状況を引き起す上で大きな役割を果たしたのではないかと疑っている。何かが真実であると信じよ、さすれば全世界がその通りになるであろう: それが、今日のアメリカにおける、危険なまでに多数の特権階級の人間のメンタリティである。

けれども、有名な歌のフレーズの通り、"なんでもそうとは限らない"。*1 2008年のリーマンショック前に、"不動産転がし" に飛び込んだ何万もの人々は、「引き寄せの法則」が自身では稼げないほどの富をもたらしてくれると信じ込み、経済法則と彼らの夢想が正面衝突した際には破産宣告へと追い込まれたのである。住宅バブル崩壊が彼らのイデオロギーの問題点を明らかにしたとき、かなりたくさんの人々が金切り声を上げたのだ。そして、ワクチンに関するメディアによる宣伝の激しいトーンは、否が応にも、かつて起きた現実との衝突を強く思い出させる。 コロナウィルスワクチンは確実に安全であると大声で主張する専門家や政治家たちに、同様の運命が待ち受けているのかは分からない。彼らも他の誰も真実であるか否かを知らないのだから。ワクチンは、すべて安全かもしれない; その場合は問題ない。ワクチンの1つまたはいくつかは、当局に承認された何百もの薬品が急速に市場から撤退する原因となったような、厄介な副作用を持っているかもしれない。ワクチンの1つまたはいくつかは、サリドマイド [睡眠薬。胎児に奇形を生じる] やフェンフェン [食欲抑制剤。アメリカではダイエット薬として広く使われたが肺高血圧症や心臓弁膜症を引き起こした] にも匹敵する、我らが時代の巨大な薬害問題となるかもしれない。単に、我々には分からない。そして、ソーシャルメディア企業貴族たちは、製薬企業の方針に沿わない議論を検閲するつもりであるという立場を明白にしているため、我々は何ヶ月も、何年も、何が起こったのか分からない可能性がある。

けれども、これらすべての政治的含意は注目に値する。企業メディアと科学機関全般は、弱まっている自身の信頼性の残骸をこれらワクチンへと釘付けにした。非常にたくさんの人が、当局が医療について述べていることをもはや信じておらず、それには正当な理由がある。バラク・オバマが、ACA法により健康保険料は安価になり、当然、既存の医師および保険プランは維持できると主張したことを持ち出す必要があるだろうか? もしも、現在のコロナウィルスワクチンの1つが有害な、または致死的な副反応を生じた場合には、過去数十年間積み上がった体制科学と製薬企業に対する信頼性の危機は、戦闘状態へと至るかもしれない - 比喩的な意味かもしれないし、そうではないかもしれない。しかし、単に我々には分からない。

先へ進もう。もう1つ、2021年について未知のことは、1月にバイデンが次の政権に就いたとき、正確にどのような政策を追求するのかである。選挙キャンペーン中には、バイデンが勝ったとしたら、ブッシュJr.が開始しオバマがあれほどの熱意でコピーした、ネオリベラル的経済政策とネオコン的対外政策との危険な政策のミックスへ一直線に復帰するのだろうと私は考えていた; 言うなれば、ドナルド・トランプの登場を不可避とした政策である。バイデン (あるいはむしろ、彼を 操る者 ハンドラー ) が、そのような政策を採る可能性は大いにあるものの、異なる見方を示唆する興味深い話がある。

たとえば、バイデンの環境についての政権公約の特徴的な点に、建造物の省エネ改修に対する補助金プログラムがあり、そのプロセスでは多数の労働者階級の雇用を生み出す。バイデンの公約でそれを眼にして、私はかなり驚いたことを認めよう。というのは、かなり昔、エネルギー問題について広く論じていたときに、私が強く主張していたことであったからだ。バイデンのチームの誰かが、承認された思想の密閉空間から迷い出て、大ドルイドが潜む辺境まで来ることはありそうもないように思われるので、これは偶然の一致なのだろうと思う。同時に、バイデンの広報担当者が、労働者階級のアメリカ人は雇用について懸念していることに気付いたという事実は、無知なエリートの眼からは消えさりそうなほど珍しくなっている、今日のアメリカにおける生活の厳しい現実に注意を払っているかもしれないことを示唆している。

過去4年間、民主党が絶対的に学ぶことを拒否してきた教訓には、アメリカの労働者階級の人々が望んでいることは、十分な賃金が支払われるフルタイムの仕事であるということが挙げられる。彼らの望みはそれだけであり、それだけが彼らが受け入れるものである; フルタイムの雇用が与えられば彼らは幸福であり、それが無ければ他の何を提供しようとも無意味である。トランプがアメリカ政治の永続的な現実を無視するまでは強固な超党派のコンセンサスが成立していたために、2008年と2012年にオバマに投票した上中西部の多くの人々は、2016年にはトランプにチャンスを与えることに決めたのだ。

覚えておかなければならないのは、1ヶ月もしないうちにバイデンの任期が始まった後、彼はとてつもなく困難な状況に直面するということだ。バイデンは、激戦州で紙のごとく薄い得票数差でしか勝利しておらず、選挙の不備に関する証拠は通常以上に存在する; 民主党は下院でのリードを失なった; バイデンはごくわずかな信託すら得ておらず、両サイドからの圧力に直面するだろう - 片側には、わめき散らす民主党左派イデオローグがいて、彼らはトランプと同じくらいバイデンを嫌っている; もう片方には激怒した共和党員がいて、大統領選挙は違法であると信じており、過去4年間の民主党の悪行に対する長い復讐リストを持っている。チャンスを得たら彼らは真っ先にそれを持ち出すだろう。(よくお分かりの通り、たとえば、共和党が下院の過半数を取り戻した瞬間、バイデンは弾劾されるかもしれない - 共和党がスマートなことをするのでない限り。つまり、[副大統領] カマラ・ハリスを最初にターゲットにすることである。)

バイデンおよび彼のハンドラーがこの混乱をやり過ごすために取りうるほぼ唯一の方法は、大統領就任式典が終わった瞬間に、中道政策へ向かって移動することである。そのためには、民主党の左派勢力を切り捨てて、通路の両側にいる穏健派たちと共通の大義を掲げなければならない - 基本的には、ビル・クリントンがしたのと同じことであり、またバラク・オバマも、2010年の中間選挙で、極左勢力にエサを与えることは政治的自殺行為であると学んだ後、同じことをした。バイデンの立場を大いに強化する可能性のある方法の1つは、労働者アメリカ人のニーズに対処するための何らかの政策を取ることである - 注意してほしい。労働者階級の人々に何を望むべきかを教えて、それを受け入れるように脅しつけることではない (特権階級左派の通常の行動)。そうではなく、彼らに耳を傾けて、彼らが望むものの少なくとも一部を与えることだ。

バイデンがそうするならば、たった今この国を揺さぶっている深刻な問題の一部を解決するため、多数の普通のアメリカ人が対処してほしいと思っている諸問題について妥協点を見つけ、両党からの有力な穏健派連合を構築して、確率の低さにもかかわらず大統領任期を成功裏に終えられるかもしれない。このようなことが起こるのか、私には分からない。バイデン側近の内部集団の外にいる人には誰にも分からないだろう。バイデンが期待を超える可能性を、私は受け入れている - それより下に行くことは、文字通りの意味で不可能であるからだ - しかし、我々は単に待って、確認するしかない。

先に進もう。その他の未知の重要なことは、先日、アングロ・アメリカンのエリートのつまらない街頭演説スピーカーであるBBCのニュースサイトに登場した。最近では、私はめったなことではマスメディアの無駄口に驚かされることはなかったのだが、この記事には驚愕して開いた口が塞がらなかった。なぜなら、BBCが - より正確には、BBCのリポーターが引用した国連の環境問題広報担当者たち - が、世界が人為的気候変動に対して何らかの意義ある対策を取ろうとするのであれば、裕福な人々は自身のライフスタイルを変えて、現在排出している二酸化炭素を削減しなければならないだろうと公に認めたのであるから。

この発言がどれほど驚異的であるかを理解するためには、気候変動への政治運動の最近の歴史を知る必要がある。過去数十年間、気候変動活動家たちは、我々みんなが気候変動を止めるために何かをしなければならないと大声で主張しながら、その一方で、アフリカの中規模都市に匹敵する二酸化炭素を毎年大気中へ排出するような個人的ライフスタイルを先導し続けて、「偽善者」という言葉に新たな意味を加えてきた。 著名 セレブ環境保護活動家が、注目を集める気候変動会議にプライベートジェットで飛び込んだとき、そのような偽善性は熱狂に達した。そこで世界の炭素使用量削減の必要性について口先だけのレトリックを唱える一方で、自分たちは炭素削減をまったく望んでいないことを示したのだ。

セレブたちの向かうところ、必然的に、"満足した中産階級" が続く。かつて私がピークオイル劇場のスピーカーであった頃、皮肉な喜びとともに気付いたのだが、もし我々が何もしなかったとしたら気候変動の影響がどれほど壊滅的なものになるかと好んで語る多数の上中流階級の人々が、自分自身の平均以上のカーボンフットプリントを減らすことで範を示すべきではないですかと問われた際、狂ったように主張を取り下げたことを思い出す。彼らの世界変革のアイデアは、常に、コストを可能な限り労働者階級とグローバルな貧困層へと押し付け、一方で自分自身のライフスタイルを聖域として扱うものである。注目してほしい。多数の事例の1つとして、反気候変動活動家が、炭鉱業の禁止にどれほど執着しているかに気づくだろうか。それは、全世界で何百万人という労働者階級の人々の雇用を生み出しているものだ。その一方で、必須ではない飛行機旅行によって生み出される、同程度に莫大な二酸化炭素排出には決して言及されない。炭鉱夫たちが仕事を失うのは何も問題がない。けれども、もし中産階級の人間にマサトランやバリでの休暇を諦めるように提案したとしたら、ひどいことになるだろう!

の偽善性があまりにあからさまになり、批判的な注目を集め始めたら、私がこのブログでも、他でも予測してきた通り、"満足した中産階級" は、間違いなく、気候変動を流行の問題として扱うのを止めて、自身の徳性をひけらかすゲームのために何か別の問題を取り上げて、更なるコストを労働者階級の人々に課すであろう。(それは確かに起こった - お気付きだろうか。オフィス族は現在のパンデミックの間自宅から働くことができ、ゆえに給与を受け取り続けた一方で、工場、店舗、その他下級階級の場で働く人々が代わりに解雇されたことを。ここでもまた、中流階級は甘やかされ、労働者階級がワリを喰ったのである。) それでも、ご覧の通り、BBCは裕福な人々が想像もできないことを行なう必要があり、この惑星のためにはなはだしい浪費的なライフスタイルを抑制する必要があるとアナウンスしている。

我々の惑星の生態と、その気候を乱す二酸化炭素汚染源の分析という難事業を何年も続けた後で、突然に、国連から調査を依頼された専門家たちが、炭素排出量を削減するためには、その排出の大部分を占める人々の行動を変える必要があるのだと思い付いたのかもしれない。告白すると、けれども、私はそれは信じ難いと思っている。私の推測では、無知な富める者のお気に入り政策に対する政治的反発があまりにも強くなっているため、エスタブリッシュメントの組織ですらそれに気付かされており、労働者階級がすべてのコストを押し付けられ、中上流階級の人間がすべての利益を得ることを意味する「犠牲の共有」を主張することは、もはや続けられないと認識したのだと思う。

もちろん、それは問題である。なんとなれば、そのような線に沿ってねじ曲げられたのは、何も環境政策だけではないからだ。何十年にもわたって、ここアメリカおよびほとんどの工業諸国でエスタブリッシュメントが推し進めたほぼあらゆる政策は、労働者階級の犠牲のもとに中流階級を利するものであった。それこそが、1人の労働者階級の収入で家族の快適な生活を養えた1960年代の状況から、1人の労働者階級の収入では家族を路上生活から抜け出させることができない2020年の状況へと陥った原因である。そのような変化は偶然でもなく、必然でもない; 超党派のコンセンサスにより推し進められ、病理的なまでに達する不誠実な政府、企業およびメディアによって擁護された、容易に識別できる政策によるものである。

現在我々が直面している困難は、もちろん、きわめて大多数の人々がこれに気づいており、その状況にまったく満足していないということだ。ここアメリカでは、膨大な数の市民が- おそらくはその大多数が - 不正な選挙と息を呑むほど不誠実なメディアに支えられた、老人性の泥棒政治体制下に暮らしていると信じている。そこでは、投票は正しくカウントされず、要求は権力者に無視される。更には、彼らの信念を裏付ける証拠は膨大にある。また、こんなことを言うのは奇妙であるが、裕福な人々が口汚く労働者階級の人々を罵倒したとしても、彼らの心は変わらないであろう。結果として生じた正統性の危機は、非常に重要な政治的事実と化した。

数年前、私のブロガー友達であり、時折以上の議論相手であるドミトリ・オルロフが連載エッセイ (後に『Reinventing Collapse』として本にまとめられた) で指摘した通り、アメリカは、1989年に東欧のワルシャワ条約諸国を、また1991年にソビエト連邦を転覆させたのと同種の、突然の政治的爆縮に対して脆弱である。それ以来、彼の指摘は鋭さを失なっていない。前世代の政治学者が述べた通り、政府は被支配者の同意により存在する。それは単なる事実の言明であり、理想の提示ではない; 政府が、いかなる政府であろうと存続できるのは、ただ、その統治する人々の大多数がそれに沿った行動を取り、どれほどバカげていようともその法と命令に従うからだけである。もしも被支配者がそのような合意を取り下げたら、既存秩序は崩壊する。

三十数年前に見られた通り、統治権を主張する政府に対する人民の合意を取り下げさせるための最も効果的な方法は、被支配者たちの要求と懸念は、自惚れたエリートにとって何らの関心もないと何度も何度も示し、また、既存体制の存続からは何らの希望も得られず、それが崩壊したとしても何も失うものはないと人民に示すことである。かなりの割合のアメリカ人が、そして他の西側工業諸国の多くの人々が、このような経験をしており既に結論を出している。

結果として、近い将来のいずれかの時点において、アメリカ合衆国が次に深刻な危機に直面した際、ほとんどのアメリカ人が肩をすくめて、政府が倒れるままに任せておくという状況は、完全にありうると言える。1991年にソビエト連邦に最後の危機が襲った際、ロシア人のほとんどがそうしたように。合衆国の現役の警察官と軍人 - 危機にある体制の最後の防波堤 - のほとんどが2016年と2020年の選挙でトランプに投票したこと、また、自分たちをさんざんバカにしてきた人々を助けるためには駆け付けてこないかもしれないことを覚えておいてほしい。言い替えれば、現在の我々が旧ソ連について語るのと同じように、今から10年後には旧アメリカ合衆国について語っているということは、完全にありうる未来なのである。

それは2021年に起こるのだろうか? 断言は不可能である。その理由の1つとしては、このエッセイで議論した通りの未知の事象に依存しているからである。もしも、Covid-19ワクチンが安全で効果的であると判明したら; もしバイデン政権が、アメリ政治界で放棄された中道政策を採り、政府は自分たちの懸念と要求を聞いてくれるかもしれないとアメリカ人労働者たちに考えさせることができたなら; もしもアメリカや他国の特権階級の人々が、自分たちが好む政策の帰結は、[フランス革命の] タンブレルとギロチンに似た帰結をもたらすと、ようやく気づいたとしたら - 少なくとも、自身の快適なライフスタイルを提供するシステムの不可逆的な崩壊をもたらすと気付いたとしたら - そうすれば、ものごとは完全に異なる方向へ向かいうる。

一方で、もしもテスト不十分なワクチンが、数百万人の接種を受けた人々の多くに悪い結果を引き起したとしたら、または、バイデンの労働者階級への雇用についての公約が、オバマのヘルスケア法と同様の真っ赤な嘘だと判明したら、または、無知なエリートたちが、システムを支える労働をする人々を犠牲にして自分のお気に入りの政策を追求できると信じ続けるならば - あるいは、愚かしくも、これらすべてが一度に起こったら - ごくわずかな人しか準備のできていないカオス的な未来へと突入していくかもしれない。今の時点では、けれども、単に我々には分からない。

それを心に留めて、読者諸君には注意深く、機敏であり続け、食品庫を必需品で満たしておくよう勧めたい。そして、諸君の目の前のガラスのスクリーン上でわめき散らすすべての顔は、諸君の望まないものを売り付けるために居るのだということを忘れないように。毎年の通り、1月には毎週のブログ投稿をお休みする。だから、議論を再開するのは2月最初の水曜ということになる。それまでは、ご安全に。そして、あなたの運命を導く力が良きものを授けてくれますように。

ポジティブ病の国、アメリカ

ポジティブ病の国、アメリカ

訳者補足: 私自身はあまり反ワクチン的な言説に与したいとは思いませんが、合衆国では20世紀後半までタスキギー梅毒実験 のような被差別民族に対する非人道的な人体実験が行なわれていたこと、また医療・製薬業界があまりにも営利優先であるため、医療・製薬業界への信頼が著しく低いという背景があります。

翻訳:シャルル・フーリエとレモネードの残り香 (ジョン・マイケル・グリア)

ジョン・マイケル・グリアによる2020年12月2日の記事 "A Faint Whiff of Lemonade" の翻訳です。

A Faint Whiff of Lemonade

このブログ、エコソフィアの先週の投稿では、グレート・リセットについて議論した。世界経済フォーラムおよびその他エリート演説者集団により現在総力を挙げて宣伝されている、新規でイノベーティブであるとされるグローバル経済改革の提案である。そのプログラムについて最も強い印象を受けた点は、前回記した通り、そのすべてが驚くほどに時代遅れなものであったことだ: すなわち、初期のソビエト連邦の焼き直しの、私有財産の完全撤廃、侵入的な監視国家、巨大かつ非人間的な官僚機構に対する全面的依存、労働者の楽園ではあらゆる人々が幸福であるという追従的なプロパガンダ。現代史を知る人にとっては、懐しい思い出のようでさえあった。

けれども、ブログのコメント欄で、グレート・リセット、および最近のポップカルチャーエンターテインメントとして流通している作品の中にある多数の類似物についての議論が始まったとき、世界経済フォーラムスターリニズム2.0への熱意の下に、はるかに奇妙で興味深いものが潜んでいることに私は気付いたのだ。グレート・リセットの根底をなす中核的なアイデア、および、言うまでもなく、今日の企業貴族により販売されているあらゆる種類の無知なトゥモローランド的ファンタジーの排出物においては、ソビエトイデオロギーからの借用がまったく存在しないのである。また、その他の多数のアイデアも、スターリンの下僕たちがそれを手にしたときには、既に中古品だった。それらのアイデアが最初に新品状態で発表されたのは、更にその1世紀前、もっと奇妙な所からだったのである。

エスシャルル・フーリエについて語る時が来た。

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シャルル・フーリエ

フーリエこそが、近代社会主義を発明した男である。現在、そのことを知るためにはかなり掘り下げなければならないし、フーリエの思想の完全な説明を見つけるためには更なる労力が求められるだろう。その理由については、後述する。フーリエは、1772年にフランスのブザンソンで地元の商家の息子として生まれた。父親が亡くなった後、彼は遺産をかなりの短期間で浪費してしまい、しばらくの間仕事を転々とした後、行商の職にありついた。彼は生涯未婚であった - 一生にわたって、金銭の支払いのないセックスパートナーがいなかった [要は、素人童貞だった] という噂があった - そして、余暇には完璧な社会のアイデアを考えることに時間を費した。彼の最初の本、『四運動の理論』は1808年に出版されたが、ごくわずかな部数しか売れなかった。

フーリエにとっては幸運なことに、奇矯な金持ちにより書籍が購入され、その金持ちはフーリエパトロンとなった。それによって、フーリエは執筆と自身のアイデアを世間に売り込むために必要な収入を得られた。1815年にナポレオン戦争終結し、続いてヨーロッパに保守主義が復活すると、より良い新社会が実現できると信じたい多数の人々に対して、彼のアイデアは強い魅力を放ったのだ。フーリエは、未来社会の基本単位はファランステールとなると提唱した - 現代的な言い方では農工業コミューンであり、そこではコミューンの人々が使用するあらゆる生産手段とあらゆる財産が共有される - そして、数十ものファランステールが正式に発足した。特にアメリカ合衆国には多数存在したが、そこに限られるわけではない。

彼らに何が起こったのかを話す前に、フーリエのアイデアの世界に飛び込むことが必要となる。フーリエによれば、無数の世界が「星間アロマ」から凝縮され、それら世界とその住人は、野蛮[Savagery]、未開[Barbarism]、文明[Civilization] (すべての中で最悪)、そして調和[Harmony]という予め定められた一連のステージを経るとされ、文明状態の惑星の知的存在がフーリエの哲学を受け入れると即座に調和の段階に達するとされる。文明と調和の違いは、調和の状態では、経済活動は競争ではなく協力的であり、私有財産は共有に取って代わられ、人々は貧困や欲望からではなく、情熱的な魅力により働くよう動機付けられているということだ。フーリエによれば、この変化により労働効率が4倍に向上するため、調和状態にある社会では、それぞれの市民のごくささやかな労働だけで、あらゆる人々に途方もない豊かさを提供できるのだという。

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ファランステールはこのようになるはずであった

未来のファランステールでの生活に関するフーリエの説明を読めば、彼の作品がなぜ大きな熱狂を呼び起こしたのかとても簡単に理解できるだろう。フーリエの主張によると、人間には12個の基本的感情が存在し、それが組み合わされて810個の性格タイプを形成する。それぞれの性格タイプを備えた人は、何らかの生産的な仕事に情熱的に惹きつけられる。そして、性格タイプの分布はしかじかの通りであるので、十分な規模の集団には必要なタスクをすべてこなすだけの人が存在するのである。調和状態下の労働効率はきわめて高いため、彼が想像した未来の人々は、1日のうちでごく短い時間しか働いておらず、また、各々の人はその人自身の性格タイプによって定められる仕事に情熱的に惹かれるのであるから、不満や不幸が存在する余地はない。残りの時間は、食事 - フーリエの用語では「ガストロソフィ」に当てられる。それは純粋芸術の一種となり - また、乱交セックスになるのだという。

それだけでは不十分だとでも言わんばかりに、フーリエは、ひとたび調和状態が実現すれば、世界自体も変容すると主張した。宇宙のクエン酸の雲が星間アロマから凝縮されて降下し、海がレモネードへと変わる。4つの新たな月が太陽系のどこかの隠れた場所から現れて街灯を不要にする。「北方コロナ」が北極点を覆い熱を放射してアラスカ、シベリアその他の不毛の大地を実り豊かな農業地帯へと変貌させる。一方、類似の「南方コロナ」が南極大陸に対して同じことを行う。それから、ライオンは平和な、菜食主義のアンチライオンとなって人間が乗りこなせるようになり、クジラはアンチクジラとなりレモネードの海で喜んで船を引くようになる。人間は144年の寿命を得て、そのうち120年間は性的にアクティブなままで過ごせるのだ。

このすべてが、精神錯乱的に見えるかもしれないが、西洋思想改革の立役者としてのフーリエの役割を示している。彼以前の時代には、千年王国 - 我々が住む不満足な世界は、すぐにでも望み通りの世界で置き換えられるという信念 - は、宗教的観念であり、奇跡的な事象で満たされ、西方教会を中心として周囲をキリストの再臨にまつわる信仰に囲まれていた。フーリエは、現代の世俗的千年王国の偉大なる伝統の創設者であり、彼の時代以降の人々はあからさまな宗教的要素の恩恵を抜きにして完璧な世界が実現しうると主張できるようになった。時代の先駆者であることから十分予想できる通り、フーリエは古い時代の伝統に囚われていた; アンチライオンは、来たるべき平和な王国のキリスト教的イメージを想起させる。けれども、エマヌエル・スウェーデンボリその他の異端思想家を見てみれば、乱交セックスに関して何らかの類似点を見つけられるかもしれない。

つまるところ、フーリエは、未だ多くの人々が、より良い世界という約束を望んでいたにもかかわらず主流派宗教からもたらされる理想世界のイメージをもはや信じられなくなった時代に、世俗的な麻薬としての再臨、それに加えてセックスとレモネードを提供したのである。来たるべき輝かしい未来についての彼のビジョンは、それゆえ、多数の人々を魅了し、調和の未来を構築する仕事へと身を投じさせた。彼らは、ファランステールを築くための資金を集めてフーリエの理論をテストしたのであるが、そのテストには確実に合格できると確信していた。情熱的な魅力? 確かに彼らはそのような大きな情熱を持ち合わせていた。そして、そのような莫大な努力を注いだ結果は…

はい。明日、海辺へ行かれる際には、非常に申し訳ないのですが、ご自身でレモネードをご持参くださいと申し上げなければなりません。

実際問題として、フーリエの理論は完全なる失敗であり、あらゆるファランステールは創設者がプロジェクトのために集めた資金を使い果たすと、即座に崩壊した。問題は、当然、フーリエ義経済は機能しないということだった。労働生産性の4倍の向上は見られなかった - まったく逆に、人々が仕事に情熱的な魅力を感じる間だけ働く場合には、賃金のために働き、雇用の継続が仕事の達成に依存していることを理解している人々よりも、はるかに効率が悪化する傾向があった。

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ルイーザ・メイ・オルコット

また、フーリエが主張した通りに、人間の性格タイプが異なる分布をしているために、あらゆる仕事について誰かしらが魅力を感じるというわけではなかった。まったく逆に、人々は面倒な仕事よりも簡単な仕事に情熱的な魅力を感じるため、面倒な仕事は放置された。(あるいは、それらの仕事は女性によって行なわれるのであった。フルーツランズ *1 - その地の住人の間では、若きルイーザ・メイ・オルコット *2 (父親のブロンソン・アルコットが創設メンバーであった) と同程度に名の知られたファランステール - が崩壊した後、彼女が苦々しく思い返している通り、男性たちが集まって、詩作その他のさほど労苦のない仕事を情熱的に果たしている一方で、妻たちは、これまで通りに時間通り夕食の準備や洗濯をすることを期待されたままであったという。)

それがフーリエ主義の終焉であった。19世紀後半にもフーリエのアイデアを再構築する試みが存在したものの、それらの試みは最初の流行よりも先に進むことはなく、元々の計画に参加した人々は、その失敗が無視できなくなるにつれて可能な限りの距離を取った。フーリエの思想は、1960年代に抜粋版アンソロジーが出版され、前衛的な知識人集団のなかで小さいながらも影響力のあるファンに発見されるまで、ほぼ完璧に忘れ去られていた。 (フーリエは、LSDをキメている分には完璧に筋の通った思想家であるため、そのことは私にとってはまったく驚きではない。) けれども、基本的には、フーリエの再評価は60年代以降には続かなかった; 今日では、未だ現存するフーリエ主義の擁護者は、ピーター・ランボーン・ウィルソンであろう。フーリエに関する彼のエッセイでは、レモネードの海に関するフーリエの話をあまりにも多くの人がバカにしていることに不満を述べている。それは、もちろん、もっともなことであるのだが、しかしウィルソンが満足するようなものだというわけではあるまい。

それでも、フーリエ主義の終わりはまた、社会主義の始まりでもあった。社会主義の初期の年表を見てみたまえ - 社会主義者として分類可能なサン・シモンの後期著作、救貧法改正を通して真正の協同組合を設立しようとするロバート・オーウェンの初期の活動、1830年代のリカード社会主義の勃興、その後のマルクス主義の登場。フーリエ主義運動が発端となり、プルードンマルクスの時代以前にさえ産業社会に対して絶大なインパクトをもたらしたことが理解できるだろう。本当に現実的な意味において、フーリエ主義運動は社会主義の苗床であり、フーリエ以降のあらゆる社会主義の理論と実践の潮流が、フーリエの約束のうちで、あまりバカげていない部分を実現する方法を発見するための探求に動機付けられていたと言える。

その結果生じたムーブメントの一側面は、最近のこのブログのテーマであるアメリカの魔術史とは反対の方向へ向かった。19世紀後期から20世紀初頭は、アメリカのコミューンの黄金時代であった - 誇大広告ぎみの1960年代における実験的コミューンは、実は二番煎じであったのだ - そして、その期間全体を通して、オカルティズムとニューソートのアイデアキリスト教千年王国信仰と混ぜ合わせたアメリカのオルタナティブスピリチュアリティ界でコミューン事業は広がった。現状維持に代わる実行可能な小さな代替案を創造する試みは、1世紀以上にわたって社会主義活動の主要テーマの1つであったのだ。近年それが絶滅した唯一の理由は、いかなるムーブメントであれ、繰り返される失敗のために継続が困難であるからだ。アメリカにおけるコミューンの平均寿命は2年であり、コミューンを始めた人の大多数は投資をすべて失なった。

何度も失敗が繰り返される理由は、きわめてシンプルである。非常に狭い1種類の例外を除いては、これまで私が関与したコミューンプロジェクトのすべてで、また、私が観察したプロジェクトの多くで、暗黙のうちに、自分たちが現実的に生産しうるより多くの物とサービスを消費できると参加者が想定していたのである。これは特に、農村へ回帰して自身の食料すべてを栽培することを計画したコミューン集団に当てはまる - そのようなプロジェクトは、かなり短い時間のうちに、自給自足農業は、産業経済で通常の労働を続けるよりも "労多くして益少なし" であることを理解する - けれども、その原則はより一般的に適用される。理論的には、そのような特徴はコミューンを本当に魅力的に見せる。実際には、それは失敗を必然とする。

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これがお探しのものであるなら、あなたはラッキーだ

それでは、1種類の例外とは何だろう? 宗教的な修道院生活である。禁欲的に信仰に奉仕する人々、貧困、独身、従順の誓いを進んで受入れる人々の集団が存在すれば、コミューン生活を確立して、それを続けられる。それは、聖ベネディクト [5~6世紀頃。『西欧修道士の父』と称される] や弘法大師の時代から、シェーカー教徒のマザー・アン・リーの時代 [18世紀] とその後に至るまで、多くの異なる宗教により何度も証明されてきた。修道院の誰もが、通常の消費生活水準を維持することを期待していない。快適な生活をまったく望んでいない人々の集団だから、最低限の生活必需品だけしか得られずとも、なお祈りや瞑想に使う時間を十分に取ることが可能なのである。

それを好ましく思うのなら、読者諸君、あなたはラッキーだ。数世紀以内に、それは外部で未来の流行となるだろう。工業文明が終わりを迎えていくにつれて、修道院生活は、暗黒時代における文化管理人というおなじみの役割を引き受けることになる。それが気に入らないのであれば、クラブへようこそ。ブロンソン・アルコットらと同じような困難に陥ることなく、コミューンから得られる利点を得る方法がある。ファランステールが崩壊し炎上した際、フリーメイソン、オッドフェロー、グランジなどの友愛結社が爆発的人気を得た理由は、コミューンが提供できると主張した拡張コミュニティと相互扶助を、深刻な経済的欠陥なしに提供できたからである。

そして、大規模な解決策を模索する政治運動としての社会主義の進化があった。それは、冷戦により全体主義共産主義と企業資本主義の二択を迫られるまでは、極端に創造的で多様な運動であった。けれども、その運命は、ほぼ間違いなく、予め定められたものであった。なんとなれば、共産主義には、他の社会主義運動が持たないアドバンテージを持っていたからだ。共産主義は、フーリエが、そしてその後のほとんどの社会主義者たちが答えられず残されていた2つの大きな問題に対して、ついに実行可能な答えを見つけたのである。思い出してほしい。フーリエにとって、調和状態を実現し、皆を永遠にハッピーにするためには、労働に対する情熱的な魅力だけしか必要なかったのである。ひとたび、あらゆる人々がフーリエ主義の素晴しさを認識し、レモネードの海のほとりで月が上がるのを眺め、友好的なアンチ・ライオンと愛人たちの集団と寄り添いさえすれば… 見たまえ。必然的に、大量のファランステールが創設され、社会は文明状態から調和状態へと変貌するのである。

暴力、弾圧、強制労働 - フーリエにとって、そられすべては調和が必然的に乗り越えるはずの歴史段階の名残りでしかなく、フーリエの世界観に入る余地はなかった。フーリエの確固たるユートピアのビジョンの帰結としては、当然、フーリエの影響下にあった社会主義運動に、新しい社会経済体制を確立するための実効性ある計画が欠けていること、および、新たな社会が確立された際、社会主義理論が想定する望ましい行動を人々に取らせるための実効性ある手段が欠けていることが挙げられる。この2つが、19世紀全体を通して社会主義の理論家と実践家が解答を見つけ出そうとしていた大きな問題であった。- どのようにすれば、人々に輝かしい社会主義の未来を受入れさせられるのか? そして、次に、人々をそれに沿って行動させるためには?

限られた状況においては、とても有効な解答もいくつか存在することが分かった。ただし、その場合、フーリエから受け継いだ社会主義の目標、そのほとんどを放棄することになったけれども。社会民主主義は一つの解答であり、社会主義を官僚制国家で置き換えて、フーリエがそうあるべきと考えたことを立法により人々に強制するものである; それには問題があるけれども、社会民主主義は、ヨーロッパおよび世界中のいくつかの国で1世紀以上にわたって有効であり続けており、多くの人は制度を好んでいるようだ。民主サンディカリズムも別の答えである。それは、労働者所有企業と労働組合を通して賃金階級を組織化し、それを用いてフーリエが考えていたことと似た変化を起こすものである; それにも固有の問題はあるが、1世紀以上にわたって有効であり、今日でも多数の国において重要な力を持ち続けている。

既に述べた友愛結社も存在する; 今では時代遅れであり、特有の問題も存在する。けれども、当時は途方もなく効果的なシステムであったのだ。膨大な人々に保障と相互扶助を提供し、加えて政治的な影響力をも提供した。(その当時の一例として言及しておかなければならないのは、農民の友愛結社であるグランジ [今で言うところの農協組合] が、19世紀後期のアメリカにおける鉄道の独占支配を崩したことが挙げられるだろう。) 最後に、フェビアン社会主義も存在する。これはイギリスの社会主義者の一派であり、富める人々に対して、自身の富と地位を維持し続けるために最高の方法は、、賃金階級への「上からの社会主義」を施すことだという説得を試みた人々である。その答えにも、同様に、固有の問題がある。また - まぁ、これはすぐ後で述べよう。

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一つの方法

社会主義史へのウラジミール・レーニンヨシフ・スターリンによる偉大な貢献は、はるかに効率的な選択肢が存在すると証明したことにある。その選択肢とは、もちろん、巨大規模の残酷な組織的暴力である。もしも人々が輝かしい社会主義の未来に参加したくないと思うのなら、そいつらを射殺しよう; 人々がマルクス主義の理論が言う通りに行動しないのであれば、やつらを強制収容所に送り、死ぬまで強制労働させよう。ヘイ、問題解決だ! それらは実行可能な解答であった。良い解答ではなく、フーリエマルクスが考えていたような類いの解答ではない。けれども、他の社会主義者たちが考えたほとんどすべての答えとは異なり、それらは機能したのである - 少なくとも、失敗した多数の社会主義経済がソビエト連邦とその衛星国家を破綻状態に追い込むまでは、また、中国を支配する老いた冷酷な男たちが、静かに社会主義経済を放棄し国家資本主義と自由市場の不恰好な混合体で置き換えるまでは。(その政治体制が長期的にも生存できるのかどうか、歴史の審判は未だ継続中である。)

少なくとも現段階においては、グレート・リセットを取り巻くスターリニストのレトリックにもかかわらず、世界経済フォーラムとその御用学者たちが、内的に矛盾した理論を実現するために、大量虐殺と強制収容所を利用しようとしているという兆候は見いだせない。彼らは、フェビアン社会主義運動の知的相続人に属しており、自身の富、影響力、および現代の集合的世論における立場を活用して、彼らが考える大衆の希望に施しを与える一方、自分たち特権階級の権勢を維持するような社会変化を大衆に受け入れさせることができると信じた人々である。

それでも、グレート・リセットにまつわる議論が思い出させるのは、シャルル・フーリエの知的DNAがフェビアン社会主義者の中に、広く言って、オルタナティブな思想の中に強く残り続けているということである。可能な未来はどのようなものであるかを検討し、その中から最良のものを選択しようとするという方法ではなく、完璧な未来を夢想し、それが実現可能だという理由を考え出すことが効果的な戦略であると人々が信じる時にはいつでも、レモネードの海の残り香が感じられる [シャルル・フーリエの思想の影響下にある]。ついでに言えば、政治シーンのいかなるところの活動家であれ、過去から学ぶことは何もないと主張し、また、同じことを何度も何度も繰り返しながら異なる結果を望むのは狂気の沙汰などではないと主張するときには、19世紀社会主義を作り上げたかつてのフーリエ主義者たちの残響を聞くのはまったく難しいことではない。彼らは、かつてのフーリエ主義者と同じように、実現不可能な理論を実行するためのトリックを次々と作り出し、新たな月が登りアンチライオンが登場するのをずっと待ち望んでいるのだ。

四運動の理論〈上〉 (古典文庫)

四運動の理論〈上〉 (古典文庫)

四運動の理論〈下〉 (古典文庫)

四運動の理論〈下〉 (古典文庫)

*1:1840年代、マサチューセッツ州ハーバードに設立された農業コミューン

*2:若草物語』の作者である女流作家

翻訳:後ろ向きグレートジャンプ (ジョン・マイケル・グリア)

ジョン・マイケル・グリアによる2020年11月25日の記事 "The Great Leap Backward" の翻訳です。

訳者補足:
ダボス会議の主催で有名な世界経済フォーラム (World Economic Forum) は、今年6月、2021年開催予定の次期総会のテーマを「グレート・リセット」とすることを発表した。WEF自身の主張によれば、グレートリセットとは、特にCOVID-19のパンデミックにより明らかになった世界的な矛盾に対して、"協力を通してより公正で持続可能かつレジリエンス (適応、回復する力)のある未来のために、経済・社会システムの基盤を緊急に構築するというコミットメント"*1 と主張されている。
ところが、テーマ発表の直後から、「パンデミックを、不確かな社会実験のための機会として利用しようとしている」として、特にアメリカのSNSを中心にWEFは強い批判にさらされた。その中で、一部には、「グローバルエリートが、グレート・リセットという旗印の下に、意図的に新型コロナウィルスを世界に蔓延させ、その機に乗じて世界の既存政治経済体制を崩壊させコントロールしようとしている。」、「かつての共産主義国家のような監視社会を作ろうと目論んでいる」という陰謀論めいた主張も見られた。(以下の議論は、そのような陰謀論じみた議論が存在することを念頭に置いていると思われる)
グリアはこの記事で、読者からのリクエストに応じてグレート・リセットについての論評を行なっているが、若干不自然なほどに、その陰謀論に対しては言及を避けている。おそらく、グリア自身は、記事執筆のリクエストをした読者 (陰謀論を信じているであろう人) の認識に対して挑戦することを、直接的な意図としていないからであろうと思われる。
陰謀の真偽についてはさておくとしても、グリアが指摘している通り、グレート・リセットに対するさまざまな反応は、世界経済フォーラムの参加者をはじめとするグローバルな政治経済界のリーダーが、どれほど一般市民の問題意識や関心から乖離しており、どれほど憎まれているのかを示す良い証拠であるように思われる。また、彼らの語るテクノユートピアな未来像が、もはや人々から拒絶されていることも示している。
(なお、本邦に関して言えば、半年ほど前までは、コロナ禍を奇貨として日本政府も社会統制と監視を強める方向へ向かうのだろうと私も漠然と予想していた。しかし、現実の政府は、決断力を欠き、ITによる監視どころか疫学統計や給付金に必要な住民の把握ですらお粗末で、最も基礎的な行政力にも欠くありさまであった。日本政府は、陰謀論が成立する程度にはもう少しシャンと支配を行なってほしい。)

The Great Leap Backward

最近、最先端のインターネットを読んだことがあるなら、おそらく、グレート・リセットと呼ばれるものについての話を眼にしたことがあるだろう。グレート・リセットに関する私の意見を聞きたいというお願いを何度か受けたので、また、工業世界の未来の姿は長年の私の関心事であったので、喜んでこの問題を議論したいと思う。グレート・リセットの議論をまだご存知でない方は、デンマークの政治家、アイダ・オーケンによるこの短いフィクションが優れたスタート地点となるだろう。その元々のタイトルは (世間からの反発により現在では変更されているが) 意図されたテーマをとても上手く要約している: 「2030年へようこそ。私は何も持たず、プライバシーもない。そして、人生はかつてないほど良くなった。」

アイダ・オーケン
アイダ・オーケン

このタイトルから考えるに、オーケンは想像上の未来を素晴しい場所だと捉えていたことはきわめて明らかである。注意してほしい。彼女は、そのような意図はなく、単に議論を引き起こそうとしただけだと主張しているものの、率直に言うならば、私には信じられない。この物語のネバついて熱狂的で壮大なトーンは彼女の主張のウソを示しており、世界経済フォーラムをはじめ、主要な企業団体によって未来世界のテンプレートとしてインターネット上で拡散されたこと、および、エスタブリッシュメントの現代の御用学者集団から賞賛の声でもって迎えられたという事実については言うまでもない。誤解しないでほしい。これが、我らの同時代の企業官僚制を動かす実力者たちが、たった今、夢見ている未来なのである。

オーケンの想像上の2030年において、彼女は何も所有していない。というのは、何かが欲しい時には、単にオンラインで注文すれば即座にドローンが配達してくれるのだから。彼女は自分の下着すら持っていない。更には、すべてが無料なのである; 自分の家の家賃すら払う必要はない。なぜなら、外出している間には、誰かが家をビジネスミーティングのために使うからである。彼女は、24時間365日あらゆる言動を記録する電子的監視下にあり、誰もそのデータを悪用しないでほしいという形ばかりの希望にもかかわらず、彼女はそれを不安に感じてはいないようだ。彼女は、同じライフスタイルを受け入れていない人々、農村のコミューンや不法占拠した田舎の廃屋で過酷な貧困に追いやられて暮らす人々のことを心配しているものの、けれども、なぜその人たちが自身の生活をビッグブラザーに委ねず、 最高の ダブルプラスグッド 未来を共有しないのか、彼女には理解できない。

輝かしい未来
理論上はこう見える

オーケンの未来のなかで語られていないことは、そこで語られたことよりも更に示唆的である。もちろん、統計は意味をなさない - 最も楽観的な見積もりをしてさえ、日中時間帯に利用可能な住居の数に比べれば、毎週開催されるビジネスミーティングの数はごく少ないだろう。[あらゆる人の家賃が無料になるほどには、ビジネスミーティングの数は多くないだろう] - そして、何度も何度も指摘されている通り、もしも人々が望みのものを何でもタダで手に入れられるようになったら、人々を工場や農場で厳しい労働をさせるように動機付けることはまったく不可能であろう。もちろん、デンマーク議会に出席することは、それほど苦労のない良い取引だろうけれども。それでも、オーケンの偽ユートピアにおける一番の深刻なギャップは、政治的なものである。

彼女の想像した未来は、全体主義者の夢精といってもまったく過言ではない。私有財産とプライバシーの無いところでは、自由もないからだ。実際の人間の実際のモチベーションを組み合わせれば、その不可避の結末までの展開を想像することはまったく容易い。「申し訳ありません、オーケンさん。その本は不適切であるとマークされており、現在は利用できません。」「申し訳ありません、オーケンさん。多数の不適切な本をリクエストしたため、他の本へのアクセスが停止されました。」「申し訳ありません、オーケンさん。監視対象リストに掲載された人と会話したため、あなたの海外旅行はキャンセルされました。」「申し訳ありません、オーケンさん。ディナーの席での政府批判を止めない限り、あなたの食料割当量はカットされます。」「申し訳ありません、オーケンさん。あなたの家は別の家族に再割り当てされました。あなたを収容所へお連れします…」

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実際にはこう見える

現代史をよく知る人にとっては非常にお馴染みの光景だろう。私有財産の廃止? チェック。常時の侵入的監視? チェック。党官僚幹部の行動に対する、あらゆる個人的生活の依存? チェック。労働者の楽園における生活の素晴しさを称える追従プロパガンダ? チェック。つまりは、世界経済フォーラムが新しい、エキサイティングな、最先端の人類のゴールとしての未来を想像したとき、彼らとその子飼いのデンマークの政治家がなしうる最上の行動は、ソビエト連邦の再発明なのである。

このような想像力の莫大な失敗は、代わって、大きな重要性を持つ歴史的変曲点を示している。

私が最初にインターネット上でエッセイを投稿して以来15年以上にわたって繰り返し議論してきたテーマとして、進歩の市民宗教がある: もっとあからさまな神学的信念と同じくらい熱心に信じられている信念体系であり、新しいものは常に優れており、変化は常に良いものであるという信念、過去は反証され、昔の習慣は単に時が過ぎれば時代遅れとなる、そして、歴史というのものは、過去の無知な卑しさから、宇宙の星々の間のどこかで輝かしいガジェット中心の未来へと、必然的な軌道を辿るという信念である。 その信念は、我々の社会の国教である。その信念を拒絶するほどの独立心を持つ人は、他種の盲信的信者に厳しい質問をしたときに受けるであろう反応と同じ種類の、困惑した激怒に直面することであろう。

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なんと素晴しい未来に我々は住んでいることか!

最近、そのような困惑した激怒がありふれたものになった理由は、ここ数十年、進歩がその約束に対して正確に応えていないからである。2020年の生活には、本来あったはずのドーム型都市や宇宙移民が存在しないだけではなく、そう遠くない昔にはあまりにも放漫に約束されていた、物質的な豊かさが欠けている。2020年の生活は、直近の過去の生活と比べてさえ、決定的にみすぼらしく見える。洞窟から宇宙へ至る進歩の偉大なる行進は、汚れた、暴力的な、機能不全の都市、永続的な田舎の貧困、朽ちたインフラ、破綻した公衆衛生、そして日常生活に蔓延した荒廃という未来をもたらすとは考えられていなかった - けれども、それが我々の居る場所である。

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今度こそうまく行く

人間の本性の常として、進歩の市民宗教の預言の失敗に対する最初の反応は、同じ預言を"倍プッシュ"することであった。ひとたび、偉大なる神プログレス様が約束されたユートピアへと導いてくれれば、いずれすぐに素晴しい未来が我々のものとなるだろうという、いっそうバラ色の予測を振りかざしたのである。それこそが、トランスヒューマニストのド派手なファンタジーと、たくさんの抗議デモを実行しさえすれば世界中が環境に配慮したヴィーガンの平和主義者になるだろうと確信した活動家世代の穏やかな無知を生み出した原因である。その種の過激化は、熱狂的に信じられている信念体系が現実によって裏切られる際に生じる認知的不協和への、通常の反応である。

"倍プッシュ" の習慣は、けれども、必ずしもうまくいくとは限らない。それは、既に失敗した預言より更に豪華で実現不可能なものを、真の信者たちに約束してしまうからである。それらも同様に失敗した場合の標準的な動作は、擁護可能な場所まで撤退することである: 進歩という予測は、集合的イマジネーションの中にあまりにも深く埋め込まれているため、その予測は決して実現しないと認めることは、ほとんどの人にとって受け入れ難い。今日の工業社会においての企業マスメディアの重要性を考慮すると、ポップカルチャーの中で、ミイラ化した状態となった何らかのメディアにより当該の予測が固定されることは、おそらく避けられないことであったのだろう。イエス、現代文化のスタートレックに対する奇妙な執着心について語ろう。

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54年もの間、人々が行くことになっていた場所へ向かう

何年も昔、オンライン上での私の執筆活動が、エネルギー資源の減耗とそのプロセスによる工業文明の未来への長期的影響に対して焦点を当てていたときに、多数の人々の未来を想像する能力に対して、スタートレックが決定的に不気味な効果をもたらしていることに気付いたのである。それはまるで、宇宙船エンタープライズ号が、フェイザー銃を「ロボトミー化」にセットして、21世紀の人々に無謀な放漫さで使用したようなものであった。産業プロジェクトの長期的な生存可能性についての真剣な問題が問われるときにはいつでも、困惑するほど多数の人々がレプリケーターとジリチウム結晶を動力源とするファンタジー的未来に逃げ込んでしまうのだ。私と論争していた人たちだけに限らない。現代社会のどのような片隅であっても、進歩の市民宗教を拒絶したにもかかわらず、スタートレックに関するひねくれたジョークを言う人を見つけられるだろう。

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これが輝く未来である: 1966年のハリウッド

最近まで、私がまったく考えていなかったことは、スタートレックの未来がどれほど年老いているかである。スタートレックが初めて放送されたのは、1966年であることを思い出してほしい。読者諸君、1966年を覚えているであろうか? 私はかろうじて覚えている; その年に4回目の誕生日を祝ったのだ。リンドン・B・ジョンソンが大統領で、自動車にはテールフィンがあり、LSDはまだ合法であり、ロックンロールシーンの評論家たちは、ビートルズは既に全盛期を過ぎたと見なしており、明日にでも新たなバンドに取って替わられるだろうと考えていた。スタートレックが放送された夜、当時の私のオヤスミの時間は過ぎていたものの、明るい黄色の足付きパジャマを着て夜ふかしして、家族共用の白黒テレビでそれを見たのである。その晩に生まれた赤子は、来年には高齢者割引を受けることができる。

半世紀以上も前に、企業マスメディアにより生み出された想像上の未来が、未だ我々の集合的イマジネーションの関心の的であるということは、進歩の市民宗教が転倒して死にかけており、呼吸を求めて喘ぎ、医者は匙を投げていることを示す良い証拠である。それでも、この文脈で特筆すべきは、世界経済フォーラムが宣伝した疑わしい想像上の未来はスタートレックのものではないということだ。ノー、それは1920年代の新しい、エキサイティングな、最先端の未来である。それが、結局のところ、ソビエト連邦の最初期の姿であった。当時、西ヨーロッパと北アメリカの膨大な数の知識人たちが、新しく設立されたロシアのボリシェビキ政権は人類の未来に対する最高の希望であると声高に主張しており、当時既に目立っていた収容所と集団埋葬を好んで利用するその政権の傾向について言及する者は誰であれ、容易に強い非難を受けるのであった。

それが示しているのは、逆に、スタートレックの未来は、もはやかつてのような盲目的信仰と反射的な熱狂をもたらすものではないということだ。現時点では推測に過ぎないけれども、より多くの人が他惑星の植民地化にまつわる明白な問題を認識するにつれて、宇宙における人類の未来に関する大言壮語の長い時代が暮れていくのではないだろうか。地球の磁気圏のバリアの外側では、我々が太陽と呼ぶ防壁のない巨大な核融合炉からの強烈な放射能で満たされ、地質学的時間以内に辿りつける世界はガンマ線の爆風にさらされる凍った、空気のない砂漠であり、酸素、水、食料、救助に必要なリソースからは何百万キロも離れているのだ。(それが、1970年代にアメリカとソ連が有人惑星探査ミッションを密かに取り止めた理由であることはご存知の通りである。)

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火星はネバダ砂漠と似ているが、空気が薄い

偉大なる神プログレス様が必ずや輝かしい未来をもたらしてくれるはずだという陳腐な思考への反射的な撤退は、果たされぬ約束の重みで防衛拠点が崩壊した際の、通常の反応である。そのような2回目の撤退は、けれども、1回目と同じようにうまく働くとは限らないのだが、それには2つの理由がある。最初の理由は、もちろん、進歩の信者は、既に2回の撤退を強いられており、3回目の防衛をしなければならないという事実は、士気に悪影響をもたらす。また、その信念体系に疑いを持つ人の数が増えていくことは、その信念をより強化するようには働かない。それでも、この場合では、2つ目の理由がもっと重要なものとなるだろう。

ソビエト連邦の終末期は、結局のところ、未だに生きた記憶である。私有財産の廃止、侵入的監視の全般的な導入、個人の自由な選択に自身の人生を任せるのではなく、より効率的な意思決定ができるとされる専門家集団の制御下に人生のあらゆる活動を置くことなどを主張するイデオロギーが何をなすのか、今日生きている人々はあまりにもよく知りすぎている。アイダ・オーケンの短い物語は、マルクス社会主義が権力を掌握した際に何をするかが示される以前の文学作品を彷彿とさせる。自分の眼でそれを見たいと望む読者は、ウィリアム・モリスの優れた社会主義ユートピア文学『ユートピアだより』を探して、読んでみると良いだろう。続いて、ソルジェニーツィンの『イワン・デニーソビッチの一日』を読めば、そのような輝かしい夢想が実際にどうなったのかを思い出させてくれるだろう。

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宣伝、約束されたもn

そのような類推を念頭に置くと、もしもグレート・リセットが実際に制定されたとしたら何が起こるかを予想することは、まったく難しくはない。ヨーロッパ連合が、世界のいろいろな所に位置する他のいくつかの国と共に、グレート・リセットを受け入れたと仮定してみよう。新たな消費者の楽園からの熱狂的なレポートがメディアに溢れ、多くの知識人は、ジョージ・バーナード・ショーといった人々が1920年代にレーニン体制のために行なったように、グレート・リセットの広報宣伝担当者として身売りするだろう。その間にも、保守派は足を強く踏みしめて、必死で押し返そうとするだろう - 覚えておいてほしい。第一次大戦後、東ヨーロッパでは共産主義革命が急増したのであるが、ロシアの革命を除くすべてが反革命的な流血事態のうちに終焉を迎えた。そうして世界は再び分裂する。未来に関する最新鋭の観念的流行を受け入れた国々と、そうではなく自由と呼ばれる何かを好む国々の間で。

それから、もちろん、強制収容所、集団埋葬、そして、ドローンの商品配達の遅延の増加 (現代版のパン屋の行列) などについて、ヨーロッパ連合のリセット主義共和国の輝かしい消費者の楽園から、厄介な噂が流れ始めてくる。難民たちは厳しい話を語り、インテリゲンチャは、その話は真実ではなく信じる人々は誰であれ (ここに罵倒語を挿入) であると怒って主張するものの、その話は聴衆を見つける。壁が破壊され、消費者の楽園から逃げ出そうとする人々が国境警備隊により射殺され始める頃には、最新の管理集産主義経済の試みが、過去とまったく同様に、経済的機能不全と政治的専制という同じ問題を抱えていることが明らかになるだろう。最終的に、21世紀の中頃には、おなじみの形ですべてが崩壊し、かつてのヨーロッパ連合の人々はついに世界に再参加するだろう。

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得られたもの

ノー、私はこんなことが本当に起こるとは思っていない。1917年の共産主義革命は、絶望的なまでに無能な当時のロシア王朝と壊滅的な戦争によって絶望の縁に追い込まれた農民の労働者の大集団と、彼らに対して有効な代替案を提供し、有力な政治勢力へと変化させた人々により引き起こされたのだ。グレート・リセットは、政治家、大富豪および御用学者たちのごった煮により宣伝されている: 地球上でもっともぬるま湯につかった人々であり、人生の厳しい現実に対する不意の遭遇から、居心地の良い特権的なシェルターで守られている。我々みんなが対処しなければならない世界に住んでいるわけではないのだ - 荒涼とした暴力的な都市隣人、田舎の進行する貧困、ひび割れて崩れかけた高速道路や橋梁、製品サイズの縮小と品質低下によるステルスインフレ! ゲート付きの住宅コミュニティや高級分譲住宅から、オフィスタワーと会員制バケーションリゾートを飛び回る彼らは、今日の世界のレーニンではない。ブレジネフ、アンドロポフ、チェルネンコ[1970年代~1980年代のソ連のリーダー]である。彼らが表しているのは、時代の始まりではなく、時代の終わりである。

グレート・リセットに対する幅広い世間からの反発は、逆に、今日の企業貴族たちがどれほど不愉快な声を発しているのかを示す良い指標である。極右から中道、極左までの政治スペクトル全体にわたって、巨大で説明責任のない企業テクノストラクチャーの気まぐれに、交換用下着や翌日の食事を依存するという予測を、人々は怒りとあざけりの眼で見ているが、それももっともなことだろう。ある意味では、アイダ・オーケンと産業界の彼女の雇い主たちは、米国にいる私達に好意を示しているのではないかと私は思う。約5年間の極めて分裂的な政治の後で、彼らは善意の人々が心から同意できる何かを与えてくれたのだ。

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実際にはこう見える

彼らは何か別のことをしたのかもしれない。上述の通り、進歩の市民宗教は、通常のように、人間が信じるあるべき姿とは無関係に存在する現実世界に対処するために、かなり長い間苦労してきた。年老いたスタートレックの未来を放棄し、それよりも更に古めかしいビジョンであるソビエト連邦の短期の歴史的名声を持ち出すことは、進歩にとっての致命傷となるかもしれない。ここに至り、大多数の人々は、歴史が特定の方向に進んでいると信じることを止め、甘やかされた今日の企業貴族たちがそうなるべきと信じる世界へと進むことを拒否し始めるのだ。

ひとたびそうなると、我々の多くの人々にとって、未来は選択できるものであり、必然ではないということを思い出すことが可能となる。個人、家族とコミュニティが、ガジェット中心主義的な生活を望まないと決断し、泥棒政治的な企業と政治制度への依存度を下げ、自身の欲求やニーズにもっと機敏に対応したいと決断するのであれば、そのような生活を送ることができる - そして、企業世界の政治委員や党官僚たちの、不要なものを受け入れさせるためのいじめじみた必死の試みは、克服できない障害物ではない。

翻訳:脱呪術化の仮面 (ジョン・マイケル・グリア)

ジョン・マイケル・グリアによる2020年9月30日の記事 "The Mask of Disenchantment" の翻訳です。

The Mask of Disenchantment

今月の始めに、9月には水曜日が5回あると気づいた時には、その5回目の水曜日にこのブログで何を投稿するかまったく決めていなかったので*1、最近復活させた以前の習慣に従い、読者に提案を求めた。いつも通り、そこで起きた議論は活発なものであり、かなりのトピックが議題に挙げられた; 相当数の投票を得た話題については、しかるべき時に記事を書くつもりだ。実際的な理由により、けれども、多くの読者が求めたのは、しばらく前に私が書いたコメントへの補足であった。

ジェイソン・ヨセフソン=ストーム
ジェイソン・ヨセフソン=ストーム

それに先立つ議論で、私はマックス・ウェーバーの「世界の脱呪術化」が現代特有の特徴であるという主張に対するコメントを述べ、その主張は数ヶ月前にある本によって挑戦を受けていると述べた。ジェイソン・ヨセフソン=ストームの『脱呪術化の神話: 魔術、近代、人文科学の誕生』(The Myth of Disenchantment: Magic, Modernity, and the Birth of the Human Sciences) という本である。ヨセフソン=ストームの基本的な主張は、ウェーバーは端的に間違っていたということだ - ウェーバーと、その後彼の主張を繰り返した人々は、軽率にも、魔術、占い、その他のオカルト実践が未だ現代工業世界の中でも栄えているという事実を、また我々全員が呪術なき世界に住んでいると提唱したウェーバー自身が、永遠に消え去ったはずのオカルト実践の世界と密接な関わりを持ってきたという事実を無視してきたのである。

そのことを考えて、今日のハイテクな都市とインターネット接続されたライフスタイルの真っ只中において、周囲に魔術的実践がありふれているにもかかわらず、あまりに多くの人々が魔術は過去に消え去ったものだと信じ込んでいるのは、現代の人々にかけられたいかなる悪しき魔術によるものなのだろうかと不思議に思ったのである。そしてそれこそが、読者が聞きたいことであった: その悪しき魔術はどこから来たのか、誰が、あるいは何が魔術をかけたのか、どのようにそれが我々全員の生活に影響を与えたのか、そして - もちろん - その呪文を解く見込みは何か、ということである。

それは多数の込み入った質問の集合であり、簡単に答えられないが、歴史の力を借りて迷宮の中を通り抜けられるかもしれない。

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マックス・ウェーバー

1904年、パイオニア的な社会学者であるマックス・ウェーバーは、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」というタイトルの影響力ある書籍を出版した。その中で、ウェーバーは現代資本主義の由来を、プロテスタント宗教改革、特にカルヴァン主義にまでさかのぼった。スイスの神学者ジャン・カルヴァンに起源を持つ宗派である。カルヴァンは、神は地上の行いとは無関係に、偉大なる栄光のため、少数の人間だけに救済を予定し、その他大多数の人間には永遠の劫罰を定めており、そのような神の慈悲に個人個人が委ねられているという厳しい宗教的ヴィジョンを唱えて、ほとんどすべての歴史的なキリスト教伝統を拒否したのである。

筋金入りのカルヴァン主義者にとっては、経済的な成功は神の恩寵のしるしの1つであり、そのため、カルヴァン主義者は、神に選ばれし者であると見なされるように自分の職業に熱心に打ち込む傾向があった。ウェーバーは、このようなカルヴァン主義の信念が後の資本主義的な労働倫理を構築する原型を作ったと指摘した。やがて、それはアイン・ランドによって焼き直されたヴィクトリア朝的な資本主義者マインドセットへと変化していった。そこでは、富める者は自明に豊かさに値し、貧しい者はその貧困に値するとされる。なんとなれば、資本主義者にとっての神の代替である全能の市場により、各々がふさわしい地位へと割り当てられているからだ。

世界の脱呪術化は、ウェーバーによると、カルヴァン主義によるまた別の資本主義への準備段階であった。カルヴァンが反対したルネッサンスカトリックの世界観によれば、物質世界とスピリチュアルな世界は絶えず相互に浸透しているとされる。そのような世界観では、聖者や天使が神と人間との間で仲立ちを助け、秘跡や聖遺物が世俗的な問題に対処するスピリチュアルな力をもたらし、そして惑星自体が強力な知的存在であり天界をめぐりながら三位一体への賛歌を歌っているのである。(このような世界観の全体像は、C.S.ルイスの『廃棄された宇宙像』[ノンフィクション] から学べる。あるいは、彼の小説『別世界物語』の三部作からは、より豊かな感覚を得られる。その三部作では上記の世界観をそのまま20世紀初頭のSFに翻訳している。)

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ジャン・カルヴァン

これらすべてが、カルヴァンにとっては嫌悪の対象だった。彼にとっては、極端なまでに隔絶され崇められる神と、神の前で畏れる弱く罪深い人間以外には存在しない。このような世界観から、現代の合理的な唯物論的世界観に至るまでは、ほんのささいな一歩しか必要としない: カルヴァンの神を、進化や自由市場などの非人格的な抽象物に取り替えるだけでよい。ウェーバーの説明によれば、カルヴァンによる聖人と秘跡の追放こそが、カルヴァンの後継者である唯物論者による、より広範なあらゆるスピリチュアルなものの追放を準備し、またそれを直接的に導いたと言われている。それは力強い物語であり、現代世界についてのある種のものごとをとても明確に説明する。

とは言うものの、現代世界を「脱呪術化した」と扱おうとすると、本当にたくさんの不都合な事実に直面することになる。現代人は脱呪術化した世界に住んでおり、我々はもはや精霊や魔術を (または更に言えば聖者や秘跡も) 信じていないと主張すること、またそのような主張自体が過去1世紀以上も現代性のレトリックとして重要な役割を果たしていると主張するのはまことに結構ではあるが、これに関する1つの小さな問題は、ジェイソン・ヨセフソン=ストームが指摘した通り、それは真実ではないということだ。

いくつもの調査が示すところによれば、工業諸国に住む教養ある人々の多数が、幽霊の実在、ESPのリアリティ、占星術の正しさなどを信じている。今日のアメリカでは、フルタイムの天文学者として雇用されている人の数を、フルタイムの占星術師として雇用されている人の数が大幅に上回っていることを覚えておいてほしい。インターネットに赴けば、最新の文化的概念の最先端の会場で、儀礼魔術の実践について熱心に議論する巨大で活発なコミュニティを発見できるだろう。その点について言えば、カトリック正教会の旧来の秘跡も未だに広く行なわれており、それと並列して、比較的近年輸入された諸宗教では、カルヴァンや近代の唯物論者が永遠に捨て去ろうとした精神と物質の繋がりという信念を備えるものもある。

脱呪術化の物語を作った現代の思想家たち - マックス・ウェーバー自身も、更に重要なことには、ウェーバーに続いたフランクフルト学派マルクス主義者の知識人たち、批判的人種理論やその他現在人気のあるアカデミックなイデオロギーの元となったアイデアを唱えた人々 - が、現代ドイツのオカルティズムの影響を受けていることを示して、ヨセフソン=ストームはこのミスマッチを証明している。フランクフルト学派が誕生した20世紀初頭のドイツは、オカルティズムの煮え立つ大釜であった; トゥーレ・ゲセルシャフトあるいはトゥーレ協会、その政治活動部門がナチスの母体となったロッジは、おそらく、現代で最もよく知られたオカルト組織であろう。

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コズミック・サークル

その他に、1933年まではもっと強い影響力を持っていたのは、コズミカクレイズあるいはコズミック・サークルと呼ばれた、ミュンヘンで活動した詩人、オカルティスト、ネオペイガンの集団であろう。(ドイツの文化的地理を知らない人のために言っておくと、ミュンヘンはドイツにおけるサンフランシスコである。ただしその道はサンフランシスコよりも綺麗だが。) マックス・ウェーバーは、コズミック・サークルのメンバー何人かと出会っており、フランクフルト学派の主要メンバーもそうであった。言うなれば、世界の脱呪術化と、呪術と精霊に対する信念の崩壊が現代の中心的特徴であると唱えたまさにその人たちが、魔術的な活動と精霊との交流を公然と実施していたオカルティストと密接な関係を持っていたのである。

言い換えると、ウェーバーフランクフルト学派があれほどまでに議論した世界の脱呪術化は、その通りのものではなかった。彼らは世界の脱呪術化を現代の記述として提示したものの、本質的にそれは規範的なものであり、記述的なものではなかった - 専門用語を使わずに言えば、世界の脱呪術化とは、現代工業世界がそうあるべきだと彼らが望んだ姿であり、現実の世界のありようを説明したものではなかったのだ。

記述的ではなく規範的な脱呪術化の役割は、歴史の皮肉の好例として、ヨセフソン=ストームの本に対する反応から印象的なほど明らかとなる。あまりに多くのレビュアーは、その本の中心的な論点を素通りしてしまっているのだ - つまり、実践的なオカルティストが未だ多数存在するにもかかわらず、脱呪術化した世界について語るのはバカげているということだ - そこで、レビュアーたちは彼の研究を真剣に捉えるのではなく、あらゆる面で粗探しをする方法を探している。儀礼魔術、占星術、その他の呪術形式の公然たる実践者として、私自身も同じ反応を受けたことがある; 実践的オカルティストを眼の前にしてさえ、あまりにも多くの人が、もはや誰も本当に魔術や精霊を信じていないなどと主張できることは驚きである。

もちろん、そのような奇妙な行動には多数の仲間が存在する。メディアの専門家が、ある国が高額なテクノロジーネオリベラル的な政策の塊を採用するよう圧力をかけられた際に、「[その国は] 21世紀に入った」とあまりにも頻繁に言うことを考えてみてほしい。そのほか、[カナダ首相] ジャスティン・トルドーが、最初の内閣組閣の際に「なぜ内閣の性別・民族的バランスにそれほどこだわるのですか」と問われた時に述べた、強く嘲笑された反応を考えてみてほしい: 「なぜなら今は2015年だから。」 どちらの場合にも、単なる日付が特定の政治的・経済的アジェンダの隠れ蓑となっている。あらゆるアジェンダと同じく、それは特定の人々を犠牲にしてまた別の人々に利益を与えるものである。そして、ほとんどのアジェンダと同じく、それは誰が利益を得て誰が支払いをするのかという直接的な計算を、神秘化の煙幕の下に隠すものである: ピーターから金を奪ってポールに渡しているのは、大企業の利益や政治家たちなどではない。オー、ノー、それは父の時代からの伝統だ!

このブログや本の中で、進歩への信念がいかにして我らが時代の宗教となったのかを論じてきた。信者のイマジネーションの中では、進歩は神性の役割を果たすとされる全能の抽象概念となる。世界の脱呪術化についての規範的主張は、我らが時代の進歩信仰のドグマの重要な一側面をなす。それこそが、5分かそこら明確に思考すれば、ヨセフソン=ストームの主張を証明できるにもかかわらず、世界の脱呪術化という主張が現代の主流派に固く保持されている理由である。けれども、このような検討に5分間の時間を費す人があまりにも少ないのには、十分な理由がある。ひとたび脱呪術化の仮面を取り去ってしまうと、進歩の宗教全体の最も重要な1つの側面を見逃すことが不可能になってしまうからだ。

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偉大な本、お粗末な映画

フランク・ハーバートは、著名なSF小説デューン』において、いつもの彼らしい正確さでその次元を捉えた。「かつて、」 あるベネ・ゲセリットの魔女は主人公ポール・アトレイデに言う。「人は自身の思考を機械へと引き渡した。それが自分たちを自由にすると信じて。しかし、それは機械を所有する人間たちに自身を奴隷化することを可能としただけだった。」 この原則はコンピュータのみに限らない。あなた自身の生活を形作るテクノロジーを見回してみたまえ。もっとシンプルな道具では不可能なことを実際にできるようにするテクノロジーがどれほど少ないか、またどれほど多くのテクノロジーが、あなたをテクノロジー依存とさせるように仕向けているのかに気付くだろう。

それが、進歩の神話の隠れたアジェンダである: 「進歩的」であるとラベル付けされた方向に進む「前向きの」ステップ1歩ごとに、あなたは、ますます制御不能となるテクロノジーにより完璧に支配されていく。したがって、必然的に、それらのテクノロジーを所有し、管理し、販売する人々に支配されていく。ところで、ここに意図的な陰謀の類いは必要とされない。単に、四半期毎の利益を増加させるべくテクノロジーへの依存を推進するため、個々の技術システムの担当者たちが多数の個人的な選択をしただけである。社会に権力差がある時にはいつでも、その差はますます拡大する傾向がある。それを防ぐため意図的な措置を講じない限りは; 現代のテクノロジーが、個人の自由な選択から社会統制の手段と変化したことは、とりわけこのルールの優れた実例である。

おそらくここで立ち止まって、このような考えに反論するため通常使われる2つのレトリック的な仕掛けに対抗する必要があるだろう。まず第一に、我々は抽象的な「テクノロジー」について話しているのではなく、今日、モダンなライフスタイルの不可欠な要素として販売されている、特定のテクノロジー一式について話している。人間を依存状態に陥らせないテクノロジーは多数存在するが、しかし、ウォルマートやそのライバル店で販売されているものの中には非常に少ない。第二に、この点に関するたくさんのゴマカシにもかかわらず、テクノロジーは価値中立的ではない。いかなるテクノロジーであれ、特定のことはうまく実行でき、他のことはあまりうまく実行できず、さらには別のことはまったく実行できない。このような生来のバイアスを備えたテクノロジーを作成し販売するという決定は、テクノロジーそのものに本質的に表現された価値判断である。

これらすべてが、逆に、産業革命の夜明け以来、我々の文化において魔術がタブーであった理由である。現代企業のテクノロジーとは異なり、魔術は還元不可能なほど個人的なものである。魔術的な活動に積極的に参加したくないと思う人々と一緒にグループで魔術の活動をしたいと思うのなら、最近の広告業界が振りかざすような、端的に言えば弱々しいシンボリックなトリックしか使えないであろう。魔術の学習と実践を少々行えば、そのような薄っぺらな広告の呪文に対抗して、それを笑い飛ばせるようになる。また、多くの人は、魔術の知識がまったくなくとも、広告の魔術を無力化できる: それが多額の資金提供を受けた広告キャンペーンがたびたび陰気に失敗する理由である。

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ダイアン・フォーチュン

意思に従って意識に変革をもたらす技法と理論 - オカルティストのダイアン・フォーチュンによる魔術の古典的な定義 - について何かを学べば、更に先に行くことができる。魔術の学習に関心のある少数の人を集めて、一緒に活動させれば、そこに限界はない。だからこそ、魔術が現代工業世界でタブーとなっているのである: 個人や少人数集団に対して、テクノロジーの所有者、管理者、マーケティング担当者が選択したのではない目標へ向けて進む機会を与えてくれるからだ。進歩の宗教の信者にとって、更に重要なのは進歩の宗教の受益者にとって、魔術は生存の脅威なのである。

クイ・ボノ? - 誰が利益を受けるのか? その優れた古いラテン語の成句は、現代生活の一見非合理に見える特徴について理解しようとした際、常に役に立つ。それでも、ここでは通常の搾取以上のことが起こっている。興味をそそる証拠の断片からは、魔術をかつての時代よりも弱体化させるため、過去数世紀に実際に何かが起こったことが示唆されている: 魔術は決して完全に効果を失なったわけではないが、かつては明らかにありふれていた偉業を成し遂げる力を失なっている。

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ヴァイン・デロリア Jr.

ここで有用な証言の1つは、ネイティブアメリカンの学者で活動家のヴァイン・デロリア Jr.『かつて我々が住んでいた世界 (The World We Used To Live In)』という本である。2005年に彼が亡くなった翌年に公表されたものだ。デロリアは、時代の一般常識への攻撃を厭わない偶像破壊者的な思想家であり、彼の最後の本はそれを示している。彼が行なったことは、ヨーロッパによるアメリカ大陸征服前と最中の、ネイティブアメリカンの祈祷師について、可能な限りの証言を収集することであった。さまざまな角度から魅力的な本であるが、しかしそれを研究したときには、私にとって2つの点が印象に残った。1つ目は、デロリアが、最近の祈祷師は、先祖たちには可能であったことができなくなっているようだと指摘したことである。2つ目は、私も、私と一緒に働いたことのある儀礼魔術師も、デロリアの記録に匹敵する偉業を成し遂げられないということだ。

祈祷師と儀礼魔術師の特定の制約については、説明は十分に簡単である。物質界は魔術的行動に直接反応しない。儀礼魔術師として私が学んだのは、物質界でものごとを実現させたいのであれば、それを実現できる意識的な存在に力を注ぐ必要があるということだ。道路に落ちた落石を移動させたい? 石を空中浮遊させたいと望んでも無意味であるが、高速道路管理局に仕事を遂行するよう働きかけて岩を撤去させることは、十分に効果的である。

デロリアが正しければ - また、彼以外にも同じ指摘をする人はいるのだが - この制約は数世紀前には存在せず、長期間にわたって少しずつ進んできたようである。17世紀後半には、たとえば、有能な冶金学者は法廷の宣誓下で、錬金術師が他の金属を金に変えるのを目撃したと証言し、また、灰吹法その他の試験によりそれが正しいことを確認したと述べた。対照的に、アーチボルド・コクランと神秘的なフルカネルリが20世紀初頭にグレート・ワークに成功した時、錬金術学徒はそれを信じているのだが、彼らは非常に、非常に限られた成功者だったのだ。

私が思うに、これらの変化は、単に、マックス・ウェーバーが信じていたような啓蒙時代における空虚な迷信の衰退によるものでも、ジェイソン・ヨセフソン=ストームが信じている通り、啓蒙という主張に端を発する脱呪術化の現代神話によるものでもない。歴史的な時間の流れに沿って展開する人間存在の諸条件に、現実に、客観的な変化が起こったことを反映しているという可能性を検討する価値はあると思う: 現代科学が決して不可能であると主張するようなある種の物事が実際に可能だったという意味において、過去の世界は現実に異なるものであったと。

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ジュリアン・ジェインズ

魅力的だが問題をはらむ本、ジュリアン・ジェインズの『神々の沈黙-意識の誕生と文明の興亡』の指摘によれば、非常に多数の証言が、太古の時代の人類は非肉体的な存在の声を実際に耳にしていたという考えを支持しているとされ、旧約聖書その他を辿って、そのような経験が薄れていくプロセスが追われている。同様のプロセスは、古代ギリシア文学のなかでも正確に辿ることができる。ヘシオドスのような初期の詩人の作品における霊的存在の確固たる経験から、そのほぼ千年後、洗練された都会人のプルタルコスは『神々の沈黙について』というエッセイを執筆し、なぜ神々はもはや理解可能なメッセージを人間に与えてくれないのかを説明するまでに至った。

ジェインズは、人間の脳機能における一方通行のシフトを仮定してこの現象を説明しようとした。大脳半球の機能をもとに自身の理論を基礎付けたのであるが、それ以後その説は大部分が疑問を持たれている。ジェインズが議論しなかったことは、プルタルコスから約500年後、古代世界が頂点に達したときに消え去った魔術と奇跡の全世界と一緒に、神々の声が再び蘇ったということだ。極東は中国の漢王朝から極西のローマにいたるまで、ユーラシア大陸の全土にわたってハイカルチャーが崩壊するとともに、宗教的ビジョナリーは再び神々や天使と会話し、魔術師は強力な呪文を振るい、ほとんどの人にとって見えざる者の存在は再びありふれたものとなった。数世紀が過ぎ、またもスピリチュアルな領域の存在は薄れ始めた: チョーサーの『バースの女房の物語』は、中世後期の、以前は可能であった不思議な可能性が消えていったことを示す多数の物語の一例である。

言い換えると、脱呪術の仮面の下には少なくとも3つの階層がある複雑な現象が存在している。1つ目の階層は、現代西洋世界におけるオカルティズムの抹消である - これは、アメリカ合衆国の魔術の歴史についての記事を書く際に、私が直面した抹消である。2つ目の階層は、そのようなオカルティズムの抹消の背後にある、一連の政治的・経済的な動機である - できるだけ多くの人々に、既存の権力と富の中心が所有、管理し販売するテクノロジーへの依存条件を受け入れさせようと説得する試みである。3つ目の階層は、特定の歴史周期と関連しているように見える、明らかな魔術実践の有効性の増減である。

その背後には? 私はまだそこに到達していない。この探求はまだ初期段階にあり、聖杯を発見し現代の意識という不毛の大地が癒されたとしても、奇妙な場所を苦労して通り抜ける必要がある。私はそこで見つけたものを投稿し続けよう。

*1:注: グリアは毎週水曜日にブログを定期更新している

翻訳:時の果ての踊り子たち Part 3: 「死すべき者の素晴しさ」 (ジョン・マイケル・グリア)

ジョン・マイケル・グリアによる2019年11月13日の記事の翻訳です。

Dancers at the End of Time, Part Three: A Mortal Splendor

私を批判する人の中には、私は絶対に自分の誤りを認めないと言いたがる人もいる。ある程度の期間、私のことを見てきた読者は、それが真実ではないことを知っているだろうが、我らが時代の多くのファッショナブルな歪曲と同じく、その言葉は実際には言及されていない真理を指し示している。そのような批判者たちが批判しているのは、もちろん、彼らが最も熱心に擁護する一般通念の一部である自明とされる真理を、私が否定していることである。当代の一般通念が常に間違っていて、それよりも私の予測のほうがはるかに正確であるという事実は、単に彼らのイラ立ちに拍車をかけるものでしかない。

そうとは言っても、我らが時代の理性からの逃避に関する3番目で最後の記事を、完全に間違った私の予測についての話から始めよう。過去のブログ The Archdruid Report で、2009年の『奇妙な輝く旗』というタイトルの記事から始まり、私は何度もある予測を述べていた。その記事では、アメリカ政治は経済的利益によって不条理なまでに腐敗していると口にすることを避けるために、政治的言説がねじ曲げられていることを述べ、また「ファシズム」という語がレトリック上の武器として誤った使い方をされているために、広大な盲点が広がっていることを述べた。

当時、オバマ政権は、保険業界が請求したい金額を、法的な罰のもとで強制したとしても、ほとんどのアメリカ人にはいずれにせよ健康保険に加入する余裕がないという事実を、何とかごまかそうと腐心していた。オバマは、医療費は安価になり、既存の保険プランと医師は維持できるだろうと声高に主張しており、人々はまだオバマの発言が全くの嘘であることに気付いていなかった - 我々の多くは、既にもっともな疑いを持っていたけれども。同時に、満足した20%の人々が住まうバブルの外側ではどこであれ、アメリカ人の労働者は、労働者階級の雇用のオフショアおよび、賃金と福利厚生を第三世界の水準にまで下げるために使用しうる (そして、実際にその目的のために使用された) 数百万人もの違法移民の輸入を積極的に奨励する連邦政府政策により、ますます貧困、悲惨と絶望へと押しやられていた。

どれ1つとして偶然ではない。これらすべては、労働者階級アメリカ人の生存よりも、大企業の利益と裕福な中流・中上流階級の利便を優先する超党派の政策コンセンサスの一部だったのである。当時の政治的風景を見て、オバマが推し進めたような政策によって貧困と悲惨の縁に押しやられた何千万という人々の絶望は、爆発へ向かっていると考えていた: 少なくとも、前回の記事で描いたような種類の再興運動が生じるかもしれない; もっと可能性が高いのは、西部山岳地帯と南部を根拠地とする巨大な国内暴動の発生かもしれない; ひょっとすると、十分な人数の軍の将兵が暴動の側に付くならば、内戦が勃発するかもしれない。

私は間違っていた。絶望した労働者階級の人々は、再興運動を起こさなかった。代わりに、彼らはドナルド・トランプといううさん臭いビジネスマン*1を得たのである。彼は労働者階級の懸念について語ることが権力への切符であると理解し、超党派コンセンサスの最も脆弱な場所へ挑戦するスローガンとシンボルを編み出し、絶望した大衆を有力な政治勢力へと鍛え、それに乗って、政治階級全体の統一的抵抗にもかかわらず、ホワイトハウスへと辿り着いたのである。ひとたびトランプのキャンペーンが吸引力を得ると、再興運動やゲリラ戦争に参加していたかもしれない人々は、代わりにトランプのキャンペーンへと集い、2016年11月8日の夜、自身の夢の実現という目もくらむような経験をしたのである。今日でさえ、トランプ派のサイトを訪れてみれば、「奇跡」について恍惚として調子で語る人々を見られるだろう - あまりに多くの失望と裏切りの後で、自身の希望と夢と要求が楽園のこちら側で実現するチャンスがあるのだと、突然に認識したあの夜の瞬間である。

その後、完璧な数学的バランスを取るかのように、トランプの敵対者たちは再興運動のコピーを作り始めた。それが、私の提唱するところでは、この連載記事の最初に議論した、神秘的思考への逃避の裏側にあるものなのだ。今日のアメリカの満足した階級、およびほとんどの英語圏諸国でそれに対応する人々は、耐えがたい現実からのドン・キホーテ的な逃走路を取り、アメリカ軍に対するインディアンの幽霊ダンスと同程度に不毛な、効果的な政治的反対運動とは言いがたい抽象的な儀式を始めたのである。

レジスタンスを自称する者たちが、トランプ大統領という受け入れ難い現実を消し去るために、どれほどの魔法の呪文を唱えたかを見たまえ。(実際に使われる魔法の呪文については、ここでは脇に置いておこう。効果が薄いことは証明されているのだから。) 最初に、選挙人団は一般投票を無視してトランプではなくヒラリー・クリントンホワイトハウスへ入れるべきだというオーバーヒートした主張が見られた*2。そして、ロバート・ミュラーの調査を元にさまざまに - ダジャレを言うことから逃がれられないが - デッチ上げられ トランプ・アップ たロシアとの共謀は、明確に弾劾訴追事由となるというオーバーヒートした主張が見られた。(さまざまな民主党系企業が大量に生産した「ミュラータイムだ!」と書かれたTシャツなどは、今や、私が聞いたところによると、トランプ支持者の間でお気に入りのアイテムとなっているそうだ。) いずれの試みも完全に失敗した。なぜなら、すべての主張は「我々がトランプをとても嫌っているのだから、トランプは追放されるのだ。」ということでしかないからだ。

下院での弾劾をめぐる現状の政治劇も、同じ布から切り取られたものだ。弾劾もすべてパフォーマンスでしかない、なぜなら、弾劾により大統領を罷免することはできないからだ; 上院議員の2/3の投票により弾劾訴追され、有罪判決を受けなければ、大統領は罷免されない。上院が共和党に支配され、共和党支持者のトランプ支持率が95%を超えている時、そんなことは起こりそうにない - 特に、すべてのバカ騒ぎが、トランプのすることは間違っているが、オバマが同じことをトランプに行うのは問題ないという主張にもとづいているからだ: つまりは、対立する党の大統領候補を、選挙キャンペーン中に、外国政府との共謀の容疑で捜査することである。ゆえに、民主党員はまた別の自分たちの墓穴を掘っている。そして、その過程で更に多くの無党派層有権者を遠ざけ、2020年の選挙で自分自身を撃つための弾薬を供給しているのだ。

しかしここで、この議論が始まった場所に戻ろう。つまり、この連載記事の最初に引用したアラン・ジェイコブズと「ジェーン」の2人が丁寧に議論した、理性からの逃走についてである。冷静で、公平で、客観的な思考だけが、民主党に2016年の選挙を結果を覆す力を与え、トランプが捨て去った政策を再確立できるはずなのだが、彼らは正反対の方向へと急ぎ、極端な政策 - たとえば、違法移民への無償医療 - を主張している。まるで自身の岩盤支持層以外は誰にも見られていないかのように。そして、2016年の選挙でヒラリー・クリントンの勝利を予測したフェイク世論調査とまったく同じものを見て自身を慰めている。更には、それを指摘したとすると、確実に、先に述べた通り同じようなうつろな眼をして決まり切った話の繰り返しをされるだろう - 実際、その反応は、ドン・キホーテにあなたはガウルのアマディスやその当時の流行小説の世界に住んでいるのではないのですよと説得しようとした人が受ける反応と同じだろう。

検討すべき問題は、なぜこれが今起きているかということだ。

議論はいろいろな所から始められるだろうが、今のところ最高の方法は、カリフォルニアと呼ばれる破綻国家の話から始めることではあるまいか。ほとんどの読者諸君は、PG&E、カリフォルニアの巨大電力コングロマリットが、重大な火災が発生した際には常に何百万もの利用者への電力供給を遮断していると耳にしたことがあると思う。その理由は、きわめてシンプルである。PG&Eは、インフラ維持と送電線路の清掃に対してあまりにもずさんな仕事しかしてこなかったために、電力網自体がカリフォルニアの山火事の主原因となっているからだ。これは、PG&Eが資金を欠いているからではない。退屈だが必須のメンテナンス業務から、よりメディア受けするプロジェクトや高給取りの管理カーストの膨大な給与やコンサルタント料へと、資金が横流しされたからである。

カリフォルニアの田舎地帯の焦げた森林から、サンフランシスコとロサンゼルスの腐敗しスプロール化した都市圏に向かうと、別種の機能不全に出会うだろう。サンフランシスコに行くなら、有名な歌のアドバイスとは異なり、髪に花を差す必要はない*3; それよりも、靴の外側を覆うビニール袋のほうが役に立つだろう。都市の通りには人糞が落ちているからだ。カリフォルニアの主要都市はホームレスにより壊滅的な問題を抱えており、LAの保健当局は、発疹チフスの蔓延を防ぐために苦労している - そう、シラミに媒介される感染症であり、ほとんどの工業国は1世紀も前に克服したものだ。州政府は、ホームレス問題に対処するために数十億ドルもの連邦政府の資金援助を要求している; トランプ政権の指摘によれば、前政権はその問題に対して既に十億ドルの資金を支出しているのだが、ものごとは継続的に悪化し続けている。

10年前、私が最後にカリフォルニアでしばらく過ごした時には、これほどまでに悲惨ではなかった。確かに、良くはなかった - サンフランシスコは、クリーブランドボルチモアに匹敵する程度の汚れて崩れかけた犯罪多発地域であり、カリフォルニア北部は、農村部の疲弊と悪意ある無視のあらゆる典型的な兆候を示していた。犯罪率は州全体を通してひどいものであり、あらゆる家の窓には鉄格子があり、扉には蹴破られることを防ぐための鉄棒が据えられていた - けれども、最近のニュースは、他のほとんどの人と同じく、私にとっても驚きであった。カリフォルニアの状況は何年にもわたって悪化し続けているため、ここに至り広範なシステミックな崩壊が現実の可能性となるポイントに近づきつつある。

全体として、カリフォルニアは急速に第三世界の地位に近づいている。カリフォルニアは、そのあらゆる標準的な特徴を供えている: 崩壊するインフラ、不十分な公共サービス、泥棒政治的な富裕層と絶望的な貧困層の間の拡大し続けるギャップ、レトリックと責任転嫁に長けているが、住民への基本的サービス提供のスキルを欠く機能不全の政府。あぁ、それと大量の人口流出も忘れてはいけない。ほとんどの第三世界諸国と同じく、カリフォルニアからはより機能不全ではない地域に向かう人々が大量に流出している。ドナルド・トランプは、カリフォルニアをアメリカから切り離すための壁の建設を提案していないが、トランプ支持者のなかにはそう言っている人もいる。彼らが冗談を言っているのか、私には分からない。

心に留めておくべきことは、カリフォルニアが今の困難に陥った原因は、我らが時代の集合知が「後進的」とラベルを貼るようなことを実行したからではないということだ。カリフォルニアは、アーカンソーアラバマウェストバージニア、あるいは、満足した階級の人々が「遅れている」と侮辱するような州を真似したわけではない。まったく逆に、アーカンソーアラバマウェストバージニアの田舎の人々は、気温が高く風が強い時期でも電気を使うことができ、リトルロックバーミンガム、ホイーリングの人々は歩道の人糞を洗い流すことを心配する必要はない。ノー、カリフォルニアは、文化的主流派の人々が先進的と称える政策を取ったことにより今の状況に至ったのである。現在の状況へと進歩したのだ。

カリフォルニアが今日行くところが、アメリカ全体が明日行くところであるというのは、長い間アメリカのパブリックライフの自明の理であった。非常に現実的な意味において、ドナルド・トランプホワイトハウスへ入れたポピュリストの蜂起は、アメリカの大部分の人々がその見通しを見て、震えて「ノー、もう結構だ!」と叫んだときに発生したのである。特にそれが問題とされるのは、カリフォルニアを現在の状況に陥らせたものと同じ広いトレンドが、数十年にわたってアメリカ中で働いているからだ。満足した階級の人々が堕落した贅沢な生活を送る、固く閉じられたバブルの外に出てみれば、眼にするのは朽ちていくインフラ、老朽化した建物、そして最高の日々は既に過ぎたのだという浸透した感覚である。それが、トランプのスローガン「Make America Great Again」に力を与えたものである: この国は、正気の人間であれば誰も望まないところへ"歩"を"進"めているという感覚であり、また、何らかの改善へ向かうためには、前に進むモメンタムを止めて、我々が後に残してきたものへと戻らなければならないという感覚である。

それこそがまさに、逆に、トランプの反対者が最も熱心に否定したものなのだ。「我々は戻りません」ヒラリー・クリントンは選挙キャンペーン中に言い放った。「我々は前へ進むのです。」 人種差別というブラシでトランプとその支持者に泥を塗ろうとする継続的な試みは、都市部アフリカ系アメリカ人の投票を保持する意図 - 民主党の選挙戦略の要 - があるというだけではなく、その核心の一部なのである。それはまた、過去を可能な限り最悪の光で照らす試みでもあったのだ。そうすれば、民主党員は現在の状況と数十年前に存在していた状況とを比較して、なぜそれ以来これほどまでにものごとが悪化しているのかと問わなくても済むからだ。

そこで、2016年の選挙以来、アメリカの左派のかなりの数を捉えた理性からの逃走、完全なる神秘世界への突入、その本質を垣間見ることができる。その大統領選挙は、壮大なる進歩の行進の、次の偉大な一歩となるはずであった。アメリカ初の黒人大統領に続く、最初の女性大統領である。神話的な世界観の中から見れば、2008年の投票が締め切られた瞬間、オバマが選挙キャンペーンの公約を破棄したことは問題ではなかったし、また、オバマジョージ・W・ブッシュ政権の第三期と第四期とも思えるような創造的模倣を続けたことも、ドローン攻撃と国外戦争を遂行したことも問題ではなかった。それらは、共和党が同じことを行なっていたときには民主党が憎悪すると言っていた政策だったのだが。クリントンが、同じ政策を倍にして実行すると約束したことも、問題ではなかった。政党への帰属意識と彼女の性別が、信者の眼のなかでは他のすべての問題をささいなものにした。

そして彼女は負け、トランプが政権を取り、先に述べた超党派の政策コンセンサスの中で宙吊りにされていた多数の人々の状況は改善し始めた。利益を得たのは白人労働者階級だけではない; アフリカ系アメリカ人コミュニティの失業率も統計開始以来最低の水準に達し、他のマイノリティ集団の数値も遅れを取っていない。

それが、私が思うに、選挙以降に見られたファンタジーへの逃避を駆り立てているものである。1960年代の社会革命の失敗により、アメリカ左派は産業界と悪魔の取引を行ない、あらゆる人々の犠牲のもとに大企業とその株主に利益をもたらす経済政策の支持に合意し、引き換えに、1960年代以降の左派が望む文化政策の支持を大企業から取り付けたのである。これらすべては、この種の取引が一般的に曖昧である通りに、左派が支援するとされるマイノリティコミュニティに及ぼす経済政策の効果に対する意図的な無視により、曖昧にされた。専門家も政治家も、雇用のオフショアリングと違法移民による労働市場の洪水は、賃金を低下させることはないと声高に主張したが、もちろんその通りになった; その他にも、一方には民族的マイノリティを莫大なスケールで大量投獄することを容易ならしめる努力があり、 - ヒラリー・クリントンの「スーパープレデター」についての話が思い出される - 他方では、企業エスタブリッシュメントの価値観を揺るぎなく受け入れる限りにおいて、わずかばかりの非白人を管理階級へと登用する制度装置があった。

それこそが、2016年の選挙の結果、クローゼットから踊り出てきた骸骨なのである。両党に採用されたネオリベラルな経済政策は、ほとんどのアメリカ人にとって完全な厄災であったという事実から眼を背けることは不可能となった。ネオリベラルの正統性に同調しない者を嘲笑するいじめっ子としてメディアで名声を得たポール・クルーグマンも、数ヶ月前、自分の誤りを認めることを余儀なくされた*4。左派的な政治観を持つ何百万ものアメリカ人は、自身の信じていた専門家と信頼していたメディアが嘘吐きであるか単に完全なる誤りであったという事実、そして、それらの人々は、膨大なアメリカ人を貧困と絶望に陥れさせた政策を支持していたというだけではなく、そこから利益を得ていたという事実に直面せざるをえなかった。それは飲み込みづらい苦い薬であり、また更には、その薬を処方した赤ら顔の医者は、満足した階級の繊細な感情を気にかけていないことを誇示するために、よりいっそう薬を飲み込むことが難しくなる。

であるから、民主党の下院議員が、ドン・キホーテに風車への突撃を行わせたのと同種の精神状況で、政治的動機にもとづいた調査を次々と実施したり、左翼的な世界観を持つ多数の人々が、自分はアニメのキャラクターであると信じ込んだ若者のごとく、自分はファシズムと戦うヒーロー的な戦士だと信じ込んだりしても、全く不思議はないのである。彼らの人生の根底をなす信念の一つ - 世界はより明るく良い未来へと向けて進んでおり、自身に個人的利益をもたらす政策は、その偉大なる前進を後押しする政策でもあるという確信 - は、周囲で取り返しがつかないほどコナゴナに砕け散ってしまっている。それこそが、彼らが幽霊ダンスその他の模倣へと駆り立られ、世界が決して与えてくれない奇跡的な救済を待ちながら、時の果てで踊っている理由なのである。

そうしている間にも、この国の残りの部分が、カリフォルニアと同じ状況へ陥ることを防げるかもしれない政策は、この瞬間にも制定される可能性がある。そのような政策は単純明快である: もはやまかない切れなくなった国外への軍事的コミットメントからの段階的な撤退、ドルが世界の基軸通貨でなくなり、我々が望むものを何でも借用書 [IOU] を発行して支払うことができなくなった時に備えるための、国内製造業の再建を目指した貿易障壁、既存の労働者階級を悲惨に陥らせることなしに受け入れ可能な毎年の移民の人数に関する、持続的で思慮深い国家的議論、社会立法の権限を個々の州へと戻し、左であれ右であれ単一の道徳的イデオロギーを合衆国全体に課そうとする試みに対する終止符、そして、政治を妥協と共存へ向けて方向転換することであり、それ以外に、これほどまでに広大で、多様性に富む、意固地な共和国において相対的な調和を取り戻す方法はないだろう。

これらの政策は、私が「長き没落」と呼んだゆっくりとした衰退、つまり、あらゆる文明の物語を紡ぐ下方への軌道を防ぐことができるのだろうか? もちろん、そうではない。トランプは前へと進み、2024年かそこらには、1969年のイベントを再演して月面に更なる足跡をつけるという約束を果たすかもしれない - 他の文明は何世紀も耐えるピラミッドや寺院を残した一方、我々の文明の月面着陸という偉業は、その仕事を終えた瞬間に金属のスクラップと化すロケットを使用したということは、示唆的ではないだろうか? - しかし、結局のところ、それはまた別の儀式的行為である。

それでも、ある種の衰退は他のものよりも早い。ピークオイルシーンの最盛期には、衰退の影響をやわらげるために経済的な再ローカル化の価値をたくさんの人が議論していた。ここまでに私が議論した個々の別のステップも、その目標を更に促進するであろう。偉大なアメリカ人詩人のロビンソン・ジェファーズがうまく表現している通りである:

You who make haste haste on decay; not blameworthy; life is good, be it stubbornly long or suddenly A mortal splendor: meteors are not needed less than mountains: shine, perishing republic.

なんじ腐敗へ急ぐ者; 責めてはいない; 人生は良い、頑固に長くとも突然でも 死すべき者の素晴しさ: 流星は山々ほどは必要ない: 輝け、滅びる共和国。

死すべき者の素晴しさから、少なくともしばらくの間は、眼を逸らすことができるかもしれない。それでもやるべき仕事はまだたくさん残されている。時の果ての踊り子たちは、儀礼的なステップを踏みながら空想的な未来を待ち望んでいるのだが、そのような未来はそもそも決して起こるはずのなかったものだ。その一方で我々は、腕まくりをして、自分たちが達成しうることを考えたほうが良いかもしれない。

*1:日本語訳はこちら 翻訳:ドナルド・トランプと憤怒の政治 (ジョン・マイケル・グリア) - Going Faraway

*2:アメリカ大統領選挙は、制度上は直接選挙ではなく、大統領候補へ投票する選挙人を選ぶ選挙であるため、理論上、選挙人団は一般投票に従わず別の候補を選んでもよい。ただし、多くの州では選挙人団は一般投票の結果に従うことが義務づけられており、これに違反した投票が大統領選挙の結果を左右した事例はこれまで存在しない

*3:スコット・マッケンジーの 『花のサンフランシスコ』を指す。

*4:日本語訳はこちら グローバル化の弊害を見落とし、トランプ台頭を招いた経済学者のいまさらの懺悔 | ワールド | 最新記事 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト

翻訳:時の果ての踊り子たち Part 2: 「事実は真実の敵」 (ジョン・マイケル・グリア)

ジョン・マイケル・グリアによる2019年11月6日の記事の翻訳です。

Dancers at the End of Time, Part Two: “Facts are the Enemies of Truth”

先週、この記事の第1回目では、最近、多くの人々がある種の政治的な問題について、明確に、または完全に思考する能力を失ったように見える奇妙な現象について検討した。哲学者アラン・ジェイコブズと、「ジェーン」を名乗る聡明なブロガーからの洞察を通して、この奇妙で自滅的な習慣の背後にある精神障害に迫ることができた。我々の意味と価値についての感覚は、神話とも呼ばれる共有された物語への個人的関与からもたらされるが、我々の精神が健全である場合は、そのような物語と実際的な関心との間でバランスを取って、我々の遭遇する世界において、好みの物語がもはや機能しないときには気づけるように、細心の注意を払っている。

神話的な経験モードと実際的な経験モードの間で相互にバランスを取るという習慣を、最近、あまりに多くの人が見失っている。そのような人々にとっては物語だけがすべてであり、もしもその物語の要求することが世界に起こらないとしたら、それは世界が誤っているのである。ミュージカルの『ラマンチャの男 ドン・キホーテ』が軽やかに宣言する通り、「事実は真実の敵」なのである。しばらく前に、これと実質的に同じ言葉を、民主党の大統領候補ジョー・バイデンが口にした - ジョークでも、ミュージカルへの言及でもなかった - のだが、控え目に言って、驚くようなことであった。

ドン・キホーテは、ここで議論しようとしている種類の誤りについて極めてすぐれた描写を提供している。ミゲル・デ・セルバンテスの優れた風刺小説を読んだ者であれば思い出すであろうが、穏かな郷士であったアロンゾ・キヤナが、最も きしがい ・・・・ [errant] じみた騎士道物語 [knights-errant] を演じた理由は、当時の誇張された騎士物語にあまりにもハマりすぎたからであった。ポップなフィクションにハマる行為が、純粋に現代的な現象であると捉えている読者は、ガウルのアマディスをご存知ないのであろう。それは15世紀の指輪物語に相当する作品である。トールキンの作品と同じく、それは爆発的なファンタジーのベストセラーであり、膨大な、ほとんどが見るにたえない模倣とコピーの業界を生み出した; セルバンテスの小説では、キヤナがニセのヒーローもののポップカルチャーへ強迫的にハマったことこそが、現実世界との繋がりを喪失し、実在しない巨人との戦闘へと向かった原因なのであった。

言わば、ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャは、現在「フィクションキン fictionkin」と呼ばれる現象の、最初の、そしておそらく最も優れた描写であろう。

現代オンラインポップカルチャーの奇妙な片隅で長い時間を過したことのない読者諸君のために、この語の解説が必要かもしれない。今日では、誰もが性同一性障害の現象について多かれ少なかれ知っているのではないかと思う。つまり、自分は間違った性別の身体に生まれてきてしまったと信じる人々の状況である。(公平に言えば、そのような人々の状況は、少なくとも、何らかの測定可能な生物学的要素と関連した原因が認められるのではないかと思う。) 同じベクトルを更に伸ばして、いかなる生物学的な正当性もなく、"人種同一性障害" および、異論の多い現象である「トランス人種」を発見できるだろう。つまり、あらゆる客観的な指標から見て、当人が属していない人種グループに所属していると信じる人々である *1 - レイチェル・ドレザル*2民主党大統領候補者のエリザベス・ウォーレンはこの著名な事例である。また、同じく論争的な現象である "トランス障害者" がいる。自分は特定の身体的障害を持って産まれてくるはずであったと信じる人たちで、一部のケースでは、自分が持つべきであると信じる障害を得るために外科手術を受けることもある。

同じ道を更に遠くへ進めば、「アザーキン otherkin」を見つけられる。間違った種の身体に産まれてきてしまったと信じる人々である。ある場合では、そのような種は実際に存在することもある - しばらく前、私は、本当は自分は農用馬なのだと信じている若い男とかなり長く話したことがある。彼は化石燃料不足の未来における馬による農業の可能性について、きわめて多くの主張を持っていた - 一方で別のケースでは、そのような種は、ドン・キホーテが闘いたいと望んだ巨人や竜のような幻想であることもある。今日のインターネットの適切な片隅を頻繁に訪れるなら、アザーキンの人々に使う適切な代名詞の、強迫的に詳細なリストを発見できるだろう: たとえば、「チャー/チャーズ/チャープセルフ chir/chirs/chirpself」 は、自分を鳥類であると自認する人々の代名詞である、など。

その道の終わりには - まぁ、少なくともこの場では - フィクションキンがいる。本、テレビ、アニメ、その他何であれ、自分はフィクションのキャラクターであると信じる人々である。これは、経験の神話的モードにおいて中心的な、通常の空想的な関与を意味するのではない。また、単なるコスプレを意味するのでもない。反対に、フィクションキンは、自分が本当に何らかのフィクション上のキャラウターであると信じる人々であり、そのキャラクターのアイデンティティを24時間365日保ち続ける人である。単なるお芝居ではない; 何かもっと大きな問題が進行しているのである。

今年 [2019年] 初め、ある若い女性が、ボーイフレンドがこのような状態に陥っていく過程を、Redditの板 r/relationshipadvice に投稿した。最終的には、投稿はサイト管理人によって削除されたのだが、削除される前にバイラルを起こしていた; これが、投稿当時のままのウェブサイトを保管しているコピーサイトである。簡潔に言えば、彼女のボーイフレンド、典型的なお喋りのオタクっぽい若者が、『Loveless』のアニメシリーズを一気視した後で、劇的なパーソナリティの変化を起こしたのだという。彼は数週間を非常に静かに引き込もって、Lovelessのマンガ版を読んで過ごしたのだ。そしてその後突然に、柔らかで、笑顔で、幸福な、奇妙に人工的な状態へと変化したのだという。彼女がボーイフレンドにこのことを問いただした時、彼は自分が本当はLovelessの主人公であるソウビだと気付いたのだと言った。

それだけではなかった。その若者は、2人きりのときには常に自分をソウビと呼ぶようにとガールフレンドに要求したのである。男は、恋人のことをリツカと呼び始めた。ソウビの12歳の恋人 *3 である。そして、ベッドではリツカのロールプレイをするよう要求したのであった。ソウビのヘアスタイルを真似るために、彼は髪を伸ばした。アニメとマンガのソウビの服装と同一の服装に変えるために、クローゼットを空にした。ソウビと似た伊達眼鏡を掛けた。以前の彼の習慣、行動やパーソナリティの特徴は消え去り、アニメキャラから借用した商品に置き換えられた。ガールフレンドは、何度も何度も何度も、彼に協力しようとした - そして、偽のソウビは、当時未成年であったトランスジェンダーの人物を加えて三人組を作ろうと言い出したのだが、それは彼が正気であった時には決してしなかったであろう行動であった。ついにガールフレンドはもはや付き合い切れないと思い至り、恋人と別れたのである。

恐しい話である; 誰か他人が精神的な疾患に陥っていくのを目撃した人にとってはお馴染みの話であろう - もちろん、それが我々の議論していることだ。そのプロセスは、セルバンテスドン・キホーテの序章で明確に描写している事象と一致している: 精神のタガが次第に緩んでいき、その後、現実世界との最後の繋がりが急に途絶え、狂気の淵に常に存在していた薄暗い光が突然爆発し、種々の適切な外観により新たなアイデンティティを獲得する試みが始まる - ドン・キホーテの場合では、曾祖父の鎧を狂ったように磨くことであり、そのすぐ隣にはニセのソウビのヘアスタイルと伊達眼鏡を身につけることが並ぶ - その後、実際的なモードが沈黙してしまうと、その振る舞いはますます奇妙になっていく: そのすべてが、人々が狂気に陥っていく典型的な過程の、古典的描写である。

私は、このような物語についてあまり普通ではない視点を取り上げたい。私はフィクション作家であり、つまり、想像上の人々と長い時間を一緒に過ごしているからだ。私の小説のキャラクターたちは生き生きとしており、イマジネーションの中で確固たる存在を持つ。そして彼らはいくぶんか自律的である - つまり、小説の登場人物たちは単に私が命じたことだけを行なうのではない。たとえば、私が『ショゴス・コンチェルト』という小説を書き始めたとき、ブレッケン・ケンダール - その物語の主人公で、ニュージャージー州の架空の州立大に通う混血の音大生 - が、小さなショゴスと友達になることを知っていた; しかし私には、その関係が最終的にどうなるか分からなかった。彼女がショゴスにショーというニックネームを付けるまでに至り、私はかなり驚いたのだ。

強調しておきたいことは、これはブレッケンやショーが、私やあなたと同じ意味でリアルであることを意味するのではないということだ。ギリシアの哲学者サルスティウスによるいかにも気の効いた言い回しを借りれば、小説のキャラクターは、サルティウスが語っていた神話と同じく、決して起こらないが常にそうであるものごとなのである。フィクション作品を読むことは、前回の記事で議論した通りの神話的モードへの想像力による関与をもたらす。それは意味や価値観を変容させる経験の強力な源となりうる。それこそがフィクションというものであり、しばしばフィクションが我らの時代における神話として働く理由である。

このような経験を引き起こさない物語は、偉大な文学作品たりえない。かなり前に、ハリウッド俳優のマーク・ハミルが、個人的な倫理観と人生へのアプローチの形成において、バットマンのコミックが果たした役割についてコメントしていたことを読んだのを思い出す。ディック・グレイソンあるいはロビン・ザ・ボーイ・ワンダーの冒険は、ハミル少年が最もヴィヴィッドにのめり込んだものであった。少年時代を通して、倫理的・個人的な困難に直面すると、最初に彼が自問することは「ロビンであればどうするだろう?」であったという。コミック本と共に育った人でなければバカバカしく聞こえるかもしれない。しかし、ハミルは決して唯一の事例ではない; バットマングリーンアローは、私自身が子供であったころに最も熱心に読んだ冒険であったのだが、それと似た効果をもたらした。コミック本は、若いアメリカ人の数世代にとってフォークロア神話として働いている。あらゆることを考慮しても、私はそれが悪いことであったとは思っていない。

けれども、ハミルは自分自身がディック・グレイソンであると信じ込むという罠に陥っていないことに注意してほしい。彼は、ロビンのスーツを着込んで、バットマンが現れてバットケイブへ連れられ犯罪と戦う生活を、来る日も来る日も待ち望んでいたのではない。彼は、経験の神話モードと実際モードのバランスを保ち、物語への想像的な参加による利益を得ていたが、現実の代替として物語を使用することはなかった - つまりは、彼は正気であり、狂っていなかった。

同じような区別は、純粋な個人的関心を超えたレベルでも見られる。社会の全体でも、そのようなボーダーラインの一方に倒れることがありうる。もしもそのような社会があまりにも不運であれば、逆側へと倒れるかもしれない。アメリカ社会は、ここではあまり良い事例ではない。部分的には、それは我々の歴史からもたらされる神話的モードへの態度が、複雑で不毛であるからであり、部分的には、次の記事で議論する理由による。他のほとんどの社会では、神話に向かう態度はもっと健全である。神話的モードの思慮深いクリエイティブな使用方法の、1つの優れた事例としては、ネイティブアメリカン部族のスピリチュアリティに関する古典である、ジョン・ナイルハルトの『ブラック・エルクは語る』のページで詳細に解説されている、ラコタ族の風習が挙げられるだろう。

その本を読んだことのない方のため、簡単に言えば、 黒ヘラジカ ブラック・エルク として知られるネイティブ・アメリカンの人物が、少年期に激しい幻覚を経験し、以来聖者と見なされるようになった。ブラック・エルクがシャーマン的なトランス状態から回復し、自分の見たビジョンを語ると、長老たちはそれを聞いて議論し、その暗示を考えて、それは受け入れるに値すると考えたのだ。ひとたびそのようなプロセスが完了すると、部族全員がそれを礼拝の儀式として定め、スピリチュアルな修練とイマジネーションのリソースとして、部族の口承文学の一部となしたのである。

ほとんどの伝統社会では、これと同種の適正検査プロセスが存在する。それが、弘法大師伝教大師、中国から日本へ仏教の密教を持ち込んだ僧侶たちが、日本への帰還後にその教えを天皇へ示し、天皇の宗教専門家集団から好意的な判定を受けた後でなければ、自身が学んだ教えを広めることが許されなかった理由である。それが、ローマに寺院を建てたいと考えた新たな宗教運動は、建設を進める前に頑固で懐疑的なローマ元老院の老人たちから許可を得なければならなかった理由である。経験の神話的モードは、人生と健康と意義の源泉となる一方で、狂気と厄災の源泉ともなりうる。伝統社会はそれを知っており、それに従って行動していたのだ。

そのため、ある伝承によれば、1870年代後半、ウォヴォッカという名のパイユート族の男が、グレートプレーンズのネイティブ・アメリカン部族のより良き未来のビジョンを受けたとき、パイユート族長老たちの最初の反応はそのビジョンを拒否することであった。そのような拒否には理由もあった。ウォヴォッカのビジョンが教えていたのは、もしネイティブ・アメリカンの人々が自身を純化し、聖なるダンスを踊れば、白人の侵略者は無力化され、バッファローは帰り、祖先たちは復活し、あらゆる悪と死は永遠に消滅するということだった。パイユート族の長老たちがなぜそのような決断を下したのかという理由は伝わっていないが、しかし、グレート・プレーンズのネイティブ部族は決して愚かではなかった; 彼らは厳しい環境下で何世紀にもわたって生き延びており、神秘的な体験を建設的に扱う、微妙で効果的な方法を知っていた。Lovelessやガウルのアマディスよりもはるかに奇妙で非現実的な物語を、文字通りの真実として受け入れない程度の分別はあったのだ。

けれども、そのレベルの明晰さは、続く数年の間、グレートプレーンズの部族がもはや後のない状況に追いやられるにつれて、維持が困難になった。東方の、人口も技術的にもはるかに圧倒的な社会による侵略と征服に直面し、彼らは1世代以上も絶望的な戦争を戦い続けなければならなかった。そこでは、最も圧倒的な勝利でさえ、単に侵略者がより大きな力で戻ってくる前のつかの間の休息でしかなかった。あらゆる社会が暗黙のうちに世界と代わす取引 - 我々はこのように生きる、そして世界はそのような生き方を可能とする状況を維持する - は、後戻りできないほどに破壊された。そして、プレーンズの部族の多数は、耐えがたい現実から抜け出す方法を与えてくれると思われるものは何であれ、それを喜んで受け入れるまでになったのである。

1889年1月1日、日食が起きた。日食の間、ウォヴォッカは以前より更に詳細なビジョンを受け取った。このときは、彼のビジョンは広く受け入れられた。グレートプレーンズの全体で、ネイティブ部族は、後に幽霊ダンスと呼ばれるようになったダンスを受け入れた。ウォヴォッカの指示に従い、自身を純化するために聖なるダンスを踊った。突飛な噂が広がっていった。ウォヴォッカの元のビジョンを詳細化し、幽霊ダンスのために作り上げられた精巧なダンス用シャツを着用すれば、銃弾を跳ね返せるというのだ。パイユート族の地方からカナダ国境に位置するラコタ族地方に至るまで、ネイティブ部族はダンスを踊って、侵略者が無力化され、祖先とバッファローが帰ってくる輝かしい希望を待ち続けたのだ。

その代わりに、1890年12月28日に起こったのはウンデッド・ニーの大虐殺 *4であった。大砲、そして当時最新鋭のホチキス機関銃で武装したアメリカ兵が、大部分が非武装ラコタ幽霊ダンサーの集団に攻撃を加えたのだ。幽霊ダンサーシャツは、銃弾と砲弾の嵐から守ってくれなかった。153名が死亡し、ほとんどが女性と子供であった。その後すぐ、侵略者に対する最後の抵抗は潰えた。事実が真実の敵と化したときには、言い換えれば、たいていの場合、敵対者よりも更にやっかいな敵と衝突することになるのだ。ドン・キホーテが、風車を戦うべき巨人と見間違えたときには、ただ打撲を負い恥をかいただけであった。ゴーストダンサーたちは、それほど幸運ではなかった。

きわめて長い期間にわたって、西洋の人類学者は、幽霊ダンスやその他同種の事象 - そのような事例はきわめて多数あり、特に16世紀から19世紀までのヨーロッパの世界制服キャンペーンへの反応として多く見られるが、しかしそれだけではない - に対し、不毛な精神性である 自民族中心主義 エスノセントリズム から、あるいは、おそらく、 技術中心主義 テクノセントリズム からアプローチしてきた: すなわち、そのようなことは純粋に「原始的な」人々のみに、ヨーロッパ人が先進的と考えるテクノロジーを欠いた人々のみに見られるもので、聖なるシャツの着用や聖なるダンスといった神話志向の行動では、大量の火力に勝利できないと認識できないほどに単純な考えを抱いているという偏見である。古い人類学の論文誌には、その分野の学者たちが言うところの「再興運動」について大量の文献がある; 価値のある例外はあるものの、その種の文献のほとんどには、今述べた技術中心主義的な傲慢さが、少なくともその痕跡が存在している。

単純な優越感による無知な捉え方は、20世紀まで生き延びるべきではなかった。ナチズムと共産主義という苦い事例は、当世の科学と疑似科学から語を借用して着飾った古典的な再興運動が、地球上で最も進んだ技術的な社会でも栄えることができると示している。更に最近では、2012年12月21日のマヤ歴の偽予言を取りまく希望的観測のバカ騒ぎは、再興運動のほとんどの特徴を備えている。また、率直に言えば、その狂った信念体系の支持者は、ほぼ例外なく、快適で、教育のある中上流階級の現代アメリカ社会からもたらされた。

再興運動の中心である集団的な妄想へ人々を駆り立てるものは、言い換えれば、現代テクノロジーや現代教育の有無とはいかなる関係もない。それは、この記事で取り上げた若い男を狂気の縁へと追い立てたのと同じ力である。アニメキャラとしての妄想的なアイデンティティを取らせた個人的・社会的な原因は、彼を個人的に知らない我々にとっては、推測不可能である。一方で、今日のアメリカ社会の "満足した階級" に、この連載の最初の記事で議論した通りに、理性からの逃避を起こさせている巨大な心理的・文化的圧力を認識することは、それほど難しくはない - 古典的なスケールの再興運動であり、その参加者は自身にとってのバッファローと祖先に相当するものを取り戻すことを目的とした、ますます華やかになる儀式の一連の行動に関与している。次はそれについて話そう。

The Shoggoth Concerto (English Edition)

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  • 作者:John Michael Greer
  • 出版社/メーカー: Founders House Publishing LLC
  • 発売日: 2019/07/17
  • メディア: Kindle
LOVELESS: 1 (ZERO-SUMコミックス)

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*1:まわりくどい書き方をしているが、要は「自分は黒人だ」と主張する白人のこと

*2:Rachel Dolezal - Wikipedia

*3:グリアは (また、redditの元記事の投稿者も) リツカはソウビのgirlfriendであると書いているが、Lovelessの設定ではソウビもリツカも両方男性である。これがアメリカで作品が改変されためか、それとも元記事投稿者のカン違いであるのかは不明。

*4:ウンデット・ニーの虐殺 - Wikipedia