Going Faraway

渡辺遼遠の雑記帳

翻訳:時の果ての踊り子たち Part 1: 理性からの逃走 (ジョン・マイケル・グリア)

ジョン・マイケル・グリアによる2019年10月30日の記事の翻訳です。

Dancers at the End of Time, Part One: The Flight from Reason

かなり長い間、我らが時代の最大級に奇妙な特徴について語る方法を私は考えてきた - ある種の、とてもシンプルな思考方法が、突然に、豊かで教育も教養もある人々、何があろうともその思考方法に固執するであろうと考えられてきた人々、の頭からすっぽりと抜け落ちてしまうことである。幸運にも、偶然目にした3件の記事のおかげで、私が考えていることが、とある迷宮を通る1本の糸であることが分かった。古くからの私の読者は、その3件の記事は、奇妙な取り合せになるだろうと予想しているかもしれない - そして、実際のところその通りである。お堅い雑誌に掲載された、哲学者による堅固に考えられたエッセイ、レズビアンの神学徒によるブログ記事、恋人がある種の狂気に陥っていく様子を目撃した若い女性によるソーシャルメディアフォーラム上の投稿である - しかし、すべてを合わせると、この3つの記事は我らが時代の危機の、最も認識されていないにもかかわらず最も重要な特徴を指し示しているのである。

哲学者、アラン・ジェイコブズのエッセイから始めよう。そのエッセイのタイトルは『キャンパスにおける覚醒と神話』であり、ニューアトランティス誌に2年前に掲載されたのだが、私が注目したのは先週であった。このエッセイには優れた点が多数あるが、その中でも、私が今考えている思考方法の崩壊が、詳細に、整理されていることである。

[ジェイコブズの記事は、大学生の政治的過激化と社会の分断について説明するもの]

『たぶん私はこれを一人称に変換したほうが良いだろう。それは、3年前[2014年]、タナハシ・コーツがアトランティック誌で、有名な『[奴隷制に対する] 損害賠償の論拠』というエッセイを発表したときの経験を部分的に説明しているからだ。Twitter上で友人と会話して、私が言ったのは、そのエッセイは奴隷制時代と後のジム・クロウ法時代の余波およびその後の状況が、今なお続く[アメリカ黒人の] 破滅的な結果を生み出していることについて、圧倒的なまでに力強い論拠を提示していると考えたけれども - 同時に、コーツは、実際のところ、賠償金の支払いこそが、そのような悲劇的な状況に対処する最も適切な方法であるという主張の論拠を示せていないとも感じたのである。友人たちが私に言ったのは、「オマエは人種差別の現実を否定している。」ということだった。その後何を言っても、コーツのエッセイすべてを私が拒否したという友人たちの誤解を解くことはできなかったのだ。』

少なくとも、理論上は、目的と手段を、目標の説明とそこへ到達する手段の提案を、あるいは、何かが非常に間違っていると認めることと、ある特定のプログラムがその問題を解決するための最適な手段であると認めることとの区別をはっきりとつけて考えることは、それほど難しくないように思える。ジェイコブズの友人たちは、このような比較的シンプルな思考活動すらできなかったように見える。彼の経験談がこれほどまでに意義深いのは、今日では我々のあまりに多数が似たような経験をしてきたからだ。

私の場合の同等の話、つまり、我らが時代の集合的思考に何らかの非常に、非常に良くないことが発生したのだと確信した出来事は、ドナルド・トランプの選挙後数ヶ月間に起こった。何百万人というアメリカ人がトランプの立候補を受け入れたという不都合な事実に直面して、ヒラリー・クリントンに投票した人たちは、トランプに投票した人は皆レイシストに違いないと主張したのである。このようなリベラル派のヘイトスピーチがあまりにたやすく反証可能であるという事実も、影響を及ぼさなかった; 私よりもはるかに影響力のある多数の人々たちが、トランプを大統領とすることは、トランプが破壊せんとしている破綻済みの超党派コンセンサスをもうあと4年間続けることよりも、有権者たち自身と家族とコミュニティにとってほんの少しだけ破滅的ではないギャンブルであるという問題を詳細に議論したことも、影響がなかった; トランプを大統領とした上中西部の人口分布は、8年前、バラク・オバマホワイトハウスに送り込んだときの人口分布とまったく同じであったという事実さえ、まったく影響を持たなかった。

もし、これらのことを「ヤツらは単なるレイシストだ。」と繰り返す人々に対して指摘したとすると - イエス、私はオンラインでもオフラインでも一度ならずそう試みたのだが - その反応は (少なくとも、私が受けた反応は) 真なる信仰者にはありがちな遠い目をして、反論を試みたのとまったく同一の論点を繰り返すだけであったのだ。もしも、民主党員が2020年のトランプ再選を阻止したいと望むのであれば、まさに民主党員がレイシストとして退けた有権者たちの信頼を取り戻す必要があり、その同じ有権者たちにおそらく誤った中傷を投げかけたとしても主張を受け入れさせることはできないだろうと指摘することさえ、無意味であった。私がそう言ったときに受けた反応は、お分かりの通り、再び遠くを見つめて、論破されたお決まりの論点をもう一度繰り返すのであった。それは、率直に言ってきわめて不気味な光景であった。

エッセイの中で、ジェイコブズは、この種の会話に示される奇妙な疑似ロジックの背後に存在している事象に対して、正確な診断を提供しているように思える。ポーランドの哲学者レシェク・コワコフスキのアイデアを引用し、ジェイコブズは、非常に広く言って、世界を理解するための2つの方法 - コワコフスキの用語では、2つのコア - について述べている。それらは、我々自身の社会も含むあらゆる人間社会で重要な役割を果たしている。一つは、神話的なコアであり、もう一方は技術的なコアである。(後者の用語は、私にとってはほとんど皮肉のように思える。それは、 技術 テクノロジー は現代の神話的思考において最も一般的なテーマであるからだ。しかし、その語はコワコウスキが選んだものである。) 技術的なコアとは、我々が世界を操作可能とする一連の行動と知識を指す; 神話的なコアは、一方で、人間経験の非理性的な背後へ達する一連の行動と知識である。

ジェイコブスの推測によれば、今日のあまりに膨大な人々が「技術的コア」を見失ない、「神話的コア」の中からだけで考えているというのだ。そのような思考の神話的モードからは、問題と解決策の区別も、ましてや、ある人の投票行動の動機を理解し、彼らの心を変える方法を見いだすことはまったく視界に入らない。ジェイコブズの指摘するところによれば、大学キャンパスなどにおける「目覚め」の文化は、その代わりに冒涜やタブーといった古風な神話的概念に依拠しているのだという。誤った意見、およびそのような意見を持つ人々は集団から排除されなければならない。なぜならば、それらは恐しい瘴気を運んできて、近づいた者は呪われてしまうかもしれないからだ: それが、「安全空間」と「トリガリング」からの逃走のロジックである。

私は、ジェイコブズのこの診断は極めて正しいと思う。この議論を更に先へと進めるためには、けれども、彼がコワコフスキから借用したいくつかのアイデアを再検討し、コワコフスキが考えるよりもさらにあいまいで広がりを持つ、現代社会における神話と理性の理解を調査することが必要となるであろう。

それでは、数式の神話側から始めよう。神話 [myth] とは正確には何であろう? ギリシア語の単語 μυθος ミューソス、の元々の意味は、単に「語ること」 であった。その後に、"真に重要である語り" という意味を強調したにすぎない: すなわち、我々はどこから来たのか、我々は何者であるか、そして我々はどこへ行くのかを教える物語である。それでも、根本的な意味は中心に留まり続けている: 神話とは、物語である。それにはキャラクターがいて、設定があり、プロットがある; マーク・トウェインが言ったとおり、あらゆるすぐれた物語は、どこかへ行って何かを行うものである - そして、どこへ行くか、何を行うかは、人間の生涯において中心的な機能を持つ。

読者諸君が小さな子供であったころ、親は寝る前に同じ物語を毎晩毎晩読み聞かせただろうか?そうであるならば、あなたは神話を自然生息状態にて経験したということになる。お馴染みの物語の繰り返しは、すべてと言わずともほとんどの人間文化において子育ての中心的な要素なのである。なぜなら、そのような物語から、子供たちは個人的、社会的、そして自身の住む自然世界にまつわる最も重要な態度と価値観を吸収するからである。これらの物語は、逆に、そのようなものごとを理性的、論証的に伝えるわけではない。むしろ、空想的な関与を通して伝達するのである。

それが、等式の一側面である。それでは、コワコフスキの誤解を招きやすい「技術的」という用語を無視して、等式の逆側を「 実際的 ラクティカル な」側面と呼ぼう。人間の経験の神話的モードが関与型である一方で、実際的なモードは、道具型である; そのモードは、我々が何かを実現したいと考えたとき、あるがままの世界に関与するだけではなく、世界の中で行動したいと思うときに使う方法である。神話的モードのなかで考えているときに鳥が飛び去るのを見れば、ある意味では、その光景がもたらす空高く飛び立つ自由を経験することができる; 実際的なモードで思考しているときに同じ鳥が飛び去るのを見れば、翼の機能を解明しようと挑戦し始めるであろう。

もし私がコワコフスキを正しく理解しているならば - もし間違っていれば、喜んで訂正を受け入れたいと思う - 彼はこの2つのコアを異なるものとして見ていたようだ。全般的に、人間は、どちらかのモードだけを通して世界にアプローチするのである、と。彼の「技術的」という用語の使用法が誤解を招くものであるのと同じく、シンプルだが深い理由により、私にはこれも誤りであるように思える。実際的なモードは、何かをどのように行えば良いかを教えてくれるが、しかし何をすれば良いのかは教えてくれない。実践的なモードを使えば翼の機能を理解できるが、けれども、ライト兄弟に最初の飛行機を作ることを夢見させたのは、実際的なモードではなかった; それは、翼を使い飛ぶ鳥を見るということ、そして、人間も同じことができるはずだという物語を熟考するという関与型の経験から来た、空を飛ぶ夢からもたらされたのだ。手段と方法は実際的な経験のモードからもたらされるが、目標や目的や価値は、完全に神話的モードからもたらされる。

これが議論の余地のある主張であることは、私も理解している。今日の工業諸国のほとんどの人々は、自分たちは神話を信じていないと強く主張し、自分たちが信じていない物語のみを指して「神話」という語を使用するようになった。それでも、さほどの努力を要せずとも、今日の人々が自身の人生に意味、目的や価値を与えるために神話的な物語を使用していることを読み取る方法を学習できる: そのような神話の使用は、生産的な場合もそうではない場合もある。

1960年代から70年代には、交流分析として知られる精神科医の一派が、神経症および人格障害に対するナラティブアプローチを開発した。その物語の非常にシンプルなバージョンは、精神的な問題を抱える人々は、自滅的な脚本を生きているという発見であった: そのような物語の患者自身は無自覚であるが、他の人々とのインタラクションに強力な重力的引力を行使する。もしも患者が、自身の演じる脚本を認識するようになれば、魔法は解け、いくらか機能不全的ではない方法で人生に向かう方法を学べるのである。交流分析は、精神的な治療職に対して製薬産業が強力なプレゼンスを獲得して以降流行遅れとなってしまったが、交流分析の発見は、それ自身のイメージの中で価値観と目的を形成する物語の力の生き証人として留まり続けている。

我々のほとんどは、自分の人生を形作る物語との間で、それほど問題のない関係を保っている。その物語がどのようなものであるか確固たる認識を抱いているかもしれないし、そうではないかもしれないが、我々が何に価値を置くか、何が人生に意義を与えるのかを知っている。人生の価値や意義を知った上で、我々は実際的なモードに転じ、それらを自身の人生にもたらす方法を考え出すのである。その結果は、神話的モードと実際的モードの対話であり、そこでは神話的モードが目的を提供し、実際的モードが手段を提供する。けれども、それだけに留まらない。なぜなら、何が現実的に到達可能であるのかについての実際的な省察が、必然的に、いかなるゴールに価値を置くかという我々の考えを形作るからであり、一方で、何に価値を置くのかという神話的な省察が、必然的に、目標へ辿りつくために用いる手段についてのアイデアを形作るからだ。

(よくある誤解を予防するために、人間が自分自身と、相互に、あるいは世界との関係を築く方法は、経験の神話的モードと実際的モードの2つのみではないと指摘しておかなければならないだろう; それ以外のモードも存在する。たとえば、エロティックなモードもある。神話的モードが価値と意義に関わり、実際的モードが手段と実用性に関わるのに対して、エロティックなモードは欲望と充足に関わる - 性的なコンテキストのみではないが、けれども、それにも関係する。比較的バランスの取れたパーソナリティにおいては、神話的モードと実際的モードが交流に入り、代わって、エロティックなモードもまた会話に参加する; エロティックモードが我々の欲求を形作り、実際的モードがそれを獲得する方法を探す。そして、神話的モードが、欲望とその充足を人生の意義と価値というより広いコンテキストに置くのである。)

だから、我々の精神の中にはさまざまなものが存在するが、我々が関与する神話的あるいは半神話的な物語というものが存在しており、それが意義や価値の感覚を与える。また、我々には、道具的に評価する実際的な関心事項があり、それが意義や価値の感覚に沿って行動するためのツールと選択肢しを与える。ここで概略を示した分析の用語を使い、ジェイコブズは、「目覚め」の文化に参与する大学生は、政治問題に対する際に実際的なモードを見失い、実際的なモードがもたらすはずであったリアリティテストの利益や現実性への感覚を失い、政治問題に純粋に神話的な視点から反応しているのだという。

私が言及しようと考えていた2つ目の、偶然眼にした記事が、この推測を強く支持している。書き手は、トランスジェンダーの問題に関心を持つ、恋多きレズビアンの神学徒 (本人の自己紹介による) で、ジェーンというハンドルネームを使っており、また彼女のブログは「トッピングは定言命法に反する [Topping Violates The Categorical Imperative]」という題を付けられている。(オンライン文化の自己言及的複雑性を学んだことのない遠い未来の学者たちが、このシンプルな平叙文の意味を理解しようとするところを、私はとても見てみたい。) 私が注目しているジェーンの無題のエッセイでは、現代における理性崩壊の異なる面に着目している - 現代リベラル派の想像力の中で、抗議デモが、政治活動の戦略から暗黙の政治的終末論を前提とする魔術的行動へと変貌したことである。

ジェーンの分析は辛辣である。彼女の指摘によれば、マーティン・ルーサー・キング Jr. およびその他の公民権運動のリーダーたちは、実際的な理由により自身の取る戦略を選択したのであるが、けれども、1960年代以降の企業リベラリズムは、キング牧師の遺産を可能な限り無害化しながらも世俗的聖人として受け入れるために、隠された終末論の用語から抗議デモを再定義したのだという。それによると、「真実を権力者に語る」という単なる事実により、魔法のごとく真理が遍く広がり、権力が真理に従うことを保証するとされる。ジェーンはこのように説明している:

「そして、これが現代リベラル政治が受け継いだものである - 正しくあることは勝利することよりも重要であるという信念である。なぜなら、誰かが、最高裁判所かもしれないし神かもしれないが、ペナルティ・フラッグを投げ入れ、すべてが正されるであろうから。民主党はもはや選挙に勝とうとはしていない。彼らは、何らかの審査で、自分たちが勝利すべきであり、自分たちは正しいということを示す論拠を構築しようとしている。そうすれば、何らかの審判員が審査を行なったとき、彼らに報いてくれるだろうというのである。しかし、このアプローチの起源を述べておく必要があるだろう。白人リベラルのエスタブリッシュメントは、大衆の関与を否定する公民権運動についての物語を作り、 (なぜなら革命的ポピュリズムは危険であるが、しかし公民権の獲得を支持すると主張しながらも、一方で、あらゆる公民権運動のリーダーおよびそのような獲得をもたらした手段を批判することがどうしてできようか?) その後即座に自身が作ったフィクションと恋に落ちたのだ。彼らは、相互にまた我々に対して、何度も何度も、MLKが勝利したのは彼が正しく、彼が正義であったからだと語ったのである。そして彼らはあまりにそのフィクションを語りすぎたために、自分自身でもそれを信じるようになったのだ。」

私はこの説明に1つ異議がある。それは、ペナルティ・フラッグを投げ入れると想定されているのは、最高裁でも神でもないといことだ。社会変革の提唱者たちが取る態度は、使い古された「権力者に真実を話す」というフレーズを下支えするロジックを考え通してみれば完璧に理解できるだろう。そのフレーズは、典型的には、今日、抗議デモが路上にくり出すときには常に使われるものだ。中世においては、「権力者に真実を話す」のは、宮廷道化師の役割であった。道化師たちは、他の誰もが口にできないようなことを言うことにより、主人を楽しませるのである。そんなことが道化師に可能であるのは、逆に、宮廷にいる誰もが、実のところ、道化師は重要人物にとっての脅威でないということを理解していたからである; 道化師はふざけて、杖の先についたベルを振り、宮廷の同輩らからは嘲笑されると思いもしなかった罪や欠点を言い立てて、主人たちを楽しませる。道化師の主人は、権力を固く保持しており、笑って拍手し、公の場での自身の侮辱を許す寛大さを示すのである。つまり、道化師の役割は、まさに最近、ダボススウェーデン人のティーン活動家、グレタ・トゥーンベリに与えられたものとまったく同等である。

「権力者に真実を話す」というファッショナブルなお喋りの問題は、言い換えれば、そのフレーズが2つの自己敗北的な仮定を含んでいることである。1つ目は、ただ自分たち抗議者のみが真実を所持しているという仮定である; 2つ目は、彼らが語る対象の人々だけが権力を持っているということである。成功した社会変革運動は、逆に、自分たちは真実の一部しか持っていないことを常に心に止めている; これにより彼らは融通が効くようになり、自分たちが変えようとしている状況に対する新しい捉え方ヘと自身を適合させられる。また、異なる信念を持っているかもしれないが潜在的には相互支援し同盟を結びうる別の集団と、共通の基盤を見いだすことにもオープンでいられる。また、成功した社会運動は、自身が既に持つ権力に常に注意を払い、社会に対して最大限の影響力を行使するためにその権力を活用するのである。この2つのアプローチを放棄した場合は、今日の左翼活動家の典型的な状況に陥るであろう。つまり、自分自身の完璧な善と徳を完全に確信して、また権力のある他人が何かを与えてくれるさえすれば望みのものが手に入ると確信し、それゆえに権力者のテーブルで何らかのおこぼれにあずかろうと望み、独りよがりのかんしゃくを起こすだけに陥った人々である。

けれども、それは、ここ数十年の間誰も興味を持っていないように見える考察であった。まったく逆に、最近、抗議デモは大きな成果を上げることに失敗していると議論しようとするたびに、私は、アラン・ジェイコブズが友人から受けたのと同じ反応に晒されるのであった。つまり、「その解決策はうまく行かない。」と言うことは「その問題はリアルではない」と意味するのではないと理解できない人々からの反応である。あるいは、この件に関して言えば、実際には他人種の人々に偏見を抱いていない人々に向かって「レイシスト!」と叫ぶことは、その人たちに話を聞いてもらうために有効な方法ではなく、まして自分の支持する候補に投票させるための効率的な方法ではないと指摘したときに受ける反応であった。そのような奇妙な近視眼的イマジネーション、およびそれを不可視とする自傷的な敗北は、我々の社会においては比較的新しい現象である。けれども、それらは歴史上のさまざまな事象で不気味な反響を響かせている。次の記事では、三番目に偶然眼にしたエッセイの助けを借りて、より深く迷宮へと潜ろう。

翻訳:選ばれし者の墜落 (ジョン・マイケル・グリア)

ジョン・マイケル・グリアによる2019年9月4日の記事 "The Fall of the Chosen Ones" の翻訳です。

The Fall of the Chosen Ones

もう長いこと、私は現代の危機と将来の最初の胎動に関する洞察をどこで得られるのか予測しようとすることを止めてしまった。私はたくさんのニュースとたくさんのブログを読み、それらは旧来の右派と左派のカテゴリがせいぜい暫定的なカタマリでしかないような非ユークリッド的な光景をカバーしているのだが、それほど頻繁ではないものの別の情報源からのデータが私の思考を促し、その中の一つが毎週のエッセイとなることもある。今回の場合、それは私の小説についてのレビュー、またDreamwidthブログ上でそのレビューについて語った時に受けた反応であった。

ほとんどの読者はお気づきだろうと思うが、私が執筆するものには多少のフィクション作品が含まれている。そちら側での私の最新作は、H.P.ラブクラフトクトゥルフ神話のまったく新しい解釈で、巨大な廃墟とそこでの触手的恐怖を描くものだ。それらの小説は結構な数のレビューを受けたが、ほとんどが好意的なものだった。私が驚いたのは、けれども、そのシリーズの第四作へのレビュー中のディテールである: レビュアーは、その本の主人公が単なる普通の人物であることにたいそう驚いたのだ。

当然、レビュアーはとても正しい。『ウィアード・オブ・ハリ: ドリームランド』の主人公は、末期癌と闘病するマサチューセッツ州の小さな大学に勤める年老いた教授である。彼女は超人的パワーを持たず、神秘的な出自もなく、偉大な運命もなく、伸縮性のスーツとマントも着ていない。ただ強い好奇心と頑固な性格を持つだけである。これらの性格およびまったくの偶然の結果により、彼女はラブクラフトが "夢の地" と呼んだ奇妙な存在次元での冒険に突き落されることになる。その結果 - まぁ、私は皆と同じようにネタバレを嫌っている。この辺りで終わりにしておこう。

彼女は、そのような平凡さの唯一の事例ではない。私の小説と短編のほぼ全ての主人公は、特異な状況に相対した普通の人々である。普通の人間から少しだけ逸れた能力を持つ唯一のリードキャラクター - 『ウィアード・オブ・ハリ: キングスポート』の主人公ジェミー・パリッシュは、他の点ではごく普通の若い女性であり、最も特筆すべき点は、読書好きの性格と並外れて不器量な顔立ちである。その他は? 何らかの形で変わった人もいる。ちょうど、我々の多くがそうであるように; いかなる想像可能な意味においても、 模範人物 パラゴン ではない。登場人物たちは、私や読者と同じような人々であり、ファンタジー的な冒険の完全に予想外の出来事に対処するための彼らの闘いは、物語のエンターテインメント的な価値の多くを提供する。

そのため、ミリアム・エイクリーが普通の人物であることにレビュアーが気づいたことは、私にとって驚きではなかった。私が驚いたのは、彼がこれに驚いたということだ。私はそのことについて熟考し、私が読んだ最近のファンタジー小説 (あるいは、むしろ最近多いのは、読み始めて退屈し、積んでいるもの) を考えて、そしてそれをDreamwidthブログで取り上げた。そこでは、他のテーマと合わせて、このブログに書くまでには準備できていない雑多なテーマについての断章を投稿しているのだが - 私は意外な点に気がついた。

どうやらここ数十年ほどの間 - まったく別の理由で、ファンタジーとSFの最新作品のほとんどに私が退屈してしまった時から - それらのジャンルは、同一の基本的なストーリーをエンドレスに語り直すことを吐き気を催す程度にまで詰め込んでいる。既にそのストーリーはご存じであろう、読者諸君、たとえファンタジーSF小説の表紙を一度も開いたことが無かったとしても。それは、"選ばれし者" の物語である: 勇敢で、 不当に扱われた子供もしくは若者であり、他の誰よりも才能があり、輝かしく偉大な運命に特徴づけられている。もしかしたら、おでこには雷の形をした傷があるかもしれない。もしかすると、血管のなかには多数のマイクロハンドワヴィアンが流れているかもしれない。もしかすると - まぁ、読者自身でこの空白を埋められるだろう。

ところで、当のキャラクターは、我々が今議論しているような役割を割り当てられるために、何かをしたり学んだりする必要はない。ノー、選ばれし者が選ばれし者であるのは、彼または彼女または 「お好きな代名詞を記入」が、選ばれし者であるからだ。それが理由であり、そしてまたあまりに多くの場合、プロット全体である特定のキャラクターの周囲を宇宙全体が転回する理由である。更には、選ばれし者は常に特別である。彼または彼女またはその他何であれ、プロットの中心となる何かしらの問題を解決できる唯一の存在であるという形で、何かしら痛ましいほどの特別な点の特別な特別性により他の人類全体からは常に区別されており、純粋で無目的な悪意より生み出した問題を起こす、何らかの邪悪なる邪悪性の邪悪卿を蒸発させるのである。(それはまた別の、今日のファンタジーの中心にあまりにありふれた神経症的けいれんである。しかし、それはまた別の議論のテーマである。)

そのような物語のすべてが、この要約から受ける印象通り退屈であるわけではない。私はハリー・ポッターのファンではないが - 魔法使いの少年とその友人たちの物語は、最初の数巻を通してほとんど私の興味を引くことがなく、第四巻で私は完全に興味を失ってしまった - しかし、それが選ばれし者の物語であることは確かだ。初期の本のハリー少年は他のほとんどのファンタジー小説よりも少しだけ興味深いのだが、その理由の大部分は、彼と同世代の子供が一般的に行うであろうおバカな行動を取ることについて、エンターテインメント的な余地が残されているからだ。選ばれし者についての物語で、それよりもはるかに、はるかに退屈なものは多数ある。はなはだしい形では、実質的に、選ばれし者を回転する台座の上に据え付けて、さまざまな角度からあらゆるご立派な性質を顕示できるようにすることで構成される物語も存在する - 最近では、そのようなものは極めてありふれている。

誤解される可能性のある点を、すぐに解消しておかなければならないだろう。このような物語は、人々がお話を語り初めた時以来存在してきたということである。アーサー王伝説の、過熟した後期のガラハッド卿は偉大な事例である。キリスト教神秘主義者は彼を愛しているが、それ以外の誰も彼に耐えられないだろう。なぜなら、ガラハッド卿は選ばれし者であり、何も間違ったことをできないからだ; 聖杯を発見するために旅に出て、予め定められた一連の冒険を乗り越え、そして、とてつもない神聖さという悪臭のなかで即座に死に、天国へと向かう。アーサー王伝説の他の騎士や女性たちはそれよりはるかに普通であり、それゆえにもっと興味深いので、誰もアーサー王伝説を問題視しないのだ。

更に言えば、英語の小説を発明した男 - サミュエル・リチャードソン - は、更にひどい同種の事例である。彼の最初の2つの物語、『パミラ』と『クラリッサ』は、嫌がるヒロインを熱心に追い求める、好色な悪漢が登場するロマンス小説であった。(イエス、その通りである。初の英語小説は官能エロ小説であったのだ。) 彼の3番目の作品、『サー・チャールズ・グランディソン』にも、嫌がるヒロインと好色な悪漢が登場するのだが、しかし他のメインキャラクターも存在する。それが前述のチャールズ卿で、カタブツの道徳的な模範人物なのであった。たとえば、ヒロインをめぐって彼と悪漢が決闘をしようとする際、何が起こったと思うだろう? いやはや、チャールズ卿は、決闘の邪悪さについて悪漢に教えを垂れるのだ。案の定、悪漢は彼のもったいぶったウンチクの誇示に感銘を受け、その場で決闘を放棄するのである。話は更にひどいことになるのだが、しかし読者のなかには最近そのような物語を見たことがあるかもしれないので、ここではこの先は言わないでおこう。

ここで心に留めておくべきことは、当時、リチャードソンは唯一の事例ではなかったということだ。彼の小説は、最初の優れた英語小説家、ヘンリー・フィールディングをインスパイアし、彼にペンを執らせ、一連の反作用を解き放った; 最初は、『パメラ』に対する友好的なパロディである『シャミラ』; そして、『ジョセフ・アンドリューズ』、リチャードソンの最初の2つの小説の基本的なプロットを採用し、性別を入れ替えることで『シャミラ』を更に改善した作品、つまり、無垢な若者のジョセフが、欲深い高貴な夫人に求愛され、何度も滑稽な逃避行をするのである; そして、一般的に英語小説の最初の傑作とみなされている『トム・ジョーンズ』は、若く、温和で、必ずしも純粋ではない若者が、最終的に幸福と真実の愛を得るまで、冒険から冒険へ、ベッドからベッドへと渡り歩く (さまざまな意味で) 途方もない物語である。

その後の英語文学史は、少数のチャールズ・グランディソン卿と大多数のトム・ジョーンズにより特徴づけられる - つまりは、完璧さのパラゴンであるごく少数のキャラクターであり、それゆえに驚くべきほどにつまらない者たち、他方では、膨大な数のもっとありふれたキャラクターで、はるかに面白い生涯を送る者たちである。1895年、ウィリアム・モリスが突然に『The Wood Beyond The World』でファンタジー小説を発明したときにも、同様の基本的分断が適用された。モリスは、自身の想像上の世界の中心に位置する、普通の、実在を信じられるような、脆弱なキャラクターを作ることにかけては天才であった。『The Wood Beyond The World』の主人公は、たとえば、ワルターという名の若い商人であり、破滅的に破綻した結婚から逃げて、次の船に乗る; そして、冒険が続く。彼は、とてつもない物語となった、普通の状況にいる普通の男である。

モリスの次の小説、『The Well at the World’s End』 - トールキンの時代まではファンタジー小説の最高傑作であり、今でもこのジャンルの代表作の一つ - にはラルフという名の主人公が存在する。彼は、その名前と同じ程度に平凡である; 彼は若く、いくぶんバカであり、実際のところ、そのきわめて複雑な小説の多数のテーマには、無知な若者が偉大なことを成し遂げるプロセスも含まれている。疑問に感じている読者諸君のために、イエス、モリスの小説には女性キャラクターも存在する。彼女たちは、トールキンのほとんどの小説とは異なり、単なるお飾りではない。『The Well at the World’s End』の女性リードキャラクター、ウルスラは、独自の長い旅をして、半分以上の冒険の責任を担う; 『The Water of the Wondrous Isles』のヒロイン、バーダローンは、身の毛もよだつような子供時代を経て、今日の"目覚めた"ファンタジー小説のヒロインが恥じるほどに強くタフな女性となる - そして、どのようなわけか、モリスは、自身のキャラクターに何らの生まれつきの特別な力や輝かしい運命を授けることもなく、これらすべてを実現したのだ。

私はトールキンと [指輪物語の主人公] ビルボ・バギンズについて語る必要があるだろうか? おそらく彼は、(毛むくじゃらの脚その他を除けば) おそらく、あらゆる文学の中でとは言えないまでもあらゆるファンタジー小説の中で最も困惑するほどに平凡な登場人物であろう。ノー、ビルボその他の数え切れないほどの完璧に平凡なキャラクターが、ファンタジー小説の中で完璧に驚愕の冒険に遭遇する事例はスキップしよう。そして、私が議論したいと思っている変化の直前にまで進もう。イエス、それは1977年となるだろう。ルーク・スカイウォーカーの名を突然に誰もが知るようになったときである。オリジナルのスターウォーズ映画では、後の後付け設定を除けば、スカイウォーカーはたまたま面白い父を持っただけの未熟で無知な農民の子供であり、たまたま宇宙から適切な2体のドロイドが孤立した砂漠の星であるタイトゥーンに墜落した際、適切な時期に適切な場所に居たからという理由により、彼は壮大な冒険に出発するのである。ルークは特別ではない。- 実際のところ、映画の大半で、彼は絶望的に力を欠いている - それによりルークは危機、愛、悲しみの長い旅路を経て、そして古代の叡智と遭遇し、ふさわしい瞬間にふさわしい行動を取れるようになるまでに至り、大切に思う人々と正義を守るのである。

1977年には、ルーク・スカイウォーカーは "ふつうの子供" であったのだ。(だから、私は最初にスターウォーズが劇場公開されたとき、シアトルのダウンタウンにあるUA150シネマで、7回もその映画を見たのである; 最前席に座っていると、帝国の宇宙船が轟音を上げながら頭上を飛ぶオープニングシーンは、その強烈さにおいてほとんど幻想的であった。) ビルボ・バギンズ、そして彼の甥であるフロドもそうであった。当時私が貪るように読んでいたファンタジーSF小説の、他何百というヒーローとヒロインもそうであった: エドガー・パングボーンの、その主人公の名を冠した小説『デイヴィー』は、明らかに、トム・ジョーンズの遠い子孫であった; マイケル・ムアコックの『エターナル・チャンピオン』シリーズの最高傑作である、紅衣の公子コルム; アン・マカフリーの『竜の歌』のメノリー、アンドレノートンの何十もの小説のすべてのキャラクター、そして、他にもたくさん、たくさんある。ジャンルを越えて、私が最後に定期的に視たTVドラマ、『燃えよ! カンフー』のクワイ・チャン・ケインも、ヘルマン・ヘッセの幻想的な傑作、『デミアン』のエミール・シンクレールもそうである。何らかの形で特別であるキャラクターたちでさえ - フランク・ハーバートの『デューン』のポール・アトリーズが良い例だろう - 完璧とはほど遠く、努力する必要があり、自身の運命の挑戦に立ち向かうためにずっと戦わなければならなかった。

そして、2017年の『最後のジェダイ』の主人公であるレイがいる。レイは "ふつうの子供" のアンチテーゼである。彼女は特別に特別である。レイは、文字通り、誤ちを犯したり何かの挑戦に失敗することができない。言わば、彼女は性別を変えてライトセーバーを持ったチャールズ・グランディソン卿なのだ。そして彼女のあらゆる言動は、18世紀の同等者と同じように、驚くほど退屈である。最後のジェダイが、スターウォーズシリーズのかつてのファンの大多数から冷たい反応を受けた理由は、他にもたくさんある - その愚かしさについての徹底的な批判は、SF作家であるジョン・C・ライトのレビューで読めるだろう - しかし、そのまったくの退屈さは、無敵のキャラクターが力を発揮できるように作られた、形ばかりの危機への対応を眺めることから生じている。

レイは極端なケースではあるが、しかし唯一の事例ではない。もはやクリエイティブであることを止めたハリウッドスタジオの神経症的チックとなった、古いマンガ本の終わりなき再演を考えてみてほしい。部分的には、もちろん、ベビーブーマー世代は老化への道を順調に辿っており、子供時代の情熱を思い出すことは、老人がしばしば行うことであるからだ。部分的には、また、あらゆる他の芸術形式と同じく、映画にも探索し消費するためのある種の概念的空間が存在するのだが、その空間は20世紀の終わりに使い果たされてしまったからだ。半世紀程度の間に、映画が通常通りのサイクルを辿ると、新作映画は現在のグランドオペラの新作と同じ程度にまれなものとなるだろう。そして、映画は今日のクラシック音楽と同じように、古典作品を再演し鑑賞することで生き延びていくだろう。その間には、文化的な死体愛趣味 ネクロフィリア は、死に向かう文化形式の、通常最後の抵抗なのである。

しかし、スーパーヒーローとスーパーデューパーヒーローの終わりなき退屈なパレードは、最後のジェダイと同じ退屈なニッチを満たしてもいる。スーパーヒーローは特別である; それが彼らの唯一の存在意義である。数少ない例外 - バットマングリーンアローは、その代表である - は、恐しい経験と狂信的な自己規律を通して特別な存在となった、相対的に普通の人間である。(おそらく、読者にとっては驚きではないだろうが、この二人を取り上げた作品は、私が子供であったころ最も熱心に読んだマンガ本である。) ほとんどのヒーローは、けれども、特別であるがゆえに特別なのであり、良い物語の第一の要求事項を満たすため、そして、見る人に何が起こるか関心を持つ理由を与えるため、冒険は [スーパーマンの弱点] クリプトナイト的な仕掛けの終わりなきパレードを作る必要がある。

まだまだ長く続けることもできるだろうが、しかしポイントは明らかになったと信じている。異常な状況に投げ込まれた普通のキャラクターは、かつて空想的な文学および他メディアにおける同等物の主原料であったのだが、過去数十年の膨大な量のストーリーテリングは、強迫的に、特別な存在に固定されている。そのような立場に達するために何かをしたからではなく、単に、彼らが特別であるというだけで。彼らは他の人よりも優れており、また他の人よりも優れているからという理由で、何かしらの偉大で輝かしい運命が約束されており、通常、それはただ彼らだけが世界に何が起こるかを決められるということを意味する。

それでは、このような強迫観念の政治的な含意についてしばし考えてみよう。

ルーク・スカイウォーカーが一世代をインスパイアした理由は、まさに彼がふつうの子供であるということだった。最初のスター・ウォーズ映画を宝物のように思ったティーンエイジャーは、何も私だけではないだろう。なぜならば、その映画は、我々も自身にとってのタイトゥーンに永遠に閉じ込められているわけではないと我々に語りかけていたからだ。我々がまったく特別な存在ではないということは何も問題ではない、なぜならば、ルーク・スカイウォーカーもそうだったのだから。彼は、我々に立ち塞がる困難に向き合って立ち上がることを教え、フォースの何らかのメタフォリカルな等価物の使い方を学び、何らかの重大な問題について適切な時に適切な場所に居合わせたいと望ませたのである。

けれども、それはレイ、およびエンドレスに繰り返される彼女の同等者たちが教えることではない。そのようなキャラクターたちが教えるのは、特別で、重要で、偉大になるべく運命付けられたある種の人々が存在しており、それは彼らが何かを成したからでも学んだからでも何かに打ち勝ったからでもなく、純粋に何者であるかのみによるのである。そのような人々だけが意義があるのであり、もしあなたがそのような特別な人々の一人でないのであれば、あなたは重要ではなく、この先に何が起こるかを定めることについて、いかなる役割をも持つことは期待できない。あなたはフォースの使い方を学ぶこともできないし、何かしら重要なことを成すこともできない - それは特別な人々の役割であり、あなたではない。あなたにできることは、厳格に区別された2つの選択肢を選ぶことだけである。受動的に傍観し、特別な人々を賞賛し、その特別性を称え、彼らが世界を救うための行動を取るあいだ、言われた通りのことをするのみである。さもなければ、特別な人々の前に立ち塞がることもできるが、その場合はあなたは邪悪な存在となり、無力化されるであろう。

参考までに言えば、これが意図的なプロパガンダであるとは私は考えていない - そうだとすれば、あまりにバカバカしいまでに露骨すぎる。そして、それは巨大な規模での金の無駄遣いでもある。結局のところ、さまざまな種類の大量の宣伝をされたドブに何億ドルものお金を注ぎ込んでいるのは、何もハリウッドだけではない。ニューヨークの大出版社は、ニュージャージーの工業地区に次々と倉庫を借りて、何百万という売れ残りの小説を保管しなければならない。それらの本は、ベストセラーとなるはずで、マディソン・アベニューの広告代理業者が知るあらゆるトリックを使って宣伝されたのだが、巨大な失敗となったのである。それは皆が書店で数ページをめくるかオンラインでサンプルをクリックして、それ以外の何か別のより退屈ではないものを購入したからである。もしも意図的なプロパガンダキャンペーンを打ち、それが働かないと分かったら、アプローチを変える必要がある; 読者や観客を離れさせる原因となったあらゆる失敗の特徴を、次のプロジェクトで"倍賭け"するべきではない。

ノー、我々が眼にしているのは、工業諸国の管理カーストイデオロギーの産物であると私は考えている。つまり、どのような小説が巨大出版社に取り上げられるのか、どのような脚本がハリウッド映画となるかなどを決めることにより、莫大な額の給料を稼ぐ人々である。より正確に言うなら、我々が眼にしているのは、そのようなイデオロギーの極端な形であり、ある種の信念体系の擁護者が最終防衛線へと追い落とされる時に見られるものである。最後のジェダイのプロデューサーたちは、ルーク・スカイウォーカーを特別さの欠如したキャラクターとして侮辱する必要はなかったし、あれほどまでに崇拝される石膏の聖者としてレイを描く必要もなかったのだ; 彼らがそのようなことをしたという事実は、もはや彼らが何も失うものが残っていないと認識していることを示している。

我々の誰もが、2016年の選挙で誰が選ばれし者となるはずであったかを知っているだろうと思う。そして、彼女が負けたことも。感嘆して傍観し、合図に合わせて拍手し、善人を自称する人々が決めて未来に従い、言われた通りのことをするだけのはずであったあまりに多くの普通の人々は、その選ばれし者が、人々から嫌悪されているにもかかわらず腐敗した傲慢な職業政治家の一派により選ばれたことに気付いたのだ。その人たちは投票日に家に留まったか、現代のうちで最も困惑するほどに普通の大統領候補者に票を投じたのである。それ以降、新しい選ばれし者を発見するための狂乱した試みは、せいぜいが雑多な結果を生んだに過ぎない - 私が思うに、現在のメディアの寵児、グレタ・トゥーンベリに対して注がれる熱狂的な称賛の理由の一つとして、彼女のストーリーが、少なくとも、輝かしく資金力のある広報キャンペーンマネージャーに操作された彼女のストーリーが、我々の議論してきた特別なキャラクターのステレオタイプ化された起源物語に非常によく似ているからではないか。

これがどのように進んでいくのかを確認するためには、今後数年間にわたって観察する必要があるだろう。推測はあるが、しかし推測は推測でしかない。いずれにせよ、けれども、自称選ばれし者の期限が間近に迫っていることは、かなり明らかであると思う。その後、スカイウォーカー風の時代が始まるかもしれない。いずれにせよ、親愛なる読者諸君、もしも何らかの特別な存在が、あなたのために世界を修正するのを待つ必要があると考えているならば、そのような考えをどこから得たのかを自問することは良いアイデアであるかもしれない - また、普段は読んだり観たりしないものを見つけて、あなたや私と同じくらい普通の人々が、本当に困難に立ち向かい、行動を起こし、ものごとを変えることができるのだと気づいてほしい。

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翻訳:管理社会の夢 (ジョン・マイケル・グリア)

ジョン・マイケル・グリアによる2019年8月21日の記事 "The Dream of a Managed Society" の翻訳です。

The Dream of a Managed Society

2週間前のこのブログのエッセイ、工業諸国のエリートたちは「エコファシズム」のお喋りを都合の良い口実として利用し、環境保護主義から撤退を始めていると指摘した記事は、私が予想していた通り、活発な反応を生んだ。公平に言えば、ある程度のノイズも存在しており、企業メディアによる流行の物語に対する不同意を止めるようにという一定の憤慨した要求も存在した; ここで私は特に、見たところ3人の別々の人間が書いたと思われる3件のコメントについて考えているのだが、メディアの寵児、グレタ・トゥーンベリへの熱狂的な敬意が不足していることを、区別できない言葉遣いと区別できない親密なお叱り口調で非難するものであった。[左派オンラインメディア] シェアブルーおよびその類似の 荒らし トロール サイト に馴染んでいる人々は、問題のコメントが即座にゴミ箱送りにならなかったとすれば、そのスタイルを即座に認識できただろうと思う。

幸運なことに、ほとんどの反応は、別の誰かのお決まりの論点を繰り返すだけではない人々から来ており、一部には重要な課題を提起したものもあった。その中でも特に優れた質問は、このブログの定期的なコメンターから発せられたものだが - Mogさんに感謝 - 彼は、他人の金を最後の一銭まで巻きあげるための言い訳として、エリートが人為的な気候変動を受け入れた理由は、炭素排出量削減のための手法が、ほぼ常に炭素クレジットやその他類似のマーケットの設立を伴うことと大きな関係があるのではないかと指摘したのである。ちょうど、今日取引されている投機資金とまったく同じ方法で。

それは正しい指摘である。今日のグローバル経済は、"幻想のファイナンス" とでも呼ぶことが最も適切であるような、広大な上部構造に支配されている。そこでは、現実世界の商品やサービスとほどんど繋がりのない投資資金が、恣意的な価値を割り当てられ、世界規模のマーケットで熱心に取引されている。そのような上部構造を支えるためには、定常的にリアルな富のフロー - 上部構造におけるガルガンチュア級の莫大な名目上の価値に比較すればささやかであるが、人間の観点からは決して少なくはない量の富 - を加えることが必要となる。つい最近まで、そのほとんどは、自称「グローバル経済」とリンクしたさまざまなギミックを通して、工業諸国の実体経済から引き出されたものであった。沿岸部の裕福な少数の飛び地の外側にあるアメリカの市や町でメインストリートを歩いてみれば、その結果を簡単に眼にすることができるだろう。

当初は成功していたものの、この戦略には深刻な欠陥がある。その中にはポピュリスト運動の勃興もある - トランプとブレグジットを考えてみてほしい - それは、ゴジラ長者とその取り巻き連中の私利のためにメインストリートから資金を引き出すことを阻止する狙いがあったのだ。(エコノミストのモハメド・エル=エリアンの最近のビデオは、ついうっかりこの秘密について口を滑らせてしまっている。トランプ政権の政策は、アメリカの実体経済からの富の「流出」を劇的に減少させることにより、グローバリゼーションのメカニズム全体を逆転させていると述べている。これは、企業メディアがいつもトランプを悪魔化している理由の説明になるだろうか? 教えてほしい。)

炭素税、そしてその結果としての炭素クレジットは、それゆえ、既に過剰なまでに締め上げられたメインストリートから、異なる口実を用いて更なる血液を絞り出し、ゲームをもう少しだけ長く続けようとする試みであると見なせる。エリートたちが自分のカーボンフットプリント削減に何の関心も持っていないことは、このコンテキストでは完璧に理解できる。このギミックのすべての目的は、超特権階級の人間にお好みの不道徳な浪費的ライフスタイルを維持する手段を、少なくとももうしばらくの間与えることだからだ。これが、超富裕層の人々が、他の環境問題ではまったく見られないほどに人為的な地球温暖化への懸念を見せびらかす理由を説明するというMogさんの指摘は、極めて正しいのではないかと思う。

同一の旗印の下にいる主流派の知識人も、間違いなく、同じ言い訳を使い回している。知識人階級が存在する限り、そのメンバーのかなりの数の人が、金持ちが聞きたいことが何であれ、それをオウムのように繰り返すことが、生計を立てる確実な方法であると理解するようになる。この種のオウムの歌は、強制されることもある; あまりに多くの分野のあまりに多くの科学者たちから、研究助成金を獲得するために、地球温暖化 物語 ナラティブ を強化するような売り文句を使って助成機関へプロジェクトを売り込まなければならないということを私は聞いた。 (イエス、人為的な気候変動は現実である; イエス、その現実はさまざまな操作的な政治ゲームの口実に使用されている。この2つの考えを頭の中で両立させられる人が、どうしてこれほどまでに少ないのか私には分からない。)

そうとは言え、ここにはそれ以上があると思う。ここで私が考えているのは、ワシントン州民主党が、上手く設計された炭素税 法案 イニシアチブ を廃案に追い込んだことである。2週間前の記事で議論した通り、イニシアチブが、ソーシャルエンジニアリング目的の巨大な 秘密政治資金 スラッシュファンド を州政府に提供するのではなく、レベニューニュートラルなものとして設計されていたからだ。また私はローマクラブの報告書が、最近ではまったく言及されないということについて考えている。それも2週間前に議論した - つまり、グローバル経済を非選挙の専門家集団の手に引き渡しさえすれば、成長の限界は問題ではなくなるだろうと主張する人々である。ここでもっと一般的に私が考えていることは、ある種のハイブロウなポップカルチャーのなかに蔓延するテーマの一つ、グローバルマネジメントという考え方で、世界は受動的なオブジェクト であり、人類 (あるいはむしろ、結果的に、我々の種族のうちの特定の選ばれしメンバー) がコントロールすべきであるというものだ。

そして、このすべては、もちろん、ピレウスの港町からアテネへ至る道での出会いへと戻っていく。それは、奴隷の少年が2人の男に駆け寄り、待つようにお願いをすることから始まる。

それがプラトンの偉大な哲学的対話編、『国家』のオープニングシーンである。それは優れた作品であり、哲学的かつ文学的な傑作である。また、それはどのような思想的、芸術的伝統の始まりにも存在する新鮮さに満ちている。偉大なる精神が、ある一連の問題に対して、記録のある歴史上初めて取り組んだ時である。それを読むことは、熟練の鍛冶屋が、白熱した金属を叩き永続的な形を作っている金床のそばに立っているようなものだ。

プラトンが生きていた時代は、ギリシア哲学が根本的な変化を遂げようとしていた時であった。そこでは、思想的な伝統全体のフォーカスが、自然についての思弁から、人間が認識しうることと人間がなすべきことについての探求へと変化していった。(現代西洋科学も、過去1世紀ばかり同様の変化を必死で回避しようとしている。それが、ニール・ドグラース・タイソンその他の組織科学のチアリーダーたちが、哲学をこれほどの毒物として非難している理由である。) プラトンの『国家』はそのような劇的な変化のエッセンシャルな部分であった。人間の知識の本質についての重要な疑問から始まる正義という概念の探求から初まり、そこから人類史におけるおそらく最初のユートピア社会の構想へと進む。

思想史においてプラトンを重大な存在としている1つの特徴は、後世の思想家にとって、プラトンの失敗は彼の成功よりも有用であったことである。『国家』は、この好例である。なぜならば、それが依拠する仮定は、絶望的なまでの誤りであると判明したからだ。『国家』中のあらゆる問題点を分析することに費した文献もあり、フォローアップしたい読者は、この分野の古典の1つであるカール・ポパーの『開かれた社会とその敵』から始めるのも悪くないかもしれない。ここでは、けれども、私は焦点を絞って、ある特定の問題とその帰結について語りたい。

非常に多くのユートピア論者と同じく、プラトンは、人間の本性についての特定の見方にもとづいて自身の理想社会を構築した。それはとりたててバラ色の見方ではないのだが - プラトンはその落とし穴を避けている - しかし、そこには微妙ではあるものの致命的な欠陥があった。プラトンのモデルでは、人間の本性を3つの基本的な部分に分割している。1つ目は、動物的な欲求の集まり、ギリシア語では 情欲 エピテュメーテース で、食物や性やその他の生物的な欲望を指し、プラトンはそれを腹部と対応づけた。2つ目は、英語には適切な集合名詞がないような人格的要素を表すもので - ギリシア語では 気概 テューモス という - 誇り、積極性、名誉や自尊心を指す。プラトンは、これを胸部と対応させた。最後に、ギリシア語では ヌース と呼ばれる理性的な部分があり、知識や理解を求める部分である。これは頭部に対応する。

プラトンにとっては、当時と後世の他の知識人と同じく、この3つの部分には厳格な階層 ヒエラルキー が存在した。エピテュメーテースは最下層に位置し、テューモスがその上にあり、ヌースが最上部に位置する。理想の共和国を作るためにプラトン - および、後世の他多数の人々 - が行なったことは、 この3つの部分を社会のヒエラルキーに対応させることであった。エピテュメーテースに対応するのは労働[奴隷]階級であった; テューモスに対応するのは軍人階級であり、社会秩序の維持および国家内外の敵からの防衛という職務を持つ武装した戦士たちであった; ヌースに対応するのは、もちろん、哲人王のエリート階級であり、統治カーストの役割を果たすために全的な教育を受けた人々である。

それは極めて広く行きわたった概念である。人類の思想史に対するプラトンインパクトが、誇張することが不可能なほどに巨大だからという理由だけではない - もしも読者が西洋かイスラム社会で育った人であれば、読者諸君、あなたが何かを考えるたびに、プラトンが発明した概念やカテゴリを使用しているのである。また、それが非常に人気のある概念である別の理由としては、きわめて多くの知識人階級の人間が、プラトンの言う哲人王の役割に魅了されたことが挙げられる。防衛者のカーストに賢明な命令を下し、大衆はその命令に疑念を持つことなく従うのである。人気のある説であることは確かだが、これはプラトンのまずいアイデアの中でも最大の欠陥である。我々がそれを知っているのは、歴史のなかで何度も試され、その度に失敗してきたからである。

問題はきわめて単純である。プラトンが言う通り、あらゆる人間はエピテュメーテース、テューモス、ヌースの3つの部分から構成されると仮定しよう。そうであるならば、ある1つの社会階級に対して、これらの1つの役割を割り当てる方法はうまく働かないだろう。なぜならば、あらゆる人間はこの3つを備えているからだ。ちょうど、あらゆる人が頭と胸と腹を持っているのと同じように。労働階級は単なるエピテュメーテースではない; 彼らも独自のテューモス - 誇り、自尊心と暴力への能力 - を備えており、また独自のヌース - 思考する能力を、特に、哲人王が発する法律が、本当に賢明な命令であるのか、それとも単なる自己利害を取りつくろっただけの言葉であるのかを考える能力がある。

重要なことは、プラトンのトーテムポールの逆側の端でも、同じことが成り立つということだ。哲人王は、単に真理を熟慮するだけのヌースの泡ではない。プラトンは、彼らにそのような振るまいをさせるための手法を示している - 基本的には、支配階層の人々に哲学教育を施すことだ - そして、これは当初提案された際には興味深い仮説であったと言える。過去2300年以上にわたって、これほど徹底的にテストされてきた仮説を挙げることは難しい。けれども、評決はこうだ: それはうまく行かない。

ある社会の将来の支配階級の人々にいかなる教育を施したとしても、なおもそのメンバーはエピテュメーテースとテューモスを持ち続けるだろう; 彼らは、他の人々と同じく動物的な情欲を持ち、また誇りと自尊心も持ち、自分のエゴが踏みにじられたときには暴力的に過剰反応する傾向もあるだろう。それが意味することは、逆に、彼らはプラトンが割り当てた役割を果たせないということだ。彼らは社会全体にとっての善のみを考える啓蒙的リーダーという賢明な階級となることはできない - ところが当然、テューモスの影響により、彼らは自分自身をそのように捉えるだろう。彼らが下す決断は、テューモスとエピテュメーテース、一方では名誉と賞賛への欲求、もう一方では身体的快楽と安楽への欲求により、常に少しだけ真理から歪められている。

そこで、エリート階級のメンバーたちは自分たちは賢く、正当で、善であると主張するだろうが、しかし彼らの行動は常に自己利害により形作られる。たとえそれが社会全体に対して害を与えるものであったとしても; また、管理者階級も存在する - それは防衛者たちが変化したものだ、もちろん - 彼ら自身も身体的な快楽と安楽への欲求を持ち、社会がいかに運営されるべきかという独自のアイデアを持っているという事実により、管理者階級の体制に対する忠誠心は、少なくとも、弱められてしまうか、非常に多くの場合損なわれてしまう。そして、完全に身体的な快楽だけを望むものとされている労働者階級が存在する。しかし、実際には、彼らにも高い集団的プライドと暴力に対する頑健な能力がある。また、エリート階級から課される政策、公共善のためとされる政策が、実際のところ、あらゆる人の犠牲のもとにエリートの私腹を肥やしエゴを満たすだけの別の機会に過ぎないのかを認識する完全な能力がある。もしこれが馴染み深く聞こえるならば、読者諸君、更に先に進む必要がある。

それが、プラトンを読む価値がある1つの理由である; もしもプラトンが言ったことを考え通し、また彼の疑わしい仮定に疑問を呈すれば、現在の世界についてたくさんのことが理解できるだろう。この場合、彼のロジックの含意は、社会にエリート階級が存在する際、実際に何が起こるのかをほぼ正確に表している。- そして、いかなるサイズの人間社会であれ、それを認めるか否かにかかわらず、エリート階級が存在する; 人間は社会性霊長類であり、他の社会性霊長類と同じく、社会的に、ほとんどの決断を下してほとんどの資源を得るインナーサークルと、それよりも限られたインプットしか持たず、わずかな利益しか得られないアウターサークルとに別れる。(階級が存在しないと主張する社会、たとえば厳格なコンセンサスにもとづいて運営されると主張する組織は、単に、公然のエリートではなく隠れたエリートが存在するにすぎない。)

教養ある管理スペシャリストのエリートが、システムに呪われた社会にとっての厄災となる理由は、逆に、スペシャリストが他のエリートたちよりも道徳的に劣っているからではない。そのようなエリート教育の特定のイデオロギーによって、自身の誤りを認識することが不可能になるからである。専門知識の神秘性に支配されていない普通の政治家であれば、最大の優先事項は、自身の選挙区民が望むことを見つけ出しその一部を与えることであると認識している。そうすれば、選挙民たちはほどほどに自分たちのリーダーに満足し消極的な支持を与えるだろう。そのような支持が無ければ、いかなる政府といえども権力を失う。専門的なスペシャリストたちは、多かれ少なかれ、互いの話を聞き、お気に入りのデータソースを見ることに忙しく、それらのソースからのデータと、それをもとにした専門家のコンセンサスの意見が現実世界から乖離してしまったとしても気付くことができない。

ヒラリー・クリントンの2016年の大統領選挙キャンペーンは、皮肉なことに、この種の失敗のこれ以上ない実例を提供する。キャンペーン後半の数ヶ月を通して、トランプは北中西部の激戦州に莫大なリソースを投入し結果的にそれが彼をホワイトハウスへと導いたのだが、激戦州のクリントン選挙キャンペーンの現場選挙スタッフたちは、狂ったように選挙本部に何が起こっているのかを伝え、反撃に必要な援助を与えてくれるようにと要請した。ますます絶望的になっていく彼らの訴えは、クリントンのトップスタッフに、軽い拒絶とともに無視されてしまった。「我々のモデルはあなたの事例を否定しています。」それがクリントンの大統領への野心に対する墓碑銘となった。なぜなら、モデルそのものは何も証明も否定もしないからだ: むしろ、モデルはリアルな、事例的な世界を反映する - あるいは、反映しないものである。

これは、管理者や政治家への教育がマズいアイデアであることを意味するのか? 必ずしもそうではない - けれども、もしもその教育があまりにも専門化しすぎていれば、また、あるいは、経験された現実に対してテストされない恣意的なイデオロギー的モデルにフォーカスしていれば、確実に教育は悪い影響をもたらしうる。これが意味することは、教育ある管理エリートが存在する場合、エリートが好む政策が大衆にあまりに大きな悲惨をもたらすようになった時には、その拘束から逃れる方法が必要とされるということだ。これまでのところ、少なくとも、全成人市民が定期的な投票を行う代議制民主主義は、誰もが思いつく集合的な引き綱を提供する最良の方法である。イエス、それは、ときどき "嘆かわしい人々" が、善き人々を自称する人々に何をするべきかを命じることを意味する - そして、それが起きた際には、自称善き人々は口をつぐみ、変化のために耳を貸さなければならない。なぜならば、彼らのモデルは現実によって反証されるかもしれないからだ。

お分かりの通り、管理社会の夢には更に深い問題がある。そしてその一つは、西洋哲学が - そして、実際、西洋文化全体が - 未だに把握できていないものである。我々はやがてはそこへ辿りつくだろう。ちょうど、あらゆる他の哲学的マインドを持った文明がそうしたように。しかし、それは洗い道のりであり、我々は未だその上を走っている。

その問題は、近代科学の言葉できわめてシンプルに表現できる。人間の脳は、20センチばかりの脂肪の多い肉の塊である。それはアフリカのサバンナで、食料を発見すること、交配相手を引きつけること、飢えたヒョウの牙から逃れることといった目的のために何百万年もかけて進化を遂げた。それらのすべては、知的に困難なものではなかった。たとえ、その時点ではどれほど重要そうに見えるとしても。脳には、思考のための特定の生得的なプロセスが組み込まれており、それは同じ期間をかけて同じ環境で同じ目的のために進化してきたものだ。今や、我々はそのようなプロセスを明示的に表現する方法を発見し、それらは「論理」と呼ばれている。しかし、生存競争において、未だ同じ習慣が勝利を収めることがある。なぜならば、すべてを考慮して、それらは、競合する他の習慣よりも少しだけ多く我らの祖先を生き延びさせたものだからである。

それが、何十億光年もの広がりを持つ宇宙の莫大さと複雑さを理解するための、我々の精神的な道具である: ミートローフサイズの肉の塊、あまり正確ではない感覚器官、食事し、交接し、ライオンから逃走するためには有用である、いくつかのデータ処理のクセ、そして、一定量の記録された経験が存在し、お望みであれば、ガイダンスの源として使いうる。それは、専門家がほぼ常に達成したと幻想を抱く神のごとき全知を提供するのだろうか? まったくそうではない。

それゆえに、管理社会の夢が常に失敗する究極的な理由は、単純に我々という社会性霊長類が、世界を管理できるほどに賢くないからである。我々のモデル、理論、イデオロギーは、圧倒的なまでに複雑な世界が我々に投げかけてくるものに対しては、不可避的にシンプルすぎる。また、ところで、この問題は、我々が奇妙にも「人工知能」という名で呼ぶものに世界を渡したとしても解決されないだろう - 直接的にであれ間接的にであれ、人間により設計され製造されたものは、何であれ人間精神の欠陥を共有するであろう。(クリントンのキャンペーンを思い出してほしい。最先端のコンピュータテクノロジーを使って、破滅的に間違ったモデルを生成したのだ。) また当然、コンピューターを所有し実行する人々の一部にも、エピテュメーテース、テューモスの決して小さくない問題がある。[SF作家] フランク・ハーバートが『デューン』で警告した通りである:「かつて人類は、機械が人間を自由にするだろうという望みのもとに、思考を機械へと引き渡した。けれどもそれは機械を持つ人類が他人を奴隷とすることを許しただけであった。」

上手く機能すると思われるものは、問題の当事者にほとんどの選択を委ね、より大きなスケールで選択を行なわなければならないときには、そのような選択から直接的に影響を受ける人の声を確実に聞けるようにすることである。たとえ、彼らの言うことが、自称善き人々の聞きたいことではなかったとしても。それが、民主主義の偉大な美徳である - ところで、これは言葉通りには、民衆 デモス 、一般の嘆かわしい市民の大衆による統治を意味する。民主社会は他の社会と同程度のミスを犯す。しかし、そのミスを正すことは比較的容易である。もちろん、それはまた、管理社会の夢を捨て、プラトンが考えていた知識人の役割よりも控え目な役割を受け入れることを意味する。私自身も知識人として言わなければならないだろうが、公平な交換であると思える。

国家〈上〉 (岩波文庫)

国家〈上〉 (岩波文庫)

開かれた社会とその敵 第1部 プラトンの呪文

開かれた社会とその敵 第1部 プラトンの呪文

翻訳:環境保護主義の次のたそがれ (ジョン・マイケル・グリア)

ジョン・マイケル・グリアによる2019年8月7日の記事 "The Next Twilight of Environmentalism" の翻訳です。

The Next Twilight of Environmentalism

あぁ、同じことがまたも起きようとしている。現代の政治文化におけるある種の政略結婚が、どれほどすぐに無様な離別を迎えるのだろうかと考えてきたが、現在、典型的な差し迫った決裂の警告サインが見られる。環境問題を懸念している読者たち - 実際に懸念しており、つまり、環境問題を階級自覚的な徳性のシグナリングのための機会として単に都合よく利用しているのではない人たち - は、ショックに備えてほしい。

私が考えている警告サインは、左派メインストリームメディアで、エコファシズムの危険性を訴える記事が最近急増したことである。エコファシズムとは? 我らが社会のファシスト的フリンジの下位グループであり、現代の過激派集団の標準以上に、環境問題に対する懸念を人種的偏見および権威主義的な政治的夢想と結び付けるグループを指して使われる用語であり、また一般的に自称としても使われている。もしこれを耳にしたことがなければ、それには充分な理由があるのだが、しかしメインストリームメディアのかなりの部分が、エコファシズムに関する報道に興味を抱いているようだ。これは、ニュー・ステイツマン誌の最近の記事で、これはガーディアン誌からの別の記事である。そしてこちらはニューヨーク・レビュー・オブ・ブック誌の記事である; もし、メディアがデッチ上げた怒りのキャンペーンの経過を見たことがあるならば、そのレトリック上のスタイルを認識できるだろうし、この最新事例がどう展開していくかをさほど困難なく推測できるだろう。

ここで最初に私が読者に指摘しておきたいことは、既に述べた通り、エコファシズムは、 変わり者 フリンジ 中のフリンジであるということだ。規模と文化的影響力という観点からは、エコファシズムは、地球平面説協会やエルヴィス・プレスリーが神であると真剣に信じる人々よりも下位に位置する。それは小さく自己排除的なサブサブサブカルチャーの1つであり、ごく限られた数の人々が快適なあいまいさの中で自己矛盾したファンタジーを演ずるためのものであり、非常に、非常に小さな池の中で一番大きなゾウリムシであるというささやかな喜びを得るためのものである。つまりは、読者諸君の生涯の中でエコファシズムが政治的・文化的に重大な影響力を得る可能性は、ベーコン合同教会 *1世界宗教となる可能性よりも低い。

それではなぜ、こんな顕微鏡サイズのフリンジイデオロギーが、重要なリベラル系の新聞と雑誌、およびそれに対応する左派ソーシャルメディアとパブリックなブログ圏で、これほど多数の不安を装ったエッセイを集めるようになったのだろうか? その理由として、私が主張したいのは、ついにメディアから注目を集め始めた別の事象と関係があるということだ。

しばらく前、読者の一部は気付いているだろうが、ある大手ハイテク企業 [Google] がシチリア島で開催された環境問題カンファレンスのスポンサーとなった。出席者は300人で、全員が今日の経済的・文化的エリート界の酸素欠乏的な 頂上 サミット からの人々であった。イベント会場との往来のため、少なくとも119機のプライベートジェットおよび燃費の悪い豪華なモーターヨット船団が必要であった - 当然、飛行機とヨットは、個人アシスタント、召し使い、およびその他の「セレブリティ」と呼ばれる脆弱な商品を、現実世界という鋭いエッジへの不要な接触から保護するために必要となる人員の大集団も運んできた。カンファレンスでの他多数のアメニティの中には、参加者たちを昼夜待機するマセラッティの車もあった。めったにない空き時間のあるときにどこかへ行って、観光をするためである。

つまりは、すべての直接および間接的なエネルギーコストを計算すると、この1回のカンファレンスは、第三世界の数ヶ国の年間排出量にも匹敵するカーボンフットプリントを持っていた。 - おそらくお分かりの通り、このカンファレンスの目的は、人為的な気候変動の脅威について話すことであった。

気候変動がセレブリティによるファッショナブルな主義主張となって以来、この種のことはもう何年も続いている。今年のカンファレンスを過去の同種の残念な事例と区別するものは、今回ついに、政治的スペクトラムの逆側の人々が、バカげた気候変動偽善に対する非難を始めたことである。このレックス・マーフィーによるナショナル・ポスト誌の手強い記事は、たとえば、シチリア島のカンファレンスときらびやかに輝くセレブリティの参加者たちに対して、小気味良い批判を行なっている。メインストリームポップカルチャーの気密性バブルの外側へと踏み出せば、容易に別の事例も発見できるだろう - 今日では、そのバブルの気密性はかつてより失われており、一部の批判は内部へと漏れ出してきている。

この時点において、実際のところ、気候変動活動家たちの現在の憧れの的、スウェーデンティーンエイジャー、グレタ・トゥーンベリは、商業航空旅行が引き起こす莫大なカーボンフットプリントを理由に、飛行機への搭乗を拒否している。賢明にも、彼女はヨーロッパを電車で旅行しており、お金持ちの友人たちは、大西洋を渡って今後の北米ツアーに参加するためのセイルボートを貸したという。もしも、トゥーンベリが人為的気候変動への意識向上を目指している一般市民であったとしても十分に悪いニュースだったかもしれないが、しかしそれだけではない - 彼女はダボス族のお気に入りで、普通の若者らしい注目への欲求を活かして相当な文化的プレゼンスを得た、特権階級の子弟なのだ。彼女が電車に乗るたびに、上述したシチリア島のカンファレンス参加者を見て、「それでは、あなたのカーボンフットプリントはどうなのだ?」と問いかける人々の数は増えていくのだ。

それは、逆に、現状のあり方の気候変動反対活動にとって致命的である。何年か前、私がピークオイルムーブメントのちょっとしたスターであったごく短い期間以来、気候変動を中心とする環境保護活動の一派における興味深いダイナミクスについて書いた。ほぼ常に、ピークオイル関係のイベントで出会い、ピークオイル、および広く言えば工業文明の命運に懸念を持つ人々は、気候変動や大型愛護動物の苦境といったメディア受けする主義主張を唱える人々よりも、政治運動への関与に加えて、容易に、また進んで自分自身の生活を大きく変える傾向があった。ほぼ常に、人為的気候変動のみに関心を抱いている人は、自分の生活を変えようとしなかったのだ。

もっと正確に言うこともできる。消滅しそうなほどのごく稀な例外を除いて、人為的気候変動のみに関心を抱いている人は、どこかで、自分以外の別の誰かが、大量の炭素使用を止めるべきだと大声で主張していたのだ。彼らが行ってもよいと思う唯一の気候変動への貢献は、本当に、本当に、申し訳ないと思うことだけなのだ。これがジョークだったら良かったのにと思う。環境保護活動シーンの 文化的前衛 アヴァンギャルド に位置するイベントに何度か参加したことがあるのだが、そこでは、参加者たちの母なる地球 ガイア への悔恨を促進するための打楽器の 即興演奏会 ドラムサークル が開かれていた。ノー、私はそこには加わらなかったのだが、しかし、近くを通りかかるたびに、高級なスリーピーススーツに匹敵する値段のオフィスカジュアル服を着た人が、サークルのなかで、この星の状態について嘆き、泣き叫んでいた。日曜日の午後、各々が大きく輝くSUVに乗り込んでイベントにやって来て、そして、ただ化石燃料のバカげたまでに浪費的な過剰消費によってのみ可能となるライフスタイルへと戻っていくのであった。

これは、いくらかは典型的な偽善であり、もしも自身の罪を真剣に悔悟すれば、神は人が罪を犯し続けるという事実を無視するだろうという奇妙な信念 - あまり誠実でない自由主義的クリスチャンから借用された - にもとづいている。それでも、ここにはそれ以上のものがある。その他にも表面化してきたのは、数年前、ワシントン州環境保護活動家グループが、炭素税を課す 市民発案法 イニシアチブ を提案したときのことである。そのようなものの常として、イニシアチブは非常にうまく設計されており、その優れた点としては 歳入中立 レベニューニュートラ だったことが挙げられる: つまり、炭素税として徴収された資金はすぐ直接的に市民への還元支払いに充てられるので、炭素税によるエネルギー価格の上昇が経済停滞を起こしたり貧困者を苦しめたりすることがないということだ。

それは、逆に、ワシントン州の民主党にとっては受け入れられないものであった。そこで、民主党は支持を拒否し、イニシアチブの廃案は運命付けられてしまった。その後すぐに、民主党は独自の炭素税法案を提案したのだが、それはまったくレベニューニュートラルではなかった。むしろ、炭素使用料から得られたすべての資金を、非選挙の理事会が運営する 秘密政治資金団体 スラッシュファンド へと横流しするもので、それは、同じくパブリックな監督を逃れた各種の社会正義的な大義へと資金を施すはずのものであった。驚きではないだろうが、2つ目のイニシアチブも大きく失敗した - 息を呑むほどに腐敗した政治的エスタブリッシュメントたちが、一般大衆の犠牲のもとにまた別の不正資金源を獲得することを、ワシントン州有権者たちは信用しなかったのだ。

新人議員アレクサンドラ・オカシオ=コルテスの元首席補佐官であったサイカット・チャクラバルティは、既に誰もが内心では気付いていることを公に認めたことで、しばらく前にメディアのある一部で波乱を引き起した: つまり、過剰宣伝されているオカシオ=コルテスの「グリーンニューディール」は、実際のところ環境保護に関するものではないということだ。もちろん、彼はきわめて正しい。それは、ワシントン州の2番目の炭素税イニシアチブが気候変動に関するものではなかったのと同じである。両者ともに、環境保護主義のレトリックを、富と権力の移転を強制するために用いている - 通常通りのレトリックの大盤振る舞いにもかかわらず、その"富の移転"は、豊かな者から貧しい者への移転を意図したものではなかったのだ。(将来の記事で、これがどこへと進むのか、またそこで何をするつもりなのかを語ろうと思う。)

この時点において、私は無為な私の若年時代の思い出に圧倒されていることに気がついた。なぜなら、我々は以前にも同じ状況にいたからだ。私の読者のほとんどは、ローマクラブに支援された1972年の革新的研究『成長の限界』について耳にしたことがあるだろうと思う。それは、有限の惑星上で無限の成長を追求することが、必然的に、長期的で段階的な人口および経済アウトプットの衰退を引き起こすことを示したのだ。(イエス、それが研究の結果である。これほどあまりに多くの人々が、過去の終末論的ファンタジーを検証できないこと、メドウズらが何を実際に書いたのかを読めないことには驚きだ。) ところが、どれだけの人が知っているだろうか、その後ローマクラブは『成長の限界』をフォローアップして、問題への解決策を提案する一連の研究を実施していたということを: 『Mankind at the Turning Point (1975)』、『Reshaping the International Order (1976)』と『Goals for Mankind (1977) 』が、その最初の三部作であった。

これらのフォローアップ研究を耳にしたことがなければ、読者諸君、それには正当な理由があるのだ。彼らは、説得力のない議論で、世界中の国々がグローバル経済のコントロールを非選挙の専門家集団へと委託し、その下であらゆる民主的な統治組織を権限のない議論用の社交場へと変化させ、一方で、重要な意思決定は、都合良くパブリックな監視を逃れた産官の委員会により定められる、そのようにしさえすればすべてはうまくいくだろうと主張していたのだ。(もし、これがたった今EUの支配に耐えている読者諸君に馴染み深く聞こえるのであれば、それには充分な理由がある; ここで説明した状況は、ヨーロッパの特権階級およびその子飼いの知識人にとって、過去数十年間の夢想であったからだ。) それが、通常言及されることのないものの『成長の限界』が激しい反発を受けた理由である: 1972年の多くの人々は、それが政治的アジェンダのカモフラージュであることを見抜いたのだ。

それは、『成長の限界』での予測が不正確であるということを意味しない。それが我々の状況の苦い皮肉である。その書籍の『標準予測』モデルは、当時の時代の1972年以降の未来に関する最も正確な予測であり続けている - 当時、より現実的だと考えられていた、高速の進歩というテクノ中心主義的なファンタジーや、同等に妄想的な予測である即時の絶滅よりも、確かに、はるかに正確であった。ワールド3モデルが予測した通りに、グラフが曲がり始めているのを我々は眼にしている。そして、モデルが予測した長期の没落は、目前に姿を現しつつある。それはまるで、あなたの家が火事で燃えている時、誰かが家のドアを叩いて、消火活動を実施するために、あなたの資産すべてを譲渡する契約書にサインせよ、と主張するようなものである。あなたは契約書にサインするべきではなく、彼が契約書にサインさせようとして話す動機は不順であるが、しかしそれは、本当に家が火事であるという事実を変化させるものではない。

同様に、ある種の人々が気候変動を無関係な政治的アジェンダのカモフラージュに使おうとしている事実は、大気中に何兆トンもの温室効果ガスを排出することが良いアイデアだと意味するわけではなく、またそうすることが既に不安定な世界の気候に大きな混乱を引き起こさないと意味するわけでもない。注意してほしい。人為的気候変動は、長い眼で見れば、世界の終わりではない; 地球は、その長い歴史のなかで何度も突然の気温変化を経験してきた。その中には、巨大規模の二酸化炭素放出が原因であったものもある - これは、たとえば、本当に巨大な火山噴火によっても生じる。

ヨハネの黙示録から借用した装飾で気候変動を装飾する試み - 怒れるガイアの手の上にいる罪人たちよ! - は、我らが文化の終末への強迫観念と、人々を脅して自身のアジェンダにサインさせようとする野心を持つ人々と強い関連があり、それは人為的な気候変動よりも大きい。とは言えども、沿岸の洪水、気象関連の災害、作物の不作、その他のお楽しみは確実に増加するだろうと予期できるし、それは年が経つにつれてますます増加する深刻な経済的負担となろう。そして、数パラグラフ前で言及した通り、人口と経済的アウトプットの減少をもたらすだろう。イエス、これが『成長の限界』が、我々の目前にある長くゆっくりとした衰退の弧を予測したときに語っていたことの1つである。

気候変動活動を推進してきた人々が直面した問題は、彼らの政敵が非常に効果的な反撃方法を発見したことである; その人々は、人為的気候変動により我々が直面する終末的な未来を長時間話しているような人々が、自分自身の主張を真剣に受け止めていないということを暴いたのだ。したがって、前述したシチリア島の環境カンファレンスの参加者たちは、もはや惑星を食べると同時に持っていることはできない - あるいは、より正確に言えば、そういった行動を取りながら、自分たちの主張は真剣に受け止められるべきだと他人を説得することはできない。これは、ある種のデリケートな自我を持った人には困難であろうし、驚愕すべきレベルのエネルギーと資源の浪費に支えられたバカげたまでに浪費的なライフスタイルを続けながら、前述したアジェンダの追求を困難にする。

その困難さには、けれども、シンプルな解決策がある: セレブリティ、その子飼いの知識人、および背後の利害関係者たちは、熱い岩のごとく環境保護主義を投げ捨てることができる。

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私を覚えていますか?

結局のところ、1980年代初頭に起こったのはそれだ。その時点まで、環境保護主義は、政府資金の広告キャンペーンに支えられ巨大な文化的プレゼンスを持っていた - 私の読者の中には、確実に、ウッディー・オウルと印象的なスローガン、 「ホーホー、森を汚さないで! [Give a hoot, don’t pollute!]」を思い出せるほど歳を取っている人もいるだろう。- また、自然に対して慈悲的なセンチメントを発した膨大な著名人によっても支えられていた。そして、バン! ロナルド・レーガンが登場し、ウッディー・オウルは退場した。ジョン=ボーイ・ウォルトン *2 と [フォーク歌手] ジョン・デンバーは、[映画『ウォールストリート』]「強欲は善だ」のゴードン・ゲッコーとマドンナの「マテリアル・ガール」に道を譲った。[環境保護団体] シエラ・クラブとフレンズ・オブ・アースは役員会に企業の重役を採用し、効果的な組織戦略を徹底的に無効化するためありとあらゆることを行ない、大気浄化法、河川浄化法、絶滅危惧種保護法その他の環境保護法の "規制緩和" へと繋った。

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私はどうですか?

1980年代初期、効果的に環境保護活動を骨抜きにしたプロセスには、他にも多数のファクターがあったが、しかし、その崩壊の背後にあった重大な力の1つとして、かつて環境保護活動に勢いを与えるために重要であった著名人の支持、政治的な影響力や補助金などの提供を停止するという、利害関係者たちの決定があったと考えている。私がこう考えるようになった理由は、まったく同じことが2010年以降のピークオイル運動にも起こったのを目撃したからだ。当時、ASPO [the Association for the Study of Peak Oil] および他の多種多様なピークオイルの提唱団体が、突然電源プラグを抜かれ、ウェブサイト、メンバーシップ組織、年次のミーティングなどの社会的生態系全体が地面へ墜落した。

私は、気候変動活動にも同じことが起こるだろうと考えている。急変化が近づいているというサインは、小さなフリンジ的現象であるエコファシズムにマスメディアが突然注目しだしたことである。この先数ヶ月以上、同じラインに沿ったストーリーが、左派メディアとブログで更に多数見られるだろうと予期している。そのようなストーリーは、環境問題に過剰に注目する人 - 特に、著名な気候変動活動家以外の人が、大声で主張された理想論に適合するようライフスタイルを変化させる人 - は誰でも、おそらくエコファシストであると、甲高い声で主張するものである。実のところ、環境的な限界を信じる人々はレイシストであると訴えるメディアの記事を見たとしても特に私は驚かないだろう; そのような主張は既にブログ圏の中では見られるし、メインストリームの左派が同じことを言うのも、私が思うに、単に時間の問題でしかないからだ。

この突然の兆候が過去の事例と同じ軌道を辿るのであれば、気候変動活動への資金供給は突然枯渇し、そのような資金を受けていたグループは、フォーカスを気候変動からより広く無害なテーマに変えるように説得されるだろう。(ピークオイルシーンの古参の人々は、[オンラインフォーラム] Energy Bulletin が突然名前を Resilience.org に変更し、そのフォーカスをピークオイルから当たり障りのない環境保護の雑多な寄せ集めに変更したとき、何が起きたかを思い出せるだろう。私が今考えているのはそんなことだ。) セレブリティたちは、バカげたまでに浪費的なライフスタイルを維持したまま善行を演じられるような、何か別の主義主張を見つけるだろう。グレタ・トゥーンベリについて言えば、エリートからの注目を可能な限り楽しんだほうが良いだろう; 気候変動について話すのを止めて、次の流行りの大義について行くほど彼女が賢明でなかったら、今からそう遠くないうちに、現在彼女に媚びているお金持ちで影響力のある人々は、「グレタって誰だ?」と言うようになるだろう。

これらすべての苦い皮肉は、人為的な気候変動が現実であるということだ。気候変動は、長期的にも短期的にも世界の終わりではないが、しかしこの先数十年の間に、莫大な人間の苦痛と経済的な貧困をもたらすことは確実である。更には、現在、人為的気候変動について騒ぎ立てているだけの著名な活動家たちでさえ、何かをできる可能性がある。もしも、自身が進んで模範となり、自分のカーボンフットプリントを劇的に削減し、我々のように一歩踏み出した人々が既に知っている世界を示しさえすれば: つまり、工業諸国の人々が必要であると考えるエネルギーと資源の量よりもはるかに少ない量で、完璧に楽しく、まっとうで、快適な生活が送れるということだ。

それは、気候変動活動と環境保護主義一般がファッショナブルでなくなるにつれて、この先数年で失なわれるであろうチャンスである。それらの大義に自身の時間と労力を注いだ多数の人々は、1980年以降の適正技術運動、2010年以降のピークオイル運動と似た、まったくうらやましくもない状況に置かれるだろう。そして、もし、読者諸君、こんなことは起こりえるはずがなく、私は完璧に間違っていると言いたいのであれば - あるいはおそらく、私自身も、最近メディアが騒ぎ始めた邪悪なエコファシストの仲間であるに違いないと言いたければ - それでは、このエッセイを保存し、5年後か10年後にもう一度見返すことをお勧めしたい。そこで誰が正しかったかが分かるだろう。

*1:注: 豚肉のベーコンを崇めるパロディ宗教 ベーコン合同教会 - Wikipedia

*2:注: 戦前のアメリカで田舎暮らしする大家族を描いた、1970年代~1980年代のテレビドラマの登場人物

翻訳:単一の未来のたそがれ (ジョン・マイケル・グリア)

ジョン・マイケル・グリアによる2019年7月31日の記事 "The Twilight of the Monofuture" の翻訳です。

The Twilight of the Monofuture

2週間前のこのブログの記事、進歩への信仰は、ある種の歴史的な記憶喪失にもとづいているという記事*1が、活発で大部分が思慮に富んだ反応を得たことを喜ばしく思う。オー、何件かの唾を飛ばすような汚い罵倒コメントを処理して削除したことは確かである。けれどもそれは、永続的な進歩という信念ベースの神話が今日の大衆文化において果たしている、重要だが未検証の役割についてハードな疑問を提示したとき常に起こることである。

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夢想…

進歩への信仰は、真に我らが時代の国教である。今日のほとんどの人々は、中世の農民が聖人や天使を信じていたのと同じくらい熱心に進歩の必然性を信じている。更には、最近の大多数の人々が進歩について話すとき、それは単に未来のテクノロジーが我々のものとは異なっており、やや複雑になることだけを意味するのではない。ノー、それよりもはるかに詳細である。[宗教学者] ジョセフ・キャンベルが、世界中のさまざまな神話を 単一神話 モノミス と呼ぶ1つのパターンへと落とし込んだように、我々の集合的イマジネーションは、非常に広い範囲にある人類のありうる未来に対して同じことをしており、未来を息苦しいまでに狭く厳密に定められたコンセンサスへ押し込めている。その未来は、 単一未来 モノフューチャーと呼ぶこともできるだろう。

親愛なる読者諸君、あなたたちはモノフューチャーを知っている。モノフューチャーは何十年にもわたってメディアに広まっており、繰り返し繰り返し、映画や小説やビデオゲームの終わりなきストリームの背景となり、現状の世界の欠陥を正当化するためにも繰り返し使用されている。モノフューチャーとは、我々が最終的に定期的な宇宙旅行、宇宙軌道上の生活圏、他の世界のコロニーを獲得した時代のことである - これらすべては私の世代が子供であったときに約束されたものであり、未だに実現していない。モノフューチャーには、核融合エネルギーや何らかの無限のクリーンエネルギー源があり、また同様に無限の原材料の供給もある。レプリケーターやロボット工場や何らかのギミックにより、誰もがあらゆる望みの商品を手に入れられる。もちろん、そこには空飛ぶ車もあり、ヒューマノイドロボット、超人的知能AIもある。そして、過去何十年もの間、工業諸国のイマジネーションの中に噴出していたその他あらゆる技術的な夢想も。モノフューチャーは測り知れない感情的なパワーを持っている。そのパワーを測定する方法は、そのような未来は訪れないとモノフューチャーの信者に指摘したとき、どれほど彼らが動揺するのかを見ることだ。

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…そして現実

おそらく、これを実際に確認する最も簡単な方法は、人類が他の惑星を植民地化することは決してできないと公言することである。もしそうしたとすれば、印象的なまでの反感を買うであろうと確信している。実のところ、人類は絶対に他の惑星を植民地化できないであろうと考える理由は膨大にある。凍結した、大気の無い、不毛な火星上に自給自足のコロニーを構築するという悪夢めいた経済学の問題から始まり、太陽系中心にある未防護の巨大熱核反応炉より放出される強烈な放射線から、脆弱な人間の身体組織を保護する磁気圏が、地球以外の太陽系内の居住可能な惑星には存在しないという冷酷な事実へと進み、有人宇宙飛行が富裕国における高価で一時的な道楽以外の何ものでもないと判明した、その他あらゆる理由にまで至る。

当然、これらすべてが問題ではないという反論も挙げられている。それらの反論を、モノフューチャーの一部ではない事象に対して検証してみると楽しいかもしれない。たとえば - このブログで過去に述べたことを再度言えば - 火星のコロニー化について述べられた主張はすべて、南極大陸中央のコロニー化についても強く主張できる。火星と比較すれば、南極大陸は実質的に熱帯のパラダイスである: その気候は極めて温暖であり、水と酸素ははるかに獲得が容易であり、太陽からの危険な放射線を遮る惑星磁場が存在し、鉱物資源は少なくとも豊富であり、その土壌は有害な過塩素酸塩で汚染されておらず、そこに行くには既存のテクノロジーでも容易であり、事故が起きた際にも1日か2日のうちに救助可能である - 火星の場合は、地球と火星が偶然適切な軌道上の位置にあったとしても9ヶ月も必要であり、それほど幸運でなければ期間は倍にも伸びるかもしれない。

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我々が約束されていたもの…

同様に、エベレスト山の頂上、マリアナ海溝の底、水もなく風に晒された中央アジアタクラマカン砂漠、あるいは地球上の他のいかなる過酷な環境ですら、火星コロニーを作ることよりも理にかなっていると説得力ある議論ができるだろう。それらの場所はすべて、火星よりも人間の居住に適している。そして、火星は地球以外の太陽系の惑星のなかで最も人間の居住に適している。それでは、なぜ入植者たちは南極のコロニー化に名乗りを上げないのだろうか? その理由は、南極のコロニー化はモノフューチャーの一部ではないためであり、そのため、ほどんどの人々は計算ができ南極コロニーが意味をなさないと理解できるからだ。

モノフューチャーに関して、これほどの明晰さはめったに見つからない。代わりに見られるのは、囚われの身に見られる色とりどりの不条理な思考停止によって支えられた、驚くほどの敬虔な熱意である。たとえば、もう私はいつからか忘れてしまったのだが、多くの人々がこのコンテキストで「人間が思いつくことができるものは、何でも達成可能である」と主張している。本当に巨大な規模のバカさ加減である。私は、機能する永久機関、宇宙全体のサイズのパディントンベアのぬいぐるみ、4つの辺を持つ三角形、猛烈に眠る無色の緑の概念、などを簡単に思いつくことができる - しかし、もしも宇宙コロニーという古びたファンタジーに疑問を呈したとすると、確実にそのようなバカげた反論を聞かされるだけではなく、他のコンテキストでは明白に誤りであるような屁理屈がここでは正しいのだと主張する人間を眼にすることになるだろう。

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…そして我々が得たもの

もしもお望みであれば、今挙げた思考停止を主張する人々を真剣にからかうこともできる。モノフューチャーの信奉者に、たとえば、天体の軌道の観察から未来を予測できるようになるだろうかと尋ねてみてほしい。おそらくあなたは憤慨した否定を受けるだろう。占星術は、極めて簡単に思いつくことができ - そして実際のところ、今日でも何百万という人々が実践しているのだが - モノフューチャーの一部ではない。それゆえに、我々が議論している信念体系からは擁護されないのだ。そのような信念体系を、私は進歩への信仰と呼んできたけれども、しかしここでも「進歩」という語は非常に微妙なニュアンスで理解されなければならない。惑星の軌道から未来を予測する方法を考案することは、実際のところ非常に目覚しい進歩である。しかし、「進歩」の信奉者はそれに興味を持っていない。彼らが信仰する種類の進歩は、それよりもかなり狭く定義されている; つまり、モノフューチャーへと向かう進歩のみから成り立っている。

それでは、モノフューチャーそれ自体は、宇宙コロニーや空飛ぶ車、超知能コンピューターと賢いヒューマノイドロボット、生命延長テクノロジーとボタンを押すだけで空気中から消費財を生み出すレプリケーター、汚染フリーな無限のエネルギー源、すべての人種と性別の人々が正確に同一のライフスタイルを取り、あらゆる重要な問題について同じ信念と意見を持っている - そのようなモノフューチャーのイメージは、どこから来たのだろうか? 未来のあり方についての単一の、狭苦しいこのような概念は、どのようにしてこれほどの信仰信条となり、今日の工業諸国において、多くの人が - 自慰的な大量死ファンタジーの未来を除いて - 異なる未来をまったく想像することができないほど信じられているのだろうか?

ここで、私は頭を下げてうなだれ足を引きずらなければならない。というのは、その元凶は私の大好きな文学ジャンルであるからだ。イエス。我々はサイエンスフィクションについて話している。

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我々がいるはずだった場所…

サイエンスフィクションの始まりは、モノフューチャーについての話、あるいは宇宙旅行のような何らかのモノフューチャーの標準要素とはまったく関係ないと言うのは公平だろう。このジャンルの歴史家の多くは、サイエンスフィクションにおける最初の作品 - 未だ実現していない科学的・技術的開発を中心とした物語、および、そのような開発の結果をプロットの中心とするもの - は、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』であると意見が一致しており、それは宇宙旅行やその他のモノフュチャーの標準的な特徴に関連してはいなかった。その点については、サイエンスフィクション史における次の2人のビッグネームであるジュール・ヴェルヌH.G.ウェルズは、彼らの執筆した膨大な作品のうちの相対的にごく一部でしか、宇宙旅行その他のモノフューチャー的ギミックを取り扱ってはいない。

更には、サイエンスフィクションの次の黄金時代、戦間期のパルプ時代へと進み、当時の雑誌に掲載された物語を読むと、大部分がモノフューチャー関連のテーマを無視していることが分かるだろう。物語の舞台のほとんどは、1920年代から1930年代の平凡な世界に設定されている。ちょうど、フランケンシュタインの舞台が18世紀後期の平凡な世界であったように。そして、物語の中で説明された発見や開発は、世界をほとんど変化させない。確かに、現時点において、これらの物語のほとんどは忘却の淵に沈んでいる - 当然の評価であるものも、そうではないものもあるが - ここで私が思いつくのは、読者諸君の何人かはC.S.ルイスSF小説『沈黙の惑星より [Out of the Silent Planet]』を読んだことがあるかもしれないが、これが当時のSF小説の雰囲気を表しているということだ。

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…そして我々がいる場所

ルイスの物語は、宇宙旅行の話である。重要なキャラクターであるマッドサイエンティスト (そして、もちろん、パルプSF時代の 典型的 ストック キャラの1つ) は、惑星間航行に必要となる大きな技術的ブレークスルーを達成したのである。シリーズの主人公、 エルウィン・ランサムという名のオクスフォード大学言語学者は、 - イエス。このキャラクターは、また別のオクスフォード大学言語学者、J.R.R.トールキンという名のルイスの友人をモデルにしている - 予期せず火星への旅行をすることになる。その結果、世界は完全に変化するのだろうか? まったくそうではない。ランサムが最終的に地球に帰ってきたときには、冒険の結果として地球上のものは何も変化しておらず、今後も変化することはないという穏かな確信のなかで、彼は近所のパブへ行き1パイントのビールを買うのである。

注意してほしい。『沈黙の惑星より』の出版前に既に印刷されていた物語は、モノフューチャーを発明するプロセスを既に開始していたのだ。また、宇宙船とも空飛ぶ車とも何も関係のない当時の膨大な量の作品の中から、モノフューチャー的物語だけを作為的に取り出したオールドSFアンソロジー本が多数存在する。(だからこそ、SF小説が最初に掲載された雑誌を見返し、当時のSF小説が他に何をしていたのかを理解することは、とても学びが多いのだ。) また、モノフューチャーは、その後にも町で遊ばれていた唯一のゲームではなかった。むしろ、第二次大戦後にサイエンスフィクションが成熟するに従い、探求される未来の範囲は劇的に拡大したのである。

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これはあなたの近所だろうか…

ここでもちろん、その一部は、現代のSF関係者のほとんどが話題にしたがらないこと - すなわち、1980年代前後のSFとオカルティズムとの巨大なクロスオーバーに関連していた。1980年代初頭のCSICOP*2などの疑似懐疑主義者の唯物論者によるSFファンダムの乗っ取りは、このジャンルを根本的に変化させた。それ以前には、非常に多数のSFファンと、決して少なくない数の重要なSF作家が、ポップなオカルティズムに眼を向けていたのだ。それが、ハインラインの小説『もしこのまま続けば』の中で、初期ウィッカ *3 のイニシエーション儀式についてそこそこ妥当な描写が見られる理由であり、それが、1950年代と1960年代のSF界のビッグネームたちの半数以上が、サイキックなパワーをプロットの主軸とする小説を書いた理由であり、それが、SF雑誌の裏表紙に掲載された秘密の広告が、オカルト通信教育の広告でいっぱいであった理由である。(また、それが、1978年に私が最初に参加したSFコンベンションにタロット占いに関するワークショップが含まれていた理由である。それ以降、そのような会場では見つけられない。) それは別の世界であり、より多くのオルタナティブな現実に対してオープンだったのである。

それでも、そこにはそれ以上のものがあった。当時のサイエンスフィクション作家たちは、我々が今住んでいる世界から可能な限り大きく変化した未来世界を考案しようと争っていたのである。ヴォンダ・マッキンタイアの『夢の蛇 [Dreamsnake]』、ジョン・クロウリーの『獣 [Beasts]』、ブライアン・オールディスの『地球の長い午後 [Hothouse]』、スーザン・クーンの『ラーネ [Rahne]』、M.ジョン・ハリスンの『パステル都市 [The Pastel City]』、ポール・アンダースンの 『世界の冬 [The Winter of the World]』 - 最初に思いついた例を挙げているだけだが - などを読んでほしい。それぞれのケースで、モノフューチャーの世界観からあまりにも遠く離れすぎているために、その痕跡を見つけるためにはハイパワーな望遠鏡が必要となるかもしれない。

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…それともこれ?

その直後の数十年の間に、サイエンスフィクションに正確に何が起こったのかは、複雑な問題である。私が思うに、その一部は、宇宙探査機が次々と送信してきた太陽系の惑星の写真が、SF黄金時代の誰も想像していなかったほどに人類にとって過酷な世界であったことに関連しているのではあるまいか。一部には、また、宇宙空間ベースの製造の試行のいずれも損益分岐点にすら近づいてすらおらず、ましてやアーサー・C・クラークの『宇宙の約束 [The Promise of Space]』その他の熱狂的なSF作品の期待に応えられるものではなかったという不都合な発見とも関係があったのだろう。別の理由としては、確実に、SFが 変わり者 フリンジ の文学からマスマーケットのメディア資産へと変化したこととも関係があったのだろう。率直に言えば陳腐な、でなければ古典的なスタートレックシリーズから始まったプロセスは、ハリウッドの 金のなる木 キャッシュカウであるスターウォーズシリーズや E.T. などの巨大な興行上の成功により加速していった。

どのような因果関係にせよ、けれども、最も革新的であった文学ジャンルの1つは、ハーレクインロマンスと同程度に厳格に定型化されたジャンルになり果てた。そこでは、モノフューチャーが力強いハンサムな男性キャラの役割を演じ、人類がその男のサイバネティック強化された腕に抱かれる女性キャラの役割を演じている。定型的な物語への堕落を測定する尺度としては、しばらく前に現代SF作家のなかで最高の1人であるキム・スタンリー・ロビンソンが『オーロラ [Aurora]』というタイトルの、失敗した恒星間植民を扱った素晴しい小説を発表したとき、SFファンダムに上がった怒声の合唱が挙げられるだろう。そのような物語は、SFが広い範囲の未来の可能性についてオープンであったかつての時代には、完全に許容可能なものであった - ジョン・ブラナーの恐しい『皆既食 [Total Eclipse]』やジョン・クロウリーのリリカルな 『エンジン・サマー [Engine Summer]』は、これをテーマとして扱った多数の小説のなかのたった2つの例である — しかし、ロビンソンの本に対する反応は? ここでもまた、ハーレクインロマンスが完璧な同等物を提供する: その反応は、ハーレクイン小説の出版社が、次のような優れた小説を出版した際に受けるであろうものである。つまり、ヒロインがヒーローと出会い、通常通りの展開を迎えた後で、最終的に彼女は独身でいることを決断するというものだ。

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これはファンタジーであった

そのようなハーレクインとSFの平行線は、私が思うに、我らが時代の集合的イマジネーションの中でモノフューチャーが立ち往生している理由を直接的に説明する。人がハーレクインロマンスを読むのは、現実的な愛の話を求めているからではない; 人がハーレクインロマンスを読む理由は、まさに、現実の生活を模倣しているのではないからこそ満足できる特定のファンタジーを楽しみたいと望むからだ。それが定型的ジャンルのフィクションの役割である - そしてそれには何の問題もない。お金持ちで力強いハンサムな男が平凡な女と恋に落ちる物語、はぐれ者の主人公集団が、魔法を振るってファンタジー世界を悪の支配者から救う物語、チョコレートショップを経営する中年男が、たった一人で邪悪な殺人犯を次々と捕える心地良いミステリー物語、その他何であれ、そのような豊かな白昼夢を飲み込むことで自身の生活の逃れがたい不満を慰めて少しだけ気分が良くなるとすれば、まさに、それこそが文学が常に仕えてきた基本的な人間の欲求なのである。

我々のほとんどは、けれども、自分自身のロマンチックな出会いは、ハーレクインロマンスの表紙から裏表紙の間で起きることとそれほど共通していないことを認識している。悪の支配者からファンタジー世界を解放するための英雄的なクエストに呼ばれる可能性は、パブリッシャー・クリアリング・ハウスの懸賞が当たる可能性よりもはるかに低いことを理解している。また、もしも我々が重大犯罪の目撃者となった場合の捜査は、ダウンタウンオフィスビルで退屈した刑事に何度も何度も同じ事実を繰り返し供述することであろう。つまりは、想像力豊かな文学世界と現実世界の違いを我々は理解しており、前者が後者を模倣する何らかの義務を生じさせるとは考えていない。

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これが我々の連れていかれた場所…

それが、代わって、モノフューチャーへ向けた進歩という現代神話がレールを脱線する場所である。我々が他の惑星を植民地化することは決してないという確固たる理由が存在し、あるいは空飛ぶ車は1917年以来繰り返し製造されテストされ、一貫してろくでもないアイデアであることが判明し、あるいは核融合は私が生まれた時から20年後の未来であり、現在でも20年後の未来であり、そして遠い未来にシマリスの遠い子孫たちが我々の化石化した骨を調査する時代になっても20年後の未来であり続けているだろう、というだけのことではない。ほとんどの指標において、アメリカおよび多数の工業諸国の大多数の人々の生活水準は、1970年代以来、不連続だが容赦なく下降を続けており、その方向が変わる兆候はない。

進歩的な装いを取りつくろわれた飛び地を抜け出し、ピッツバーグボルチモアマンチェスターグラスゴーのみすぼらしい道、パリ郊外の寂れた工業地域を歩けば - まぁ、いくらでも長く続けられるだろうが、ポイントはきわ立っている: それらの場所からは、モノフューチャーの到来がまったく近付いていないことは簡単に理解できる。更に先へと進めば、死すべき時が訪れた夢想たちは "象の墓場" を探している。それが、あまりに多くの人々がこれほどの金切り声で、今でもモノフューチャーが近付きつつあると主張している理由である。社会心理学者がずいぶん昔から指摘してきた通り、信念体系がもはや世界を十分に説明できなくなった時にこそ、人々が最も教条的に信念に執着し、信念を疑われた際最も強く怒りだすのである。

最近のオープンポストの中で読者の1人が教えてくれたのだが、彼が頻繁に通うサークルの中で、少なくとも、一時はきわめて蔓延していたニューエイジの信念体系が最近ではほとんど見られなくなってしまったのだそうだ。そこで起きたことは、注意を払っていた人にとってはまったく驚きではない。ニューエイジの教師たちは、自身の教えによる利益を主張していたのだが、多かれ少なかれ、それらの主張はうまく行かなかった。2008年~2009年の経済危機の直前、ニューエイジのグルであるロンダ・バーンの「引き寄せの法則」を使い、不動産取引で金持ちになろうとして結果身ぐるみ剥がされた多数の人々は、直近かつ最大の類似した大失敗の連続の、たった1つの事例でしかない。

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…そして最終的にはこうなるかもしれない

この種の失敗に対する人間の通常の反応は、少なくとも1回は"倍賭け"をすることであるので、2008~2009年のクラッシュ後に起きたことは、膨大な数のニューエイジ関係者が、マヤ歴の終わりとされる2012年12月21日にすべてを賭けることであった。何の事件も起こらずその日がやって来て過ぎ去ると、ニューエイジムーブメントは静かに崩壊した。ニューエイジの教えを未だに信じている人々がいることは確かだ。そして実際のところ、真の信者たちの小集団の存続は、このような外れた予測の結果として通常のことである。けれども、意味のある文化的な力としてのニューエイジは終わりを迎えた。

モノフューチャーのカルトに対して、何がこれと同じことを行うのかは興味深い疑問である。遅かれ早かれ、何らかの出来事がトゥモローランドの電源プラグを引き抜くことは、けれども、この時点において織り込み済みである。サイエンスフィクションは、楽しいものであることは確かだが、恋愛小説がリアルな関係を扱ったものではないのと同様にリアルな未来を扱うものではない。ニューエイジムーブメントの命運は、真の信者たちが、自分たちの過剰発達した権利意識に宇宙は奉仕する義務があり、彼らが相応しいと考える未来を叶える義務があると主張したときに、何が起こるかを明確に示している。どのような出来事の連続が、モノフューチャーの信奉者たちに無様な、しかし不可避のレッスンをもたらすのかは、興味深い疑問である; すべてのことを考慮すると、けれども、それを見るまでにあまり長い時間待つ必要はないと考えている。

***

グリアは、現代神話としてのSFの力を強く認識しており、彼自身もオルタナティブな未来を表現したSF小説を書いています。

Star's Reach: A Novel Of The Deindustrial Future (English Edition)

Star's Reach: A Novel Of The Deindustrial Future (English Edition)

Retrotopia (English Edition)

Retrotopia (English Edition)

*1:注: 翻訳:進歩と記憶喪失 (ジョン・マイケル・グリア) - Going Faraway

*2:注: 超常現象や疑似科学の批判を行う団体。サイコップ - Wikipedia を参照。

*3:注: キリスト教化以前のヨーロッパの多神教を復興した新宗教

翻訳:進歩と記憶喪失 (ジョン・マイケル・グリア)

ジョン・マイケル・グリアによる2019年7月17日の記事 "Progress and Amnesia" の翻訳です。

Progress and Amnesia

今週、私はピークオイルについての議論を直接的に始めるつもりであり、現在進行中の、有限の惑星から無限の高密度化石燃料を採掘するための試みが、1972年と2008年と同じく、いかにしてレンガの壁に正面衝突し、類似の結果をもたらすのかを語りたい。すぐ後でその話題に入るつもりだが、しかし、2週間前の成長の限界に関する記事*1には、ある面白い出来事が起こった。

その記事は、予想していた通り、オマエはこれ以上無いほど間違っていると言いたい人々からの多大な反発を招いた。私の誤りを言い立てる主張は、予想していた通り、お決まり通りの2つの陣営に等しく分割できた。一方では、これやあれや別の何かが必ずや成長の限界を打破し、宇宙の星々へと進む想像上の我らの運命に向けた歩みを継続させられるのであるから、私は誤っていると主張する人たちがいた。もう一方では、これやあれや別の何かが、一回の突然の黙示録的な打撃により我々を叩き潰してしまうのであるから、私は誤っていると主張する人たちもいた。

私が予想していなかったことは、これら2つの役割のうちのどちらか一方に押し込まれたあらゆる主張が、刻印されたシリアルナンバーの最後の桁に至るまで、完全に同一であったということであり、1972年と2008年に起きたエコロジカルな現実への正面衝突の際と完全に同一の役割を持たされていたということだ。更に言うなら、それらのすべてが、その2回の衝突への備えに失敗したか、その直後の余波において失敗したものであったのだ。提案された解決策は何も解決せず、差し迫ったカタストロフィの予告は繰り返し外れた - そして我々はまだここにいる。2度目の危機からは10年以上経過し、最初の危機からはほぼ半世紀も経過しているにもかかわらず。そして、それらの同一の失敗した解決策とそれらの同一の失敗した大激変は、今でも宣伝されている。まるで、以前そのようなことを提案した人がいなかったかのように。

たとえば、最近ピークオイルに対する解決策として最も頻繁に提案されているテクノロジーは、光起電 (PV) 太陽光発電である。私がまだ小学校にいたころ、スカラティック・ブック・サービス - 児童に安価な文庫本を販売するプログラム - は、子供でもできる太陽エネルギー実験を多数提供していた; 私自身も本を持っていて、そのうちの1つにはシンプルなPVセルを銅の薄板から作るものがあった。1972年のオイルショックをきっかけとして、当初宇宙プログラム向けに開発されたシリコン製PVセルは着実な価格低下が始まり、新技術で一般的であるように効率性も向上を始めた。2000年ごろまでには、太陽電池技術が成熟するにつれてその曲線はフラット化し、ほぼ20年にわたる更なる経験により、太陽電池に可能であることと不可能であることが理解された。

それらすべての経験は、きわめて簡単にまとめられる: エネルギー集約的な現代ライフスタイルを完全に太陽光発電のみで維持できると考えるのは、ただ太陽光発電を試したことがない人だけである。太陽光発電セルからは、間欠的にささやかな量の電力を得ることができる。太陽光発電セルで屋根を覆い、助成された金利で資金を貸し与える電力網と結び付いているのであれば、化石燃料由来の電気の恩恵をすべて受けながらも、化石燃料に依存していないかのように信じ込むことができる; しかし、もしも電力網から離れた場合、すぐに太陽光発電の厳しい制約が理解できるだろう。誤解しないでほしい。私は完全に再生可能エネルギーを支持している; それは我々が化石燃料を使い果たした後にも残るであろう; しかし、現代のライフスタイルを支えるバカげたほどのエネルギー浪費を太陽光発電セルのみで供給できると考える人は、単に、計算を行なっていないのだろう。それでも、太陽光発電に投資をしさえすれば、化石燃料の使用を止めても現状のライフスタイルを維持できると、今日のたくさんの善意の人々が主張するのを耳にしたことがあるだろう。

逆側には、核戦争のオバケがいて、我々はいずれにせよ死ぬのだからあまり劇的ではない未来への備えは無駄であると主張するために、お決まりのように定期的に持ち出されている。1945年8月のある晴れた日以来、人々は全面的核戦争は不可避であるだけではなく差し迫っていると声高に主張してきた。未だ気づいていない読者のために言っておくと、彼らは間違っていた。

彼らの予測の失敗は、何らかの偶然によるものでもない。核兵器は、その目的に対して極めて有効なのだ; 核兵器がペーパーバックのサイエンスフィクションの物語の完全なる想像上のギミックでしかなかった時より、一般大衆からは核兵器の役割は完全に誤解されてきた。核兵器は、大国間の戦争を防止するために存在する。核兵器は、誰も勝利できないことを確証することによって、これを行なう。これがアメリカ合衆国ソビエト連邦の間の苦々しい敵愾心が、ただ代理戦争と経済紛争においてのみ戦われた理由であり、イスラエルが信頼できる核抑止力を保持した後、アラブ諸国によるイスラエル侵略の意思が凍結された理由であり、合衆国と中国の間での西太平洋上における相互の対決姿勢が、何十年もの間ほとんど銃声無しであった理由である。

私はこれらすべてを何度もブログで言及してきたのだが、そのたびに、私の言うことは間違っており、近いうちに必ずや核兵器は我々を破滅させるだろうと主張する、ICBMサイズの罵倒の大群に襲いかかられるのだ。核兵器が殺人癖のある偏執狂的独裁者の手に渡ったら? (スターリン毛沢東は、"殺人癖のある偏執狂的独裁者" をはるかに超えた人間であり、両者とも核兵器保有していた; 我々はまだここにいる。) 宗教的な狂信者の手に渡った核兵器はどうだろう? (レーガンが政権を取り、携挙を信じる根本主義者クリスチャンを政府の枢要な地位に就けたとき、そのような議論がたびたびなされた; 我々はまだここにいる。) 破綻国家にある核兵器は? (ソビエト連邦が全面的に崩壊した際には、大量の核兵器が配備されていた; 我々はまだここにいる。)

更に続けられる。核戦争は不可避であるという主張を正当化するために使用されるあらゆるシナリオは、既に発生している。ただし、核保有国同士の巨大な従来型戦争を除いて - そして、核保有国間の巨大な従来型戦争は、決して発生しないだろう。なぜならば、核兵器の存在により、そのような戦争には勝者が存在しないことが確証されるためであり、それゆえにそのような戦争は決して戦われない。(ノー、それは殺人癖のある偏執狂的な独裁者であっても起こらない; 古いジョークにもある通り、狂っていることは愚かであることと同じではない。) これらすべてのことについて私が面白いと思うのは、私がこのようなポイントを指摘すると、人々は普通、「あぁ、神様ありがとう。我々は生き延びることができます。」といった反応を示さないことである。まったく正反対に、まるで、彼らが夢見る熱核兵器ホロコーストを取り上げられたかのように失望するのである。

このような事例は、けれども、まったく特殊ではない。我らが文化の未来に関する言説全体は、1970年代初頭以来停滞状態に陥っており、同一の切迫しているとされる即時の技術的修正と、同一の切迫しているとされる即時の黙示録的な厄災が、およそ半世紀以上にわたって繰り返されている。まるで、誰も過去にそのような提案をしたことがなく、またまるでそのどれも検証を受けたことがないかのように。未来に関する空想を取りまく奇妙な記憶喪失が存在しており、我々のようなごく少数の変人以外誰もその存在に気付いていないように見えることは、おそらく最も奇妙なことである。

私が考えている記憶喪失は、今日宣伝されているエネルギー困難に対する解決策、あるいはむしろ"非解決策"、または、その意味では、現在熱狂的に宣伝されている黙示録 - "非黙示録"と呼ぶべきかもしれない - に限らない。それを心に留めた上で、上記の停滞状態を最も目立つ形で体現している事例を取り上げてみよう: 空飛ぶ車という実現不能なファンタジーに、アメリカ人のイマジネーションが固定されていることである。

オタク階級の特権的な地位にいる人たちの空飛ぶ車の議論を聞いてみれば、そのほとんどがとても似通ったレトリックを終わりなく繰り返していることが分かるだろう。空飛ぶ車は最初サイエンスフィクションに登場した - 誰もがそれを知っている - そして、今や我々は本当に優れたテクノロジーを持っているので、空飛ぶ車を作成可能であるに違いない。証明終わり! このようなギズモ中心主義的なチアリーディング爆発から省かれている事実は、今から1世紀以上も前から空飛ぶ車は存在していたということだ。我々は完璧に空飛ぶ車がどう動くかを理解している。あるいは、まぁ、それが誰も空飛ぶ車を運転していない理由である。

少しばかり歴史を見てみよう。常に、このような未来的無知に対する最高の対応である。最初の実際の空飛ぶ車が作られたと考えられたのは、カーティス・オートプレインである。航空機のパイオニアであるグレン・カーティスによって設計・製造され、1917年にパンアメリカン航空博覧会で公開された。当時最新鋭のテクノロジーであり、プラスティック製の窓とキャビン用エアコンを備えていた。数ヶ月後、アメリカ合衆国第一次世界大戦に参戦し、航空機に使われるはずであった材料は徴発されたため、生産されることはなかった。大戦後、カーティスは自身の発明について考え直したようで、自分の大きな才能を別の目的に使用したのであった。

けれども、他の多くの発明家たちもそのギャップを飛び越えようとして、その後の何年かの間に、定期的に空飛ぶ車は路上と空へと発進していった。以下で挙げたのはごく僅かな事例である。左はウォーターマン・アロウビルで、ワルドー・ウォーターマンによって開発されたものであり、彼の名前にちなんでいる。1937年に飛行した; スチュードベーカー社製の自動車を改造したもので、5台が製造された。

戦後アメリカのテクノロジーブームの間に、当時の最大級の航空企業、コンソリデイティッド・ヴァルティー社は、1947年にコンヴェアカー モデル118を製造し試験した。それは消費者市場の上位層向けのものであった; 発明者はセオドア・ホールである。1台の実験モデルのみが作られ、飛行したのはたった1回のみであった。

左側のエアロカーは、1966年に初のテストフライトを行った。発明家のモールトン・テイラーにより設計され、空飛ぶ車としては最も成功を収めたものである。また、この車は、飛行可能なコンディションのモデルが存在する唯一の車種であるようだ。主翼と尾翼は、特段に力のない人でも取り外し可能であるように設計されており、路上で運搬する際にはトレイラーとして使用可能である。6台が製造された。

最も最近では、右側のテラフュージア社が2009年に8分間のテストフライトを実施している; この企業は、今でも機体を連邦航空局の規制に適合させようとしているが、しかし、最新のプレスリリースでも自信満々に2年以内に販売を開始すると主張している。もしも興味があるならば、1台たったの19万6千ドルで予約ができる。ただし、前払いで、飛行機の引渡し日は未定であるが。

もうすぐにでも空飛ぶ車を持てるだろうと人々が言うとき、言い換えるならば、彼らは1世紀以上も遅れているのである。1917年以来、空飛ぶ車は存在してきた。今日、皆が空飛ぶ車に乗って空を飛び回っていない理由は、空飛ぶ車が存在しないからではない。今日、皆が空飛ぶ車に乗って空を飛び回っていない理由は、空飛ぶ車というアイデアが本当にバカげているからだ。それはマラソンを走りながら同時に熱烈なセックスをすることが本当にバカげたアイデアであるのと同じ理由である。

自動車エンジニアであれば誰でも、優れた車の設計をするための特定条件を教えてくれるだろう。航空エンジニアえあれば誰でも、優れた飛行機の設計をするための特定条件を教えてくれるだろう。一般的に、物理法則と呼ばれる煩わしい厄介者により、優れた自動車を作ることは劣った飛行機を作るということを意味する。逆も然りである。多数の事例の中から1つだけを取り上げるなら、自動車のエンジンは、坂道を走り低速での牽引力を得るために高いトルクを必要とし、航空機エンジンは、プロペラの効率性を最大化するために高い速度を必要とする。そして、高いトルクと高い速度は両立しない; ある1つの能力に優れ、別の能力には劣ったエンジンを設計することはできるし、逆も然りである。そうでなければ、車輪向けのトルクもプロペラ向けの速度も不足する中間地点に陥ることだろう。このようなトレードオフは何ダースも存在しており、空飛ぶ車が中途半端に陥ることは避けられない。

それゆえ、あなたが手にする空飛ぶ車とは、ろくでもない車であると同時にろくでもない飛行機でもある乗り物である。その価格はあまりに高額で、同じ金額を使えば代わりに優れた車、優れた飛行機、そして本当に素敵なヨットなどを1、2台購入できるかもしれないのだ。我々が空飛ぶ車を持っていないのはそれが理由である。誰も空飛ぶ車を作らなかったからではない; 人々は1世紀以上にわたって空飛ぶ車を作り続けており、そこから得られる明白な教訓を学んでいる、あるいはむしろ学んでいないからだ。更には、上記の画像が示唆する通り、空飛ぶ車にまつわる問題は、単なる1つの、あるいは100個の技術革新によって解決されるものではない。なぜならば、それらの問題は空飛ぶ車が存在する物理的現実に結び付いたものであるからだ。我らが時代の巨大な学習されない教訓の1つに、何らかのちょっとした新たなテクノロジーが実現したからといって、マズいアイデアが優れたアイデアに変化するわけではないということが挙げられる。

2つ目の例を挙げてもよいだろうか? パルプサイエンスフィクションの、別の古典的なアイデアを取り上げよう。ジェットパックである。ギーク階級の特権的立場の人々は、いずれすぐにジェットパックが本当に、真に実現すると主張することを強く好む。ここでもまた、ジェットパックは、最初の液体燃料ロケットが実用水準に達して以来、何度も何度も製造されてきたのである。我々がジェットパックを身につけて空を飛び回っていない理由はシンプルである; 最強の男ですら、ごく短い距離を飛行する以上の燃料を背負うことはできないのだ。燃料のエネルギー密度にはハードな物理的限界があるため、コマンドー・コディ: スカイ・マーシャル・オブ・ザ・ユニバース [テレビ番組] はフィクションとしては面白いものであるが、エンジニアリングのプロジェクトとしては欠陥がある。それでも、ジェットパックはテクノフェチな社会の集合的イマジネーションの中に留まり続けており、人々はジェットパックを製造しようとし続けている - あるいは単に、適切な時期が来れば、進歩によって必然的にそれが生み出されると声高に主張し続けている。

同じことは、最後に、1970年代以来ピークオイルヘの即時の解決策として宣伝されているものすべてにも当てはまる。そして、ほぼ同じごろから予測されてきた、即時に世界を破壊するあらゆる大変動についても同じことが言える。我々のバカげたまでのエネルギー浪費的なライフスタイルを太陽光発電で支えられない理由は、邪悪な石油企業がそうすることを妨害しているからではない。約1億5000万kmの外宇宙を通過するため、太陽光は拡散した、低品質の、間欠的にしか利用できないエネルギー源であるからだ。太陽光エネルギーを、化石燃料から得られる極度に高密度、高品質の、オンデマンドなエネルギーの代わりに使用しようとする試みは、まったく見込みがない。

もう一度言えば、これは太陽光エネルギーが悪いものであると意味するわけではない。実際には、現在のレトリックが可能だと主張していることは、実現不可能であることを意味する - オーギュスタン・ムショの1890年代の最初の太陽熱装置以来、1世紀半にもわたる太陽光発電の有意義な実験によって、 我々はこのことを知っている。太陽光エネルギーおよびその他の再生可能エネルギー源に頼る社会では、高密度、高品質、オンデマンドなエネルギーは、我々が慣れ親しんだよりも少ない量しか利用できない。この問題に向き合いたいと望む人はとても少ないので、代わって、歓迎されない現実が到来すれば、我々は深刻な混乱の連鎖に直面することになるだろう。

同様に、我々が来週木曜日に何らかの不可避の大惨事で死ぬわけではない理由は、そのような大惨事は、莫大な熱気で膨らまされた可燃性の人形であるからだ。私が眼にしたことのある大惨事が差し迫っているというあらゆる主張は - 我々は停滞と没落の未来に直面することはないと主張したい人々が何百という主張を提示したのだが - そのような主張は、少なくとも1つの、通常それ以上の、以下の3つの誤ったロジックにもとづいている。1つ目は、何らかの変化が直線的に大惨事へと至るという主張であり、それは通常適用されるすべての反対のファクターが、どういうわけか適用されないという主張である。2つ目は、極端な最悪ケースのシナリオが、どのような危機であれ議論対象の危機について唯一のありうる帰結であるという主張である。3番目は - まぁ、これはおそらく "巨大宇宙セイウチ" ファクターとでも呼べるだろう。つまり、2012年の偽のマヤ歴の終末予測のような、何らかの出来合いのファクターが、どこからともなく現れて世界を喰い尽くすので、単に待って見ていればよい!という主張である。

人間が生きる現実世界では、反対に、直線的な変化は、不合理なポイントに達する前に循環的な揺り戻しに変化したり、あるいは外乱により消失する。極端な最悪ケースのシナリオは、実際の危機において最も可能性の低い結果である。そして、巨大宇宙セイウチが世界を喰い尽くそうとしていないと誰も証明できないことは、そのようなセイウチが実際に存在する根拠にはならない。過去の終末的な予測を見てみれば、1つの共通点に気づくことは難しくない: それは常に間違っているということだ - 終末予測は、社会の現実に対処しないために、本当に対処したくないことに対処しないために主張されている。それが明らかになればなるほど、ますます巨大宇宙セイウチがフォトンフリッパーを振ってサヨナラを言い、どこかの惑星を喰らい尽してしまうと主張されるようになるだろう。

そして当然、我々が今いる状況はそれだ。私が2週間前に示した通りである。今日、あまりに多くの人々が、我らが時代の問題に対する想像上の解決策に執着している理由、そして、あまりに多くの人々が、そのような問題を無意味にしてしまうであろう想像上の大変動に狂信的に執着している理由は、それらの本当の問題や帰結に相対したい人があまりにも少ないからである。今日の工業諸国でほとんどの人々の日々の経験を形作る停滞と没落が、現実ではないか問題ではないかのようなフリを多くの人が続けているのは、まさにそれが理由である。

これらの行動の何1つとして、停滞と没落を追い払うことはできない。どちらかと言えば、無知で無邪気な人々に決して実現しない解決策や決して訪れない大変動を待つ時間を浪費させるため、単純に停滞の深化と没落の加速を確実にするだろう。停滞と没落のリアリティに対処するためにできることは、確かに存在する; その中には、一方では再生可能エネルギー技術の採用すら含まれるだろうし、他方には黙示録的ではなくても深刻なさまざまな問題への注意深い準備なども含まれるだろう。けれども、それらすべては、未来を真正面から見つめることを必要とする。空飛ぶ車が我々をトゥモローランドに連れて行ってくれるフリをして50年間を無駄にしたという認識を妨げる記憶喪失の習慣から目覚めなければならない。誰も語りたくないからといって、それが起こらないということではないのだ。

翻訳:長期的な視座 (ジョン・マイケル・グリア)

ジョン・マイケル・グリアによる2019年7月3日の記事 "The Long View" の翻訳です。

The Long View

過去3年以上にわたって、このブログ、および旧ブログ『The Archdruid Report』上でのオンラインエッセイのテーマは、現在のできごとに比較的固く焦点を当てていた。それはまったくの偶然ではない。2016年には、西洋工業文明の中で何年にもわたって構築されてきた緊張が開放され、非常に多くの政治的・文化的な伝統を混乱させ、一般常識を引っくり返した。このように主張するために、「ブレグジット」と「トランプ」という語をささやく必要はないと信じている。

歴史とは直線ではなく円環であり、文明にはライフサイクルがあり、文明興亡の巨大な弧の上では対応する点において類似した事象が発生すると理解している人にとっては、驚きではなかった。オズヴァルト・シュペングラーは、その1人であるが、1世紀以上も前、『西洋の没落』のページに、近年のニュースヘッドラインを賑わず出来事について書いていた。彼は、乾いたゲルマン人的なユーモアと共に、裕福な人々が政治制度を操作するために金銭を用いることを学ぶやいなや直ちに民主主義は金権政治へと変化するということ、それが無知なエリートの台頭を招き、彼らは社会全体に対して何をもたらすのかに気付かないままに私腹を肥やすことに励むということ、そして、野心ある男 - ほとんどの場合、金権政治階級の内部から登場する - が、同時代の "嘆かわしい人々" の主義主張を擁護することにより、権力を獲得できると認識するということを示した。

シュペングラーは、このプロセスの結果として発生するカリスマ的なポピュリズムをカエサリズムと呼んだ。この名は、人類の中で歴史に残る事例のうちの1つにちなんでいる。(現在のアメリカの事例が、"オレンジ・ジュリアス" [米国のジューススタンドチェーン。現在、ドナルド・トランプを揶揄する呼び名としても使われている] と呼ばれることは、このブログEcosophia上で繰り返し発せられるジョークである。) 組織化された寡頭制政体とカエサリズムの勃興の間の衝突は、シュペングラーが示した通り、不可避の歴史的事象であり、それは社会が千年程度の成長期を終え、成熟形態へと落ち着く際に起こる。シュペングラーが1918年に予想したところによれば、この衝突は、21世紀初頭の西洋世界全体にわたる政治を決定するテーマとなるだろうとされていた。今日のニュースを見てみれば、彼が正しかったという認識を逃れるのは困難である。

アーノルド・トインビーは、シュペングラーよりも慎重で注意を払っていたのだが、予言を避け、過去のプロセスの正確な説明で満足した。トインビーの分析では、成功した社会が繁栄する理由は、その統治階級が創造的少数派と呼ばれる集団を形成しているからなのである。 - 文明がその歴史の道程で直面する問題に対して、創造的な解決策を生み出すことができたために、社会全体から尊敬を得て模倣される集団である。 あまりに頻繁に、けれども、統治階級は重要なイノベーションを止めてしまい、解決策を現在の状況に合わせて変更するよりも、決まり切った解決策に問題を合わせようとすることに興味を持つようになる。その後、彼らはトインビーが呼ぶところの支配的少数派となり、もはや尊敬の念を起こすことはできず、不承不承に服従されるようになる。

ひとたび社会が支配的少数派に支配されるようになると、そのような社会の中の人々が、責任ある人々がもはや解決しようとしなくなった問題に対処するために用いる一連の標準的行動が存在する。世間から隠遁して暮らしていたのでもない限り、読者諸君、諸君は既にそれらすべての行動を知っているだろう。トインビーは、それらを超脱、変貌、未来主義、復古主義と呼んだ。超脱とは、別の土地、または世界の別の場所、あるいは現状の出来事を遮断するのに十分な気密性のあるサブカルチャーの中へと戻ることで、社会をその運命に委ねることである。変貌とは、宗教への回帰である - シュペングラーはこれを第二宗教と呼んだ - これは、人々が現世に不満を抱き来世に希望を置くようになるに従い、あらゆる文明の後期に起こることである。未来主義とは、未来において完璧な社会を構築する、または少なくとも夢想する試みである。復古主義とは、最後に、失敗した現状維持を拒絶し、過去に機能していた政策を支持することにより "メイク・○○・グレート・アゲイン" を追求するものである。

トインビー自身には、これらのうちに自身の好みの方法があった - 彼は敬虔なクリスチャンであり、またそれを示した - しかし、この4つの標準的行動すべてが実行可能なオプションとなりうる。そして、未来主義と復古主義はとりわけ政治的爆弾となるかもしれない。現代西洋工業社会の管理上中流階級は、創造的少数者から我らが時代の組織的金権政治を運営する支配的少数者となり果てたのだが、彼らは、世界恐慌の発生時に先代の金権政治家たちから未来主義の方法によって権力を奪取した。自身により大きな権力を与える変化を「社会進歩」と定義することにより技術的変化のカリスマ性を借用したのである。お決まりの通り、その方向へ向けた最初の動きはかなりうまく働き、その後はあまりうまく働かなかった; 40年ほどの間、これは公然の秘密であったのだが - 少なくとも、特権的な人々の暮らす気密性のバブルの外では - ほとんどのアメリカ人にとって物事は確実に悪化を続けている。必然的な反発が続いた。

長期的には、言い替えると、ドナルド・トランプが来年の選挙で二期目の勝利を収めるのか否かは実際にはさして重要ではない。(短期的には、けれども、極めて重要であるので、私は両サイドで膨大な選挙不正がなされる苦々しい選挙戦が起こるだろうと予期している。) トランプは、次世代のポピュリスト政治家たちに、ネオリベラル的コンセンサスは打ち負かせると示したのである。また、あらゆる重要な問題について企業と政府官僚の絡み合った利害を支持する一方で、常に労働者階級へとコストを押し付ける環境保護主義と社会正義イデオロギーに形ばかりの支持を示しているネオリベラル的コンセンサスを、ますます多くの選挙区が拒否するようになった。これからも、更に多くの動乱があるだろう。この先の数年の間に、政治情勢を揺るがす地殻変動が多数起こるだろう。けれども、ネオリベラル時代は既に死に、マンガのカエルがその墓の周囲を飛び跳ねている。

このような状況であるので、しばらくの間一歩下がって、再び長期的な視座を取るのには適した時期である。

私のブログ記事が未来の議論を止めたため、時々、過去数年間の私の予測がどれほど当たったのかという質問を受けることがあった。もちろん、このような質問をした人の多くは、私の予測に対するさまざまな誤解にもとづいていた; たとえば、このような質問はまったく珍しいものではないのだが、困惑から冷笑に至るまでの口調で、なぜ社会は未だピークオイルの結果により崩壊していないのかと聞かれることがある。私はピークオイルによって社会の急速な崩壊がもたらされるとは言っていないため、これは私にとっては皮肉な喜びの源泉であったのだが、しかしこれはまた我々の困難さの一つを示している: あまりに多くの人々が、永続的な進歩でも突然の崩壊でもない未来を想像できないという奇妙な状況である。

エス、このことについては以前にも書いた。『The Archdruid Report』の当時の記事で私はその奇妙な精神的問題を分析し、未来を明確に思考する方法を提案した。当時、少なくとも、人々が私の言葉に耳を傾けてうなずき、その後で、永続的な進歩に対する唯一の代替は全面的なカタストロフィであるという同じ奇妙な信念に帰っていくことを見るのは面白いものであった - まるで、停滞と没落が、過去40年の間ほとんどの工業諸国の人々にとっての日常的な経験が、起こり得ないものであるかのように。人々の心からこの奇妙な精神的な霧を追い払うための信頼できる手法の一つとして私が発見したことは、直近の未来が我々に何をもたらすのかについて率直話すことであった。

少なくとも私にとって、これを特別に痛快なものとしているのは、過去の特段スリリングではない日々に時計を戻すことにより、これを行うことができるということだ。最後に、経済成長への厳しい限界が語られていた時期である - イエス。それは2008年~2009年の原油価格急騰中と後のことだ。『The Archdruid Report』および他の既に消滅したピークオイルフォーラムの古い読者は、技術的なイノベーションが必ずや我々を救ってくれるだろうと主張していた、オンラインであれオフラインであれ、非常に規模と声の大きい集団のことを思い出すだろう。そして、トランジションタウンや何らかの類似のイデオロギーが我々を救ってくれるだろうと主張し、奇妙なことに、提唱者たち自身が実践することに全く興味を持っていないようなライフスタイルを、人々が熱狂的に受け入れるだろうと主張していた、オンラインであれオフラインであれ、また別の非常に規模と声の大きい集団のことを思い出すかもしれない。最後に、これまた別の非常に規模と声の大きい集団が、オンラインであれオフラインであれ、何らかの絶大な終末的事件によりすべてが無力化され、いずれすぐに、ごく少数の疲れ切ったサバイバーはゴミあさりや狩猟採取のライフスタイルへと戻り、その一方で他の70億人は、フランス語のシャレた言い回しにもある通り、タンポポを根っこの端まで噛むことになるのだ。

我々の仲間の中で、それよりも人気のないことを言った人たちがいた。壮大な技術的ブレークスルーは起こらず、壮大な社会の覚醒も起こらず、壮大な終末論的大惨事も起こらないと我々は予測した。加えて、これらが起こらないという確固たる理由も示したのだ。代わりに、 需要破壊 デマンド・デストラクションと一時的な小細工の組み合わせがものごとを継続させ、生活水準は継続的に下り坂を進み、人々は何も間違ったことが起きていないというフリをするために、政治と社会がますます破壊され不合理化すると予測した。そして、私が "長期没落" と呼んだ長きにわたる不規則な衰退のプロセスが速度を上げ続けていくと予測した。

このようなことを言ったために、私はありとあらゆる形で非難された。そのような主張をした他の人に言うことは特に無いのだが、しかし、同じ1つの記事が、テクノフィックスと壮大な社会変革の信奉者からは単なる厄介な悲観主義として、突然の黙示録の信奉者からは単なる盲目的な楽観主義として激しく非難を受けたことは、私にとって定期的な喜びであった。現時点において、けれども、2008年の原油価格急騰からの10年ほどを振り返ってみると、2つのことが極めて明らかになる。1つ目は、そのような非難をしていた人々は間違っていたということである。2つ目は、我々のように自分の主張を守り続け、広く人気のある主張に不同意であった人々が正しかったということだ。

それでは今は? この先の数十年も、同じことが更に起こり続けるだろうと私が予測したとしても、読者諸君にとっては耐え難い驚きではないだろうと信じている。

そもそも、我々の苦境の厳しいリアリティは何ら変化していない。このエッセイを投稿した前日には、人類は約1億バレルの原油、2100万トンの石炭、90億立方メートルの天然ガスを燃焼させた。その前日にも同量を燃焼させており、今日も、明日も、明後日も同じ量を燃焼させるだろう。人類が使用するエネルギーの大部分 - おおよそ80%程度、ほぼあらゆる輸送用燃料を含む - は、これら3種類の化石燃料に由来している。(太陽光と風力は、盛んに喧伝されているものの、全世界の総エネルギー生産の約3%程度しか占めていない。) そのすべての炭素はどこかから得なければならないし、そのすべては燃焼した際にどこかに行かなければならない。

ほぼすべての炭素が由来するのは、世界中の着実に減耗しつつある化石燃料の埋蔵である。石油会社は新しい油田を発見するために世界中を調査しているのではないか? 確かに。毎年の新たな埋蔵量の発見は、古い油田の埋蔵量減少と等しい量なのだろうか。まったくそれには届かない。もしも、一年に数十万ドルを支出する一方で収入が1万ドル程度でしかないとしたら、当初の貯蓄がどれほど膨大であったとしても、いずれは貧困に陥るだろう。化石燃料についても同じロジックが当てはまる。

それは、いずれすぐに工業文明が化石燃料の枯渇により崩壊するということを意味するのだろうか。ノーだ。けれども、将来、原油価格が上昇し急騰するにつれて、そのような主張が頻繁になされるのを耳にすることだろう。それは、今日の総エネルギー生産のなかでごく僅かな割合しか占めていない太陽光や風力テクノロジーが、バカげたまでに浪費的な我々のライフスタイルを魔法のように支えられるようになることを意味するのだろうか? あるいは、何らかのエキサイティングな新しいエネルギー技術がどこからともなく現れて、すべてを解決することを意味するのだろうか? 同じ主張が、1970年代と2000年代のエネルギー危機の最中にもなされていた。読者諸君には、周囲を見渡してそれが正しかったかを確かめることを勧めたい。

ノー。実際に起こることは、エネルギー価格が上昇し、人々はパニックに陥り、経済は急降下して身震いし、問題を抱えた時代を迎えるということだ。その後、別のラウンドの必死の間に合せの手法がシェールオイルよりさらに汚く高価な液体燃料源を発見し、別のラウンドのデマンド・デストラクションが、より多くの人を貧困に追いやり、茶番は続けられる。燃料価格が急騰前の水準に戻ることは決してなく、エネルギー費用は経済活動への更に大きな負担となり、世界金融システムは自由市場のフィクションを維持するために、ますます異様な形にねじれていく。かつては普通と考えられていたライフスタイルが、ますます多くの人々にとって手の届かないものとなる。

その一方で、壮大な技術的ブレークスルーないしは壮大な社会運動、あるいは壮大な終末論的災害を予期している人々は、何が起こったのかを疑問に思いながら、塵の中に取り残されるだろう。ちょうど、過去2回の石油価格急騰の際、それらが現れなかったのと同じように。イエス。それはまったく同じものであり、細部に至るまで同様である; 今日、革新的なエネルギーイノベーションとして推進されている技術 - 太陽光発電風力発電、増殖炉、核融合、リストはまだ続けられる - が、私の少年時代に推進されていた技術と正確に同一であるということは、私にとって確かな娯楽の源泉である。また、率直に言えば、目立ったイノベーションも壮大な社会運動も壮大な終末論的災害も起こらなかった。我々の文化の常として、アイデアが最先端で革新的であると言い立てられるほど、現在90歳代の人々が誕生した時には既に存在ていた、完全なる非オリジナルの焼き直しである可能性は極めて高い。

しかし、話は脱線する。ほぼあらゆる炭素が向かう先は、代わって、地球の大気であるが、そこでは世界の気候の微妙なバランスが損なわれている。終わりなき誤解に陥らず、このことについて会話できるようになるまでにはまだ数十年が必要になるかもしれない。なぜならば、気候変動活動家たちは、これらの主張を伝えることについて驚くべきほど無様な仕事しかできなかったというだけではなく、様々な種類の不毛なアジェンダを抱いた特別な利害関係者に自身の主義主張をハイジャックされ、歪められることを許してきたからである。その意味では、現在我々が直面している複雑な変化を、あまりに単純すぎる「 地球温暖化 グローバル・ウォーミング」という名前にまとめてしまったことは、印象的な科学的愚行である - トマス・フリードマンによる「 地球奇怪化 グローバル・ウィアーディング 」という名前のほうがはるかに正しい。しかし、これは活動家たちが提唱する物語にフィットしないのだ。

地球の気候は、最も単純な用語へと還元すれば、太陽と深宇宙の温度差によって駆動する熱機関である。1772年には、ジェームズ・ワットは、蒸気機関から外部に失なわれる熱の割合を減らすことで、当時使われていた原始的な蒸気機関の効率を高め、そうしてより多くの仕事をさせる方法を発見し、産業革命を開始したのである。大気に温室効果ガスを加えることは、これとまったく同じことを行う。そして、地球の気候が行う仕事は「天気」と呼ばれる。ゆえに、温室効果ガス汚染の結果は、気温の定常的増加などではない - あらゆる種類の極端な天候事象の増加である。

それは、いずれすぐに工業文明が気候関連のカタストロフィにより崩壊することを意味するのか? ノーだ。けれども、将来、そのような主張が頻繁になされるのを耳にすることだろう。それは、太陽光と風力、あるいは何らかの新エネルギー技術が我々を救ってくれることを意味するのだろうか? ノーだ。けれども、将来、そのような主張が頻繁になされるのを耳にすることだろう。ここでもまた、1970年代と2000年代のエネルギー価格急騰の際にもそのような同一の主張がなされ、同じような疑わしい結果をもたらした。

ノー、実際に起こることは、気象関連災害による年間コストが毎年毎年不連続に上昇していき、数十年のうちに、経済活動に対してまた別の重荷を課していく。かつては普通と考えられていたライフスタイルが、ますます多くの人々にとって手の届かないものとなる。新たな災害が発生するたびに、保険会社の支払いや政府の資金が需要をまかなえなくなるために復興はますます少なくなる。以上なほどに気象災害に対して脆弱であるアメリカの田舎は、静かに19世紀の状況へと戻っていくだろう。沿岸部の貧しい地域は、ゆっくりと暗黙のうちに、上昇する海面に沈んでいく。その一方で、壮大な技術的ブレークスルーないしは壮大な社会運動、あるいは壮大な終末論的災害を予期している人々は、何が起こったのかを疑問に思いながら、塵の中に取り残されるだろう。

それが我々の未来の形である。同様に覚えておく価値があるのは、化石燃料だけが、自滅的なまでの速度で消費されている非再生可能資源ではないということだ。その意味では、地球の気候だけが、自滅的な速度で汚染されている自然システムではないとも言える。ケネス・ボールディングがかつて指摘した通り、有限の地球上で無限の経済成長が可能であると考えるのは、狂人かエコノミストだけである。現実の世界では? - 我々が、否応なしに住まざるをえない世界では - 作用には反作用が伴う。経済成長のペダルを全力で踏み締めようとすることは、単に燃料の枯渇を早める意味しか持たない。

それが長期没落のロジックである: ゆっくりとした、不連続で不均衡なペースで進む冷酷なプロセスであり、資源ベースをオーバーシュートした文明を歴史のゴミ箱の中へと収めるプロセスである。西洋世界は、その軌跡を1世紀以上にわたって進んでおり、非工業化した暗黒時代の底に行き着くまでにはおそらくもうあと数世紀を要するだろう。この先の数ヶ月、通常通りの中断を挟みながら、我々がひきずり下される軌跡の各々の場所で何が起こるのかを調べてみたいと思う。次の記事では、私はそのうちの1つについて語るつもりである: 差し迫ったピークオイルの逆襲である。