Going Faraway

渡辺遼遠の雑記帳

暗号通貨バブル崩壊中の今こそ読みたい『大暴落 1929』(ジョン・ケネス・ガルブレイス)

古い映画の話で恐縮ですが、『愛と悲しみのボレロ』の冒頭には、「人生には2つか3つの物語しかない。しかしそれらは繰り返されるのだ。その度ごとに初めてのときと同じような残酷さで。」という言葉がありました。
金融市場に眼を向けてみると、バブルとその崩壊、そして忘却という3つの物語が、何度も何度も、初めてのときと同じような残酷さで繰り返されているように見えます。

大暴落1929 (日経BPクラシックス)

大暴落1929 (日経BPクラシックス)

本書は、1929年に発生したアメリカの株式市場のバブルと暴落を扱ったルポタージュです。もともとは1950年代に発売された本ですが、以来60年以上出版され続けています。この本には、単なる経済現象の記録を超えた、時代が変わりテクノロジーが進歩しても変化しない、人間の心理に対する深い洞察が含まれているからなのだろうと思います。

バブルとその崩壊に直面した人間は、今も昔もほとんど変わらない行動をするようです。いったん投機ブームが始まると、皆が群れをなして市場に参加し、懐疑的な警告を発する人間は、好況に水を指すけしからん奴、「反逆者」「破壊工作者」という扱いを受ける。政府の経済政策担当者は、状況を放置しておけば更に酷い結果になるということを理解していても、投機の終了の引き金を引いた「戦犯」と非難されることを恐れ、誰も意味のある介入をすることができない…

特に、株価の崩壊が始まった1929年10月19日から11月初頭までの出来事は、1日1日が時系列に沿って詳細に語られており、陳腐な言い方ですが、金融市場の崩壊を目前にしているような臨場感があります。
すなわち、ひとたび上昇基調が終わり「本当の」下げが来たとしても、崩壊の只中ではそれを認識することができず、皆が「ファンダメンタルズに変化はない」「状況は基本的に健全である」という言葉を口にし続ける。その中でもポジションを持ち続ける人間は、合理的に将来を予測するのではなく、むしろ「政府や大銀行やあるいは何者か利害関係者が集団で買い支えてくれるかもしれない」といった気休めの情報を探し、安心を求めるようになる…

 過去、投機的バブルにおいて全く同じことが繰り返されてきており、現在も、おそらく未来にも、何も変わらず同様の出来事が起こるのだろうと思います。
私が長いレビューを書いて紹介するよりも、皮肉で辛辣な名文家であるガルブレイスの文章をそのまま引用したほうがはるかに良い紹介になると思うので、いくつか印象に残っている箴言を抜粋しておきたいと思います。

・私は予想しない。予想というものは、当たったことは忘れられ、外れたことだけが記憶に残る。それでも、目の前にあるのが昔から繰り返されてきたおなじみのことだとは言える。(p.7)

・時が経つとともに、値が上がるという事実だけに目を奪われ、なぜ上がるのかを考えようとしなくなるのは、投機のもう一つの特徴である。(p.21)

・知識があろうとなかろうと、不況の到来を予想することは誰にもできないのであって、それは当時もいまも変わらない。(p.51)

・経済というものは、毎度のことながらはっきりしたターニング・ポイントは示してくれない。きっかけとなる出来事はいつも曖昧で、どれが発端だったのかわからないことさえある。(p.140)

・この種のことではまちがった根拠で正しい結論に達しても評価されないのが現代社会での通例で、立派な方法でまちがう方がはるかによいとされる。(p.141)

・およそどんなきっかけからでも崩壊するというのが、投機ブームの性質だからである。(中略)何が最初のきっかけになったのか、それはわからない。それにたとえわかったとしても、さほどの意味はないのである。(p.153-154)

・[フーバー大統領が行なっていたことは] 何かをするためでなく、何もしないために開く集まりである。これは現代でもさかんに行われている。(中略) やるべき仕事があるからではなくて、やるべき仕事をやっているという印象を与えるために開く会合というものもある。(p.226-227)

・事態が悪化していると知りながら、人はあの言葉を口にするのだ--状況は基本的に健全であると。(p.308-309)