Going Faraway

渡辺遼遠の雑記帳

それで、あなたは勉強しているんですか?

学校で、iPadを1人1台に持たせると何が起きるか?

http://diamond.jp/articles/-/41997 

インターネットとタブレット端末の普及によって、ITを利用した教育法が盛んに宣伝されていますが、私は教育分野でのITの有効性には懐疑的です。

そもそも、普通の人がITを使って勉強しているとは思えないからです。

電車の中でスマホやタブレットを使っている人の手元を覗き込んでみると、たいていはtwitterfacebookなどのSNSを使っているか、ゲームをしているか、あるいはニュースサイトを読んでいる人ばかりです。

自分の経験から言っても、仕事が終わった後の電車の中でわざわざ勉強をしようという気にはなりません。自分のスマホにも、一応はTEDやら電子書籍やらの勉強関係のアプリが入っています。でも、起動するのは2chやらtwitterやらゲームやらです。学ぶ環境が整っていたとしても、人間は自主的に勉強するようにはなりません。

更に言うなら、親なり社会なりができもしないことを、進んで子供がするようになるのでしょうか。子供は親の言うことではなく、親の行動を見て育ちます。(私の親は文教関係の職業に就いていたため、家には割と多くの本がありました。自分が読書好きになったのはその影響があります。) 自分ができないことを子供に求めてタブレットを買い与えたとしても、せいぜい高価なオモチャにしかならないでしょう。

今の教育とITに関する議論を見ていると、勉強の手段さえ変えれば全ての問題が解決し、新しい何かが生まれると考えられているように思います。例えて言うなら、新しい語学参考書を買った後、実際に勉強を始める前に、その外国語を喋っている自分を想像して高揚感を感じている時期のように。

ITの教育利用は、(私の)失敗した語学学習のように三日坊主で終わらないで欲しいと思います。

M・キング・ハバートの引用句

Wikipediaで見たハバート氏の言葉が印象的だったのでメモ。

I was in New York in the 30’s. I had a box seat at the depression. I can assure you it was a very educational experience. We shut the country down because of monetary reasons. We had manpower and abundant raw materials. Yet we shut the country down.

We’re doing the same kind of thing now but with a different material outlook.We are not in the position we were in 1929–30 with regard to the future.Then the physical system was ready to roll. This time it’s not. We are in a crisis in the evolution of human society. It’s unique to both human and geologic history. It has never happened before and it can’t possibly happen again. You can only use oil once. You can only use metals once. Soon all the oil is going to be burned and all the metals mined and scattered.

M. King Hubbert - Wikipedia

 

以下、拙訳。

私は1930年代のニューヨークにいた。特等席で大恐慌を目撃したというわけだ。大恐慌の経験は、きわめて教訓的なものであったと言えよう。当時アメリカは、貨幣的な理由で休業状態に陥っていた。我々の国にはマンパワーと豊富な資源があった。それにもかかわらず、休業状態にあったのだ。

今日も当時と似たような状況にあるけれども、資源的な意味での先行きは異なっている。未来を考えると、現在の我々の状況は1920~30年代とは違う。当時は、物理的なシステムは稼動可能な状態だった。現在はそうではない。我々は、人類社会の進歩の危機の只中に居る。人類と地質学の歴史の両面で、特異な状況に位置しているのである。こんな状況はかつて起きたことがないし、またおそらく将来においても再び起こることはないのではあるまいか。石油はただ一度きりしか使えない。金属も、たった一度しか使うことができない。すぐに全ての石油は燃焼し尽され、全ての金属は採掘し尽されて消滅するであろう。

 

シモーヌ・ヴェイユ『自由と社会的抑圧』のエネルギー問題に関する議論について

以前、ブログを読んでくれている友人から、20世紀フランスの哲学者 シモーヌ・ヴェイユが、ある論文の中でエネルギー問題を扱っている、と教えていただきました。

エネルギー問題の議論に関する歴史として注目すべき事例なのではないかと考え、該当部分を引用しておきます。

…動物の労力、石炭、石油など、呈示される[エネルギーの]様態はさまざまであるが、自然がエネルギーを無償で与えることはない。われわれは労働によって自然からエネルギーを奪いとり、固有の目的にあわせてエネルギーの形態を変えねばならない。しかも労働が時間の経過とともに軽減されるとはかぎらない。現実には逆の事態が生じている。石炭や石油の採掘では、継続的かつ自動的に、収益は減り、経費は増えている。加えて、既知の鉱脈はわりあい短期間で枯渇する定めである。あたらしい鉱脈の発見もありうる。ただし、採掘にむけての調査や敷設など、どれもこれも経費がかかる。しかも、そのうち何割かはおそらく頓挫するだろう。そもそも一般論として、未知の鉱脈がどれほど存在するのかを、われわれは知らない。いずれにせよ埋蔵量は無尽蔵ではない。

いつの日か、人間はあたらしいエネルギー源を発見するだろうし、おそらく発見する必要にも迫られるだろう。ただし、それを活用するにあたって、石炭や石油を活用するよりも少ない労働ですむという確約はない。逆もまたありうる。下手をすると自然エネルギー源の活用には、それが代替するはずの人間の努力をこえる労働を求めかねない。こうした領域では偶然が決定権を握っている。新種の入手しやすいエネルギー源の発見、もしくは既知エネルギーに変容する安価な手順の発見というものは、方法にのっとって思索し時間をかけさえすれば確実に到達できるとはかぎらない。科学の発展を外部から総括的に観察する習慣のせいで、われわれはこの点について幻想をいだいてしまう。科学上の成果には科学者による理性の賢明な運用にもっぱら依拠するものがある一方で、幸運なめぐりあわせを条件とするものもあることを、理解しないからだ。自然の諸力の活用は後者に属する。たしかに、あらゆるエネルギー源は確実に変換できる。しかし、科学者が経済的に有益な事象に研究過程でめぐりあえる確率は、探検家が肥沃な土地にたどりつける確率とおなじく、きわめて低い。これについては、あれほどさかんに喧伝されながらもから騒ぎに終わった、海熱エネルギーをめぐる例の有名な実験に、教訓とすべき実例をみいだせよう。 

 

シモーヌ・ヴェイユ『自由と社会的抑圧』 富原眞弓訳 岩波書店 P.25-27

 ヴェイユの論文が出版されたのは1934年であり、当時人類はまだ、1970年代の、そして現在進行中の深刻なエネルギー危機を経験していませんでした。しかし、後世のピークオイル論者が前提としている論点に、純粋な論理的思考だけで到達していたことには驚かされます。つまり、以下のエネルギー資源開発に関する事実です。

  • エネルギー資源開発は偶然に左右され、エネルギー的な意味での投資の利得 (EROI) は、技術的知識の積み重ねのみによって常に改善されるものではないということ
  • 資源採掘の費用対効果は、開発が進むに従って低下する傾向があること
  • 自然エネルギーは、一般的には化石燃料よりも利得が低いこと

ヴェイユ自身はエネルギー問題の専門家でありません。この文章の主題は、マルクス主義者と資本主義者の両者が、技術的観点からの人類の進歩が歴史的必然だと主張していることを批判するものであり、あくまでその一例としてエネルギー問題を取り上げているに過ぎません。

しかし、エネルギーの専門家ではない彼女がこの問題を取り上げていることから考えると、現代のピークオイル論者による議論は、少なくとも80年以上前からヨーロッパの知識人が問題視してきたと言えるのではないでしょうか。