Going Faraway

渡辺遼遠の雑記帳

翻訳:時の果ての踊り子たち Part 2: 「事実は真実の敵」 (ジョン・マイケル・グリア)

ジョン・マイケル・グリアによる2019年11月6日の記事の翻訳です。

Dancers at the End of Time, Part Two: “Facts are the Enemies of Truth”

先週、この記事の第1回目では、最近、多くの人々がある種の政治的な問題について、明確に、または完全に思考する能力を失ったように見える奇妙な現象について検討した。哲学者アラン・ジェイコブズと、「ジェーン」を名乗る聡明なブロガーからの洞察を通して、この奇妙で自滅的な習慣の背後にある精神障害に迫ることができた。我々の意味と価値についての感覚は、神話とも呼ばれる共有された物語への個人的関与からもたらされるが、我々の精神が健全である場合は、そのような物語と実際的な関心との間でバランスを取って、我々の遭遇する世界において、好みの物語がもはや機能しないときには気づけるように、細心の注意を払っている。

神話的な経験モードと実際的な経験モードの間で相互にバランスを取るという習慣を、最近、あまりに多くの人が見失っている。そのような人々にとっては物語だけがすべてであり、もしもその物語の要求することが世界に起こらないとしたら、それは世界が誤っているのである。ミュージカルの『ラマンチャの男 ドン・キホーテ』が軽やかに宣言する通り、「事実は真実の敵」なのである。しばらく前に、これと実質的に同じ言葉を、民主党の大統領候補ジョー・バイデンが口にした - ジョークでも、ミュージカルへの言及でもなかった - のだが、控え目に言って、驚くようなことであった。

ドン・キホーテは、ここで議論しようとしている種類の誤りについて極めてすぐれた描写を提供している。ミゲル・デ・セルバンテスの優れた風刺小説を読んだ者であれば思い出すであろうが、穏かな郷士であったアロンゾ・キヤナが、最も きしがい ・・・・ [errant] じみた騎士道物語 [knights-errant] を演じた理由は、当時の誇張された騎士物語にあまりにもハマりすぎたからであった。ポップなフィクションにハマる行為が、純粋に現代的な現象であると捉えている読者は、ガウルのアマディスをご存知ないのであろう。それは15世紀の指輪物語に相当する作品である。トールキンの作品と同じく、それは爆発的なファンタジーのベストセラーであり、膨大な、ほとんどが見るにたえない模倣とコピーの業界を生み出した; セルバンテスの小説では、キヤナがニセのヒーローもののポップカルチャーへ強迫的にハマったことこそが、現実世界との繋がりを喪失し、実在しない巨人との戦闘へと向かった原因なのであった。

言わば、ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャは、現在「フィクションキン fictionkin」と呼ばれる現象の、最初の、そしておそらく最も優れた描写であろう。

現代オンラインポップカルチャーの奇妙な片隅で長い時間を過したことのない読者諸君のために、この語の解説が必要かもしれない。今日では、誰もが性同一性障害の現象について多かれ少なかれ知っているのではないかと思う。つまり、自分は間違った性別の身体に生まれてきてしまったと信じる人々の状況である。(公平に言えば、そのような人々の状況は、少なくとも、何らかの測定可能な生物学的要素と関連した原因が認められるのではないかと思う。) 同じベクトルを更に伸ばして、いかなる生物学的な正当性もなく、"人種同一性障害" および、異論の多い現象である「トランス人種」を発見できるだろう。つまり、あらゆる客観的な指標から見て、当人が属していない人種グループに所属していると信じる人々である *1 - レイチェル・ドレザル*2民主党大統領候補者のエリザベス・ウォーレンはこの著名な事例である。また、同じく論争的な現象である "トランス障害者" がいる。自分は特定の身体的障害を持って産まれてくるはずであったと信じる人たちで、一部のケースでは、自分が持つべきであると信じる障害を得るために外科手術を受けることもある。

同じ道を更に遠くへ進めば、「アザーキン otherkin」を見つけられる。間違った種の身体に産まれてきてしまったと信じる人々である。ある場合では、そのような種は実際に存在することもある - しばらく前、私は、本当は自分は農用馬なのだと信じている若い男とかなり長く話したことがある。彼は化石燃料不足の未来における馬による農業の可能性について、きわめて多くの主張を持っていた - 一方で別のケースでは、そのような種は、ドン・キホーテが闘いたいと望んだ巨人や竜のような幻想であることもある。今日のインターネットの適切な片隅を頻繁に訪れるなら、アザーキンの人々に使う適切な代名詞の、強迫的に詳細なリストを発見できるだろう: たとえば、「チャー/チャーズ/チャープセルフ chir/chirs/chirpself」 は、自分を鳥類であると自認する人々の代名詞である、など。

その道の終わりには - まぁ、少なくともこの場では - フィクションキンがいる。本、テレビ、アニメ、その他何であれ、自分はフィクションのキャラクターであると信じる人々である。これは、経験の神話的モードにおいて中心的な、通常の空想的な関与を意味するのではない。また、単なるコスプレを意味するのでもない。反対に、フィクションキンは、自分が本当に何らかのフィクション上のキャラウターであると信じる人々であり、そのキャラクターのアイデンティティを24時間365日保ち続ける人である。単なるお芝居ではない; 何かもっと大きな問題が進行しているのである。

今年 [2019年] 初め、ある若い女性が、ボーイフレンドがこのような状態に陥っていく過程を、Redditの板 r/relationshipadvice に投稿した。最終的には、投稿はサイト管理人によって削除されたのだが、削除される前にバイラルを起こしていた; これが、投稿当時のままのウェブサイトを保管しているコピーサイトである。簡潔に言えば、彼女のボーイフレンド、典型的なお喋りのオタクっぽい若者が、『Loveless』のアニメシリーズを一気視した後で、劇的なパーソナリティの変化を起こしたのだという。彼は数週間を非常に静かに引き込もって、Lovelessのマンガ版を読んで過ごしたのだ。そしてその後突然に、柔らかで、笑顔で、幸福な、奇妙に人工的な状態へと変化したのだという。彼女がボーイフレンドにこのことを問いただした時、彼は自分が本当はLovelessの主人公であるソウビだと気付いたのだと言った。

それだけではなかった。その若者は、2人きりのときには常に自分をソウビと呼ぶようにとガールフレンドに要求したのである。男は、恋人のことをリツカと呼び始めた。ソウビの12歳の恋人 *3 である。そして、ベッドではリツカのロールプレイをするよう要求したのであった。ソウビのヘアスタイルを真似るために、彼は髪を伸ばした。アニメとマンガのソウビの服装と同一の服装に変えるために、クローゼットを空にした。ソウビと似た伊達眼鏡を掛けた。以前の彼の習慣、行動やパーソナリティの特徴は消え去り、アニメキャラから借用した商品に置き換えられた。ガールフレンドは、何度も何度も何度も、彼に協力しようとした - そして、偽のソウビは、当時未成年であったトランスジェンダーの人物を加えて三人組を作ろうと言い出したのだが、それは彼が正気であった時には決してしなかったであろう行動であった。ついにガールフレンドはもはや付き合い切れないと思い至り、恋人と別れたのである。

恐しい話である; 誰か他人が精神的な疾患に陥っていくのを目撃した人にとってはお馴染みの話であろう - もちろん、それが我々の議論していることだ。そのプロセスは、セルバンテスドン・キホーテの序章で明確に描写している事象と一致している: 精神のタガが次第に緩んでいき、その後、現実世界との最後の繋がりが急に途絶え、狂気の淵に常に存在していた薄暗い光が突然爆発し、種々の適切な外観により新たなアイデンティティを獲得する試みが始まる - ドン・キホーテの場合では、曾祖父の鎧を狂ったように磨くことであり、そのすぐ隣にはニセのソウビのヘアスタイルと伊達眼鏡を身につけることが並ぶ - その後、実際的なモードが沈黙してしまうと、その振る舞いはますます奇妙になっていく: そのすべてが、人々が狂気に陥っていく典型的な過程の、古典的描写である。

私は、このような物語についてあまり普通ではない視点を取り上げたい。私はフィクション作家であり、つまり、想像上の人々と長い時間を一緒に過ごしているからだ。私の小説のキャラクターたちは生き生きとしており、イマジネーションの中で確固たる存在を持つ。そして彼らはいくぶんか自律的である - つまり、小説の登場人物たちは単に私が命じたことだけを行なうのではない。たとえば、私が『ショゴス・コンチェルト』という小説を書き始めたとき、ブレッケン・ケンダール - その物語の主人公で、ニュージャージー州の架空の州立大に通う混血の音大生 - が、小さなショゴスと友達になることを知っていた; しかし私には、その関係が最終的にどうなるか分からなかった。彼女がショゴスにショーというニックネームを付けるまでに至り、私はかなり驚いたのだ。

強調しておきたいことは、これはブレッケンやショーが、私やあなたと同じ意味でリアルであることを意味するのではないということだ。ギリシアの哲学者サルスティウスによるいかにも気の効いた言い回しを借りれば、小説のキャラクターは、サルティウスが語っていた神話と同じく、決して起こらないが常にそうであるものごとなのである。フィクション作品を読むことは、前回の記事で議論した通りの神話的モードへの想像力による関与をもたらす。それは意味や価値観を変容させる経験の強力な源となりうる。それこそがフィクションというものであり、しばしばフィクションが我らの時代における神話として働く理由である。

このような経験を引き起こさない物語は、偉大な文学作品たりえない。かなり前に、ハリウッド俳優のマーク・ハミルが、個人的な倫理観と人生へのアプローチの形成において、バットマンのコミックが果たした役割についてコメントしていたことを読んだのを思い出す。ディック・グレイソンあるいはロビン・ザ・ボーイ・ワンダーの冒険は、ハミル少年が最もヴィヴィッドにのめり込んだものであった。少年時代を通して、倫理的・個人的な困難に直面すると、最初に彼が自問することは「ロビンであればどうするだろう?」であったという。コミック本と共に育った人でなければバカバカしく聞こえるかもしれない。しかし、ハミルは決して唯一の事例ではない; バットマングリーンアローは、私自身が子供であったころに最も熱心に読んだ冒険であったのだが、それと似た効果をもたらした。コミック本は、若いアメリカ人の数世代にとってフォークロア神話として働いている。あらゆることを考慮しても、私はそれが悪いことであったとは思っていない。

けれども、ハミルは自分自身がディック・グレイソンであると信じ込むという罠に陥っていないことに注意してほしい。彼は、ロビンのスーツを着込んで、バットマンが現れてバットケイブへ連れられ犯罪と戦う生活を、来る日も来る日も待ち望んでいたのではない。彼は、経験の神話モードと実際モードのバランスを保ち、物語への想像的な参加による利益を得ていたが、現実の代替として物語を使用することはなかった - つまりは、彼は正気であり、狂っていなかった。

同じような区別は、純粋な個人的関心を超えたレベルでも見られる。社会の全体でも、そのようなボーダーラインの一方に倒れることがありうる。もしもそのような社会があまりにも不運であれば、逆側へと倒れるかもしれない。アメリカ社会は、ここではあまり良い事例ではない。部分的には、それは我々の歴史からもたらされる神話的モードへの態度が、複雑で不毛であるからであり、部分的には、次の記事で議論する理由による。他のほとんどの社会では、神話に向かう態度はもっと健全である。神話的モードの思慮深いクリエイティブな使用方法の、1つの優れた事例としては、ネイティブアメリカン部族のスピリチュアリティに関する古典である、ジョン・ナイルハルトの『ブラック・エルクは語る』のページで詳細に解説されている、ラコタ族の風習が挙げられるだろう。

その本を読んだことのない方のため、簡単に言えば、 黒ヘラジカ ブラック・エルク として知られるネイティブ・アメリカンの人物が、少年期に激しい幻覚を経験し、以来聖者と見なされるようになった。ブラック・エルクがシャーマン的なトランス状態から回復し、自分の見たビジョンを語ると、長老たちはそれを聞いて議論し、その暗示を考えて、それは受け入れるに値すると考えたのだ。ひとたびそのようなプロセスが完了すると、部族全員がそれを礼拝の儀式として定め、スピリチュアルな修練とイマジネーションのリソースとして、部族の口承文学の一部となしたのである。

ほとんどの伝統社会では、これと同種の適正検査プロセスが存在する。それが、弘法大師伝教大師、中国から日本へ仏教の密教を持ち込んだ僧侶たちが、日本への帰還後にその教えを天皇へ示し、天皇の宗教専門家集団から好意的な判定を受けた後でなければ、自身が学んだ教えを広めることが許されなかった理由である。それが、ローマに寺院を建てたいと考えた新たな宗教運動は、建設を進める前に頑固で懐疑的なローマ元老院の老人たちから許可を得なければならなかった理由である。経験の神話的モードは、人生と健康と意義の源泉となる一方で、狂気と厄災の源泉ともなりうる。伝統社会はそれを知っており、それに従って行動していたのだ。

そのため、ある伝承によれば、1870年代後半、ウォヴォッカという名のパイユート族の男が、グレートプレーンズのネイティブ・アメリカン部族のより良き未来のビジョンを受けたとき、パイユート族長老たちの最初の反応はそのビジョンを拒否することであった。そのような拒否には理由もあった。ウォヴォッカのビジョンが教えていたのは、もしネイティブ・アメリカンの人々が自身を純化し、聖なるダンスを踊れば、白人の侵略者は無力化され、バッファローは帰り、祖先たちは復活し、あらゆる悪と死は永遠に消滅するということだった。パイユート族の長老たちがなぜそのような決断を下したのかという理由は伝わっていないが、しかし、グレート・プレーンズのネイティブ部族は決して愚かではなかった; 彼らは厳しい環境下で何世紀にもわたって生き延びており、神秘的な体験を建設的に扱う、微妙で効果的な方法を知っていた。Lovelessやガウルのアマディスよりもはるかに奇妙で非現実的な物語を、文字通りの真実として受け入れない程度の分別はあったのだ。

けれども、そのレベルの明晰さは、続く数年の間、グレートプレーンズの部族がもはや後のない状況に追いやられるにつれて、維持が困難になった。東方の、人口も技術的にもはるかに圧倒的な社会による侵略と征服に直面し、彼らは1世代以上も絶望的な戦争を戦い続けなければならなかった。そこでは、最も圧倒的な勝利でさえ、単に侵略者がより大きな力で戻ってくる前のつかの間の休息でしかなかった。あらゆる社会が暗黙のうちに世界と代わす取引 - 我々はこのように生きる、そして世界はそのような生き方を可能とする状況を維持する - は、後戻りできないほどに破壊された。そして、プレーンズの部族の多数は、耐えがたい現実から抜け出す方法を与えてくれると思われるものは何であれ、それを喜んで受け入れるまでになったのである。

1889年1月1日、日食が起きた。日食の間、ウォヴォッカは以前より更に詳細なビジョンを受け取った。このときは、彼のビジョンは広く受け入れられた。グレートプレーンズの全体で、ネイティブ部族は、後に幽霊ダンスと呼ばれるようになったダンスを受け入れた。ウォヴォッカの指示に従い、自身を純化するために聖なるダンスを踊った。突飛な噂が広がっていった。ウォヴォッカの元のビジョンを詳細化し、幽霊ダンスのために作り上げられた精巧なダンス用シャツを着用すれば、銃弾を跳ね返せるというのだ。パイユート族の地方からカナダ国境に位置するラコタ族地方に至るまで、ネイティブ部族はダンスを踊って、侵略者が無力化され、祖先とバッファローが帰ってくる輝かしい希望を待ち続けたのだ。

その代わりに、1890年12月28日に起こったのはウンデッド・ニーの大虐殺 *4であった。大砲、そして当時最新鋭のホチキス機関銃で武装したアメリカ兵が、大部分が非武装ラコタ幽霊ダンサーの集団に攻撃を加えたのだ。幽霊ダンサーシャツは、銃弾と砲弾の嵐から守ってくれなかった。153名が死亡し、ほとんどが女性と子供であった。その後すぐ、侵略者に対する最後の抵抗は潰えた。事実が真実の敵と化したときには、言い換えれば、たいていの場合、敵対者よりも更にやっかいな敵と衝突することになるのだ。ドン・キホーテが、風車を戦うべき巨人と見間違えたときには、ただ打撲を負い恥をかいただけであった。ゴーストダンサーたちは、それほど幸運ではなかった。

きわめて長い期間にわたって、西洋の人類学者は、幽霊ダンスやその他同種の事象 - そのような事例はきわめて多数あり、特に16世紀から19世紀までのヨーロッパの世界制服キャンペーンへの反応として多く見られるが、しかしそれだけではない - に対し、不毛な精神性である 自民族中心主義 エスノセントリズム から、あるいは、おそらく、 技術中心主義 テクノセントリズム からアプローチしてきた: すなわち、そのようなことは純粋に「原始的な」人々のみに、ヨーロッパ人が先進的と考えるテクノロジーを欠いた人々のみに見られるもので、聖なるシャツの着用や聖なるダンスといった神話志向の行動では、大量の火力に勝利できないと認識できないほどに単純な考えを抱いているという偏見である。古い人類学の論文誌には、その分野の学者たちが言うところの「再興運動」について大量の文献がある; 価値のある例外はあるものの、その種の文献のほとんどには、今述べた技術中心主義的な傲慢さが、少なくともその痕跡が存在している。

単純な優越感による無知な捉え方は、20世紀まで生き延びるべきではなかった。ナチズムと共産主義という苦い事例は、当世の科学と疑似科学から語を借用して着飾った古典的な再興運動が、地球上で最も進んだ技術的な社会でも栄えることができると示している。更に最近では、2012年12月21日のマヤ歴の偽予言を取りまく希望的観測のバカ騒ぎは、再興運動のほとんどの特徴を備えている。また、率直に言えば、その狂った信念体系の支持者は、ほぼ例外なく、快適で、教育のある中上流階級の現代アメリカ社会からもたらされた。

再興運動の中心である集団的な妄想へ人々を駆り立てるものは、言い換えれば、現代テクノロジーや現代教育の有無とはいかなる関係もない。それは、この記事で取り上げた若い男を狂気の縁へと追い立てたのと同じ力である。アニメキャラとしての妄想的なアイデンティティを取らせた個人的・社会的な原因は、彼を個人的に知らない我々にとっては、推測不可能である。一方で、今日のアメリカ社会の "満足した階級" に、この連載の最初の記事で議論した通りに、理性からの逃避を起こさせている巨大な心理的・文化的圧力を認識することは、それほど難しくはない - 古典的なスケールの再興運動であり、その参加者は自身にとってのバッファローと祖先に相当するものを取り戻すことを目的とした、ますます華やかになる儀式の一連の行動に関与している。次はそれについて話そう。

The Shoggoth Concerto (English Edition)

The Shoggoth Concerto (English Edition)

  • 作者:John Michael Greer
  • 出版社/メーカー: Founders House Publishing LLC
  • 発売日: 2019/07/17
  • メディア: Kindle
LOVELESS: 1 (ZERO-SUMコミックス)

LOVELESS: 1 (ZERO-SUMコミックス)

*1:まわりくどい書き方をしているが、要は「自分は黒人だ」と主張する白人のこと

*2:Rachel Dolezal - Wikipedia

*3:グリアは (また、redditの元記事の投稿者も) リツカはソウビのgirlfriendであると書いているが、Lovelessの設定ではソウビもリツカも両方男性である。これがアメリカで作品が改変されためか、それとも元記事投稿者のカン違いであるのかは不明。

*4:ウンデット・ニーの虐殺 - Wikipedia