Going Faraway

渡辺遼遠の雑記帳

翻訳:選ばれし者の墜落 (ジョン・マイケル・グリア)

ジョン・マイケル・グリアによる2019年9月4日の記事 "The Fall of the Chosen Ones" の翻訳です。

The Fall of the Chosen Ones

もう長いこと、私は現代の危機と将来の最初の胎動に関する洞察をどこで得られるのか予測しようとすることを止めてしまった。私はたくさんのニュースとたくさんのブログを読み、それらは旧来の右派と左派のカテゴリがせいぜい暫定的なカタマリでしかないような非ユークリッド的な光景をカバーしているのだが、それほど頻繁ではないものの別の情報源からのデータが私の思考を促し、その中の一つが毎週のエッセイとなることもある。今回の場合、それは私の小説についてのレビュー、またDreamwidthブログ上でそのレビューについて語った時に受けた反応であった。

ほとんどの読者はお気づきだろうと思うが、私が執筆するものには多少のフィクション作品が含まれている。そちら側での私の最新作は、H.P.ラブクラフトクトゥルフ神話のまったく新しい解釈で、巨大な廃墟とそこでの触手的恐怖を描くものだ。それらの小説は結構な数のレビューを受けたが、ほとんどが好意的なものだった。私が驚いたのは、けれども、そのシリーズの第四作へのレビュー中のディテールである: レビュアーは、その本の主人公が単なる普通の人物であることにたいそう驚いたのだ。

当然、レビュアーはとても正しい。『ウィアード・オブ・ハリ: ドリームランド』の主人公は、末期癌と闘病するマサチューセッツ州の小さな大学に勤める年老いた教授である。彼女は超人的パワーを持たず、神秘的な出自もなく、偉大な運命もなく、伸縮性のスーツとマントも着ていない。ただ強い好奇心と頑固な性格を持つだけである。これらの性格およびまったくの偶然の結果により、彼女はラブクラフトが "夢の地" と呼んだ奇妙な存在次元での冒険に突き落されることになる。その結果 - まぁ、私は皆と同じようにネタバレを嫌っている。この辺りで終わりにしておこう。

彼女は、そのような平凡さの唯一の事例ではない。私の小説と短編のほぼ全ての主人公は、特異な状況に相対した普通の人々である。普通の人間から少しだけ逸れた能力を持つ唯一のリードキャラクター - 『ウィアード・オブ・ハリ: キングスポート』の主人公ジェミー・パリッシュは、他の点ではごく普通の若い女性であり、最も特筆すべき点は、読書好きの性格と並外れて不器量な顔立ちである。その他は? 何らかの形で変わった人もいる。ちょうど、我々の多くがそうであるように; いかなる想像可能な意味においても、 模範人物 パラゴン ではない。登場人物たちは、私や読者と同じような人々であり、ファンタジー的な冒険の完全に予想外の出来事に対処するための彼らの闘いは、物語のエンターテインメント的な価値の多くを提供する。

そのため、ミリアム・エイクリーが普通の人物であることにレビュアーが気づいたことは、私にとって驚きではなかった。私が驚いたのは、彼がこれに驚いたということだ。私はそのことについて熟考し、私が読んだ最近のファンタジー小説 (あるいは、むしろ最近多いのは、読み始めて退屈し、積んでいるもの) を考えて、そしてそれをDreamwidthブログで取り上げた。そこでは、他のテーマと合わせて、このブログに書くまでには準備できていない雑多なテーマについての断章を投稿しているのだが - 私は意外な点に気がついた。

どうやらここ数十年ほどの間 - まったく別の理由で、ファンタジーとSFの最新作品のほとんどに私が退屈してしまった時から - それらのジャンルは、同一の基本的なストーリーをエンドレスに語り直すことを吐き気を催す程度にまで詰め込んでいる。既にそのストーリーはご存じであろう、読者諸君、たとえファンタジーSF小説の表紙を一度も開いたことが無かったとしても。それは、"選ばれし者" の物語である: 勇敢で、 不当に扱われた子供もしくは若者であり、他の誰よりも才能があり、輝かしく偉大な運命に特徴づけられている。もしかしたら、おでこには雷の形をした傷があるかもしれない。もしかすると、血管のなかには多数のマイクロハンドワヴィアンが流れているかもしれない。もしかすると - まぁ、読者自身でこの空白を埋められるだろう。

ところで、当のキャラクターは、我々が今議論しているような役割を割り当てられるために、何かをしたり学んだりする必要はない。ノー、選ばれし者が選ばれし者であるのは、彼または彼女または 「お好きな代名詞を記入」が、選ばれし者であるからだ。それが理由であり、そしてまたあまりに多くの場合、プロット全体である特定のキャラクターの周囲を宇宙全体が転回する理由である。更には、選ばれし者は常に特別である。彼または彼女またはその他何であれ、プロットの中心となる何かしらの問題を解決できる唯一の存在であるという形で、何かしら痛ましいほどの特別な点の特別な特別性により他の人類全体からは常に区別されており、純粋で無目的な悪意より生み出した問題を起こす、何らかの邪悪なる邪悪性の邪悪卿を蒸発させるのである。(それはまた別の、今日のファンタジーの中心にあまりにありふれた神経症的けいれんである。しかし、それはまた別の議論のテーマである。)

そのような物語のすべてが、この要約から受ける印象通り退屈であるわけではない。私はハリー・ポッターのファンではないが - 魔法使いの少年とその友人たちの物語は、最初の数巻を通してほとんど私の興味を引くことがなく、第四巻で私は完全に興味を失ってしまった - しかし、それが選ばれし者の物語であることは確かだ。初期の本のハリー少年は他のほとんどのファンタジー小説よりも少しだけ興味深いのだが、その理由の大部分は、彼と同世代の子供が一般的に行うであろうおバカな行動を取ることについて、エンターテインメント的な余地が残されているからだ。選ばれし者についての物語で、それよりもはるかに、はるかに退屈なものは多数ある。はなはだしい形では、実質的に、選ばれし者を回転する台座の上に据え付けて、さまざまな角度からあらゆるご立派な性質を顕示できるようにすることで構成される物語も存在する - 最近では、そのようなものは極めてありふれている。

誤解される可能性のある点を、すぐに解消しておかなければならないだろう。このような物語は、人々がお話を語り初めた時以来存在してきたということである。アーサー王伝説の、過熟した後期のガラハッド卿は偉大な事例である。キリスト教神秘主義者は彼を愛しているが、それ以外の誰も彼に耐えられないだろう。なぜなら、ガラハッド卿は選ばれし者であり、何も間違ったことをできないからだ; 聖杯を発見するために旅に出て、予め定められた一連の冒険を乗り越え、そして、とてつもない神聖さという悪臭のなかで即座に死に、天国へと向かう。アーサー王伝説の他の騎士や女性たちはそれよりはるかに普通であり、それゆえにもっと興味深いので、誰もアーサー王伝説を問題視しないのだ。

更に言えば、英語の小説を発明した男 - サミュエル・リチャードソン - は、更にひどい同種の事例である。彼の最初の2つの物語、『パミラ』と『クラリッサ』は、嫌がるヒロインを熱心に追い求める、好色な悪漢が登場するロマンス小説であった。(イエス、その通りである。初の英語小説は官能エロ小説であったのだ。) 彼の3番目の作品、『サー・チャールズ・グランディソン』にも、嫌がるヒロインと好色な悪漢が登場するのだが、しかし他のメインキャラクターも存在する。それが前述のチャールズ卿で、カタブツの道徳的な模範人物なのであった。たとえば、ヒロインをめぐって彼と悪漢が決闘をしようとする際、何が起こったと思うだろう? いやはや、チャールズ卿は、決闘の邪悪さについて悪漢に教えを垂れるのだ。案の定、悪漢は彼のもったいぶったウンチクの誇示に感銘を受け、その場で決闘を放棄するのである。話は更にひどいことになるのだが、しかし読者のなかには最近そのような物語を見たことがあるかもしれないので、ここではこの先は言わないでおこう。

ここで心に留めておくべきことは、当時、リチャードソンは唯一の事例ではなかったということだ。彼の小説は、最初の優れた英語小説家、ヘンリー・フィールディングをインスパイアし、彼にペンを執らせ、一連の反作用を解き放った; 最初は、『パメラ』に対する友好的なパロディである『シャミラ』; そして、『ジョセフ・アンドリューズ』、リチャードソンの最初の2つの小説の基本的なプロットを採用し、性別を入れ替えることで『シャミラ』を更に改善した作品、つまり、無垢な若者のジョセフが、欲深い高貴な夫人に求愛され、何度も滑稽な逃避行をするのである; そして、一般的に英語小説の最初の傑作とみなされている『トム・ジョーンズ』は、若く、温和で、必ずしも純粋ではない若者が、最終的に幸福と真実の愛を得るまで、冒険から冒険へ、ベッドからベッドへと渡り歩く (さまざまな意味で) 途方もない物語である。

その後の英語文学史は、少数のチャールズ・グランディソン卿と大多数のトム・ジョーンズにより特徴づけられる - つまりは、完璧さのパラゴンであるごく少数のキャラクターであり、それゆえに驚くべきほどにつまらない者たち、他方では、膨大な数のもっとありふれたキャラクターで、はるかに面白い生涯を送る者たちである。1895年、ウィリアム・モリスが突然に『The Wood Beyond The World』でファンタジー小説を発明したときにも、同様の基本的分断が適用された。モリスは、自身の想像上の世界の中心に位置する、普通の、実在を信じられるような、脆弱なキャラクターを作ることにかけては天才であった。『The Wood Beyond The World』の主人公は、たとえば、ワルターという名の若い商人であり、破滅的に破綻した結婚から逃げて、次の船に乗る; そして、冒険が続く。彼は、とてつもない物語となった、普通の状況にいる普通の男である。

モリスの次の小説、『The Well at the World’s End』 - トールキンの時代まではファンタジー小説の最高傑作であり、今でもこのジャンルの代表作の一つ - にはラルフという名の主人公が存在する。彼は、その名前と同じ程度に平凡である; 彼は若く、いくぶんバカであり、実際のところ、そのきわめて複雑な小説の多数のテーマには、無知な若者が偉大なことを成し遂げるプロセスも含まれている。疑問に感じている読者諸君のために、イエス、モリスの小説には女性キャラクターも存在する。彼女たちは、トールキンのほとんどの小説とは異なり、単なるお飾りではない。『The Well at the World’s End』の女性リードキャラクター、ウルスラは、独自の長い旅をして、半分以上の冒険の責任を担う; 『The Water of the Wondrous Isles』のヒロイン、バーダローンは、身の毛もよだつような子供時代を経て、今日の"目覚めた"ファンタジー小説のヒロインが恥じるほどに強くタフな女性となる - そして、どのようなわけか、モリスは、自身のキャラクターに何らの生まれつきの特別な力や輝かしい運命を授けることもなく、これらすべてを実現したのだ。

私はトールキンと [指輪物語の主人公] ビルボ・バギンズについて語る必要があるだろうか? おそらく彼は、(毛むくじゃらの脚その他を除けば) おそらく、あらゆる文学の中でとは言えないまでもあらゆるファンタジー小説の中で最も困惑するほどに平凡な登場人物であろう。ノー、ビルボその他の数え切れないほどの完璧に平凡なキャラクターが、ファンタジー小説の中で完璧に驚愕の冒険に遭遇する事例はスキップしよう。そして、私が議論したいと思っている変化の直前にまで進もう。イエス、それは1977年となるだろう。ルーク・スカイウォーカーの名を突然に誰もが知るようになったときである。オリジナルのスターウォーズ映画では、後の後付け設定を除けば、スカイウォーカーはたまたま面白い父を持っただけの未熟で無知な農民の子供であり、たまたま宇宙から適切な2体のドロイドが孤立した砂漠の星であるタイトゥーンに墜落した際、適切な時期に適切な場所に居たからという理由により、彼は壮大な冒険に出発するのである。ルークは特別ではない。- 実際のところ、映画の大半で、彼は絶望的に力を欠いている - それによりルークは危機、愛、悲しみの長い旅路を経て、そして古代の叡智と遭遇し、ふさわしい瞬間にふさわしい行動を取れるようになるまでに至り、大切に思う人々と正義を守るのである。

1977年には、ルーク・スカイウォーカーは "ふつうの子供" であったのだ。(だから、私は最初にスターウォーズが劇場公開されたとき、シアトルのダウンタウンにあるUA150シネマで、7回もその映画を見たのである; 最前席に座っていると、帝国の宇宙船が轟音を上げながら頭上を飛ぶオープニングシーンは、その強烈さにおいてほとんど幻想的であった。) ビルボ・バギンズ、そして彼の甥であるフロドもそうであった。当時私が貪るように読んでいたファンタジーSF小説の、他何百というヒーローとヒロインもそうであった: エドガー・パングボーンの、その主人公の名を冠した小説『デイヴィー』は、明らかに、トム・ジョーンズの遠い子孫であった; マイケル・ムアコックの『エターナル・チャンピオン』シリーズの最高傑作である、紅衣の公子コルム; アン・マカフリーの『竜の歌』のメノリー、アンドレノートンの何十もの小説のすべてのキャラクター、そして、他にもたくさん、たくさんある。ジャンルを越えて、私が最後に定期的に視たTVドラマ、『燃えよ! カンフー』のクワイ・チャン・ケインも、ヘルマン・ヘッセの幻想的な傑作、『デミアン』のエミール・シンクレールもそうである。何らかの形で特別であるキャラクターたちでさえ - フランク・ハーバートの『デューン』のポール・アトリーズが良い例だろう - 完璧とはほど遠く、努力する必要があり、自身の運命の挑戦に立ち向かうためにずっと戦わなければならなかった。

そして、2017年の『最後のジェダイ』の主人公であるレイがいる。レイは "ふつうの子供" のアンチテーゼである。彼女は特別に特別である。レイは、文字通り、誤ちを犯したり何かの挑戦に失敗することができない。言わば、彼女は性別を変えてライトセーバーを持ったチャールズ・グランディソン卿なのだ。そして彼女のあらゆる言動は、18世紀の同等者と同じように、驚くほど退屈である。最後のジェダイが、スターウォーズシリーズのかつてのファンの大多数から冷たい反応を受けた理由は、他にもたくさんある - その愚かしさについての徹底的な批判は、SF作家であるジョン・C・ライトのレビューで読めるだろう - しかし、そのまったくの退屈さは、無敵のキャラクターが力を発揮できるように作られた、形ばかりの危機への対応を眺めることから生じている。

レイは極端なケースではあるが、しかし唯一の事例ではない。もはやクリエイティブであることを止めたハリウッドスタジオの神経症的チックとなった、古いマンガ本の終わりなき再演を考えてみてほしい。部分的には、もちろん、ベビーブーマー世代は老化への道を順調に辿っており、子供時代の情熱を思い出すことは、老人がしばしば行うことであるからだ。部分的には、また、あらゆる他の芸術形式と同じく、映画にも探索し消費するためのある種の概念的空間が存在するのだが、その空間は20世紀の終わりに使い果たされてしまったからだ。半世紀程度の間に、映画が通常通りのサイクルを辿ると、新作映画は現在のグランドオペラの新作と同じ程度にまれなものとなるだろう。そして、映画は今日のクラシック音楽と同じように、古典作品を再演し鑑賞することで生き延びていくだろう。その間には、文化的な死体愛趣味 ネクロフィリア は、死に向かう文化形式の、通常最後の抵抗なのである。

しかし、スーパーヒーローとスーパーデューパーヒーローの終わりなき退屈なパレードは、最後のジェダイと同じ退屈なニッチを満たしてもいる。スーパーヒーローは特別である; それが彼らの唯一の存在意義である。数少ない例外 - バットマングリーンアローは、その代表である - は、恐しい経験と狂信的な自己規律を通して特別な存在となった、相対的に普通の人間である。(おそらく、読者にとっては驚きではないだろうが、この二人を取り上げた作品は、私が子供であったころ最も熱心に読んだマンガ本である。) ほとんどのヒーローは、けれども、特別であるがゆえに特別なのであり、良い物語の第一の要求事項を満たすため、そして、見る人に何が起こるか関心を持つ理由を与えるため、冒険は [スーパーマンの弱点] クリプトナイト的な仕掛けの終わりなきパレードを作る必要がある。

まだまだ長く続けることもできるだろうが、しかしポイントは明らかになったと信じている。異常な状況に投げ込まれた普通のキャラクターは、かつて空想的な文学および他メディアにおける同等物の主原料であったのだが、過去数十年の膨大な量のストーリーテリングは、強迫的に、特別な存在に固定されている。そのような立場に達するために何かをしたからではなく、単に、彼らが特別であるというだけで。彼らは他の人よりも優れており、また他の人よりも優れているからという理由で、何かしらの偉大で輝かしい運命が約束されており、通常、それはただ彼らだけが世界に何が起こるかを決められるということを意味する。

それでは、このような強迫観念の政治的な含意についてしばし考えてみよう。

ルーク・スカイウォーカーが一世代をインスパイアした理由は、まさに彼がふつうの子供であるということだった。最初のスター・ウォーズ映画を宝物のように思ったティーンエイジャーは、何も私だけではないだろう。なぜならば、その映画は、我々も自身にとってのタイトゥーンに永遠に閉じ込められているわけではないと我々に語りかけていたからだ。我々がまったく特別な存在ではないということは何も問題ではない、なぜならば、ルーク・スカイウォーカーもそうだったのだから。彼は、我々に立ち塞がる困難に向き合って立ち上がることを教え、フォースの何らかのメタフォリカルな等価物の使い方を学び、何らかの重大な問題について適切な時に適切な場所に居合わせたいと望ませたのである。

けれども、それはレイ、およびエンドレスに繰り返される彼女の同等者たちが教えることではない。そのようなキャラクターたちが教えるのは、特別で、重要で、偉大になるべく運命付けられたある種の人々が存在しており、それは彼らが何かを成したからでも学んだからでも何かに打ち勝ったからでもなく、純粋に何者であるかのみによるのである。そのような人々だけが意義があるのであり、もしあなたがそのような特別な人々の一人でないのであれば、あなたは重要ではなく、この先に何が起こるかを定めることについて、いかなる役割をも持つことは期待できない。あなたはフォースの使い方を学ぶこともできないし、何かしら重要なことを成すこともできない - それは特別な人々の役割であり、あなたではない。あなたにできることは、厳格に区別された2つの選択肢を選ぶことだけである。受動的に傍観し、特別な人々を賞賛し、その特別性を称え、彼らが世界を救うための行動を取るあいだ、言われた通りのことをするのみである。さもなければ、特別な人々の前に立ち塞がることもできるが、その場合はあなたは邪悪な存在となり、無力化されるであろう。

参考までに言えば、これが意図的なプロパガンダであるとは私は考えていない - そうだとすれば、あまりにバカバカしいまでに露骨すぎる。そして、それは巨大な規模での金の無駄遣いでもある。結局のところ、さまざまな種類の大量の宣伝をされたドブに何億ドルものお金を注ぎ込んでいるのは、何もハリウッドだけではない。ニューヨークの大出版社は、ニュージャージーの工業地区に次々と倉庫を借りて、何百万という売れ残りの小説を保管しなければならない。それらの本は、ベストセラーとなるはずで、マディソン・アベニューの広告代理業者が知るあらゆるトリックを使って宣伝されたのだが、巨大な失敗となったのである。それは皆が書店で数ページをめくるかオンラインでサンプルをクリックして、それ以外の何か別のより退屈ではないものを購入したからである。もしも意図的なプロパガンダキャンペーンを打ち、それが働かないと分かったら、アプローチを変える必要がある; 読者や観客を離れさせる原因となったあらゆる失敗の特徴を、次のプロジェクトで"倍賭け"するべきではない。

ノー、我々が眼にしているのは、工業諸国の管理カーストイデオロギーの産物であると私は考えている。つまり、どのような小説が巨大出版社に取り上げられるのか、どのような脚本がハリウッド映画となるかなどを決めることにより、莫大な額の給料を稼ぐ人々である。より正確に言うなら、我々が眼にしているのは、そのようなイデオロギーの極端な形であり、ある種の信念体系の擁護者が最終防衛線へと追い落とされる時に見られるものである。最後のジェダイのプロデューサーたちは、ルーク・スカイウォーカーを特別さの欠如したキャラクターとして侮辱する必要はなかったし、あれほどまでに崇拝される石膏の聖者としてレイを描く必要もなかったのだ; 彼らがそのようなことをしたという事実は、もはや彼らが何も失うものが残っていないと認識していることを示している。

我々の誰もが、2016年の選挙で誰が選ばれし者となるはずであったかを知っているだろうと思う。そして、彼女が負けたことも。感嘆して傍観し、合図に合わせて拍手し、善人を自称する人々が決めて未来に従い、言われた通りのことをするだけのはずであったあまりに多くの普通の人々は、その選ばれし者が、人々から嫌悪されているにもかかわらず腐敗した傲慢な職業政治家の一派により選ばれたことに気付いたのだ。その人たちは投票日に家に留まったか、現代のうちで最も困惑するほどに普通の大統領候補者に票を投じたのである。それ以降、新しい選ばれし者を発見するための狂乱した試みは、せいぜいが雑多な結果を生んだに過ぎない - 私が思うに、現在のメディアの寵児、グレタ・トゥーンベリに対して注がれる熱狂的な称賛の理由の一つとして、彼女のストーリーが、少なくとも、輝かしく資金力のある広報キャンペーンマネージャーに操作された彼女のストーリーが、我々の議論してきた特別なキャラクターのステレオタイプ化された起源物語に非常によく似ているからではないか。

これがどのように進んでいくのかを確認するためには、今後数年間にわたって観察する必要があるだろう。推測はあるが、しかし推測は推測でしかない。いずれにせよ、けれども、自称選ばれし者の期限が間近に迫っていることは、かなり明らかであると思う。その後、スカイウォーカー風の時代が始まるかもしれない。いずれにせよ、親愛なる読者諸君、もしも何らかの特別な存在が、あなたのために世界を修正するのを待つ必要があると考えているならば、そのような考えをどこから得たのかを自問することは良いアイデアであるかもしれない - また、普段は読んだり観たりしないものを見つけて、あなたや私と同じくらい普通の人々が、本当に困難に立ち向かい、行動を起こし、ものごとを変えることができるのだと気づいてほしい。

www.amazon.com