Going Faraway

渡辺遼遠の雑記帳

翻訳:進歩と記憶喪失 (ジョン・マイケル・グリア)

ジョン・マイケル・グリアによる2019年7月17日の記事 "Progress and Amnesia" の翻訳です。

Progress and Amnesia

今週、私はピークオイルについての議論を直接的に始めるつもりであり、現在進行中の、有限の惑星から無限の高密度化石燃料を採掘するための試みが、1972年と2008年と同じく、いかにしてレンガの壁に正面衝突し、類似の結果をもたらすのかを語りたい。すぐ後でその話題に入るつもりだが、しかし、2週間前の成長の限界に関する記事*1には、ある面白い出来事が起こった。

その記事は、予想していた通り、オマエはこれ以上無いほど間違っていると言いたい人々からの多大な反発を招いた。私の誤りを言い立てる主張は、予想していた通り、お決まり通りの2つの陣営に等しく分割できた。一方では、これやあれや別の何かが必ずや成長の限界を打破し、宇宙の星々へと進む想像上の我らの運命に向けた歩みを継続させられるのであるから、私は誤っていると主張する人たちがいた。もう一方では、これやあれや別の何かが、一回の突然の黙示録的な打撃により我々を叩き潰してしまうのであるから、私は誤っていると主張する人たちもいた。

私が予想していなかったことは、これら2つの役割のうちのどちらか一方に押し込まれたあらゆる主張が、刻印されたシリアルナンバーの最後の桁に至るまで、完全に同一であったということであり、1972年と2008年に起きたエコロジカルな現実への正面衝突の際と完全に同一の役割を持たされていたということだ。更に言うなら、それらのすべてが、その2回の衝突への備えに失敗したか、その直後の余波において失敗したものであったのだ。提案された解決策は何も解決せず、差し迫ったカタストロフィの予告は繰り返し外れた - そして我々はまだここにいる。2度目の危機からは10年以上経過し、最初の危機からはほぼ半世紀も経過しているにもかかわらず。そして、それらの同一の失敗した解決策とそれらの同一の失敗した大激変は、今でも宣伝されている。まるで、以前そのようなことを提案した人がいなかったかのように。

たとえば、最近ピークオイルに対する解決策として最も頻繁に提案されているテクノロジーは、光起電 (PV) 太陽光発電である。私がまだ小学校にいたころ、スカラティック・ブック・サービス - 児童に安価な文庫本を販売するプログラム - は、子供でもできる太陽エネルギー実験を多数提供していた; 私自身も本を持っていて、そのうちの1つにはシンプルなPVセルを銅の薄板から作るものがあった。1972年のオイルショックをきっかけとして、当初宇宙プログラム向けに開発されたシリコン製PVセルは着実な価格低下が始まり、新技術で一般的であるように効率性も向上を始めた。2000年ごろまでには、太陽電池技術が成熟するにつれてその曲線はフラット化し、ほぼ20年にわたる更なる経験により、太陽電池に可能であることと不可能であることが理解された。

それらすべての経験は、きわめて簡単にまとめられる: エネルギー集約的な現代ライフスタイルを完全に太陽光発電のみで維持できると考えるのは、ただ太陽光発電を試したことがない人だけである。太陽光発電セルからは、間欠的にささやかな量の電力を得ることができる。太陽光発電セルで屋根を覆い、助成された金利で資金を貸し与える電力網と結び付いているのであれば、化石燃料由来の電気の恩恵をすべて受けながらも、化石燃料に依存していないかのように信じ込むことができる; しかし、もしも電力網から離れた場合、すぐに太陽光発電の厳しい制約が理解できるだろう。誤解しないでほしい。私は完全に再生可能エネルギーを支持している; それは我々が化石燃料を使い果たした後にも残るであろう; しかし、現代のライフスタイルを支えるバカげたほどのエネルギー浪費を太陽光発電セルのみで供給できると考える人は、単に、計算を行なっていないのだろう。それでも、太陽光発電に投資をしさえすれば、化石燃料の使用を止めても現状のライフスタイルを維持できると、今日のたくさんの善意の人々が主張するのを耳にしたことがあるだろう。

逆側には、核戦争のオバケがいて、我々はいずれにせよ死ぬのだからあまり劇的ではない未来への備えは無駄であると主張するために、お決まりのように定期的に持ち出されている。1945年8月のある晴れた日以来、人々は全面的核戦争は不可避であるだけではなく差し迫っていると声高に主張してきた。未だ気づいていない読者のために言っておくと、彼らは間違っていた。

彼らの予測の失敗は、何らかの偶然によるものでもない。核兵器は、その目的に対して極めて有効なのだ; 核兵器がペーパーバックのサイエンスフィクションの物語の完全なる想像上のギミックでしかなかった時より、一般大衆からは核兵器の役割は完全に誤解されてきた。核兵器は、大国間の戦争を防止するために存在する。核兵器は、誰も勝利できないことを確証することによって、これを行なう。これがアメリカ合衆国ソビエト連邦の間の苦々しい敵愾心が、ただ代理戦争と経済紛争においてのみ戦われた理由であり、イスラエルが信頼できる核抑止力を保持した後、アラブ諸国によるイスラエル侵略の意思が凍結された理由であり、合衆国と中国の間での西太平洋上における相互の対決姿勢が、何十年もの間ほとんど銃声無しであった理由である。

私はこれらすべてを何度もブログで言及してきたのだが、そのたびに、私の言うことは間違っており、近いうちに必ずや核兵器は我々を破滅させるだろうと主張する、ICBMサイズの罵倒の大群に襲いかかられるのだ。核兵器が殺人癖のある偏執狂的独裁者の手に渡ったら? (スターリン毛沢東は、"殺人癖のある偏執狂的独裁者" をはるかに超えた人間であり、両者とも核兵器保有していた; 我々はまだここにいる。) 宗教的な狂信者の手に渡った核兵器はどうだろう? (レーガンが政権を取り、携挙を信じる根本主義者クリスチャンを政府の枢要な地位に就けたとき、そのような議論がたびたびなされた; 我々はまだここにいる。) 破綻国家にある核兵器は? (ソビエト連邦が全面的に崩壊した際には、大量の核兵器が配備されていた; 我々はまだここにいる。)

更に続けられる。核戦争は不可避であるという主張を正当化するために使用されるあらゆるシナリオは、既に発生している。ただし、核保有国同士の巨大な従来型戦争を除いて - そして、核保有国間の巨大な従来型戦争は、決して発生しないだろう。なぜならば、核兵器の存在により、そのような戦争には勝者が存在しないことが確証されるためであり、それゆえにそのような戦争は決して戦われない。(ノー、それは殺人癖のある偏執狂的な独裁者であっても起こらない; 古いジョークにもある通り、狂っていることは愚かであることと同じではない。) これらすべてのことについて私が面白いと思うのは、私がこのようなポイントを指摘すると、人々は普通、「あぁ、神様ありがとう。我々は生き延びることができます。」といった反応を示さないことである。まったく正反対に、まるで、彼らが夢見る熱核兵器ホロコーストを取り上げられたかのように失望するのである。

このような事例は、けれども、まったく特殊ではない。我らが文化の未来に関する言説全体は、1970年代初頭以来停滞状態に陥っており、同一の切迫しているとされる即時の技術的修正と、同一の切迫しているとされる即時の黙示録的な厄災が、およそ半世紀以上にわたって繰り返されている。まるで、誰も過去にそのような提案をしたことがなく、またまるでそのどれも検証を受けたことがないかのように。未来に関する空想を取りまく奇妙な記憶喪失が存在しており、我々のようなごく少数の変人以外誰もその存在に気付いていないように見えることは、おそらく最も奇妙なことである。

私が考えている記憶喪失は、今日宣伝されているエネルギー困難に対する解決策、あるいはむしろ"非解決策"、または、その意味では、現在熱狂的に宣伝されている黙示録 - "非黙示録"と呼ぶべきかもしれない - に限らない。それを心に留めた上で、上記の停滞状態を最も目立つ形で体現している事例を取り上げてみよう: 空飛ぶ車という実現不能なファンタジーに、アメリカ人のイマジネーションが固定されていることである。

オタク階級の特権的な地位にいる人たちの空飛ぶ車の議論を聞いてみれば、そのほとんどがとても似通ったレトリックを終わりなく繰り返していることが分かるだろう。空飛ぶ車は最初サイエンスフィクションに登場した - 誰もがそれを知っている - そして、今や我々は本当に優れたテクノロジーを持っているので、空飛ぶ車を作成可能であるに違いない。証明終わり! このようなギズモ中心主義的なチアリーディング爆発から省かれている事実は、今から1世紀以上も前から空飛ぶ車は存在していたということだ。我々は完璧に空飛ぶ車がどう動くかを理解している。あるいは、まぁ、それが誰も空飛ぶ車を運転していない理由である。

少しばかり歴史を見てみよう。常に、このような未来的無知に対する最高の対応である。最初の実際の空飛ぶ車が作られたと考えられたのは、カーティス・オートプレインである。航空機のパイオニアであるグレン・カーティスによって設計・製造され、1917年にパンアメリカン航空博覧会で公開された。当時最新鋭のテクノロジーであり、プラスティック製の窓とキャビン用エアコンを備えていた。数ヶ月後、アメリカ合衆国第一次世界大戦に参戦し、航空機に使われるはずであった材料は徴発されたため、生産されることはなかった。大戦後、カーティスは自身の発明について考え直したようで、自分の大きな才能を別の目的に使用したのであった。

けれども、他の多くの発明家たちもそのギャップを飛び越えようとして、その後の何年かの間に、定期的に空飛ぶ車は路上と空へと発進していった。以下で挙げたのはごく僅かな事例である。左はウォーターマン・アロウビルで、ワルドー・ウォーターマンによって開発されたものであり、彼の名前にちなんでいる。1937年に飛行した; スチュードベーカー社製の自動車を改造したもので、5台が製造された。

戦後アメリカのテクノロジーブームの間に、当時の最大級の航空企業、コンソリデイティッド・ヴァルティー社は、1947年にコンヴェアカー モデル118を製造し試験した。それは消費者市場の上位層向けのものであった; 発明者はセオドア・ホールである。1台の実験モデルのみが作られ、飛行したのはたった1回のみであった。

左側のエアロカーは、1966年に初のテストフライトを行った。発明家のモールトン・テイラーにより設計され、空飛ぶ車としては最も成功を収めたものである。また、この車は、飛行可能なコンディションのモデルが存在する唯一の車種であるようだ。主翼と尾翼は、特段に力のない人でも取り外し可能であるように設計されており、路上で運搬する際にはトレイラーとして使用可能である。6台が製造された。

最も最近では、右側のテラフュージア社が2009年に8分間のテストフライトを実施している; この企業は、今でも機体を連邦航空局の規制に適合させようとしているが、しかし、最新のプレスリリースでも自信満々に2年以内に販売を開始すると主張している。もしも興味があるならば、1台たったの19万6千ドルで予約ができる。ただし、前払いで、飛行機の引渡し日は未定であるが。

もうすぐにでも空飛ぶ車を持てるだろうと人々が言うとき、言い換えるならば、彼らは1世紀以上も遅れているのである。1917年以来、空飛ぶ車は存在してきた。今日、皆が空飛ぶ車に乗って空を飛び回っていない理由は、空飛ぶ車が存在しないからではない。今日、皆が空飛ぶ車に乗って空を飛び回っていない理由は、空飛ぶ車というアイデアが本当にバカげているからだ。それはマラソンを走りながら同時に熱烈なセックスをすることが本当にバカげたアイデアであるのと同じ理由である。

自動車エンジニアであれば誰でも、優れた車の設計をするための特定条件を教えてくれるだろう。航空エンジニアえあれば誰でも、優れた飛行機の設計をするための特定条件を教えてくれるだろう。一般的に、物理法則と呼ばれる煩わしい厄介者により、優れた自動車を作ることは劣った飛行機を作るということを意味する。逆も然りである。多数の事例の中から1つだけを取り上げるなら、自動車のエンジンは、坂道を走り低速での牽引力を得るために高いトルクを必要とし、航空機エンジンは、プロペラの効率性を最大化するために高い速度を必要とする。そして、高いトルクと高い速度は両立しない; ある1つの能力に優れ、別の能力には劣ったエンジンを設計することはできるし、逆も然りである。そうでなければ、車輪向けのトルクもプロペラ向けの速度も不足する中間地点に陥ることだろう。このようなトレードオフは何ダースも存在しており、空飛ぶ車が中途半端に陥ることは避けられない。

それゆえ、あなたが手にする空飛ぶ車とは、ろくでもない車であると同時にろくでもない飛行機でもある乗り物である。その価格はあまりに高額で、同じ金額を使えば代わりに優れた車、優れた飛行機、そして本当に素敵なヨットなどを1、2台購入できるかもしれないのだ。我々が空飛ぶ車を持っていないのはそれが理由である。誰も空飛ぶ車を作らなかったからではない; 人々は1世紀以上にわたって空飛ぶ車を作り続けており、そこから得られる明白な教訓を学んでいる、あるいはむしろ学んでいないからだ。更には、上記の画像が示唆する通り、空飛ぶ車にまつわる問題は、単なる1つの、あるいは100個の技術革新によって解決されるものではない。なぜならば、それらの問題は空飛ぶ車が存在する物理的現実に結び付いたものであるからだ。我らが時代の巨大な学習されない教訓の1つに、何らかのちょっとした新たなテクノロジーが実現したからといって、マズいアイデアが優れたアイデアに変化するわけではないということが挙げられる。

2つ目の例を挙げてもよいだろうか? パルプサイエンスフィクションの、別の古典的なアイデアを取り上げよう。ジェットパックである。ギーク階級の特権的立場の人々は、いずれすぐにジェットパックが本当に、真に実現すると主張することを強く好む。ここでもまた、ジェットパックは、最初の液体燃料ロケットが実用水準に達して以来、何度も何度も製造されてきたのである。我々がジェットパックを身につけて空を飛び回っていない理由はシンプルである; 最強の男ですら、ごく短い距離を飛行する以上の燃料を背負うことはできないのだ。燃料のエネルギー密度にはハードな物理的限界があるため、コマンドー・コディ: スカイ・マーシャル・オブ・ザ・ユニバース [テレビ番組] はフィクションとしては面白いものであるが、エンジニアリングのプロジェクトとしては欠陥がある。それでも、ジェットパックはテクノフェチな社会の集合的イマジネーションの中に留まり続けており、人々はジェットパックを製造しようとし続けている - あるいは単に、適切な時期が来れば、進歩によって必然的にそれが生み出されると声高に主張し続けている。

同じことは、最後に、1970年代以来ピークオイルヘの即時の解決策として宣伝されているものすべてにも当てはまる。そして、ほぼ同じごろから予測されてきた、即時に世界を破壊するあらゆる大変動についても同じことが言える。我々のバカげたまでのエネルギー浪費的なライフスタイルを太陽光発電で支えられない理由は、邪悪な石油企業がそうすることを妨害しているからではない。約1億5000万kmの外宇宙を通過するため、太陽光は拡散した、低品質の、間欠的にしか利用できないエネルギー源であるからだ。太陽光エネルギーを、化石燃料から得られる極度に高密度、高品質の、オンデマンドなエネルギーの代わりに使用しようとする試みは、まったく見込みがない。

もう一度言えば、これは太陽光エネルギーが悪いものであると意味するわけではない。実際には、現在のレトリックが可能だと主張していることは、実現不可能であることを意味する - オーギュスタン・ムショの1890年代の最初の太陽熱装置以来、1世紀半にもわたる太陽光発電の有意義な実験によって、 我々はこのことを知っている。太陽光エネルギーおよびその他の再生可能エネルギー源に頼る社会では、高密度、高品質、オンデマンドなエネルギーは、我々が慣れ親しんだよりも少ない量しか利用できない。この問題に向き合いたいと望む人はとても少ないので、代わって、歓迎されない現実が到来すれば、我々は深刻な混乱の連鎖に直面することになるだろう。

同様に、我々が来週木曜日に何らかの不可避の大惨事で死ぬわけではない理由は、そのような大惨事は、莫大な熱気で膨らまされた可燃性の人形であるからだ。私が眼にしたことのある大惨事が差し迫っているというあらゆる主張は - 我々は停滞と没落の未来に直面することはないと主張したい人々が何百という主張を提示したのだが - そのような主張は、少なくとも1つの、通常それ以上の、以下の3つの誤ったロジックにもとづいている。1つ目は、何らかの変化が直線的に大惨事へと至るという主張であり、それは通常適用されるすべての反対のファクターが、どういうわけか適用されないという主張である。2つ目は、極端な最悪ケースのシナリオが、どのような危機であれ議論対象の危機について唯一のありうる帰結であるという主張である。3番目は - まぁ、これはおそらく "巨大宇宙セイウチ" ファクターとでも呼べるだろう。つまり、2012年の偽のマヤ歴の終末予測のような、何らかの出来合いのファクターが、どこからともなく現れて世界を喰い尽くすので、単に待って見ていればよい!という主張である。

人間が生きる現実世界では、反対に、直線的な変化は、不合理なポイントに達する前に循環的な揺り戻しに変化したり、あるいは外乱により消失する。極端な最悪ケースのシナリオは、実際の危機において最も可能性の低い結果である。そして、巨大宇宙セイウチが世界を喰い尽くそうとしていないと誰も証明できないことは、そのようなセイウチが実際に存在する根拠にはならない。過去の終末的な予測を見てみれば、1つの共通点に気づくことは難しくない: それは常に間違っているということだ - 終末予測は、社会の現実に対処しないために、本当に対処したくないことに対処しないために主張されている。それが明らかになればなるほど、ますます巨大宇宙セイウチがフォトンフリッパーを振ってサヨナラを言い、どこかの惑星を喰らい尽してしまうと主張されるようになるだろう。

そして当然、我々が今いる状況はそれだ。私が2週間前に示した通りである。今日、あまりに多くの人々が、我らが時代の問題に対する想像上の解決策に執着している理由、そして、あまりに多くの人々が、そのような問題を無意味にしてしまうであろう想像上の大変動に狂信的に執着している理由は、それらの本当の問題や帰結に相対したい人があまりにも少ないからである。今日の工業諸国でほとんどの人々の日々の経験を形作る停滞と没落が、現実ではないか問題ではないかのようなフリを多くの人が続けているのは、まさにそれが理由である。

これらの行動の何1つとして、停滞と没落を追い払うことはできない。どちらかと言えば、無知で無邪気な人々に決して実現しない解決策や決して訪れない大変動を待つ時間を浪費させるため、単純に停滞の深化と没落の加速を確実にするだろう。停滞と没落のリアリティに対処するためにできることは、確かに存在する; その中には、一方では再生可能エネルギー技術の採用すら含まれるだろうし、他方には黙示録的ではなくても深刻なさまざまな問題への注意深い準備なども含まれるだろう。けれども、それらすべては、未来を真正面から見つめることを必要とする。空飛ぶ車が我々をトゥモローランドに連れて行ってくれるフリをして50年間を無駄にしたという認識を妨げる記憶喪失の習慣から目覚めなければならない。誰も語りたくないからといって、それが起こらないということではないのだ。