Going Faraway

渡辺遼遠の雑記帳

翻訳:危機における民主主義についての省察 (ジョン・マイケル・グリア)

この記事は2016年11月9日、アメリカ大統領選挙の終了直後に書かれた。ジョン・マイケル・グリアによる2016年ドナルド・トランプ当選予測に関するエッセイはこちら

Reflections on a Democracy in Crisis

まぁ、ついに終わった。そして、私はこれ [トランプ当選] を予想していたと言ってもよいと思う。去る今年[2016年]1月に私が予想していた通り、労働者階級のアメリカ人 - 民主党から、嫌ってもよいアメリカの少数民族として扱われることに嫌気の差した人々 - は、ビジネス・アズ・ユージュアルの政治に痛烈な叱責を加えた。アメリカの政治エスタブリッシュメント全体の衝撃と悔恨とともに、また専門家、世論調査員、メインストリームメディアの子飼いの知識人たちの緊張したいたたまれなさとともに、ドナルド・トランプは第45代アメリカ合衆国大統領となるだろう。

何百万人もの他のアメリカ人たちと同じく、私も選挙という楽しい市民儀式に参加した。地元の投票所は、町の貧しい地域 - 先に私が述べた荒廃した多民族の地域で、トランプ支持のサインが早くからたくさん花開いた場所 - の端に位置する小学校の中にある。私は、いつもそうする通り、午後の早い時間に投票へ行った。昼休みの投票ラッシュが終わり、仕事からの帰宅途中に投票へ向かう人の流れはまだ到来していない時である。だから、行列はなかった; 私が入ったのは、ちょうど2人の老いた投票者が出てくるときで、その2人は地元レストランのチラシを見比べていた。市民の義務を果たしたときに投票所が発行する「投票済」ステッカーを持つお客さんに割引を行なっていたのだ。5分程度後には、染めた金髪の主婦が自分の票を投じるためにやって来た。

メリーランド州はしばらく電子投票を行なっていたが、賢明にも今年は紙の投票に戻したのだ。だから、私の投じた票は意図した通りにカウントされるだろうと確信を持てた。その後、私は家まで歩いた - 曇っていたものの暖かく、11月として望める最高の日であった - そして、現在の執筆プロジェクトに取りかかった。それらのすべては、過去数ヶ月の間、メディアが、また公平に言えば政治家、専門家および全国の大多数の一般人が発してきた絶え間ない叫び声と、興味深い対照点をなしていた。

今の時点では、ゴタゴタとバカ騒ぎが終わった後で、特権者たちの予測可能なかんしゃくが収まった後で、そしてトランプ政権がワシントンDCで権力を掌握した後で何が起こるのかを話すことには、あまり意味はない。それらのことを話すのには後で十分な時間を取れるだろう。今ここで私が話したいのは、今回の選挙によってハイライトされたことで、それらはアメリカ政治の現状と、トラブルを抱えて窮地に立つ、分断された国家が危機の次ラウンドへと進んでいくに従って直面しなければならない課題に対して、有用な光を当てるものである。

そのうちの1つは、選挙に関する私の記事に対する多数の読者からの反応によって、珍しいほどの明白さで示された。全体にわたって、ドナルド・トランプの不可解な躍進についての最初の記事から、先週の選挙直前のまとめに至るまで、私は議論の焦点を政治的な問題イシュー に当てようと考えてきた; つまり、それぞれの候補者が次に政権を取った時に支持すると予期される政策はどのようなものであるかだ。

私にとっては、少なくとも、それが選挙で一番重要な問題である。今から4年後か8年後、結局のところ、引退する大統領のパーソナリティは、カテゴリー5のハリケーンの中での平均的な屁よりも意味を持たなくなっているだろう。次の4年間に大統領が下した政策上の意思決定による帰結は、その一方で、未来にわたって拡大する意義を持つ。アメリカは、中東におけるロシアとの対立政策を継続するべきか? またはジハーディストのテロリズムを抑えるという共通の目標のため、ロシアとmodus vivendiすなわち暫定協定を結ぶべきなのか? 賃金の低下をもたらす雇用のオフショアリングと労働者の輸入の推奨を継続するべきなのか? あるいは、それらの政策を止めるように変更するべきだろうか? これらは、米国およびその他の国々で何百万もの命に影響を与える重要な問題であり、同等の重要性を持ち2人の候補者の立場が著しく異なる問題は、その他にも存在する。

私の記事に反応した決して少なくない人たちは、けれども、そのような平凡ではあっても重要な問題にまったく興味を示さなかった。彼らが話したいと望んだ唯一のことは、候補者のパーソナリティについての意見だけであった: クリントンは腐敗した詐欺師であるとか、またはトランプは憎悪を駆り立てるファシストであるなどの主張である。(アメリカ政治について最近あまりに頻繁に言われている通り、このようなことをしていた人たちは、嫌いな候補者の人格を中傷することに忙しすぎるので、既に投票を決めている候補者についてはそれほど言うことが無いのだという。) 相対的に隔離された『The Archdruid Report』の外側では、代わって、その傾向は加速している; 選挙キャンペーンの大部分において、高級紙とゴシップ紙の違いを見分ける唯一の方法は、どちらの候補者を支持しているかだけである。また、真剣なウェブサイトと言われるところではだいたいの場合それよりも悪い。

ところで、これは候補者たちに責任があるわけではない。ヒラリー・クリントンに賛成であろうと反対であろうとも、彼女は、2008年にバラク・オバマがきわめてシニカルに彼女に仕掛けて成功を収めた無内容なキャッチフレーズベースの選挙キャンペーンを避けようと努力していた; 彼女のキャンペーンサイトには、選挙で勝利したら実行するべき政策の一覧が掲げられていた。多くの有権者は彼女の提案に同意しないかもしれないが、実際に彼女はイシューについて語ろうとしていたのであり、それにはすがすがしいまでの責任がある。トランプは、この点について言えば、極めて限定された範囲の政策提案に絞ったスピーチの繰り返しに注力していた。

それでも、両候補者に関するほぼすべての議論は、メディア内外で、政策提案ではなくパーソナリティに焦点が当てられていた - あるいはむしろ、彼らのパーソナリティの卑劣に歪められたパロディであり、程度の差はあれ候補者たちを悪の化身として定義するものであった。悪魔教会は、私が聞いたところによると、今年のアメリカ大統領選挙に悪魔は出馬していないと断言しているそうであるが、両側のレトリックからはそれを理解するのは難しいかもしれない。確かに、メディアは候補者のパーソナリティへの執着を増長することに一役買っているものの、しかし、これは我々の社会の集合的意識内に既に存在している何かを単純にメディアが反映しているという例ではないかと考えている。

選挙キャンペーン全体を通して気付いたのは、私にはかなりの驚きであったのだが、イシューを無視してパーソナリティに固執したのは、テレビやウェブサイトからの意見以外には頭の中が空っぽの人たちだけではなかったということだ。もはや数え切れないほどの普段は思考力のある知人たちが、過去1年の間に、事実をチェックする行動すら取らずに、どちらを嫌っているのであれその候補者についてのネガティブな主張をすべて買い入れてしまったのだ。また、もはや数え切れないほど何ヶ月も前から、普段は思考力のある知人たちが、今回の選挙で問題になっているイシューについて私が話そうとすると、うつろな眼をして、彼らが嫌う候補がどちらであれその邪悪なる邪悪な邪悪性についてわめき散らすようになってしまった。

私には、ここで何かが忘れられてしまっているように見える。我々は、石膏の聖人、マイリトルポニー [テレビアニメ] の新しい登場人物、2016年のミス (あるいはミスター) 良い子ちゃんを選ぶ選挙をしているのではない。我々は、次の4年間連邦政府の行政部門の長を勤める公務員を選ぶ選挙をしていたのだ。私は、ヒラリー・クリントンドナルド・トランプを個人的に知っている人が書いたエッセイを読んだ。両人とも実際にはとても親しみやすい人であるのだという。だからどうした? 私は、文字通りまったく気にしない。もしもある候補者が本当に私にとって重要な問題に望ましい政策を支持するならば、子供を虐待し、子犬を蹴り、家電とマヨネーズに関連する倒錯した性的嗜好を持つ人間嫌いにだって投票するだろう。本当にそのくらいシンプルなのだ。

更に私は、パーソナリティ - あるいはパーソナリティの悪意のあるパロディ - への執着が、米国政治を野蛮で、分断的で、あまりに多くの問題について手に負えないほどの膠着状態を引き起こした主な原因であるかもしれないと言いたい。数段落前で私が言及した問題 - 再興するロシアに対するアメリカの対外政策、一方では雇用のオフショアリングと外国人労働者の輸入に関する経済政策 - などは、重要であるというだけではなく、妥当な意見の相違が存在しうる問題である。更には、それらは交渉、妥協、そして、少なくとも理論上は、対立し合う利害を持つ者たち同士で相互に満足できる暫定協定を結びうる問題である。

実際には? 両者が声高に、相手側は堕落したモンスターに率いられており、世界中の善きものすべてを憎んでいる人々に支持されていると主張している間は不可能だろう。これは、まさしく、理性的な政治をジョージ・オーウェルの『1984年』の "二分間憎悪" に極めてよく似た同等物で置き換えるものであり、これこそがこの国を何らかの問題解決から、また迫り来る危機への備えから遠ざけている最も大きな力であると言いたい。

そこで、我が国のすべての市民には、しばらくの間テレビとインターネットを消し、何度か深呼吸をして、最近の選挙のトーンについて考えることをお勧めしたい。そして、そのほとんどを満たす憎しみの党派的カルチャーにどの程度まで参加していたのかも。次のことを指摘しておくのは意義があるかもしれない。自分が考える通りに投票するよう他の人を説得したいのであれば、同時にその人たちを "大盛りの邪悪ソース付きの邪悪なる邪悪" として非難したり、あるいはその人たちの最高の利益のためになる候補者への投票を認識できないほどに無知であるとバカにしたり、あるいは今日のアメリカで理性的な政治的言説の代わりを占めるようになったその他の非生産的な行動を取るべきではない。

選挙キャンペーンの過程で私が気付いた2番目のポイントは、今議論したことに関連している。歴史の現時点において、アメリカ合衆国が未だ単一の共和国であることは確固たる事実であるが、しかしそれは単一のネイション ではない - また、これまでもそうであったことは決してないと、それなりに妥当な根拠をもって主張しうるかもしれない。「赤」と「青」の州という安易な区別は、巨大な都市中心部とそれ以外の部分の分離、および相異なる地域の複雑さをほとんど捉えていないし、ましてやその深さも捉えていない。

1972年のニクソンの地滑り的な大勝利の際、どのようにニクソンが勝ちうるのか理解していなかった - 結局のところ、自分が知る誰もニクソンに投票していなかったのだから! とコメントしたのはポーリン・ケイル [映画評論家] だったと思う。同様の感覚が、困惑から怒りまで及ぶ調子で、裕福な左派とメインストリームメディアの高級取りの専門家の取り巻きの間のあらゆるところで表現されている。過去8年間の雇用なき景気回復 ジョブレスリカバリ から恩恵を受け、また過去4年間のより広いネオリベラル的経済アジェンダの恩恵を受けた上位20%かそこらのアメリカ人は、日々を過ごすエコーチャンバー環境の外に出て、この国の他の人々が何を考えているかを知ろうとすることがめったにない。もしも去年彼らが少しだけそうしていたとしたら、彼らが見たことのないアメリカの、厳しい貧困の光景のあらゆるところで、トランプ支持のサインが広まっているのが見えたことだろう。

けれども当然、分断はそれよりも深くまで及んでおり、またかなり分岐している。たとえば、マサチューセッツ州の人々に承認される政治、経済、社会的な政策と、オクラホマ州の人々が承認するものを比較してみれば、ほとんどオーバーラップする部分が無いとわかるだろう。これは、ある州の人々が (ここにお好きな罵倒語を記入) だからではない; それらの人々が別の文化に所属し、相互に分かり合えない価値観、態度や利害を保持しているからだ。どちらかの州の道徳観を他方に押し付けようとする試みは、善意であれそれ以外であれ、敵意と相互不信という結果しか生まないだろう - そのような試みは最近あまりにありふれている。

我々の国は、極めて多様性のある国である。当然の真理のように聞こえるかもしれないが、しかしその意味は通常ほとんど考慮されていない。文化的な均一性が非常に高い国では、共有された価値観と態度に広くコンセンサスがあるため、そのようなコンセンサスを国家的な基盤で立法化する余裕がある。そのような均一性がない国では、価値観と態度にまつわるコンセンサスを欠いているために、そのような立法を試みたとすれば、たちまち深刻なトラブルに陥る。多様性があまりにも大きな場合は、異なるネイションを単一の政府のもとで確実に機能させられる唯一の方法は、連邦制度しかない - すなわち、全国的な基盤で扱わなければならない権限と義務のみを国家政府に割り当て、それ以外のほとんどを地方政府と個人が自身で解決できるように任せる制度である。

歴史に詳しい読者たちは、アメリカ合衆国がかつては連邦制度を取っていたことに気付くだろうと思う - それが、結局、我々が未だに「連邦政府」について話す理由なのだ。合衆国憲法の元々の条文と解釈のもとで、それぞれの州の人民は自身のほとんどの問題に対して、ある程度の非常に広い制限のうちで、自分たちが適切であると考える方法で対処する権利を有している。連邦政府には特定の狭く定義された権力が割り当てられており、それ以外のすべての権力は、修正第10条の条文において、州と人民に留保されている。

我らが国の歴史の最初の1世紀を通して、憲法の修正条項により他の特定の権力が連邦政府に割り当てられた。時として良い結果であった場合もあるし - 修正第14条はあらゆる市民に法の下での平等を保証し、第15条と第19条はそれぞれ黒人と女性に参政権を拡大した - 時として悪い結果であったこともある - ここでは第18条のアルコール禁止が思い浮かぶ。基本的な連邦構造は無傷で保たれた。大恐慌第二次世界大戦の余波により連邦政府の転移性の成長が本格的に始まり、時を同じくして、何かしらの道徳的徳性を法律の力によって国全体に強制しようとするさまざまな試みが始まった。

そのような試みは働かなかったし、今後も働くことはないだろう。どれだけの人が気付いているのか分からないが、けれども、ドナルド・トランプの選挙は、単なるリベラル左派への反論ではなかった。それは宗教右派の敗北でもあったのだ。共和党福音派の派閥は、候補者指名レースのなかで独自のお気に入り候補を持っていたことを思い出してほしい。そして、トランプはまったくそのような人物ではない。自身の徳の観念を他のアメリカ人の喉元に押し付けようとする左派と右派のムーブメントにとっては、実りの秋ではなかっただろう - たぶん、おそらく、それが向かうべき道の先を示している。

私が提案したいのは、アメリカの連邦主義の伝統のリニューアルを検討する時であるということだ; 過剰膨張した連邦政府から州への、そして州から人民へのシステマティックな権力の移譲である。マサチューセッツ州の人々が、オクラホマ州の人々に自身の道徳的な善を守るように強制することは決して不可能だと認める時であり、オクラホマ州の人々も同じことをマサチューセッツ州の人々に強制できないと認める時である; 更には、すべての階層の政府が、きわめて多様な我らが共和国の多数のネイションに文化的統一性を課すことを諦め、法の下の平等を保証することと、そして本質的に政府が市民に提供することが最適であるような福利を提供するという正しい役割に落ち着くべきときである。

我々が必要としているのは新たな社会契約である。それは、直近の選挙で両サイドを支配していた個人的中傷の政治を退け、特定の社会・道徳的な見方をこの国のすべての人に強制できる思う権利を手離し、我々を分断するイシューに対して、妥協、交渉および相互の尊敬の目線をもってアプローチすることにすべてのアメリカ人が合意するものである。この国が直面している問題のほとんどは解決可能である。あるいは、少なくとも有意に改善できる。もしも、我々の努力がそのような社会契約に導かれるならば。 - そして、もしもそれが実現すれば、我々の大多数は政治制度から受けられる最も偉大な恩恵を経験する機会を得られるのではないかと思う: 実際の、正真正銘の自由 リバティ である。 それについてはこの先の記事で議論しよう。