Going Faraway

渡辺遼遠の雑記帳

翻訳:タイタニック号のどのデッキチェアをお好みで、ご夫人? (ジョン・マイケル・グリア)

この記事は2016年4月27日に書かれた。ジョン・マイケル・グリアによる2016年ドナルド・トランプ当選予測に関するエッセイはこちら

Where On The Titanic Would You Like Your Deck Chair, Ma'am?

先週、私はとあるブログで人種差別主義者として非難され、また別のブログでは社会正義戦士ソーシャルジャスティスウォーリア として酷評されるという面白い経験を得た。私の定期的な読者はご存じの通り、そのようなお楽しみは、ほぼ10年前にこのブログ『The Archdruid Report』を開始して以来、珍しいものであったわけではない。あらゆる問題について、それを考える方法はただ2つしかないという奇妙な信念は、現代アメリカ社会にはびこっている; そのような思考の習慣と矛盾し、一般常識から外れて、第三の選択肢があるという提案をすると、両方のサイドから好ましくない立場に立っているとみなされる。

もしも今週の記事が似たような反応を引き起こすとしても、私は驚かない。過去1ヶ月以上、私はアメリカ社会におけるねじれた特権の光景について、また許容された政治的スペクトラムの両サイドに好まれるレトリックが、現代のアメリカ社会に存在する特権の複雑な実情を隠蔽する方法について語ってきた。私の読者のなかにも、けれども、政治関連のテーマがこのブログの中心的テーマである広範な問題といかなる関係を持っているのかを不思議に思っている方もいるかもしれない。つまり、現代工業社会が陥りつつあるますます厳しくなる未来、特にここアメリカ合衆国で形作られる未来の姿、そして、このような終末期においてなお可能な建設的な行動の可能性である。

この週の記事では、それらの流れを元に戻してまとめ始めることを提案したい。

特権によって決定づけられるのは、結局のところ、社会のメンバーの誰が、その社会の集合的意思決定に発言権を持つのかである。たとえば、2003年、ジョージ・W・ブッシュアメリカ軍にイラク国境を越えさせ、中東を現状のカオスに陥れたとき、その決断はすべてのアメリカ人によって平等になされたわけではなかった。ブッシュ政権のインナーサークルにいたイデオローグの小集団がその決断を下し、そしてその決断は大統領によって承認印を押された。この国の政治経済的ヒエラルキーの上層部に位置する権力中枢の集合体を代表する政治家たちの大きなサークルは、その行動を支持したかまたは反対しないと選択した。

その富と影響力により政治システムに声を届ける力を与えられた数百万人のアメリカ人は、代わって、その計画に従ったか、あるいはエスタブリッシュメントが安全に無視できると既に学んだ形式的な抗議を行い、自己満足した。残りのアメリカ人、言うまでもなく、ブッシュ政権内で金切り声を上げるマチズモが課す重荷をイラクその他の場所で担うことになった人々は、この問題に関して何らの発言権を持たなかった。

これは正常である。あらゆる人間社会は例外なく、意思決定に際して一部のメンバーにその他のメンバーよりも大きな発言権を与えている。人間とはこのようなものであり、あらゆる人間社会は例外なく、合理的には不公平とも呼べるやり方で意思決定の役割を配分している。それは他のあらゆる種類の社会的霊長類にも当てはまるので、これは我々の行動のレパートリーに、いわばセックスと同じくらい徹底的に結びついている。

先に、あらゆる問題について考える方法はただ2つしかないと主張するアメリカの一般的習慣について述べた。これはまた別の事例である。左派の一般常識は、一切の不平等が存在しない社会を作ることが可能であるというのみならず義務的であるというものだ。そのような社会では、今日の裕福なアメリカ人リベラル派が持っているのと同等の特権をあらゆる人が所持するとされる。右派の一般常識は、今存在する不平等は良く、正しく、適切であり、特権を持つ人々の実際の価値を反映しているというものである。両者とも間違っているが、しかし異なる形で間違っている。

左派の信念である完璧に平等な社会の可能性、誰もが他の誰かと同等の特権を持つ社会実現への信念は、古くからの起源を持つ。中世キリスト教の異端派は、完璧なる愛が社会の分断を消去し、誰もがあらゆる生命の祝福を自由に共有する社会というアイデアを描き出した; そういった人々は優れたセンスを持っていたので、ユートピアのビジョンをキリスト再臨の向こう側に置いた。そのような社会制度にまつわる実際上の問題点を、聖なる万能者が対処してくれると頼れる時期である。キリスト教の信仰が衰えると共に、ジャン=ジャック・ルソーのような啓蒙主義思想家は古いビジョンに新しい鍵を与えたのだが、けれども彼らは洞察力を欠いていたため、完全に平等な世界という夢想を人間の本性の危険なリアリティから保護するための実際的なバリアを見つけることができなかった。

その結果、あらゆる社会的特権を廃止し誰もが平等になったと主張する一連の諸社会が生まれた。いずれの場合にも、例外なく、実際に起こったことは、明白な特権システムが破壊されると、即座に隠密の特権システムがそれを代替することであった-そして、後者は隠密であるがゆえに、チェック・アンド・バランスの対象となりにくかった。フランス革命後のテロルからカンボジア殺戮の地平キリングフィールド に至るまで、完璧に平等なユートピア社会が極めて確実に血の河へと沈む理由はこれだ。アメリカの左派は、けれども、歴史の教訓を得ていないために、ひとたび左派の裕福な末端を越えると、ロベスピエールスターリンポルポトをドライブしたのと同じ種類のユートピア的ファンタジーが即座に生まれるだろう。彼らの運命は人類史における次の偉大なるステップであると大声で主張される。

アメリカ人左派の裕福な末端においては、対照的に、歴史への盲目性は異なった形を取る。特権的なリベラルの観点からは、今日のアメリカでみんなが平等ではない唯一の理由は、邪悪な主義者イスト の陰謀によるものだ-つまり、人種差別主義者レイシイスト性差別主義者セクシストファシストその他の人たちであり、純粋な邪悪なる悪意によりアメリカ社会の非特権的集団のすべてを抑圧する人々のせいである。これは、今月の別の記事で議論したレスキュー・ゲームのロジックである; 特権とは構造的で制度的なものであるという考え方、また彼らは生活のあらゆる面において、そのプロセスで積極的役割を持たずとも利益を得ているという考え方は、彼らが認識する世界の外にある。そのように言ったとしたら、左派の人々は邪悪なイストとして非難を受けているに違いないと誤解し、怒った叫び声を上げるだろう。「ノー、ノー、我々は善人だ!」

当然、現代アメリカの左派によって夢想されている完璧に平等な社会の夢という特定の形式には、それ以外にも巨大な問題がある。その種の夢想のほとんどのバージョンでは、特権を持った者を貧しい人々のレベルにまで引きずり下ろすというものであった; 現在のアメリカ版では、既に述べた通り、あらゆる人を裕福な人々のレベルまで引き上げるという夢が抱かれている。それは寛大なビジョンではあるが、かなり無知なビジョンでもある。なぜならば、裕福なアメリカ人の生活を今日の形にした特権、特典や贅沢品をそもそも可能ならしめたものは、第一には乱暴なまでに持続不可能な速度での代替不可能な天然資源の猛烈な消費であり、第二に、歪められたグローバル経済制度により、つい最近まで、地球上の人類の5%程度でしかないアメリカ合衆国居住者がグローバル経済の産物およそ3分の1を消費していたことである。

このブログでも、また私の本の何冊かでも、我々に馴染み深いアメリカの裕福な生活は持続不可能であると、私はかなり長く議論している。(短い形式では、ケネス・ボールディングによって印象的にまとめられている: 「指数関数的な成長が有限の世界で永遠に継続できると信じる者は、狂人かエコノミストかのどちらかであろう。」) あらゆる人にそのようなライフスタイルを与えるためのコスト係数は、ヒラマヤ山脈のごとき高さに上昇している。理解できる通り、裕福なアメリカ人リベラル派はこのようなことを聞きたいと思っていない。それでも、この種の事実はまるで猫のようなものである-固く無視すればするほど、ますます足首のまわりに絡みついてきて、膝の上に飛び乗ってくる。

現存する不平等の公平性に関する右派の信念は、それよりもフレキシブルな起源を持つ。知的な流行の転換が、特権階級の人間によるレトリックをさまざまな思想の状況にわたって歪めさせてきたからである。中世で一般的な主張は、創造主が各々の人に現世でのふさわしい位置を割り当てたというものであり、特権について疑問を発することは、神の善きはからいを疑うことと同義であった。18世紀から19世紀にかけてのキリスト教信仰の崩壊により、特権の存在を正当化する者たちは新たなオプションを探さなければならなくなった; 生物学を装った人種優越理論や社会ダーウィニズムが宗教を代替した。より最近では、現代工業社会は能力主義メリトクラシー であると主張されることもある。そのような社会では、それぞれの人は、自身の能力に従って自然にあるべき地位へと引き寄せられているとされる。そのような主張も同等の疑わしい役割を果たしている。

とは言うものの、アメリカ人の右派も、その反対側のカウンターパートである左派と同じ程度に歴史の教訓を学んではいない。現代工業文明社会のどこであれ、特権の上層に達して栄えた個人や家系を追跡してみるといい。ゆっくりと煮立っているスパゲッティーソースの鍋とそれほど異ならないものしか見えないだろう。ある個人や家族が鍋の底から上昇し、しばらくの間は鍋の表層に留まり、そして深みへと沈んでいく。いかなる単一の数式でさえ、この攪拌を説明できない; 才能に基づいて特権階級の上位に登ったすべての人に対して、少なくとも一人は腕力とハッタリで同じ地位に登った人、そしてまったくのバカげた幸運で同じ地位に登った人を見つけられる - そして、同等の才能を持っていたにもかかわらず、それほど、あるいはまったく社会階層を登れなかった人も多数存在するだろう。

社会階層の降下のあり方は、上昇のあり方よりも予測しやすい。というのは、それが小説家たちのお気に入りのテーマであったからというだけではない。多数の例があるなかで、ここで私が考えているのは、トマス・マンの『ブッデンブローク家の人々』である。それは、裕福なドイツ人家族の、特権の絶頂期から没落と消滅までの過程を19世紀の間に渡って描くものである。ここから学ぶべき教訓は、特権的生活は特権の保存に繋がる習慣を発達させるものではないということだ。何世代かのうちに、才能、虚勢、また単なる幸運によりトップへと登り詰めた人々の子孫は無能で過保護となり、特権のバブルの外側で起きた普通の騒動に対処できなくなる。そして、何かがそのバブルを壊すと彼らは下へと沈んでいく。

通常の時代には、スパゲッティソースのメタファーが示す通り、特権階級のターンオーバーは相対的に定常的であり、鍋全体としては特別な波乱を引き起こすことなく進行する。けれども、メタファーを拡張するならば、歴史がソースの下部を突然加熱し、巨大な蒸気の泡が表層に表れ、ソースの上層部全体が単一のけいれん的なごった混ぜに置き換えられるような時代がある。スパゲッティソースにこれが起こった場合、通常の場合その結果はとんでもない大混乱であり、そして同じことは社会現象についても言える。

ここでは、トマス・マンの別の小説が有用なガイドになるだろう - 彼の作品の中で最も有名な『魔の山』である。並々ならぬ複層的な物語を大ざっぱにまとめるならば、この本のテーマは、第一次世界大戦直前の時代のヨーロッパ特権階級の世界である。1920年代には、そのテーマについての小説が多数執筆された。当時は、失なわれた時代の記憶はまだ痛みを伴うほどに生々しいものであったのだ。しかし、マンは型破りな方法で自分の物語を語ったのである。彼が選んだ大戦以前の人生の断面は、半分はメタファーとしてもう半分は世界の縮図 マイクロコスムとして、スイスのアルプスにある結核サナトリウムであった。

効果的な治療法が開発される以前、結核は貧者にとっての死刑宣告であった。生活のために働く必要がない人々は、けれども、山岳地帯のサナトリウムで治癒を待つことができた。清浄で乾燥した山の空気が、患者の免疫系に対して感染に打ち勝つための力を与えるからだ。そこでは、会話とロマンス以外には何も気を逸らされることもなく、患者たちは秩序立った生活の狭いサークルの周囲を回る。魔の山のふもと、ヨーロッパの過密した平原では、事件が起こり爆発へと向けた圧力が高まっていた。けれども、無気力な視点のキャラクター、ハンス・カストルプとその他の患者たち、ロドヴィーコ・セテンブリーニ、クラウディア・ショーシャその他の人々は、その爆発が到来し、忘我状態を揺り起こされるまで当てもなくさまよう。そして、カストルプは魔の山を下りて第一次世界大戦の殺戮の地平へと投げ出される、あるいは自身を投げうつのである。

その読書経験は素晴しいものであるため、-今日では一般的ではないものの- 長く、思索に満ち、とてもアイロニックな小説を読む忍耐力を持つ人には読むことを進めたい。歴史は、マンにエレガントな賛辞を与えている。というのは、マンの小説の中でベルグホーフ国際サナトリウムが位置していたスイスの町は、昨今では裕福な人々がそれと少しだけ異なった集まりを開いていることで有名であるからだ。イエス、そこはダボスと呼ばれている。そこでは、世界の指導者を自称する人々が毎年集まって、有力者、扇動者、体制派知識人によるスピーチを聞き、その年の流行りの問題についての仰々しい声明の焼き直しを発表する。過去数回のダボス会議の写真を見てみれば、集団のなかに、カメラに向かってしかめっ面でまばたきするハンス・カストルプの姿を発見できるだろうと私は確信している。

カストルプの漠然とした無知は、確実に、今日広く見られる。それは何もダボスに限らない。過去の記事で、私はそのような無知に関する非常に多くの側面について議論してきた。しかし、ここで関連があるのは、アメリカ社会の階層を登った人々が、彼ら自身の持つ特権を理解する方法である。多かれ少なかれ、既に述べた通り、左側の末端にいる裕福な人々は、自身はいかなる特権も持っていないと考えている。一方で、右側の末端にいるカウンターパートの人々は、自身の特権は自分の才能、知性、などを直接的に反映していると考えている。

ここでも、現実は少しだけ異なる。アメリカの裕福な階級が、既に述べた通り、特権、利益、そして快適さを得ているのは、2つの理由による。最初は、世界の工業社会が、裕福な人間のライフスタイルを支えるために必要となる商品とサービスを大量生産するために、持続不可能な速度で代替不可能な天然資源を消費していることである。2つ目は、乱暴なまでに偏った交換パターンにより、環境破壊の乱痴気騒ぎから得られる利益の大部分を、我々の種のごく一部に集中させていることである。もしも読者が "上位1%" について話したいのであれば、そうしても構わない。ただしそれがグローバルに適用される限りは: つまり、ホモ・サピエンスの収入の上位1%である。分からない方のために書いておくと、もしも読者がアメリカに住んでおり、年間の家計収入が38,000ドル程度を越えているならば、あなたはその上位1%のカテゴリに属する。

これが我らが時代の魔の山である - そこに暮らす人々が、自分は特権的であるということを知らないか、あるいは自分が所有するものが何であれそれは当然であると信じこみ、同じものを持たない人々はそれに値しないと信じ込んだ特権の山である。魔の山を下ると、世界のその他の場所では、事件が起こり爆発へ向けた圧力が高まっている。けれども、高みにいる人々のほとんどはそれに気付いていない。彼らの人生に何かしら普通ではないことが起きつつあるとはまったく思いもよらない。いわんや、何らかの突然の出来事により山から投げだ出され、ほとんどの人がまったく準備できていないカオス的な未来に投げ込まれるとは想像もできない。

彼らに見えていないことは、要するに、自身の生活を支える2つの土台 - つまり、有限の天然資源の猛烈な開発と、ごく少数の手へ過大な取り分を集約するアレンジメント - が、現在厳しい限界に達しようとしていることだ。この先の投稿で、それがどのように進んでいくかをより詳細に取り上げたいと思う。今のところは、これが先月議論してきた特権の構造にとっていかなる意味を持つのかについて話したい。

それでは、2つの土台を一度に取り上げよう。世界の他の国々を搾取して成り立っている国は、自身の力により成立している国とは非常に異なる経済構造を持つ。後者においては、経済は一方では生産的な労働、他方では投資によって支配される傾向があり、またカール・マルクスが好んで語っていたような類いの対立 - 私のこれまでのエッセイで使ってきた分析の用語を使えば、賃金階級と投資階級の対立 -が、社会における富と特権の分配を定める。前者においては、対照的に、商品とサービスの生産を他国へとオフショアし、産業への資本を提供するためには国内貯蓄よりもグローバルな搾取の利益を利用することが経済的により大きな意味を持つ。したがって、賃金階級と投資階級の両方が苦しむ一方で、給与階級 - マネージャー、マーケター、銀行家、官僚、企業の従僕など、他者によって生み出された富の操作によって生計を立てるあらゆる専門職の階級 - が、かつてないほどに栄える。

国内生産にフォーカスした経済からグローバルな搾取にフォーカスした経済への移行は、かなりの時間を要する。アメリカ合衆国の場合、1898年のアメリカ帝国拡張の最初の波動から1980年代のグローバリゼーションの一時的勝利まで、100年を要した。けれども、反対方向への変化は、それよりもかなり速く発生する。というのは、ヘゲモニーの喪失においては、一般的には平和のうちにゆっくりと腐敗することを許されず、新興勢力によって脇へと押しやられるから。ソビエト連邦崩壊の影響が、ここでは優れたワーキングモデルとなる: ソビエト制度が内破すると、急遽ロシアは東欧ブロックから受け取っていた多量の上納金なしでやらなければならなくなった。そしてその後の10年間のほとんど素の経済的カオスが続き、ロシアは自身のニーズを国内で見たすための仕事に苦心しなければならなくなった。言っておかなければならないだろうが、ソビエトロシアは今日のアメリカよりもはるかに輸入依存度が低かった。だから、ソビエト崩壊後の経験は、我々の未来の上限として捉えるべきである。

もう1つの土台も同様の意味を持つ。天然資源の猛烈な速度での消費をベースとした経済は、直接的または間接的に資源の流れをコントロールする人々の手に影響力を集中させる傾向がある。今日のアメリカにおいては、もう一度言っておくと、これらの人々は、不均衡に、給与階級のメンバーである傾向がある。天然資源の保護をベースとする経済においては、土地といった持続可能な資源を所有する人々、あるいはそれらの資源を使って直接的に労働する人々に影響力を集中させる傾向がある; 再び、そのような社会においては、所有者と労働者の対立が富と特権の分配を定める。保守的経済から消費経済への移行にはかなりの時間を要する。アメリカの場合では、ほぼ200年を要した - 一方で、反対方向への移行は、ここでもまた、資源が不足するとかなりの速さで進む。

このコンテキストにおいて、ついに、今年のアメリカ大統領選挙を形成する上で非常に劇的な役割を果した賃金階級の予想外の反乱を理解することができる。ヒラリー・クリントンは、既に忘れ去られた共和党の同等者と同じく、完璧な給与階級の候補者であった; 彼女は特権階級のために話しており、彼女のキャンペーン全体が、もし彼女をペンシルベニア通り1600番地 [ホワイトハウス] に送るならば、重大な変化が起こることをまったく心配する必要がないのだ、と特権階級にメッセージを送るためのキャッチフレーズから構成されていた。ドナルド・トランプは、そしてある程度はバーニー・サンダースも、代わりに賃金階級にアピールしている。私は、どちらの候補者もここまでの結果を得られるとは期待していなかったのではないかと思うが、けれども、両者ともその波が続く限りは、大衆の不満の波に乗り続けることを完璧に望んでいるように見える - そして、トランプの場合は、その波が秋にホワイトハウスまで彼を直線的に運んでいく可能性が高いように見える。

言うなれば、裕福な人々のチャンピオンを決める通常通りのコンテストであったものが、突如として非常に異なる形を取ったのである。メタファーを少しだけ変えるならば、裕福な人々は自分たちの権力闘争が、沈みゆくタイタニック号の上でのデッキチェアの配置をめぐる口論とそれほど変わらないと気付き始めている。賃金階級の反乱は、今日の社会における権力と特権の構造が既にシフトし始めていることを示している。これから2週間後に、その変化がどのように進んでいくかと、それをドライブする要因が何であるかについて見ていこう。

(後略。元記事では、『The Archdruid Report』の10周年記念企画の予告があったが、訳出にあたっては省略した。)

魔の山(上) (新潮文庫)

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