Going Faraway

渡辺遼遠の雑記帳

翻訳:特権ゲームをスターホークする (ジョン・マイケル・グリア)

この記事は2016年4月20日に書かれた。ジョン・マイケル・グリアによる2016年ドナルド・トランプ当選予測に関するエッセイはこちら

Starhawking the Privilege Game

このブログ『The Archdruid Report』の前回2回の記事では、アメリカの階級システムとそれを維持する機能不全の物語にフォーカスしたのだが、読者たちからイラ立った反応を引き起こした。私が議論していたテーマは、かなりの不快感を起こすだろうと予期していた; 私が予期していなかったのは、かなりの長文で、私へのコメントやメールで、何か別のことを話すようにというお願いがあったことだった。

不愉快なテーマについての直接的な話は、10年前控え目に最初の記事を投稿して以来このブログのメインコンテンツであったので、私はブログの読者が不快に感じたときの反応についていくらかの経験がある。通常、私がホットな話題に触れると、その話題を不快に感じる読者たちは、私がそのテーマにまったく言及しなったかのように振る舞うのだ。特にここで私が考えているのは、唯一の例ではないのだが、インターネットの未来はインターネットがそれ自体の費用を賄えるかどうかにかかっており、技術的な実行可能性フィジビリティによるものではないと書いたときのことである。私がこれを書いたときには毎回、インターネットの技術的フィジビリティについて延々とコメントを受けるのだが、それは、我々が作り上げつつある資源減耗と環境破壊の未来において、インターネットが自身のランニングコストをカバーすることが経済的に不可能である理由の議論を回避するための方法である。

そのような回避策を誘引するテーマは、インターネットの未来に関する厳しい疑問だけではないことに注意してほしい。私の記事の何らかのトピックが我らが時代の一般常識と矛盾する場合には、そのようなことが起こると予想できるようになった。過去2件の私の記事にはそれとは異なる反応が起きたので、非常に興味深く感じた。階級的特権についての率直な議論によって不快感を感じた人々が、そのようなショッキングなテーマが一切取り上げられなかったかのように振る舞おうとするのではなく、実際に不快と感じたことを認めたという事実は、思うに、我々が何らかの重大な歴史的変曲点に近付きつつあることを示しているのかもしれない。

注意してほしい。階級的特権についての率直な議論は、私のブログのような周縁的な領域の外側では未だ強く回避されている。ここで私が考えているのは、もちろん、今現在、ドナルド・トランプが階級問題を直接的に議論していることについて、裕福なリベラル派がトランプと彼の支持者は人種差別意識によってのみ動機付けられているに違いないと絶叫して反応していることである。それは、部分的には、リベラル派の標準的なレトリックである - 以前、私は「差別主義者」という言葉が、特権的な人々によって発せられるとき、普通は「賃金階級」の犬笛として機能すると述べた - しかし、それはこの国のあらゆる人を代償にして裕福な人々が利益を受けてきた政策についての議論を封じるための試みでもある。

現在の異教復興ネオペイガンコミュニティの一部では、そのような議論を回避する方法には有用な呼び名がある: 「スターホークすること [Starhawking]」である。アメリカの小さなマイノリティ宗教コミュニティの行動に興味が持てない読者にお詫びを申し上げつつ、そのラベルの裏にある物語を解説したいと思う。よくある通り、小さな事例はものごとを明らかにするために役に立つ。縮小された規模の社会的ミクロコスムにおいては、大きな規模の社会を一目見ただけでは見るのが難しいパターンを観察することが容易になるのだ。

ネオペイガンのシーンに触れたことのない人々は知らないかもしれないが、ネオペイガニズムは1つの宗教ではなく、あるいは密接に関連した複数の宗教のグループですらない。実際には、完全に雑多な信念の寄せ集めであり、その中には神道キリスト教ほどに共通点のない信仰すら存在する。それらの信仰が共通のサブカルチャーのもとに連合しているのは、信念や儀式を共有しているからではなく、ひとえにアメリカ社会の宗教的・文化的なメインストリームから排除された歴史を共有しているからだ。今日では、アメリカのネオペイガンの半分かそこらは、何かしらの折衷的ペイガニズム [ecletic Paganism] に参加している。それは1970年代後半から1980年代前半にかけて、旧来のイギリスの伝統的魔術をもとにして生じたものである。残りのほとんどは、大きく2つのカテゴリのどちらかに属する。一つは、旧来の秘教的伝統、たとえばたった今述べたイギリスの伝統魔術のようなものから構成されており、もう一方は近年になって復興された多神教的な信念、さまざまな歴史的パンテオン - ノルド、ギリシア、エジプト、などの神々や女神を崇拝するものから成る。

ネオペイガンシーンの包括性について語ることはたくさんあるだろうが、しかし、アメリカの小サブカルチャーについて知識のある読者諸君は、これが意味することは、折衷的ペイガニズムがほぼあらゆる場所でのデフォルトの選択肢であり、その他の伝統に由来する人々は、折衷的ペイガニズムが定義する観点から、マジョリティである折衷的ペイガニズムの感性を攻撃しない限りにおいて、ネオペイガニズムシーンへの存在と参加を受け入れられるということはすぐに理解できるだろう。さまざまな理由により、その理由のほとんどはもう1つの私のブログに相応しいテーマかもしれないが *1、最近では、そのような折衷的ペイガニズムの感性は、より容易に攻撃されるようになったようである。そして、マイノリティの伝統に由来する人々はさまざまな形で反応した。その中には単にネオペイガンのシーンから立ち去った人々もいるし、別の人々は、色々なフォーラムで、「ウィッカ化特権 [Wiccanate privilege]」というぎこちない名前を付けられた事象についての議論を始めようと試みている。

2014年にサンフランシスコ地域で開かれた大規模なネオペイガンのイベントで、そのような議論が行なわれているときに、スターホークが遅れて登場したという。彼女のことを知らない人のために説明しておくと、スターホークはアメリカのネオペイガンシーンの数少ない本当の著名人であり、『ザ・スパイラル・ダンス』の著者である。この本は、基本的に折衷的ペイガニズムを創始した2冊のうちの1冊であり - もう1冊は、マーゴット・アドラーの『ドローイング・ダウン・ザ・ムーン』- また、彼女は政治的スペクトラムの左側末端に位置する著名な政治活動家でもある。イベントに参加した私の知人によると、彼女は、特権についての議論は行なわれるべきではない、なぜならあらゆるペイガンは地球を救うために団結しなければならないからだ、と主張したという。

注意してほしい。そのイベントでは、地球を救うこととは何の関係もない議論が他にも多数行なわれていた。彼女も、それ以外の誰も、そのような議論を封じなければならないとは感じていなかったようだ-ただ、特権に関する議論だけが対象となった。それがスターホークすること [Starhawking] である: 何かしら別の問題がもっと重要なのだから、講演者の特権を論じるべきではないと主張するレトリック上の戦術である。スターホークに公平を喫するなら、彼女がそれを発明したわけではない; スターホーキングはアメリカの現代の言説に蔓延している。非常に頻繁に、それはネオペイガンシーンよりもはるかに高い利害を持つコンテキストでも見られる。

マデリーン・オルブライトの、あらゆる女性はヒラリー・クリントンに投票するかさもなければ地獄で釜揚げにされるべきであるという最近の主張も、まったく同じロジックから生じている。この場合の問題Aとは、いわゆる「ガラスの天井」、つまり特権階級内の女性を富と権力の最上位から排除する慣習であり、この場合の問題Bは、ヒラリー・クリントンホワイトハウスに送ることは、単にアメリカの階級構造の上層部に属する女性のみに利益を与えるだけであるという事実である。というのは、クリントンが政治生活の全体を通して支持してきた政策は、アメリカ人女性の大多数のマジョリティを貧困化し悲惨化してきたものであるからだ。つまりは、賃金階級と給与階級の下位半分かそこらに属する人々である。

スターホーキングが富裕階級の左端から発せられた場合、ほとんど常に別の種類のバイアスという形でフレームされる - 人種差別、性差別、など - それは、先週の記事で説明した方向性に沿って述べるなら、ある非特権的集団の苦しみは、また別の非特権的集団に責任があると非難するために使用される。スターホーキングが政治的スペクトラムの逆側 [いわゆる右派または保守派] から発せられるとき、もちろんこれはいつも起こっていることなのだが、他の問題が特権についての議論を封じるために使われる; 彼らのお気に入りの問題としては犯罪、キリスト教の道徳神学、公的扶助に頼る人々の怠惰さと強欲さなどである。言い訳は異なるものの、レトリック上の細工は同じである。

そのような細工を有効なものとしている理由の一つとして、問題Aのさまざまな候補について語られるときに使われる言葉の本質的なあいまいさが挙げられる。「犯罪」という言葉を例に取れば、これは誰もが反対することに合意する、素晴しくあいまいな抽象概念である。一方で、ひとたびそのような合意が得られると、捉えどころのない抽象概念の領域から、極めて疑わしい特定の意味領域へと移動する - 関連する例を挙げるなら、「犯罪に厳しい」ことを誇る政治家の誰も、ウォールストリートの窃盗犯を逮捕することに興味を示していない。[金融危機による] 1兆ドル規模の詐欺は、都心の寂れた路上でのいかなる強盗よりも巨大な被害を国に与えてきたにもかかわらずである。

同様に、「人種差別」や「性差別」といった言葉も、極めて大きなあいまいさが組み込まれた抽象概念である。そのようなラベルには、少なくとも3つの概念が混合されている。アメリカ社会の不平等性の複雑な光景をクリアに見られるように、私はしばらくそれらの概念を解きほぐしたいと思う。

これらの多義語から私が引き出したいと思うのは、特権 [privilege]、偏見 [prejudice]、および不正な行い [acts of injustice] である。最後の言葉から始めよう。たとえば、アメリカの警察はいつも、白人のティーンエージャーが行なっても罰せられないような行動をした黒人ティーンエージャーを銃で襲撃している。今日、アメリカで雇用される女性は、平均すると、男性がまったく同一の仕事をした場合に得られると期待される給料のおよそ4分の3しか得られない。互いに愛し合い結婚を望む2人は、もしも2人が同じ性別であった場合には、異なる性別であった場合には遭遇しないような困難に直面する。これらは "不正な行い"である。

偏見 [prejudice] は、行動というよりは態度の問題である。この言葉は、字義的には事前の判断 [pre-judgements] を意味し、ある人々や状況に実際に遭遇するよりも前に下されるあらゆる判断を指す。あらゆる人が偏見を持っており、あらゆる文化は偏見を教えるが、しかしある人はより偏見が強い - より強く自身の事前判断にコミットしており、矛盾する根拠に出会ったとしても偏見を再検討したがらない - そして、偏見が少ない人もいる。不正な行いは通常、偏見によって動機付けられており、また偏見は非常に頻繁に不正な行いの結果であるのだが、しかしこのどちらの等式も厳密に成立するわけではない。極端に強い偏見を持っているものの、不正な行いを拒否する人々を私は知っている。それは何らかの別の信念やコミットメントがそれを禁じているからである; また私は、[偏見なしに]繰り返し不正な行いに手を染める人々も知っている。彼らは単に命令に従っているだけだったり、友人と同じことをしているだけであったり、またはいずれにせよものごとをまったく気にかけていないだけであったりする。

そして、特権 [privilege] がある。偏見と不正な行いが個人的なものである一方で、特権は集合的である; あなたは特権を持っているかもしれないし、持っていないかもしれないが、それはあなたがあるカテゴリに属しているからであり、あなたが何をしたか、何をしなかったかによらない。ここでは私自身を例として用いよう。私は、警察からの嫌がらせを受けることなく、住んでいる町の裕福な地域を歩くことができる; 黒人の人々はそのような特権を持っていない。私は、このような論争的なエッセイを、インターネットの荒らしからの強姦や殺人の脅しを受けることなく公開できる; 女性はそのような特権を持っていない。私は、通りすがりの車の窓からどこかのバカに侮辱の言葉を投げかけられることなく、公共の場で配偶者にキスできる; ゲイの人々はそのような特権を持っていない。

次の10件の記事を、私が保持する同様の特権についてのリストで埋められるかもしれないし、そうしたとしても事例の枯渇に近づくことすらないだろう。重要なのは、けれども、私の特権的な状況が、何らかの特定の理由によって私に割り当てられているわけではないと認識することである。それは、私が白人、男性、異性愛者だからでも、あるいは給与階級の下端の家族で育ったからでも、健康な身体で埋まれてきたからでも、その他いかなる理由によるものでもない; これらすべてが、そして更に多くのことが一緒になって、特権のヒエラルキーの中で私を今の場所に割り当てている。私の場所をあなたから区別するもの、そしてあなたの場所を他のみんなから区別するものは、特権の階梯上のあらゆる場所が、そこより上にいる多数の人と下にいる多数の人の間に異なる割り当てをしているからである。たとえば、今日のアメリカでは私より大きな特権を持っている人がいるが、しかしそれよりもはるかに、はるかに小さな特権しか持たない人々も膨大な数に上る。

また、私は今持つ特権を得るために何もする必要がなかったし、私はその特権を捨てることもできないことに注意してほしい。給与階級のバックグラウンドのある白人異性愛者男性として、そしてその他について、私は生まれた瞬間からほぼすべての私が持つ特権を割り当てられた。そして私が何をしても何をしなかったとしても、それらの大部分は私が死ぬまで続くだろう。それはあなたにとっても当てはまる、読者諸君、また他のあらゆる人にも: 長い特権の階梯の中であなたがどの位置を占めていたとしても、それは単純に生まれつきのものである。ゆえに、あなたはどんなレベルであれ特権を持っている事実に対して責任を負わない - けれども、当然、それを用いて何を選択するかということには責任がある。

結局のところ、あなたは自分自身が特権に値し、あなたの特権を共有していない人々はその人々自身の劣った地位に相応しいと信じ込むこともできる - 言うなれば、あなたは偏見を持つことを選択できる。あなたは、自分自身の特権を活用して、特権を持たない人々に犠牲を強いて搾取することもできる - 言うなれば、あなたは不正な行いに手を染めることができる。大きな特権を持てば持つほど、偏見が他の人々の人生に与える影響が大きければ大きいほど、不正な行いはより強力になる。ゆえに、弱者の代弁者たちが指摘する通り、特権者の偏見と不正義は、非特権者のそれらよりもより重要な問題であるということは極めて正しい。

その一方で、特権が自動的に偏見や不正な行いに結び付くわけではない。特権者 - 既に述べた通り、自身の特権を選択したわけでもなく、それを取り除くこともできない- が、そのような方法で自分の特権を利用することを拒否することは十分にありうることである。更には、昨今ではとてつもなく時代遅れな概念であるものの、そのような人々がノブレス・オブリージュという古くからの原則を採用することもありうる: これはよりオープンに特権が認識されていた時代には広く受け入れられていた (しかし、必ずしもその通り行動されることは少なかったのだが) 概念であり、生まれつき特権を持つ者は、それより低い地位にある人々への一定の責任も受け継いでいるとされていた。特権を持つ人たちが、何らの豪華な見返りがなくともノブレス・オブリージュを行なうということさえありうるかもしれないと私は思う。しかし、今のアメリカ文化の現状を考えると、それは若干の高望みかもしれない。

今日では、けれども、ほとんどの給与階級バックグラウンドを持つ白人の異性愛者男性は、自分自身を特権的だと考えていないだろうし、先に私が挙げたことが特権であるとは見なしていないだろう。これが今日の社会における特権の最も重要な点である。特権を持つ者には、特権は眼に見えない。それは単に個人の無知、あるいは特権の低い人々から分離していることによるものではない。しかし、当然これらも影響を与えているのだが。それは文化化の問題である。マスメディアとアメリカ文化のメインストリームのあらゆる他の側面が、定期的に、特権的な人々の経験は普通であるかのように示しており、またそれと同じくらい定期的に、そのような経験から少しでも外れた経験を、完全に予測可能なフィルタで隠蔽してしまう。

最初に、当然、非特権者の経験は消去される-「そんなことは実際には起こらない。」それが失敗すると、問題は重要ではないとして無視される - 「まぁ、そういうこともあるんだろう。でも大したことではない。」それに対処しなければならない人々にとっては重大な問題であるということが明らかになると、問題は時おりの異常事態であるとして扱われる - 「1つや2つの悪い事例を一般化することはできない。」それもダメになると、最終的には、非特権者の経験により非特権者自身を非難する - 「ヤツらがそんなふうに扱われるのは、ヤツら自身の行いのせいだ。」

面白いのは、現代アメリカにおける特権の不可視化は、他の人類社会の多くでは共有されていないということだ。多数の文化では、過去であれ現在であれ、特権はオープンに存在し、法律へ書き込まれて、特権者・非特権者の両方からオープンに議論されている。アメリカ合衆国も1950年代ごろまでは同様であった。それは、当時ジム・クロウ法が黒人アメリカ人を公式に二級市民の地位に割り当てていたからでも、また多数の州法で女性のさまざまな法的・経済的な権利が制限されていたからでもない; あらゆるメディアと大衆文化のなかでもそうだったのだ。日刊新聞を開けば、社会面にはエリートに属する人とそうでない人々の特権の差異についての記事が大量に掲載されていた。

けれども、60年代の文化的なけいれんに端を発する複雑な一連の理由によって、特権についての率直な会話は20世紀後半にわたってアメリカでは社会的に受け入れられないものとなった。もちろん、それが特権を消し去ったわけではない。確かに、特定の公的な特権の表現、たとえば先に述べたジム・クロウ法など、が破棄され、そのプロセスを通してある種の本当の不正義が修正されてきた。その欠点としては、アメリカ社会における特権の真の不公平さが、前述のフィルタを通して繰り返し除去されるダブルトーク文化の勃興である。そのような不公平性の最も重要な原因の一つ - 階級の差異 - が、我らが時代の集合的会話から完全に取り除かれていることである。

スターホーキングの習慣は、特権、特に階級的特権についてのオープンな議論を視界から遠ざけるための主要なレトリック上のツールの一つである。極左から極右に至るまでの政治的スペクトラムの全面において、スターホーキングは等しく使われている。裕福なリベラル派が、地球を救う仕事を進めるためにはみんなが特権を無視しなければならないと主張する場合であれ、裕福な保守派がキリスト教の基盤へとアメリカを立ち帰らせるためにみんなが特権を無視しなければならないと主張する場合であれ、あるいは - これはますます標準線となりつつあるのだが - 左右両サイドの裕福な人々が、他サイドの邪悪な人々と戦うことが唯一の重要な問題であるためにみんなが特権を無視しなければならないと主張する場合であれ、実際上、これらすべての言葉が意味しているのは「俺の特権については話してくれるな。」ということである。

この種の回避策は、私が今年始めに階級的特権を取り巻く問題についての話を始めたときに、読者からの反応として予期していたものであった。確かに私はある程度そのような反応を受けたのだが、既に述べた通り、そのような議論が不快でると感じたことを認めた人々からの、議論を止めてほしいというコメントも受け取った。これが意味することは、今日のアメリカの特権、特に階級的特権についてのオープンな議論を締め出す否定とダブルトークの壁が、ついに壊れ始めたということだ。確かに、『The Archdruid Report』はアメリカ社会の文化的周縁フリンジにいるかもしれないが、けれども非常にしばしばある通り、メインストリームが耳を傾けるよりも前にフリンジが重大な社会変革の兆候を示すことがある。

もしも、特権一般についての会話、特に階級的特権についての会話の抑圧が崩壊プロセスにあるとしても、それはすぐには終わらない。アメリカ合衆国はちょうどまさに劇的な変化の潮流に踏み込んだところであり、現在の特権のパターンは、その潮流が激突したとしてもしばらくは残ると考えられる多くのもののうちの一つである。次はそれについて語ろう。

*1:訳注: グリアは、文明批評と時事評論を扱うこのブログ『The Archdruid Report』の他に、神秘主義思想について論じるブログ『The Well of Galabes』を持っていた。2つのブログは2017年に閉鎖され、新しいブログに統合された。