Going Faraway

渡辺遼遠の雑記帳

翻訳:アメリカとロシア Part2: 進歩という楽園の向こう側 (ジョン・マイケル・グリア)

以下は、ジョン・マイケル・グリアによる"America and Russia, Part Two: The Far Side of Progress" の翻訳です。

パート1はこちら


America and Russia, Part Two: The Far Side of Progress

この連載記事の最初のパートである前回の記事では、オズワルト・シュペングラーの洞察、歴史サイクルの概念は、過去を説明するために使用できるというだけではなく、我々の未来を形作るものの洞察を得るためにも使えることを確認した。これは危険な考えである。なぜならば、そこから予測される未来は、今日の文化的な強迫観念から要求されるものではないからだ。

あらゆる偉大なる文化には、シュペングラーのフレーズを使うと、未来がどのようなものになるべきかという独自のビジョンがある。アポロン文化--古代の地中海沿岸の大文化であり、古代ギリシアで文化的な全盛期を迎え、ローマの鷲のもとに転移した--においては、誰もが予期していた未来とは、現在が限りなく続くものであった。アポロン文化の成熟期、数世紀を導いた時間と変化のビジョンは、3つの段階を持つ; 最初、ものごとは混沌のなかにあった、そして偉大なる力が生じものごとに秩序を定め、そして秩序が永遠に続く。宗教的な用語では、偉大なる力とはタイタンを雷で押さえつけたユピテルである; 政治的な用語では、偉大なる力とはローマ帝国がその傘下に合争う諸王国を組み込むことであった。同じロジックが古典哲学にも適用された。そこでは、理性的な精神を用いて自己の混沌を抑え、永続的な秩序をもたらす方法が教えられていた、などなど。

マギアン文化 --アポロン文化が頂点を迎え衰退していくにつれて中東で生じた偉大なる文化であり、アッバース朝カリフ制のもとで文化的な全盛期を迎え、オスマン帝国に転移した-- においては、ひとたびアポロン文化の擬形態がフェードアウトすると、このビジョンはいくつかの後継を発見した。マギアン的な時間と変化のビジョンは、キリスト教神学を通して私の読者にはむしろ馴染み深いものであろう。このビジョンにおいて、宇宙とは人間の救済の壮大なるドラマが上演される舞台である。天地の創造、唯一の真なる信仰の啓示を通して、大激変のフィナーレへと一直線に至り、その後はもはや二度と何も変化しなくなる。マギアン的な経験の中心部には、逆に、信仰コミュニティの一部であるという感覚があり、唯一の真なる神が終末をもたらすのを敬虔に待ちながら邪悪な勢力に抵抗する。

前回の記事で見た通り、ファウスト文化 --西ヨーロッパで西暦1000年ごろに生じた偉大なる文化であり、ルネサンスで文化的な全盛期を迎え、18世紀と19世紀の巨大ヨーロッパ帝国に転移した-- は、その内部にマギアン文化の残滓を保ち続けている。それは擬形態の通常の歴史的プロセスを通してピックアップされ、多かれ少なかれ化石化した状態でその場に留まり続けている。(後で、ファウスト文化の故郷であるヨーロッパよりもここアメリカで、それらの化石化した文化が極めて一般的であり影響力を持っているのはなぜなのかについて語ろう。) ファウスト的な世界観の根底には、けれども、マギアン的な文化とは正反対の時間と変化についてのビジョンが存在しており、またアポロン的ビジョンの名残りはかなりはっきりと見える。

ファウスト的ビジョンでは、ものごとの始まりを形作る特徴は、混沌ではない。停滞である。あらゆる古いおとぎ話の、洞窟に住む人間が火を発見する物語を考えてみてほしい、あるいはそれと同じ神話的ナラティブの残響、スタンリー・キューブリックの映画 『2001年宇宙の旅』のオープニングシーンを; 科学革命についての民間伝承を考えてみてほしい; 未だ自身の失敗の重みで潰れていない、マギアン的な終末論に変化した社会変革に向けた壮大な十字軍的運動のレトリックを考えてほしい (現代西洋世界の社会運動が「我々が望むものが得られなければ世界は終わりだ!」と叫び始めたら、その運動は既に失敗しており、残りの期日は限られていると考えられる)

物語は暗闇と卑しさと停滞状態から始まり、誰もが蒙昧と迷信の鉛のような重量の下で何世紀にもわたる決まりきった歩みを進めている。そして、とある聡明な人にすべてを変える「アハ!」の瞬間が訪れる。彼は--通常の場合男である、少なくとも神話では--当然、蒙昧と迷信の勢力と戦う必要があるものの、もちろん最終的には勝利する; 暗闇と卑しさは何らかの輝く新たなものに道を譲り、停滞はムーブメントに道を譲り、進歩の偉大なる行進が星々へと向けた歩みを始める。

ここでは、ファウスト的神話がアポロン文化の同等の神話から最も明らかに遠ざかっているように見える。けれども、その違いは見た目ほどには重要ではない。「進歩 [progress]」という単語は、結局のところ、文字通りには「同じ方向に向かって歩みを進め続ける」ことを意味する。ゆえに、ファウスト的神話では、進歩の速度は変わりうるものの、その方向は変わらない。一例を挙げれば、1970年代に、先進的な研究者のさまざまな集団が神秘主義者やオカルティストと共通の立場を見つけるようになった時期に、科学的エスタブリッシュメントがきわめて強く怒り出したのはこれが原因である。当時と現在の科学的主流派に受け入れられた進歩の定義は、神秘主義者とオカルティストを迷信と無知のごみ箱へと追いやるものであった。そこで、いわゆる「懐疑主義」運動は必然的な反発であった。

自分たちは教条主義と不寛容に反対しているのだと主張する、充分に懐疑的ではない懐疑主義者たちの教条主義と不寛容性を揶揄することは容易であるが、しかし彼らの聖戦はファウスト的な進歩教の中心的ロジックからすると、必然的な帰結だったのだ。定義上、進歩とは、我々を無知蒙昧の過去の卑しさと無知からここへと運んできたものであるため、定義上、同じ方向への歩みを進め続ければ、輝かしいテクノユートピアの未来へと我々は導かれ、上昇させられるからだ。霊的体験に対する科学者集団の教条主義的な拒絶を再考しようとするいかなる試みであっても、無知と迷信の勢力への降伏であり、我々全員の星々への運命を否定するもの以外とは見なされないだろう。

同じロジックがファウスト文化のあらゆるレベルに蔓延している。たとえば、自分自身の健康に良い食事法に出会った人々が、同じ食事がみんなの健康にも良いに違いなく、それ以外のあらゆる食事は悪く、邪悪で、誤りであり、もしもすべての人々が唯一の真なる食事を受け入れればあらゆる病気が消え去るのだと、ありとあらゆる人々に主張することがどれほど一般的であるかに気付いただろうか?

これは偏った食生活の核心を反転させたのと同一の考え方である。常軌を逸した食事法の提唱者は、すべてを変える「アハ!」を得た聡明な個人という文化的に課せられた役割を追い求める。そこで、唯一の真なる食事法が、食事法の進歩へ向けた永遠の歩みを進める固定の方向であるとされる。進歩とはただ一つの方向へと向かう直線であり、あらゆる人々がそれに従うことを強制されるという考えがファウスト的ビジョン全体の中心なのだ。

代わって、ファウスト的なナラティブの欠点が痛々しいほど明白になるのは、進歩へ向けた絶え間ない行進が無様に失敗するときである。なぜならば、ファウスト文化は失敗に対処する方法を持たないからだ。

失敗に対処する方法は、それぞれの大文化で劇的に異なっている。中国とインドの偉大なる文化は、たとえば、重要な点の多くで異なるものの、時間と変化へのアプローチには類似のスキームを取っている: 循環的な運動のビジョンである。ヒンズー哲学は、記録された高等文化の中で最も豊かに洗練された循環的な時間スキームを持つ2つの文化の中の1つである。--唯一のライバルは、同等に膨大なディテールの中で機能する、同等に複雑な入れ子構造の循環的システムを持つネイティブ・メソアメリカ文化だけである。これら文化のどちらでも、起こることのすべては過去に何度も繰り返し起こったことであり、未来にも何度も繰り返し起きるだろうとされている。たとえ困難な時代が来たとしても、それは広大な時間の円環の中から別の事象が出現しただけだ。

中国文化のビジョンはいくらか異なっているが、しかし同様に循環的である。時間の理論に関する中国の偉大な教科書である易経は、64個の時間の基本的条件を特定しており [六十四卦]、それぞれが特定の変換方法により別の形へと変貌する。ゆえに、諸国と諸王朝の興亡は、インドにおける時間の円環ほど厳密に固定されているわけではない; 時の流れに注意を払う政府は、働き始めた崩壊の条件をくい止められる場合がある--伝統的な中国の言葉で言えば、天の義務を知り、それが新たな者の手に渡ることを防ぐのである。中国のものの見方では、代わって、困難な時代が来たときには、それは単に首都の官僚たちが時の流れの正確な判断に失敗したことを意味する。そして、官僚たちが鍵を見つけるか、または次なる王朝の兵士たちによって官僚たちの首が竹ヤリの上に晒されれば、状況はすぐに改善するだろうと考えられる。

マギアン文化は、循環的な時間感覚を持っていない--これほどに有限な歴史のビジョンを備えた大文化は他に存在しない--しかし、マギアン文化の時間スキームの本質的な柔軟性により、失敗と敗北への対処は相対的には容易である。マギアン的な世界観では、結局のところ、信心深いコミュニティは邪悪な勢力によって絶えず脅かされている。それら邪悪な勢力は、唯一の真なる神の不可解な理由により大きな猶予を与えられている。いつの日か、メシアかキリストかマフディー [それぞれユダヤ教キリスト教イスラム教で世界の終末に現れる救世主を意味する] か何者かが現れて世界を完全に変貌させるが、けれどもそれがいつであるかは誰にも分からない。そして、しばらくの間、信心深い者たちは、現世的な失望と苦難の業火の中で信仰が試されることを覚悟しなければならない。

アポロン大文化は、これらのリソースのいずれも欠いていた。アポロン的な歴史のビジョンでは、もう一度言うと、ひとたび正しい支配者の偉大なる力によって宇宙があるべき秩序に定められたなら、そして誰もがものごとの秩序において適切な場所を受け入れたならば、そのままの状態で永遠に留まり続けると考えられていた。そのため、ローマ帝国の崩壊は、その中を生きていた人にとって滅茶苦茶な体験であった。強い主張を唱えることもできる--そして実際に、西暦5世紀初期ヒッポのアウグストスは彼の論争的な傑作、『神の国』でそのような主張を唱えた--つまり、ローマの崩壊はアポロン的な世界観の最も根本的仮定を反証したのである、と。そのような認知的不協和の経験が、まだ残されていたものを一層し、新興のマギアン文化が古代世界の集合的イマジネーションを捉え、後期ローマ帝国の幻滅した大衆に自身の宗教的・文化的なビジョンを課したのである。

ファウスト文化は、けれども、同種の幻滅に対して更に脆弱である。もしもさまざまな大文化の失敗経験に対する打たれ強さ レジリエンス スペクトラムを設定したとすると、インドと中国はスペクトラムの末端に位置し、ファウスト文化はその逆側の末端の最大の距離に位置するかもしれない。ファウスト的な時間感覚が無傷であるためには、結局、生き延びるだけでは充分ではない; また、アポロン文化が熱望し、数世紀にわたって一時的に達成したような定常状態を確立することでさえ充分ではない。ファウスト文化の時間感覚は、進歩--同一方向への継続的な勝利の運動--を要求する。運動が停止するか、または目立って減速したりすると、起こるべきと考えられていることと実際に起きていることの間にあるギャップの拡大は、大規模な認知的不協和の源となる。そのような状況がしばらく続くと、人々は自制心を失ない始める。

ちなみに、これが今日のアメリカの政治的主流派の驚くべき狂気について、私が思い付く限り最高の説明である。1980年代初頭の一連の経済政策 --自由貿易協定、無制限の違法移民の暗黙的奨励、スモールビジネスの犠牲のもとに大企業に利益を与える拡大し続ける政府規制-- は、その後続いていくべき経済の進歩を定める固定の方向としての役割を割り当てられた。約10年後、ポリティカルコレクトネスのイデオロギー、性別や民族に従って「犠牲者」と「加害者」という固定された役割を割り当て、社会階級のリアリティ (および、中流階級からの労働者階級に対する階級的偏見) をシステマティックに消去するもの、も社会的・文化的な観点から同一の位置付けを与えられた。

この政策とイデオロギーの両方が、表明した目標を達成できなかった; 前者の結果としてもたらされるはずだった全般的な繁栄も、後者によりもたらされるはずだった平等性の増加も、決して実現しなかった。結果は強烈なバックラッシュであり、その先鞭を付けたのは、お決まりの通りこれらの政策とイデオロギーによるコストを支払うことが期待されていたものの、何ら利益を受け取れない人たちであった。現時点において、このバックラッシュによって問題の政策とイデオロギーへの反対者が、米国政府の行政・司法機関の枢要な地位に就いている。自由貿易政策が提供するはずだった草の根的な経済ブームは、今や自由貿易政策の廃止によって引き起こされつつある。

その反応として、旧式の進歩のビジョンの擁護者たちは、ファウスト的社会の中で敗北した大義の通常通りの行動を取っており、マギアン的な擬形態の習慣へと戻った。このようにして、鋭い道徳的な二元論、自分たちは善の権化であるという態度、彼ら自身の進歩のビジョンに対するバックラッシュは意図的な邪悪なる動機によるものであるという狂乱した主張、そしてその他のもろもろが引き起こされる。1つの予兆として、代わって、「良い人々」を自称する人たちが敗北すると、その後即座に世界の終焉が来ると主張するメディアの記事も見られ始めている。もしもドナルド・トランプの支持者が、自分たちを取り巻く思想史について知っているとしたら、これらの記事を喜びをもって読むであろう --既に述べた通り-- そのような批判は現代の社会運動の死因であるからだ。

心に留めておいてほしいのは、けれども、今日のアメリ政治界で見られる騒動は、これまでファウスト的永続的進歩のプロジェクト全体が取り組んできた希望が裏切られるにつれて起こるであろう劇的な幻滅の、穏やかな予告編でしかないということだ。ファウスト文化が決して把握できなかった問題は、同一方向への継続的運動へのいかなる試みであれ、収穫逓減の法則の対象となるということだ。科学的発見と技術的進歩もこの法則の例外ではない; 科学的、技術的進歩の各世代ごとのコストが10年毎に着実に増加していることは注目に値する。その一方で、10年毎の進歩によって得られる利幅は、未だ負に落ち込んでいないものの、平均すると低下しつつある。

既に我々は人々が旧世代の携帯電話へと帰っていくのを眼にしつつある。なぜならば、最新のギミック満載のスマートフォンは、文字通り価値よりもトラブルが多いからだ。まったく同様に、有人宇宙飛行は野心的国家とビリオネア著名人のための宣伝用ギミックと化した。衛星軌道がジャンク衛星とスペースデブリで埋めつくされ、ケスラーシンドロームの破滅のリスクが上昇するにつれて、20世紀初期のテクノロジーである高軌道気球に現在人工衛星が果たしている役割を持たせるため、賢明な投資資金が集まっている。

人間の外宇宙への拡大というナラティブ全体が、我々のあらゆる夢想のうちでおそらく最もファウスト的な典型例であり、あらゆる方向へ向かう無限のズームアウトへの愛に対する究極的な文化的表現である。科学者たちは、それが不可能であることを何十年も前から知っていた --地球の磁気圏の外側では、宇宙は強烈な放射線で満ちており、長時間の暴露は放射能汚染による確実な死をもたらす。そして、月も火星も、あるいは人類が到達可能な太陽系内のあらゆる惑星も、太陽系の中心で爆発を続ける熱核爆弾から流れ出る致死的な放射線を遮るだけの磁気圏を備えていない。そのような科学的ディテールの歯の中で、宇宙の植民地化という集合的イマジネーション上の神話を保持しつづけた場合、夢想全体を崩壊させる弱点へと転じるかもしれない; そうでなければ、別のものが弱点となるだろう。

ゆえに、永続的な進歩ではなく、技術的な縮小が未来の波なのである。壮大な進歩神話の失敗が避け難くなるにつれて、多くの人々が最新の機能不全のアップグレードに背を向け、新しくとも顕著に改善されていない 技術的小間物 テクノトリンケット が、実際にものごとを機能させるため復帰させられるだろう。そのリアリティが浸透を始めるにつれて、世界規模のメルトダウン発生を予期しなければならない。

ゆえに、アポロン文化の世界観を歴史のゴミ箱へと駆逐したのと同種のカタストロフィックな幻滅が、ファウスト文化を襲うだろうと予期している。あるいは、今日の西洋工業文化で見られるイベントの予告編から判断すれば、進歩の神話の拒絶はもっと突然かつ徹底的なものかもしれない。必ずしも国家の崩壊を伴うものではない --私はそれも予期しているが、しかし別の圧力の結果として独自のタイミングで発生するだろう-- しかし、公共政策と個人生活の双方を支配する最も根本的な仮定の放棄を伴うことはかなり確実である。私の読者の多くは、未来が現在より本当に良くなることはないという状況に陥った時の地殻変動を既に経験していることだろう。(その他の諸君も心構えをしてほしい。すぐにあなたも同じ経験をすることになるのだから。)

ここでついに、本連載記事で2週間前に始めたテーマへと戻ってくる。ポストファウスト世界における2つの偉大な文化の発生の可能性、1つは北米、もう1つはロシアである。ファウスト的な夢想の失敗により生じる動きによって発生するのは、この2つの文化だけなのだろうか? 私には分からない。未だ活力を保っている中国とインドの大文化は、ファウスト時代の衝撃に対して、古典的な文化テーマの何らかの更新版へと回帰して循環させて対応するだろうと考えられるあらゆる理由がある。同様に、マギアン文化は中東のハートランドで繁栄を続け、ファウスト文化の幻滅の始まりに北と西へと拡大し、ファウスト文化との長く苦しい闘争をようやく終えられるかもしれない。そしてヨーロッパの疲弊した国々にいっとき自身のルールを課すだろう。

広大で、肥沃で、気候の温暖なオハイオ川とヴォルガ川の流域は、けれども、ポストファウストの未来で明確な役割を果たす可能性が高い。2つの渓谷とそこから生じる2つの文化は、けれども、いかなる観点からも完全に別々の軌道を辿るだろう。2つの決定的な要素がそれら2つの文化を区別する。1つはこの連載記事で既に言及した: ロシアは既に2回目の擬形態の段階にあるものの、アメリカこれまでのところ1回しか経ていない。もう1つは、それより微妙だが普遍的なファクターであり、土地そのものに根ざしている。次回の記事では、カール・ユングとヴァイン・デロリア・ジュニアの助けを借りてその微妙なファクターの根本を追い、将来の文化が形作られる方法を説明しよう。