Going Faraway

渡辺遼遠の雑記帳

翻訳:ケク戦争Part2 大聖堂の影で (ジョン・マイケル・グリア)

以下は、ジョン・マイケル・グリアによる"The Kek Wars, Part Two: In the Shadow of the Cathedral" の翻訳です。


The Kek Wars, Part Two: In the Shadow of the Cathedral

ケク戦争に関する前回のスリリングなエピソードでは、アメリカの管理貴族とその下僕と取り巻き連中が、自身の好みの政策の帰結を認識することを避けるために、自己参照バブルの中へと閉じ込もったことについて語った。

そうすることで、それらの政策 --政府規制の転移性の増大は、小規模ビジネスを締め殺し権力と富を巨大企業と連邦政府官僚へと移転し、貿易政策は、労働者階級の賃金と福祉を最低生活水準以下へと押し下げ、暗黙的な無制限の違法移民の奨励政策は、何らの権利も持たず咎めなく搾取しうる広大な非市民の貧困労働者を作り出した-- は、何千万というアメリカ人を困窮と悲惨の中へと追い込んだのである。

今回は、これらの政策形成に対する揺り戻しについて見ていこう。

揺り戻しの一部は、たった今指摘した政策の犠牲者である労働者階級から生じており、また超党派の政治的コンセンサスによる恩恵から締め出され、不均衡なコストを支払わされている別の社会部門からも生じている。しかし、その他の要素は、エリートたちが遅かれ速かれ確実に採用する政策に由来している: 教育システムが、既存の組織で吸収できる以上の人々を、管理業務のために訓練するという慣習である。

どうしてエリートはそんなことをするのだろうか? 彼らにとっては、少なくとも短期的な利点は明白である。恵まれぬ大衆からの地位向上を許されているものの、巨大な特権を持つエリート階級への参加を絶対に許可されない使用人どもの手に社会の運営を委ねようとするならば、-- そしてこれは、もちろん、複雑な社会の正常な状態である-- 使用人たちに対して、 体制と、許容可能な思想に対する厳格な忠誠心を植え付ける必要がある。これを行なう最も効果的な手法は、ほとんどの者が敗退するような野蛮な競争の中で使用人候補者たちを互いに競わせることである。

有望な使用人候補が互いに上を目指し、富と影響力を得られるごく限られた地位へと向かってもがき進む場合には、いかなる弱点であれ競争相手に使われる武器となりうる。このようにして、 最良で聡明な者 ベスト・アンド・ブライテストが、それに加えて一般通念から事前承認されていない思想を考える傾向を丹念に自身の心から消し去った者たちが競争を勝ち上がってくると期待される。候補者たちは熱心で、理想主義的で、責任感があり、野心的であるだろう。もしも、それが支配エリートの望む性格であった場合は; 何か別の特性を求めれば、やはりそれを得られるだろう。なぜならば、笑顔で毛並みの良い候補者たちの表皮の下には、ただご主人様の不興を買うことのみを強烈に恐怖する、パニックを起こした順応主義者の群れが存在しているのだから。

けれども、ここでは競争の敗者が問題となる。いかなる場合であれ競争の敗者は存在するが、現代アメリカでは大量の敗者がいる; 富と影響力の地位から脇に押しやられ、しかも、もっと幸運な落伍者たちに社会が提供するさまざまな慰安品を受け取ってもいない、多くの若い男と女たち。彼らの失敗の理由は各々に異なっている--金銭の不足、才能の不足、意欲の不足-- 適切な講義を受けられなかった、適切な課外活動を行えなった、適切な試験に合格できなかった、適切な思想を身につけられなかった、などの理由により、道端に捨て置かれているのである。

問題の敗者すべてが、ママの地下室に住んで一日中ビデオゲームをして過ごしているわけではないが、しかし大多数はそうしているのだろう。思い出してほしい。今日のアメリカでは、仕事は乏しく、家賃は人為的に不条理な水準まで膨らまされており、かつては独立した大人の生活へ向かう普通の道のりとして考えられていた生活から多数の若者は占め出されている。だから、それら占め出された人々、教育ある敗残者たちは、オンラインで集い、ビデオゲームで遊び、「ちゃんねる [chans] 」-- 4chanや8chanといったウェブサイト-- のようなオンラインフォーラムに頻繁に集まっているのだ。それらのウェブサイトでは、投稿は匿名であり、許容された言説を支配する規則はもはや適用されず、特権階級に対して攻撃的な考え方であればあるほどより賞賛を集める。

これは、雇用可能な人数よりも多くの人間を教育するという間違いをエリートが犯した場合、普通に発生することである。革命の長い歴史を見てみれば、はるかに頻繁に事例を発見できるだろう。政府を転覆し、国家を崩壊させる人々は、今日の地下室旅団とまったく同等の人々である: アウトサイダーとしてのステータスを何らかの方法で武器化する方法を編み出した、教育を受けたが機会を得られずに富と威信のため奮闘する敗者たちである。

このような状況下において、敗者たちが極めて危険になる理由の1つとして、成功したクラスメイトが欠いている自由を持っているという点が挙げられる: すなわち、自身の望むことを何でも考え口にする自由である。思い出してほしい。成功への闘争においては、許容された言動からの逸脱を示すごく僅かな兆候でさえライバルの武器になるのであり、それはライバルを押し退け地位を奪うために無慈悲に使用されるのだ。(このプロセスの素晴しい実例を見たければ、人種差別や性差別批判という口実を求めるアメリカの著名大学の学生を見てほしい) 闘争から脱落した人たちは、成功した同僚には求められる窒息的な順応主義に従う必要はない。そして必然的に、自身の自由を、旧来の考え方を抱く人々に対する攻撃のために利用する。

一般常識が機能しているならば、これは無害である。これが急速に有害になるのは、貴族が採用した政策がエリート文化の自己参照バブル外部にいる人々の多数に、あまりにも悲惨な結果をもたらすようになった時である。賢明な貴族はこれを認識しており、自身の政策が多数派の人生にいかなる影響を与えるのかに注意を払う。けれども、アメリカには賢明な貴族は存在しない。我々の国に居るのは、承認された政策の悪影響についての話題が注意深く除去された 残響室 エコーチャンバーの中へと自分を囲い込んだ、無知な貴族だけだ。

このような状況では、大多数の人にとっての最重要課題を話してくれるのは、ただ敗残者だけとなる。そこで、その敗者たちが受け入れたイデオロギーは、いかなるものであれ急進的な政治変革の指針となりうる。もしも政治変革が十分に進めば、そのイデオロギーは国家に課せられる可能性すらある。運が良ければ、問題の敗者たちは民主的ナショナリズムを受け入れ、現代のアイルランドやインドのような成功した民主国家が得られるかもしれない。運が悪ければ、敗者たちはより毒性のイデオロギーを受け入れ、ナチスドイツやソビエト連邦を得ることになる。

それでは、我々が議論している敗者とは誰か? ここで物語にオルトライトが登場する。

私のように思想史に興味がある読者であれば、過去10数年程度の間の最も魅力的なイベントは、レーガン時代の疑似保守主義のたそがれと、本物の保守主義の復活へ向けた最初の試験的集団の出現であろう: つまりは、何かを本当に「守り保つ」政治的・社会的な運動である。レーガンおよびポストレーガン時代の疑似保守主義者たちは、フランクリン・ルーズベルトによるニューディール政策のほぼすべての政策を盗用した --財政赤字支出、私有企業に対する政府補助金、中間層に対する終わりなき権利付与プログラム、連邦規制の終わりなき拡大、軍事介入に取り憑かれた対外政策など-- 一方で、宗教保守派および他のわずかな右派圧力団体に対して時たまにパンくずを投げ渡すのだ。

今日の「保守」政策を1960年の共和党大会で提案した者は、道端に穴を残すほどの力で会合から投げ出されただろうと言っても過言ではあるまい。最近まで、しかし、その偽の保守イデオロギーに対する唯一の代替策は、一方では、アメリカの疑似保守主義の悪い特徴すべてを倍増させた、 新保守主義 ネオコンサバティブを自称するイデオロギーであり、もう一方は、過激な宗教的狂信者の一団および自由市場のリバタリアンであり、彼らの考える保守主義は自身の恣意的なユートピア的ファンタジーの追求に過ぎず、その教条主義的な熱狂は彼らが心から嫌悪するマルクス主義者の写し絵にも見えるものだった。

2007年ごろ、状況に変化が始まった。カーティス・ヤーヴィンが、メンシウス・モールドバグのペンネームでブログを書き始め、後に「新反動主義 [Neoreaction]」と呼ばれるようになる一連の思想に対してオンライン上で注目を集め始めたときである。新反動主義は、本質的には古典的な19世紀ヨーロッパの反動思想を21世紀初期の状況に合わせて作り直した思想であり、絶対的独裁制への熱意およびあらゆる範囲の民主的価値観への拒絶をすべて備えていた。新反動主義は排除された者たちが膨大な暇を潰すオンラインのサークルで多少流行したが、すぐにその新規さは失われ、分配主義[distributism]、社会三層化[social threefolding]、民主サンディカリズム[democratic syndicalism] その他の思想が独自の住処を見つけたのと同じく、壮大な大義の地下世界へと帰っていった。それでも、新反動主義は、我らの時代の疑似保守主義の正統性に一穴を穿ち、現状維持に対する真の代替策はいかなるものであるのかというハードな疑問を提示することに成功したのだ。

ここで、オルトライトの語彙となった便利な用語を紹介しておこう。「大聖堂 [the Cathedral]」である。ヤーヴィンの用語では、主流派による強制的コンセンサスであり、既存の社会秩序を正当化する価値観および信念である。また、これは偶然の一致ではないのだが、その社会秩序の中にいる管理貴族の特権的な場所をも意味している。これは聡明な命名である。というのは、今日の一般常識の信者が集う場の、敬虔な信仰と道徳的な熱意を捉えているからだ。同時に、当然、大聖堂は思想の集まりではない; それは莫大な影響力と富とが配備される組織でもあり、信者と異端とが厳密に定められた場所を占めるヒエラルキーの目に見える表現でもある。

注意してほしい。新反動主義には多くの反対意見がある。そして、その覚醒に従って起きた批判の中には、毒性の高いものもある。言うまでもなく、種々のファシズム国家社会主義の焼き直しも会話に割り込んできている--文化的主流派たちは、ヒトラーを今日のエリート的価値観に対する究極的な対比として描写することに多大な労力を払っている。それは避けられないことであるが、自己破壊的な道でもある。ユリウス・エヴォラや他の伝統主義者たちも、彼ら自身の番組への放送時間の割当を持っていた。最近焼き直しされたイデオロギーも同様である。それらのイデオロギーの共通点は、アメリカ貴族にとって絶対に受け入れられないという点であった--そして、もちろん、それは彼らが必要とする特徴なのである。現状維持の門番たちによって見捨てられ軽蔑された者たちが関心を持つのは、それら同じ門番たちが言葉にできないほど攻撃的であると考えるイデオロギーだけなのだ。

そこで、ここまで議論してきた敗者たちが共有するイデオロギーは未だ存在していない。「オルト・ライト」のラベルは、競合する観念の福袋のようなものであり、特定の提案の集合ではない。ところで、オルトライトとはつまるところ人種差別主義なのだという主流派メディアの声高な主張は、単純な誤情報である; アメリカ貴族が何よりも恐れているのは、白人労働者階級と有色人種労働者階級の和解であり、特権階級からの「人種差別!」という絶え間ない叫び声は、部分的には、エリートの究極的悪夢を阻止するための戦略なのだ。

ゆえに、ゲームにある1枚の重大なワイルドカードは、ひとたび社会が十分な量の敗者を抱え込んだ際に、いかなるイデオロギーがエリートに対する反対の焦点になるかである。現在の状況では、そのイデオロギーは未だ決定されていない。オルトライト運動の多くは、2015年ごろに始まったトランプの選挙運動の周囲に閉じ込められているため、昔ながらの民主的ナショナリズムとそれほど異ならないイデオロギーが現状の状況から浮上してくることも十分にありえるだろう。この場合、長期的な帰結はいくぶんか良いものであるかもしれない--それでも、より毒性の高い結果が起きる可能性は十分に残っている。

もう1枚の重大なワイルドカードは、基本戦略の選定である。もしも革命戦争が排除された人々の想像力を引き付けるようになった場合、また多数の将兵と多数の退役軍人を抱える人口セクターに共通の大義を提示できた場合には、社会が内戦に突入し多数の人々が死ぬ可能性は本当に大きい。もしもテロリズムが魅力的であれば、少数の人がそれ以上に無益に死ぬだろう。テロリズムは、社会から殉教者の複合体を取り除くためには非常に役に立つが、常に失敗するものである。(実際に政治的目標を達成したテロ組織の名前を挙げられるだろうか? ノー、私には思いつかない。)

けれども、それ以外の選択肢もある。そのうちの1つが魔術である。

魔術とは、先週の記事で記した通り、20世紀の偉大なる魔術師ダイアン・フォーチュンによる定義では、意思に従って意識に変化をもたらす技芸と理論である。大衆の中にいる人間はシンボルや儀式行為によって簡単に操作されるため、魔術は極端なまでに政治に適している。中身の無い呪文、たとえば「Hope」、「Change」や「Yes We Can」といった言葉が、バラク・オバマを大統領の座に押し上げた状況を見れば、政治における魔術の力の一端を垣間見られるだろう。けれども、魔術を並外れて強力な力としているのは、オバマの大統領選挙キャンペーンにおいて、有権者にブランドと笑顔の商品を売りつけるために費されたような巨額のマーケティング予算を必要としないことである。もしも、魔術の原理を十分に熟知した者によって十分に巧みに実行されれば、少数のパートタイムの人間による手弁当の予算でも効果を挙げることができるのだ。

2015年に、その頃私が読んだのだが、「ちゃんねる」の住人たちが頻繁に現代魔術の特定流派を訪れ、それを彼らが好むオンラインフォーラムへと持ち帰り、そして魔術について情熱的に語り始めたという。彼らが地下室旅団の同胞たちに紹介した魔術の流派は、ケイオス・マジック [chaos magic; 混沌の魔術] と呼ばれていた。そして、ここに物語が繋がっていく。

何十年か毎に、その時点の科学のトレンドから借用した概念を用い、科学者たちが許容できない伝統的な西洋オカルティズムの要素を排除することにより、科学と魔術の間のギャップへ橋渡しを試みる者が現れる。当然のことながら、橋渡しには決して成功することはない。というのも、現代の科学は常にオカルティズムの反対としてアイデンティティを定義しているために、魔術師が科学の領域にあまりに近付きすぎると、科学者は単にゴールポストを動かすのだから。それでも、これらの橋渡しの努力から生まれた魔術の体系は、実践上ある程度うまく働くことが多く、広範な支持を得られることもある。(…)

ケイオス・マジックは、1970年代後半におなじみの形で現れ始めた。ちょうど、当代の急進的な唯物論者たちの歩みが最高潮に達した時期に対応している。また、急進的な科学的唯物論者が嫌悪した概念--特に、一方では神々と精霊の実在、他方では占星術の有効性--が、初期のケイオス・マジシャンたちからも同様に激しく拒絶されたことは印象的である。新たな魔術の創設者の目標は、これもおなじみの通り、旧弊な迷信から逃れ、それゆえ現代科学の世界観に取り込まれた人々にも観念的に許容できる魔術体系の構築であった。

その結果として生まれた魔術のアプローチは、神々、精霊、および他の魔術的な存在を、人間が生得的に持つ魔術のエネルギーを集中させるためだけに用いられる、完全なる空想の産物と見なすアプローチであった。それは機能するのか? もちろん、自身が定めた限界の範疇においては。伝統的な西洋オカルティズムの臆することのない実践者として、ケイオス・マジックが私に思い起こさせるのは、強烈なライトビールである。対照的に、私が好む種類の魔術は、豊穣で深みのある醸造酒とでも言えようか。しかしもちろんライトビールを好む人もいる。魔術においては、他のものごとと同じように個人の好みがすべてであり、「唯一の真なる道」はないのだ。私はケイオス・マジックを利用して好ましい結果を得ている人を知っている。

しかし、ケイオス・マジックは、2つの中核的要素により、とりわけちゃんねらー文化に適したものとなった。そして、3つ目の要素は、ケク戦争が勃発した際、ものごとがどのように展開していくかを定める上で決定的な重要性を持つことが明らかになった。最初の要素は、ケイオス・マジックの方法論が、今日のアウトサイダー文化の特定の側面と非常によく合致していたことである。ケイオス・マジックのごく基本的な作業ツールはシジル、つまり魔術の働きの意図を表現する記号的なイメージやパターンである。インターネットミームは概して良いシジルを作り、その中にはきわめて優れたハイパーシジルもある -- ケイオス・マジックの用語で、人間集団に共有された意図を表すシジルである。

2つ目として、ケイオス・マジックをマスターするためには、他種の魔術と同じく多大な労力を必要とするけれども、その単純化された性質により、初級者はある程度の基本能力を素早く身につけることを可能にする。特に、ちょっとした量の読書と実践により、熱意のあるビギナーでさえ適切なシジルを作成する方法を学ぶことができ、簡単な方法を利用してシジルに魔術のエネルギーを充填できる。これにより、ちゃんねるはケイオス・マジックのブートキャンプとなり、体制から遺棄され体制への逆襲を熱望する何千人もの若者に魔術を教えたのである。

3つ目のポイントはより微妙である。ケイオス・マジックのほとんどのバージョンでは、神々や精霊は、旧来の信仰や魔術的伝統によって力を与えられ作り出されたハイパーシジルに過ぎないと教えており、それらを独自の意思と力を持った意識のある非物理的な存在とは見なしていない。実際に、多くのケイオス・マジシャンは、宇宙を 空白の石版 ブランクスレートとして扱い、その中では人間のみが唯一のアクティブな存在であると考えている。結果として、ほとんどのケイオス・マジシャンたちは、人間の精神の産物ではない神々や精霊と安全に付き合う方法を学んでいない。これは、伝統的なオカルティストであれば知っていることであり、伝統的オカルティストの基本的な実践と教育で教えられることだった。しかし、これらの保護方法は、初期のケイオス・マジシャンが伝統的なオカルティズムを放棄したとき、一緒に捨ててしまったのだ。

その結果、ちゃんねるやその他の類似のオンラインコミュニティに参加した、何万人もの若く怒れるアウトカースト民たちが、非物理的な存在とのインタラクションをどのように管理するかという感覚を持たず--あるいは、実際には、そのようなインタラクションに管理が必要であるかもしれないと考えることすらせず、基本的な魔術の操作を熱心に学習し実践していった。すなわちそれは、人間以外の存在がこの状況に興味を抱いた場合には、ちゃんねらーの魔術ブートキャンプの卒業生の多数が、まったくコントロール不能な何かに一掃されることを確定的にしたのである。

それが起こったことである。次回はそのプロセスがどのように進んだかについて話そう。