Going Faraway

渡辺遼遠の雑記帳

翻訳:ケク戦争 Part1 貴族制とその不満 (ジョン・マイケル・グリア)

以下は、ジョン・マイケル・グリアによる"The Kek Wars, Part One: Aristocracy and its Discontents" の翻訳です。


The Kek Wars, Part One: Aristocracy and its Discontents

2016年の大統領選挙キャンペーンが最高潮に達して以来、この選挙キャンペーンの最も奇妙で興味を引く側面について、私に何か書いてほしいというお願いを毎月のように受けていた: すなわち、マンガのカエルの旗印のもとへ短期間集合した、右派オカルティストの緩い集まりが選挙において果たした役割である。そこそこの数の読者は、おそらく、カエルのペペ、古代エジプトの神ケク、1980年代のユーロポップソング「シャディレイ」、そしてまとめて「ちゃん[ねる] [the chans]」として知られるオンラインフォーラムの集まり -- 4chan.org, 8ch.netなど -- と、ドナルド・トランプの勝利との関連に対する謎めいた言及に遭遇したことがあるだろう。ご存知でない方は、この先は険しい道のりになるかもしれない。

ケク戦争と私が名付けた事象への記事化のリクエストの奔流がやって来たとき、最初は返事をするまでしばらく待っていようと決めた。私の考えでは、1年かそこらで、敗北した側が敗北したという事実を受け入れ怒りも落ち着くだろうし、そうすれば何が、なぜ起きたのかについての理性的な対話を初められるだろうと思っていたからだ。2016年の選挙とその結果の興味深い特徴としては、負けた側の怒りが未だに収まっていない点が挙げられる。これはまったく前例の無いことではない。--後で見る通り、アメリカ史の初期にも極めて具体的かつ明白な前例が存在する。--しかし、それは何か尋常ではないことの発生を示す良い兆候である。

トランプ当選以来20ヶ月が経過した後でも、アメリカ政治の左端は未だメルトダウンを続けている。そろそろ先へと進み対話を試みる時期が来ているのではないだろうかと思う。何が起きたかを理解するためには、マンガのカエルとインターネットフォーラムとは直接関係が無いように見える背景も広くカバーしなければならない。ここでは魔術について語るつもりだが、魔術は常に政治的なコンテキストを持つのである。

魔術は、排除された者にとっての政治である。このような状況下では典型的な逆転であるが、排除する者にとっての政治でもある。後者のポイントはこのエッセイの後半で扱おう。今のところは、政治的プロセスへのアクセスを否定された者たちにとって、どうして魔術がデフォルトの選択肢となるのかを見ていこう。

大多数の人々が日々の政治に対して少なくとも小さな影響力を及ぼし、自身の要求が聞き入れられ不満が宥められる機会を持つ場合には、魔術は無視される傾向にある。ほとんどの人の影響力が限定されており、他の人間が彼らより大きな力を持っていても、これは正しい。たとえば、アフリカ系アメリカ人の民間魔術の黄金時代は、1900年から1945年の間であった--南部で最も荒々しくジム・クロウ法が執行されていた時代、そして、南北戦争後にアフリカ系アメリカ人に理論上与えられた市民権を否定するため、様々な制度装置が利用されていた時期である。-- そして、それらは奴隷時代のアフリカ系アメリカ人によって形作られた魔術の伝承の上に作られたのである。アフリカ系アメリカ人が政治権力に対していくらかアクセスできた時代、1865年から1900年のレコンストラクション *1 の目覚めの時代、そして1945年から今に至るまでの公民権運動の目覚めの時代には、魔術に対する関心は薄れたのである。

もしもオペレイティブ・メイジのように魔術を理解していれば、これは完璧に理解できるだろう。(オペレイティブ・メイジとは? 魔術を実際に実践する人間であり、単に魔術を理論化するスペキュレイティブ・メイジの反対語である) 20世紀の偉大なる魔術師、ダイアン・フォーチュンの言葉によれば、魔術とは意思に従って意識に変化をもたらす技芸アート理論サイエンスである。もしも、他の権力の源へのアクセスを否定されたとしても、なお自分自身の意識に対しては力を行使できる。それだけではない。自身の意識に変革を起こしその能力に習熟すれば、自分自身の思考と感情を形成するテクニックは、他者の思考や感情を形作るためにも利用できる。対象者の同意や認識のあるなしにかかわらずである。それゆえ、自身の目的追求や不満の救済に対処する方法を否定された者にとって、魔術は論理的なフォールバックオプションとなる。

魔術が人気を博す時期とは、つまり、通常よりも多数の人々が、不満の救済のために社会が提供するあらゆるメカニズムから排除されている時期である。ここでは、よくある二分法、たとえば民主制vs.独裁制について語っているのではないということが重要である。有能な独裁者は、被支配民の要求と要望を知るためにさまざまなチャンネルを確保するものであり、また、体制を脅かさないような被支配民の要求と要望を即座に満たすことも非常によくある。これが、ナチスが新しい一連の国立公園を建設し、非ユダヤ系ドイツ人に対して有給休暇を導入し、またイタリアのムッソリーニ体制が雇用者に対して労働者の定期昇給を義務化した理由である。この2つの国の多数派が体制に対して忠誠心を保っていた理由はまさに、少なくとも民主体制下と同程度には、自分たちの非政治的な不満が聞き入れられる機会があると知っていたからである。

この点においては、民主制においても、大多数の人々から政治システムに対する影響力を奪い、要求と要望を聞かせることを不可能にするのも可能である。これにはさまざまな方法があるが、ここ1世紀ばかりで最も人気がある手法は、マーガレット・サッチャーによる有名なスローガン「代替策はない」という便利なラベルを付与することであろう。代議制民主主義体制の政治的エスタブリッシュメントが、ただ1種類の政策セット以外は思考可能ではないと定めれば、またすべての主要政党がその政策セットに署名すれば、通常の場合、代替策に対する議論を封じ込めることができる。たとえ、その政策が人口のほとんどに破滅的な結果をもたらすとしてもである。

これは社会的な階層流動性があっても可能となる。当該の政策に対する合意を、影響力と富へのアクセスに対する要件とする限りは。教育制度はこのフィルタリングプロセスの典型例である。中華帝国で生まれ、科挙のメンバーシップを通した影響力と富を熱望する人であれ、大英帝国で生まれ、高等文官のメンバーシップを通した影響力と富を熱望する人であれ、あるいは現在のアメリカ帝国で生まれ、どこかの企業ヒエラルキーのメンバーシップを通した影響力と富を熱望する人であれ、同じ法則が適用される。自身の野心を成就するチャンスは、いかなる思想であれ、上位者が望む思想に対してどれほど揺るぎない忠誠心を示せるかに依存する。そしてその思想とは、上位者の権力を維持するものである。

既に多少触れた通り、アメリカ、あるいは広く言って西側工業諸国にもこれは当てはまる。特権階級、彼らの下僕と取り巻き連中、そして影響力や富を求める者たちの間では、承認される政治、経済、社会、文化的な態度の範囲は極めて狭く、厳格に定義されている。影響力と富を持つ人間は、時々はそれらの規範に違反し逃れることもできる。ただし、ライバルの誰もが、彼らの逸脱を武器として用いることを決断しない限りにおいて。けれども、影響力と富を持たず、それらを得たいと望む人々は、自身のライバルと上司にも監視されていることを知り、言葉と行動に細心の注意を払う必要がある。その試験に合格し、彼らの上位者が認める才能と技能を持ち、また古風な幸運の女神の助けを通常よりも多く受けている人は、産業文明の貴族階級の最下層へ参入を望むことができる。

エス、このような文脈で「貴族制」という言葉が使われることは多くないことは私も理解している。しかし、ここから学べることは少なくない。この用語自体が示唆するように--貴族 [aristcracy] という言葉は、ギリシア語のアリストイ [aristoi]、 「最良のもの」、および クラテリア [krateria]、「力、支配」から成り立っている-- 貴族とは、自分たちが支配者である理由は、他の人々よりも自分たちが優れているからだと信じる人々の集団である。

今日の英語の「noble [気高い]」、「gentle [紳士的]」といった語の意味を考えてみよう。元々は、これらの語は単に「上層階級に属している」という意味しか持たなかった。同様に、「churl [下衆]」や「villan [ごろつき]」という語の意味を考えてみよう。元々は、これらの語も「下層階級に属している」という意味しか持っていなかった。このような言語史のディテールが、今説明した標準的なパターンを表現している。あらゆる貴族は、自身が支配する人々よりも道徳的に優位であると信じるようになる。貴族たちは、必然的に自分自身を良い人間であり、道徳的に徳が高い人間であると考え、必然的に、自身の善性を他階級の人間へと示すために、また一般大衆を排除するために使用される美徳誇示の凝ったコードを作り上げるようになる。

この排除の問題は高い重要性を持つ。あらゆる貴族制は、誰を排除するかによって定められる。しかし、何を排除するかという観点から定義されているかのように装おうとする。実際にいかなる条件を排除の基準として用いるのかは、文化ごとに、また時代ごとに異なっている。せいぜい100年程度前まで、アメリカの貴族は性別と人種のマーカーによって厳格に定められていた。権力の最高位サークルは、異性愛者の男性、ヨーロッパ北西部出身の祖先を持ち、その文化的背景は圧倒的にアングロアメリカ的で、日曜日には聖公会 (あるいは、もっと珍しい場合はメソジスト教会) に通う者たちに限定されていた。

時が経ち、アメリカの貴族が才能ある者をあまりに排除しすぎる危険性に捉われるようになると、排除の条件は変更された。20世紀を通して、人種・性別マーカーは、ある程度までは政治的・文化的なマーカーにより置き換えられた。それでも、権力の最高位サークルに位置する人々は、1900年における等位の者達とほとんど異なっていない -- 時々はアメリカ上院議員の集合写真を見てほしい。女性と民族的マイノリティのごく少数は、彼らと同等の地位にまで登ることを許されるようになった。--彼(女)らが、すべての"正しい"意見を受け入れて、直近の祖先が持っていたであろうあらゆる民族文化を、ごく薄い化粧板を除き、すべて洗い流す限りにおいて。

一般大衆を排除する方法の探求は、極めて大きな影響を持っている。20世紀全体を通して、アメリカの画家、彫刻家、作曲家その他の芸術プロデューサーは、19世紀の先人たちが保持していた膨大な観衆を追い払うため英雄的な努力を注いだのである。19世紀には、美術ギャラリーのオープニングや新しいオペラの封切りは一般大衆の関心と後援を引き付けており、美術家たちも意図的にその線に沿って成功を訴えた。19世紀後半のオペラ作曲家の一人、ジュゼッペ・ヴェルディは、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場の総支配人となった者に、批評家を無視して興行収入に細心の注意を払うよう忠告した。

その後何が起こったのだろうか? 少なくともアメリカでは、芸術は、貴族たちが自身を大衆と異なる存在として定義するための排除の手段となったのだ。教育を受けた人が賞賛しうる絵画は、芸術家のキャリアにおける死神のキスとなった。権威あるショーと金銭的な報酬をもたらしたのは、2度見ると犬の朝食のようにも見える芸術作品であった。なぜならば、エリートのサークル外では誰も、それが理解できるというフリさえしていなかったからである。その頃、若き作曲家は、聴衆が聞いて楽しめる楽曲を作ることは、どんなものであれ避けるようにと教えられていた。メロディーも、トーンもなく、専門家の狭いサークルの外には何も訴えることのないような曲を。一般大衆に我々の音楽を楽しませてはならない。

20世紀を通したこの種の操作により、ただ特権階級とその取り巻きと下僕以外は誰も芸術に注意を払わないまでに至った。それで、ただ特権を持つ者だけがアンディ・ウォーホルの絵画、ジョン・ケイジの音楽、その他同種の芸術作品について語り、カーストマーカーと自身のステータス誇示のため使ったのである。お気付きの通り、この時点において、美術学校、コンサーバトリーその他における観衆を追い払う方法の追求は、特権階級の人間のほとんどをも追い払うまでの傾斜に達した。今日の画家、作曲家、その他芸術家は、ただ身内と、ほとんどがアカデミックシーンに属するごくわずかな観衆に向けて創作している。芸術とはコミュニケーション行為であり排除の手段ではなく、また観衆へと意図を伝えるのは芸術家の仕事である。-- 不明瞭で魅力のない作品から含意やその他の意味を読解するために格闘することは、観衆の仕事ではない。それを芸術家が思い出すまでには、おそらく、学生ローンバブルが弾け、それと共にアメリカの高等教育の大部分が失われるのを待たなければならないだろう。

これは、アメリカの貴族および西洋産業諸国における同等の者達が、自身以外の社会全体に対して階級を閉鎖するために取った方法の、ほんの一例にすぎない。過去40年間にわたる魔術の劇的な普及は、私が示唆した通り、そのような階級的閉鎖に対する直接的な反応である。もう一度言うと、人々は、自身の要望と要求を追求する手段がないとき、あるいは自身の不満を聞き入れさせる方法を持たないとき、魔術へと向かう。ポジティブシンキングの福音が埃を払われ再び流通した理由、ウィッカのような魔術を中心とする宗教が前例のない規模の人気を獲得した理由、また由緒正しき西洋のオカルティズムが、ルネッサンス終焉以前例のないほどの全盛期を迎えている理由は、西洋の工業諸国の特権階級が自己参照的バブルの中へと閉じ込もった結果なのである。この結果については、本連載の後の記事で扱おう。

ここでは、しかし、方程式の片側のみに集中し、たった今言及した自己参照バブルの住人である貴族についての話をしたい。そのような自己参照的バブル中への撤退は、貴族にとってありふれた職業上の危機であり、貴族が自分自身の後継者を意図せず育てる最もありふれた方法なのである。残念なことに私はこの歴史家の名前を忘れてしまったのだが、ある歴史家は、中国史の長いリズムを表現して、絹のスリッパが静かに下へと下降するのに続いて、甲冑のブーツが階段を上へと行進する、と述べている。これは完璧なイメージである。そして、これは中華帝国の歴史に限らない。

あらゆる貴族制は、先代の支配エリートたちがあまりにも長い間無視してきたリアリティを受け入れて立ち向かう、タフで有能な個人の集団によって開始される。彼らはリアリティを破城槌として用い、現状維持の扉を打ち砕き、前任者のあまりにか弱い手からその権力を奪取する。新たな貴族たちは、自身のサークル外の世間と接触を保ち、被支配民に対して実効性のある形で不満を救済する手段、および、要望と要求をコミュニケートする手段を提供する限りは、権力の座に留まるだろう。-- けれども、このような不可欠のコミュニケーションから撤退し、支配下の民の要求に対して耳を閉ざしたとき、貴族はみずからの死刑執行令に署名することになる。

現代アメリカの管理貴族もまったく同等の軌跡を辿った。大恐慌という 危機の時代に旧来の貴族から権力を奪取したのは、フランクリン・ルーズベルトが、非暴力的な旧権力の包囲への先鞭を付け、破綻した社会的・経済的な正統性の把手を破壊したときであった。ルーズベルトが作り出すまでは代替策はなく [There Was No Alternative]、彼の目覚めにおいて新しい官僚と知識人の幹部は権力の把手を握り、アメリカの生活の確立された確実性のトップに立ったのである。第二次世界大戦と冷戦初期における国際的な裸拳の打撃戦は、新たな貴族階級という製粉器に穀物を供給した。そして、戦争が最優先事項である時期には、いかなるところであれ特権階級サークル外の人々の不満と要求に注意を払うことは常識にかなっていた。

2000年代頃に進むと、この同じカーストの構成員たちは、ニューディール時代以前のエリートたちとまったく同じ罠に陥っていた。更には、彼らが打ち倒した前任者と同様に毒性の社会的・経済的な正統性を抱いていた。更に悪いことに、彼らは前任者と同一の誤りを犯している。あらゆる人々の犠牲のもとに自身の利害を押し進める政策に対して代替策はないと確信しているのみならず、道徳的にも代替策はないと信じているのだ。

問題の政策とは? さまざまなものが存在するが、三層のコアは、中央集権への転移、経済的グローバリズムと無制限の違法移民である。1932年以来の連邦規制のおびただしい増殖は、小規模ビジネスを窒息死させ、大企業と政府官僚へと富と権力とを移転させた; 貿易障壁の撤廃は、何百万という労働者階級の雇用のオフショアリングを推奨した。主流派のメディアは、決して雇用の代替は起こらず、また決して雇用代替も意図していないと延々と主張していたにもかかわらずである; 無制限の違法移民の暗黙的奨励は、言及する価値すら持たない非市民の広大な下層民を創り出し、非人道的な条件のもとで飢餓的賃金で雇用され、結果として労働者階級の雇用の全範囲に渡って労働条件と賃金の低下をもたらした。

これらの政策の帰結について私は何度も議論しているけれども、ここで再び繰り返しておく価値があるだろう。1960年代には、労働者階級の1人分の収入に頼る4人のアメリカ人家族は、住居、自動車、1日3回の食事、その他すべてのまともなライフスタイルに要求される品々を購入することができた。2010年、その50年後には、1人の労働者階級の収入に頼る4人のアメリカ人家族は、路上生活を避けるため苦闘しなければならない。もしも、既に路上で暮らしているのでなければだが。これは偶然に起こったことではなく、非人間的な経済の力による産物でもない。超党派の合意によって進められ、左右の政治的立場全体にまたがる特権階級によって裏打ちされた、特定の、容易に識別可能な政策による結果である。

善い人々、道徳的に徳の高い人々は、それゆえ、数千万人のアメリカ人を悲惨な状況に陥れた政策を熱心に支持したのである。その上、貴族制の通常のやり方の通り、自分たちが利益を享受する政策こそが唯一の道徳的な選択肢であり、それに反対する者は誰であれ意図的な悪意によって動機付けられていると主張した。エリート文化の自己参照バブル内部にいる人たちにとっては、すべてが単純に見えていたことだろう。特権を持つ人々の利害に沿った人々の苦しみは、すべてが重要であり対処されなければならず、特権階級を利する政策によって押し潰された人々の苦しみは、彼ら自身の過ちであり問題ではない。

このように考えることは容易ではない。実際のところ、このような考え方を持つためには、意思に沿って意識に変革を起こす技芸と理論 -- すなわち、魔術-- の、きわめて体系的な使用を要する。これこそが、特権階級外の人々がロンダ・バーンズの「ザ・シークレット」を読み、ウィッカを取り上げ、古典的な西洋オカルティズムに手を出して (あるいはのめり込んで) いた一方で、特権階級の人々も独自の魔術を取り入れていた理由である。これが、フォーチュン500企業が、高い地位にある従業員に対してマインドフルネス瞑想、あるいは元々の道徳的・宗教的内容を除去した軽くエキゾチックな精神的鍛錬を推奨している理由である。これが、裕福な人たちの間で、多くの同様に除菌化されたスピリチュアリティが広く蔓延している理由である。

文化批評家の中には、これらをあまり化学的ではない形態の精神安定剤トランキライザーであると批判する者もいる。そのジャブには鋭い点もあるものの、それが話のすべてではない。特権階級の魔術の存在意義は、その実践者に対して、世界に間違いは何も存在しえないこと、すべてはあるべき姿であるということ、そして、残っている問題でさえ、適切な時期に正しい改革がなされ、正しい人々が選出されたならば消え去るであろうと確信させることにある。これは不愉快なリアリティを排除して、快適にお過ごしいただけるツールなのだ。

しかし、ここでもまた、排除された不愉快なリアリティの数が増えるに従って、特権階級の魔術もますます蔓延していく。これが発生すると、今度は、既存の政治秩序のなかで自身の要求と不満を対処されない人々の数も増加していく。それゆえに、ある種の危機に直面した社会では、二重の魔術の盛り上がりを経験する。排除された者の間では、ものごとを変える方法として。特権を持つ者の間では、ものごとを変える必要性を隠す方法として。

2つの魔術が衝突するとき、ケク戦争が始まった。次回はそれについて語ろう。

*1:訳注: 南北戦争後の再建期