Going Faraway

渡辺遼遠の雑記帳。技術ネタと読んだ本の紹介。

翻訳:オルト・ライト、コントロール・レフト、エスケープ・センター (ジョン・マイケル・グリア)

以下は、ジョン・マイケル・グリアによる"The Alt-Right, the Ctrl-Left, and the Esc-Center" の翻訳です。この記事は、2018年の7月4日、アメリカ独立記念日に公開されました。

The Alt-Right, the Ctrl-Left, and the Esc-Center

2016年の1月、ドナルド・トランプは次期アメリカ合衆国大統領となるだろうと私が予測したとき、彼の立候補はアメリカの政治と公共生活における潮流の変化となるだろうとも推測していた。それは私が予期していた以上に正しかったようだ。トランプ大統領が挑戦したのは、1980年以来この国を支配していた超党派のコンセンサス - ネオリベラル的な経済政策、ネオコンサバティブ的な対外政策その他のみに留まらない。トランプ大統領は、我々の国で最も影響力のある政治運動の1つを自滅的なきりもみ降下へと追い込んだ。通常その帰結は、歴史のゴミ箱への片道旅行である。

連邦最高裁判所判事アンソニーケネディの辞任に対するトランプの敵対者の反応が好例である。最高裁判所判事の指名権は、憲法が大統領に付与する能力のうちの1つである; その指名を承認または拒否する権利は、憲法が上院に対して付与する能力のうちの1つである。トランプは大統領であり共和党は上院の多数派であるため、彼らはケネディの後任を選定できる。マル。それで話は終わりだ。

ところが、これは民主党員の間の声の大きな少数派が、受け入れを拒否していることなのだ。メディアとブログ界の左端は、何らかの方法でトランプが憲法上の義務履行を停止するよう要求する声で満たされており、そこで、2014年と2016年の国政選挙で敗北した側が、いずれにせよ次の最高裁判所判事を選ぶべきであるとされている。これらの主張を唱える人々は、見たところ癇癪主義 [tantrumocracy] 国家に住んでいるつもりなのかもしれない。そこでは、自身の傷付けられた感情を最も声高に主張した者が、それ以外の人々に何をするべきかを指示するのだ。幸運なことに、彼らは間違っている。

この種の途方もない主張は、リベラル派の間では決して普遍的な態度ではないと指摘しておくのは公平だろう。それどころかその逆に、ここ数週間の間に聞いたところによれば、決して少なくない数の賢明なリベラル派たちは、過去1年半にわたって、仲間のリベラル派たちに将来の選挙で勝てる方法を採るよう説得の努力を続けているのだそうだ。- つまり、まず最初に、2016年の選挙に敗北した原因が何かを探り、そしてそれを止めることである。そして、敗因となった言動から抜け出し、民主党エスタブリッシュメントがあまりにも長い間無視してきた人々の支持を取り戻せるように、何らかの旧来の草の根運動を始めるのである。これらは、政党および政治運動が勝利を望んだ場合に果たすべきことであり、リベラル派の特派員たちがこれを指摘された場合に行うような激しい非難は、当該の声のデカい少数派の未来にはあまり適していないだろう。

その少数派には、独自の名前を付けておく意義があるだろう。少し後で議論する理由により、「オルトライト [Alt-Right]」という用語と同じく、コンピュータのキーボードのスラングから採った名前を再利用しよう。このフレーズを紹介してくれた、私のブログの定期的な読者である LeGrand Cinq-Mars に謝意を示しながら、ここで議論している人々を「コントロールレフト [Ctrl-Left]」と呼ぶことにしたい。

コントロールレフトは、その名が示す通り、リベラリズム権威主義的な派閥である。穏健な保守派の多くは、すべてのリベラル派がこのカテゴリに入るのだと主張しがちであるが、けれどもそれは大きな誤りである。個人の自由リバティに価値を置くリベラル派はたくさんいる。たとえそれが、リベラル派自身が好まないことを行う人の存在を意味したとしてもである。それが、もちろん、自由リバティに対する本当のコミットメントの礎石である。コントロールレフトは、そのコミットメントを共有していない。コントロールレフトの中核には、誰もが正しい行動を強制されるべきであるとする主張がある。 - ここで「正しい」と言ったのは、もちろん、コントロールレフトが述べる正しさである。他者に適用される必要はないのだ。

最近の、マスターピース・ケーキショップ対コロラド州公民権委員会事件*1に対する最高裁判所判決が、これを実証している。多数派の意見が正しく指摘している通り、結婚式へのウェディングケーキを望む同性カップルの権利と信仰上の信念から同性婚に反対するケーキ屋の権利は、古典的な個人の自由の衝突であり、両者の権利は保護される必要がある。対照的に、コントロールレフトは、同性愛者のカップルが正しくケーキ屋は純粋かつシンプルに誤っていると声高に訴え、ケーキ屋は自身の良心を無視して彼らに従うよう政府勅令により強制されるべきだと主張している。

我々の住む世界は、良き人々が各々複雑な道徳的問題に取り組んだ場合に正反対の結論に至ることもありうる世界であり、実際のところそのような状況は一般的である。過去2世紀半以上の間、ここアメリカ合衆国では、個人の自由こそがこれら難問に対するベストな解決策であるという認識へと、ゆっくりと歩を進めていった。ただし、ある個人による自由の行使が、他人に対して重大な害を引き起こさない限りにおいて - そして、他人から選択を非難されることは、重大な害であるとはみなされない。強烈な憤慨バットハートに対する名誉勲章パープルハーツは存在しないのだ。また、おそらく、同性婚カップルが別のケーキ屋からウェディングケーキを入手する必要があるということは、重大な害であるとは見なされないであろう。

まったく同様に、まったく同じ理由で、同性カップルが結婚するべきかどうかを定める権限を持つのは、ただお互いに結婚を考えている2人の人間のみである。というのは、2人の男性または2人の女性が互いに恋に落ち結婚を決断したとしても、誰も重大な害を受けていないからである。- ここでも、誰かからその決断を酷く非難されたとしても、それは重大な害ではない。- 同性婚を合法化した最高裁判所の決定は、アメリカのデモクラシーの最良の伝統に沿っている。

そこで、マスターピース・ケーキショップ対コロラド州公民権委員会事件の判決も同様である。同性婚の祝福が自身の良心に反する場合には、その人たちに対して政府が行動を強制することを禁じている。自由リバティとは、あなたが承認しないことも人々が行うことを意味する。それは同性カップルが絆を結ぶことを意味し、ケーキ屋がどんな種類のケーキを作るか作らないかを選択することを意味する。それは、自由を行使する人々が衝突することを意味するのではないか? その通りだ。裁判所や議会は、そのような紛争に対処するため、裁判や法律制定を任されている。それはゆっくりとした、煩雑で、誤りうる手続きであるものの、人間の簡約不能な強情さを扱うための方法としては、他のやり方よりも効率的に機能する唯一の方法であるように思える。

これは、ところが、コントロールレフトが受け入れることを拒否する考え方である。私もときどきそうする通り、リベラル派のオンラインフォーラムを度々訪れる人には既におなじみであろうが、コントールレフトの人々が、彼らが保持すると考えている徳性を定義し他人を従わせる排他的な権利に対して果敢にも挑戦する人間を、野蛮にいじめる行為を目撃したことがあるだろう。これは、古典的な権威主義者の振る舞いであり、政治的立場の反対側にいるハードコアな宗教的根本主義者たちとほとんど見分けがつかない。本当に自由リバティに価値を置く人にとっては心配の種だろう。

政治運動は、既に合意を得ている人々以外も説得する必要がある。その事実を忘れた場合、運動は道を見失うということは既に承知だろうと思う。それがトランプ就任以降にコントロールレフトに発生している状況である。以来、あまりに巨大な数の民主党支持者が、トランプに投票した人に手を差し伸べて、次の選挙で民主党に投票するよう説得することは完全に無理だと主張するようになった。なぜ? トランプに投票した者は全員、定義上、折り紙付きのナチであるに決まっているからだ。それが理由である。そう考えて、彼らはピンクの帽子を被っているかのように振る舞い、インターネット上で侮辱の言葉を叫び、甘やかされた2歳児の癇癪を連想させるような振る舞いで、選挙結果は覆されるべきだと主張している。もちろん、そんなことは起こっていない。更には、将来にもそれは起こらないだろう。彼らが未だそんな状態にある中でも、トランプの支持率は上昇し続けており、民主党候補が2018年の中間選挙で勝利する見込みは定常的に落ち込んでいる。

彼らの驚くほど逆効果的な戦略の背後には複雑で厄介な歴史がある。しかし、それは別の記事のテーマだ。ここで私が議論したいのは、コントロールレフトの連鎖的な失敗と、その運動の写し絵であるオルトライトが得た、かなり異なる結果の対比である。

「コントロールレフト」という言葉は「オルトライト」をモデルにしているものの、これら2つの運動の歴史的関係は逆の方向に進んだ。オルトライトは、コントールレフトより後に出現し、コントロールレフトをモデルにしたのである。思想史を学ぶ学生にはお馴染みであろう。旧来の悪魔主義者が、価値観を逆転させた上でキリスト教の前提すべてを受け入れたように、またアイン・ランドの客観主義が、マルクス主義者によって邪悪な資本家の属性とされたあらゆる性質を善きものとして受容したのと同様に、オルトライトは、コントロールレフトの社会正義ソーシャルジャスティイデオロギーに対して、ミルトンの悪魔のごとく「悪よ、なんじは我の善」と唱えた場合に得られるものである。

ゆえに、たとえばコントロールレフトは人種差別を嫌悪しているが、彼らが言う「人種差別」という語の定義は慎重に定められているため、そこには彼らが拒絶する人種的偏見のみが含まれている。オルトライトは、コントロールレフトの人種差別の定義を受け入れ、そこで定義された通りの人種差別を熱狂的に肯定するのである。人種という概念全体が、生物学的・遺伝学的な根拠を持たない時代遅れな19世紀の民族学の残りカスに過ぎない;  明るい色の肌を持ち、目に蒙古ひだを持たない人全員が「白人」に属するという主張は、[超大型犬の] ピレネー犬から [超小型犬の] ティーカッププードルまでの白い毛の犬すべてが「白犬」に属するという主張と同じくらい馬鹿げている。コントロールレフトが人種について語るのは、自分たち自身の問題、つまり階級的偏見とアメリカ労働者階級の搾取への関与の問題への直面を避けるためである。

こういった考えは、オルトライトのサークルではそれほど広がっていない。とはいえ、コントロールレフトにとっては、ヤツらが否定するものを全て肯定するというような単純な種類の反対よりもはるかに危険になるだろう。

けれども、ある重要な一点において、オルトライトはコントロールレフトを模倣していない。コントロールレフトは、既に合意していない人も説得する必要があるという事実を見失なってしまった一方で、オルトライトはそのようなハンディキャップに苦しんではいないのだ。更には、オルトライトは、ドナルド・トランプが選挙キャンペーンの最初期に学習した教訓と同じことを学んでいる。つまり、コントロールレフトは容易に自滅的な過剰反応へと追い込まれるかもしれない。

多くの事例の中から一つを挙げれば、大学のキャンパスのあらゆる場所に「白人であることは問題ない [IT'S OKAY TO BE WHITE]」と書かれた標語を掲げるという、オルトライトによる極めて巧みな戦略であろう。この標語に対するコントロールレフトの典型的反応は、細粒度に飛散するメルトダウンとでも言うべきもので、このような害のない言葉でもヘイトスピーチとみなされるべきであり、処罰されるべきだと主張するのである。コントロールレフト内部の視点からは、このようなメルトダウンが道徳的な徳性の適切な標示であることは疑いがない。外部の視点からは、コントロールレフトの中核的なイデオロギーである社会正義運動は、白人の人々に対する偏見によって裏付けられていると自白しているように見えるだろう。ゆえに、コントロールレフトは、彼らが非難する人々よりも道徳的に優れているわけではない。

これは巧みな戦略であることは確かだが、オルトライトのイデオロギーにまつわる他多くの問題点を埋め合せるものではない。その点において、オルトライトのような運動は決して広がりを持つことはないだろう。悪魔主義や客観主義が、それぞれキリスト教共産主義に不満を抱いた人を引き付ける周縁的な運動以上にはならなかったのと同じく、オルトライトも、コントロールレフトのイデオロギーに攻撃された人々が傷を舐め合う場所以上にはならないだろう。通常、悪しき思想の反対は、私が機会がある度に何度も指摘している通り、別の悪しき思想なのである。

それでは、代替は? ここアメリカでは、実際に政治的伝統が存在しており、それはオルトライトとコントロールレフトの双子の愚行を回避し、アメリカ社会の大部分を広大な絶叫勝負へと変化させてしまった苦く苦しい二極化から抜け出すための最良の方法を提供するように思われる。それはかなり長い間普及しており、近年では無視されてきたけれども、一般的なアメリカ人から広範な支持を得ている。コンピュータのキーボードのメタファーを続けて、その思想をエスケープセンター [Esc-Center] と呼ぼう。

エスケープセンターの中核をなす思想は何だろうか? 議論の出発点としていくつか提案してみたい。

(以下の議論へのサウンドトラックを求める読者は、古き日々と私がここで伝えたい精神を考慮して、ここをクリックしてほしい。) *2

個人の自由

合衆国のように広大で多様性のある国においては、ほとんどの社会問題に対してコンセンサスを得ることは不可能であろう。唯一のコンセンサスを見つけようとすることは時間の無駄であるし、政府勅令により1つを強制しようとすれば無益な争いの原因となる。それゆえに、不完全で不器用ながら、アメリカの伝統は、ある個人の行動が他者に対して重大な害を及ぼさない状況においてはどんな状況であれ、個人の自由の原則を受け入れたのである。社会変革を目指す者は、その動機が宗教的であれ世俗的であれ、他者の説得により自身のアジェンダを進めることを許されている。けれども、自身のイデオロギーを政府機構を通して強要しようと試みた場合には、その行為は許容されない奪取であり、止められなければならない。

代議制民主主義

市民が不満の救済を求めるための制度が存在する。それは政治と呼ばれており、参加したいと考える者には誰であれ開かれている。政治的エスタブリッシュメントによる統一された反対の牙の中でのドナルド・トランプの当選が示したのは、この国の政治システムが左右両方の過激派の主張ほどには壊れていないという事実である。(トランプの反対者の多数が、彼とその支持者を「ポピュリスト」として非難するのは、彼らが状況を完全に理解していることを示している。ポピュリズムの反対は? もちろん、エリート主義である。) あなたがものごとのやり方を変えたいと望むのであれば、あなたの考えを聞く聴衆を見つけ、支援団体を組織し、変革を起こすための方法は多数存在する。その一方で、2年か4年おきに既製品の候補者に対して投票するだけであった場合、あなたが望むものを政府が施してくれることを期待して待っている他にない。

政治的連邦制

我々の憲法は、修正第九条と第十条で定められた通り、連邦政府に一定の権限と責任を付与し、それ以外のすべてを州と人民に委ねている。これは、過去1世紀の3分の2にわたって何度も無視され続けてきたが、しかし多様性のある国が内政問題に対処する方法としては、ほぼ唯一の選択肢であり続けている。マサチューセッツ州オクラホマ州の人民に等しく許容可能な社会政策は存在せず、マサチューセッツ人はオクラホマ人の首元を押さえつけたり、あるいはオクラホマ人がマサチューセッツ人の首元を押さえつけるのではなく、各々の州は選挙で選ばれた代表者を通して自身の問題を扱う。それはマサチューセッツ州オクラホマ州の人々が、それぞれ相手の州で成立した法律により激しく攻撃されることを意味するのではないか? その通りだ。取引しようディール

機会の平等

平等という語は2通りの意味を持つ - 機会の平等と結果の平等である - そして、どちらか1つを得ることはできるが両方は得られない。機会の平等とは、性別、人種、社会階層などに関わらず、人生において誰もが等しい機会を持つことを意味する。結果の平等とは、社会のあらゆる下位グループが人生において均等な配分を受けることを意味する。前者は不可欠であり、後者は不公平である。もしも、性別、人種、社会階層あるいは別のカテゴリのメンバーシップにより、教育、居住、雇用、政治的代表などからアメリカ市民が不正に排除されているのであれば、それは是正されるべき誤りである。- けれども、人々の才能、利害や仕事への意欲はそれぞれに異なっており、イデオロギー的な目標の追求のためにそれらの違いを打ち消すことは、政府の仕事ではない。

個人の責任

あなたは、あなたの曾祖父が誰であったか、あるいは何をしたかについて責任を負わない。あなたが責任を負うのは、ただ自身の言葉と行いだけである。そして逆に、あなたの曾祖父が誰であったかによって、フリーパスを得られるわけでもない。集合的な罪というドクトリン、あるグループに所属するメンバー全員が過去のそのグループの行いによって永遠に非難されるとする考えは、中世の神学者によってユダヤ人に対する集団虐殺ポグロムを正当化するために発明された。その後も、同じ概念が利用される場合の結果は同等である。もしも、歴史的な原因が現在において何らかの不正義をもたらすならば、その不正義は対処される必要がある。しかし、過去に遡ってものごとを変えることはできないため、ひとたび政府がすべての市民に対して機会の平等を保証し、救済策が立法されたならば、過去に対する責任は終了する。

市民社会

政府の行動は、あらゆる問題に対するベストな解決策ではない。多くの場合において、自発的な民間組織がはるかに優れた仕事をなす。アレクシス・ド・トクヴィルが19世紀初頭に若きアメリ合衆国を視察したとき、彼が気付いた新しい共和国を他の国と区別する特徴は、社会問題に対処するために自発的に組織を作るアメリカ人の熱意であった。この習慣は、第二次大戦以降における連邦政府の移転性の拡大によって消え去ったが、それでも枠組みはそのまま残っており、アメリカの誤った帝国時代よりもはるかに有用なものである。

帝国の終焉

アメリカ合衆国は世界の警察官ではなく、まして世界の刑務所でもない。現在、世界中の100以上の国で軍事基地を維持するために毎年何億ドルも費されている一方で、我々の国内インフラストラクチャは、何十年にもわたる悪意ある放置によって崩壊している。帝国的なほとんどの国は - イエス、自分自身に正直になろう、それが我々の現状だ - ひとたび帝国を維持するコストが利益を上回るようになると、経済的な崩壊に至る。我々は危険なほどその状態に近付いており、大英帝国の先例に習い、世界帝国の座から引きずり下ろされる前に自発的に立ち止まる必要がある。イエス、つまり海外の同盟国は自身の防衛費を自分で支払うか立ち去るかを選ばなければならない。そしてその選択は彼らに任されている。

リアリズムの政治

世界から苦しみと不正義が無くなることはなく、あらゆる社会問題が解決されることもないだろう。政治的リーダと市民の両方が、できる限り不満に対処し不正義を正さなければならない。しかし、政治システムが完璧ではないからといって、それが許容され難い邪悪であると主張することは、甘やかされた子供の論理である。また、社会の中のごく一部の人間が、他の全員に対して自分の望むもの全てを与えてくれるように説得できないからといっても、それは不正義であるとは見なされない。我々が住んでいるのは限界のある世界であり、そこではトレードオフは必須であり個人の自由は必然的に衝突する; 政府の仕事は、コミュニティにおける生活の負担と利益を、可能な限り公平に分配する妥協案を仲介することである。

これが、私が考えるエスケープセンターの最初のおおまかな見取り図である。過去においてある程度機能してきた社会的・政治的な問題へのアプローチであり - 確実に、政治的な主流派でエスケープセンターを代替した壮大なスキームよりも優れている - また、現在でも多くの一般的なアメリカ人の間で多くの支持を得ているものである。コントロールレフトとオルトライトという奇妙な双子の代替案として、これらの思想を再度普及させることは、7月4日を祝うアメリカ合衆国でいくつかの価値観を深める助けとなるだろう。

そして、親愛なる読者諸君、もしも上記の私の記事に対する読者の反応が、私をファシストとして非難すること - 今日のコントロールレフトの、穏健な不合意に対してさえ標準的な反応 - であった場合、私は一つ質問してみたい。我々のどちらも「ファシスト」という言葉の意味を知っているだろう。そしてそれは、個人の自由、代議制民主主義、他国への侵略の熱意の欠如を意味してはいない。そうであるならば、私に対して明らかに間違った告発をしたことによって、次の選挙において、私はあなたの支持する候補へ投票するようになるだろうか? また、もしも次の選挙での支持候補への投票を気にかけていないとしたら、それではあなたは正確には何を気にしているのだろうか?

*1:訳注:マスターピース・ケーキショップ対コロラド州公民権委員会事件 - Wikipedia

*2:訳注:リンク先の曲はシカゴの『サタデー・イン・ザ・パーク』 7月4日の土曜日に公園で過ごす人たちを歌った曲である。