Going Faraway

渡辺遼遠の雑記帳

感想文:近代日本一五〇年――科学技術総力戦体制の破綻 (山本義隆)

確固たるエネルギー観に裏打ちされた、重厚な日本文明論。幕末の「黒船」到来から、平成の「福島」の原発事故までを俯瞰し、日本の歪んだ「科学技術立国」観に対して見直しを迫る名著だった。


著者の山本義隆氏を初めて知ったのは、私が受験生の頃でした。その頃は、硬派な物理の参考書を書く駿台講師としてしか認識していなかったけど、実は1960年代の東大物理学科の在学中に東大全共闘議長を務め、その後は在野で科学史の研究を続けているという特異な経歴を持った方です。

経歴から想像できる通り、日本の科学技術に対する著者の見方は極めてシビアです。明治以降日本の科学技術の受容においては、その裏にある思想を欠いたまま、生産力増強による経済成長を至上命題として科学技術の振興が図られたことが示されています。その根底にある流れは、明治期の「殖産興業・富国強兵」から戦時中の「総力戦体制」を経て戦後の「経済成長・国際競争」まで、一貫して引き継がれています。

印象深いのは、自分が好きな研究を続けるためであれば、体制におもねり合理性と科学的態度や見解を歪めてしまう科学者の情けなさです。戦後、科学者に対して行なわれたアンケートで、学問の自由が一番保障されていた時期は「戦時中」であるという回答が多かったことが記されています。そして、戦時に協力する対価として自由と豊かさを謳歌した研究者たちが、戦後、戦争協力に対する「総括」をすることもなく「科学技術の不足によって日本は戦争に負けたのだ」という責任逃れの言説を広め、戦後もほぼ無傷のまま「科学技術振興」は継続されました。(日本は科学技術の不足が原因で中国に負けたわけではない) 戦後も、公害問題から原子力政策に至るまで、経済成長と体制擁護のために科学者自身が「科学」を歪めていたことが記されています。

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もう一つ印象深いのは、著者の確固たるエネルギー観です。人畜の筋力から化石燃料の利用による蒸気機関・電気へという「エネルギー革命」、そしてエネルギー革命の「オーバーラン」たる原子力エネルギーへの幻想と失敗までが大胆に繋げられています。

しかし増殖炉開発計画の事実上の破綻と、福島第一原発の事故は、科学技術の限界を象徴し、幕末・明治以来の一五〇年にわたって日本を支配してきた科学技術幻想の周縁を示している。
科学技術の進歩によってエネルギー使用をいくらでも増やすことができ、それにより経済成長がいくらでも可能になるというようなことがありえないことを示したのである。(p.289)

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本書全体を貫く視点は、一貫して「反権力」であり、「体制外」のものです。そのイデオロギー的な単純な世界観にはやや首肯できない部分もありますが、おそらく、著者の市井の研究者としての生き様が反映されているのだろうと思います。しかし、ユートピア的・夢想的な科学技術幻想の裏に隠された、国家と企業のエゴイスティックな利害と抑圧に対する指摘は、極めて重要であると感じました。

「合理的」であること、「科学的」であることが、それ自体で非人間的な抑圧の道具ともなりうるのであり、そのことの反省をぬきに、ふたたび「科学振興」を言っても、いずれ足元をすくわれるであろう。(p.214-215)