Going Faraway

渡辺遼遠の雑記帳

電気仕掛けの神 -Deux ex Electrica-

新たなテクノロジーの出現は、世界と社会構造を変化させ、人間の認識と思考を変化させます。現在、社会のさまざまな場所で実用化されている機械学習技術と人工知能の進歩が、今後の社会と人間の両方に大きな変化をもたらすことに疑いはありません。

けれども、AI技術の有用性と社会的影響に対する合理的・論理的な将来予測の範疇を超えて、労働からの解放や不老不死など、ユートピア的な世界観とでも言うべき言説が流布しています。

実際のところ、新たなテクノロジーの出現時に現れるユートピア的楽観主義は、思想史的には何ら新しいものではなく、ごくありふれたものであると言えます。

 

ハーバード・ビジネス・レビュー誌の元編集者であり、IT系ビジネス作家であるニコラス・G・カーは、19世紀末から20世紀初頭にかけて合衆国で電気が普及した際、社会に広がったユートピア的な世界観との対比を通して、情報技術とインターネットに対する過度の楽観論に対する批評を加えています。

クラウド化する世界~ビジネスモデル構築の大転換

クラウド化する世界~ビジネスモデル構築の大転換

 
1893年、シカゴで開催されたコロンビア万国博覧会では、十万個の白熱電球やアーク灯、ネオン管が街を照らし、人々のイマジネーションを大きく刺激しました。19世紀当時使用されていた照明器具は、暗く、熱や悪臭やススを発生させ、爆発事故の危険を持ったガス灯でした。まばゆく輝く清潔な電灯は、人々を大いに驚愕させたと言われています。

電気は空想科学小説の中から現実世界に飛び出してきた、目に見えない不思議な力のようなものだった。作家も講演者も競って、電化された素晴しい未来のシナリオを書いた。なかには暗いシナリオもあったが、ほとんどは楽観的で、楽観的に過ぎるシナリオも多かった。十九世紀最後の数年間に出版された百五十冊を超える本が、科学技術のパラダイスがすぐにも出現するだろうと予測した。二十世紀に入って間もない時期も、ユートピア的な作品が人気を集め続けた。

…電化は、病と争いの絶えない地球を浄化して、清潔な新しい楽園に変えると、人々は聞かされていた。ある未来学者は、次のように書き記している。「煙除去装置、吸塵装置、オゾン発生期、水、空気、食品および衣類の滅菌装置、路上の事故防止装置、自動上昇装置、そして地下鉄などがすぐにも普及するだろう」。都市において病原菌に感染したり怪我をしたりすることは、ほとんどあり得ないこととなるだろう。また、「帯電した水が最も強力な殺菌剤になるだろう」と考える人もいた。帯電した水を「あらゆる傷」に吹きかけるだけで、「不潔な細菌」を除去するというのだ。「電気の持つあらゆる潜在力を用いれば、いまや望むままに、大陸全体を熱帯の庭園に変えることもできる(引用者注:すなわち、食料を望みのまま好きなだけ得られる)」とまで言う人もいた。

吹雪やかんばつなどの極端な気候現象を除去する電気装置によって、人間が「天候を完全に支配する」ようになるだろう。家庭内でも「電気的平衡装置が、心を鎮める電磁波を発生させるので、いかなるいざこざも解消し、家族の調和は保障される」だろう。電灯が「夜昼の区別をなくしたように」、新しい輸送・通信システムが「距離を実質的に解消する」だろう。ついには「人間という機械」が「完全に解明されて、最大の効率を発揮するように開発される」だろう。そして、一個一個の人間という機械をつなぎ合わせれば、より高度な機械となるだろう。人間は「素晴らしいメカニズム」の「歯車」となり…「脳の命令に従って指が動いたり書いたりするように、集団の頭脳の意思に応えて行動するようになる」だろう。 *1


環境問題や病気の撲滅。人間の精神性の向上。ここで描かれた未来は、「電気」を「AI」に文字列置換すれば、現在でもそのまま発表できそうな文章ではないでしょうか。新たな役者たちが、昔ながらの仮面と衣装を身にまとい、決まり切った演目を演じているのです。

そして、カーの指摘するところによれば、電力会社や家電メーカーも、マーケティングのために積極的にユートピア的なレトリックを利用したと言われています。

特に、ゼネラル・エレクトリック(GE)は、人々が生まれながらにして持っているテクノロジーに対する楽天主義に調子を合わせるのがうまかった。…人々の頭にいわゆる「積極的電化意識」を植え付けようとして、GEは多額の費用をかけて雑誌広告、パンフレット、学校や婦人クラブでのプレゼンテーションを通じ一斉に宣伝した。

…一八九九年、電気事業という新たな業界関係者のための専門家団体がテキサスで設立された。ジョヴィアンズというこの協会のモットーは、「電気のために一致団結して全力を尽くす」ことだった。…協会の創設者の一人であるエルバート・ハバードは一九一三年に執筆した随筆の中で、ジョヴィアンズが共有すべき絆と目的について次のように述べている。「電気は、精神世界と物質世界の曖昧な領域を占めている。電気技師は己の仕事に誇りを持っている。当然だろう。神もまた偉大な電気技師なのだから」*2

 

 やはりここでも「GE」を「Google」に置き換えれば、そのまま現代に適用できる文章に見えます。そして、「神は偉大な電気技師である」という主張は、「宇宙は巨大なコンピュータである」という近年よく聞かれる主張とそっくり対応しているように見えます。


実のところ、当代の最先端技術が宇宙を統べる超越的な原理であり、世俗的・実用的な技術の進歩が何らかの超越へと至る道であるという主張は、合衆国の文化の中で繰り返し発見できます。

発電は少なくとも短期間、米国文化を貫く二つの相容れないテーマ、すなわち”功利主義”と”超越主義”を調和させることができたのだった。*3

合衆国の社会には、プラグマティズム、すなわち「世俗的な実験精神や行為指向の強い実利精神」を重んじる文化があります。その一方で、実利的・実用的な技術の進歩を通して、キリストが統べる理想の千年王国をこの地上において築くことができる、という思想も存在しています。
本来は両立するはずのないこの2つの思想ですが、合衆国文化の中では2つが融合し、社会の思想に対して強い影響を与えています。カーツワイル氏のシンギュラリティ論、人工知能の進歩が人間の精神性を高め、いずれ宇宙が覚醒し知性で満たされるという思想も、この文脈に位置付けることができるでしょう。

百年前、電気事業の団体協会に加わった発電所経営者や電気技師は、自分達はより完璧な新しい世界の設計者なのだと考えていた。彼らにとっては、神も「偉大な電気技師」であり、目に見えない全能の精神をもって宇宙を活気付けているのだった。電気技師たちは自身の仕事を遂行することで、神の仕事を遂行していた。そして、神の計画は彼らの計画だった。*4


もちろん、電気は極めて有用な技術であり、人間の生活と社会を大きく変化させたことに疑いはありません。けれども、現代に生きる私たちは、百年前の電気技師たちが想像したようなユートピアが決して表われなかったことを理解しています。

繰り返して述べておくと、私は人工知能技術が無用であるとか、社会を全く変化させないと考えているわけではありません。けれども、現在メディアで盛んに宣伝されているようなユートピアあるいは世界の破滅が発生する蓋然性は、ごく低いものであると考える根拠があります。確かに、ヘーゲルが指摘している通り、未来は認識の対象たりえず、希望と恐怖の対象です。けれども、未来を真剣に考えようとするのであれば、希望と恐怖を脇に置き、実証的基盤に依拠した地に足の付いた議論が必要であると考えています。

電化の時と同様、強力だが正体不明の新技術が登場するときは、楽観論は自然な反応ではあるが、厄介な兆候を見失わせる可能性もあるのだ。情報処理の偉大な理論家、ノーバート・ウィーナーは次のように述べている。「やみくもに進歩を信じることは、強さを秘めた信念ではなく、黙認に通じ、それゆえ弱さにも通じる考え方である」*5

 

*1:p.105-106

*2:p.106-107

*3:p.105

*4:p.275

*5:p.150