Going Faraway

渡辺遼遠の雑記帳

翻訳:危機における民主主義についての省察 (ジョン・マイケル・グリア)

この記事は2016年11月9日、アメリカ大統領選挙の終了直後に書かれた。ジョン・マイケル・グリアによる2016年ドナルド・トランプ当選予測に関するエッセイはこちら

Reflections on a Democracy in Crisis

まぁ、ついに終わった。そして、私はこれ [トランプ当選] を予想していたと言ってもよいと思う。去る今年[2016年]1月に私が予想していた通り、労働者階級のアメリカ人 - 民主党から、嫌ってもよいアメリカの少数民族として扱われることに嫌気の差した人々 - は、ビジネス・アズ・ユージュアルの政治に痛烈な叱責を加えた。アメリカの政治エスタブリッシュメント全体の衝撃と悔恨とともに、また専門家、世論調査員、メインストリームメディアの子飼いの知識人たちの緊張したいたたまれなさとともに、ドナルド・トランプは第45代アメリカ合衆国大統領となるだろう。

何百万人もの他のアメリカ人たちと同じく、私も選挙という楽しい市民儀式に参加した。地元の投票所は、町の貧しい地域 - 先に私が述べた荒廃した多民族の地域で、トランプ支持のサインが早くからたくさん花開いた場所 - の端に位置する小学校の中にある。私は、いつもそうする通り、午後の早い時間に投票へ行った。昼休みの投票ラッシュが終わり、仕事からの帰宅途中に投票へ向かう人の流れはまだ到来していない時である。だから、行列はなかった; 私が入ったのは、ちょうど2人の老いた投票者が出てくるときで、その2人は地元レストランのチラシを見比べていた。市民の義務を果たしたときに投票所が発行する「投票済」ステッカーを持つお客さんに割引を行なっていたのだ。5分程度後には、染めた金髪の主婦が自分の票を投じるためにやって来た。

メリーランド州はしばらく電子投票を行なっていたが、賢明にも今年は紙の投票に戻したのだ。だから、私の投じた票は意図した通りにカウントされるだろうと確信を持てた。その後、私は家まで歩いた - 曇っていたものの暖かく、11月として望める最高の日であった - そして、現在の執筆プロジェクトに取りかかった。それらのすべては、過去数ヶ月の間、メディアが、また公平に言えば政治家、専門家および全国の大多数の一般人が発してきた絶え間ない叫び声と、興味深い対照点をなしていた。

今の時点では、ゴタゴタとバカ騒ぎが終わった後で、特権者たちの予測可能なかんしゃくが収まった後で、そしてトランプ政権がワシントンDCで権力を掌握した後で何が起こるのかを話すことには、あまり意味はない。それらのことを話すのには後で十分な時間を取れるだろう。今ここで私が話したいのは、今回の選挙によってハイライトされたことで、それらはアメリカ政治の現状と、トラブルを抱えて窮地に立つ、分断された国家が危機の次ラウンドへと進んでいくに従って直面しなければならない課題に対して、有用な光を当てるものである。

そのうちの1つは、選挙に関する私の記事に対する多数の読者からの反応によって、珍しいほどの明白さで示された。全体にわたって、ドナルド・トランプの不可解な躍進についての最初の記事から、先週の選挙直前のまとめに至るまで、私は議論の焦点を政治的な問題イシュー に当てようと考えてきた; つまり、それぞれの候補者が次に政権を取った時に支持すると予期される政策はどのようなものであるかだ。

私にとっては、少なくとも、それが選挙で一番重要な問題である。今から4年後か8年後、結局のところ、引退する大統領のパーソナリティは、カテゴリー5のハリケーンの中での平均的な屁よりも意味を持たなくなっているだろう。次の4年間に大統領が下した政策上の意思決定による帰結は、その一方で、未来にわたって拡大する意義を持つ。アメリカは、中東におけるロシアとの対立政策を継続するべきか? またはジハーディストのテロリズムを抑えるという共通の目標のため、ロシアとmodus vivendiすなわち暫定協定を結ぶべきなのか? 賃金の低下をもたらす雇用のオフショアリングと労働者の輸入の推奨を継続するべきなのか? あるいは、それらの政策を止めるように変更するべきだろうか? これらは、米国およびその他の国々で何百万もの命に影響を与える重要な問題であり、同等の重要性を持ち2人の候補者の立場が著しく異なる問題は、その他にも存在する。

私の記事に反応した決して少なくない人たちは、けれども、そのような平凡ではあっても重要な問題にまったく興味を示さなかった。彼らが話したいと望んだ唯一のことは、候補者のパーソナリティについての意見だけであった: クリントンは腐敗した詐欺師であるとか、またはトランプは憎悪を駆り立てるファシストであるなどの主張である。(アメリカ政治について最近あまりに頻繁に言われている通り、このようなことをしていた人たちは、嫌いな候補者の人格を中傷することに忙しすぎるので、既に投票を決めている候補者についてはそれほど言うことが無いのだという。) 相対的に隔離された『The Archdruid Report』の外側では、代わって、その傾向は加速している; 選挙キャンペーンの大部分において、高級紙とゴシップ紙の違いを見分ける唯一の方法は、どちらの候補者を支持しているかだけである。また、真剣なウェブサイトと言われるところではだいたいの場合それよりも悪い。

ところで、これは候補者たちに責任があるわけではない。ヒラリー・クリントンに賛成であろうと反対であろうとも、彼女は、2008年にバラク・オバマがきわめてシニカルに彼女に仕掛けて成功を収めた無内容なキャッチフレーズベースの選挙キャンペーンを避けようと努力していた; 彼女のキャンペーンサイトには、選挙で勝利したら実行するべき政策の一覧が掲げられていた。多くの有権者は彼女の提案に同意しないかもしれないが、実際に彼女はイシューについて語ろうとしていたのであり、それにはすがすがしいまでの責任がある。トランプは、この点について言えば、極めて限定された範囲の政策提案に絞ったスピーチの繰り返しに注力していた。

それでも、両候補者に関するほぼすべての議論は、メディア内外で、政策提案ではなくパーソナリティに焦点が当てられていた - あるいはむしろ、彼らのパーソナリティの卑劣に歪められたパロディであり、程度の差はあれ候補者たちを悪の化身として定義するものであった。悪魔教会は、私が聞いたところによると、今年のアメリカ大統領選挙に悪魔は出馬していないと断言しているそうであるが、両側のレトリックからはそれを理解するのは難しいかもしれない。確かに、メディアは候補者のパーソナリティへの執着を増長することに一役買っているものの、しかし、これは我々の社会の集合的意識内に既に存在している何かを単純にメディアが反映しているという例ではないかと考えている。

選挙キャンペーン全体を通して気付いたのは、私にはかなりの驚きであったのだが、イシューを無視してパーソナリティに固執したのは、テレビやウェブサイトからの意見以外には頭の中が空っぽの人たちだけではなかったということだ。もはや数え切れないほどの普段は思考力のある知人たちが、過去1年の間に、事実をチェックする行動すら取らずに、どちらを嫌っているのであれその候補者についてのネガティブな主張をすべて買い入れてしまったのだ。また、もはや数え切れないほど何ヶ月も前から、普段は思考力のある知人たちが、今回の選挙で問題になっているイシューについて私が話そうとすると、うつろな眼をして、彼らが嫌う候補がどちらであれその邪悪なる邪悪な邪悪性についてわめき散らすようになってしまった。

私には、ここで何かが忘れられてしまっているように見える。我々は、石膏の聖人、マイリトルポニー [テレビアニメ] の新しい登場人物、2016年のミス (あるいはミスター) 良い子ちゃんを選ぶ選挙をしているのではない。我々は、次の4年間連邦政府の行政部門の長を勤める公務員を選ぶ選挙をしていたのだ。私は、ヒラリー・クリントンドナルド・トランプを個人的に知っている人が書いたエッセイを読んだ。両人とも実際にはとても親しみやすい人であるのだという。だからどうした? 私は、文字通りまったく気にしない。もしもある候補者が本当に私にとって重要な問題に望ましい政策を支持するならば、子供を虐待し、子犬を蹴り、家電とマヨネーズに関連する倒錯した性的嗜好を持つ人間嫌いにだって投票するだろう。本当にそのくらいシンプルなのだ。

更に私は、パーソナリティ - あるいはパーソナリティの悪意のあるパロディ - への執着が、米国政治を野蛮で、分断的で、あまりに多くの問題について手に負えないほどの膠着状態を引き起こした主な原因であるかもしれないと言いたい。数段落前で私が言及した問題 - 再興するロシアに対するアメリカの対外政策、一方では雇用のオフショアリングと外国人労働者の輸入に関する経済政策 - などは、重要であるというだけではなく、妥当な意見の相違が存在しうる問題である。更には、それらは交渉、妥協、そして、少なくとも理論上は、対立し合う利害を持つ者たち同士で相互に満足できる暫定協定を結びうる問題である。

実際には? 両者が声高に、相手側は堕落したモンスターに率いられており、世界中の善きものすべてを憎んでいる人々に支持されていると主張している間は不可能だろう。これは、まさしく、理性的な政治をジョージ・オーウェルの『1984年』の "二分間憎悪" に極めてよく似た同等物で置き換えるものであり、これこそがこの国を何らかの問題解決から、また迫り来る危機への備えから遠ざけている最も大きな力であると言いたい。

そこで、我が国のすべての市民には、しばらくの間テレビとインターネットを消し、何度か深呼吸をして、最近の選挙のトーンについて考えることをお勧めしたい。そして、そのほとんどを満たす憎しみの党派的カルチャーにどの程度まで参加していたのかも。次のことを指摘しておくのは意義があるかもしれない。自分が考える通りに投票するよう他の人を説得したいのであれば、同時にその人たちを "大盛りの邪悪ソース付きの邪悪なる邪悪" として非難したり、あるいはその人たちの最高の利益のためになる候補者への投票を認識できないほどに無知であるとバカにしたり、あるいは今日のアメリカで理性的な政治的言説の代わりを占めるようになったその他の非生産的な行動を取るべきではない。

選挙キャンペーンの過程で私が気付いた2番目のポイントは、今議論したことに関連している。歴史の現時点において、アメリカ合衆国が未だ単一の共和国であることは確固たる事実であるが、しかしそれは単一のネイション ではない - また、これまでもそうであったことは決してないと、それなりに妥当な根拠をもって主張しうるかもしれない。「赤」と「青」の州という安易な区別は、巨大な都市中心部とそれ以外の部分の分離、および相異なる地域の複雑さをほとんど捉えていないし、ましてやその深さも捉えていない。

1972年のニクソンの地滑り的な大勝利の際、どのようにニクソンが勝ちうるのか理解していなかった - 結局のところ、自分が知る誰もニクソンに投票していなかったのだから! とコメントしたのはポーリン・ケイル [映画評論家] だったと思う。同様の感覚が、困惑から怒りまで及ぶ調子で、裕福な左派とメインストリームメディアの高級取りの専門家の取り巻きの間のあらゆるところで表現されている。過去8年間の雇用なき景気回復 ジョブレスリカバリ から恩恵を受け、また過去4年間のより広いネオリベラル的経済アジェンダの恩恵を受けた上位20%かそこらのアメリカ人は、日々を過ごすエコーチャンバー環境の外に出て、この国の他の人々が何を考えているかを知ろうとすることがめったにない。もしも去年彼らが少しだけそうしていたとしたら、彼らが見たことのないアメリカの、厳しい貧困の光景のあらゆるところで、トランプ支持のサインが広まっているのが見えたことだろう。

けれども当然、分断はそれよりも深くまで及んでおり、またかなり分岐している。たとえば、マサチューセッツ州の人々に承認される政治、経済、社会的な政策と、オクラホマ州の人々が承認するものを比較してみれば、ほとんどオーバーラップする部分が無いとわかるだろう。これは、ある州の人々が (ここにお好きな罵倒語を記入) だからではない; それらの人々が別の文化に所属し、相互に分かり合えない価値観、態度や利害を保持しているからだ。どちらかの州の道徳観を他方に押し付けようとする試みは、善意であれそれ以外であれ、敵意と相互不信という結果しか生まないだろう - そのような試みは最近あまりにありふれている。

我々の国は、極めて多様性のある国である。当然の真理のように聞こえるかもしれないが、しかしその意味は通常ほとんど考慮されていない。文化的な均一性が非常に高い国では、共有された価値観と態度に広くコンセンサスがあるため、そのようなコンセンサスを国家的な基盤で立法化する余裕がある。そのような均一性がない国では、価値観と態度にまつわるコンセンサスを欠いているために、そのような立法を試みたとすれば、たちまち深刻なトラブルに陥る。多様性があまりにも大きな場合は、異なるネイションを単一の政府のもとで確実に機能させられる唯一の方法は、連邦制度しかない - すなわち、全国的な基盤で扱わなければならない権限と義務のみを国家政府に割り当て、それ以外のほとんどを地方政府と個人が自身で解決できるように任せる制度である。

歴史に詳しい読者たちは、アメリカ合衆国がかつては連邦制度を取っていたことに気付くだろうと思う - それが、結局、我々が未だに「連邦政府」について話す理由なのだ。合衆国憲法の元々の条文と解釈のもとで、それぞれの州の人民は自身のほとんどの問題に対して、ある程度の非常に広い制限のうちで、自分たちが適切であると考える方法で対処する権利を有している。連邦政府には特定の狭く定義された権力が割り当てられており、それ以外のすべての権力は、修正第10条の条文において、州と人民に留保されている。

我らが国の歴史の最初の1世紀を通して、憲法の修正条項により他の特定の権力が連邦政府に割り当てられた。時として良い結果であった場合もあるし - 修正第14条はあらゆる市民に法の下での平等を保証し、第15条と第19条はそれぞれ黒人と女性に参政権を拡大した - 時として悪い結果であったこともある - ここでは第18条のアルコール禁止が思い浮かぶ。基本的な連邦構造は無傷で保たれた。大恐慌第二次世界大戦の余波により連邦政府の転移性の成長が本格的に始まり、時を同じくして、何かしらの道徳的徳性を法律の力によって国全体に強制しようとするさまざまな試みが始まった。

そのような試みは働かなかったし、今後も働くことはないだろう。どれだけの人が気付いているのか分からないが、けれども、ドナルド・トランプの選挙は、単なるリベラル左派への反論ではなかった。それは宗教右派の敗北でもあったのだ。共和党福音派の派閥は、候補者指名レースのなかで独自のお気に入り候補を持っていたことを思い出してほしい。そして、トランプはまったくそのような人物ではない。自身の徳の観念を他のアメリカ人の喉元に押し付けようとする左派と右派のムーブメントにとっては、実りの秋ではなかっただろう - たぶん、おそらく、それが向かうべき道の先を示している。

私が提案したいのは、アメリカの連邦主義の伝統のリニューアルを検討する時であるということだ; 過剰膨張した連邦政府から州への、そして州から人民へのシステマティックな権力の移譲である。マサチューセッツ州の人々が、オクラホマ州の人々に自身の道徳的な善を守るように強制することは決して不可能だと認める時であり、オクラホマ州の人々も同じことをマサチューセッツ州の人々に強制できないと認める時である; 更には、すべての階層の政府が、きわめて多様な我らが共和国の多数のネイションに文化的統一性を課すことを諦め、法の下の平等を保証することと、そして本質的に政府が市民に提供することが最適であるような福利を提供するという正しい役割に落ち着くべきときである。

我々が必要としているのは新たな社会契約である。それは、直近の選挙で両サイドを支配していた個人的中傷の政治を退け、特定の社会・道徳的な見方をこの国のすべての人に強制できる思う権利を手離し、我々を分断するイシューに対して、妥協、交渉および相互の尊敬の目線をもってアプローチすることにすべてのアメリカ人が合意するものである。この国が直面している問題のほとんどは解決可能である。あるいは、少なくとも有意に改善できる。もしも、我々の努力がそのような社会契約に導かれるならば。 - そして、もしもそれが実現すれば、我々の大多数は政治制度から受けられる最も偉大な恩恵を経験する機会を得られるのではないかと思う: 実際の、正真正銘の自由 リバティ である。 それについてはこの先の記事で議論しよう。

翻訳:アメリカンドリームの断末魔 (ジョン・マイケル・グリア)

この記事は2016年11月2日、アメリカ大統領選挙の直前に書かれた。ジョン・マイケル・グリアによる2016年ドナルド・トランプ当選予測に関するエッセイはこちら

The Last Gasp of the American Dream

ちょうど今、読者たちの多くは - もちろん、その他の大勢も - アメリカの公人のなかで最高に嫌われた二人のうちのどちらが、来年1月に聖書に手を置き、続く4年の間この国の加速する没落と崩壊を監督するのかに大きな注意を払っていることだろう。そのような注目が集まることには理解できる。それは両党が今回の選挙は我々の生涯の中で最も重要な選挙であると、記憶にあるあらゆる選挙と同じく、お決まりの主張を繰り返しているからだけではない。珍しく、実際の問題イシュー が関わっているからだ。

選挙を下院へと持ち込む可能性のある何らかの事象を除けば*1、来週の今までには、ジョージ・W・ブッシュの選挙以来アメリ政治界に固く据え付けられてきた超党派コンセンサスが、次の4年間無傷で留まるかどうかが分かっているだろう。そのコンセンサスとは、あまり注意を払っていなかった読者のために書いておくと、大企業と既に裕福な者への膨大な恩恵、一方で貧者に対する懲罰的な緊縮策、国家インフラの悪意ある無視、賃金の低下を意図したオートメーション、オフショアリングおよび違法移民の暗黙的な受入などを奨励する連邦政府の政策による、アメリカ人労働者階級の破壊を支持する[国内]政策であり、また、剥き出しの軍事力による中東支配に取り憑かれた、強迫的に対決的な対外政策である。それらは、ジョージ・W・ブッシュバラク・オバマにより、四期の大統領任期にわたって追求されてきた政策であり、またヒラリー・クリントンがその政治キャリア全体を通して支持してきた政策でもある。

ドナルド・トランプは、対照的に、立候補表明当初からそのコンセンサスの複数の中核的な要素に反対してきた。具体的には、彼は雇用オフショアリングを支援する連邦政府政策の廃止、アメリカの移民法の執行、シリアでの戦争におけるロシアとの融和的な姿勢を訴えている。現在のキャンペーン全体を通して、クリントンの支持者らの間で広まっていた主張は、誰もそのような問題を気にかけておらず、トランプの支持者たちは絶対に憎悪に満ちた価値観によって動機付けられているに違いないというものであった。そのレトリック的なギミックは長年にわたって左派の標準的な思考停止の手法であったのだが、そのようにして単に拒否することはできない。トランプが他の共和党候補者を一掃したのは、またこの国の政治階級の満場一致の反対にもかかわらず、来週の選挙で勝利する可能性を手にしている理由は、先ほど言及したイシューが実際には重大であると、過去1世代の大統領候補者のなかで初めて主張したからである。

それは候補者指名への切符であった。なぜならば、両沿岸部の裕福な人々の残響室エコーチャンバー の外側では、アメリカ経済は何年にもわたって自由落下してきたからである。今日のアメリカにおいて経済的に快適な人々の大多数は、アメリカ内陸部の状況がどれほど悪化しているか分からないのではないかと思う。過去8年間の経済回復は、総人口のうちの収入上位20%程度の人々のみに恩恵を与えた; その他の全員は、実質賃金が低下する一方で、同時に不動産市場を膨らませる連邦政府の政策により家賃は急上昇し、オバマの「適正価格医療法」により医療コストは増加した。白人労働者の人々の間で、自殺、薬物乱用およびアルコール依存症による死亡率が上昇しているのはまったく偶然ではない。それらの人々は私の近所に住んでおり、コインランドリーや集会所で会う人々であり、彼らは壁に押し付けられているのだ。

ほとんどの場合、都合良く遠く離れた第三世界の片隅にいる貧しい子供たちの苦しみには即座に反応するような裕福なリベラル派の人々は、ここで挙げた問題は無関係であるとして無視してきた。アメリカ人労働者階級は破壊されていない、その破壊は問題ではない、それは自分自身の誤ちであると主張する人々がどれほどいたか、もう私は忘れてしまった。(ときどき、私はこれら3つを同時に主張しようとする人に会うこともある。) ときどき、メインストリームの左派の人々がここで描いたような状況をご認識なされる場合には、通常の場合、ヒラリー・クリントンが悪名高い「嘆かわしい人々の集団」と呼んだスピーチのような観点からである。そのスピーチの中で、クリントンは、経済回復の恩恵を受けられていない人がいると、また「我々は彼らのために何かする必要がある」と認めたのだ。そのような人々が、彼らのための、または彼ら自身の声を持つに値するかもしれないという考えは、裕福なアメリカ人左派の語彙の中には存在しない。

それが、もしも私が住む町を訪れてもらえたら、トランプ支持のサインがあらゆる場所で見つけられる理由である - 私の家の真南の貧しい地域、数ブロックごとに教会があり、数戸ごとに廃墟のある荒廃した寂れた地区では、最高に密集したトランプ支持のサインを見つけられるだろう。そこでは夏の夜に庭先でビールを飲む人々は、めったに同じ肌の色をしていることがない。彼らは何を必要としているのか、また経済的に荒廃した何万という他のアメリカ人コミュニティが何を必要としているのかを正確に理解している: 自身の家族に貧困から抜け出すチャンスを与える、ちゃんとした賃金の十分なフルタイムの雇用である。彼らはそのニーズを理解しており、そして彼ら自身の間では詳細にそれを議論している。メディアではほとんど見られないほどの明確さで。(これは私にとって皮肉な喜びの源なのだが、ここアメリカ内陸部の現場の状況を最もよく理解した報道が見られるのは、アメリカの高級紙でも、あるいはいわゆるお堅い雑誌でもなく、騒々しい "職場にはふさわしくない" オンラインユーモアマガジンであることだ。)

更には、雇用の不足が中部アメリカの経済的崩壊の原因であると労働者階級の人々が指摘するのは、まったく正しい。それら何万ものアメリカのコミュニティが経済的に破滅している理由は、かつて繁栄していた中小企業と地域経済を支えるだけの十分な収入を得られる人があまりにも少なすぎるからである。アメリカ合衆国全土でかつてメインストリートを活気付けてきたマネーは、その前の週に、誠実な支払いのために誠実な労働をしてきた何百万人というアメリカ人労働者に金曜の午後手渡される賃金だったのだが、その賃金は、一握りの巨大企業の利益をバカげた水準まで膨らませ、企業の食物連鎖の最上位者への数百万ドルというボーナスを当然のこととする泥棒政治的な強奪合戦に応えるために、吸い上げられてしまった。私の家の南の地域にいるトランプ投票者はこれらすべてのディテールを把握していないかもしなれないが、けれども彼らはそのマネーの一部を取り返して、自身のコミュニティーの支払いへと当てることが、自身の生存に不可欠であると知っている。

ドナルド・トランプが選挙で勝利したら、彼らがそれらのマネーを得られるのかはまだ分からない。そして、大多数のトランプ支持者も十分すぎるほどに理解している。同じくらい確かなのは、けれども、ヒラリー・クリントンからはそれらを得られないということだ。彼女が演説で口にする経済政策は、最後の票がカウントされた時点で有効期限切れとなるようなキャンペーン用レトリックを除いては、中間層の機会を向上させることに焦点を当てている - つまりは、それらの経済的利益のうちで直接的に富裕者のポケットに収まらなかった利益から、既に王者の分け前を受け取った人々である。労働者階級に対しては、クリントンはこれまでと同じ空虚なスローガンと使い捨ての約束以外、何も提供しなかった。更には、彼らはこれを知っている。もう1ラウンドの空虚なスローガンと使い捨ての約束が、その状況を変化させないことも。

また、おそらくここで言っておく必要があるだろうが、裕福なリベラルの眼から見てドナルド・トランプの見栄えを悪くするようにデザインされたメディアの大げさな騒ぎによっても、これは変化しないだろう。私はいくらかの楽しみとともに気づいたのだが、トランプへの支持を失わせるように意図されたビデオをトランプ支持者に見せると、彼らは逆に情熱を増すのだと、インテリメディアのさまざまなニュースストーリーがさまざまに混乱し怖れた調子で述べている。なぜこのようなことが起きるのかを説明する、多数の出来合いの理論が浮かんでいるけれども、私が聞いた中には明白な説明を扱っていたものはなかった。

最初に、そのような習慣はトランプ支持者側にのみ見られるものではない。過去数週間、ウィキリークスからEメールが次々と暴露されて、クリントンの傲慢さと腐敗した行動がニュースになるにつれて、彼女の支持者たちはトランプの側と同じ程度に情熱を増した; "過去の投資の心理学" [サンクコスト効果] について知っている読者は、感情的な投資も経済的投資と同じようにこの法則の対象となることに気付いているだろうと思う。その点において、両候補者の支持者は、この選挙が石膏の聖人を選ぶものではなく、公務員を選択するということを非常に賢明に理解している。そして、自身にとって重要な問題に適切な立場を取る正真正銘の悪党を選ぶことは、清廉潔白な反対者を選ぶよりも良いことであると認識している。たとえ、そのような下品な人間を実際に見つけられるのが、現代アメリカ政治の腐ったエコシステムの中でしかないとしても。

とは言うものの、おそらくそれより大きな役割を果たしている別のファクターがある。それは、労働者階級のアメリカ人が、小綺麗な身なりでスーツを着た専門家からお前たちが信じていることは間違いだと言われた時、労働者たちの標準的な想定は、その専門家がウソをついていると考えることである。

労働者階級のアメリカ人は、結局のところ、そのような想定を標準とするだけの十分な理由がある。何度も何度も、専門家が実際にウソをついていることが判明してきたからだ。専門家たちは、さまざまな企業版の "福祉の女王" *2 に税金を引き渡すことにより、アメリカのコミュニティは雇用を取り戻せるのだと主張してきた; 当の企業は、税金をポケットに入れて立ち去ったのだ。専門家たちが主張するには、労働者階級の人々が自分自身の費用で大学へと通い、新たなスキルを身に付けたならば、アメリカのコミュニティに仕事がもたらされるはずであった; 学術業界は力強い利益を上げたものの仕事はまったく現れず、何千万という人々があまりに深く学生ローンの負債の中に埋もれてしまい経済的に回復できなかった。専門家は、そもそもコミュニティから雇用を奪った政策とまったく同一の政策を追求することにより、誰それの政治家候補が雇用を取り戻せると主張した - 本質的に、クリントンのキャンペーンと同じ主張である - 我々はその結果を知っている。

その点においては、ここ内陸部では専門家一般への信頼度は史上最低である。ハーブ薬品 - 最近では一般に「神の薬」と呼ばれる - が、多数の田舎の敬虔なクリスチャンのお気に入りの選択肢となったことについて考えてみてほしい。このようなことが起こる理由は多数あるが、けれども確実に重大な一つの理由として、現代の医薬品を消費者に売りつける、小綺麗な身なりの専門家に対する信頼が連鎖的に失われていることが挙げられる。ハーブは、主要な病気の治療において現代の医薬品ほどに効果的ではないかもしれないということは確かであるが、しかしハーブは一般的に非常に多くの現代医薬品がもたらすような酷い副作用を起こさない。更に、同様に重大な理由としては、ハーブの価格が高いために家族を破産させ、路上生活に陥る人は誰もいないのだ。

かつて、それほど遠くない昔には、我々が今議論しているような人たちは、アメリカ社会とその制度を暗黙のうちに信頼していた。都市の洗練された人々と同じく、アメリカ内陸部の人々も誰か特定の政治家やビジネスパーソンや文化人への信頼を失う場合があったことは確かだ; その当時、二大政党の地方幹部会や政治集会が未だ何らかの意義を持っていたころにも、確実に、候補者のパーソナリティおよび政治問題についての騒々しい議論を聞けたことだろう。けれども、アメリカ社会の基本構造が健全であるというのみならず、あらゆる他の国よりも優れていることに疑いを持つ者は、ほとんど誰もいなかったのだ。

最近では、アメリカ内陸部ではそのような確信は見つけられない。そのような主張がなされるときでさえ、ある種の怒りと言い訳じみた調子で、話し手自身がもはや完全には信じていないことを信じ込ませようとしているのだと分からせるような言い方であるか、またはものごとが上手くいっていたかつての日を懐しむような調子で口にされる - 「アメリカンドリーム」というフレーズが、たくさんの人が経験してきたリアリティと、自身の子供たちが達成可能であると予期しうる更にたくさんのものごとを指していた時代である。ここではかなりの数の人々は、連邦政府を、裕福な詐欺師があらゆる人の犠牲のもとに自身の利益のために運営する巨大組織と見なしている。更には、同様のシニカルな態度はアメリカ社会の他の制度にも及んでおり、また、 - 致命的なことに- そのような制度が人々からの正統性を得ている理想のなかにも及んでいる。

1980年代後半から1990年代前半ごろ、読者はこのような映画を見たことがあるかもしれない。それにはキリル文字 [ロシア語] の字幕が付いていたけれども。1985年ごろまでには、ソビエト連邦の大部分の市民にとって、マルクス主義の壮大な約束は決して守られず、祖父母と曾祖父母たちが戦い、尽力した輝かしい未来は決して到来しないことは痛々しいまでに明白になっていた。プラウダとイズベスチヤ [ソ連共産党の機関誌および新聞] の輝かしい記事は、"労働者の楽園" ではすべてが順調であると主張していた; 年次の五ヶ年計画は、経済状況が定常的に改善されると決めてかかっていたものの、ほとんどの人々にとっては、経済状況は定常的に悪化するものであった; 大規模なメーデーのパレードはソビエト連邦の軍事力を誇示し、地球を集会するソユーズ宇宙船は卓越した技術力を示し、子飼いの知識人はモスクワやレニングラードの裕福な地区で安楽に暮らし、黒海のお気に入りのリゾート地で過ごす次の休暇を待ち望みながら、社会主義下での優れた生活について印刷物でお喋りしていた。その一方で、何百万人もの一般的なソビエト市民は、長い行列、商品不足、全般的なシステムの機能不全に苦しめられていた。それから危機が到来し、ロシア革命の間にバリケードへ集った人々の子孫である人々は肩をすくめ、ソビエト連邦崩壊を単に時間の問題としたのであった。

ここアメリカ合衆国でも、ロシアと類似の連鎖的な事件が発生するまでには、ほとんどの人が考えているよりも近いのではないかと考えている。私の仲間であるピークオイルブロガー、ドミトリー・オルロフが、多数引用された一連のブログ連載記事と書籍『Reinventing Collapse』で約10年前に指摘した通り、ソビエト連邦アメリカ合衆国の間の違いよりも類似点のほうがはるかに重要であり、ソビエト型の崩壊も本当の可能性があるのだ。1990年代初頭のロシア人たちより、ほとんどのアメリカ人が準備できていない可能性である。オルロフの議論は、何年も経過してより切迫したものとなり、アメリカ合衆国は機能不全と政治経済的な泥棒政治の沼の中へ深く沈み込んでいった。それらはかつてのライバルを最終的に飲み込んだ危機と区別がつかない。

一点一点、類似点がきわ立っている。我々には、輝かしい金切り声で、アメリカ合衆国では状況は改善しつつあり、そう言わない人間は単に間違っていると主張するニュース記事がある; 我々には、持続的な成長の継続を予測する経済的宣言があるが、アメリカの経済で成長しているのは、ただ総負債額と恒久的失業者の数だけである; 我々には、度の過ぎた軍事力と技術力の誇示があるが、それはハゲた中年の元アスリートが、失ったものを未だ保持していると取りつくろおうとするマッチョな姿勢を彷彿とさせる; 我々には、ボストン、ニューヨーク、ワシントンやサンフランシスコの裕福な郊外地区で安楽に暮らす子飼いの知識人がいて、現在流行のリゾート地がどこであれそこで過ごす次の休暇を待ち望み、インターネット上で略奪的サイバー資本主義下の優れた生活についてタワ言を述べている。

その一方で、何百万人というアメリカ人は、また別の解雇、賃金カット、最低賃金のパートタイム労働、そして全般的なシステムの機能不全に苦しめられている。危機は未だ到来していないものの、かつて堅固なアメリ愛国者であった人々がまとめて今日の党官僚の快適なライフスタイルを安全に維持してくれると考えているそれらの政治階級のメンバーたちは、慣用句にもある通り、別の思考が来るだろう [考え直したほうがいいだろう]。また、軍隊の下士官兵の大部分が、つまり民心の動揺に対するアメリカ政府の究極的な防波堤が、アメリカのシステムに対して最も劇的に信頼を失っている階級であることも無関係ではない。現段階において、ソビエトアメリカの事例の一番重要な違いは、ソビエト市民は、ブレジネフからアンドロポフからチェルネンコからゴルバチョフに至るまで、システムが自重で崩壊するときまで共産党が押しつけるリーダーを受け入れる以外の選択肢を持たなかったことである。

アメリカ市民は、その一方で、少なくとも潜在的には選択肢を保持している。アメリカの選挙は過去二世紀の大半にわたって不正に苦しめられてきたけれども、一般的に両政党がおおむね同程度に眼を光らせているため、選挙不正が結果を左右するのは接戦のときだけである。それでも、十分に人気のある候補者が、不正投票、電子投票機の操作、その他のアメリカの選挙の野蛮なリアリティを純粋な数の力で圧倒することは可能である。そのような方法により、機能不全のエリートのエコーチャンバー思考に囚われていないアウトサイダーが、他を押しのけてホワイトハウスへ至るかもしれない。今回はそれが起こるだろうか? 誰も分からない。

私が考える通り、もしもジョージ・W・ブッシュが我らのレオニード・ブレジネフであるならば、バラク・オバマは我らのユーリ・アンドロポフであり、ヒラリー・クリントンコンスタンティンチェルネンコの立場を狙っていると言えよう; 彼女の副大統領候補、ティム・ケインは、順に、適切に理想主義的で無知なミハイル・ゴルバチョフとして待機している。そのもとで全体が即座にバラバラになるだろう。私は、この戯画的なメタファーが示唆する通りに、ソビエト連邦崩壊とパラレルな軌跡を正確にアメリカが辿るとは真剣に考えていないけれども、政治的な崩壊における連鎖的な機能不全の終焉という基本的パターンは、歴史のなかできわめてありふれている。また、膨大な類似点が示す通り、同様の事象が次の数十年の間に容易に発生しうる。

トランプが、そのようなことが起こるのを止められるのか、またアメリカの実験から何らかをサルベージできるほどに、現状のアメリカ合衆国のデススパイラルを揺さぶることができるのかはまったく定かではない。最も強固なトランプ支持者の間でさえ、トランプも十分に意味があるほどにものごとを変えられないかもしれないと、喜んで認める人を見つけられる; 単に、絶望的な時期には -そして、ここアメリカ内陸部では、彼らは絶望している - 闇の中への跳躍は耐えがたきことの確実な継続よりも好ましいのだ。

それゆえ、共和党エスタブリッシュメントの反対の中でトランプを共和党指名へと進ませ、アメリカの政治階級全体の反対の中でホワイトハウスの数人の候補へと持ち上げた草の根運動は、おそらくアメリカンドリームの断末魔と考えれば最もよく理解できる。来週、彼が勝とうが負けようが、この国は地図のない夜の闇へと動いていく - そして、ハムレットが述べた通り、その闇の中ではどんな夢が訪れるのだろうか。

*1:訳注: アメリカの大統領選挙では、一般投票で大統領が選出されない場合議会下院で決戦投票が行なわれる

*2:訳注: 福祉の女王 welfare queen とは、福祉制度を不当に利用して安楽な生活を送る女性に対する偏見的なイメージで、しばしば黒人に対する人種的偏見と結びついている。ここでグリアはさまざまな税制優遇を受けて利益を上げているものの、批判を受けることのない企業に対してこの語を使うことで皮肉を述べている。

翻訳:失敗からの教訓: ささやかな紹介 (ジョン・マイケル・グリア)

この記事は2016年8月24日に書かれた。ジョン・マイケル・グリアによる2016年ドナルド・トランプ当選予測に関するエッセイはこちら

Learning From Failure: A Modest Introduction

先日、別のブログを読んでいた読者の一人が、賢明でタイムリーな質問を発した: 今年の大統領選挙の話題になると、なぜあまりに多くの良識ある人々が、口角泡を飛ばして激論を始めるのだろうか? 鋭い質問だ。今日のアメリカ合衆国において政治的言説に適用される恥ずべき基準からしてさえ、両主要政党の支持者から聞こえる、完璧な詭弁、キャッチフレーズのおうむ返し、白熱した激怒などの混ぜ合わせは、尋常なものではない。しばらくの間その質問を検討したところ、その答えが分かった: 認知的不協和である。

簡単な思考実験で説明できる。親愛なる読者諸君、想像してみてほしい。オレゴン州ポートランドにある、近所にある流行りのスターバックスに入り、そこにいる人々 - 根っからの民主党員の男性、女性、性別不定の個人、そして子供 - に質問をするのである。悪夢の大統領候補者を説明してください、来年の1月、最もホワイトハウスで見たくない人物はどのような人ですか、と。

彼らは教えてくれるだろう。そのような人物は、銀行や大企業の利益に公然と奉仕し、豊かな者を更に富ませるために行政にかかわってきた政界のインサイダーで、また第三世界諸国に対する政権転覆およびロシアとの軍事的対立にコミットするネオコンである。その候補者は、企業が環境保護法を覆すことを許容してきた貿易協定の支持に業績を上げ、驚くべきほどに厚顔無恥なスケールでの詳細な汚職告発の中でも踏み止まっている。その候補者は、アメリカには何も問題がないと主張し、それに同意しない者は単にネガティブな人間であるのだと主張するだろう。あぁ、またその候補者は人種差別的な行動に関わっていて、強姦されたという女性の訴えも、もしもその訴えが候補者自身の家族の一員に向けられた場合には、真剣に捉えられるべきではないと主張することも助けになるだろう。

つまりは、民主党の一般党員の考えによれば、ありえる最悪の大統領とはヒラリー・クリントンである。

それでは、グレイハウンド [長距離バス] に飛び乗り、ケンタッキー州ボウリンググリーンで下車して、最寄りの南部バプテスト教会の懇親会に向かってみよう。そこにいる人々 - 根っからの共和党員の、最後の一人の紳士淑女、清潔な子供に至るまで - に質問をするのである。悪夢の大統領候補者を説明してください、来年の1月に、ホワイトハウスで最も見たくない人物はどのような人ですか、と。

彼らは教えてくれるだろう。そのような人物は、ニューヨーク市のヤンキーであるだろう。そこは北米における究極的な悪の汚物溜めとして、多数の敬虔な人々の心のなかでは未だにロサンゼルスを凌駕している。その候補者は、不都合な債務から抜け出すために繰り返し破産宣告を行なって、金の山を作り上げた悪しき投機屋であるだろう。その候補者は、"野蛮" であるだろう - この言葉がどれほど強いものであるか見当も付かないかもしれない。南部プランターの零落した子孫である年配女性の口から、完璧な軽蔑口調でこの言葉が発せられるのを聞くまでは - そして、宗教問題については偽善者であり、キリスト教のキャッチフレーズを口にするのは、ただ選挙で勝つのに役立つからにすぎない。そのような候補者は、もちろん2回も3回も4回も結婚しており、婚外子をもうけており、ゲイ、レズビアントランスセクシャルその他の人間に対して、何らかの敬虔な恐怖の痕跡を示すことに失敗している。最後に、そのような候補者は、アメリカはもはや地球上で最も偉大なる国ではなく、再び偉大になるために抜本的な変化をする必要があると主張するかもしれない。

つまりは、共和党の一般党員の考えによれば、ありえる最悪の大統領とはドナルド・トランプである。

現段階において、両党が適切な対応を取り候補者を交換して、共和党は腐敗したエスタブリッシュメントネオコンを再び支援し、民主党が放埒なポピュリストのデマゴーグを任命するのには、おそらくもはや手遅れなのではないかと思う。そのような賢明な対応を欠いているために、あまりに多くの人々がおおむね平静を失なっていることはまったく驚きではない。民主党員も共和党員も、文字通りにすべてがホワイトハウスで目にしたくない人物に、心から投票を望んでいるかのように信じ込もうとしているのだから。それほどの認知的不協和の中では、落ち着いた議論、合理的な意思決定、正気の政治は不可能である。

それゆえ、アメリカの公人の中で最高に忌み嫌われた2人のうちのどちらが、来年1月に聖書に手を置くのか、また加速する政治的、経済的、社会的没落のなかで苦悩する苦く分断された国のリーダーとなるという疑わしい恩恵を得るのかを競う現在のレースの決着が付くまでには、何度かの奇妙な爆発の発生が予期できる。けれども、それが進んでいく間にも、議論に値する政治的なテーマは他にもある。それらのテーマは、先月の記事での気候変動反対運動の失敗に関する議論への反応として、大きな形で浮び上がってきた。

その記事は、かなりの敵意あるコメントを引き付け、激怒した非難も不足することはなかった。それらの多くは、記事中のある1点のディテールに焦点を当てていた: 気候変動運動とアメリカ合衆国における同性婚の権利要求キャンペーンとの対比である。そのどちらも、ニセ情報で下品なキャンペーンを行なう、豊富な資金を持った反対者に直面した。私が指摘した通り、同性婚キャンペーンはいずれにせよ勝利したので、気候変動運動の敗北の原因は反対者のみに帰せられるわけではない; 気候変動運動が失敗し、その一方で同性婚の権利は今や確固たる法律となった理由は、考慮する必要がある。

これは、けれども、非常に多くの私の読者が望んでいないことである。その人たちが言うには、同性婚権のキャンペーンの目的は、シンプルで、ごく限られた人にのみ影響を与える直接的な法改正であり、一方で、気候変動運動の目的は、現代生活のあらゆる側面での包括的な転覆であるという。中には壮大なスケールのレトリックを使って、気候変動に対して何らかの行動を取ることの圧倒的な困難さを描き出した人もいる。エクソン*1からの補助金に支えられた、地球上のあらゆる気候変動否定論者ですら匹敵しないと思えるほどに気力を失なわせるような調子で。自身の目標を同性婚権のようなものに - 言わば、何かしら達成可能である目標に作り変える方法があるかと問うことは、まったく思いもよらなかったように見える。

より一般的には、敵意ある反応の中心にあるのは、気候変動運動がその失敗から何かを学ぶべきであるという考えを断固として拒否することであった。それは、エクソンの取締役が彼らの最高の夢想を支持してくれると望む以上に、全面的な降伏である。社会変革への勝利を求める運動は、常に一時的な敗北を学習経験として捉え、失敗からの教訓を引き出し、それらの教訓にもとづいて戦術と戦略を変化させ、問題を捉え直し、勝利を得られるより良いチャンスへの奮闘に固執するのである。また、成功を収めた他の運動を見て、自分に問いかける。「我々の大義ではどうすれば同じことができるだろう?」 失敗に対して言い訳を述べ、その戦いはそもそも勝利不可能であったのだとみんなを信じ込ませるような社会変革運動は、逆に、浅い墓穴と水彩の墓碑銘しか得られないだろう。[死後、すぐに忘れ去られるだろう]

ちなみに、同性婚の権利運動の教訓は気候変動運動へは適用不可能であるという主張から学べることは、更に重要であると思う。同性婚運動は、2点のはっきりとした特徴により、政治的スペクトラムの左側の人々が主導した最近の運動の中では特に注目に値する。1点目は、1980年代初期からアメリカの政治運動を支配してきた一般常識に反していることである。2点目は、それが勝利したということである。これら2つはまったく無関係ではない。実際のところ、特定の習慣が、過去30年間に渡って社会変革運動に必須とみなされてきた習慣が、当の期間に目標達成をほぼ全面的に失敗させてきたことに責任があると提案したい。

それでは、1つずつそれらの習慣を見ていこう。

1. 抱き合わせ

これは、いかなる社会変革運動であれ、現在人気のある他のすべての社会変革運動のため余地を空けておかなければならず、時間、労力やリソースをそれぞれの運動が別のところへ割り当てなければならないという主張である。何らかの目標へ向けた運動を開始すれば、確実に、あなたと同盟を組みたいと主張する活動家たちが群がってくるだろう。我々を助けてくれる限りはあなたを助力すると主張する者もいるだろうし、我々の目標達成を支援することがあなたの目標達成のための最良の方法なのだと主張する者も、我々の目標の方がより重要なのだから、あなたがマトモな人間であれば自分の大義を下ろして我々に参加するべきだと主張する者もいるだろう。けれども、これらすべては、別の人間の大義のためにあなたのお金、時間、労力その他のリソースをいくらか転用せよという要求である。

連帯という表層の裏側にあるのは、すなわち、社会変革運動シーンとは人、金、熱意への獲得に向けて複数の運動が競争しているダーウィン的競争環境である。"抱き合わせ" は、標準的な競争戦略であるが、あなたの運動が解決しようとしている問題に対して具体的な行動を取ることを計画するようになると、すぐにオーバードライブしてしまう。この時点において、確実に、あなたの同盟者たちは、自分の大義に対して何らかの見返りがなければ計画は受け入れられないと主張するだろう。言い換えるなら、あなたは単に問題Aを修正することはできない; あなたは、問題B, C, D そして Zなどについても何かをしなければならない - そして、そこに辿りつくよりも前に、あなたの計画は実行可能ではなくなる。いかなる一連の行動でさえ、世界中の問題すべてを一度に解決することはできないからだ。

同性婚の権利へのキャンペーンを他の社会変革運動と区別するものは、反対に、抱き合わせによる失敗を拒否したことである。同性婚運動は、実際の目標 - 同性カップルが結婚の権利を得ること - に焦点を当てて、単独で目標を追求することは非現実的なのだから、歩調を合わせ、社会変革のための壮大な運動に参加し、順番を待つべきだという主張を聞き入れることを拒否したのである。もしも同性婚運動がその主張を聞き入れていたとしたら、彼らは今でも待ち続けていただろう。実際には、同性婚運動は成功を収めた。

2. 党派の罠

民主党は、環境保護大義が死ぬ場所である。ある程度までは、今日のアメリカの党派政治は、抱き合わせの究極的な事例である; 左派の社会運動は、自身のアジェンダを追求するよりはむしろ民主党候補を選出させることにエネルギーを投入するべきであると信じ込まされる。結果として、民主党候補は選挙で勝つものの、社会変革運動は自身の目標は何も実現しなかったと知るのである。

これは偶然ではない。アメリカの両党は、かつて独立していた社会変革運動を囚われの選挙区内に押し止めるという芸術を完成させたので、いずれかの政党の候補者を選出するために働き続けるものの、実質的に見返りとしては何も得られない。民主党エスタブリッシュメントは気候変動反対運動の成功にもはや関心がなく、共和党は反対に妊娠中絶反対運動の成功に関心がない; どちらの場合にも、[もしも目標が達成されたら] 運動は消滅し、重要な囚われの選挙区は自身を支持する政党を失うだろう。党官僚にとっては、囚われの選挙区に時おりパンくずを投げ与え、目標達成への失敗は対立する党派の責任であると非難し、4年毎に、相手の党は更に悪いのだから言われた通りに投票するべきだと主張するほうがはるかに利益が大きい。

同性婚権を求めるキャンペーンは、両政党が運動を定位置へと押し止めるために多大な努力をしたにもかかわらず、その罠から抜け出した。そのため、共和党員 - 共和党候補に投票し、共和党キャンペーンに寄付し、共和党の活動に参加する人々 - のゲイやレズビアンは有意な数に上る。そして彼らは共和党員の議員に、彼らが望むことをするようにお願いする手紙を大量に送り、政府へ陳情した。これが同性婚に対する共和党の反対を崩壊させることに大きな役割を果たし、ひいては運動の成功に重大な役割を果たした。

3. 純度政治

民主党員と共和党員のゲイ、レズビアンおよび同情的な異性愛 ストレート の人々を含む運動の創設は、また別の現代左翼運動の戒めに違反していた。社会変革のための運動は、イデオロギー的な純度テストに失敗した者を排除すべしという主張である。指摘されてきた通り、またこれは正しいのだが、右派は引き付ける協力者を探す一方で、左派は追放するべき異端を探すのである; 過去40年間にわたって、右派が左派よりもはるかに成功している理由の1つはこれだ。

ある程度までは、純度政治は単に"抱き合わせ"の裏返しである。あなたの運動が左側のすべての運動もサポートしなければならないのであれば、あなたの運動に引きよせられる人は、リストに掲載された他の運動すべてのアジェンダに合意するごく少数の人のみである。それでも、そこではそれ以上のことが起こっている。私が過去の記事で書いた通り、アメリカにおける人種についての語りは、人種的な不正義に影響を受けた人々の生活を向上させるための活動から、本当の、ないしは想像上の迫害者の集団をいじめるという機能不全のゲームへと変貌を遂げた。純度政治は、それと同一のダイナミクスから生じている。かなりの数の有望な運動でも働いており、空っぽの部屋の中で、全員がお互いを疑り深く見つめて、何らかの逸脱した思考の兆候がないかと探す5, 6人の人々へと変化させている。

同性婚権運動が成功した理由はまさに、反対に純度政治を拒否したことにある。運動の大部分において、重要なことは同性カップルに結婚の権利を与えることに賛成するだけであり、社会変革運動の全範囲に賛成ではない多数の人々が、実際にゲイとレズビアンカップルが絆を結ぶことを喜んで支持した。イデオロギー的分断を乗り越えて単一の問題に共通基盤を見出す能力が、勝利を約束するわけではない。けれども、それを拒否した場合はほぼ常に敗北が約束されている。

4. 特権者への迎合

裕福なマイノリティに訴えかけて大衆運動を起こした人はいない。それが、近年では社会変革運動が巨大な運動となる兆候をまったく見せない主な理由の1つである。1980年以降、ほとんどの活動家は、真に重要なオーディエンスが裕福なリベラル派のみから構成されているかのように自身のアピールとキャンペーンを定め、たびたび大多数のアメリカ人マジョリティを無視するどころか侮辱さえしたのである - つまりは、彼らの大義が何らかの持続的勝利を達成しようとするならば、味方に付けなければならない人々である。

私がこのブログの別の記事で議論した通り、階級問題が現代政治におけるタブートピックとなったのは、まさにかつて繁栄していたアメリカ人労働者階級が破壊された期間のことであった。政治に関する我々の集合的会話では、人種、ジェンダー、超富裕層について話すことができる。しかし、非常に重要な別の分断 - 給与を得る裕福な人々と、賃金を稼ぐ人々、給与階級から広範に支持された容易に特定可能な政策により、困窮と悲惨のうちに落とされた人々との分断 - について話しをすると、確実に叫び倒される。 (このような会話を、ドルイドが潜む周縁部で行うことによる利点としては、そんな叫び声がほとんど聞こえないことが挙げられる)

あまりに多数の自称過激派たちは、それゆえ、特権階級に従順に従い、富者たちが眉をひそめるようなリスクを取ることすらせず、彼らのテーブルから出るゴミの施しを乞うたのである。アメリカで本当の変革が発生するのは、ドナルド・トランプが既に学んでいる通り、国家政治とパブリックな言説からの賃金階級アメリカ人の要求、利益、視点の排除により、かつて強靭であった現状維持への信念が打ち砕かれ、政治的動員への準備が整ったということを他の人たちが学んだ時であろう。そのような変革は良い方向へ向かうとは限らない; もしもメインストリーム政党が、裕福な者だけが問題であるかのように行動し続けるならば、次に賃金階級を従える人物は、腕章と軍靴を好むかもしれない。ことによると、路肩爆弾やゲリラ紛争を好むかもしれない; いずれにせよ、変革は起こるだろう。

同性婚権の運動は、ここでは巨大なアドバンテージを持っていた。その運動が実現を望んだ政策変更は、ボウリンググリーンやオマハの賃金階級の同性カップルにも、シアトルやボストンの給与階級の同性カップルのどちらにも利点があるものであったからだ。(ところで、ボウリンググリーンやオマハに賃金階級の同性カップルなど存在しないと考えるのであれば、もっと外へ眼を向けるべきだ。) それが運動に巨大な支持を与え、裁判所の判決が出なかったとしても、個々の州での投票を集め始め、更なる勝利を収めたのである。

それでは、人為的気候変動への反対運動は? 運動に関わった人であれば、読者諸君、ここで列挙した4つの悪い習慣すべてに苦しめられていたことにお気づきだろうと思う - お望みであれば、我らが時代における急進主義の黙示録的失敗の四騎士と呼んでも良い。気候変動運動は、抱き合わせの利益を求める集団により、コアとなる目標から逸らされてしまった; それは、民主党の選挙区に囚われてしまった; それは、純度政治の悪いケースに苦しめられており、そこでは (私が以前指摘した点を挙げるなら) 大量の余剰を節約することなしに、化石燃料を代替する再生可能資源の能力に疑問を持つ人間は、否定論者として非難される; それは、常に特権者へ迎合し続け、貧しい労働者の犠牲のもとに裕福な人々に利益をもたらす政策を追求している。これらの悪い習慣が、先の気候変動運動の死亡記事で列挙した具体的な間違いを助長し、そしてその運動を敗北へと導いた。

その失敗は必然ではなく、また将来の気候変動運動が同じ間違いを何度も何度も繰り返す必要もない。今後の記事では、将来の運動が、大気を下水口であるかのように扱うことを止め、今日の我々の愚行によるエコロジカルな影響を緩和するために何をすべきかを描き出したいと思う。私の具体的な提案は試験的なものとなるだろうが、けれども同性婚権キャンペーンの成功から得られる教訓はそこに含まれるだろう-そして、我らが時代の他の社会変革運動の度々の失敗から得られた、同様に重要な教訓も。

*1:訳注:米国の石油会社。日本ではエッソのブランドで知られる。

翻訳:ポストリベラル時代の到来 (ジョン・マイケル・グリア)

この記事は2016年9月28日に書かれた。ジョン・マイケル・グリアによる2016年ドナルド・トランプ当選予測に関するエッセイはこちら

The Coming of the Postliberal Era

現代のできごとを学ぶ人誰もが直面している巨大な挑戦は、現時点での混乱を乗り越えて、より広いスケールでものごとを形作る深層のトレンドを捉えることである。たとえるならば、潮汐表の助けを借りず浜辺に立ち、潮が満ちているのか引いているのかを当てるようなものだ。波は寄せては砕け、海へと流れ返る; 風はあちらへ、こちらへと吹く; 長い時間が経ち、微妙な細部に細心の注意を払ってようやく、海が次第に浜辺へと迫っているのか、それともそこから引きつつあるのかを確信できるだろう。

過去1年程度の間、けれども、アメリカ政治の巨大潮流の一つが変化して海へと返りつつあることが、私には次第に明らかになってきた。ほぼ正確に200年程度の間、この国の政治的言説は、アメリカン・リベラリズムとでも呼びうる緩く連合した思想、利害、価値観によって形成されてきた - おそらく、それ以外のいかなる単一の力よりも強力に。それが現在変化しつつある潮流である。私の考えでは、我らが時代の政治的展望を形作る最重要トレンドは、リベラル運動の最終的滅亡への転落と、現在既に生じつつあるポストリベラル政治の最初の胎動である。

アメリカン・リベラリズムが何であったか、どう変化したか、そしてその余波の中で何が起こるのかを理解するためには、歴史は不可欠のリソースである。ある政治イデオロギーの信奉者に、自身のイデオロギーを定義するようにお願いしてみれば、出来あいの定義を得られるだろう; そのイデオロギーの反対者に同じことをするようにお願いしてみれば、まったく別のものが得られるだろう - またどちらも、その他のより広いロジック以上に、瞬間瞬間の政治的要求によって変化していく。そのイデオロギーの誕生から青年期、成熟期と老年期への衰退までを辿ってみれば、実際に意味することをよりよく理解できるだろう。

それでは、アメリカン・リベラリズム運動の源泉に戻ってみよう。歴史家たちは長い間この運動の起源について議論してきたが、その最初の眼に見える急増は、1812年戦争 [英米戦争] 後数年に、沿岸北東部のいくつかの都市中心部に辿れる。ボストン - 19世紀アメリカにとってのサンフランシスコ - は、新生運動の震源地であり、新しい共和国全体から集った野心ある知識人たちの生み出した新たな社会思想が煮えたぎる大釜であった。1960年代の素朴で沸騰する理想主義が何か新しいものであると考えている読者は、ナサニエル・ホーソーンの『ブリットデール・ロマンス』を読む必要がある; それは19世紀初等のマサチューセッツカウンターカルチャーの集合であり、ほとんどの活動は共同体 コミューン で行なわれた。それが、アメリカン・リベラリズムが誕生した背景である。

最初期から、アメリカン・リベラリズムは教育あるエリートの運動であった。それは圧政に踏み付けられた下層民を鼓舞するため感動的に語られたのだが、下層民自身はその運動の中では活発な役割を許可されていなかった。またそれは、プロテスタントと密接に関わっていた。ちょうど、1960年代の運動がアジアの宗教と関わっていたのと同じように; 会衆派とユニテリアン教会の牧師たちは、初期の頃から運動の中心的な役割を果たしてきており、運動の主要団体 - 反奴隷協会、禁酒同盟、非抵抗同盟、そして最初の影響力のあるアメリカ平和主義団体 - などは教会と密接な同盟を組んでおり、そのスタッフや支持者は聖職者であった。エリート主義とプロテスタントキリスト教の起源が、後で見るように、続く2世紀のアメリカン・リベラリズムの発展のあり方に強い影響を与えた。

3つの大きな社会問題が、新たな運動が合体する枠組みを形成した。1つ目は奴隷制度の廃止; 2つ目はアルコールの禁止; 3つ目は、女性の法的な地位の向上であった。(最後の目標が、両性の法的・社会的な平等という究極的な形を取るまでには、長く複雑な道を辿った。) それ以外にも多数の問題があり、それは運動から独自のシェアの注目を集めた - 食生活の改革、衣服の改革、平和主義、など - しかし、これらすべてが共通のテーマを共有していた: 価値観の表現としての政治の再定義である。

最後のフレーズを解説してみよう。政治とは、当時、そして人類史のほとんどの期間にわたって、直接的に利害に関する問題であると理解されてきた - 最もあからさまに言えば、誰がどのような利益を得て、誰がどのような費用を支払ったのかである。当時そして続く1世紀の大半の期間、たとえば、大統領選挙のたびに起こったことは、勝者の党が連邦政府の職をひとまとめにして支持者へと配分することであった。それは「猟官制」[spoils system] と呼ばれていた。ちょうど、「勝者は戦利品 [spoils] を得る」と同じような意味で; 人々が、誰かしらの大統領候補者の選挙キャンペーンに集ったのは、第一に快適な連邦政府の職を得られることを期待していたからだ。誰もこの制度が悪いものだとは考えていなかった。なぜならば、政治とは利害についてのものだったからだ。

同様に、奴隷は5分の3の人間であると定義した悪名高い憲法の条項について、憲法制定会議の参加者の誰かが倫理的な面で苦悩したという根拠はない。彼らは倫理的な問題についてまったく思いも至らなかったのではないかと思う、なぜなら、政治とは倫理その他の価値観の表現ではないからだ - 利害についてのものである - 問題は、各邦が自身の利害が議会で十分に代表されるだろうと感じられる妥協点を見つけることだけだったからだ。価値観とは、当時の考え方では、教会と個人の内心のみに属すものであった; 政治は、純粋に単純に利害についてのものであった。

(ここでしばらく一時停止して標準的な反応に応えておくべきだろう: 「イエス、しかし彼らはもっと良く考えるべきだったのだ!」 これは自時代中心主義 クロノセントリズム の典型例である。自民族中心主義が、特定の民族集団の信念、価値観や関心を特権視するように、クロノセントリズムは、特定の時代の信念、価値観や関心を特権視するものである。クロノセントリズムは、今日では、政治・文化的シーンのあらゆる側面において非常に一般的である; たとえば、科学者が、中世の人々は占星術を信じるよりももっとよく知るべきだったと述べるとき、あるいはクリスチャンが旧来の異教徒たちは多神教的な宗教を信じるよりももっとよく知るべきだったと述べるときに見られる。あらゆる場合において、それは過去を理解するという困難なタスクを避けるための試みの一つでしかない)

新生のアメリカン・リベラリズムは、けれども、政治と価値観の分断を拒否した。彼らが奴隷制度に反対したのは、たとえば、工業化した北部諸州と南部のプランテーション経済の間の経済的利害の不一致とは何も関係がない。すべては、奴隷制は道徳的な誤りであるという真剣な信念に関連している。アルコール、女性への市民的権利を否定する法律、戦争などへの反対、その他運動が反対したことの長いリストに掲載されたあらゆることが、道徳的価値観についての問題であり、利害についての問題ではない。そこには運動のプロテスタント伝統の影響が見られるだろう: 教会から価値観を取り上げ、そして世界全体にそれらを適用しようとした。当時、プロテスタントはかなりエキゾチックな思想であり、たった今言及した道徳的十字軍は、1960年代の色とりどりのファンタジーと同じく、当時政治的な牽引力を得たのである。

どちらの運動も、戦争の影響により完全な失敗を免れた。1960年代の運動は、大衆文化からの影響力の大部分をベトナム戦争への反対から得ていた。戦争が終了し、法案が廃止されたとき、ほぼ跡形もなく運動が消滅したのはそれが理由である。初期の運動は、戦争が起こるまでしばらく待たなければならず、その間、4年前にニューエイジ運動を死のスパイラルに追いやったのと同じ種類の黙示録的なファンタジー [2012年のマヤ歴の終焉にまつわる終末論を指す] を野放しにしたことによってほぼ完璧に自己破壊した。1830年代には、完璧な社会が望んだほどには早く出現しないことに不満を抱き、大多数の新リベラル運動の支持者たちは、ニューイングランドの農民で聖書からキリスト再臨の正しい日付を導出したと信じるウィリアム・ミラーの預言を受け入れた。2012年12月21日と同じく、1844年10月22日は何事もなく過ぎ去り、結果として「大失望」は運動へのボディーブローとなった。

その時までに、けれども、アメリカン・リベラルによって推進された道徳的十字軍運動の一つは、素の経済的利害によって有能な支持者を引き付けていた。北部と南部諸州の奴隷制をめぐる疑問は、当時は主に倫理的問題であるとは見なされていなかった; 他のあらゆる政治問題と同様に、それは競合する利害の問題であったのだが、その過程において北部の政治家とメディアは即座に奴隷廃止論者の道徳的なレトリックを活用した。問題であったのは、国家の経済的な未来像であったのだ。アメリカは、輸出用原材料を生産する農業国に留まって、イギリスを中心としたグローバル経済に完全に統合される - すなわち、南部モデルを取るべきか? あるいは、独自の道を進み、グローバル経済に対する貿易障壁を上げ、独自の産業と国内消費向けの農業経済を発展させる - すなわち、北部モデルを取るべきか?

そのような問題は、即時の実際的な含意を持っていた。というのは、どちらかのモデルとって好ましい政府政策は、もう一方の破滅を意味したからである。奴隷制は南部モデルの要であった。南部プランテーションでは、利益を上げるためにほぼ無償の膨大な労働力を必要としたためである。けれども、北部と南部の政治家たちの間での議会闘争の詳細な議事録を読んでみれば、それと同じくらい議論されていた問題は、貿易政策と連邦支出に関する議題であったと分かるだろう。[原材料の輸出によって利益を上げる] 南部に有利な自由貿易政策を取るべきか? あるいは、[国内の工業を保護したい] 北部に有利な関税障壁政策を取るべきか? 連邦予算は、運河と道路に支出するべきか? それは原材料の工場への輸送と製品の市場への流通を容易にし、北部に利益をもたらす。しかし、それは南部の利益とは無関係である。単に、河船で綿花とタバコを近隣の港に運べばよいだけなのだから。

新たに認可された州で奴隷制経済を認めるべきかをめぐる更に苦い闘争も、当時の政治では圧倒的な経済的背景を持っていた。北部は、西部準州を家族農場のパッチワークに変え、東海岸沿岸都市と五大湖周辺のブルジョア的な都市向けの農産品を作らせ、また北部の工場からの工業製品の市場へと変えたいと望んでいた; 南部は、同じテリトリーでプランテーション農業を行い、イギリスおよび世界市場への輸出品を作りたいと望んでいた。

既に述べた通り、倫理的側面が北部のプロパガンダの中心となり、それが利益と同様に価値観も政治的言説に存在するというリベラルな信念を広げるのに役立った。1860年までに、その信念はメーソン=ディクソン線 [奴隷州と自由州を分ける線] の南側にすら広まっていった。たとえば、南部連合の[非公式]国歌、『ボニー・ブルー・フラッグ』の歌い出しの歌詞は、作詞当初の時点では「誠実な労苦により勝ち取った財産のために戦う」であった - そして、誰も自分のアイデンティティ、肌の色、当の財産についての幻想を持っている人はいなかった。けれども、すぐに歌詞は書き換えられた 「我らの自由のために、財と血と労苦をもって戦う」 そのような変化が起こったとき、既に南部は敗北していた; 経済的利益の観点から奴隷制を擁護することは完全に可能ではある、しかし、ひとたび争いの焦点が自由などの価値観に移ったら、奴隷制は擁護不能となる。

それで南北戦争が勃発し、南部連合は興亡し、北部の経済モデルがその後ほぼ1世紀にわたりアメリカの経済政策を導き、リベラル運動も再び歩を進めた。奴隷制の廃止により、他の2つの主要目標が中心的な段階を占め、アルコール禁止と女性参政権獲得の闘争もほぼ足並みを揃えて進行した。米国でのアルコール製造と販売を禁止する修正第18条と、女性参政権を付与した修正第19条は、それぞれ1919年と1920年に可決された。禁酒法が完全な失敗と判明した後でさえ、同じレトリックは薬物へと向けられ (ほとんどは1930年代までアメリカでは合法だった)、それは今日まで公共政策を形作り続けている。そして、大恐慌が訪れ、1932年のフランクリン・ルーズベルトの選出 - そして特に、共和党が2つの州しか獲得できなかった1936年の地すべり的な大勝により - リベラル運動はアメリカの政治生活を統べる力となった。

勝利また勝利が続いた。労働組合の合法化、税金により支えられた社会保障制度の創設、南部への人種差別撤廃命令: これらを含めた膨大なリベラルな改革が着実に続いた。注目すべきことは、これらすべてのアチーブメントが達成されたのは、リベラル運動が両サイドの反対者と戦っている間のことだったということだ。右側には、もちろん、旧来の保守派が残っており、彼ら自身の重要な利害のために戦っていた。しかし、1930年以降、リベラル派は更に左側からの絶え間ない挑戦にも直面しなければならなかった。アメリカン・リベラリズムは、既に伸べた通り、教育あるエリートの運動であった; その運動の焦点は、下層民を包摂することではなく、下層民を助けることにあった; そして、下層民自身が自分自身の思想を持つようになり、それが必ずしもリベラル派が彼らに望むことと一致しなくなると、そのアプローチはますますトラブルを引き起こしていった。

1970年代から、今度は、アメリカン・リベラリズムは第三の挑戦に相対するようになった - 新たな形の保守主義であり、それはリベラリズムの価値観中心の言葉を借用したのだが、自身の大義を支持させるための別種の価値観を使用していた: 保守的なプロテスタントキリスト教の価値観である。ある意味では、「家族価値」を語るいわゆる「新保守主義」は、政治的言説の中心に価値観を据えるための長きにわたる闘争の、最終的かつ皮肉な勝利を表している。1980年代までには、パブリックな領域のいかなる党派の人であれ、その言動がどれほど粗野で打算ずくであろうとも、何らかのふさわしい抽象的価値観を掲げることを求められるまでになった; 誰も利害については語らない。たとえ、利害が明白な問題となっているときでさえ。

そこで、リベラル派が批判を受けた際の典型的な反応は、リベラルな政策に反対する唯一の理由は批判者が憎悪に満ちた価値観を抱いているからだと主張することである。

ここでは現在のアメリカの移民政策を例として取ろう。合法的な移民を制限する一方で、非合法の移民を暗黙のうちに許容する政策である。そのような政策が適正であるかを問うことには、確固たる実際的な理由が存在する。今日のアメリカの恒久失業者数は歴史上最高であり、人口の下位80%の収入と生活水準は、1970年代以来定常的に下降している。連邦の税制は雇用オフショアリングに実質的に補助金を与えている。そのような状況において、何百万という違法移民、実際上、何らの法的権利を持たず、搾取工場 スウェットショップ で不当に低い条件で雇用される違法移民を許可することは、既に低下した賃金を更に低下させるのみであり、賃金階級のアメリカ人を更に悲惨と貧困のうちに陥れるだろう。

これらは正当な問題であり、アメリカ人労働者階級の福利に対する、真剣な人道的懸念を扱うものである。そしてこれらの問題は人種問題とは何の関係もない - 移民がカナダから来ていたとして同程度の問題となっただろう。それでも、現代のアメリカン・リベラルの耳にこれらの問題は届かないだろう。それをしたとすれば、あなたは叫び倒され人種差別主義者としての告発を受けることになる。なぜか? リベラル運動のリーダーシップを引き出し、リベラル運動全体の方向性を定める豊かな階級が、大量の違法移民によって部分的に引き起こされた賃金の崩壊から、直接に利益を受けているからであると考えている。それは、賃金の低下は彼らが購入する商品とサービス価格の低下をもたらし、また彼らが働く企業、彼らが所有する株式の利益の向上をもたらすからである。

言わば、その歴史において、政治は利害と共に価値観も重視すべきだと主張して開始した運動であったが、その運動は価値観に関する議論を用いて自己利益追求に対する議論を封じるものへと変貌した。それは長期間有効な戦略ではない。というのは、反対者がその問題を特定し、レトリックと現実のギャップを攻撃するまでに長い時間を要しないからである。

この種の皮肉は、政治史においてはまったくの異常事態ではない。何らかの理想主義的な抽象原則の名のもとに現状維持 スタトゥス・クォ への異議申し立て運動として開始したものの、ひとたびそれが現状維持の地位を占めると他者の理想を締め出すような運動は、驚くべきほど一般的である。いずれにせよ、アメリカン・リベラリズムは、その理想を最も長期間保ち続け、多大なることを成し遂げてきた。我々のほとんどは、 - 私のような穏健なバーキアン保守主義者でさえ - 奴隷制や女性の市民権否定などの明白な不正義を終わらせたこと、また利害のみならず価値観も公的領域での議論に値するという考えを支持したことについて、リベラル運動に感謝しているだろうと思う。リベラル運動が、あらゆる成功した政治運動の究極的運命である衰退へと沈み込んでいくにつれて、現代版の帽子を掲げてしばしの沈黙を捧げる行為に値するだろう。

現在のアメリカ大統領選挙は、おそらく他の何よりも増して、リベラル運動の衰退がどれほど進んでいるかを示している。ヒラリー・クリントのキャンペーンがドナルド・トランプの挑戦に直面して当惑している理由は、彼女の選挙運動のレトリックにおけるリベラル派の 陳腐な言葉 シボレス を未だ信じているアメリカ人があまりにも少なくなったためにそれが意味を成していないからである。クリントンの支持者の間でさえ、熱意を見つけることは難しく、彼女の選挙集会の参加者は恥ずかしいほどにまばらである。ただ人種差別主義者、ファシストその他の "嘆かわしい人々" のみがトランプを支持しているという、ますます狂乱した主張は、本当の信者以外には誰も納得させられず、お飾りの価値観の背後にある利害を隠蔽する工作は、ますますあからさまになっている。未だクリントンは何らかの手段で選挙に勝てるかもしれないが、アメリカ政治世界のより広い潮流は、明らかに向きを変えている。

もっと正確に言うこともできる。バーニー・サンダースドナルド・トランプは、クリントンとは正反対に、有権者からの非常に情熱的な反応を引き出した。それは、2人が瀕死のリベラリズムのレトリックによって充満された現状維持に替わるものを提供したからである。同様に、イギリスでは、 - リベラル運動がやや異なる軌跡をたどって同じ場所に行きついたのだが - EU脱退キャンペーンの成功と、以前は党首当選は不可能だと考えられていたジェレミー・コービンに対する労働党員の支持への強い熱意は、同じプロセスが進行中であることを示している。裕福なエリート専属イデオロギーと化したリベラリズムは、下層民の忠誠心を喪失した。かつては、明らかにさまざまな動機が混同されていたのだが、下層民を助けることを目的としていたのであるが。その喪失により、リベラリズムが今後生き残ることはほとんどありえないだろう。

今後数十年にわたって、言い換えれば、アメリカ、イギリス、そしてほぼ確実に他国でも同様に、ポストリベラル政治が登場すると予期できる。短期的な政治情勢はきわめて推測が容易である。共和党の職業的政治家たちがヒラリー・クリントンの旗の下に集ったことを見てほしい。自由貿易の延長、中東へのアメリカの介入、その他彼らの利害を維持する超党派コンセンサスを要求する富裕層の党の誕生が見えるだろう。バーニー・サンダースドナルド・トランプ支持の轟音を聞いてほしい - または、それよりも良いのは、この11月にトランプへ投票するであろう、決して少なくない数のサンダース支持者と話してみてほしい - エリートとは非常に異なる利害を守るために、エリートのコンセンサスの破棄を求めるポピュリスト政党の出現を感じられるだろう。

それらの政党の名前が何であるかは、未だまったく分からない。そして、それ以外にも数多くのやるべきことがあるだろう。いずれにせよ、その道のりは荒いものとなるはずだ。

翻訳:ベルサイユ宮殿の鏡の間の外で (ジョン・マイケル・グリア)

この記事は2016年6月29日に書かれた。ジョン・マイケル・グリアによる2016年ドナルド・トランプ当選予測に関するエッセイはこちら

Outside the Hall of Mirrors

先週のイギリスのEU離脱をめぐる投票の結果、インターネットとマスメディアのさまざまな場所で憤慨した絶叫と大騒ぎが始まった。親EU派の予想外の敗北は、けれども、重要な教訓を提供しており、それはイギリスに住む私の読者のみに限られない。ブレグジット国民投票の裏にある根本的な問題は、現在他の多くの国々でも大きな現実となっており、今年のアメリカ合衆国大統領選挙においても重要な - おそらく決定的な - 役割を果たすことだろう。

もちろんそのような結果となった理由の一部は、残留キャンペーンの非常に印象的なまでの無能さに帰せられなければならない。政治運動の最初のルールは、何かがうまく行かなくなったら、別のことを試してみる時だというものだが、しかし親EU派の誰もこのことを思い付かなかったと見える。キャンペーンの最初から最後まで、親EU派の口から発せられたほぼ唯一の一貫した主張は、イギリスがEUを脱退したら恐しいことが起こるぞという脅しであった。選挙の数週間前には、その結果、"ブレグジット発癌性あり、専門家が警告" といったニセのニュースヘッドラインが、インターネットユーモアの共通の話題になっていた。

それだけでも十分に悪いことだったが - 政治キャンペーンの中心的テーマが笑いものになるのは、何か間違ったことをしているからだ - しかし、それ以外の点でも、親EU派の全員が見逃していたポイントがある。もうすぐ元首相となるデビッド・キャメロンは、イギリスがEUを脱退した場合、国民保険サービスおよびその他の一般イギリス人に利益をもたらすプログラムにおいて厳しい予算削減が行なわれるという主張にキャンペーンの大部分を費した。ここでの問題点は、もちろん、キャメロン政権は既に国民保険サービスおよびその他の一般イギリス人に利益をもたらすプログラムにおいて厳しい予算削減を課してきたということであり、また同じことを更に行なうというあらゆる兆候を示していた - 「ブレグジットをすれば、いずれにせよ我々がしていることを続ける」 という言葉は、どういうわけか、見たところキャメロンが予期していた影響力を発揮できなかったようである。

より一般的には、残留派の支持者は、イギリスがEUに残留し続けるポジティブな理由を、既に自分たちと同じ立場を取っているのではない人々に提示できなかった。その代わりに、彼らは単に「何らかの思考力のある人」であれば残留に投票するもので、それに同意しない人々は外国人嫌いなナチス支持者のバカであると主張した。敗北後の彼らの行動もだいたい同じで、EU脱退に投票した52%のイギリス人はすべてファシストの偏屈者であるという怒りに満ちた声明と、脱退に投票した人も本当に脱退する意図はなかったのかもしれないので、どうか投票をもう一度やり直してくださいという哀れなお願いの間を揺れ動いている。

投票前も投票後も、EU残留派の主張に完全に欠けていたことは、イギリスのEU加盟の継続に関する疑問には、合理的な意見の不一致がある実質的な問題が存在するかもしれないという何らかの感覚である。お前たちの不安は間違っていると言い、異議申し立てに対して子供じみた悪口での中傷をしたとしても、彼らが投票を変えるように説得されないことは明白なはずであった。これが親EU派の人々には明白でなかったということ、そして敗北に直面してさえ明白に理解される兆候がないということは、当の問題は親EU派の人々が絶対に議論してほしくない問題であることを示唆している。

これがまさに起こっていたことであると思う。そして、過去1世紀程度のイギリス政治史を一瞥すれば、叫び声の裏にある語られぬ現実を理解するのに役立つかもしれない。

100年前、イギリス政治界は2つの政党に支配されていた: 保守党 (またはトーリー党) と自由党である。両方とも、富者によって運営された富者のための政党であった。19世紀にわたって、一連の選挙改革法により多数のイギリス男性が選挙へと参加するようになった - イギリス人女性は、2つの段階で選挙に参加した。1918年には30歳以上の裕福な女性が、1929年にはすべての女性が投票を認められた - すぐに両党は、貧しい人々の前に無意味な恩恵をぶら下げて、彼らが言うところの善のために投票させる方法を学習した。

労働党の先駆けとなった独立労働運動 [ILM] の躍進は、このような政治的駆け引きへの見事な反撃であった。裕福な少数派の利益のために誘導されることを許すのではなく、ILMと後の労働党は、労働者と貧者の利害をアジェンダの最上位に置き、富者のテーブルから出たゴミに抱き込まれることを拒否したのである。1945年、その直接的な結果として、自由党は影響力をほぼ失い、労働党はイギリス政治における二大政党のうちの一つとなった。

アメリカと同様イギリスでも、前世紀の最後の四半世紀に振り子は逆側へと動き始めた。1978年の総選挙でのマーガレット・サッチャーの勝利は、アメリカでの1980年のロナルド・レーガンの勝利と同じ役割を果たした。新しい、より攻撃的な保守主義が、階級闘争についての左派のレトリックを取り上げてそれを著しく反転させ、貧者に対する富者の反乱の時代の先駆けとなった。その後、トニー・ブレアの下で労働党は、ビル・クリントンの下での民主党と同じ方法によりそのシフトに対応した: すなわち、どちらの党も労働者と貧困者に対する以前のコミットメントを密かに取り下げ、その代わり裕福なリベラル派へアピールする問題に焦点を合わせたのだ。彼らは、労働者階級と貧困者が、習慣により、また間違った忠誠心により投票を続けることに賭けたのだ - 短期的には、その賭けは報われた。

その結果、両国の政治的環境では、労働者と貧者の犠牲のもとに富者に利益をもたらす政策のみが唯一の議論対象である政策となった。この点は、あまりにも頻繁に、あまりにも多くの空想的な形で歪められてきたため、おそらくここで詳細に説明しておく必要があるだろう。不動産価格の上昇は、たとえば、不動産を所有する者に利益を与える。彼らの資産を増加させるからだ。その一方で、家を借りる必要がある人々には、損を与える。収入のより多くを家賃として支払わなければならないからだ。同様に、障害者向けの社会保障給付の削減は、そのような給付金に頼って生存する人々の犠牲のもとに、税金を支払う人々に利益をもたらす。

同様に、既に何百万人もの人々が恒久的に失業している国へ無制限の移民を奨励する政策、工場の雇用のオフショアリングを推奨し、残された減り続ける仕事に対する競争を強いる政策は、あらゆる人々の犠牲のもとに富者に利益を与えるものであった。他のあらゆるものと同じく、労働にも需要と供給の法則が働く: 労働者の供給を増やし、労働力への需要を減らせば、賃金は低下する。裕福な人々はここから利益を得た。彼らが望むサービスの価格が低下したからだ。しかし、貧しい労働者と失業者は害を受けた。受け取る賃金が減少したが、さもなければまったく仕事を見つけられないからだ。このような直接的なロジックを偽装するために、移民は経済全体に利益をもたらすという主張が標準的に使われてきた。しかし、誰が大部分の利益を得たのか、そして誰がほとんどの費用を支払ったのか? 過去30年以上の間、イギリスでもアメリカでも公的領域にいる人々が誰も議論してほしくないと思っていたのはこれだ。

このような富者の富者による富者のための政府にまつわる問題は、何年も前に、アーノルド・トインビーによる記念碑的な著書『歴史の研究』のなかで妥協なく詳細まで記されている。没落中の社会は、トインビーの指摘によれば、同等ではない2つの部分へと分裂していく: 政治制度とその利益を独占する支配的少数者と、既存の秩序維持のための費用の大部分を支払いながら、その利益へのアクセスを拒否された内的プロレタリアートである。分裂が進んでいくと、支配的少数者は政治の根本的法則を見失う -大衆がリーダーへの忠誠心を持ち続けるのは、ただリーダーが大衆への忠誠心を持ち続けるときのみである- そして、内的プロレタリアートは支配的少数者のリーダーシップのみならず、その価値観と理想をも拒否することで反応する。

結果として生じる[支配者と大衆の] 断絶を表す永続的なシンボルは、ベルサイユ宮殿の有名な鏡の間である、そこではフランス革命直前の最後のフランス王3名が、自身の輝かしい姿を見つめるために、次第に不穏で貧困になっていく国から身を隠した場所である。マリー・アントワネットは、彼女に帰せられた有名なセリフ - 「ケーキを食べればいいじゃない」- とは口にしなかっただろうが、そのような発言が示唆する鏡の間の外側の世界のリアリティについての無知は、フランスが廃墟へと向かい、一般のフランス人男女の多数が名目上のリーダーに背を向け、新たなオプションを探す間に、確実に存在していたであろう。

それが過去数十年にイギリスで起きたことであり、過去数回の選挙はそれを示している。2010年の総選挙では、有権者はそれまで泡沫政党であった自由民主党に群がり、世論調査員と専門家たちを驚かせた。それは変化に対する明白な要求であった。もしも自由民主党が自身の立場を譲らなければ、数年のうちに労働党の代替となりえたかもしれないが、しかし自由民主党は理想を換金し、トーリー党との連立政権を形成した。直接的な結果として、2015年の総選挙では、自由民主党は再び泡沫政党へと追い返された。

けれども、2015年の選挙は更に重要な結果をもたらした。不安なほどに勢力を伸ばした別の泡沫政党、イギリス独立党 (UKIP) を叩くため、トーリー党首相のデイビッド・キャメロンは、もし自党が勝利したら、イギリスはEU脱退を問う国民投票を行なうと公約したのである。世論調査によれば、議会は再び保守党、自由民主党労働党の間で3つに分裂するだろうと予測されていた。世論調査員と専門家たちは再び驚かされた; 労働党ないし自由民主党に投票すると言われていた人々が、投票ブースの中では密かに地元のトーリーに投票を行なったのだ。なぜ? 木曜日の投票が示す通り、まさに彼らはEUに対してノーと言う機会を望んでいたのである。

早回しでブレグジットキャンペーンへと進もう。今日のイギリスの礼儀正しい社会では、既存の人々にすら十分な雇用、住居、社会保障を与えられないほどの過密状態の島へ、更に無制限に移民を許可することで起こる巨大な問題を指摘しようとする試みは、人種差別であるとして無視される。ゆえに、大多数のブリトン人 - その多くは名目上の労働党支持者 - が、パブリックな場では承認されたスローガンを口にするものの、プライベートでは "脱退" に投票したことは何ら驚くべきことではない - そして再び、世論調査員と専門家たちは驚かされた。それが、支配的少数者と内的プロレタリアートの間の分裂による欠陥である; ひとたび、裕福で特権的なサークル外部の人々のニーズへの対処に失敗して、支配的少数者が大衆の忠誠心を失うようになったら、社会の機能に必要な相互信頼を面従腹背が代替してしまう。

EUは、次に、労働者階級と貧困者の間の不満を抱いた有権者たちの完璧なターゲットとなった。なぜならば、EUは完全に、トニー・ブレア後の労働党ビル・クリントンの後の民主党のような、同様の富裕層によるコンセンサスの産物であったからだ。EUの経済政策は、上から下まで、サッチャーレーガンにより力を授けられたネオリベラル的経済学に率いられていた; 無制限の移民と資本移動への確固たる支持は、賃金を低下させ、イギリスのような国々から雇用を取り去ることを意図していた; その補助金は必然的に大企業と裕福な企業のポケットへ収まり、その規制による負担は中小企業と地域経済にとって最も思い負担となる。

これに気付くことは何も難しくはない - 実際のところ、気付かないようにするほうが努力を要する。イギリスメディアの最新のニュースで、ブレグジットの結果を嘆いている人々の話を聞いてみるといい。その話し手が奪われると心配していることは、ほとんどが裕福な者にのみ関係のある多くの特権のリストであることがわかるだろう。ごく少数の変わり者を除いては、EU脱退に賛成した人々は普通、語ることはない。彼らは、苦い経験を通して、お決まりの人種差別などの告発によって叫び倒されるだろうと学習したからである。けれども、もしも彼らが話そう望んだとしたら、あまりに多数の裕福な人々があまりにも明白に軽蔑する一般労働者階級の人々に課せられた大量の負担のリストを耳にできるのではないかと思う。

おそらくここで、もちろん、"脱退" に投票した人のなかには人種差別主義者や外国人嫌いがいるであろうことに注意しなればならない。同様に、"残留" に投票した人のなかには死んだ豚と性交した人々もいるだろう - イギリスの読者は、少なくとも一人の名前を挙げられるだろうと確信している *1 - しかし、それは "残留" に投票した人すべてが死んだ豚と性交したことを意味するわけではない。また、もっと重要なことは、それは死体性愛の性癖が "残留" に投票した唯一のありえる理由であることを証明するものでもない。ヘイトスピーチのよくある定義は、「侮辱的で軽蔑的なステレオタイプを、あるグループのメンバー全員を表現するために使用すること」であるとされる。この定義によれば、"脱退" に投票した人々全員を偏見に満ちたバカであると呼ぶことは、ヘイトスピーチであると言える - そして、通常の場合いち速くヘイトスピーチを非難する人々が、この場合は心の底からヘイトスピーチを楽しんでいる様子を見るのは、皮肉な喜びの源泉である。

けれども、もう少し深く見てみよう。確かに、実際、貧しい労働者階級のブリトン人で外国人移民に強烈な偏見的態度を抱いている人々もかなりの数存在する。なぜか? 大部分の理由は、裕福な人々が、何十年にもわたって、人種的な寛容を、何百万人というイギリス労働者階級の人々を貧困と悲惨のうちに陥れた無制限の移民政策と同義としてきたからである。同様にして、大多数の貧困者と労働者階級のブリトン人は、環境問題をそれほどに考慮することはできなかった。大部分の理由は、環境問題についての議論の論点は、裕福な人々のライフスタイルは決してオープンな議論の対象とならず、また環境保護のコストは社会の階梯を下る一方で、その利益は上に流れるようになっていたからである。トインビーが指摘する通り、社会が支配的少数派と内的プロレタリアートに分裂すると、大衆は、支配者のリーダーシップのみならず、支配者自らが述べる善の価値と理念をも拒否する。かなりの場合において、それらの価値と理念のなかには本当に重要なものも存在するのだが、しかしそれらがあまりにも何度も何度も特権者の政策を正当化するために使われると、大衆はもはや考慮しなくなる。

多数派は問題ではなく、この国は有権者がどう考えようともEUに留まらなければならないと主張するブリトン人は、明らかに先の木曜の選挙の結果が持つ意味を熟考していないようだ。政党への忠誠心は現在とても流動的であり、ブレグジット国民投票に賛成した52%のイギリス人有権者たちは、ほとんど躊躇なく、特権的少数派に対する同等の軽蔑をもって、UKIPを下院多数派としてナイジェル・ファラージダウニング街10番地 [首相官邸] へと送るかもしれない。もしもイギリスのエスタブリッシュメントが、労働者階級と貧困者にUKIPへの投票だけが自身の声を聞かせられる唯一の方法であると思い込ませてしまったら、それが起こるであろう。結局のところ、何も失うものを持たない人々を敵に回すのは、極めて愚かな行いである。

その一方で、非常によく似た反乱がアメリカ合衆国でも進行中であり、ドナルド・トランプがその恩恵を受けている。私が以前の記事で述べた通り、トランプの泡沫候補から共和党指名候補への劇的な進歩は、完全に、先に説明した裕福な人々のコンセンサスに反対の立場に自らを置いていることによって焚き付けられている。あらゆる許容された候補が、過去30年間のネオリベラルな経済政策とネオコンサバティブな政策 - 豊かな人々への贅沢な施し、貧しい人々への懲罰的な厳格さ、国内インフラの悪意ある無視と海外での軍事的対決の偏執狂敵な追求 - を支持していた一方で、トランプはそれらを壊し、専門家と政治家たちがより声高に彼をコキ下すほど、トランプはより多数の州で勝利し支持率は上昇している。

この時点において、トランプは賢明な行動を取っており、好機を待ち、一般投票に備え、時おり観測気球を挙げてヒラリー・クリントンに対する攻撃がどのように受け取られるかを確認している。共和党のライバルを叩きのめしたそのような全面戦争が、9月の初めごろにも開始されるのではないかと予期している。ヒラリー・クリントンは、そのような突撃に立ち向かうために適切な位置取りをしていない。それは、単に第三世界の泥棒政治においても異常なほどド派手であると見なされる規模の腐敗の告発の中で踏み止まっているからというだけではなく、また単に彼女の国務長官としてのキャリアが、そこから彼女が何ら学びを得ていない外交的災害の連鎖のために注目に値するからでもない。ヒラリー・クリントンのほとんどの経済、政治、軍事政策が、ドナルド・トランプの右側に位置しており、ジョージ・W・ブッシュ - ご存知の通り、しばらく前に民主党員が嫌悪すると主張していた男 - とほとんど区別のできない立場を提唱しているからですらない。

ノー、この11月にきわめて高い確率でトランプを勝利せしめる理由は、クリントンが自分自身に現状維持の候補者としての役割を割り当てたことにある。彼女が取ったあらゆる立場は、イギリスと同様にアメリカでも、あらゆる人々を犠牲にして豊かな人々に利益をもたらしてきた政策の継続追求に対応する。彼女の配偶者が大統領であったとき、また両方の党が、どちらがうまく満足した人々を満足させられ、既に苦しんでいる人を苦しめられるかを競争していたときには、それは安全な選択であった。トランプが現代アメリカ政治のルールブックを投げ捨て、30年以上も貧乏くじを引かされてきた人々に対して、実際に生活を向上させうる政策の変化を提供している現在では、それは安全な選択ではない。

ここで当然、それは政治家、専門家、また裕福な人々のコンセンサスについての公式認定された思想家たちが、語りたいと望むことではない。それゆえ、イギリスのEU脱退賛成派であるマジョリティに対して使われたのと同じ陰鬱なレトリックが、トランプ支持者に対しても使われている。「人種差別主義者」、「ファシスト」、「愚か者」。

これらの言葉が現在飛び交っている情熱は過小評価すべきではない。古い友人は、私がクリントンに対する熱意の欠如を口にしたところ、話の途中で電話を切ってしまった; それ以来友人とは話をしていないし、今後も話をするのかも分からない。私が知る他の人々も、今日の一般常識が許容するよりもより微妙な観点から次の選挙を議論しようとしたところ、似たような経験をしたという。アメリカの公的生活で、最も強力で最も言及不能な力 - 階級的偏見 - は、結果として生じる絶叫合戦を蔓延させている。クリントンの側に付くことは、特権者、「善い人々」、鏡の間で自身の姿に見惚れる裕福な人々のサークルと自分自身を同一視することである。トランプについて、安っぽい悪ガキじみた侮辱以外の言葉で語ること、あるいは、トランプの支持者が人種差別や単なる愚かさ以外の懸念によって動機付けられているのかもしれないと示唆することさえもが、下層民たちが集い初めている門の外へ出し抜けに投げ出されることに等しい。

鏡の間を前後にパレードする人々には、門の外には中よりも多くの人がいるなどということは思いも至らないようだ。不都合な視点を叫び倒すこと、また何かを考えることを止めさせるために侮辱の言葉を投げかけることは、既に同じ考えを持っているのではない人々を納得させるための効果的な方法ではないということにも気が付いていないようだ。もしかすると、ブレグジット投票の結果は、アメリカのお喋り階級を昏睡から目覚めさせ、彼らの望む政策によって傷付けられた人々が、ついに、他の政策は考えられないという主張への忍耐を失ったということを気付かされるかもしれない。けれども、私はそれを疑っている。

鏡の間の外では、空は暗く鳥は巣に帰っている。中にはもうロンドンの屋根に落ち着いた鳥もいる。鳥たちの多くはヨーロッパ諸国の首都の上に浮んでおり、それよりも多くがワシントンDCの大理石の円屋根と切妻壁の上を飛び交っている。鳥たちが止まれば、その影響は世界を揺さぶるだろう。

After Progress: Reason and Religion at the End of the Industrial Age (English Edition)

After Progress: Reason and Religion at the End of the Industrial Age (English Edition)

*1:訳注: デイビッド・キャメロンの政敵により、オクスフォード大学在学中、学生団体のイニシエーションとして、死んだ豚の頭部に「身体の一部」を挿入したと暴露された。ただし、確たる根拠がある話ではない。

翻訳:バーキアン保守主義に関する解説 (ジョン・マイケル・グリア)

この記事は2016年5月11日に書かれた。ジョン・マイケル・グリアによる2016年ドナルド・トランプ当選予測に関するエッセイはこちら

A Few Notes on Burkean Conservatism

最近何度か、このブログ上で現代のアメリカ政治の異常事態について議論しているとき、私は自分自身の政治哲学的な立場を表明する機会があった。それはかなりの混乱と興味を起こしたようだ。なぜならば、私が口にした用語 - 「穏健なバーキアン保守主義」は、今日の集合的言説で許容された政治的意見の狭い範囲に位置づけられないからだ。

もちろん、ここで少なからぬ混乱を引き起した原因は、「保守」という言葉がかつての意味を失なっているからだ。すなわち、何かを本当に "守り保つ" ことを望む人である。今日のアメリカでは、実際に何かを守り保ちたいと思う保守派は、実際に解放リベレート したいと思うリベラル派と同じく稀である。古い時代にかつて大きな意味を持っていた言葉は、現在ではそこから意味を吸い取られてしまっている。両側のエスタブリッシュメント政党が等しく参加した、泥棒政治的な強奪合戦をカモフラージュするために。

言葉の意味を復活させることはリスキーな提案であるかもしれない。大多数のアメリカ人は、漠然とした種々の感情が結び付けられた恣意的なノイズによって、平静を失ってしまうからだ。それは現代アメリカの生活の大部分で、冷静な思考の代用品として通用している。

けれども、そのリスクを取ることには価値があると思う。賢明なる保守主義 -つまりは、守り保つに値するものを発見し、そしてそれを実際に守り保つための行動をすること- は、アメリカ合衆国が終末の危機にある民主主義という既知の軌道を加速していく間に、未来へ向けた実行可能な戦略を提供する数少ない選択肢であるからだ。

それでは、私が上で述べた言葉のなかで最も馴染みのない部分から始めよう「バーキアン」。これはアングロ=アイリッシュの文筆家、哲学者、そして政治家であるエドムンド・バーク (1729-1797) を指している。一般的には、英米保守主義の伝統の創始者であると見なされている。非常に面白いのは、バーク自身は今日のアメリカで「保守」とラベル付けされるような人物ではなかったということだ。たとえば、彼自身は英国国教会の信徒であったものの、カトリック信仰の自由の権利を擁護した。これは当時極めて不人気な立場であった - 今日のアメリカで言えば、悪魔主義者の権利を擁護することとだいたい等しい - また、バークは自身の屋敷をイギリス旅行中のヒンズー教徒のグループに使わせた。別の場所では、彼らは自身の宗教的祭日を祝うことを拒否されたのだ。

またバークはアメリカ植民地の率直な擁護者であり、英政府の収奪的かつ懲罰的な貿易政策への救済を求めるアメリカ植民地を支持した。そして、あらゆる平和的な選択肢が潰え、植民地が反乱を起こした際にも支持を続けたのである。それでも、この男こそが、生涯の終わりへ向かう間に「フランス革命への省察」の筆を取ったのだ。それはフランス革命を痛烈な言葉で批判するもので、アングロ=アメリカの保守主義の歴史においては、現代の急進的左派の歴史においての「共産党宣言」とほぼ同じ地位を占めている。

これは、ところで、バーキアン保守主義者が、マルクス主義者がマルクスを引用するように、あるいは客観主義者がアイン・ランドを引用するようなやり方で、バークの著作を引用すると意味するわけではない。他の人類と同じく、バークも強さと弱さの、原則と実践の混合物であり、彼の時代と場所の政治文化は今日のほとんどの人が疑わしいと見なす行動を許容していた。バークが実際に何を言ったのかを知りたい読者諸君は、「フランス革命への省察」をオンラインで、あるいは、ちゃんとした古本屋であればどこでも発見できるだろう; ad hominem論法すなわち人身攻撃論法に取り組みたいと考える人は、何であれバークの伝記を読めば大量の材料を発見できるだろう。ここで私が提案したいことは、少し異なる - バークのコアとなるアイデアを取り上げ、読者の多数がすぐに認識できる枠組みの中でそれらを提示することだ。

バーキアン保守主義の根本には、人間は自分で考えているより半分も賢明ではないという認識がある。この認識による1つの含意としては、複雑な政治と歴史のリアリティを、人間が理解できるくらい単純な一連の抽象的原則へと還元可能であると主張されるとき、それは間違いであるということだ。別の含意は、歴史的経験の中から自然的に形成された統治制度ではなく、抽象的な原則をベースとした統治制度を人間が作り上げようとするとき、その結果はかなり確実に悲惨なものとなるということだ。

これらが意味するのは、代わって、社会の変化は必ずしも良いものではないということだ。ある変化は、その意図がどれほど良いものであったとしても、それが解決するはずだった問題よりも悪い帰結を生み出す場合がある。実際のところ、社会的変化があまりにもずさんなやり方で追求されたならば、その帰結は、制御不能が連鎖し、破綻状態へと国を追いやり、それを暴君の手に委ね、あるいはそれと同じくらいに望ましくない結果をもたらすことがある。更には、将来の改革者たちの視線がはっきりと抽象的な原則に固定されていればいるほど、また彼らが歴史の教訓に注意を払わないほど、一般的にその結果は破滅的なものとなるだろう。

それが、バークの考えでは、フランス革命の誤った点であった。彼の思考は、[王族や貴族の特権を擁護した] 大陸ヨーロッパの保守主義者とは大きく異なっていた。彼には、独裁的で無能な統治機構の変化を求めるフランスの人々の権利に反対する理由がなかったからである。フランス人が進まんとしていた道 - 既存の統治機構を根こそぎに破壊し、それを流行の抽象的原則に基づいた新しく輝やかしい制度で置き換えること- こそが問題なのだ。これが問題であるのは、単純に機能しなかったからである。自由、平等、博愛の理想の共和国を設立するはずであったが、国民議会によって推し進められたフルリフォームはフランスを混乱に陥れ、狂信的殺人者の集団へと国家を手渡し、次に偏執的自己愛者エゴマニア の戦争狂、その名はナポレオン・ボナパルト、の手に渡したのだ。

抽象的なベースを持つ2つの間違った考えが、フランス革命の崩壊を促し、混乱、大虐殺、暴君と全ヨーロッパ戦争へとフランスを追いやった。最初の誤った考えとは、人間の本性は完全に社会的な秩序の産物であるという確信であった。その思想がフランス革命を導いた哲学者フィロゾフ たちの間では、ほぼ普遍的な考えであった。この信念によれば、人々が天使のように振る舞わない唯一の理由は、人々が不公正な社会に住んでいるからだ。ひとたびそれが公正な社会に取り替えられたならば、あらゆる人々がフィロゾフたちの主張する道徳観念に従って振る舞うようになるだろう。このような信念を抱いていたために、国民議会は、輝かしい最新のシステムを、たとえば権勢欲や党派的な憎悪といった旧来の悪徳から保護する措置を講じなかったのである。その結果は、パリの街路での流血事態であった。

二つ目の間違った考えも、最初のものと同様の効果をもたらした。これもフィロゾフたちの間でほぼ普遍的であったのだが、歴史は必然的に彼らが望む方向へと進んでいくという確信であった: 迷信から理性へ、専制から自由へ、特権から平等へ、などなど。この信念によれば、革命が自由、平等、博愛をもたらすためにすべきことは、旧来の秩序を取り除くことだけであった - そうすれば、ご覧あれヴォワラ - 自由、平等、博愛が自動的に出現するのである。ここでもまた、ものごとはそのようには進まなかった。フィロゾフたちが歴史は未来の黄金時代へと向けて進み続けると主張し、大陸ヨーロッパの保守派は反対に歴史は過去の黄金時代から下降を続けていると主張したのだが、バークの論文は - そして歴史の根拠も - 歴史はいかなる方向性も持たないことを示唆している。

ある社会に存在する法律と制度は、バークが示すところによれば、その社会の歴史と経験を通して有機的に成長してきたものであり、その中には数多くの実践的な英知が埋め込まれている。そのような社会制度には、世界改革者の抽象的ファンタジーにはない一つの特徴がある、つまり、実際に機能すると証明されていることだ。ゆえに、法と制度の変更提案は、最初に、そのような変化の必要性を示すことから始める必要がある; 次に、そのような変更提案が解決すると主張している問題が、実際に解決されるということを示す必要がある; 3番目に、変更による利益はその費用を上回るということを示す必要がある。非常に多くの場合、これらの質問に回答していくと、既存の制度に関するいかなる問題を解決する場合であれ、最善の方法は、機能しているものが機能し続けられるように、可能な限り混乱を引き起こさないようにする選択肢であることが分かる。

つまり、バーキアン保守主義とは、単に予防原則の政治分野への適用として要約できる。

予防原則とは? 何かをする以前に、それが被害よりも利益をもたらすと理解する必要があるという常識的なルールだ。現代の工業世界ではそうではない。我々は生物圏に農薬を、大気に二酸化炭素を撒き散らし、不十分にしかテストされていない薬品を身体へ投入している。その後で、何か悪い結果が起きてから初めてその原因は何かと考え始める。それはものごとを行う方法としては完璧にバカげており、現代工業世界を廃墟へと引き倒しつつある予防可能なカタストロフィは、このような習慣からの直接的な帰結である。

その背後には、代わって、上述の間違った考えのうちの一つが存在する - 歴史は必然的に進歩の方向へと進むという概念である。イエス、それは進歩の神話だ。歴史は永遠に前へ上へと行進を続けるという、奇妙であるが恥ずべきほどに蔓延した概念である。それゆえ、何か新しいものはただ単に新しいからという理由で優れているとされる。またそれが、我々の文明は一体どこへ向かっているのか、正気の人間であればそんな未来へ行くことを望むだろうかという明白な疑問を考えることを、あまりに多数の人から遠ざけているものだ。このことは、過去の本ブログの多数の記事、また私の本『After Progress』の中でも議論した; ここでそれらに言及したのは、現在説明している私の政治的立場と、これまで私がいろいろな場所で議論してきた他のアイデアが関連しているということを示すためである。

穏健なバーキアン保守主義が実際にどのように働くのかについては、実例を通して説明したほうが簡単だろう。これを念頭に置いて、同性婚の権利を擁護するための完璧に保守的な主張 - もともとの、バーキアン的な言葉の意味においての「保守的」である、もちろん - を提示することにより、あらゆる人を怒らせてみたいと思う。

けれども、ここで最初にしばらく一時停止して、「権利」という言葉について語らなければならない。一時停止が必要であるのは、アメリカ人が「権利」という言葉を聞くと、脳が融けてドロドロの水たまりになってしまうからだ。今日では、何らかの概念空間のなかを飛ぶ無数の抽象的な権利が存在し、それらの権利はすべて絶対的で議論の余地がないものであると想定されている。そこで、「私は○○の権利を持つ!」と宣言しさえすれば、直ちにみんながそれを与えてくれるものとされる。もちろん、全員がそれに同意するわけではない。そこで、次のステップは、最近のアメリカの政治的非会話の大部分を占めるようになった、金切り声の絶叫合戦である。そこでは、権利Xの支持者と権利Yの支持者が、お互いが主張する権利を剥奪するため大声で非難し合うのである。

あなたが信仰心の篤い人で、神または神々から人間が従うべき一連のルールが授けられたと教える宗教を信じているのであれば、おそらくこのように話すことには意味があるかもしれない。なぜならば、当の神または神々の心のなかにそのような権利が存在すると信じているからだ。もしもあなたが信心深くないのであれば、そしてそのような他人が認識できない権利を持っていると主張するのであれば、次のような疑問に答えてみると面白いかもしれない: どのような形で、想定されたその権利が存在しているのか? どのようにしてあなたはその権利を「持って」いるのか?

これらあらゆる混乱が生じている原因は、そのような権利がそれ自体何らかの抽象的な存在を持つと主張しようとしていることにある。バーキアン保守主義の観点から言えば、これは完全なるナンセンスである。権利とは、バーキアンの立場からは、何らかの行動を許可するコミュニティのメンバー間の合意である。権利とはそのようなものであり、それがすべてだ。投票の権利が存在するのは、たとえば、ある国の人々が、政治的制度を通した行動を、特定の人々の集団に - たとえば、すべての成人市民 - に授与しているからだ。

もしもあなたが何らかの権利を持っておらず、そしてあなたはその権利を持つべきであると信じているならば、それは何だろうか? それは「意見を持っている」と呼ばれる。意見を持つことは何も間違っていないが、それは権利を授与するわけではない。あなたが当然持っているべきだと考える権利を得たいのであれば、あなたの仕事は、自身のコミュニティにそれを与えてくれるように説得することである。完璧な世界であれば、即座に、誤りのない方法で権利が確立されることには疑いがない。しかし、我々は完璧な世界に住んでいない。我々の住んでいる世界においては、パブリックな議論に裏付けされた、代議制民主主義と司法審査という低速で不器用なツールが、このようなタスクを遂行するために我々が生み出した方法のなかでは最も容易には悪用されにくいオプションなのだ。(注意してほしい、これは制度が悪用されないということを意味するものではない; 実際には、神権政治軍事独裁ほどには悪用されやすくないということを意味する)

それを念頭に置いて、同性婚の権利についての議論に進もう。最初に問うべき質問は、そもそも政府はこのような問題に関わるべきなのかということである。これはささいな質問ではない。立法だけがすべての問題に対する解決策なのだという考えは、回避可能であったはずの厄災を多数生み出してきた。この場合には、けれども、同性カップルの結婚を妨げているのは政府の規制によるものである。そのような規制を変えるためには政府の行動が必要とされる。

2つ目に問うべき質問は、政府が既存の状況に対して、何らかの切迫した利害 [compelling interest] を保持しているのかどうかである。歴史が示す通り、政府が人々のプライベートな生活に干渉することは極めてリスキーな行為である。一方で、それが必要とされることもあるかもしれないが、その場合には政府の干渉を正当化する切迫した利害が存在しなければならない - たとえば、児童虐待を禁じる法律の場合、切迫した利害とは、子供を暴力から保護することである。法的に責任能力のある、同意した成人同士の婚姻の決定において、そのような政府の干渉を正当化する切迫した利害は存在しない; 付け加えるなら、「ウワー、おぞましい!」[という感情または声] は切迫した利害であるとは見なされない。

3つ目に問うべき質問は、変化によって影響を受ける人々がその変化を実際に望んでいるのかどうかである。これもささいな質問ではない; 歴史には壮大なプロジェクトで溢れており、それらは何らかの人々のグループを援助する意図があったのだが、「援助」されるはずであった人々から拒否され、悲惨な結果をもたらしたものもある。この場合、けれども、結婚を望んでいながらできていない同性カップルは多数存在していた。提案された変更は、義務的なものではなく許可的なものであることに注意してほしい - つまりは、同性カップルは結婚することもできるし、結婚しないままに留まることもできる。一般的な指針として、許可的な規則は、義務的な規則に求められるレベルの配慮を必要としない。

4つ目に問うべき質問は、その変化によって誰かが害を受けるのかどうかである。ここで心に留めておくべき重要なことは、「害を受ける」とは「気分を害される」ことを意味するのではないということだ; あるいは、この場合でいえば、他人に対してあなたの望む通りの行動を取らせられないことにより、あなたが害を受けるわけではない。自由 リバティ についての永遠の難題は、他の人々はあなたの気に入らないような方法で自由を使うことは避けられないということだ。我々はその不自由に耐えなければならない、なぜならば、それが我々が自由であることの代償であるからだ。誰かが変更によって被害を受けるという主張は、ゆえに特定の、具体的な、測定可能な被害を示さなければいけない。この場合においては、その基準には当たらない。強烈な憤慨バットハート に対する名誉勲章パープルハーツ は存在しないのだ。

5番目に問うべき質問は、変更の提案が、完全に新規の権利なのか、既存の権利の大幅な拡大であるのか、それとも現状ではそれまで権利を持っていなかった人々への既存の権利の拡大のいずれなのかである。完全に新しい権利の創設は、リスキーな作業となりうる。というのは、既存の権利や制度とどのように相互作用するかを、事前に把握することが困難であるからだ。既存の権利の大幅な拡大はそれよりも危険ではないが、しかしそれでも注意して進める必要がある。現状ではそれまで権利を持っていなかった人々へ既存の権利を拡大することは、反対に、最も安全な変更となる傾向がある。それは結果がどうなるかを把握することが容易である - すべきことは、制限された適用範囲の中でどのような効果を持っているかを確認することだけである。この場合には、既存の権利を同性カップルに拡大することである、同性カップルは既存の法のもとで結婚した [異性] カップルと同等の権利と義務を持つことになる。

問題となっている権利が、現状ではそれまで権利を持っていなかった人々へ既存の権利を拡大することであるという前提のもとで、6番目の質問は、その権利はこれまでにも拡大されてきたのかどうかである。この場合、答えはイエスだ。異人種間の結婚は、かつてアメリカの多数の州で非合法であった。異人種間カップルへの結婚の権利拡大が議論されるようになると、同性婚への反対と同じ主張が使われた。しかし、それらすべての議論は、実際上は、誰かが気分を害されるということにすぎなかった。異人種間の結婚は合法化され、異なる人種のカップルの多数が結婚したけれども、反対派によって想像されていたような恐るべき事態はまったく起こらなかった。

つまり、要約すれば、他の人々が既に保持する権利を許可してほしいと望む人々の集団がいる。そのような権利の付与への反対する人々は、実際の危害を示しておらず、政府がそのような権利を付与することを妨げる切迫した利害は存在しない。同様の権利は過去にも拡大されてきたが、何ら悪い結果をもたらさなかったし、既存の婚姻法の文言に非常にシンプルな変更を加えればその権利を与えられる。これらの状況においては、権利の付与を拒否するよりも許可する理由がはるかに多く、それゆえ権利は許可されるべきである。

このような遠回りな賛成意見と反対意見の追加に腹を立てる人も間違いなくいるだろうと思う。正義、平等その他の壮大な抽象原則への確固たる肯定はどこへ行ったのか? もちろん、それがポイントだ。現実の世界においては、壮大な抽象原則は大して役に立たない。 自由リバティ に価値を置く社会においては - 注意してほしい。これは壮大な抽象原則としての自由ではなく、他者の確立された権利を侵害しない限りにおいて、人々は望むことを何でもできるという相互の合意としての自由である - 問題になるのは、誰かが不平への救済を求めたとき、そのような権利侵害を起こすことなく救済策を実現できるか否かである。上記の質問、また代議制民主主義と司法審査の制度は、これらを確実にするために存在する。それらの制度はいつもうまく行くのだろうか? もちろんそうではない; それらは単に他のどの制度よりもわずかに良い仕事をする。現実の世界では、その理由だけで十分なのだ。

そのような権利に反対する宗教的コミュニティはどうするだろうか? (ここで、政治的スペクトラムの右側にいる読者を怒らせることから、反対側の読者を怒らせるためにシフトチェンジしよう)

保守的なキリスト教徒の集団は、今日のアメリカでは宗教的なマイノリティである。そして、アメリカの法律と習慣のなかで十分に確立された規則によれば、他の人々の合意された権利を侵害することなく対応可能である場合には、合理的な配慮がなされるべきである。それはユダヤ教徒に対して、アメリカの食料品店での豚肉販売を禁止する権利を与えるものではないのと同様、保守的なキリスト教徒に対して、他の人々を保守的キリスト教の教えに従わせる権利を与えるものではない。それは、ユダヤ教徒のデリカッセンで豚肉の販売を強制されるべきではないのと同じく、保守的キリスト教徒が、罪深いとみなす活動への参加を強制されないことを意味する。

通常の場合、一般の人々にサービスを提供する企業は、適切に一般の人々にサービスを提供することが求められ、誰にサービスするかしないかを選り好みするべきではない。しかし、ここにも有効な例外があり、宗教はそのうちの一つである。私が聞いたところによると、ニューヨーク州では、正統派ユダヤ教徒の企業は、敷地内ではユダヤ教の戒律が適用されると示す看板の掲示を法的に許可されており、これは他の企業を支配する特定の法律を免除するという; したがって、たとえば、髪を隠さずにそのような店に入った女性はサービスを受けられない。保守的キリスト教徒の結婚式を行なう企業に対する合理的配慮としては、宗教的な戒律により認可された種類の結婚式にのみサービスを提供するという注意書きの看板を掲示できるようにすることが挙げられるだろう。それにより、同性愛カップルはどこか別の場所で企業を探せるようになる; またそれは同性婚の権利を支持する人々にどの企業をボイコットすればよいかを知らせ、同時に保守的キリスト教徒には支持するべき宗教的な同胞を知らせるだろう。

再び、保守的キリスト教徒の企業はそんな権利を持つべきではないと主張するために、いくつもの輝かしい抽象概念を振りかざすこともできるだろう。しかし、ここでも再び、我々は抽象概念を扱っているわけではない。少なくとも理論上は、自由に価値を置く社会において、互いに異なる信念の間で合理的な配慮を見つける必要性を扱っているのである。宗教的マイノリティが個人所有ビジネスの敷地内で信念を実践したことにより、誰かしらが傷つけられると主張するためには、再び、特定の、確実な、測定可能な被害を示す必要がある。気分を害されることはここでは理由にはならないし、他人に対してあるべきと思う行動を強制する力を否定されたことから来る苦痛が何であれ、問題にはならない。

読者諸君はお気付きかもしれないが、ここでアウトラインを示した取り決めのもとでは、同性婚の議論において、誰も自分の望むことすべてを手に入れられない。この記事で私が提案した他のことと同じくらいに不快であるかもしれないが、しかし、それがバーキアン保守主義の基礎、広く言って民主政治の基礎なのである。乱雑な、荒々しい現実政治の世界では、誰も自分が望むことすべてを手に入れられない - たとえ、どれほど声高にその権利を持っていると言い立てたとしても - 最大でも、議論のどちらの側も獲得できると予期できるのは、それぞれが最も必要としていることだけである。それは、アメリカが近年陥っているような永久的分極化の中でフリーズするのではなく、社会が機能するための一種の解決策である。またそれは、我々の目の前に迫り来る危機の時代を通して、代議制民主主義の何らかの姿を保存できるかもしれない解決策でもある。

(後略。原文には、前週に実施された『The Archdruid Report』の10周年記念企画についてのお礼と小説出版の告知があるが、訳出にあたっては省略した)

関連記事


After Progress: Reason and Religion at the End of the Industrial Age (English Edition)

After Progress: Reason and Religion at the End of the Industrial Age (English Edition)

翻訳:政治的愚かさの原因としての科学教育 (ジョン・マイケル・グリア)

この記事は2016年7月13日に書かれた。ジョン・マイケル・グリアによる2016年ドナルド・トランプ当選予測に関するエッセイはこちら

Scientific Education as a Cause of Political Stupidity

このブログ 『The Archdruid Report』の連載記事のテーマとして我々は教育について議論しているのだが、ここで考慮しなければならない教育の利点と欠点を指摘しておく必要がある。日常生活の雑事には絶望的なまでに無能な、抽象的思考で頭が満たされた学識者は、数世紀もの間文学作品のなかで笑い者になってきた。その理由は、そのような人々の実例があらゆる時代で容易に発見できるからというだけではない。

とは言うものの、ある種の教育ではよりはっきりと欠陥に焦点が当てられている。たとえば、エンジニアは、他のほとんどの専門職以上に、頭のイカれた文芸作品へ多大な貢献をなしてきた。地球空洞説、古代宇宙飛行士の妄想、プラトンが実際に述べた場所以外のほぼあらゆる場所に失われたアトランティス大陸が存在すると主張する論文 - まぁ、いくらでも続けられるだろう; エンジニアたちは、そのような分野でのド派手な作品を、印象的なほどの量で執筆してきた。無為な若年時代、私は空想的なエンターテインメントの源としてそのような本を収集していた。著者は何らかのエンジニアだと本のカバーに記されているのを見ると、私は楽しみな気分になったものだった。

シアトルで、ボーイングを退職したエンジニアが経営するマイクロフィルム会社に勤めて何年か過ごすまで、私はそれを面白い偶然の一致であると考えていた。彼はまた熱心な根本主義者クリスチャンで、"若い地球説"を信奉する創造論*1であった; 彼はかなりの量の創造論の文献を書いていたが、私が聞いた限りでは、それらの原稿のどれも手刷りのコピー以外で出版されたことはないようだった - そして、すべては極めて限定されたロジックを示していた: 地球は、神により紀元前4004年10月23日の朝9:00に創造されたと仮定すると、今日地球上で発見される物体はどのようにして説明されるだろうか?

言うなれば、彼はそれをエンジニアリング上の問題であるかのように扱ったのだ。

エンジニアたちは、機能するものを発見するように訓練される。ある問題が与えられると、エンジニアは解決策を見つけるまでその問題に取り組み続ける - それが彼らの仕事なのだ。そして、エンジニアリングの専門職には長い歴史があり、教育方法を洗練させる機会は十分にあった。そこで、エンジニアリングの訓練は、問題から解決策を発見する方法を教えることにかけては優れた仕事をする。エンジニア教育が教えないことは、どのようにして問題を問うかである。そこで、別の事例を挙げるなら、エゼキエル書はUFO目撃を扱ったものであるという仮定からスタートして、UFOの外見はどのようなものであるべきか、動力は何であるか、などを印象的なまでのディテールで証明する書籍が得られる。「しかし、そもそもそれがUFO目撃を記したものだったということは、どうすれば分かるのだろうか?」という質問は問われることはない。

最近そんなことを考えたのは、異なる特有の盲目さが、また別の教育方法に固く結び付けられているように見えたからだ。今日では尊敬されており人気のある、科学教育である - つまり、ハードサイエンスの一分野の、理論と実践におけるテクニカルな教育である。そのような教育の欠陥として私が述べたいのは、政治についてバカになるということだ。大量の事例が思いつくので、後でその他の例も簡単にいくつか言及するつもりであるけれども、ここで最初に私が取り上げたいのは、単純な模範例である。もちろん、単純な思考でもあることは言うまでもない。最近、天文学者のニール・デグラス・タイソンによって提案されたものだ。全文を引用しよう。

地球は仮想国家を必要としている: 理性国、一行の憲法: あらゆる政策は根拠エビデンス の重みにもとづくべし - Neil deGrasse Tyson(@neiltyson)2016年6月29日

これは、Twitterの140文字制限による思考力低下の性質を表すまた別の一事例として無視できるかもしれない - 陶工potter陶器pot を作るのなら、Twitterは何を作るのだろうか? *2 - タイソンが述べていないこと、「これが憲法を裏付ける原則だ。詳細は以下の通り」- があるのかもしれないが、それが彼の提案した憲法の全体である。

より正確には、それは憲法に偽装したキャッチフレーズである。現実の憲法は、それを読んだ人であれば誰もが知っている通り、どのように意思決定がなされるべきかの抽象的なスローガンなどではない。誰が決定を下すのか、意思決定者はどのように選ばれるか、意思決定者が自身の地位を乱用しないよう、いかなるチェック・アンド・バランスの機構が存在するのか、などの細部を憲法は定めている。もし、たとえばドナルド・トランプが、「我々は、正しい解答を発見する方法のみからなる科学的方法論を必要としている。」とスピーチしたとしたら、科学の初歩についてすら知らないと嘲笑されるだろう。ここでも同様の反応が適切である。

言うなれば、タイソンの提案は政治について別次元の無知を示している。政治的決定はただ根拠のみにもとづいて決められるべしとの主張は素晴しく聞こえる。それを現実政治に適用するまでは。そして、現実へ一歩踏み出すと、根拠はほとんどの場合、政治的な決定とさほど関連を持たないということが理解できるだろう。

EU脱退に関する最近のイギリスの国民投票を検討してみよう。その決定は、根拠にもとづいて下すことはできなかった。なぜならば、どちらの側も、私の知る限りでは、事実について同意していたからである。それらの事実には、イギリスは (当時の) 欧州経済共同体 [European Economic Community] に1973年に加盟したということ、その加盟によりイギリスは特定の国家主権をEU官僚へと委任したこと、そして、EUの政策はイギリスの一部の人々に利益をもたらした一方で他の人々には不利益を与えたということなどが挙げられる。それら事実のいずれも問題ではなかった。問題であったポイントは、一方では価値観であり、もう一方では利害であった。

"価値観" という言葉で私が意図しているのは、何が重要で何が重要ではないか、何が望ましく何がそうではないか、何が許容でき何ができないかなどについての、個人ないし集団による判断である。これらは単なる根拠についての質問に還元できない。「国境を越えた人々の移動は善いことであり重要である」といった言説は、どれほどの二重盲検対照試験を行なっても証明も反証もできない。ある人は何かの価値観を持ち、別の人は持っていない。「国民の自己決定権は、ブリュッセル [EU本部] の非選挙官僚による侵害から保護されなければならない」という言説のように。それらの価値観は互いに衝突した。EU脱退投票で争われ決定されたことも、大部分がそういった価値観に関連していた。

"利害" という言葉で私が意図しているのは、費用コスト利益 ベネフィットの相対的な配分である。いかなる政治的決定であれ、本当にささいな問題を除いては、利益をもたらし費用を生じさせる。非常に多くの場合、利益を得る人々と費用を負担する人は同じではない。イギリスのEU加盟が好例である。大抵の場合、裕福な人々が大部分の利益を得た - 彼らは子弟をドイツの大学へ送り、休暇中にはスペインへ国境無しの旅行へ行くことができた - 一方で、貧しい労働者は大部分の費用を支払った - 彼らは溢れ返る移民と雇用を争わなければならず、一方で低賃金諸国への産業オフショアリングを奨励するEUの政策により雇用は減少した。

少なくとも私にとって、EU脱退の国民投票を魅力的にしたのは、あまりに多数の親EU派の富裕層が、選択は純粋に価値観の問題だと主張し、一方で、貧しい労働者の利害についてのいかなる議論であれ、純粋に人種差別主義と外国人嫌い - つまり、価値観 - に動機付けられていると主張していたことである。私が過去記事で何度も述べてきた通り、工業諸国の裕福な階級は、過去40年ほどの間、貧しい労働者をバスの下へと放り投げ、そしてその上で車輪を前後に走らせ、一方でそのようなことは何もしていないと声高に主張してきた。

賃金階級は、そして仕事を見つけられさえすれば賃金を稼ぐことのできる何百万人という人々は、もっとよく理解している。たとえば、ここアメリカでは、富裕層の反響室エコーチャンバー の外にいるほとんどの人は、40年前、1人の労働者階級の収入を持つ家族が、家、自動車、その他の生活必需品を買うことができたことを記憶している。一方今日では、1人の労働者階級の収入に頼る家族は、おそらく路上で暮らしている。あらゆる政治的決定はただ価値観によってのみ決められるべきだと主張し、利害についてのオープンな議論を封じることは、富裕層の一部にとっての共通戦略であった; ブレグジット国民投票の結果は、この戦略が消費期限に近づきつつあることを示す兆候の一つである。

現実の世界 - 政治が機能すべき世界 - では、真っ先に利害が来る。あなたが、あるいは私が、利益を得るのか被害を受けるのか、一連の政府政策によって豊かになるのか貧しくなるのか、これらが政治的リアリティの根底に存在する。根拠は一定の役割を持つ: イエス、この政策は、これらの人々に利益をもたらす; ノー、これら別の人々はそのような利益を共有していない - それらは事実に関する質問であるが、しかし、そのような質問に答えたとしてもより広い問題を解決することはできない。価値観もまた一定の役割を持つ、しかし、いかなる重要な政治的決定であれ、それに影響を与える価値観は常に競合している; 自由の追求は平等の追求と対立する。正義と慈悲は反対方向へと働く、など。

政治的決定を下すためには、問題に最も関連がある事実を発見するために、根拠を比較する必要がある - ここで、「関連がある」も価値判断であり、単なる事実についての問題ではないことに注意してほしい。関連のある根拠をフレームワークとして使い、競合する価値観の間で重み付けをする - これにも同様に価値判断が絡む - そして、競合する利害の間で重み付けを行い、対立する党派間でおおむね同意できる妥協案を探す。もしもそのような妥協案が発見できなければ、民主社会においては、それを投票にかけて多数派が言うことを実行する。これが政治が行なわれる方法である; 政治的方法論とでも呼べるかもしれない。

けれども、これは科学の方法ではない。科学的方法論は、自然に関するどの言説が誤りであるかを発見してそれを破棄する方法であり、その下には、自然に関する言説のうちで真実に可能な限り接近した仮説が残されるだろうという非合理ではない仮定がある。そのプロセスに妥協の余地はない。もしも読者がラヴォアジェであったとして、燃焼のしくみを発見しようとしているのならば、こちらには酸化の理論があり、あちらにはフロギストン理論があるのだから、燃焼の半分は酸化でもう半分はフロギストンであることに合意しよう、とは言えない; どちらか一方の説を反証する実験を行い、その評決を受け入れなければならない。科学では許容されない妥協は、けれども、有能な政治の中心に位置する。

科学においては、更には、利害は理論とまったく関係がない。 (実際は - まぁ、ちょっと関係がある。) 価値観についての決定は、査読などの慣習を通して個々の科学者から科学コミュニティへと伝達される。個々の研究分野では、それにより何が良く、何が関連があり、何を重要であるとみなすかという価値判断を定め、強制する。この慣習のポイントは、科学者たちが可能な限り純粋に根拠に注目できるようにすることであり、そこで価値観や利害からの影響なしで、事実は事実として知られうる。科学研究において、事実に関する質問から可能な限り価値観と利害を排除するという精神的な慣習こそが、現代科学を人類史の中での偉大な知的アチーブメントたらしめているものであり、それは古代ギリシア人による論理の発明にも匹敵する。

古代世界の巨大な知的危機としては、代わって、論理はあらゆる人間の問題に対する解決策ではないという発見であった。科学があらゆる人類の問題を解決可能であるという主張の擁護はますます困難になっているために、同様の危機が現代世界にも迫っている。そして、タイソンのような著名人による絶叫は、単に本当のトラブルが迫っているという根拠としてのみ捉えるべきではない。タイソン自身は、一流の天文学者でさえ、初等政治科学の講義で落第点を取ってしまうような初歩的な誤りを防ぐことができないことを明白に示している。彼は、科学教育の限界を示している唯一の例ですらない; リチャード・ドーキンスは完全に聡明な生物学者である、しかし、彼が宗教について口を開くときにはいつも、大学の2年生ですら恥ずかしいまでに未熟であると感じるほどの粗野な一般化と、驚愕すべき詭弁を使っているのだ。

そのような科学の慣習があってさえ、価値観と利害にかかわる問題について、根拠ではなく、純粋に科学の社会的権威にもとづいて決定されるべきだと科学者が要求することを止められなかった。このような態度は科学コミュニティでますます一般的になりつつある。ここで私が考えているのは、遺伝子組み換え米の試験と販売に反対するグリーンピースを攻撃するため、ノーベル賞受賞者が署名した怒りに満ちたオープンレターである。これは複雑な問題であるので、後で詳しく見ていこうと思うが、しかし、そのような複雑さはオープンレターに反映されていないことが分かるだろう。その主張はシンプルである; 我々は科学者だ、お前たちはそうではない。ゆえに、お前たちは黙って我々の言う通りにすべきである。

この主張を1ステップずつ分離してみよう。最初に、遺伝子組み換え米の試験と販売を許可または禁止するという決定は、本質的に、科学的ではなく政治的な問題である。科学研究は、上述の通り、価値観や利害への言及なしに事実を事実として扱う。「もしXをすれば、Yが起こるだろう。」 - これが科学的言説である。そして、科学的言説が十分な研究と再現可能な実験に裏付けられるならば、意思決定の枠組みとして有用である。意思決定は、けれども、価値観と利害という基盤から逃れられない。「Yは善いことだ、ゆえにあなたはXをすべきだ。」は、価値判断である。「Yは私にコストを課し、あなたに利益を与える。ゆえに、私がXに同意してほしいのであれば、あなたは私に何らかの補償を与えるべきだ。」は、利害についての言説である - そして、いかなる政治的決定であれ、価値観と利害を無視すると主張するものは、役に立たないか不誠実であるかのどちらかである。

そこには、遺伝子組み換え米を取り巻く、価値観と利害についての深刻な疑問が存在する。その品種の米は、ビタミンAを生成するよう遺伝子組換えされている。ビタミンAは他品種の米には含まれていない。そしてそれゆえに、ある種の失明を防ぐだろう - これが価値観の衝突の一側面である。別の面としては、第三世界でのほとんどの種籾は、前年の収穫から得られており、種の販売業者から購入されたものではない。そしてそれゆえ、GMO米のマーケティングは、巨大な多国籍企業が、地球上で最も貧しい人々のポケットからお金を吸い上げ、工業諸国の株主を更に富ませるための更なる手段を与えるだろう。第三世界の人々がビタミンAを摂取する方法は他にも多数存在する。しかし、ノーベル賞受賞者のオープンレターでその方法は議論されていないことが分かるだろう - もちろん、オープンレターに署名した科学者の誰も、GMO米の特許を購入するための募金キャンペーンを起こしてはいないし、国連にその資金を寄付してもいない。言わば、あまりにも貧しい第三世界の農民たちが、彼らの持っていない種へ支払うためのお金を費すことなく、そのような米から利益を受けられる方法を取っていないのだ。

これらがグリーンピースその他の人々が提起した問題であった。これに対する反応は、argumentum ad auctoritatemすなわち権威論証という論理的誤謬を直接的に示すものである - 「私はこの分野の権威なのであるから、私の言うことは正しい」 - これは誤ったロジックであり、それ以上に政治的な愚行である。あなたが言ったことが実際には誤りであると判明しない限りにおいて、何回かはそのトリックを使ってごまかせるかもしれない。体制的科学は、今日ではあまりに多くの誤りを犯してきているため、その権威に頼ることは難しくなりつつある。私は、これまでの記事で、体制的科学が壁の外側から自分がどう見られているかに気付かなくなっていることを指摘した。人間の食事、医学・薬学分野における研究からマーケティングへの直接的な変換、科学者たちが誇示する安全性と有効性への約束と、ますます危険で無意味になりつつある薬品、テクノロジー、そして政治的決定との間の拡大しつつある亀裂は、一般の人々の生活に重荷を課している。

これには多数の問題が存在する、しかし最も重要なのは政治的な問題である。人々は、所与の受け入れられた事実というフレームの中で、自身の価値観と自身が知覚した利害にもとづいて政治的決定を下す。事実の提示と解釈を仕事とする人々が、彼ら自身の公平性に対して疑問を投げかけるような振る舞いをするようになると、「受け入れられた事実」はもはや受け入れられなくなる。多くの科学者を雇用している巨大多国籍企業の利害のため、科学者たちが一般の人々の価値観と利害を無視するようになったら、科学者のいかなる発言であれ、一般の人々の犠牲のうえに自身の利益を得ようとする試みとして無視されるようになるのは時間の問題でしかない。

それが、私が信じるところでは、気候変動への反対運動、広く言って環境保護活動の失敗の拡大の背後にある主要な力の一つである。最近では、タイソンのような科学者が舞台の上に上がって発言しても、それを聞いたかなり多くの割合の人々は、「ワオ、私はそれを知らなかった!」というふうに考えて反応することはない。人々は、「誰が金を出して彼にそう言わせているのだろう?」と考えるようになっている。それは、完全に不当でないとしても十分に悪いことかもしれないが、しかし、科学の多くの分野において - 特に、先に述べた通り、医学と薬学分野では - 再現性の欠如した研究が増え、露骨な研究データ改竄が暴露され、最高の科学的権威が安全で有効だとお墨付きを与えた製品がまったく逆であると判明するに従って、そのような警告は必須となっている。

正統性の危機を気候変動活動の歴史に広げた要因があるが、共通する部分を見分けるのは難しくない。15年前、人為的な気候変動を止めるための運動は、巨大な力を持っていた; 今日では、それは空手形であり、国内政治ではリップサービスしか与えられないか、完全に無視されている。大きく宣伝されているものの、実際には誰も温暖化ガス排出削減を約束しない国際協定は、不条理劇と化した。気候変動活動家によるレトリックは、大部分が既に述べた政治的に役に立たない言葉と同じである - 「我々は科学者だ。お前たちはそうではない。ゆえに黙って言われた通りにすべきである。」 - 科学者たちは正しかったし、また人為的気候変動は今現在我々の周囲で制御不能に陥りつつあるものの、そのような言葉が人々を引きつけるよりも遠ざけ、ゆえに運動の失敗を確実としたという事実を変えるものではない。

もちろん、気候変動にはより広い問題が絡んでいた。そしてそれは今日一般に見られる。利害の問題である。具体的には、人為的な気候変動を防止するための費用は、誰が負担すると予期されていただろうか? あるいは、その費用を免除されていたのは誰であったか? それは、注目に値するような類いの疑問であるとは見えないかもしれない - 少なくとも、今日の政治的メインストリームにおいて受け入れられる言説ではない。次回はそれについて話そう。

*1:訳注: 聖書に書かれた通りの期間の間に、神が地球と生物を創造したと信じる立場。 若い地球説 - Wikipedia

*2:訳注: 「twit」を辞書で引いてください。