Going Faraway

渡辺遼遠の雑記帳

翻訳:タイタニック号のどのデッキチェアをお好みで、ご夫人? (ジョン・マイケル・グリア)

この記事は2016年4月27日に書かれた。ジョン・マイケル・グリアによる2016年ドナルド・トランプ当選予測に関するエッセイはこちら

Where On The Titanic Would You Like Your Deck Chair, Ma'am?

先週、私はとあるブログで人種差別主義者として非難され、また別のブログでは社会正義戦士ソーシャルジャスティスウォーリア として酷評されるという面白い経験を得た。私の定期的な読者はご存じの通り、そのようなお楽しみは、ほぼ10年前にこのブログ『The Archdruid Report』を開始して以来、珍しいものであったわけではない。あらゆる問題について、それを考える方法はただ2つしかないという奇妙な信念は、現代アメリカ社会にはびこっている; そのような思考の習慣と矛盾し、一般常識から外れて、第三の選択肢があるという提案をすると、両方のサイドから好ましくない立場に立っているとみなされる。

もしも今週の記事が似たような反応を引き起こすとしても、私は驚かない。過去1ヶ月以上、私はアメリカ社会におけるねじれた特権の光景について、また許容された政治的スペクトラムの両サイドに好まれるレトリックが、現代のアメリカ社会に存在する特権の複雑な実情を隠蔽する方法について語ってきた。私の読者のなかにも、けれども、政治関連のテーマがこのブログの中心的テーマである広範な問題といかなる関係を持っているのかを不思議に思っている方もいるかもしれない。つまり、現代工業社会が陥りつつあるますます厳しくなる未来、特にここアメリカ合衆国で形作られる未来の姿、そして、このような終末期においてなお可能な建設的な行動の可能性である。

この週の記事では、それらの流れを元に戻してまとめ始めることを提案したい。

特権によって決定づけられるのは、結局のところ、社会のメンバーの誰が、その社会の集合的意思決定に発言権を持つのかである。たとえば、2003年、ジョージ・W・ブッシュアメリカ軍にイラク国境を越えさせ、中東を現状のカオスに陥れたとき、その決断はすべてのアメリカ人によって平等になされたわけではなかった。ブッシュ政権のインナーサークルにいたイデオローグの小集団がその決断を下し、そしてその決断は大統領によって承認印を押された。この国の政治経済的ヒエラルキーの上層部に位置する権力中枢の集合体を代表する政治家たちの大きなサークルは、その行動を支持したかまたは反対しないと選択した。

その富と影響力により政治システムに声を届ける力を与えられた数百万人のアメリカ人は、代わって、その計画に従ったか、あるいはエスタブリッシュメントが安全に無視できると既に学んだ形式的な抗議を行い、自己満足した。残りのアメリカ人、言うまでもなく、ブッシュ政権内で金切り声を上げるマチズモが課す重荷をイラクその他の場所で担うことになった人々は、この問題に関して何らの発言権を持たなかった。

これは正常である。あらゆる人間社会は例外なく、意思決定に際して一部のメンバーにその他のメンバーよりも大きな発言権を与えている。人間とはこのようなものであり、あらゆる人間社会は例外なく、合理的には不公平とも呼べるやり方で意思決定の役割を配分している。それは他のあらゆる種類の社会的霊長類にも当てはまるので、これは我々の行動のレパートリーに、いわばセックスと同じくらい徹底的に結びついている。

先に、あらゆる問題について考える方法はただ2つしかないと主張するアメリカの一般的習慣について述べた。これはまた別の事例である。左派の一般常識は、一切の不平等が存在しない社会を作ることが可能であるというのみならず義務的であるというものだ。そのような社会では、今日の裕福なアメリカ人リベラル派が持っているのと同等の特権をあらゆる人が所持するとされる。右派の一般常識は、今存在する不平等は良く、正しく、適切であり、特権を持つ人々の実際の価値を反映しているというものである。両者とも間違っているが、しかし異なる形で間違っている。

左派の信念である完璧に平等な社会の可能性、誰もが他の誰かと同等の特権を持つ社会実現への信念は、古くからの起源を持つ。中世キリスト教の異端派は、完璧なる愛が社会の分断を消去し、誰もがあらゆる生命の祝福を自由に共有する社会というアイデアを描き出した; そういった人々は優れたセンスを持っていたので、ユートピアのビジョンをキリスト再臨の向こう側に置いた。そのような社会制度にまつわる実際上の問題点を、聖なる万能者が対処してくれると頼れる時期である。キリスト教の信仰が衰えると共に、ジャン=ジャック・ルソーのような啓蒙主義思想家は古いビジョンに新しい鍵を与えたのだが、けれども彼らは洞察力を欠いていたため、完全に平等な世界という夢想を人間の本性の危険なリアリティから保護するための実際的なバリアを見つけることができなかった。

その結果、あらゆる社会的特権を廃止し誰もが平等になったと主張する一連の諸社会が生まれた。いずれの場合にも、例外なく、実際に起こったことは、明白な特権システムが破壊されると、即座に隠密の特権システムがそれを代替することであった-そして、後者は隠密であるがゆえに、チェック・アンド・バランスの対象となりにくかった。フランス革命後のテロルからカンボジア殺戮の地平キリングフィールド に至るまで、完璧に平等なユートピア社会が極めて確実に血の河へと沈む理由はこれだ。アメリカの左派は、けれども、歴史の教訓を得ていないために、ひとたび左派の裕福な末端を越えると、ロベスピエールスターリンポルポトをドライブしたのと同じ種類のユートピア的ファンタジーが即座に生まれるだろう。彼らの運命は人類史における次の偉大なるステップであると大声で主張される。

アメリカ人左派の裕福な末端においては、対照的に、歴史への盲目性は異なった形を取る。特権的なリベラルの観点からは、今日のアメリカでみんなが平等ではない唯一の理由は、邪悪な主義者イスト の陰謀によるものだ-つまり、人種差別主義者レイシイスト性差別主義者セクシストファシストその他の人たちであり、純粋な邪悪なる悪意によりアメリカ社会の非特権的集団のすべてを抑圧する人々のせいである。これは、今月の別の記事で議論したレスキュー・ゲームのロジックである; 特権とは構造的で制度的なものであるという考え方、また彼らは生活のあらゆる面において、そのプロセスで積極的役割を持たずとも利益を得ているという考え方は、彼らが認識する世界の外にある。そのように言ったとしたら、左派の人々は邪悪なイストとして非難を受けているに違いないと誤解し、怒った叫び声を上げるだろう。「ノー、ノー、我々は善人だ!」

当然、現代アメリカの左派によって夢想されている完璧に平等な社会の夢という特定の形式には、それ以外にも巨大な問題がある。その種の夢想のほとんどのバージョンでは、特権を持った者を貧しい人々のレベルにまで引きずり下ろすというものであった; 現在のアメリカ版では、既に述べた通り、あらゆる人を裕福な人々のレベルまで引き上げるという夢が抱かれている。それは寛大なビジョンではあるが、かなり無知なビジョンでもある。なぜならば、裕福なアメリカ人の生活を今日の形にした特権、特典や贅沢品をそもそも可能ならしめたものは、第一には乱暴なまでに持続不可能な速度での代替不可能な天然資源の猛烈な消費であり、第二に、歪められたグローバル経済制度により、つい最近まで、地球上の人類の5%程度でしかないアメリカ合衆国居住者がグローバル経済の産物およそ3分の1を消費していたことである。

このブログでも、また私の本の何冊かでも、我々に馴染み深いアメリカの裕福な生活は持続不可能であると、私はかなり長く議論している。(短い形式では、ケネス・ボールディングによって印象的にまとめられている: 「指数関数的な成長が有限の世界で永遠に継続できると信じる者は、狂人かエコノミストかのどちらかであろう。」) あらゆる人にそのようなライフスタイルを与えるためのコスト係数は、ヒラマヤ山脈のごとき高さに上昇している。理解できる通り、裕福なアメリカ人リベラル派はこのようなことを聞きたいと思っていない。それでも、この種の事実はまるで猫のようなものである-固く無視すればするほど、ますます足首のまわりに絡みついてきて、膝の上に飛び乗ってくる。

現存する不平等の公平性に関する右派の信念は、それよりもフレキシブルな起源を持つ。知的な流行の転換が、特権階級の人間によるレトリックをさまざまな思想の状況にわたって歪めさせてきたからである。中世で一般的な主張は、創造主が各々の人に現世でのふさわしい位置を割り当てたというものであり、特権について疑問を発することは、神の善きはからいを疑うことと同義であった。18世紀から19世紀にかけてのキリスト教信仰の崩壊により、特権の存在を正当化する者たちは新たなオプションを探さなければならなくなった; 生物学を装った人種優越理論や社会ダーウィニズムが宗教を代替した。より最近では、現代工業社会は能力主義メリトクラシー であると主張されることもある。そのような社会では、それぞれの人は、自身の能力に従って自然にあるべき地位へと引き寄せられているとされる。そのような主張も同等の疑わしい役割を果たしている。

とは言うものの、アメリカ人の右派も、その反対側のカウンターパートである左派と同じ程度に歴史の教訓を学んではいない。現代工業文明社会のどこであれ、特権の上層に達して栄えた個人や家系を追跡してみるといい。ゆっくりと煮立っているスパゲッティーソースの鍋とそれほど異ならないものしか見えないだろう。ある個人や家族が鍋の底から上昇し、しばらくの間は鍋の表層に留まり、そして深みへと沈んでいく。いかなる単一の数式でさえ、この攪拌を説明できない; 才能に基づいて特権階級の上位に登ったすべての人に対して、少なくとも一人は腕力とハッタリで同じ地位に登った人、そしてまったくのバカげた幸運で同じ地位に登った人を見つけられる - そして、同等の才能を持っていたにもかかわらず、それほど、あるいはまったく社会階層を登れなかった人も多数存在するだろう。

社会階層の降下のあり方は、上昇のあり方よりも予測しやすい。というのは、それが小説家たちのお気に入りのテーマであったからというだけではない。多数の例があるなかで、ここで私が考えているのは、トマス・マンの『ブッデンブローク家の人々』である。それは、裕福なドイツ人家族の、特権の絶頂期から没落と消滅までの過程を19世紀の間に渡って描くものである。ここから学ぶべき教訓は、特権的生活は特権の保存に繋がる習慣を発達させるものではないということだ。何世代かのうちに、才能、虚勢、また単なる幸運によりトップへと登り詰めた人々の子孫は無能で過保護となり、特権のバブルの外側で起きた普通の騒動に対処できなくなる。そして、何かがそのバブルを壊すと彼らは下へと沈んでいく。

通常の時代には、スパゲッティソースのメタファーが示す通り、特権階級のターンオーバーは相対的に定常的であり、鍋全体としては特別な波乱を引き起こすことなく進行する。けれども、メタファーを拡張するならば、歴史がソースの下部を突然加熱し、巨大な蒸気の泡が表層に表れ、ソースの上層部全体が単一のけいれん的なごった混ぜに置き換えられるような時代がある。スパゲッティソースにこれが起こった場合、通常の場合その結果はとんでもない大混乱であり、そして同じことは社会現象についても言える。

ここでは、トマス・マンの別の小説が有用なガイドになるだろう - 彼の作品の中で最も有名な『魔の山』である。並々ならぬ複層的な物語を大ざっぱにまとめるならば、この本のテーマは、第一次世界大戦直前の時代のヨーロッパ特権階級の世界である。1920年代には、そのテーマについての小説が多数執筆された。当時は、失なわれた時代の記憶はまだ痛みを伴うほどに生々しいものであったのだ。しかし、マンは型破りな方法で自分の物語を語ったのである。彼が選んだ大戦以前の人生の断面は、半分はメタファーとしてもう半分は世界の縮図 マイクロコスムとして、スイスのアルプスにある結核サナトリウムであった。

効果的な治療法が開発される以前、結核は貧者にとっての死刑宣告であった。生活のために働く必要がない人々は、けれども、山岳地帯のサナトリウムで治癒を待つことができた。清浄で乾燥した山の空気が、患者の免疫系に対して感染に打ち勝つための力を与えるからだ。そこでは、会話とロマンス以外には何も気を逸らされることもなく、患者たちは秩序立った生活の狭いサークルの周囲を回る。魔の山のふもと、ヨーロッパの過密した平原では、事件が起こり爆発へと向けた圧力が高まっていた。けれども、無気力な視点のキャラクター、ハンス・カストルプとその他の患者たち、ロドヴィーコ・セテンブリーニ、クラウディア・ショーシャその他の人々は、その爆発が到来し、忘我状態を揺り起こされるまで当てもなくさまよう。そして、カストルプは魔の山を下りて第一次世界大戦の殺戮の地平へと投げ出される、あるいは自身を投げうつのである。

その読書経験は素晴しいものであるため、-今日では一般的ではないものの- 長く、思索に満ち、とてもアイロニックな小説を読む忍耐力を持つ人には読むことを進めたい。歴史は、マンにエレガントな賛辞を与えている。というのは、マンの小説の中でベルグホーフ国際サナトリウムが位置していたスイスの町は、昨今では裕福な人々がそれと少しだけ異なった集まりを開いていることで有名であるからだ。イエス、そこはダボスと呼ばれている。そこでは、世界の指導者を自称する人々が毎年集まって、有力者、扇動者、体制派知識人によるスピーチを聞き、その年の流行りの問題についての仰々しい声明の焼き直しを発表する。過去数回のダボス会議の写真を見てみれば、集団のなかに、カメラに向かってしかめっ面でまばたきするハンス・カストルプの姿を発見できるだろうと私は確信している。

カストルプの漠然とした無知は、確実に、今日広く見られる。それは何もダボスに限らない。過去の記事で、私はそのような無知に関する非常に多くの側面について議論してきた。しかし、ここで関連があるのは、アメリカ社会の階層を登った人々が、彼ら自身の持つ特権を理解する方法である。多かれ少なかれ、既に述べた通り、左側の末端にいる裕福な人々は、自身はいかなる特権も持っていないと考えている。一方で、右側の末端にいるカウンターパートの人々は、自身の特権は自分の才能、知性、などを直接的に反映していると考えている。

ここでも、現実は少しだけ異なる。アメリカの裕福な階級が、既に述べた通り、特権、利益、そして快適さを得ているのは、2つの理由による。最初は、世界の工業社会が、裕福な人間のライフスタイルを支えるために必要となる商品とサービスを大量生産するために、持続不可能な速度で代替不可能な天然資源を消費していることである。2つ目は、乱暴なまでに偏った交換パターンにより、環境破壊の乱痴気騒ぎから得られる利益の大部分を、我々の種のごく一部に集中させていることである。もしも読者が "上位1%" について話したいのであれば、そうしても構わない。ただしそれがグローバルに適用される限りは: つまり、ホモ・サピエンスの収入の上位1%である。分からない方のために書いておくと、もしも読者がアメリカに住んでおり、年間の家計収入が38,000ドル程度を越えているならば、あなたはその上位1%のカテゴリに属する。

これが我らが時代の魔の山である - そこに暮らす人々が、自分は特権的であるということを知らないか、あるいは自分が所有するものが何であれそれは当然であると信じこみ、同じものを持たない人々はそれに値しないと信じ込んだ特権の山である。魔の山を下ると、世界のその他の場所では、事件が起こり爆発へ向けた圧力が高まっている。けれども、高みにいる人々のほとんどはそれに気付いていない。彼らの人生に何かしら普通ではないことが起きつつあるとはまったく思いもよらない。いわんや、何らかの突然の出来事により山から投げだ出され、ほとんどの人がまったく準備できていないカオス的な未来に投げ込まれるとは想像もできない。

彼らに見えていないことは、要するに、自身の生活を支える2つの土台 - つまり、有限の天然資源の猛烈な開発と、ごく少数の手へ過大な取り分を集約するアレンジメント - が、現在厳しい限界に達しようとしていることだ。この先の投稿で、それがどのように進んでいくかをより詳細に取り上げたいと思う。今のところは、これが先月議論してきた特権の構造にとっていかなる意味を持つのかについて話したい。

それでは、2つの土台を一度に取り上げよう。世界の他の国々を搾取して成り立っている国は、自身の力により成立している国とは非常に異なる経済構造を持つ。後者においては、経済は一方では生産的な労働、他方では投資によって支配される傾向があり、またカール・マルクスが好んで語っていたような類いの対立 - 私のこれまでのエッセイで使ってきた分析の用語を使えば、賃金階級と投資階級の対立 -が、社会における富と特権の分配を定める。前者においては、対照的に、商品とサービスの生産を他国へとオフショアし、産業への資本を提供するためには国内貯蓄よりもグローバルな搾取の利益を利用することが経済的により大きな意味を持つ。したがって、賃金階級と投資階級の両方が苦しむ一方で、給与階級 - マネージャー、マーケター、銀行家、官僚、企業の従僕など、他者によって生み出された富の操作によって生計を立てるあらゆる専門職の階級 - が、かつてないほどに栄える。

国内生産にフォーカスした経済からグローバルな搾取にフォーカスした経済への移行は、かなりの時間を要する。アメリカ合衆国の場合、1898年のアメリカ帝国拡張の最初の波動から1980年代のグローバリゼーションの一時的勝利まで、100年を要した。けれども、反対方向への変化は、それよりもかなり速く発生する。というのは、ヘゲモニーの喪失においては、一般的には平和のうちにゆっくりと腐敗することを許されず、新興勢力によって脇へと押しやられるから。ソビエト連邦崩壊の影響が、ここでは優れたワーキングモデルとなる: ソビエト制度が内破すると、急遽ロシアは東欧ブロックから受け取っていた多量の上納金なしでやらなければならなくなった。そしてその後の10年間のほとんど素の経済的カオスが続き、ロシアは自身のニーズを国内で見たすための仕事に苦心しなければならなくなった。言っておかなければならないだろうが、ソビエトロシアは今日のアメリカよりもはるかに輸入依存度が低かった。だから、ソビエト崩壊後の経験は、我々の未来の上限として捉えるべきである。

もう1つの土台も同様の意味を持つ。天然資源の猛烈な速度での消費をベースとした経済は、直接的または間接的に資源の流れをコントロールする人々の手に影響力を集中させる傾向がある。今日のアメリカにおいては、もう一度言っておくと、これらの人々は、不均衡に、給与階級のメンバーである傾向がある。天然資源の保護をベースとする経済においては、土地といった持続可能な資源を所有する人々、あるいはそれらの資源を使って直接的に労働する人々に影響力を集中させる傾向がある; 再び、そのような社会においては、所有者と労働者の対立が富と特権の分配を定める。保守的経済から消費経済への移行にはかなりの時間を要する。アメリカの場合では、ほぼ200年を要した - 一方で、反対方向への移行は、ここでもまた、資源が不足するとかなりの速さで進む。

このコンテキストにおいて、ついに、今年のアメリカ大統領選挙を形成する上で非常に劇的な役割を果した賃金階級の予想外の反乱を理解することができる。ヒラリー・クリントンは、既に忘れ去られた共和党の同等者と同じく、完璧な給与階級の候補者であった; 彼女は特権階級のために話しており、彼女のキャンペーン全体が、もし彼女をペンシルベニア通り1600番地 [ホワイトハウス] に送るならば、重大な変化が起こることをまったく心配する必要がないのだ、と特権階級にメッセージを送るためのキャッチフレーズから構成されていた。ドナルド・トランプは、そしてある程度はバーニー・サンダースも、代わりに賃金階級にアピールしている。私は、どちらの候補者もここまでの結果を得られるとは期待していなかったのではないかと思うが、けれども、両者ともその波が続く限りは、大衆の不満の波に乗り続けることを完璧に望んでいるように見える - そして、トランプの場合は、その波が秋にホワイトハウスまで彼を直線的に運んでいく可能性が高いように見える。

言うなれば、裕福な人々のチャンピオンを決める通常通りのコンテストであったものが、突如として非常に異なる形を取ったのである。メタファーを少しだけ変えるならば、裕福な人々は自分たちの権力闘争が、沈みゆくタイタニック号の上でのデッキチェアの配置をめぐる口論とそれほど変わらないと気付き始めている。賃金階級の反乱は、今日の社会における権力と特権の構造が既にシフトし始めていることを示している。これから2週間後に、その変化がどのように進んでいくかと、それをドライブする要因が何であるかについて見ていこう。

(後略。元記事では、『The Archdruid Report』の10周年記念企画の予告があったが、訳出にあたっては省略した。)

魔の山(上) (新潮文庫)

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翻訳:特権ゲームをスターホークする (ジョン・マイケル・グリア)

この記事は2016年4月20日に書かれた。ジョン・マイケル・グリアによる2016年ドナルド・トランプ当選予測に関するエッセイはこちら

Starhawking the Privilege Game

このブログ『The Archdruid Report』の前回2回の記事では、アメリカの階級システムとそれを維持する機能不全の物語にフォーカスしたのだが、読者たちからイラ立った反応を引き起こした。私が議論していたテーマは、かなりの不快感を起こすだろうと予期していた; 私が予期していなかったのは、かなりの長文で、私へのコメントやメールで、何か別のことを話すようにというお願いがあったことだった。

不愉快なテーマについての直接的な話は、10年前控え目に最初の記事を投稿して以来このブログのメインコンテンツであったので、私はブログの読者が不快に感じたときの反応についていくらかの経験がある。通常、私がホットな話題に触れると、その話題を不快に感じる読者たちは、私がそのテーマにまったく言及しなったかのように振る舞うのだ。特にここで私が考えているのは、唯一の例ではないのだが、インターネットの未来はインターネットがそれ自体の費用を賄えるかどうかにかかっており、技術的な実行可能性フィジビリティによるものではないと書いたときのことである。私がこれを書いたときには毎回、インターネットの技術的フィジビリティについて延々とコメントを受けるのだが、それは、我々が作り上げつつある資源減耗と環境破壊の未来において、インターネットが自身のランニングコストをカバーすることが経済的に不可能である理由の議論を回避するための方法である。

そのような回避策を誘引するテーマは、インターネットの未来に関する厳しい疑問だけではないことに注意してほしい。私の記事の何らかのトピックが我らが時代の一般常識と矛盾する場合には、そのようなことが起こると予想できるようになった。過去2件の私の記事にはそれとは異なる反応が起きたので、非常に興味深く感じた。階級的特権についての率直な議論によって不快感を感じた人々が、そのようなショッキングなテーマが一切取り上げられなかったかのように振る舞おうとするのではなく、実際に不快と感じたことを認めたという事実は、思うに、我々が何らかの重大な歴史的変曲点に近付きつつあることを示しているのかもしれない。

注意してほしい。階級的特権についての率直な議論は、私のブログのような周縁的な領域の外側では未だ強く回避されている。ここで私が考えているのは、もちろん、今現在、ドナルド・トランプが階級問題を直接的に議論していることについて、裕福なリベラル派がトランプと彼の支持者は人種差別意識によってのみ動機付けられているに違いないと絶叫して反応していることである。それは、部分的には、リベラル派の標準的なレトリックである - 以前、私は「差別主義者」という言葉が、特権的な人々によって発せられるとき、普通は「賃金階級」の犬笛として機能すると述べた - しかし、それはこの国のあらゆる人を代償にして裕福な人々が利益を受けてきた政策についての議論を封じるための試みでもある。

現在の異教復興ネオペイガンコミュニティの一部では、そのような議論を回避する方法には有用な呼び名がある: 「スターホークすること [Starhawking]」である。アメリカの小さなマイノリティ宗教コミュニティの行動に興味が持てない読者にお詫びを申し上げつつ、そのラベルの裏にある物語を解説したいと思う。よくある通り、小さな事例はものごとを明らかにするために役に立つ。縮小された規模の社会的ミクロコスムにおいては、大きな規模の社会を一目見ただけでは見るのが難しいパターンを観察することが容易になるのだ。

ネオペイガンのシーンに触れたことのない人々は知らないかもしれないが、ネオペイガニズムは1つの宗教ではなく、あるいは密接に関連した複数の宗教のグループですらない。実際には、完全に雑多な信念の寄せ集めであり、その中には神道キリスト教ほどに共通点のない信仰すら存在する。それらの信仰が共通のサブカルチャーのもとに連合しているのは、信念や儀式を共有しているからではなく、ひとえにアメリカ社会の宗教的・文化的なメインストリームから排除された歴史を共有しているからだ。今日では、アメリカのネオペイガンの半分かそこらは、何かしらの折衷的ペイガニズム [ecletic Paganism] に参加している。それは1970年代後半から1980年代前半にかけて、旧来のイギリスの伝統的魔術をもとにして生じたものである。残りのほとんどは、大きく2つのカテゴリのどちらかに属する。一つは、旧来の秘教的伝統、たとえばたった今述べたイギリスの伝統魔術のようなものから構成されており、もう一方は近年になって復興された多神教的な信念、さまざまな歴史的パンテオン - ノルド、ギリシア、エジプト、などの神々や女神を崇拝するものから成る。

ネオペイガンシーンの包括性について語ることはたくさんあるだろうが、しかし、アメリカの小サブカルチャーについて知識のある読者諸君は、これが意味することは、折衷的ペイガニズムがほぼあらゆる場所でのデフォルトの選択肢であり、その他の伝統に由来する人々は、折衷的ペイガニズムが定義する観点から、マジョリティである折衷的ペイガニズムの感性を攻撃しない限りにおいて、ネオペイガニズムシーンへの存在と参加を受け入れられるということはすぐに理解できるだろう。さまざまな理由により、その理由のほとんどはもう1つの私のブログに相応しいテーマかもしれないが *1、最近では、そのような折衷的ペイガニズムの感性は、より容易に攻撃されるようになったようである。そして、マイノリティの伝統に由来する人々はさまざまな形で反応した。その中には単にネオペイガンのシーンから立ち去った人々もいるし、別の人々は、色々なフォーラムで、「ウィッカ化特権 [Wiccanate privilege]」というぎこちない名前を付けられた事象についての議論を始めようと試みている。

2014年にサンフランシスコ地域で開かれた大規模なネオペイガンのイベントで、そのような議論が行なわれているときに、スターホークが遅れて登場したという。彼女のことを知らない人のために説明しておくと、スターホークはアメリカのネオペイガンシーンの数少ない本当の著名人であり、『ザ・スパイラル・ダンス』の著者である。この本は、基本的に折衷的ペイガニズムを創始した2冊のうちの1冊であり - もう1冊は、マーゴット・アドラーの『ドローイング・ダウン・ザ・ムーン』- また、彼女は政治的スペクトラムの左側末端に位置する著名な政治活動家でもある。イベントに参加した私の知人によると、彼女は、特権についての議論は行なわれるべきではない、なぜならあらゆるペイガンは地球を救うために団結しなければならないからだ、と主張したという。

注意してほしい。そのイベントでは、地球を救うこととは何の関係もない議論が他にも多数行なわれていた。彼女も、それ以外の誰も、そのような議論を封じなければならないとは感じていなかったようだ-ただ、特権に関する議論だけが対象となった。それがスターホークすること [Starhawking] である: 何かしら別の問題がもっと重要なのだから、講演者の特権を論じるべきではないと主張するレトリック上の戦術である。スターホークに公平を喫するなら、彼女がそれを発明したわけではない; スターホーキングはアメリカの現代の言説に蔓延している。非常に頻繁に、それはネオペイガンシーンよりもはるかに高い利害を持つコンテキストでも見られる。

マデリーン・オルブライトの、あらゆる女性はヒラリー・クリントンに投票するかさもなければ地獄で釜揚げにされるべきであるという最近の主張も、まったく同じロジックから生じている。この場合の問題Aとは、いわゆる「ガラスの天井」、つまり特権階級内の女性を富と権力の最上位から排除する慣習であり、この場合の問題Bは、ヒラリー・クリントンホワイトハウスに送ることは、単にアメリカの階級構造の上層部に属する女性のみに利益を与えるだけであるという事実である。というのは、クリントンが政治生活の全体を通して支持してきた政策は、アメリカ人女性の大多数のマジョリティを貧困化し悲惨化してきたものであるからだ。つまりは、賃金階級と給与階級の下位半分かそこらに属する人々である。

スターホーキングが富裕階級の左端から発せられた場合、ほとんど常に別の種類のバイアスという形でフレームされる - 人種差別、性差別、など - それは、先週の記事で説明した方向性に沿って述べるなら、ある非特権的集団の苦しみは、また別の非特権的集団に責任があると非難するために使用される。スターホーキングが政治的スペクトラムの逆側 [いわゆる右派または保守派] から発せられるとき、もちろんこれはいつも起こっていることなのだが、他の問題が特権についての議論を封じるために使われる; 彼らのお気に入りの問題としては犯罪、キリスト教の道徳神学、公的扶助に頼る人々の怠惰さと強欲さなどである。言い訳は異なるものの、レトリック上の細工は同じである。

そのような細工を有効なものとしている理由の一つとして、問題Aのさまざまな候補について語られるときに使われる言葉の本質的なあいまいさが挙げられる。「犯罪」という言葉を例に取れば、これは誰もが反対することに合意する、素晴しくあいまいな抽象概念である。一方で、ひとたびそのような合意が得られると、捉えどころのない抽象概念の領域から、極めて疑わしい特定の意味領域へと移動する - 関連する例を挙げるなら、「犯罪に厳しい」ことを誇る政治家の誰も、ウォールストリートの窃盗犯を逮捕することに興味を示していない。[金融危機による] 1兆ドル規模の詐欺は、都心の寂れた路上でのいかなる強盗よりも巨大な被害を国に与えてきたにもかかわらずである。

同様に、「人種差別」や「性差別」といった言葉も、極めて大きなあいまいさが組み込まれた抽象概念である。そのようなラベルには、少なくとも3つの概念が混合されている。アメリカ社会の不平等性の複雑な光景をクリアに見られるように、私はしばらくそれらの概念を解きほぐしたいと思う。

これらの多義語から私が引き出したいと思うのは、特権 [privilege]、偏見 [prejudice]、および不正な行い [acts of injustice] である。最後の言葉から始めよう。たとえば、アメリカの警察はいつも、白人のティーンエージャーが行なっても罰せられないような行動をした黒人ティーンエージャーを銃で襲撃している。今日、アメリカで雇用される女性は、平均すると、男性がまったく同一の仕事をした場合に得られると期待される給料のおよそ4分の3しか得られない。互いに愛し合い結婚を望む2人は、もしも2人が同じ性別であった場合には、異なる性別であった場合には遭遇しないような困難に直面する。これらは "不正な行い"である。

偏見 [prejudice] は、行動というよりは態度の問題である。この言葉は、字義的には事前の判断 [pre-judgements] を意味し、ある人々や状況に実際に遭遇するよりも前に下されるあらゆる判断を指す。あらゆる人が偏見を持っており、あらゆる文化は偏見を教えるが、しかしある人はより偏見が強い - より強く自身の事前判断にコミットしており、矛盾する根拠に出会ったとしても偏見を再検討したがらない - そして、偏見が少ない人もいる。不正な行いは通常、偏見によって動機付けられており、また偏見は非常に頻繁に不正な行いの結果であるのだが、しかしこのどちらの等式も厳密に成立するわけではない。極端に強い偏見を持っているものの、不正な行いを拒否する人々を私は知っている。それは何らかの別の信念やコミットメントがそれを禁じているからである; また私は、[偏見なしに]繰り返し不正な行いに手を染める人々も知っている。彼らは単に命令に従っているだけだったり、友人と同じことをしているだけであったり、またはいずれにせよものごとをまったく気にかけていないだけであったりする。

そして、特権 [privilege] がある。偏見と不正な行いが個人的なものである一方で、特権は集合的である; あなたは特権を持っているかもしれないし、持っていないかもしれないが、それはあなたがあるカテゴリに属しているからであり、あなたが何をしたか、何をしなかったかによらない。ここでは私自身を例として用いよう。私は、警察からの嫌がらせを受けることなく、住んでいる町の裕福な地域を歩くことができる; 黒人の人々はそのような特権を持っていない。私は、このような論争的なエッセイを、インターネットの荒らしからの強姦や殺人の脅しを受けることなく公開できる; 女性はそのような特権を持っていない。私は、通りすがりの車の窓からどこかのバカに侮辱の言葉を投げかけられることなく、公共の場で配偶者にキスできる; ゲイの人々はそのような特権を持っていない。

次の10件の記事を、私が保持する同様の特権についてのリストで埋められるかもしれないし、そうしたとしても事例の枯渇に近づくことすらないだろう。重要なのは、けれども、私の特権的な状況が、何らかの特定の理由によって私に割り当てられているわけではないと認識することである。それは、私が白人、男性、異性愛者だからでも、あるいは給与階級の下端の家族で育ったからでも、健康な身体で埋まれてきたからでも、その他いかなる理由によるものでもない; これらすべてが、そして更に多くのことが一緒になって、特権のヒエラルキーの中で私を今の場所に割り当てている。私の場所をあなたから区別するもの、そしてあなたの場所を他のみんなから区別するものは、特権の階梯上のあらゆる場所が、そこより上にいる多数の人と下にいる多数の人の間に異なる割り当てをしているからである。たとえば、今日のアメリカでは私より大きな特権を持っている人がいるが、しかしそれよりもはるかに、はるかに小さな特権しか持たない人々も膨大な数に上る。

また、私は今持つ特権を得るために何もする必要がなかったし、私はその特権を捨てることもできないことに注意してほしい。給与階級のバックグラウンドのある白人異性愛者男性として、そしてその他について、私は生まれた瞬間からほぼすべての私が持つ特権を割り当てられた。そして私が何をしても何をしなかったとしても、それらの大部分は私が死ぬまで続くだろう。それはあなたにとっても当てはまる、読者諸君、また他のあらゆる人にも: 長い特権の階梯の中であなたがどの位置を占めていたとしても、それは単純に生まれつきのものである。ゆえに、あなたはどんなレベルであれ特権を持っている事実に対して責任を負わない - けれども、当然、それを用いて何を選択するかということには責任がある。

結局のところ、あなたは自分自身が特権に値し、あなたの特権を共有していない人々はその人々自身の劣った地位に相応しいと信じ込むこともできる - 言うなれば、あなたは偏見を持つことを選択できる。あなたは、自分自身の特権を活用して、特権を持たない人々に犠牲を強いて搾取することもできる - 言うなれば、あなたは不正な行いに手を染めることができる。大きな特権を持てば持つほど、偏見が他の人々の人生に与える影響が大きければ大きいほど、不正な行いはより強力になる。ゆえに、弱者の代弁者たちが指摘する通り、特権者の偏見と不正義は、非特権者のそれらよりもより重要な問題であるということは極めて正しい。

その一方で、特権が自動的に偏見や不正な行いに結び付くわけではない。特権者 - 既に述べた通り、自身の特権を選択したわけでもなく、それを取り除くこともできない- が、そのような方法で自分の特権を利用することを拒否することは十分にありうることである。更には、昨今ではとてつもなく時代遅れな概念であるものの、そのような人々がノブレス・オブリージュという古くからの原則を採用することもありうる: これはよりオープンに特権が認識されていた時代には広く受け入れられていた (しかし、必ずしもその通り行動されることは少なかったのだが) 概念であり、生まれつき特権を持つ者は、それより低い地位にある人々への一定の責任も受け継いでいるとされていた。特権を持つ人たちが、何らの豪華な見返りがなくともノブレス・オブリージュを行なうということさえありうるかもしれないと私は思う。しかし、今のアメリカ文化の現状を考えると、それは若干の高望みかもしれない。

今日では、けれども、ほとんどの給与階級バックグラウンドを持つ白人の異性愛者男性は、自分自身を特権的だと考えていないだろうし、先に私が挙げたことが特権であるとは見なしていないだろう。これが今日の社会における特権の最も重要な点である。特権を持つ者には、特権は眼に見えない。それは単に個人の無知、あるいは特権の低い人々から分離していることによるものではない。しかし、当然これらも影響を与えているのだが。それは文化化の問題である。マスメディアとアメリカ文化のメインストリームのあらゆる他の側面が、定期的に、特権的な人々の経験は普通であるかのように示しており、またそれと同じくらい定期的に、そのような経験から少しでも外れた経験を、完全に予測可能なフィルタで隠蔽してしまう。

最初に、当然、非特権者の経験は消去される-「そんなことは実際には起こらない。」それが失敗すると、問題は重要ではないとして無視される - 「まぁ、そういうこともあるんだろう。でも大したことではない。」それに対処しなければならない人々にとっては重大な問題であるということが明らかになると、問題は時おりの異常事態であるとして扱われる - 「1つや2つの悪い事例を一般化することはできない。」それもダメになると、最終的には、非特権者の経験により非特権者自身を非難する - 「ヤツらがそんなふうに扱われるのは、ヤツら自身の行いのせいだ。」

面白いのは、現代アメリカにおける特権の不可視化は、他の人類社会の多くでは共有されていないということだ。多数の文化では、過去であれ現在であれ、特権はオープンに存在し、法律へ書き込まれて、特権者・非特権者の両方からオープンに議論されている。アメリカ合衆国も1950年代ごろまでは同様であった。それは、当時ジム・クロウ法が黒人アメリカ人を公式に二級市民の地位に割り当てていたからでも、また多数の州法で女性のさまざまな法的・経済的な権利が制限されていたからでもない; あらゆるメディアと大衆文化のなかでもそうだったのだ。日刊新聞を開けば、社会面にはエリートに属する人とそうでない人々の特権の差異についての記事が大量に掲載されていた。

けれども、60年代の文化的なけいれんに端を発する複雑な一連の理由によって、特権についての率直な会話は20世紀後半にわたってアメリカでは社会的に受け入れられないものとなった。もちろん、それが特権を消し去ったわけではない。確かに、特定の公的な特権の表現、たとえば先に述べたジム・クロウ法など、が破棄され、そのプロセスを通してある種の本当の不正義が修正されてきた。その欠点としては、アメリカ社会における特権の真の不公平さが、前述のフィルタを通して繰り返し除去されるダブルトーク文化の勃興である。そのような不公平性の最も重要な原因の一つ - 階級の差異 - が、我らが時代の集合的会話から完全に取り除かれていることである。

スターホーキングの習慣は、特権、特に階級的特権についてのオープンな議論を視界から遠ざけるための主要なレトリック上のツールの一つである。極左から極右に至るまでの政治的スペクトラムの全面において、スターホーキングは等しく使われている。裕福なリベラル派が、地球を救う仕事を進めるためにはみんなが特権を無視しなければならないと主張する場合であれ、裕福な保守派がキリスト教の基盤へとアメリカを立ち帰らせるためにみんなが特権を無視しなければならないと主張する場合であれ、あるいは - これはますます標準線となりつつあるのだが - 左右両サイドの裕福な人々が、他サイドの邪悪な人々と戦うことが唯一の重要な問題であるためにみんなが特権を無視しなければならないと主張する場合であれ、実際上、これらすべての言葉が意味しているのは「俺の特権については話してくれるな。」ということである。

この種の回避策は、私が今年始めに階級的特権を取り巻く問題についての話を始めたときに、読者からの反応として予期していたものであった。確かに私はある程度そのような反応を受けたのだが、既に述べた通り、そのような議論が不快でると感じたことを認めた人々からの、議論を止めてほしいというコメントも受け取った。これが意味することは、今日のアメリカの特権、特に階級的特権についてのオープンな議論を締め出す否定とダブルトークの壁が、ついに壊れ始めたということだ。確かに、『The Archdruid Report』はアメリカ社会の文化的周縁フリンジにいるかもしれないが、けれども非常にしばしばある通り、メインストリームが耳を傾けるよりも前にフリンジが重大な社会変革の兆候を示すことがある。

もしも、特権一般についての会話、特に階級的特権についての会話の抑圧が崩壊プロセスにあるとしても、それはすぐには終わらない。アメリカ合衆国はちょうどまさに劇的な変化の潮流に踏み込んだところであり、現在の特権のパターンは、その潮流が激突したとしてもしばらくは残ると考えられる多くのもののうちの一つである。次はそれについて語ろう。

*1:訳注: グリアは、文明批評と時事評論を扱うこのブログ『The Archdruid Report』の他に、神秘主義思想について論じるブログ『The Well of Galabes』を持っていた。2つのブログは2017年に閉鎖され、新しいブログに統合された。

翻訳:ふつうの政治の終わり (ジョン・マイケル・グリア)

この記事は2016年4月6日に書かれた。グリアは毎週水曜にブログ記事を投稿しているが、2016年3月は記事投稿を休止しており、2016年4月6日にこの記事で週次の定期投稿を再開した。ジョン・マイケル・グリアによる2016年ドナルド・トランプ当選予測に関するエッセイはこちら

The End of Ordinary Politics

ドルイドも休暇を取るけれども政治は眠らないので、このブログ『The Archdruid Report』の最後の投稿以来の一ヶ月の間、このブログのプロジェクトに関連のあるたくさんのものごとが、アメリカ政治シーンに注意を払っている人々の眼の前を通過していった。今後数週間で他のいくつかも取り上げたいと思う; 私の注意を最も強く引いたのは、読者はおそらく理解できるだろうと思うが、数ヶ月前に私が書いた記事『ドナルド・トランプと憤怒の政治』というタイトルの記事に対する反応である。

論争的なテーマについての私の記事が他のブログに取り上げられ、かなりの量の議論とコメントを引き付けることは珍しいわけではない。一方で、このブログ『The Archdruid Report』の歴史の中で最も読まれた記事になるまでに一週間もかからず、次点の記事の倍以上ものページビューを集め、過去記事で最もコメントされた記事の2倍近くのコメントを集めるとしたら、何かしら尋常ではないことが起きたと言えるだろう。続きの記事、『ヒラリー・クリントンの大転落』は、即座にこのブログの過去記事のうちで2番目に読まれた記事となり、それ以上のコメントを集めた-まぁ、ここでももう一度言えば、私はこの上なくセンシティブな議題に触れたということはかなり明白であるように見える。

こちらも偶然ではないかもしれないが、最初の記事を公開してから1週間程度経って、関連のある2つのできごとがマスメディアを通して浸透を始めていった。最初は、私には最も見込みが高いと思えるのだが、若干のジャーナリストが一般的な粗野なステレオタイプを何とか乗り越えて、あれほど多くの有権者たちが今年ドナルド・トランプの野心を支持すると決断した実際の理由について議論を始めていることだ。私が見て驚いたのは、同じ方向を向いたウォール・ストリート・ジャーナルの記事とペギー・ヌーマンによる思慮深い記事であり、更に驚いたのは類似の点を指摘する記事が他のメディアでも見られたことだ。これが例である別の例はこちら

注意してほしい。私が眼にしたこれらの記事のどれ一つとして、あまりに多数の賃金階級のアメリカ人を、未来へ残された最後の希望をドナルド・トランプへと託さざるをえない状況へと追い込んだ素の現実を捉えられていない。ヌーマンの記事でさえ、ほとんどの記事よりも優れており我々が後で検証するつもりの重要なポイントを捉えているのだが、十分ではない。彼女の分析によれば、問題は、アメリカ人の特権的な下位集団は過去数十年間の公共政策の影響から保護されてきた一方で、それ以外の人々はそのような贅沢を受けていないことだという。これはもちろん正しいのだが、しかしこれはものごとを過少申告している。彼女が語る階級 - 私の記事で提案した用語を使うなら、給与階級の裕福な半分以上の人々- は、単に他のアメリカ人を襲ったトラブルから保護されていただけではない。彼らは、賃金階級の多数を貧困と悲惨に陥れた政策から、直接的にであれ間接的にであれ利益を得てきたのである。そのような厄介なディテールを議論しようとするあらゆる試みに対する給与階級からの反応は、彼らの多くがそれに気付いていると示している。

同じ方向に沿った多数の事例がある中でここで私が考えているのは、今年初め、職場の性差別に関するフェミニストのカンファレンスに出席した記者からの暴露的な記事である。そこで交わされたあらゆる会話は、どうすれば給与階級の女性たちが、自分自身の昇進の見込みや何やらを改善できるのかについてのものだった。記者の姉妹はたまたま賃金階級の仕事に就いており、彼女は、給与階級に属さない女性の将来を改善するために少しだけカンファレンスの時間を割けないかと、極めて冷静に尋ねたのだ。このような議論に参加したことのある読者は、次に何が起こったかを正確に予測できるだろう: 多少の眼に見える不快感、あいまいに同意する少しのコメントがあり、その後にはそんなバツの悪い提案をした人が誰もいなかったかのように元の話題が再開される。

これは今日の工業諸国で階級的な偏見を取り巻く典型的なタブーであり、記者自身でさえこの交流についての最も明白な2点の問題に言及していない。1つ目は、もちろん、そのイベントに参加したフェミニストが、彼女たちが関心を持つ性差別の問題に苦しむ女性と、彼女たちがまったく気にしない女性の間に引いた線とは、階級の分断線であったということだ。2つ目は、そのイベントにいた女性たちには、そのような線を引く完全に正当な、完全に自己中心的であるとしても、理由があるということである。多くの女性を雇用している賃金階級産業の労働者の状況を改善するためには、結局のところ、カンファレンスに参加した女性たちは保育サービス、美容院、流行の洋服などのために毎月より多く支払わなけれればならないだろう。[フェミニズム運動の]初期時代のスローガンが主張する通り、姉妹の絆シスターフッド はパワフルなのかもしれないが、給与階級の女性たちに、彼女たちの特権的地位を共有していない女性たちの利益のため不自由を受け入れさせるほどにはパワフルではないようだ。

けれども、このカンファレンスの女性を公平に評価するなら、少なくとも彼女たちは、厄介な質問から注意を逸らすため何か別のホットな問題について叫び始めたわけではなかったと言えるだろう。それが、私の記事が公開された後に起こり始めた、私の記事と関連のある2つ目のできごとである。突然、アメリカの左派の多くはドナルド・トランプの台頭に反応して、声高に、トランプが支持される唯一の理由唯一のありうる理由は、トランプは人種差別主義者であり彼の支持者も同様であるのだから、トランプの選挙キャンペーンが支持されるに違いないと主張している。

たぶん、この疑わしいロジックを検証することから始める必要があるだろう。そうすれば、それを乗り越えて、実際には何が主張されているのかを理解できるだろう。トランプは人種的な偏見を抱いているのか? 疑いがない; ほとんどの白人アメリカ人がそうだ。トランプの支持者は同じ偏見を共有しているのか? 再び、一部がそうであることは疑いがない - 結局のところ、トランプの支持者全員が白人というわけではない。左派メディアはここ数週間、必死になってそれを隠そうとしているのだが。けれども、議論の目的のために、トランプと彼の支持者は実際にそのような人種的憎悪を抱いていると仮定しよう。その事実は、もしそれが事実であるとして、人種差別がトランプを支持者にアピールした唯一の理由であるということを証明するのだろうか。

もちろん、そのようなことは証明されない。同様のあからさまな詭弁を使えば、トランプはステーキを食べ、彼の支持者もその好みを共有しているのであるから、彼を支持する人はベジタリアンに対する憎悪によって動かされていると主張できるだろう。時として、一般的に白人アメリカ人が語らないことは、しかしほとんどの有色人種の人々は鋭敏にこれに気付いていると私は聞かされてきたのだが、今日のこの国で人種問題は白人の人々が考えるほどには重要なものではないということだ。ジム・クロウ時代に典型的であった狂信的かつ熱狂的な人種的憎悪の擁護は、今日では白人至上主義者のフリンジ以外ではまれである。人種的偏見を代替したものは、多かれ少なかれ、ほとんどの白人が大した問題ではないと見なす思考と行動の習慣である - そして、実際にそのような態度を抱いている人が大した問題ではないと見なす態度に訴えかけることにより、政治的エスタブリッシュメントからの強烈な反対の中で巨大なムーブメントを起こすことはできない。

きわめて多数の裕福な白人リベラル派による、トランプの選挙キャンペーンに向けた「レイシスト!」という叫び声の後ろには、むしろ、かなり異なる現実が横たわっている。人種差別の告発は、現代アメリカの言説において大きな役割を果たしている - そしてもちろん、実際の人種差別の実例もその中に含まれている。裕福な白人リベラル派が人種差別の告発を行なうとき、その一方で、かなりの場合は "犬笛" である。

インターネット語を流暢に話せない読者のために、おそらく最後のフレーズを説明しなければならないだろう。犬笛とは、ネット用語としては、ある面ではもっともらしい否認を与える一方で、何らかの形で偏見を表現する言葉や比喩の転換のことである。公民権運動の時代には、たとえば、「州の権利」という言葉が典型的な犬笛であった; その言葉によって実際に議論されている権利とは、黒人の隣人に人種分離政策を課す南部白人の権利のことであった。しかし、白人団体のスポークスマンはそれほど長い言葉を費す必要はなかったのだ。州と連邦政府の権力均衡に関する重大な問題は、人種問題とは当時何の関係もなかったし、今でも関係ない。それゆえに、闘争の両サイドからほとんど無視されたのだが、それは既に十分すぎるほどに皮肉な状況に更なる皮肉を付け加えている。

同様に、トランプの選挙キャンペーンに対してあまりにも自由にその言葉を適用する専門家や政治家の口から発せられる「レイシスト」という言葉は、彼らがあまり長い言葉を費して語りたいと思わないことを表現する犬笛である。彼らがその言葉によって意味しているのは、もちろん、「賃金階級のアメリカ人」である。

それは極めてありふれている。最近のオレゴン州での武装集団と連邦政府職員との膠着 *1を考えてほしい。事件が進行中の間に、ブログ界と低俗なメディアは、武装集団を指して「ヨールカイダ [Y'all-Qaeda]」と呼び始めた。カンの良い読者は気付いているだろうが、武装集団のメンバーに南部 -アメリカ合衆国の中で「y'all」が二人称複数形代名詞として使われる唯一の地域- の出身者はいなかった。私の知る限りでは、武装集団のメンバーは全員西部乾燥地帯から来ており、そこでは「y'all」はマンハッタンやバンクーバーの路上と同程度に一般的ではない。それでは、なぜ、このレッテルはすぐに注目を集め、給与階級の通常通りの笑い声を引き起したのだろうか。

それが急速に広まって笑いを起こした理由は、アメリカの給与階級のほとんどの人々は、アメリカ人の賃金階級全体に特定のステレオタイプを適用することを好むためである。読者諸君も、私と同様にそのようなステレオタイプを知っているだろう。太った、赤ら顔の、歯が抜けた、ジーンズと汚れたTシャツを着た古き良き男で、テレビでNASCAR [モータースポーツ] のレースを壊れたソファの上から見ている。片方の手を肘のところまで深くチーズ菓子の袋に突っ込み、もう片方の手は散弾銃を掴んでいる。野球帽には南部連合旗のワッペンが張られ、ベッドルームのクローゼットにはKKKの衣装がある。アメリカ人の賃金労働者全体をこのように描写することは、今日では多くの人が非難するような人種的・性的なステレオタイプと同様に、無知で偏見に満ちており、政治的意図に動機付けられていると言えるだろう - しかし、もしもこのように指摘した場合、同じパラグラフの中でアフリカ系アメリカ人とスイカに言及したとすればデザイナー製コルク抜きで即時に自らを串刺しにするような裕福な白人リベラル派が *2 声高に主張するのは、これはステレオタイプではなく、「アイツら」の本当の姿を表現したものであるというのだ

給与階級の人間を知らず、そのため給与階級の人々が賃金階級の人々に対して使うヘイトスピーチを聞く機会がなかった私の読者は、ナショナル・レビュー誌の最新号を見てみたいと思うかもしれない。そして、ケヴィン・ウィリアムソンによる真に注目に値する苛烈な非難を読んでほしい - 有料ではあるが、しかしここにサンプルがある。このようなかんしゃくの背後にある原動力は、共和党の草の根的な支持基盤にいる人たちが、給与階級の人々に協力し、給与階級の人々が主張するところの善行を行うのではなく、自らの最高の利害のために、つまりはトランプに投票したという事実であった。まさにこの考えである! これは完璧な階級主義者の偏見の表れであり、給与階級の多数の人々が、貧困とは常に貧者自身の責任であると主張する方法の第一級の事例である。

率直に言っても良いだろうか? 何百万人というアメリカ人は40年にわたって生活水準を粉砕されてきた一方で、最も豊かな上位20%は更に裕福になった理由には、何の不思議もない。この国の企業の利益のために、政府の超党派コンセンサスにより援助され幇助され、給与階級の大多数によって応援を受けて、一方では米国の産業経済のほとんどをオフショアすることにより賃金の仕事を奪われたからであり、他方では、国内の労働市場を何百万という合法・違法の移民で氾濫させたからである。

1966年に平均的なフルタイムの賃金労働者一人に頼る家族は、家、車、1日3回の食事、その他の普通のアメリカ人のライフスタイルの必需品と贅沢品を買うことができた。一方で、今日、平均的なフルタイムの賃金労働者一人に頼る家族が路上で暮らしているのはそれが理由である。それは偶然に起きたわけではない; 何らかの不可抗力でもない; 不可解な道徳心の崩壊がアメリカ人賃金階級に発生したために、給与階級の専門家が吹聴するようなあらゆる想像上のチャンスを掴むことが不可能になったわけでもない。そのような変化は、むしろ、特定の、容易に同定可能な政策によりもたらされたのである。その結果、すべてを考慮に入れれば、裕福な人々の推進した政策によって賃金階級に強要された貧困のためにアメリカ人貧困層を非難することは、強姦被害者が強姦犯の行動を引き起したとして非難することと等しい。

どちらの場合にも、被害者を非難することは、誰が実際に責任があるのか、誰が現在の状況から利益を得ているのか、また本当の問題は何かを議論することの、便利な代替であることに注意してほしい。パブリックな世論形成において特権的な役割を持つ人々がその話題についての議論を望まない場合、被害者への非難は有効な偽装戦術となる。結局のところ、今日のアメリカでパブリックな世論を形成する人々が語りたくない話題は無数に存在する。同じ世論形成者たちが押し進めた政策が、何百万というアメリカ人家族を貧困と悲惨のうちに陥れたという事実は、あいにく、最も言及できない話題ではない。最も言及できない話題とは、それらの政策が失敗してきたという事実である。

それは、本当に同じくらいシンプルである。我々が話している政策 - 企業と富者への贅沢な施しと、貧者への懲罰的な貧窮スキーム、中東その他の場所での終わりなき戦争、国内インフラの悪意ある放置、我々の生存基盤たる生物圏のバカげた酷使によって起きた気候変動その他の帰結に対する、"ヘッドライトに照らされた鹿"のような呆然自失状態や無意味なキャッチフレーズ- それらの政策は、米国とその同盟国に繁栄をもたらし、世界に安定をもたらすと考えられてきた。それらの政策は約束を実現できなかったし、今後も実現できないだろう。そしてヒラリー・クリントンの支持者がどれほど彼女を強く支持したとしても、あと4年間の同じ政策の継続によってもその事実は変わらないだろう。ここでの困難は、単に政治的エスタブリッシュメントが、また給与階級内の特権的な少数者がその失敗を認識したがらず、いわんやその失敗の明白な教訓は学ばれず、それら政策がマジョリティに課している恐るべき負担に気付けないということだ。

けれども、ここで、本ブログの開始以来プロジェクトをガイドしてきたある歴史家により事前に描き出されていた領域へと我々は至る。大部な12巻本『歴史の研究』において、アーノルド・トインビーは社会が失敗するプロセスの詳細を容赦なく探求した。トインビーが書いた通り、自身のコントロールの及ばない力により圧倒された文明も存在する。しかし、これは通常歴史の死亡記事に記される死因ではない。むしろ、それよりもはるかに多くの場合、「衰退と転落」と記された荒廃した道のりを滑落する社会には、依然として、文明を圧倒する危機に対処するための十分なリソースが残っており、窮地を脱するための十分なオプションがある。けれども、それらのリソースは建設的に使用されることはなく、オプションは省みられない。

このようなことが起こる理由は、失敗した社会の政治的エリートたちが、彼らが望む政策が機能しなくなったということに気付く能力を失うからである。上昇する文明のリーダーは、政策の結果に注意を払い、機能しない政策を捨て去る。失敗する文明のリーダーは、「成功」を「望ましい帰結を得る」ことではなく「承認された政策に従う」と再定義し、失敗を認識してその帰結に対処することよりは、政策の失敗を拒絶することに集中する。失敗からの教訓は学ばれず、もはや無視できなくなるときまで失敗のコストは積み上がっていく。

ここではペギー・ヌーマンの「保護された」階級と「未保護の」階級という現状の人口分類が有用となる。保護された階級のメンバー - 今日のアメリカでは、既に述べた通り、給与階級の裕福な半分以上に属する人々 - は、ますます貧困化し悲惨化していくマジョリティとのあらゆる接触から区切られたバブルの中に暮らしている。彼らが見る限りは、すべてが素晴しく見えるだろう; 友人は全員成功しており、そして自分自身も成功している; 情報操作されたニュースストーリーと政府機関によって巧妙に改竄された統計は、間違ったことは何も起こっていないと主張する。彼らは閉ざされた住居コミュニティからオフィスタワーへ、会員制レストランから高級リゾート地へと行き来を繰り返す。いっときそのバブルの外へ出て、この国の他の場所での実際の状況を確認することは価値があるかもしれないという考えは、ひどく彼らを怯えさせる。もしもそのような思い付きを彼らが持ったとすればだが。

上昇する文明においては、トインビーが指摘する通り、政治エリートは問題を認識しそれらを解決することにより大衆の忠誠と尊敬を勝ち取る。失敗する文明においては、それとは逆に、政治エリートは問題を作り出しそれらを無視することにより大衆の忠誠と尊敬を失う。衰退中の社会の暮れ時にあまりに頻繁に発生する正統性の危機の背後にあるものはこれだ - そして、それはまたドナルド・トランプの急激な上昇の背後にあるもっと深い現象である。社会の公認されたリーダーが指導できず、従うこともできず、また彼らが権力を手放さないのであれば、いずれ人々はリーダーたちを歴史の回転扉から押し出す方法を探し始める。必要とあらば、いかなる手段を用いても。

ゆえに、もしトランプが11月の選挙で敗北したとしても、それは現状維持への脅威が終わったということを意味しない-まったく逆である。もしヒラリー・クリントンが大統領となったら、これまで同様の失敗して無知な政策が4年間続くだろう。それが彼女の政治的キャリアの全体を通して支持してきた政策であり、ゆえにあと4年の間、富者の狭いサークル外にいる何百万というアメリカ人が貧困と悲惨へと追い立てられ、その一方でニヤついた官僚のカカシが、すべては順調であると言い続けるだろう。それは社会の安定へのレシピではない; よく言われているように、平和的な変革を不可能とする者は、暴力的な変革を不可避とする。更には、既にトランプはこの国のすべての野心あるデマゴーグに、大衆運動を作り上げる正確な方法を示し、またあまりに多数の賃金階級のアメリカ人は許容しがたい現状維持への代替案を既に示されてしまった。

今日のエスタブリッシュメントが、彼らが好む政策だけが考えうる唯一のオプションであるとどれほど大声で主張しようとも、それらの政策の失敗の連続、特権のバブルの外側にいる人々に対して彼らが課す膨大なコストは、遅かれ速かれ、"考えられないこと" が不可避になることを確実にしている。それが、この選挙シーズンの本当のニュースである: すなわち、ふつうの政治の終わりと今日の一般常識に重大な変更をもたらす、けいれん的な変革の時代の最初の胎動である。

*1:訳注: 2016年1月から1ヶ月あまり、武装集団がオレゴン州の野生動物保護区を占領した事件。 Occupation of the Malheur National Wildlife Refuge - Wikipedia

*2:訳注: 黒人はスイカを好むという差別的なステレオタイプがある。ここで著者は裕福な白人はワインを飲むというステレオタイプ的なイメージを使い皮肉を述べている。 黒人とスイカのステレオタイプ - Wikipedia

翻訳:ヒラリー・クリントンの大転落 (ジョン・マイケル・グリア)

この記事は2016年2月24日に書かれた。ジョン・マイケル・グリアによる2016年ドナルド・トランプ当選予測に関するエッセイはこちら

The Decline and Fall of Hillary Clinton

過去数週間のアメリカ政治では、私がこのブログ上で議論しているメインテーマを確かめる興味深い事例が見られた。10年前にこのブログが始まって以来、その研究が私のエッセイを導いてきた思想家である歴史哲学者、オズワルト・シュペングラーには、過去数週間のできごとはまったく驚きではないだろう。もしもシュペングラーがアメリカ大統領候補者2名のここまでの運命の分岐について考えたとすれば、彼のしかめっ面がつかの間の喜びでほころぶだろうとあまりにも容易に想像できる。つまり、たった1年以内以前には、ほとんどすべての人が一般投票で対決すると主張していた候補者、ジェブ・ブッシュとヒラリークリントンだ。

ある意味では、ブッシュは私がたった今考えているテーマの完璧な申し子である。昨年彼が選挙キャンペーンを始めたとき、それは過去30年間成功を収めた大統領選挙キャンペーンの完全なるコピーであった。彼はたくさんのビッグマネーの支援者を集めた; キャンペーン運営のため、ゴーストライター、メディア戦略担当者、そして訪問勧誘員のチームを招集した; 広告会社にはキャッチーなロゴをデザインさせた; 彼は、2分間その意味を考えない限りは意味があるように聞こえる空虚なレトリックを発する練習を行なった; 彼は、論争的なトピックの一握りについてのみ注意深く計算された立場を取り、それ以外のすべての問題については一般常識を口にした。そして、別の候補ではなく彼をホワイトハウスに送り込んだほうが、自分の利害はあまり損なわれないのだと有権者たちを信じさせようとした。

そのような中身のないキャンペーンは、ジョージ・ブッシュビル・クリントンジョージ・ブッシュ2世、そしてバラク・オバマアメリカ大統領のリストへと載せたものであった。ジェブ・ブッシュが得たものは、けれども、屈辱的な敗北の連続であった。ある人が言うには、サウスカロライナ州での予備選挙後の涙ながらの撤退は、パパから輝かしい大統領の座を約束されていたものの、イジワルな有権者がそれをくれなかったと知った子供の行動であるという。けれども、私はそれ以上のことがあると思う。ブッシュが、衝撃と恐怖のうちに認識したのは、彼が知らないうちにゲームのルールが変更されていたということだ。また、大統領へ至る道のりについて彼にアドバイスしていた有識者、有力者たちは、基本的には何も状況を理解していなかった。

どちらかと言えば、けれども、ヒラリー・クリントンのキャンペーンのほうがアメリカの政治プロセスの腐った中心部をより明白に見せてくれる。彼女は、ジェブのキャンペーンとまったく同じことをした-両者ともに、似たような陳腐なキャンペーンロゴ上に自分のファーストネームを掲げたことは示唆的である-また彼女は、ジェブはこれをしなかったのだが、選挙キャンペーンシーズンが始まるよりも前に、党官僚 からの自陣営への支持を確実なものとしていた。アメリカ政治の通常のルールのもとでは、ジェブ・ブッシュ対立候補たちと格闘する一方で、ヒラリーは予備選挙から党大会までの気楽なお散歩を楽しみ、そして一般選挙へと突入したときには十分な資金を残しているはずだった。そのときには、アメリカの人々に対して、彼女のリーダーシップのもとでの4年間はブッシュのもとの4年間よりもほんの少しだけ破滅的ではないと信じさせるための広告の大洪水でテレビの電波を飽和させる。

今回は、けれども、ルールは変更されていた。クリントンは、党のアウトサイダーであるバーニー・サンダースからの活気ある挑戦に直面している。とはいえ、おそらく彼女は指名を得るだろう-これは皮肉な喜びの源泉であるのだが、現在、民主党の指名手続きは、共和党よりもかなり民主的ではない。この時点において、彼女が戦いなしで指名を得ることはほぼ確実である。ひとたびそうなると、今度は、一度か二度の広告の空襲で容易に喰らいつけるような生温い選挙戦で、凡庸なインサイダー候補と戦うのではなく、クリントンドナルド・トランプと相対決することになるだろう。その人気は、特権階級の専門家たちが投げかけるあらゆる怒りに満ちた告発のなかでも急上昇しており、その裸拳の"ルール無用"スタイルの選挙キャンペーンは、クリントンも彼女の鈍感な選挙スタッフたちも、ほとんど対処する能力を持っていないように見える種類の挑戦であり、そして、ほとんど変わりのない二者の "よりマシな悪" 以外の選択肢を有権者に提供する準備のあるドナルド・トランプと。

ここで当然、クリントンは、彼女自身の選挙キャンペーンへのアプローチにより、状況を著しく悪化させた。彼女は、私がこのブログの昨年の記事で名付けた「コントロール幻想」という奇妙な精神的盲点に捉われた途方もない実例である-それは、不合理であるが蔓延しているのだが、社会の特権階級のメンバーが何かを行なった場合、残りの全宇宙は完全に受動的で、完全に機械的な方法でその働きかけに反応するはずだ、という信念である- この世界レベルの事例としては、大多数のアメリカ人が候補者を憎み、信頼していないということが示されたとき、クリントンのアドバイザが単に虚空を見つめ、繰り返し彼女を「再紹介する」ことを試みていることを見てほしい。まるで、選挙キャンペーン機械のリセットボタンを押し、最初からやり直すことができると考えているかのように。

その点において、これまでの選挙キャンペーン中のクリントン自身の態度は、壊れた自動販売機にお金を入れた人が取る行動とそれほど変わらないものを思い起こさせる。クリントンは25セント硬貨を投入し正しいボタンを押したのだが、望みの商品は手が届くところまで落ちてこない。現在、彼女はボタンを何度も何度も押している。そして時が来れば、彼女が支払ったものが得られないために、拳を叩きつけて叫び出すだろう。正直に言って、彼女はただの一度も、ほんの一時さえ、選挙民とは、適切な方法で操作しさえすれば大統領になるための票を吐き出す、単なる受動的で、機械的大衆/質量マスではないという可能性を考えたことがないのではないかと思う。アメリカの人々が立ち上がり、彼女の利害ではなく自分達の利害を推進するために票を投じることを決断するという、彼女の最も恐しい夢に突入したのではないかと疑っている。

その分析はいくつかの理由により私には極めて可能性が高いと思えるのだが、しかしその中でも最も大きな理由は、クリントン支持者のうちで彼女と同じ階級と性別の下位カテゴリに属している人々が、すべてのアメリカ人女性にクリントンの選挙キャンペーンを支持するよう要求していることだ。ここで私は特にマデリーン・オルブライトを考えている。しばらく前、彼女は「他の女性を助けない女性には、地獄の特別な場所がある」と主張する怒りに満ちた声明によりニュースを騒がせた。それは第二世代フェミニストの、ある種の高給階級の人々に共通する特徴である。想像できる通り、それはかなり多数の他のフェミニストの間で物議を醸した。特に、部分的に重なり合った、有色人種女性の集団および賃金階級の女性の集団において。彼女たちに耳を傾ければ、マデリーン・オルブライトのような裕福で影響力を持つ女性の目標追求への支持を期待されていることについてどう思っているかを、かなり長く語ってくれるだろう。

結局のところ、女性器を持つ大統領の誕生から得られるであろう代償的な興奮以外には、クリントン大統領はアメリカ人女性のマジョリティに何を提供してくれるのだろうか? 彼女の配偶者 [ビル・クリントン] の経済政策 - 現状の超党派コンセンサスで、彼女はそこからわずかなりとも逸れる兆候を示していない- は、クリントンの特権的なバックグラウンドと莫大な収入を共有していない何百万人というアメリカ人女性に対して、既に貧困と悲惨をもたらした。彼女の国務長官の在任期間を特徴付けるのは、他国への不器用な介入戦争であり、その昔、民主党が反対していた政策とまったく同じである: 介入戦争は、注意してほしい、既にシリア、リビア、そして世界中の何万という死に責任がある。おそらく-とりわけ、もしもクリントンホワイトハウスに入っても同じ態度を取り続けたら- 多数のアメリカ人女性は、また別の残忍で無意味な中東の戦争から子供たちが死体袋に入って帰ってくるのを見る経験をするかもしれない。

オルブライトの公然のかんしゃくに対する反応も、多くの点においてかんしゃくそれ自体と同じくらい有益である。大多数のアメリカ人女性は、単にそれを買っていない。より一般的には、クリントンと彼女の取り巻き連中がどれほど激しく自動販売機のボタンを叩き、彼女たちが当然期待できると考えている機械的反応を起こそうと試行したとしても、有権者たちはそのような行動を起こしていない。トランプとサンダースは、各々のやり方で、耐えがたい現状維持以外の何かを望むことができるとあまりに多くの人々に示したのだ。彼らの立候補の目覚めにより、かなり多数の有権者は、2つの悪のうちのよりマシな方に投票することを望まないと決断した。

f:id:liaoyuan:20190316054743j:plain:left:w180:h180 ここで重要なポイントがある。私の考えでは、過去数十年の間、ここアメリカでのあらゆる大統領選挙が、クトゥルフの大統領への野心を支持するよう有権者に呼びかけるバンパーステッカーにより活気付けられてきたことは、まったく偶然ではない。クトゥルフとは、H.P.ラブクラフトによる宇宙的恐怖の物語に登場する、触手を持った原始的な恐怖の邪神である。残念なことに、この旧支配者の選挙キャンペーンは深刻な憲法上の問題に直面している。というのも、彼の出生地は第23星雲のヴール、現在の居住地は海に沈んだ廃墟都市ルルイエであり、私の知る限りではどちらもアメリカ合衆国の領土ではない。それでも、クトゥルフホワイトハウスへの挑戦は、他のほとんどの想像上の候補者たちよりもリードしている。私は長い間考えていたのだが、クトゥルフの選挙キャンペーンの成功の秘密はそのスローガンにあるのではないかと思う。「どうして"よりマシな悪"で満足するのか? [Why settle for the lesser evil?]」

このスローガンが確実に笑いを引き起す理由は、まさに、過去何十年間のアメリカ大統領の政治についてのレトリック全体が、一方の政党の子飼いの詐欺師は、他方の詐欺師よりも悪いことをしないという主張を続けてきたからである。たとえ、どちらの側の候補者も同じ政策を支持し、同じ腐敗した利害によって売買されるとしても。何度も何度も繰り返し、我々はこの党あるいは別の党が選出した候補者が誰であれ、その人に投票しなければならないと言われてきた。なぜなら、そうでなければ相手側が最高裁判所判事を任命し、新たな戦争を始め、あるいは何かしら悪いことをするから。候補者が、何かポジティブなことをすると期待されるという提案、たとえば、ほとんどのアメリカ人の生活水準を悪化させた超党派の経済政策、悪意ある無視への国家インフラの委託、大企業に対する福利プログラムの追求、たとえば、無価値で、実用的でも必要でもないF-35戦闘機の開発など、を拒絶することは「非現実的」であるとして無視される。

トランプとサンダースの反逆的な立候補が決定的に示しているのは、代わって、"よりマシな悪"というレトリックと「現実的な」政策への固執が、その延長期限を過ぎたということだ。それにはまったく正当な理由がある。よりマシな悪を求めるということは、大多数のアメリカ人が望んでいることが現状の継続であると想定している -結局のところ、もしもあなたの議論のポイントが、ものごとの更なる悪化を止めることに固定されているならば、それがあなたの得る結果である- また、今日のほとんどのアメリカ人にとって、現状は受け入れがたい。低下する賃金と上昇する家賃、企業と富裕層以外のあらゆる人にとって基本的人権さえも否定されつつある法的環境、ますます増大するコストを労働者の人々に負わせる一方で、既に十分すぎるほどに豊かな者に更なる恩恵を与える経済 - まぁ、このリストはいくらでも長くできるだろう。もしも特権階級に属していなければ、今日のアメリカでの生活は急速に耐えがたいものとなりつつある。そして、この数十年間両党が同じ熱意でもって追求してきた「現実的な」政策は、アメリカの生活を耐えがたいものとしたことに対して直接的な責任がある。

そこで、多数の、普通のアメリカ人労働者が、今回は現状維持スタトゥス・クォ の更なる焼き直しを受け入れることを拒否した理由は、彼らにはもう後がないからである。それはあらゆる社会の歴史の中の特定の時点において確実に出現する状況であり、またオズワルト・シュペングラーがアメリカ合衆国が現在直面している状況を予測していたということは、私にとって皮肉な喜びの源泉である。また、必要に応じて変更を加えれば、その他の工業化世界についても同様のことが言える。

シュペングラーの歴史分析は膨大な領域をカバーしているけれども、ここで関連のある論点は、『西洋の没落』第二巻の後半に現れている。そこでシュペングラーは、我々が西洋工業文明と呼び、彼がファウスト文化と名づけたものの直近の未来をスケッチしている。彼のテーマは、民主主義の死に方であった。シュペングラーの主張によれば、民主主義は致命的な脆弱性に苦しめられている。それは、金銭の影響力に対して意味のある防衛手段を持たないことだ。ほとんどの市民は、国家の長期的運命よりも自身の個人的で短期的な利益に大きな関心を持っているため、裕福な人間が票を買う方法を学習すれば、すぐに民主主義は金権政治の丁寧なフィクションとなる。その学習に時間を要することはめったにない。

金権政治の問題は、今度は、その権力への参入を可能とした短期的な個人的アドバンテージに対する同様の執着を具現化していることである。というのは、ますます腐敗していく統治において、富裕層の行動を導く唯一の目標は、短期的な個人的な富と満足だけであるからだ。更には、エコノミストのたわ言にもかかわらず、超富裕層に利益を与えることが自動的に社会全体の利益にもなるということは、単に真実ではない; 実際はまったく逆である、金権政治制度をドライブする個人的利得への盲目的なオブセッションにより、たいていの場合、金権政治家たちはあまりに行きすぎた利益追求はシステム全体を崩壊に追いやるという厳しい現実を忘れてしまう。その終末期にある民主主義は、このようにして、ただ狭まっていく特権的富豪のサークルのみが実質的な利益を引き出せる破綻社会へと至る。時が来れば、その特権サークルから排除された人々は別のどこかでリーダーシップを求め始める。

その結果は、シュペングラーがカエサル主義と呼ぶものである: 排除されたマジョリティに訴えかけ、その人々の取り分が増加するという望みを提供し、金権政治体制に挑戦することにより権力を掌握できることを理解したカリスマ的リーダーの台頭である。今も昔も、それを理解したリーダーは金権政治体制の内部から登場する; ユリウス・カエサル、その姓がシュペングラーの用語となった人物は、元老院の家系の旧家出身の、きわめて裕福な男であった。そして、カエサルは唯一の例ですらない。1918年には、シュペングラーはカエサル主義の最初の波動が西洋世界に打ちつけようとしており、それは金権政治によって負かされるだろうと予測した。そして、その後には別の波動が続くだろうとも予測していた。彼は最初の2つの点については完璧に正しかった。そして現在の選挙は、3番目の予測も同様に正しいと判明するであろうことを示している。

かなりの程度まで、ヒラリー・クリントンによる弱体化した大統領選挙キャンペーンは、シュペングラーが瀕死のデモクラシー [democracy in extremis] についての冷徹な分析で語ったことの完璧なる縮図である。彼女の提案全体が、アメリカ合衆国が取りうる政策は、ただミレニアムの変わり目以来実施されてきた政策以外にないということを前提としている: 大企業と富裕層に対するより多くの施し、あらゆる人へのより多くの貧窮、国家インフラと環境へのより意図的な無視、中東でのより多数の戦争、そしてより夢想的にバカげた対立的な[対外]政策 -これより穏当な表現は不可能だ- それは、あらゆる見込みに反して、ロシア、中国、イラン、またアメリカ合衆国に敵対する小国の集団を団結させている。それらの国々のリーダーに、アメリカ中心の世界秩序からは何も得られず、またそれに挑戦することにより失うものは何もないと確信させたのだ。

それらの政策は、政策の推進者たちが主張していた通りの良い結果をもたらさなかった。まったく同じ政策をあと4年間続けたとしても、その事実は変わらないだろう。アメリカ人有権者のみんながこのことを知っている。そして、ヒラリー・クリントンも。彼女の選挙キャンペーンが、今日アメリカ人有権者のマジョリティに実際にかかわる問題以外にのみに正確に焦点を当てている理由はこれだ。あらゆる実際上の目的において、クリントンジョージ・W・ブッシュと同程度にしか女性たちに与えられるものがないにもかかわらず、マデリーン・オルブライトによるあらゆる女性に対するクリントンへの支持を呼び掛ける過酷な要求を残酷な皮肉にしている理由はこれだ。オルブライトの声明は、老年期の金権政治が崩壊しつつある時に聞こえる典型的な声であり、まったく何も得られない他の者たちに忠誠を求めるものである。

現在の選挙シーズンがその終わりに向かうにつれて、我々は同じ種類の皮肉をもっとたくさん眼にするのではないかと思う。クリントンと彼女の取り巻きが、既に彼女を十分すぎるほどに知っている有権者に対して、クリントンを再紹介しようと試み続けるであろうことには疑いがない。どうもありがとう; 彼女がどれほど素晴しい人間であるかを褒め称える、あらゆる賛辞を我々が聞くであろうことにも疑いがない-まるで、彼女の支持する政策をあと4年間継続すれば、自分たちが仕事から追い出され路上生活へと陥らされると知っている人々に対して、そのようなちょっとした情報が重要であるかのように。その点においては、すべてが順調で、経済は成長しており、アメリカ人は数十年前より幸福になっているという安直な主張は、既にマスメディアに表れている。もしもあなたが特権のバブルの中に住んでいるのならば、ものごとがそのように見えることに疑いはない。特権バブルから外に出て、残りの80%がどのように暮らしているかを絶対に眼にしないように注意してほしい; その点においては、もしもあなたが特権的少数によってかき集められた曖昧な利益を得ており、全人口の平均よりも良い暮らしをしているのなら、それは経済の改善であるかのように見えるのだろう-しかし、それらの利益は全人口に平等に分配されておらず、そして全人口はこれを知っている。

歴史的な皮肉の愛好家にとって、クリントンの選挙キャンペーンを観察することには、間違いなくたくさんの楽しみがあるだろう。クリントンがあまりにも明白かつ絶望的なまでに切望している賞賛を、壊れた自動販売機に吐き出させるため、あの手この手の駆け引きが行なわれるであろうから。より広い意味においては、それらの進路変更には意味がない。なぜならば、ドナルド・トランプバーニー・サンダースは、アメリカの支配的マイノリティのコンセンサスを拒否することが、選挙における成功への切符であることを既に示してしまったからだ。クリントンは老いたサンダースを圧迫して、正当であれ不正な手段であれ民主党の指名を得ることはできるだろう。実際のところ、私はその可能性が高いと考えている。彼女が一般投票でトランプに勝利できる可能性は、それに比べるとかなり低い; たとえ彼女が勝ったとしても、他の人間がトランプとサンダースの進んだ道に続き、遅かれ早かれそのうちの誰かが勝利するだろう。

私が思うに、現時点においてもっと可能性がありそうなのは、クリントンのキャンペーンがトランプの手により破滅的な敗北を喫することである。そして、ヒラリー・クリントンの大転落は何十年もの間アメリカ政治を支配してきた破綻したコンセンサスの終焉を示すだろう。その事実のみでは改善が保証されるわけではない; 古い一般通念を代替する政策が何であれ、それが必ず改善をもたらすという法則は存在しない。そうであったとしても、ものごとは変化するだろう。少なくとも、そのような変化のうちの一部は、我々の周りでその終わりに差しかかりつつある厳しい時代の最悪の特徴を、少なくともいくつかは取り除くであろう。

Dark Age America: Climate Change, Cultural Collapse, and the Hard Future Ahead (English Edition)

Dark Age America: Climate Change, Cultural Collapse, and the Hard Future Ahead (English Edition)

翻訳:あなたはなぜトランプに投票したのですか? (ジョン・マイケル・グリア)

この記事は2016年11月16日に書かれた。ジョン・マイケル・グリアによる2016年ドナルド・トランプ当選予測に関するエッセイはこちら

WHEN THE SHOUTING STOPS

しばらくの間、私は先週の選挙でのヒラリー・クリントンの敗北に対する支持者のリアクションを理解しようと試みてきた。最初、私は単にそれを無視していた。ホワイトハウスを失ったときに民主党共和党の両党が毎回行なう素人芝居のまた別の回が始まったのだと。2008年を振り返ると、読者たちのほとんどは確実に覚えているだろうが、バラク・オバマの勝利の後何ヶ月間も共和党員の叫び声が続いた。彼らが主張するには -今日民主党員のかなりの人数が主張している通り- 対立候補の当選は民主主義の失敗を意味し、アメリカ合衆国と世界は破滅を運命づけられており、そして敗北した党の支持者は明日にでも一斉逮捕され強制収容所へ送られるというのだ。

その種の演技性ナンセンスは何十年も続いている。2000年、民主党員はジョージ・W・ブッシュが大統領に当選したとき、荘厳なスタイルで過剰な演技を行った。1992年は、共和党の番だった-私は、まだどこかに選挙後に共和党員の間で流通したパンフレットを持っている。そのパンフレットにはロシア語のお役立ちフレーズも含まれているため、ビル・クリントンが国を投げ出し、その残骸をソビエト連邦に受け渡したときにも、アメリカ市民は少なくとも多少の準備ができるのだ。アメリカ政治と大衆文化とはこのようなものであり、この種の集合的かんしゃく発作はおそらく不可避である。

皮肉の愛好家には更なる楽しみがある。2週間前、どのようにして選挙人団制度を操作するかを熱心に語っていた人々がいるが、同じ人たちは今や選挙人団を激しく非難している; トランプは、ひとたび敗北したら、負けを認めて沈黙すべきだと主張していた人々がいるが、同じ人たちは自分自身のアドバイスに従うことをよしとしていないようだ; 青い州[民主党の強い州]の中でも最も青色の左派的な沿岸都市では、抗議デモを行っている人がいる。まるでデモによっていまいましい結果を変更できるかのように- 以前の記事で私が指摘した通り、実効性のある草の根的な政治組織にバックアップされていない抗議デモは、単にちょっとばかり騒がしい有酸素運動でしかない。

それでも、ここではそれ以上のことが起こっている。私はとても思慮深い人々も知っており、その人たちの選挙結果へのリアクションはまったく演技的ではない。彼らのリアクションは、さまざまな度合いのショック、混乱、恐怖からなる。もしも私が読んだものが典型的であるならば、その人たちは、トランプに投票した人々が意図的に彼ら個人を否定し、脅威を与えようとしているのだと感じたという。それについては議論しなければならないだろう。

ある程度までは、もちろん、これは先週の記事で私が議論した個人の悪魔化という政治文化の反映である。クリントンの支持者は、民主党および主流派メディア内の協力者からの大量のプロパガンダにより、ドナルド・トランプは彼らを破壊せんと渇望する邪悪なモンスターであり、その支持者はあらゆる良きものを憎んでいるに違いないと信じ込んでいる。今や、彼らは自分が想像したオバケの前でおびえており、確実に、それによって彼らが割り当てた役割を演じ、飲み込まれているのだろう。

ここで働いている別のファクターは、アメリカ政治の左側の端にいる人々の、別の場で私が名付けたところの「進歩教」を強く信じる傾向である。歴史は必然的に進歩の方向へ傾いているという信念だ。また、もっと端的に言えば、彼らが好むような特定の進歩へと向かうという信念である。ヒラリー・クリントンは、とある選挙キャンペーンの演説での野次に対する即興反応として、簡潔にその宗教の中心的教義を言葉にした「私たちは後退しません。私たちは前へ進むのです。」クリントン自身と同様、大多数の彼女の支持者たちは自身の大義を進歩の方向へと向かう更なる一歩であると信じており、自分たちが「後退する」ことは深刻な混乱であると捉えている - それらのラベル「前進」や「後退」とは、はなはだしい世論操作的な類いのプロパガンダでないとすれば、まったく恣意的なものでしかないのだが。

とは言うものの、クリントンの支持者の反応をドライブするまた別のファクターもある。そして、それにアプローチするために私が考える最高の方法は、政治シーンの同サイドからの思慮深い反応を考察することではないかと思う。先週ライブジャーナルに投稿された、「フェレット・スタインメッツ」というハンドルネームで投稿された匿名の鋭いエッセイを取り上げよう。そのエッセイのタイトルは「次の20年を生き延びるために必要となる、冷徹な、冷徹な計算*1」である。このエッセイは、前の火曜日に何が起こったのかを理解するところまでかなり近付いているものの、残っているギャップを見れば、左派が他のアメリカ人に対して主張を伝えることに失敗した原因が明白に理解できるだろう。

このエッセイの中心には2つの議論の余地のない論点がある。最初は、民主党のコアとなる支持者は十分に大きくないため、それ自身では誰を大統領とするかを決められないということだ。ところで、それは共和党についても当てはまる。そして、少数の例外を除き、それはあらゆる民主社会で当てはまることだ。十分に大きく影響力を持つ各々の政党は、ほとんどいかなる状況下でも投票を期待できるコアな支持者集団を持ち、また、その上で選挙に勝利するためには、そのベースの外側にいる十分な数の人々にアピールする方法を見出さなければならない。これはアメリカの両党が時間を経るごとに忘れがちなことである。そして、そうなった場合には敗北する。

2つ目の議論の余地のない論点は、もし民主党が今日のアメリカの選挙で勝利したいのならば、左派の価値観と関心を共有しない人々にもリーチする方法を見つけなければならないということだ。それが、フェレット・スタインメッツによる2つ目の論点の枠組みを定めているのだが、しかし、そこに民主党が今回の選挙で必要なタスクの達成に失敗した理由が示されている。「我々は、我々を嫌う人々にもリーチする必要がある。」スタインメッツは言う。そして、彼はそれをどうやって行えばよいのかが分からないと認めるのだ。それら2つの主張を同時に取り上げてみよう。最初に、この選挙でドナルド・トランプに投票した人々は、実際にフェレット・スタインメッツと彼の読者を -あるいは、この場合は、女性、有色人種、性的マイノリティなど- を嫌っているのだろうか? 2つ目に、どうすればスタインメッツと彼の読者は、これら嫌悪に満ちたとされる人々にリーチし、民主党候補に投票させるようにできるのだろうか?

私は、フェレット・スタインメッツがドナルド・トランプに投票した人間を知っているのかは分からない。彼は知らないのではないかと思う-あるいは、少なくとも、私が話を聞いた多くの人々は、密かにトランプに投票したことを認めたものの、友人には絶対にそれを知らせなかったことを考えると、トランプに投票したことを彼が知っている人間を知らないのではないかと思う。ここで、私には確かなアドバンテージがある。中央アパラチア北部のさびれた工場町に住んでいるので、私は少なくない数のトランプを支持した人を知っている; また私は、このブログを通して、また他のさまざまな情報源を通して、とても多くのトランプ支持者の話を聞いてきた。

トランプを支持する大衆の中には、実際に人種差別主義者、性差別主義者、同性愛嫌悪者、などがいるのだろうか? もちろんだ。たとえば、トランプに票を投じた徹底的に偏見的な人種差別主義者を私は何人か知っている。その中には、正真正銘のクー・クラックス・クランのメンバーもいる。左派の人々が忘れがちであると私が思うポイントは、アメリカ内陸部の全員がそんな人たちではないということだ。数年前、実際に、クランの一団が私の住む町にやってきて勧誘集会を開いたことがある。そして、町の教会では -黒人も白人も含めて- 反対集会が開催されたのだ。通りの反対側に立ち、大声で賛美歌を歌ってクランズマンの声をかき消し、白いローブを着たその男達が車に乗り込み走り去るまでそれを続けた。驚きだろうか? まったくそうではない。今日の中部アメリカの大部分で、こういったことはありふれている。

クランを追い出すような町に、直近の選挙でトランプ支持のサインが林立している理由を理解するためには、ステレオタイプを消してシンプルな質問をしなければならない: なぜ人々はトランプに投票したのか。私は科学的な調査を実施したと主張するつもりはない、けれどもこれらは選挙までの数ヶ月と数週間に、私がトランプ投票者との会話で聞いたことである。

1. 戦争のリスク。これは最も一般的なポイントであった、特に女性の間では-私が知るトランプに投票したほぼすべての女性が、実際に、これが決定的なまたは上位2、3位に入る投票理由であると述べた。女性たちは、ヒラリー・クリントンが、重武装の決然たるロシアの軍事的プレゼンスに直面して、シリアに飛行禁止区域を設けると話したことを聞き、また彼女が国務長官時代に示した海外政府の転覆への容赦ない熱意を見た。彼女たちは、これとドナルド・トランプがロシアとのより融和的な関係を提唱していることを比較して、トランプはアメリカ合衆国を戦争に関与させる可能性が低いと判断した。

戦争は、ここアメリカ内陸部では抽象的なものではない。軍隊への加入は、若者が持つほぼ唯一の選択肢である。もしも、真っ当な収入、職業訓練と大学教育の見込みを得たいのであれば。そこで、ほとんどの家庭には、戦地で現役勤務している近親者か近しい友人が少なくとも一人はいる。ここでは人々は軍隊を尊敬しているものの、過去20年間の中東への介入戦争は、中部アメリカにあるいは存在したかもしれない軍事冒険主義の治療に目覚しく良い仕事をしたようである。裕福なフェミニストが、男性の伝統的役割を女性が獲得するという見込みに夢中になり、当の[ヒラリー・クリントンが置き換えようとしていた男性の] 役割が「戦争狂」だということはまったく気にかけていなかった。一方で、アメリカ中部の多数の人々は、家族のメンバーが死体袋に入って帰ってくるという可能性に対する別の問題に重きを置いたのである。クリントンの選挙キャンペーンは、この点においてまさに一切何も保証しなかったため、彼らはトランプに投票したのである。

2. オバマケア災害。これはクリントンの無頓着な軍事主義と同じ程度に影響があった。私の知るトランプに投票した人々のほとんどは、有意義な政府補助金の受給資格を得るには収入が多すぎるものの、馬鹿げたほどに誤った名前の「アフォーダブル・ケア・アクト」[米国の医療保険制度改革。いわゆるオバマケア]の下で終わりなく上昇を続ける保険料を支払えるほどの収入はない。彼らが民主党候補の当選の見込みに際してあまりに明白に思い出したのは、医療保険の価格は低下すると、既存の保険プランと医師は維持できるとオバマが約束したこと、オバマケアが発効される以前にそれを取り巻いていた、その他のあらゆる破られた約束である。

それら約束のほとんどが守られなかっただけでも悪いものであった。真の合意の破綻 ディールブレイカ は、けれども、この11月にアナウンスされた、2倍から3倍の年間保険料の増額であった。未だ新しい保険料を支払う余裕のある人であっても、予告は明白であった: 遅かれ早かれ、何かが変化しない限りは、多くの人々は医療ケアを失うか、あるいは貧困に追いやられるかの間で選択を迫られることになる- そして、このように主張する専門家もいた。保険未加入に対する罰金を、保険のコストと同額に上昇させさえすればすべてはうまくいくだろう、と。そのような状況に直面し、きわめて多くの人々が背を向けて、オバマケアを廃止すると言った候補者に投票したことは何ら驚きではない。

3. 雇用を取り戻すこと。これは多くの左派の人々にとって最も把握が難しい理由であるが、けれどもそれは左派の政策が形成される両岸の飛び地と、中部アメリカの厳しい現実のギャップの目安である。グローバリゼーションと国境の開放は素晴しく聞こえるだろう。一方では、何千万という製造業の雇用を海外に輸出することと、他方では、賃金を低下させるために労働市場を違法移民で溢れ返らせることによる経済的な帰結を受け入れる必要がないのであれば。それら2つの政策は、両党によって支持され、決して存在しない新しい雇用がどこからか生じるという空虚なレトリックの煙幕に包まれていたのだが、アメリカの田舎の小さな町の経済的崩壊を招き、莫大な数のアメリカ人を貧窮と悲惨へと追いやった。

クリントンの選挙キャンペーンは、あらゆる細部に至るまで、たった今述べた空虚なレトリックを繰り返すものでしかなかった。そのため、ここ中部アメリカの人々にとっては、自身の賃金、雇用へのアクセス、コミュニティの生存に対して、これまでと同じ更なる下方圧力が続くと予想させるものでしかなかった。トランプは、逆に、雇用オフショアリングを推奨するうえで大きな役割を担った貿易協定の廃止または再交渉を約束し、賃金を押し下げた膨大な違法移民の暗黙的な奨励政策を終わらせると約束した。経済的な生存の危機にいる多数の人々に、トランプへと投票させるためにはそれで十分だったのだ。

4. 民主党を罰すること。これは若干の例外である。この理由によりトランプに投票した人で私が知っている人は、ほとんどがここで取り上げた通常の人々とは異なる層に属するからだ: 若く、政治的にリベラルであり、民主党全国大会でクリントンを有利にしてバーニー・サンダースを排除するために指名プロセスが歪められたことに怒った人々である。彼らは、民主党の指名キャンペーンが公平に行なわれていたならばサンダースが指名されていただろうと信じており、また、一般投票でサンダースはトランプを打ち負かしただろうとも信じている。参考までに、私は両方とも正しいと考えている。

これら投票者たちが、時として若干熱っぽく指摘するのは、ヒラリー・クリントン上院議員国務長官時代に支持した政策は、ジョージ・W・ブッシュの政策とまったく区別ができないということだ-つまり、民主党が、たった8年前に激しく批判した政策である。彼らの主張によれば、党の寡頭政治により民主党一般党員に指名を強要したにもかかわらず一般投票でクリントンに投票したとすれば、民主党の進歩的派閥が何の意味も持たなくなったという最終的な崩壊を示してしまっただろうという。彼らは、クリントンに指名を与えた欺瞞が忍耐の限度を超えているということを党権力者集団に明白に理解させるために、4年間の共和党政権を進んで受け入れるという。

これらが、人々がなぜドナルド・トランプに投票したのかを私がヒアリングした際に耳にした理由である。メディアが重要だと考える問題については語らなかった-Eメールサーバー問題、断続的に続くFBIの捜査などである。もう一度言っておくと、これは科学的調査ではない、けれども、私が知っているトランプ投票者の誰もこれらの問題に言及しなかったのは興味深いと思う。

更には、女性、有色人種、性的マイノリティなどへの敵意も、トランプに投票した理由として人々はほどんど言及しなかった。私がここで議論している人々の多くは、左派の人々が人種差別主義者、性差別主義者、同性愛嫌悪者などと見なす態度を備えているのだろうか? 疑いがない - けれども、単にそのような態度が存在するという事実は、それらの態度、むしろここで列挙した問題が、投票を促したということを証明するわけではない。

私が政治的スペクトラムの左サイドの人々にこれを指摘すると、通常の反応は、そうだ、イエス、たぶんトランプはアメリカ中部の人々にとって重要な問題を提起したのだろう、しかしそうは言っても、彼らが人種差別主義者、性差別主義者の同性愛嫌悪者に投票したことは完璧に間違っている、と主張するものである。それらのレッテルがどこまで本当にトランプに適用できるのか、そして、どの程度が党派的分断の両サイドの政敵による悪魔化のレトリックによる産物であるのかという疑問は、ここでは脇に置いておこう。これらの非難を真実であると受け入れたとしても、今言及した主張のロジックは、アメリカ中部の人々は彼ら自身の人生に影響を与える問題を無視して、リベラル派が重要であると考える問題について投票するべきであるということだ。

どこかの牧歌的なユートピア世界では、そうかもしれない。現実の世界では、そのようなことは起こらない。アメリカ左派の現状のアジェンダを受け入れることが、数年毎に医療保険価格が倍増し、賃金が降下を続け、コミュニティが経済的崩壊の死のスパイラルで縮小し、中東でのまた別の無益な戦争から子供たちが袋詰めで帰ってくることを意味するのであれば、人々はそれを受け入れないだろう。

ゆえに、フェレット・スタインメッツの2つの困惑した疑問には、両方ともにストレートな回答がある。トランプに投票した人々は、スタインメッツを、彼の読者を、さまざまなグループ -女性、有色人種、性的マイノリティ-など- その関心が今日のアメリカ左派政治の中心である人々を嫌っているのか? 多くの場合において、まったくそうではない。また、他ほとんどの場合にも、政治的にさして重要ではない。単に彼らは、左派が中心的だと考える関心をそれほど考慮しなかったのである - 特に、それらが彼らの人生に対して直接的に影響を与える問題に反対の影響をもたらすのであれあば。

政治シーンにおけるフェレット・スタインメッツの側から、トランプに投票した人々に何を提供できるのかという点について言えば、少なくとも同じくらいシンプルな答えがある: 投票者たちに耳を傾ければ、彼らは教えてくれるだろう。私が彼らの言うことから判断すると、少なくとも彼らは、偏執的に介入主義的ではない外交政策と中東における介入戦争の終わりなき螺旋の終わりを求めている; 彼らは、支払い可能な費用で妥当なベネフィットを提供する医療保険を求めている; 彼らは、アメリカ人の雇用を海外に輸出する貿易協定の終わりと、大企業の利害により賃金と福利を低下させるために違法移民をシステマティックに輸入する移民政策の変更を求めている; そして、彼らは人々の意思を実際に反映する候補者を選択する手段を求めている。

面白いことに、もちろん、これらはかつて民主党が提供していたことだったのだ。そう遠くない昔、実際に、民主党はまさにこれらの問題を提起したのである - 容赦ない軍事冒険主義への反対、アメリカ人労働者階級の生活水準を向上させる政府プログラム、透明で誠実な政策 - 政策論争の場で中心であったというだけではなく、議員が法案を通過させるために戦う議会や、法案に署名する大統領にとってもそうだったのだ。そのような時代には、ところで、民主党はこの国の多数派政党であった。[連邦]議会だけではなく、州政府と州議会においても。民主党がその政策の提供を止めると、多数派の地位を失った。相関は因果関係を証明しないけれども、私が思うにこの場合には決定的な関係があると言えると思う。

より一般的には、もしも左派がトランプに投票した人々に自分たちへ投票させたいのであれば、それらの人々に票を投じるように説得した問題に対して対処しなければならない、ああ、ところで、彼らはただ嫌悪によって突き動かされているのだと声高に主張するのではなく、当の投票者たちが言うことに耳を傾けるようにすることも大きな助けとなるだろう。聞くべきことはたくさんあるかもしれないが、しかしひとたび叫び声が収まれば、それは可能だと思っている。

Dark Age America: Climate Change, Cultural Collapse, and the Hard Future Ahead (English Edition)

Dark Age America: Climate Change, Cultural Collapse, and the Hard Future Ahead (English Edition)

翻訳:ドナルド・トランプと憤怒の政治 (ジョン・マイケル・グリア)

この記事は2016年1月20日に書かれた。本記事の2週間前の記事で、ジョン・マイケル・グリアは2016年の予測としてドナルド・トランプが大統領に当選すると述べた。本記事は、その予測記事に対する反響への補足である。

DONALD TRUMP AND THE POLITICS OF RESENTMENT

2週間前、私が新年に立てた予測のうちで一番大きな困惑と冷笑を引き起こしたのは、来年の1月に聖書に手を置いて立ち、次期合衆国大統領としての宣誓をする可能性が最も高い人物が、ドナルド・トランプであるという提案であったようだ。その予測は、人々をイラ立たせるつもりで、あるいは楽しませるつもりで立てたものではない; あるいは、それは世論調査でのトランプ支持率上昇に対する単純なリアクションでもなければ、共和党のどうでもいいライバルたちのトランプを減速させる試みが、散々に失敗したことに対するリアクションでもない。

ドナルド・トランプの台頭は、むしろ、私がこれらのエッセイで既に何度も議論してきたターニングポイントの到来を示すものである。未来の舞台におけるその差し迫った姿をここで説明してきた他のターニングポイントと同じく、それは世界の終わりではない; そのため、もしトランプが当選したらアメリカを去るという民主党員の主張を聞くと、もしオバマが再選されたらアメリカを去ると主張していながら今でもアメリカに居る共和党員たちを思い出し、私は愉快な気分を覚える。それでも、この二者の間にはいくらかの重要性の差異が存在する。なぜならば、アメリカ合衆国の歴史的な軌道という観点からは、トランプはバラク・オバマよりもはるかに意義深い人物であるからだ。

2008年の選挙キャンペーンを取り巻いていたホープとチェンジという空疎なレトリックにもかかわらず、結局のところ、オバマは前任者ジョージ・W・ブッシュの政策を容赦なく継続したため、それらの政策 -21世紀初頭のアメリカ政治の一般常識 [conventional wisdom] あるいは、一般非常識 [conventional folly]- は、ダビーオバマ・コンセンサスとでも呼びうるだろう。トランプの立候補は、そしてある程度は民主党のトランプのライバル、バーニー・サンダースも同様であるが、それら政策への反発が巨大な政治的現実と化したことを示している。この反発が、多くの左派の人々が望んだ形を取らなかったのは、まったく驚きではない; そんなことは決して起こらなかっただろう。なぜならば、このような反発を不可避のものにしたダビーオバマ・コンセンサスへの反対は、左派の目標ではないからだ。

その後何が続いたかを理解するために、読者諸君にお願いする必要がある -特に、自分をリベラル派だと考えている人たち、あるいは、今日の複雑なアメリカ政治シーンのなかで、自分は中心よりも左側のどこかに位置していると考えている人たちに。しかしそれに限らないのだが- 2つの一般的なクセを一度棚上げしてほしい。最初は、今日のアメリカで有意義な政治的思考の欠如を埋め合わせるためにしばしば使われる、あざけりの言葉の反射的な利用である-もう一度言っておくと、左派に顕著であるが、しかしそれだけではない。ドナルド・トランプの選挙キャンペーンに対して繰り返し投げつけられる殺伐とした侮辱は、この好例である: 「腐ったチートウ[スナック菓子]」、「トマト頭の愚か者」、「妄想チーズ生物」などなど。

これらほとんどの侮辱の目標は、トランプの身体的外見を狙った単なるひねくれた男子生徒めいた悪口でないのならば、彼が愚かであると主張するものである。これはまったく驚きではない。アメリカ文化の左側に位置する多数の人々は、自分に賛同しない人々に愚かさを割り当てるために、このような無意味な言葉を使うことを好むからだ。ゆえに、たぶんここで指摘しておく必要があるだろうが、トランプはまったく愚かではない。彼はとんでもなく賢く、その賢明さを示す指標の1つとしては、たくさんの敵対者を引きつけて、自身の選挙キャンペーンにとって最も重要である有権者へのアピールを強めるような行動を取らせていることである。自分が後者のカテゴリに属しているのかどうか分からない場合、読者諸君、もしもあなたがトランプの髪型をチーズウィズと比較するツイートの投稿を好むのであれば、ノー、あなたはトランプがアピールしたい有権者ではない。

だから、これがトランプ現象を理解するために止めなければならないことの1つ目である。2つ目は、私の読者の多数にとってさらに困難だろう; アメリカ社会で問題となる分断は、何らかの生物学的な基礎を持つものだけであるという考え方である。肌の色、性別、民族性、性的指向、障害など。-これらは、アメリカ人が好んで語る社会の分断線であり、それは分断線のどちらか一方に属する人々に対する態度がどうであれ変わらない。(ところで、上記の4個の単語、「何らかの生物学的な基礎 [some basis in biology]」には注意してほしい。私は、これらが本質的に純粋な生物学的カテゴリであると主張しているわけではない; これらすべては実際のところ膨大な文化的構築物と偏見により定義されるものであり、生物学へのリンクは、定義というよりはむしろ直示的カテゴリに対するマーカーである。私がこの注釈を挟んだのは、あまりに多くの人がここで私が説明しようとしているポイントを誤解していることに気付いたからだ。)

ここで名前を挙げた分断線は重要であるのだろうか? もちろんその通り。今日のアメリカの生活では、これらの要素に基づいた差別的扱いが広く蔓延している。それでも、アメリカ社会には生物学的なアンカーを欠いた異なる分断線も存在するという事実、そしてその中には少なくとも上記の分断線と同じくらい蔓延しているものも存在するという事実は残っている-また、その中で最も重要なものはタブーの話題であり、今日アメリカのほとんどの人々が語りたがらないテーマである。

これが関連のある事例である。今日のアメリカ人の経済的・社会的な将来の見通しの大部分は、非常に簡単な質問をするだけで判断できる: 収入の大部分をどうやって得ているのですか? 広く言えば、 -すぐ後で説明する通り例外があるものの- 収入源は、4つのうちのいずれか1つである: 投資の利得、月ごとの給与[salary]、時間ごとの賃金[wage]、または政府の福祉支給である。これら4つのうちの1つから大部分の収入を得ている人々は、共通の大きな利害を持っている。そこで、アメリカ人を投資階級、給与階級、賃金階級、福祉階級に区分して話すことには意味がある。

ここで明確に指摘しておかなければならないだろうが、これら4つの階級はアメリカ人が好んで語る分断と一致するものではないということだ。つまり、福祉階級には薄い色の肌の人が多数存在し、賃金階級にも濃い肌の人が多数存在する。2つの富裕階級では白人が増える傾向にあるものの、それでも有色人種の人々も存在している。同様に、女性、同性愛者、障害者なども4つの階級すべてに発見でき、その人たちがどう扱われるかは、これら階級のどこに属しているかに大きく依存する。たとえば、もしも読者が障害者であるならば、障害に対処する有意義な支援を受けられる可能性は、時給労働をしている場合よりも、給与を受け取っている場合のほうが、概してかなり大きくなる。

上記の通り、これらの階級に分類されない人々も存在する。私がそうだ; 作家として、私は収入の大部分を書籍の売り上げに対するロイヤリティから得ている。つまり、あらゆる販売チャンネルで流通する私の書籍が売れるたびに約1ドルが得られ、それは年に2度私に送付される。ただし、Amazonで売れた場合にはそれよりもかなり少ない-Amazonの大きな値引きは、あなたのお気に入りの作家のポケットから直接的に奪われたものなのだ。このようにして生計を立てている人はとても少ないので、ロイヤリティ小階級はアメリカ社会で重要な要素ではない。今日アメリカで生計を立てる他の方法についても、それは同様に当てはまる。かつて大きな利益を上げていた階級、自分自身が所有するビジネスの利益から収入を得る人々[自営業者]も、今日ではあまりに縮小してしまったため、集合的な存在感を欠いている。

これらの4つの主要階級について議論できることは莫大な量になるだろう。しかし、私は政治的な側面に注目したい。なぜならば、現在進行中の2016年大統領選挙キャンペーンで、圧倒的なまでの関連性を持っているからだ。4つの階級を極めて単純な質問で特定できるのと同じく、先に言及した反発をドライブする政治的爆弾は、また別の単純な質問によって確認できる。過去半世紀程度の間、4つの階級の暮らし向きはどう変化したのか?

答えは、もちろん、4つのうちの3つはほぼ同じ場所に留まってきたということだ。投資階級にとっては、実際には少しだけ厳しい時代だった。かつて安定した収入をもたらしてきた投資手段-預金証書、政府債券など-の利益率が落ち込んでいるからだ。それでも、代替の投資手段と政府による株式市場価格への狂った介入により、ほとんどの投資階級の人々は慣れ親しんだライフスタイルを維持できた。

給与階級は、同様に、半世紀間蓄積された変化を通して親しんだ特権と能力を維持し続けた。現在投機バブルに捉えられている少数の沿岸都市エリアの外では、月給から収入の大部分を得る人々は、概して家を所有し、数年毎に車を買い替え、毎年の休暇には旅行をするなどの余裕がある。スペクトラムの逆の末端、福祉階級は、ほとんど以前と同じような窮地が続いている。変わりばえのしない過酷な貧困という厳しい現実への対処、非効率的な政府官僚機構、国家生活への完全な参画を妨げる膨大な直接的・間接的障壁。ちょうど、1966年における同等の人々の状況と同じである。

それでは、賃金階級は? 過去半世紀以上、賃金階級は破壊されてきた。

1966年、時給制でフルタイムの労働をする1人の働き手が居るアメリカ人家族は、家、車、1日3回の食事、その他の普通の生活必需品を所有でき、その余りを時々の贅沢品に使用できた。2016年、時給制でフルタイムの労働をする1人の働き手がいるアメリカ人家族は、路上生活を余儀なくされている可能性が高い。そして、現在の条件以下でも喜んでフルタイムで働くであろう多数の人々が、まったく職を見つけられないか、あるいはパートタイムや一時雇用しか得られていない。アメリカ賃金階級の貧困化と悲惨化は、我らの時代の最も巨大な政治的現実である-またそれは、最も言及されることのないものでもある。それについて話そうとする人、あるいはそれが発生していることさえ認める人はごく少ない。

賃金階級の破壊は、大部分がアメリカ経済生活の2つの大きな転換によって達成された。最初は、アメリカの工業経済の融解と第三世界搾取工場 スウェットショップ によるその代替である; 2番目は、第三世界諸国からの大量の移民である。これら2つのどちらとも、賃金を低下させるための手法であった-注意してほしい。給与、投資利得や福祉支給ではない-賃金が支払われる仕事の数を経らすこと、その一方で、それらの仕事へ競争する人の数を増加させることである。両方とも、逆に、政府の政策によって強く推奨されたのだ。また、議会のどちらか片方からの大量の空疎なレトリックにもかかわらず、[共和党民主党の]双方は、実際的な目標のために手を取り合い、政治的エスタブリッシュメントから超党派の支持を受けたのである。

最後のポイントについては少しだけ話しておく必要があるかもしれない。両党は、アメリカ人労働者とその家族に対してときどきワニの涙[ウソ泣き]を流して見せるけれども、徹底的に雇用のオフショアリングを支持した。移民は、これよりも少しだけ複雑な問題だ; 民主党は移民を支持し、共和党はいつも反対しているものの、実際上それが意味することは、合法的な移民を困難にして違法移民を容易にすることである。その結果は、何らの経済的・政治的権利も持たない膨大な非市民の労働力の創造である。賃金を低下させ、労働条件を低下させ、それら賃金労働者たちを雇用する者の利益を上げるために使用しうる-そして実際に何度も何度も使用されてきた-人々である。

次の点はここで議論する必要があるだろう-そして、私の読者の大部分は困惑するかもしれない。つまり、誰がアメリカ人賃金階級の破壊から利益を得たのかである。アメリカの保守派と見なされる人々は、あらゆる人が今示した変化から利益を得たのであり、そうでない人たちは自分自身の責任であると主張することを好んできた。同様に、アメリカのリベラル派と見なされる人々の間で人気のある主張は、それらの変化から利益を得たのは上位1%に属する悪辣な超資本家であるというものだ。これら2つともごまかしである。なぜならば、賃金階級の破壊は、先に私が示した4つの階級のうちの1つに不釣り合いなほどの利益を与えたからだ: すなわち、給与階級である。

これがその理由だ。1970年代以来、上述の給与階級のライフスタイル -郊外の持ち家、数年毎の新車、マサトラン [メキシコの観光地] での休暇、など- は、時代錯誤 アナクロニズム と化した: ジェームズ・ハワード・クンスラーの有用なフレーズを使えば、未来なきアレンジメントである。それは完全に、第二次世界大戦の勃発によって発生したアメリカ合衆国によるグローバル経済支配の産物であった。当時、地球上の他のあらゆる主要工業諸国は、敵対国の爆撃機に工場を破壊しつくされ、ペンシルヴェニア、テキサスとカリフォルニアの油田は、地球上の他のすべての国の合計よりも多くの石油を算出していた。アメリカによる世界支配は、けれども、急速に過ぎ去ってしまった。当時、1970年代にアメリカの在来型石油生産はピークを迎え、ヨーロッパとアジアの工場はアメリカの工業的ハートランドを打ち負かした。

そのような変革の歯のなかで、給与階級のライフスタイルを維持するための唯一の方法は、給与階級の平均的購買力に比例させて商品およびサービス価格を強制的に低下させることであった。給与階級は、その規模に対して不均衡に大きい経済的・政治的影響力を行使した (そして、今でも行使し続けている)ため、これが1970年代の規範となった。そしてそれは今日までアメリカの公的生活における政治的コンセンサスとして留まり続けている。賃金階級の破壊は、そのプロジェクトの1つの帰結でしかない-アメリカにおけるあらゆる種類の製品の劇的な品質低下、国家的インフラの卸売などは、そのプロジェクトによるまた別の結果である。しかし、それが今日の政治という観点から関係のある帰結である。

注目に値するのは、同様に、賃金階級に対して給与階級から提示されるあらゆる救済策は、実際には賃金階級の犠牲のもとに給与階級に利益を与えるものであったということだ。過去数十年間、賃金が支払われる仕事の消滅により職を失なった人は、大学に通い職業訓練を受ければ再び繁栄のパレードに参加できると大声で主張されていたことを考えてみてほしい。学生ローンにサインして大学の講義を受け-職業訓練を受けた人々にとって、それは大してうまく行かなかった。結局のところ、存在しない仕事への訓練を受けたとしても大して役に立つわけではない。そして、あまりに多数の元賃金労働者は、大学教育を修了した後でも以前より職業上の見込みが向上したわけではなく、引き換えに何万ドルもの学生ローンの負債を負わされたのだ。彼らにローンと講義を押し付けた銀行と大学にとっては、けれども、これらプログラムは莫大な額の金のなる木 キャッシュカウ だった。そして、銀行と大学で働いている人は、ほとんどが給与階級だったのだ。

賃金階級の経済的希望を破壊し、彼らに劣等な未来を割り当てた変化に対して何らかの実効性ある異議申し立てを行なう試みは、これまでのところほとんどなされていない。ある意味では、宗教的・道徳的な基盤のもとで賃金階級の有権者共和党候補を支持するよう仕向けさせる、共和党による継続的な努力の目的はこれだ。それは左側の末端で民主党が採用してきた策略の鏡像である-確かに、民主党はあなたにとって最も重要な問題に取り組んでくれないかもしれない。けれども、あなたは共和党員ではないので、一番感情を害されない政党に投票する。そうではないだろうか? よろしい。もしもあなたが、あなたにとって最も重要な関心事にまったく対処されないことを確実にしたいのならば。

けれども、更なる障害が存在する。それは、賃金階級にとって本当に重要な問題を提起する試みに対する、給与階級の広い範囲 -左、中道、右、どんな名前であれ- からの反発である。稀な場合にこれがパブリックな空間で発生した時には、賃金階級の代弁者はコキ下ろされる。私がこの記事の最初に議論したような大盛りのあざけりによって。同様のことがプライベートで起きた場合は、異なるスケールで同じことが起きる。もしも疑うのであれば -読者はおそらく疑っているだろう、もしもあなたが給与階級に属しているのなら- 以下の実験を試してほしい: あなたの給与階級の友人たちを何かしら気楽な状況に置いて、一般的なアメリカ人労働者についての話をさせてみるのである。そこであなたが耳にすることは、粗野で、戯画的な一面的ステレオタイプから、正真正銘のヘイトスピーチまでの範囲に及ぶだろう。賃金階級の人々はこれに気付いている; 彼らはすべてを聞いているのだ; 彼らは馬鹿で、無知だなどと呼ばれている。

そこで、読者諸君、ドナルド・トランプの登場である。

トランプは聡明である。これにはいささかの皮肉も込めているつもりはない。トランプは、賃金階級を自身の旗印のもとに結集させる最も効果的な方法は、給与階級からの通常通りの鋭いあざけりによって自分自身を攻撃させることであると気付いたのだ。あなたは本当に思うだろうか? - 数億ドルを持つ男が、給与階級から受け入れられるような髪型をする余裕が無いなどと。もちろん、彼にはそれが可能だ; 彼は意図的に異なる方法を選択しているのだ。なぜならば、メディアの特権的なコメディアンの誰かが、あるいはインターネットの荒らしが、トランプが給与階級の好みを満たせないことを直接的に侮辱するたびに、別の数万人もの賃金階級の有権者たちは、自分が経験した給与階級からの終わりなき侮辱を思い出して、こう考えるのだ。「トランプは私たちの一員だ。」

トランプが、許容される政治的言説に関する現行のルールに意図的に違反していることも、同一のロジックが支配している。トランプが何かを口にして専門家を極度の混乱に陥れさせるたびに、また、今度こそ彼はやりすぎで選挙キャンペーンは必ずや無様に崩壊するだろうとメディアが自分自身と視聴者を信じ込ませようとするたびに、トランプの支持率が上昇していくことに気がついただろうか? トランプが話していることは、労働者向けの居酒屋やボウリング場で、違法移民やムスリムのジハード戦士テロリストが議論に登るときに話されていることとまったく同じなのである。メディアの金切り声は、トランプのアピール対象である賃金階級の有権者たちの心の中では、トランプは彼らの仲間であるということ、スーツの人間に見下された賢明な考えを抱く普通のアメリカ人だということを確証するものでしかない。

また、トランプが発する専門家にとって受け入れ難いコメントが、レーザーのごとき正確さで移民問題に焦点を当てていることにも気がついただろうか。それは入念に選定されたスタート地点なのである。というのは、違法移民の削減は、共和党がしばらくの間支持すると主張していたことであるからだ。トランプがリードを広げるにつれて、今度は、方程式の逆側についての話も始めている。雇用のオフショアリングである。海外のアップルのスウェットショップに対する最近のトランプの攻撃がこれを示している。トランプのジャブに対する主流派メディアの反応は、この事例を証明する好例である: 「もしもスマートフォンアメリカで製造されていたら、我々はスマートフォンにより多く支払わなければならないだろう!」というものだ。そして、もちろんこれは正しい: もしも賃金階級が家族を養えるだけの真っ当な仕事を得るのならば、給与階級は自分のオモチャにもっと多く支払わなければならない。これは給与階級の多くの人々にとっては考えられないことである -自分たちが使うエレクトロニクス製品が、海外にある地獄の穴の底で飢餓的賃金で製造されていることに対して、給与階級の人々は完全に満足している、それによって価格が低下する限りは- それが、トランプが極めて効率的に活用している煮えたぎった憤怒の釜を理解する一助になるかもしれない。

トランプが、人々の憤怒に乗って一直線にホワイトハウスへと至るのかはまったく定かではない。けれども、現時点ではそれが一番可能性の高そうな結果だと思える。とはいえ、彼が敗北したとしても、それが政治的エスタブリッシュメントがあらゆる批判を投げかける中で彼をフロントランナーの地位へ引き上げた現象の終焉を意味するなどと考えるほど、読者諸君がナイーブだとは信じていない。私は、トランプの立候補をアメリカの政治生活における大きな分水嶺と捉えている。賃金階級 - アメリ有権者の最大階級であることを忘れないでほしい- が自分自身の力のポテンシャルに目覚め始め、給与階級の上昇に対し反発を始めた地点である。

トランプが勝とうが負けようが、その反発は今後数十年間のアメリカ政治を定義する力となるだろう。それでも、トランプの立候補は、ありえないほどの最悪の形だというわけでもない。もしもトランプが敗北したとすると、特に、明白に不誠実な手段によって負かされたならば、賃金階級の大義を継承する次のリーダーが好むものは、軍隊の腕章、さらに言えば、路肩爆弾である可能性がとても高い。ひとたび憤怒の政治が開始されたならば、いかなることでも起こりうる。とりわけそれが当てはまるのは、おそらく言っておかなければならないだろうが、当の怒りがそれを向けられた人々の行動によって十分に正当化される場合である。

2016年米大統領選挙 ジョン・マイケル・グリアのトランプ当選予測エッセイ集

既にこのブログで何度も取り上げているジョン・マイケル・グリアですが、彼は2016年1月の時点でドナルド・トランプの大統領当選を正確に予想していました。それもただの思い付きや当てずっぽうではなく、アメリカの田舎町で自身が見聞きしたことをベースとして、その上に歴史の知識と歴史の勃興サイクルについての深い洞察を加え、アメリカ政治の (そして、民主国家の) 現在と未来を極めて説得力高く描き出していました。

そこで、グリアの2016年の時事評論のなかでも特に興味深いものをピックアップしてみました。日付は、特に明記していなければすべて2016年ものです。またグリアの旧ブログ『The Archdruid Report』は既に閉鎖されているため、有志のミラーサイトにリンクしています。

Down the Ratholes of the Future (1月6日)

新年の企画として、毎年グリアは昨年の予測振り返りと当年の予測を行っている。この記事でドナルド・トランプの当選の可能性について初めて言及した。

一方で、アメリカ人の生活の政治的コンテキストは、爆発へと向けて定常的に加熱されている。私がこれを書いているとき、重武装民兵集団がオレゴン州南東の砂漠にある連邦の野生動物保護区の建物を占拠し、膠着状態を起こそうと試みている。このようなスタントが道化じみたものであることは疑いがないが、ジョン・ブラウンといった暴力的奴隷廃止論者の行動も、同時代にはそれと同じくらい無意味なものだと見なされていたことを忘れてはいけない; 彼らが重要であるのは、純粋に、内戦へ向かう圧力の高まりの目安としてである-そして、それこそがまさに私がたった今説明したイベントから読み取ったことである。

つまりは、私はいかなる規模の武装蜂起であれ、今年の合衆国で発生するとは予期していない。田舎と都市部でのゲリラ戦闘の時代、路肩爆弾、強制収容所、あらゆる側からのおぞましい人権侵害、そしてあらゆる方向へと逃げる何百万人もの難民、などがアメリカ合衆国で発生するまでには、まだしばらくの時間がある。それには一つの決定的な理由がある: 近い将来において武装蜂起する可能性が最も高い人々のほとんどは、最後の挑戦として政治プロセスに賭けると決断したからだ。そして、彼らにそれを仕向けたのは、ドナルド・トランプの立候補である。

トランプの、フロントランナーの立場への驚くべき進歩の重要性は、あまりに巨大で複雑であるため近い将来にこのブログで独立の記事を書くつもりだ。今のところ、関連のあるポイントは、名目上の共和党員は、党の公式認定候補者によって宣伝され平常運転にあまりにも疲れているため、彼らはダビーオバマ時代とでも呼びうる超党派のコンセンサスを壊すためであれば、ほぼ誰にでも進んで投票するだろうから: ダビーオバマコンセンサスとは、アメリカ人の膨大なマジョリティを悲惨へと追いやり、しかし特権的なマイノリティに利益を与え続けているコンセンサスである- 延々と批判されている1%ではなく、アメリカ人の収入上位20%程度のマイノリティである。

ヒラリー・クリントンは、20%の有権者の候補者である。過去20年かそこらの間ずっと続いていたものごとを、今後も継続したいと願う者たちの選択肢である。より正確には、彼女は平常運転の ビジネス・アズ・ユージュアル軍団の左翼の候補者の1人である。というのは、民主党へ投票する上位20%の半数は彼女のまわりへと集い、競争を行なわせないために最大限の努力をしたからであり、一方で共和党へ投票する半数は、ジェブ・ブッシュあるいはそれ以外の凡庸で代替可能なライバルのもとへ集うことに失敗したため、下位80%の人間が独自の選択をした際に妨害を受けたからである。未だバーニー・サンダースが困難をくぐり抜けて逆転する可能性はある、もしも彼がこの先の初期の予備選挙のいくつかでクリントンを完全に打ち負かし、民主党の下位80%が自身の声を聴かせられたら。けれども、それは途方もない挑戦である。現時点においてそれよりも可能性が高そうなのは、ヒラリー・クリントンドナルド・トランプである。そして、サンダースであればトランプを負かせられるかもしれないが、クリントンではほぼ確実に不可能である。

長く、鈍重で、派手に腐敗した選挙プロセスをアメリカが進むにつれて、確実にたくさんの転換点が存在するだろう。共和党が何らかの方法によりトランプを指名から締め出すことはありうる。そのような場合には、誰が共和党候補となったとしても、共和党支持者の下位80%は家に留まるために地滑り的な敗北を喫するだろう。多くの選挙不正が行なわれた場合、-選挙不正が純粋に共和党の習慣であると考える人は、シーモア・ハーシュの『The Dark Side of Camelot』を読むべきだ。そこでは、1960年の大統領選挙で、ジョー・ケネディが彼の息子[ジョン・F・ケネディ]のために買収を行なったことが詳細に記されている-クリントンが勝ち進み、ホワイトハウスに入る可能性もある。サンダースが、民主党エスタブリッシュメントによって上げられた防壁をよじ登り、選挙戦に勝つ可能性さえある。

現時点においては、しかし、これについて私が言いたいことよりは少ないものの、2016年の選挙の結果として最も可能性が高いのは、2017年1月にドナルド・トランプが大統領として任命されることであると思う。これがスペシフィックな予測の3番目である。

Donald Trump and the Politics of Resentment (1月20日) 
ドナルド・トランプと憤怒の政治

トランプの躍進に関する、最初のまとまった記事。アメリカの労働者階級の苦境と、それを効果的に活用したトランプの戦略。

The End of Ordinary Politics (4月6日)
ふつうの政治の終わり
Where On The Titanic Would You Like Your Deck Chair, Ma’am? (4月27日)
タイタニック号の上のどのデッキチェアをお好みで?ご夫人。
A Few Notes on Burkean Conservatism (5月11日)
バーク保守主義についてのいくつかの覚書
Outside the Hall of Mirrors (6月29日)
鏡の間の外で

Brexitに関する評論

Scientific Education as a Cause of Political Stupidity (7月13日)
政治的愚かさの原因としての科学教育

エンジニアの思考が政治について誤った判断を下すことについての解説

The Coming of the Postliberal Era (9月28日)
ポストリベラル時代の到来
Reflections on a Democracy in Crisis (11月9日)
危機における民主主義についての省察

11/8 の大統領選挙直後に書かれた記事。政敵を悪魔化するレトリックについて。

When The Shouting Stops (11月16日)
叫び声が止むとき

「なぜ彼らはトランプに投票したのか?」 その答えをトランプに投票した人に聞いてみる。

The Kek Wars (2018年7月)
ケク戦争

番外編。トランプを大統領の座へと押し上げた、アメリカの2ちゃんねるに集った混沌の魔術師たちの話。