Going Faraway

渡辺遼遠の雑記帳

書評:核融合研究 錯誤と不正の歴史『Sun in a Bottle』(チャールズ・サイフェ)

Sun in a Bottle: The Strange History of Fusion and the Science of Wishful Thinking

Sun in a Bottle: The Strange History of Fusion and the Science of Wishful Thinking

数年前、ロッキード・マーティン社が、10年以内に小型核融合炉を実用化すると発表したニュースを覚えている人は居るだろうか。当時も、核融合研究の将来性と未来のエネルギー供給に対する、なんとなしの楽観論が広がっていたように思う。どうやら、核融合には私たちの心を捉えて離さない「何か」があるらしい。

本書『Sun in a Bottle』は、副題にも表されている通り、核融合研究の失敗史を通して、その「何か」--希望的観測 (wishful thinking) -- が、どんなふうに表れるのかに迫った本だ。

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著者チャールズ・サイフェは、数学とジャーナリズムの修士号を持つ著名科学ライター。日本語には、『異端の数ゼロ』、『宇宙を復号する』といった本が翻訳されている。後述する通り、Science誌のニュース記者として働いていた経歴があり、核融合に関する科学スキャンダルにも若干の縁がある人だ。

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核分裂核融合について、簡単にまとめておく。(2章、1章)

核分裂核融合も、根底にある原理は同じものだ。物理学に詳しくない人でも、アインシュタインの等式 E=mc^2 を一度は眼にしたことがあるのではないかと思う。この式は、(原理的には) 質量m が、光速cの二乗を掛けた膨大な量のエネルギーE へと変換できることを述べている。核分裂の場合は、ウランやプルトニウムのような重く不安定な原子核が分かれる時、核融合の場合は、(重)水素のような軽い物質の核がくっつく際に、わずかながら質量が失なわれる。その失われた質量が、熱などの形でエネルギーに変わる。太陽や夜空の星が輝くのも、その内部で核融合が起こっているからだ。

核物理学の物理理論は1930〜1940年代ごろまでにほぼ発見され、商用核分裂炉の実用化とほぼ時を同じくして核融合炉の研究開発も始まった。1952年には、アメリカの水素爆弾実験アイヴィー・マイクによって、核融合を人工的にも発生させられることが証明された。以来60年以上にわたって、核融合反応から持続的にエネルギーを取り出す方法の開発が進められている。

しかし、核分裂炉は、もともと不安定な物質を使うため、(核融合と比較すれば)容易に実現できる(それゆえに暴走の危険もある)のに対して、核融合炉は普通の環境では自然には進まない反応を利用するため、反応を発生させ持続させることは非常に困難であることが分かったのだ。

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本書は、核融合炉研究が始まる少し前、原子爆弾(核分裂の爆弾)および水素爆弾(核融合爆弾)の研究開発から語られる。核融合研究の科学的・工学的側面の説明と共に、研究者たちの人間模様にも光が当てられている。ややドラマチックすぎるようにも感じるものの、小説のように面白く読めた。(核物理学の専門用語を除けば、英語の文章も明快で非常に読み易いと思う)

優秀な物理学者でありプロジェクトマネージャであったものの、身内に多くの共産党員が居たためにソ連のスパイではないかと疑われた「原爆の父」ロバート・オッペンハイマーと、共産党政権下のハンガリーからアメリカへと亡命し、それゆえに強硬な反共・反ソ派である「水爆の父」エドワード・テラーの確執と対立。(1章) オッペンハイマーは反原子力運動にかかわり、核物理学の研究から追放されることになる。その後、テラーは水爆を開発し、土木工事のために水爆を用いる "plowshare" 計画を進めるものの、放射能汚染の問題を解決できず、結局計画は放棄されてしまう。(3章) テラーは、変人的なまでの楽天主義者であったという。同僚科学者は、楽観の度合いを表して「1テラー」という単位を使っていたそうだ。

核融合炉研究における不正と錯誤の歴史は、研究自体の歴史と同じ程度に古い。さしたる物理学上の業績もないまま、アルゼンチンのフアン・ペロン大統領に取り入り、全世界に「人類初の制御核融合実現」を宣伝した元ナチスの科学者ロナルド・リヒター。やはり世界中に成功を宣伝したものの、結果的に実験装置の不備による誤検出であったと判明した、英米の共同研究プロジェクトであるZETAプロジェクト。(4章)

それでも、1950年代〜1960年代ごろまでにはアメリカで、その後世界各地でも、短時間の制御された核融合反応が実現した。ただし、そのためには外部から大量のエネルギーを投入しなければならず、対して発生したエネルギーはごく僅かなものではあった。

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核融合反応を起こすためには、互いに反発し合う原子核同士を、極めて近い距離まで接近させる必要がある。そのためには、燃料となる重水素を、超高温かつ超高圧に保たなければならない。水素爆弾の場合は原爆の熱エネルギーが、恒星の場合は巨大な重力がそのエネルギーを供給している。

数十年以上にわたって、「超高温かつ超高圧」を実現するための方式として、2種類の方法が研究されてきた。電磁力を用いて重水素のプラズマを狭い範囲に圧縮する「磁気閉じ込め方式」、もう1つはレーザー光線の照射で燃料を圧縮する「慣性閉じ込め方式」だ。しかし、研究が進められるにつれて、磁気閉じ込め方式も慣性閉じ込め方式も、小規模の装置では核融合反応を実現できないと判明した。装置の規模は巨大化し、その建設費用も1国の予算では到底賄えない規模にまで膨れ上がっていった。(5章)

常温核融合という「科学史上最大のスキャンダル」が発生したのは、核融合の新たな原理が求められていた、ちょうどそんな時代であった。

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1989年に発生した常温核融合の騒動 (6章) にはかなりの紙面が割かれている。「常温核融合」を「発見」したのは、アメリカ、ユタ大学のポンズ教授とイギリス、サウサンプトン大学のフライシュマン教授だ。彼らは、核物理学を専門とする物理学者ではなく、化学者であった。核融合炉の実験炉の建設費用は数十億ドル、数百億ドル単位にも達しようかという時期、2人の研究者の主張によれば、ビーカーに入れた重水にパラジウムの電極を使って電気を流すだけで核融合反応が発生するのだという。

おそらく、2人の教授が観察した現象は、最初はちょっとした思い込みと実験条件の不備だったのだろう。(当時アメリカで行なわれていた核実験から生じた放射性降下物の混入を、核融合の生成物と取り違えたのではないかと言われている) 次第に、新たな発見がメディアから注目され、州・連邦政府から補助金が支出される計画が立てられるに従い2人は後に引けなくなり、実験結果の改竄にまで手を染め、科学会から追放されアメリカを去るハメになってしまう。

常温核融合スキャンダルの展開は、まるで研究不正のテンプレートのように見える。科学論文の発表よりも、一般メディアのプレスリリースを通して大々的に世間の注目を集めたこと。当初は、他の科学者からも「追試に成功した」という報告があったこと(その後ほとんど取り下げられた)。次第にネガティブな結果が増えていっても、当の本人たちは決して自身の誤りや不正を認めなかったこと。最後は、科学的な議論よりは社会的・政治的なレベルで決着を付けるしかなかったこと。これは近年の研究不正の騒ぎとも酷似している。

ちなみに、発表当初から2人の教授を擁護したブリガムヤング大学のスティーブン・ジョーンズ教授は敬虔なモルモン教徒でもあり、その後「ナザレのイエスは、実は中央アメリカを訪れていた」ことを証明しようと試みる研究に入り込んでいったというオマケが付いている。

その後も、1990年代のバブル核融合 (7章) において、常温核融合の悲喜劇は繰り返されることになる。潜水艦モノの映画が好きな人であれば、スクリューから生じる「キャビテーションノイズ」という言葉を聞いたことがあるかもしれない。単純に言えば、船のスクリューなどにより液体が高速で動かされると、液体の内部に「キャビテーション」という(真空の)小さな泡が生成される。ここで観察されたバブル核融合は、重水素を含む液体 (アセトン) に超音波を当てた際に生じるキャビテーション内で生じるとされた。泡が潰れる時にその内部は高温高圧になるため、そこで核融合反応が起きることが「観測」されたという主張がされたのである。付け加えておくと、キャビテーション内部の温度と圧力は、核融合が起こると考えられていた条件よりも数桁低く、発見者のグループ以外の研究者は誰も追試に成功していない。

バブル核融合の論文がScience誌に受理されたとき、サイフェ氏はScience誌のニュース編集部 (査読論文の編集部とは別部門) に勤務しており、一連の騒ぎを "ground zero" で目撃することになった。かなり早い段階から、彼は論文著者や査読者とコンタクトを取り、独自の取材と考察を深めていった。論文誌の査読プロセスの自律性を守ろうとするScience誌の編集長と、常温核融合の二の舞を防ぎたい核物理学コミュニティ(特に、論文著者の所属機関であるオークリッジ研究所) の間の綱引きへと、否応なしに著者は巻き込まれていく… バブル核融合の顛末は、著者が騒動に近い場所にいたこともあり、非常に臨場感があって面白かった。

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主流派の核物理学者たちも、大して好成績を挙げているとは言い難い。1985年に米ソ間の合意から始まった国際的な核融合炉研究プロジェクト「ITER」は、各国の政治的な思惑から遅れに遅れ続け、建設地を決めるのでさえ20年近く要するありさまだ。当初計画では2018年には稼動開始の予定であったものの、現在でも更に遅れが続いている。

私も明確には知らなかったのだけど、これら現在実際に進行中のプロジェクトは、あくまで「核融合とプラズマ」に対象を絞った一種の学術研究であり、「実用的な発電所」の実現を目指したエンジニアリングではないのだという。持続的に核融合反応を継続させることは、おそらく可能ではある。それでも、発生したエネルギー (中性子) を吸収して、熱を発生させて、利用可能な形でエネルギーを取り出す方法の開発は、こういった「核融合炉」プロジェクトの対象外である。たとえて言うならば、「薪木」に点火して燃やし続ける方法はようやく分かってきたものの、火にくべて湯を沸かすための「ヤカン」の作成方法を理解するには、まったく別の研究を進めなければならない。だから、今のところヤカンの耐久性、運用方法や処分方法もよく分かっていないというのだ。

核融合の研究においては、ほぼ60年の全史を通して、あまりに度が過ぎた楽観主義と錯誤、最悪の場合は研究不正が繰り返し繰り返し起こってきたことが、豊富な事例をもとに示されていた。

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最終章 (10章) では、科学研究の推進力であり不正と失敗の温床でもある「希望的観測」についての考察が取り上げられている。

テクノロジーの開発は、「かつて不可能だったこと」を可能にするものだ。これまで不可能だった領域に、前人未踏の領域に踏み込み、かつて誰も成し遂げたことのない新たなテクノロジーを開発するためには、何らかのビジョン --「世界をこう変えたい」という希望と信念-- が必要とされる。--「無尽蔵のエネルギー」、「人間レベルの知能」、「不老長寿」など。こういったビジョンは、科学者が直接的に言及することは少なくても、科学研究を裏付ける原動力なのだ。テクノロジーには、希望的観測を実現していく力があることは否定できない。

ところが、この「希望的観測」が暴走したり悪用されたりした場合、存在しない現象を観察・捏造してしまったり、既に間違いが示された結論を延々と擁護し続ける状況に陥ってしまう。最後は、社会がそのビジョンを是認するか否かという、科学的な根拠と論理とは別レベルでの決着となることがある。この種の社会的レベルでの決着は、たいていの場合、科学コミュニティそのものを傷つけ、更には「自身の権威や利権が脅かされることを恐れた守旧派科学者の圧力だ!」という陰謀論を産み出し、いっそう深く永続的な傷をもたらす場合すらある。

科学とテクノロジーは、希望的観測に対する解毒剤となる一方で、希望的観測そのものとなってしまう場合もあるらしい。では、一体科学におけるビジョンと希望的観測をどう扱えば良いのだろうかという問題に、本書は明確な解答を示していない。おそらく、誰も解答を与えることはできないだろうと思う。それでも、我々が自身の思考パターンから逃れられないのならば、せめてそのパターンの存在を知っておく必要があるのだろう。

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本書は少し古いため、近年の状況には追い付けていない部分もある。たとえば、著者は核融合炉の研究よりは既に実用化された核分裂炉の利用を推進するべきだと述べているものの、福島第一原発の事故を見た後では安直に原発を推進する気にはなれないのではないだろうか。

それでも、ITER計画は遅延と予算超過が延々と続き、常温核融合の子孫を奉じるフリンジ的な科学者グループが論文ではなくプレスリリースを公表している状況を見る限りでは、本書で書かれた状況はそれほど変化していないのではないかと思う。核融合を専門とする研究者が語りたがらない失敗史、そして科学研究の裏にひそむ「希望的観測」の分析として、稀有で有用な本だった。

なお、最初に取り上げたロッキード・マーティン社の小型核融合炉は、その後ひっそりと、当初の設計サイズの100倍に巨大化する可能性があるという報道がされている*1。おそらく、この小型核融合炉も「希望的観測」の新たなページを刻み、その後世間から忘却されることになるのだろう。

The real danger of wishful thinking comes not from the individuals but from the wishful thinking at the very core of the science, is what makes the dream of fusion energy so dangerous to science. (p.225)

希望的観測の本当の危険は、個人からではなく科学の最央部にある希望的観測から生じる。これが、核融合エネルギーの夢を科学に対して極めて危険なものとしている。

【Deep Learning with Python】Kaggleアカウント登録方法とデータのダウンロード

次の例では、Kaggleというデータ分析コンペのサイトで公開されているデータセットを使って、CNNで分類をする。

Kaggleのアカウント登録

Kaggleのサイトからアカウントを登録する。SNSのアカウントを使っても良いし、メールアドレスから登録してもOK。

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今回はメールアドレスからアカウントを作成してみた。 Usernameはユーザ名、Display NameはKaggleのサイト上での表示名になる。なお、Display Nameは登録後にも変更できるけど、Usernameは変更できないので注意。

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送られてきたメールのリンクをクリックして、メールアドレスを確認すれば登録完了。

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ざっとコンペの内容を見てみると、コンテストという体裁を取った、企業からのデータマイニング案件の外注サイトのようにも感じる。

その他にも、データサイエンスと機械学習の学習コンテンツなどもあるようだ。

Learn | Kaggle

データのダウンロード

今回の例では、"Dogs vs. Cats"というデータセットを用いる。

Kaggle|Dogs vs. Cats

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"Download" をクリックしてデータをダウンロードする。このとき、初回ダウンロード時のみ、携帯電話のSMSを使った認証をする必要がある。 その後、"train.zip"と"test1.zip"の両方をダウンロードしておこう。(合計で800MBくらいあるので少し時間がかかる)

ダウンロードしたzipファイルを展開すると、いぬぬこ画像がたくさん展開される。

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本日はここまで。次回からはこのデータをディープラーニングを使って分類していく。

感想文:近代日本一五〇年――科学技術総力戦体制の破綻 (山本義隆)

確固たるエネルギー観に裏打ちされた、重厚な日本文明論。幕末の「黒船」到来から、平成の「福島」の原発事故までを俯瞰し、日本の歪んだ「科学技術立国」観に対して見直しを迫る名著だった。


著者の山本義隆氏を初めて知ったのは、私が受験生の頃でした。その頃は、硬派な物理の参考書を書く駿台講師としてしか認識していなかったけど、実は1960年代の東大物理学科の在学中に東大全共闘議長を務め、その後は在野で科学史の研究を続けているという特異な経歴を持った方です。

経歴から想像できる通り、日本の科学技術に対する著者の見方は極めてシビアです。明治以降日本の科学技術の受容においては、その裏にある思想を欠いたまま、生産力増強による経済成長を至上命題として科学技術の振興が図られたことが示されています。その根底にある流れは、明治期の「殖産興業・富国強兵」から戦時中の「総力戦体制」を経て戦後の「経済成長・国際競争」まで、一貫して引き継がれています。

印象深いのは、自分が好きな研究を続けるためであれば、体制におもねり合理性と科学的態度や見解を歪めてしまう科学者の情けなさです。戦後、科学者に対して行なわれたアンケートで、学問の自由が一番保障されていた時期は「戦時中」であるという回答が多かったことが記されています。そして、戦時に協力する対価として自由と豊かさを謳歌した研究者たちが、戦後、戦争協力に対する「総括」をすることもなく「科学技術の不足によって日本は戦争に負けたのだ」という責任逃れの言説を広め、戦後もほぼ無傷のまま「科学技術振興」は継続されました。(日本は科学技術の不足が原因で中国に負けたわけではない) 戦後も、公害問題から原子力政策に至るまで、経済成長と体制擁護のために科学者自身が「科学」を歪めていたことが記されています。

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もう一つ印象深いのは、著者の確固たるエネルギー観です。人畜の筋力から化石燃料の利用による蒸気機関・電気へという「エネルギー革命」、そしてエネルギー革命の「オーバーラン」たる原子力エネルギーへの幻想と失敗までが大胆に繋げられています。

しかし増殖炉開発計画の事実上の破綻と、福島第一原発の事故は、科学技術の限界を象徴し、幕末・明治以来の一五〇年にわたって日本を支配してきた科学技術幻想の周縁を示している。
科学技術の進歩によってエネルギー使用をいくらでも増やすことができ、それにより経済成長がいくらでも可能になるというようなことがありえないことを示したのである。(p.289)

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本書全体を貫く視点は、一貫して「反権力」であり、「体制外」のものです。そのイデオロギー的な単純な世界観にはやや首肯できない部分もありますが、おそらく、著者の市井の研究者としての生き様が反映されているのだろうと思います。しかし、ユートピア的・夢想的な科学技術幻想の裏に隠された、国家と企業のエゴイスティックな利害と抑圧に対する指摘は、極めて重要であると感じました。

「合理的」であること、「科学的」であることが、それ自体で非人間的な抑圧の道具ともなりうるのであり、そのことの反省をぬきに、ふたたび「科学振興」を言っても、いずれ足元をすくわれるであろう。(p.214-215)

『シンギュラリティ教徒への論駁の書』自選10記事

過去、『シンギュラリティ教徒への論駁の書』で書いた記事の中で、自分が気に入っているものをまとめておきます。 

『論駁の書』の論旨に沿って時系列でまとめているので、以下の記事だけでも私のシンギュラリティ懐疑論の骨子が理解できると思います。

問題の難易度と複雑性の指数関数的な増加が、指数関数的的な成長をオフセットしてしまう…「指数関数的な加速論」に対する、わりと本質的な批判だと思う。

ブログ初期のヒット作。「進歩」が加速しているという説を反駁しつつ、第2部のテーマである「停滞と没落」の予告も盛り込んだ意欲作。(ちなみにこのころは、すぐに2部を始める予定だったのです)

マインドアップロードの難易度の見積もりの過小評価に対するわりと根本的な批判だと思う。

リスクマネジメントにおける「(期待値)=(発生確率)x(インパクト)」の議論を、発生確率が極小でインパクトが無限大の事象に適用すると、途端に非合理的な結論が生じる、という状況を指して「パスカルの賭けの誤謬」という言葉を造語してみた記事。

純粋な情報分野ではない、社会インフラや生命科学や制度の変化には時間を要する。そういった状況を「質量」の大きさにたとえて、「社会の慣性の法則」という語を造語してみた記事。

ありがちな話ではあるけれど、「なぜ地球外知的生命体が観測できないのか」という「フェルミパラドックス」の宇宙論に関する話から、資源減耗と環境問題について話を繋げ、人類文明の行く末について論じられたので、古い知人からの評判が良かった。

氏の過去発言をまとめただけだけど、氏の予測に対する根本的な批判になっていると思う。

たぶん、全エントリの中で一番時間の掛かった労作。しかし、労力のわりにあまりバズらなかった哀しい記事。

「性格の悪さがにじみ出ている」と言われた記事。それでも、「認知的不協和」理論の実社会での事例として面白いと思っている。ちなみに、『論駁の書』の目次ページの日付を2045年「12月21日」に設定しているのは、この本へのオマージュだったりする。

最後は翻訳記事。「知能爆発」 説に対する極めて本質的かつ決定的な反駁だと思う。かなり有名な人工知能研究者にも読まれ、数ヶ月経っても未だにシェアされ続けているので、訳した甲斐があったと思う。

シンギュラリティ教徒への追悼の文 〜ブログ一周年にあたって〜

私のプロジェクトブログ『シンギュラリティ教徒への論駁の書』の最初の記事を、2017年5月18日に投稿してから一年がたちました。

この1年間で、AIに関する公的な議論の焦点も、自分の興味関心も移り変ってきました。在野の物好きな人間が見た「AIとシンギュラリティ」言説の状況、一年間のブログ書きの総括、ちょっと気の早い後書きとして、自分が感じていることを書き残しておきたいと思います。

AIを巡る言説の変化について

2010年代前半から沸き上がったAIブームは、しばらく前から言われていた通り、完全に沈静化したと言ってよいと思います。特に、昨年半ば以降、ディープラーニングと「AI」に対する過剰な期待、あるいは「シンギュラリティと超知能」のナラティブは、科学的・技術的に「誤り」というだけではなく、AI研究の方針と科学技術政策を歪める「悪い」ものである、と著名な研究者や科学ライターたちが指摘し始めました。いくつか列挙しておくと、ジャン=ガブリエル・ガナシア氏の『そろそろ、人工知能の真実を話そう』や新井紀子氏の『AI vs.教科書の読めない子どもたち』といった書籍、フランソワ・ショレ氏マイケル・ジョーダン氏のエッセイなどが挙げられるのではないかと思います。

また、Webや雑誌等の人工知能に関する日本の言説を見ても、ナイーブに「シンギュラリティ」に言及する議論は減ってきたように感じますし、どちらかと言えば地に足の着いた議論が増えてきたように見えます。(一部狂信者や利害関係者は発言を続けているようですが、元々私自身もそういった人たちの考え方を変えられるとは思ってはいません)

自分が発言していなくてもこの流れにさしたる影響は無かっただろうと思いますし、「私がAIハイプを終わらせた」と言うつもりもありません。それでも、信者の眼を覚まさせることができ、あるいは、無根拠でキャッチーな説への大衆的支持を利用して科学技術政策や投資への介入を目論む人間をウザがらせることができ、わずかなりともAI言説の軌道修正に貢献できたなら幸いです。

巨大IT企業に対する批判について

ここ1年程度の間に、超巨大IT企業、特にGAFA (Google, Amazon, Facebook, Apple)に対する批判は強まったように感じます。特に、Facebook社のケンブリッジ・アナリティカとのスキャンダル、トランプ大統領Amazon批判などが挙げられるかと思います。

こういった現象がシンギュラリティ論と絡めて議論されることはあまり多くありません。けれども、巨大IT企業のセルフブランディング、「人類の進歩の担い手」としての理想主義的な旗印の下に、エゴイスティックなビジネス上の利害が隠蔽されていると暴露されたことと、コンピュータとインターネットに対する技術ユートピアニズムの失速は、完全に無関係ではないだろうと感じています。(最終章ではこんな内容も書きたいなぁと思っています。)

ブログを書き出した経緯について

たまに「守備範囲が広いですね」と言われるので、もう一度私のバックグラウンドを説明しておくと、もともとOS/マイクロアーキ関連の研究室に所属していたこと、身内の病気がきっかけで神経生理学関連の調べ物をしていたことで、この2つの分野で若干の基礎知識を持っていました。(また、マイクロアーキ研究を通して、斎藤元章の事業もそれなりに早くから認識してはいました)

直接のきっかけとしては、自社内ですら能天気に「シンギュラリティ〜」を唱え出す人間が居てウザかったことと、斎藤元章氏の主張が行政の科学技術政策に若干の影響を与えていることに対して危機感を抱いたためです。

ただ、当初の想定では、ムーアの法則の著しい乱用と、脳構造の著しい単純化に対する批判と反駁がメインで、ここまで膨大なものになるとは想像していなかったのですが…

更に私の「計算」としては、

  • 若干論争的なテーマ設定なので、注目を集められるだろう
  • AI専門家は、あえて自分野のブームを盛り下げさせるようなことを言い出さないだろうから、この分野は競合が少ないだろう

と、ブロガー/ライターとして「名を売ろう」という若干の功名心があったことは事実です(笑)

ただし、想定外だったのは、

  • そもそもほとんどの人はシンギュラリティ論に興味すらなく、ターゲットが小さすぎる
  • 心から信じ込んでいる「信者」は、(正しさを確信しているから)論証により正しさを示すことにほとんど興味がないらしい
  • 自己利益のために論を利用しているだけの「偽信者」は、自分が根拠のないことを主張をしていると理解しているため、わざわざムキになって反論しようと考えない (そもそも、匿名ブログから攻撃されたところで蛙の面に小便)
  • 多数のAI専門家が、過剰なブームの盛り上りに対して苦言を述べだした

ことです。

自分が想像していたよりも注目は集まりませんでしたが、それでも、決して少なくない方(肯定派・懐疑派両方)から私の意見を支持または反駁するためのコメントを頂きました。ここでお礼を申し上げます。

Webで長文を書くことについて

目次でも書いた通り、もともと『論駁の書』は一種の書物として、流れを持つ一連の文章として発表しようと考えていたものでした。結果的に断念してブログで公表したわけですが、一方でSNSの隆盛によりブログそのものが下火になった現在、発表手段を間違えたかなあという感じがあります。

とは言え、2018年現在、Webで長文を書こうと考えた場合、一体何が適切なメディアであるのか今でも分かりません。

最近ではMedium、Qiitaやnote.muのようなパブリッシングサービスや特定分野のコミュニティサイトも流行っており、これらのサイト上で記事を見ることも多くなりました。しかし、上記サービスは単独の孤立した記事を書くものという印象が強く、10万字単位で、章立てを持つ、ある程度関連性のある文章を書くためには向いていないように感じます。とはいえ、これほどまでに莫大な長文をWeb上で公表しようとする人は非常に少ないらしく、ニーズもないからサービスもないのでしょう。やはり、これだけの規模の文章をマネタイズしようと思うと、未だ紙の書籍化以外の手段はないようです。

ちなみに、書籍化はまだ断念したわけではないので、ご興味のある編集者の方はご連絡いただけますと幸いです(笑)

書評:『11の国のアメリカ史』 (コリン・ウッダード)

ドナルド・トランプの大統領当選以来、アメリカ合衆国の社会の分断は日本のメディアでも取り上げられることも多くなりました。けれども、そこで取り上げられる事象は表層的で、ともすれば「白人至上主義者vs.有色人種」、「共和党vs.民主党」のように単純な二項対立で捉えられることが多いようです。

本書『11の国のアメリカ史』は、歴史的な視点から、複雑に絡み合ったアメリカ合衆国の分断の経緯に対して見通しを与えてくれる良書でした。

11の国のアメリカ史――分断と相克の400年(上)

11の国のアメリカ史――分断と相克の400年(上)

11の国のアメリカ史――分断と相克の400年(下)

11の国のアメリカ史――分断と相克の400年(下)

タイトルでも端的に表現されていますが、本書の中心的主張を要約するなら次のように言えます。

アメリカ合衆国という「ステイト」は、11の「ネイション」から成り立っている。植民地時代から続く11のネイションの協力と闘争が、今日までアメリカを形作っている。』

ここで、「ステイト」と「ネイション」という言葉には少し説明が必要かもしれません。本書では次の通り説明されています。

ステイトとは、イギリス、ケニアパナマニュージーランドのような主権をもつ政治的実体であり、国連の加盟資格をもち、ランド・マクナリー社やナショナル・ジオグラフィック協会作成の地図に載っているものである。ネイションとは、共通の文化、民族的起源、言語、歴史的経験、工芸品、シンボルを共有しているか、あるいは共有すると信じている人びとの集団である。(上巻 p.5)

ざっくりと言えば、「ステイト」とは地図に描かれる「国」のことで、「ネイション」とは、共通する民族や言語や宗教や歴史などの文化圏を指しています。

さて、この11のネイションですが、これは地図を見たほうが分かりやすいと思います。

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以下、本文では11のネイションの形成順に歴史が取り上げられています。


最初は、「エル・ノルテ」「ニューフランス」の形成について。アメリカ史は、1620年のピルグリム・ファーザーズのプリマス到着から書かれることが多いですが、それ以前よりフランス・スペインは南北アメリカ大陸に植民地を築いていました。この2カ国からの移民によって作られたネイションが「エル・ノルテ」と「ニューフランス」であり、現在ではそれぞれアメリカ南西部のメキシコ国境地帯、カナダのケベック州およびニューオーリンズに位置します。ほとんど知られていない事実として、アメリカを象徴すると見なされている牛の放牧とカウボーイの文化は、実はスペインの文化に由来するのだそう。

次は「タイドウォーター」の形成で、地理的にはヴァージニア州ノースカロライナ州の大西洋沿岸に位置します。このネイションは、イギリスの貴族階級出身者によってプランテーション会社として開始され、政治的には保守的・専制的な社会であったといいます。一方で、ヴァージニア植民地はトマス・ジェファソンやジョージ・ワシントンといった共和制の擁護者を生み出し、特にアメリカ建国期において大きな権力を占めるようになります。これは彼らが範とした社会のあり方は、ギリシャ・ローマ時代の「古典的」共和主義であったからだと言われています。

その次は「ヤンキーダム」ニューイングランドに端を発し、後に五大湖の西部にまで拡大したネイションです。イギリスを追われた急進的カルヴァン派が中心であり、貴族制を敵視し、宗教的理念に基いた理想社会の建設を目指したネイションです。「ヤンキーダム」は、現在のアメリカからはちょっと想像できないほどの厳格な宗教国家で、1656年に「長い航海から帰宅した船長が、玄関先で再会した妻にキスしたことは破廉恥である」として罰を受けた、というエピソードが挙げられています。当然、「ヤンキーダム」と「タイドウォーター」および後で取り上げられる「深南部」は理念からし犬猿の仲であり、後々もしばしば対立することになります。

「ニューネザーランド」は、ほぼ現在のニューヨーク市に相当し、オランダ人によって形成されました。当時のオランダは、金儲け以外にはさして興味のない宗教的に寛容な国であり(それゆえいわゆる「鎖国」中の江戸時代の日本もオランダとは通商を続けた)、その気風は現在のニューヨークにも繋っています。

「ディープサウス」、南部の奴隷州を形作った白人プランターは、英領バルバドス島のプランテーションに起源を持ちます。同時に、彼らはバルバドスの社会から奴隷制度を持ち込み、それが今日まで続く黒人への差別問題という暗い影を落としています。当時の道徳的価値観に照らしてさえ、彼らの奴隷の扱いは残虐であると批判されていたようです。

「ミッドランド」は、ペンシルヴェニア州に端を発するネイションです。イギリス系のクェーカー教徒によって建設され、宗教的に寛容だったためにドイツ系移民を多く受け入れ、穏健で中道的なネイションを形成しています。政治的にはどっち付かずでまとまりに欠ける部分もあり、アメリカ政治に大きな影響を与えています。(ペンシルヴェニア、オハイオは、トランプの大統領当選で話題になった「ラストベルト」の一角を成しています)

植民地時代最後に形成されたネイションが「大アパラチア」です。ヴァージニアからタイドウォーター経由で上陸し、そのまま内陸のアパラチア山脈まで移動し入植した人々からなります。その多くは「ボーダーランダー」と呼ばれるイングランドスコットランドの国境の紛争地帯に起源を持つ彼らは、総じて気性が荒く個人主義的・反政府的な気風を持ちます。

「レフトコースト」は、独立後に誕生したネイションで、地理的には太平洋沿岸部に位置します。文化的には、ヤンキーダムと大アパラチアの混淆であり、ヤンキーの理想主義的・宗教的な特性とアパラチアの個人主義的な雰囲気を持ちます。

最後の「極西部」は、気候条件の悪さから南北戦争後まで入植がされなかった、一番新しいネイションです。入植を可能としたのは鉄道、灌漑設備や農業機械といった資本集約的な技術であり、ネイションの始まった当初から大企業や連邦政府の強い影響下にありました。他ネイションに依存した国内植民地といった性格を帯び、それゆえに、反政府・反企業的な感情を抱いています。

最後の「ファーストネイション」は、アメリカ先住民のネイションですが、本書ではカナダから北極圏に住むイヌイットエスキモーを指しています。


この11のネイション間の相互の協力・敵対関係によってアメリカ史が作られた、という観点を打ち出しているのですが、その解釈も非常に興味深いものです。

アメリカ独立戦争は、13州が一致団結してイギリスの横暴と戦った…というような話ではなく、異なる価値観を持った反目し合うネイション同士が、共通の利害のために止むを得ず手を組み、いやいやながら協力したといったほうが実状に合うのではないか、と論じられています。

そして、南北戦争については、歴史の偶然によっては、武力闘争による暴力的な統合ではなく、理性的・平和的に、アメリカが4つの「ステイト」に分裂する可能性があったのではないかと解釈されています。実際のところ、奴隷制に対して強く反対していたのは、宗教的情熱に裏打ちされたヤンキーダムのみであり、他のネイションから奴隷廃止の主張は支持されていなかったからです。

そして、終章では、将来のアメリカ合衆国の展望が語られていますが、その姿はなかなか衝撃的です。国を統合する基本原理に対する尊重が失なわれた場合には、という条件付きですが、アメリカ合衆国は (カナダ、メキシコも) 複数に分裂する可能性すらある、とウッダードは主張しています。

2100年の北アメリカの政治地図は1900年あるいは2000年の政治地図と同じように見えるのだろうか。(...)
言えることはこうだ。アメリカ合衆国、メキシコ、そしていくぶんカナダが直面している課題を考えれば、北アメリカの政治的境界線が2010年の現状にとどまると想定するのは、(...) ありそうもないと思われる。

本書を書いている時点では、合衆国はグローバルな卓越性を失いつつあるように見え、衰退する帝国の古典的な兆候を示してきている。(下巻 p.233-234)

フォールアウトシリーズや士郎正宗の作品など、近未来の世界を描いたフィクションでは、分離国家となったアメリカが舞台設定として用いられることがあります。そんな観点から、アメリカの未来像を妄想してみても面白いかもしれません。

翻訳がヌルいせいか、あるいはウッダード自身の文章が分かりづらいせいか(おそらく両方)、扱っている内容は非常に面白いのにやや読み辛いのが残念なのですが、敬虔でありながら世俗的、理想主義的であり現実主義的、寛容にして差別的、平和的かつ好戦的な複雑なアメリカ、その複雑な成り立ちと将来を考える上で、欠かせない本であると思います。

読書メモ:身銭を切れ!『Skin in the Game』(ナシーム・ニコラス・タレブ)

ブラックスワン』で有名なナシーム・ニコラス・タレブの新刊。

Skin in the Game: Hidden Asymmetries in Daily Life

Skin in the Game: Hidden Asymmetries in Daily Life

 

タイトルの 「Skin in the Game」は、文字通りには「肌(身)をゲームに晒す」こと、イディオムとしては「身銭を切る」「自らの言動に対して、自分自身でリスクを負う」といった意味があります。(金融の世界では、投資家のウォーレン・バフェットが投資の判断基準の一つとして述べたことで有名になりました。)

例を挙げれば、自分で栽培した農作物を自分で食べる農家、自身が批判に晒されるリスクを引き受けて世間の誤りを正す人、起業家や自己資金を投じる投資家などは「Skin in the game」であり、一方で、自分自身は口にしない遺伝子組み換え食品を売る巨大アグリビジネス、ほとんどのジャーナリストや書評を書く人間(笑)、平時には多額のボーナスを受け取りながら、金融危機の際には税金から救済を受けるような投資銀行は、そうではないと言います。

すなわち、利益を手にするにはそれと対称のリスクを取る必要がある、そしてそのリスクを他人に転嫁するべきではない。そして、「Skin in the game」の状態こそが倫理的に善いものであり、社会全体でも「脆弱」ではない望ましい状態であると言います。タレブは、この 「Skin in the game」と「非対称性」の概念をベースとして、経済から歴史、科学から宗教に至るまで、さまざまな事象を分析しています。

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個人的に面白いと思ったのは、ごく少数のマイノリティの価値観が、社会全体に敷衍するプロセスを論じた節。ムスリム比率がせいぜい数%程度のヨーロッパの国であっても、ハラール食品の普及率はそれ以上に多いのだそう。ハラールな食品はムスリム以外でも食べられるものの、ムスリムは絶対に豚肉を食べない、という非対称性があるためです。このように、最も強固な信念を持つ少数派が大きな影響を与える傾向は、アレルギー食品から市民の権利に至るまでさまざまな場所で見られます。タレブはここから議論を発展させ、社会の価値観や規範は、全員のコンセンサスではなく(自分の信念に対して強く「Skin in the game」した) マイノリティによって形作られることを示しています。

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ブラックスワン』や『反脆弱性』と同じく、科学的な話題から神話や啓典から個人的なエピソードまで多様な話題が取り上げられていて非常に面白いのですが、文章は晦渋で難解です。過去作と共通の話題や論点もあるとは言え、しっかり理解できているとは言い難いので、翻訳が出たらもう一度読み返したい…
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以下は印象に残った警句の雑多な抜き書き。

"You will never fully convince someone that he is wrong; only reality can.”
(誰かに自分は間違っていると納得させることはできない。ただ現実だけができる。)

“Avoid taking advice from someone who gives advice for a living, unless there is a penalty for their advice.”
(生計のためにアドバイスを与える者からのアドバイスを避けよ。彼らが間違ったアドバイスに対するペナルティを受けるのでない限り。)

“Things designed by people without skin in the game tend to grow in complication (before their final collapse).”
(「skin in the game」のない人が作る物は複雑化する傾向にある (最終的に崩壊するまでは) )

“Studying courage in textbooks doesn’t make you any more courageous than eating cow meat makes you bovine.”
(教科書で勇気を学んでも勇敢になることはできない。牛肉を食べても牛にならないのと同じだ。)

“Science is fundamentally disconfirmatory, not confirmatory.”
(科学は根本的に不確証的なものであり、確証的なものではない。)

scientism, a naive interpretation of science as complication rather than science as a process and a skeptical enterprise. Using mathematics when it's needed is not science but scientism.
(科学主義[scientism]とは、科学をプロセスと懐疑的事業とみなすのではなく、複雑なものとみなす科学の素朴な解釈である。不必要な数学の使用は科学ではなく科学主義である。)

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たぶん私以外には完全にどうでもいいことだと思いますが、前作の『反脆弱性』では、レイ・カーツワイルの考えと行動をボロクソにけなした記述があって、今回もそんなネタを期待していたのですが無かったので残念でした。

 

ブラック・スワン[上]―不確実性とリスクの本質

ブラック・スワン[上]―不確実性とリスクの本質