Going Faraway

渡辺遼遠の雑記帳

翻訳:単一の未来のたそがれ (ジョン・マイケル・グリア)

ジョン・マイケル・グリアによる2019年7月31日の記事 "The Twilight of the Monofuture" の翻訳です。

The Twilight of the Monofuture

2週間前のこのブログの記事、進歩への信仰は、ある種の歴史的な記憶喪失にもとづいているという記事*1が、活発で大部分が思慮に富んだ反応を得たことを喜ばしく思う。オー、何件かの唾を飛ばすような汚い罵倒コメントを処理して削除したことは確かである。けれどもそれは、永続的な進歩という信念ベースの神話が今日の大衆文化において果たしている、重要だが未検証の役割についてハードな疑問を提示したとき常に起こることである。

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夢想…

進歩への信仰は、真に我らが時代の国教である。今日のほとんどの人々は、中世の農民が聖人や天使を信じていたのと同じくらい熱心に進歩の必然性を信じている。更には、最近の大多数の人々が進歩について話すとき、それは単に未来のテクノロジーが我々のものとは異なっており、やや複雑になることだけを意味するのではない。ノー、それよりもはるかに詳細である。[宗教学者] ジョセフ・キャンベルが、世界中のさまざまな神話を 単一神話 モノミス と呼ぶ1つのパターンへと落とし込んだように、我々の集合的イマジネーションは、非常に広い範囲にある人類のありうる未来に対して同じことをしており、未来を息苦しいまでに狭く厳密に定められたコンセンサスへ押し込めている。その未来は、 単一未来 モノフューチャーと呼ぶこともできるだろう。

親愛なる読者諸君、あなたたちはモノフューチャーを知っている。モノフューチャーは何十年にもわたってメディアに広まっており、繰り返し繰り返し、映画や小説やビデオゲームの終わりなきストリームの背景となり、現状の世界の欠陥を正当化するためにも繰り返し使用されている。モノフューチャーとは、我々が最終的に定期的な宇宙旅行、宇宙軌道上の生活圏、他の世界のコロニーを獲得した時代のことである - これらすべては私の世代が子供であったときに約束されたものであり、未だに実現していない。モノフューチャーには、核融合エネルギーや何らかの無限のクリーンエネルギー源があり、また同様に無限の原材料の供給もある。レプリケーターやロボット工場や何らかのギミックにより、誰もがあらゆる望みの商品を手に入れられる。もちろん、そこには空飛ぶ車もあり、ヒューマノイドロボット、超人的知能AIもある。そして、過去何十年もの間、工業諸国のイマジネーションの中に噴出していたその他あらゆる技術的な夢想も。モノフューチャーは測り知れない感情的なパワーを持っている。そのパワーを測定する方法は、そのような未来は訪れないとモノフューチャーの信者に指摘したとき、どれほど彼らが動揺するのかを見ることだ。

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…そして現実

おそらく、これを実際に確認する最も簡単な方法は、人類が他の惑星を植民地化することは決してできないと公言することである。もしそうしたとすれば、印象的なまでの反感を買うであろうと確信している。実のところ、人類は絶対に他の惑星を植民地化できないであろうと考える理由は膨大にある。凍結した、大気の無い、不毛な火星上に自給自足のコロニーを構築するという悪夢めいた経済学の問題から始まり、太陽系中心にある未防護の巨大熱核反応炉より放出される強烈な放射線から、脆弱な人間の身体組織を保護する磁気圏が、地球以外の太陽系内の居住可能な惑星には存在しないという冷酷な事実へと進み、有人宇宙飛行が富裕国における高価で一時的な道楽以外の何ものでもないと判明した、その他あらゆる理由にまで至る。

当然、これらすべてが問題ではないという反論も挙げられている。それらの反論を、モノフューチャーの一部ではない事象に対して検証してみると楽しいかもしれない。たとえば - このブログで過去に述べたことを再度言えば - 火星のコロニー化について述べられた主張はすべて、南極大陸中央のコロニー化についても強く主張できる。火星と比較すれば、南極大陸は実質的に熱帯のパラダイスである: その気候は極めて温暖であり、水と酸素ははるかに獲得が容易であり、太陽からの危険な放射線を遮る惑星磁場が存在し、鉱物資源は少なくとも豊富であり、その土壌は有害な過塩素酸塩で汚染されておらず、そこに行くには既存のテクノロジーでも容易であり、事故が起きた際にも1日か2日のうちに救助可能である - 火星の場合は、地球と火星が偶然適切な軌道上の位置にあったとしても9ヶ月も必要であり、それほど幸運でなければ期間は倍にも伸びるかもしれない。

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我々が約束されていたもの…

同様に、エベレスト山の頂上、マリアナ海溝の底、水もなく風に晒された中央アジアタクラマカン砂漠、あるいは地球上の他のいかなる過酷な環境ですら、火星コロニーを作ることよりも理にかなっていると説得力ある議論ができるだろう。それらの場所はすべて、火星よりも人間の居住に適している。そして、火星は地球以外の太陽系の惑星のなかで最も人間の居住に適している。それでは、なぜ入植者たちは南極のコロニー化に名乗りを上げないのだろうか? その理由は、南極のコロニー化はモノフューチャーの一部ではないためであり、そのため、ほどんどの人々は計算ができ南極コロニーが意味をなさないと理解できるからだ。

モノフューチャーに関して、これほどの明晰さはめったに見つからない。代わりに見られるのは、囚われの身に見られる色とりどりの不条理な思考停止によって支えられた、驚くほどの敬虔な熱意である。たとえば、もう私はいつからか忘れてしまったのだが、多くの人々がこのコンテキストで「人間が思いつくことができるものは、何でも達成可能である」と主張している。本当に巨大な規模のバカさ加減である。私は、機能する永久機関、宇宙全体のサイズのパディントンベアのぬいぐるみ、4つの辺を持つ三角形、猛烈に眠る無色の緑の概念、などを簡単に思いつくことができる - しかし、もしも宇宙コロニーという古びたファンタジーに疑問を呈したとすると、確実にそのようなバカげた反論を聞かされるだけではなく、他のコンテキストでは明白に誤りであるような屁理屈がここでは正しいのだと主張する人間を眼にすることになるだろう。

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…そして我々が得たもの

もしもお望みであれば、今挙げた思考停止を主張する人々を真剣にからかうこともできる。モノフューチャーの信奉者に、たとえば、天体の軌道の観察から未来を予測できるようになるだろうかと尋ねてみてほしい。おそらくあなたは憤慨した否定を受けるだろう。占星術は、極めて簡単に思いつくことができ - そして実際のところ、今日でも何百万という人々が実践しているのだが - モノフューチャーの一部ではない。それゆえに、我々が議論している信念体系からは擁護されないのだ。そのような信念体系を、私は進歩への信仰と呼んできたけれども、しかしここでも「進歩」という語は非常に微妙なニュアンスで理解されなければならない。惑星の軌道から未来を予測する方法を考案することは、実際のところ非常に目覚しい進歩である。しかし、「進歩」の信奉者はそれに興味を持っていない。彼らが信仰する種類の進歩は、それよりもかなり狭く定義されている; つまり、モノフューチャーへと向かう進歩のみから成り立っている。

それでは、モノフューチャーそれ自体は、宇宙コロニーや空飛ぶ車、超知能コンピューターと賢いヒューマノイドロボット、生命延長テクノロジーとボタンを押すだけで空気中から消費財を生み出すレプリケーター、汚染フリーな無限のエネルギー源、すべての人種と性別の人々が正確に同一のライフスタイルを取り、あらゆる重要な問題について同じ信念と意見を持っている - そのようなモノフューチャーのイメージは、どこから来たのだろうか? 未来のあり方についての単一の、狭苦しいこのような概念は、どのようにしてこれほどの信仰信条となり、今日の工業諸国において、多くの人が - 自慰的な大量死ファンタジーの未来を除いて - 異なる未来をまったく想像することができないほど信じられているのだろうか?

ここで、私は頭を下げてうなだれ足を引きずらなければならない。というのは、その元凶は私の大好きな文学ジャンルであるからだ。イエス。我々はサイエンスフィクションについて話している。

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我々がいるはずだった場所…

サイエンスフィクションの始まりは、モノフューチャーについての話、あるいは宇宙旅行のような何らかのモノフューチャーの標準要素とはまったく関係ないと言うのは公平だろう。このジャンルの歴史家の多くは、サイエンスフィクションにおける最初の作品 - 未だ実現していない科学的・技術的開発を中心とした物語、および、そのような開発の結果をプロットの中心とするもの - は、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』であると意見が一致しており、それは宇宙旅行やその他のモノフュチャーの標準的な特徴に関連してはいなかった。その点については、サイエンスフィクション史における次の2人のビッグネームであるジュール・ヴェルヌH.G.ウェルズは、彼らの執筆した膨大な作品のうちの相対的にごく一部でしか、宇宙旅行その他のモノフューチャー的ギミックを取り扱ってはいない。

更には、サイエンスフィクションの次の黄金時代、戦間期のパルプ時代へと進み、当時の雑誌に掲載された物語を読むと、大部分がモノフューチャー関連のテーマを無視していることが分かるだろう。物語の舞台のほとんどは、1920年代から1930年代の平凡な世界に設定されている。ちょうど、フランケンシュタインの舞台が18世紀後期の平凡な世界であったように。そして、物語の中で説明された発見や開発は、世界をほとんど変化させない。確かに、現時点において、これらの物語のほとんどは忘却の淵に沈んでいる - 当然の評価であるものも、そうではないものもあるが - ここで私が思いつくのは、読者諸君の何人かはC.S.ルイスSF小説『沈黙の惑星より [Out of the Silent Planet]』を読んだことがあるかもしれないが、これが当時のSF小説の雰囲気を表しているということだ。

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…そして我々がいる場所

ルイスの物語は、宇宙旅行の話である。重要なキャラクターであるマッドサイエンティスト (そして、もちろん、パルプSF時代の 典型的 ストック キャラの1つ) は、惑星間航行に必要となる大きな技術的ブレークスルーを達成したのである。シリーズの主人公、 エルウィン・ランサムという名のオクスフォード大学言語学者は、 - イエス。このキャラクターは、また別のオクスフォード大学言語学者、J.R.R.トールキンという名のルイスの友人をモデルにしている - 予期せず火星への旅行をすることになる。その結果、世界は完全に変化するのだろうか? まったくそうではない。ランサムが最終的に地球に帰ってきたときには、冒険の結果として地球上のものは何も変化しておらず、今後も変化することはないという穏かな確信のなかで、彼は近所のパブへ行き1パイントのビールを買うのである。

注意してほしい。『沈黙の惑星より』の出版前に既に印刷されていた物語は、モノフューチャーを発明するプロセスを既に開始していたのだ。また、宇宙船とも空飛ぶ車とも何も関係のない当時の膨大な量の作品の中から、モノフューチャー的物語だけを作為的に取り出したオールドSFアンソロジー本が多数存在する。(だからこそ、SF小説が最初に掲載された雑誌を見返し、当時のSF小説が他に何をしていたのかを理解することは、とても学びが多いのだ。) また、モノフューチャーは、その後にも町で遊ばれていた唯一のゲームではなかった。むしろ、第二次大戦後にサイエンスフィクションが成熟するに従い、探求される未来の範囲は劇的に拡大したのである。

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これはあなたの近所だろうか…

ここでもちろん、その一部は、現代のSF関係者のほとんどが話題にしたがらないこと - すなわち、1980年代前後のSFとオカルティズムとの巨大なクロスオーバーに関連していた。1980年代初頭のCSICOP*2などの疑似懐疑主義者の唯物論者によるSFファンダムの乗っ取りは、このジャンルを根本的に変化させた。それ以前には、非常に多数のSFファンと、決して少なくない数の重要なSF作家が、ポップなオカルティズムに眼を向けていたのだ。それが、ハインラインの小説『もしこのまま続けば』の中で、初期ウィッカ *3 のイニシエーション儀式についてそこそこ妥当な描写が見られる理由であり、それが、1950年代と1960年代のSF界のビッグネームたちの半数以上が、サイキックなパワーをプロットの主軸とする小説を書いた理由であり、それが、SF雑誌の裏表紙に掲載された秘密の広告が、オカルト通信教育の広告でいっぱいであった理由である。(また、それが、1978年に私が最初に参加したSFコンベンションにタロット占いに関するワークショップが含まれていた理由である。それ以降、そのような会場では見つけられない。) それは別の世界であり、より多くのオルタナティブな現実に対してオープンだったのである。

それでも、そこにはそれ以上のものがあった。当時のサイエンスフィクション作家たちは、我々が今住んでいる世界から可能な限り大きく変化した未来世界を考案しようと争っていたのである。ヴォンダ・マッキンタイアの『夢の蛇 [Dreamsnake]』、ジョン・クロウリーの『獣 [Beasts]』、ブライアン・オールディスの『地球の長い午後 [Hothouse]』、スーザン・クーンの『ラーネ [Rahne]』、M.ジョン・ハリスンの『パステル都市 [The Pastel City]』、ポール・アンダースンの 『世界の冬 [The Winter of the World]』 - 最初に思いついた例を挙げているだけだが - などを読んでほしい。それぞれのケースで、モノフューチャーの世界観からあまりにも遠く離れすぎているために、その痕跡を見つけるためにはハイパワーな望遠鏡が必要となるかもしれない。

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…それともこれ?

その直後の数十年の間に、サイエンスフィクションに正確に何が起こったのかは、複雑な問題である。私が思うに、その一部は、宇宙探査機が次々と送信してきた太陽系の惑星の写真が、SF黄金時代の誰も想像していなかったほどに人類にとって過酷な世界であったことに関連しているのではあるまいか。一部には、また、宇宙空間ベースの製造の試行のいずれも損益分岐点にすら近づいてすらおらず、ましてやアーサー・C・クラークの『宇宙の約束 [The Promise of Space]』その他の熱狂的なSF作品の期待に応えられるものではなかったという不都合な発見とも関係があったのだろう。別の理由としては、確実に、SFが 変わり者 フリンジ の文学からマスマーケットのメディア資産へと変化したこととも関係があったのだろう。率直に言えば陳腐な、でなければ古典的なスタートレックシリーズから始まったプロセスは、ハリウッドの 金のなる木 キャッシュカウであるスターウォーズシリーズや E.T. などの巨大な興行上の成功により加速していった。

どのような因果関係にせよ、けれども、最も革新的であった文学ジャンルの1つは、ハーレクインロマンスと同程度に厳格に定型化されたジャンルになり果てた。そこでは、モノフューチャーが力強いハンサムな男性キャラの役割を演じ、人類がその男のサイバネティック強化された腕に抱かれる女性キャラの役割を演じている。定型的な物語への堕落を測定する尺度としては、しばらく前に現代SF作家のなかで最高の1人であるキム・スタンリー・ロビンソンが『オーロラ [Aurora]』というタイトルの、失敗した恒星間植民を扱った素晴しい小説を発表したとき、SFファンダムに上がった怒声の合唱が挙げられるだろう。そのような物語は、SFが広い範囲の未来の可能性についてオープンであったかつての時代には、完全に許容可能なものであった - ジョン・ブラナーの恐しい『皆既食 [Total Eclipse]』やジョン・クロウリーのリリカルな 『エンジン・サマー [Engine Summer]』は、これをテーマとして扱った多数の小説のなかのたった2つの例である — しかし、ロビンソンの本に対する反応は? ここでもまた、ハーレクインロマンスが完璧な同等物を提供する: その反応は、ハーレクイン小説の出版社が、次のような優れた小説を出版した際に受けるであろうものである。つまり、ヒロインがヒーローと出会い、通常通りの展開を迎えた後で、最終的に彼女は独身でいることを決断するというものだ。

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これはファンタジーであった

そのようなハーレクインとSFの平行線は、私が思うに、我らが時代の集合的イマジネーションの中でモノフューチャーが立ち往生している理由を直接的に説明する。人がハーレクインロマンスを読むのは、現実的な愛の話を求めているからではない; 人がハーレクインロマンスを読む理由は、まさに、現実の生活を模倣しているのではないからこそ満足できる特定のファンタジーを楽しみたいと望むからだ。それが定型的ジャンルのフィクションの役割である - そしてそれには何の問題もない。お金持ちで力強いハンサムな男が平凡な女と恋に落ちる物語、はぐれ者の主人公集団が、魔法を振るってファンタジー世界を悪の支配者から救う物語、チョコレートショップを経営する中年男が、たった一人で邪悪な殺人犯を次々と捕える心地良いミステリー物語、その他何であれ、そのような豊かな白昼夢を飲み込むことで自身の生活の逃れがたい不満を慰めて少しだけ気分が良くなるとすれば、まさに、それこそが文学が常に仕えてきた基本的な人間の欲求なのである。

我々のほとんどは、けれども、自分自身のロマンチックな出会いは、ハーレクインロマンスの表紙から裏表紙の間で起きることとそれほど共通していないことを認識している。悪の支配者からファンタジー世界を解放するための英雄的なクエストに呼ばれる可能性は、パブリッシャー・クリアリング・ハウスの懸賞が当たる可能性よりもはるかに低いことを理解している。また、もしも我々が重大犯罪の目撃者となった場合の捜査は、ダウンタウンオフィスビルで退屈した刑事に何度も何度も同じ事実を繰り返し供述することであろう。つまりは、想像力豊かな文学世界と現実世界の違いを我々は理解しており、前者が後者を模倣する何らかの義務を生じさせるとは考えていない。

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これが我々の連れていかれた場所…

それが、代わって、モノフューチャーへ向けた進歩という現代神話がレールを脱線する場所である。我々が他の惑星を植民地化することは決してないという確固たる理由が存在し、あるいは空飛ぶ車は1917年以来繰り返し製造されテストされ、一貫してろくでもないアイデアであることが判明し、あるいは核融合は私が生まれた時から20年後の未来であり、現在でも20年後の未来であり、そして遠い未来にシマリスの遠い子孫たちが我々の化石化した骨を調査する時代になっても20年後の未来であり続けているだろう、というだけのことではない。ほとんどの指標において、アメリカおよび多数の工業諸国の大多数の人々の生活水準は、1970年代以来、不連続だが容赦なく下降を続けており、その方向が変わる兆候はない。

進歩的な装いを取りつくろわれた飛び地を抜け出し、ピッツバーグボルチモアマンチェスターグラスゴーのみすぼらしい道、パリ郊外の寂れた工業地域を歩けば - まぁ、いくらでも長く続けられるだろうが、ポイントはきわ立っている: それらの場所からは、モノフューチャーの到来がまったく近付いていないことは簡単に理解できる。更に先へと進めば、死すべき時が訪れた夢想たちは "象の墓場" を探している。それが、あまりに多くの人々がこれほどの金切り声で、今でもモノフューチャーが近付きつつあると主張している理由である。社会心理学者がずいぶん昔から指摘してきた通り、信念体系がもはや世界を十分に説明できなくなった時にこそ、人々が最も教条的に信念に執着し、信念を疑われた際最も強く怒りだすのである。

最近のオープンポストの中で読者の1人が教えてくれたのだが、彼が頻繁に通うサークルの中で、少なくとも、一時はきわめて蔓延していたニューエイジの信念体系が最近ではほとんど見られなくなってしまったのだそうだ。そこで起きたことは、注意を払っていた人にとってはまったく驚きではない。ニューエイジの教師たちは、自身の教えによる利益を主張していたのだが、多かれ少なかれ、それらの主張はうまく行かなかった。2008年~2009年の経済危機の直前、ニューエイジのグルであるロンダ・バーンの「引き寄せの法則」を使い、不動産取引で金持ちになろうとして結果身ぐるみ剥がされた多数の人々は、直近かつ最大の類似した大失敗の連続の、たった1つの事例でしかない。

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…そして最終的にはこうなるかもしれない

この種の失敗に対する人間の通常の反応は、少なくとも1回は"倍賭け"をすることであるので、2008~2009年のクラッシュ後に起きたことは、膨大な数のニューエイジ関係者が、マヤ歴の終わりとされる2012年12月21日にすべてを賭けることであった。何の事件も起こらずその日がやって来て過ぎ去ると、ニューエイジムーブメントは静かに崩壊した。ニューエイジの教えを未だに信じている人々がいることは確かだ。そして実際のところ、真の信者たちの小集団の存続は、このような外れた予測の結果として通常のことである。けれども、意味のある文化的な力としてのニューエイジは終わりを迎えた。

モノフューチャーのカルトに対して、何がこれと同じことを行うのかは興味深い疑問である。遅かれ早かれ、何らかの出来事がトゥモローランドの電源プラグを引き抜くことは、けれども、この時点において織り込み済みである。サイエンスフィクションは、楽しいものであることは確かだが、恋愛小説がリアルな関係を扱ったものではないのと同様にリアルな未来を扱うものではない。ニューエイジムーブメントの命運は、真の信者たちが、自分たちの過剰発達した権利意識に宇宙は奉仕する義務があり、彼らが相応しいと考える未来を叶える義務があると主張したときに、何が起こるかを明確に示している。どのような出来事の連続が、モノフューチャーの信奉者たちに無様な、しかし不可避のレッスンをもたらすのかは、興味深い疑問である; すべてのことを考慮すると、けれども、それを見るまでにあまり長い時間待つ必要はないと考えている。

***

グリアは、現代神話としてのSFの力を強く認識しており、彼自身もオルタナティブな未来を表現したSF小説を書いています。

Star's Reach: A Novel Of The Deindustrial Future (English Edition)

Star's Reach: A Novel Of The Deindustrial Future (English Edition)

Retrotopia (English Edition)

Retrotopia (English Edition)

*1:注: 翻訳:進歩と記憶喪失 (ジョン・マイケル・グリア) - Going Faraway

*2:注: 超常現象や疑似科学の批判を行う団体。サイコップ - Wikipedia を参照。

*3:注: キリスト教化以前のヨーロッパの多神教を復興した新宗教

翻訳:進歩と記憶喪失 (ジョン・マイケル・グリア)

ジョン・マイケル・グリアによる2019年7月17日の記事 "Progress and Amnesia" の翻訳です。

Progress and Amnesia

今週、私はピークオイルについての議論を直接的に始めるつもりであり、現在進行中の、有限の惑星から無限の高密度化石燃料を採掘するための試みが、1972年と2008年と同じく、いかにしてレンガの壁に正面衝突し、類似の結果をもたらすのかを語りたい。すぐ後でその話題に入るつもりだが、しかし、2週間前の成長の限界に関する記事*1には、ある面白い出来事が起こった。

その記事は、予想していた通り、オマエはこれ以上無いほど間違っていると言いたい人々からの多大な反発を招いた。私の誤りを言い立てる主張は、予想していた通り、お決まり通りの2つの陣営に等しく分割できた。一方では、これやあれや別の何かが必ずや成長の限界を打破し、宇宙の星々へと進む想像上の我らの運命に向けた歩みを継続させられるのであるから、私は誤っていると主張する人たちがいた。もう一方では、これやあれや別の何かが、一回の突然の黙示録的な打撃により我々を叩き潰してしまうのであるから、私は誤っていると主張する人たちもいた。

私が予想していなかったことは、これら2つの役割のうちのどちらか一方に押し込まれたあらゆる主張が、刻印されたシリアルナンバーの最後の桁に至るまで、完全に同一であったということであり、1972年と2008年に起きたエコロジカルな現実への正面衝突の際と完全に同一の役割を持たされていたということだ。更に言うなら、それらのすべてが、その2回の衝突への備えに失敗したか、その直後の余波において失敗したものであったのだ。提案された解決策は何も解決せず、差し迫ったカタストロフィの予告は繰り返し外れた - そして我々はまだここにいる。2度目の危機からは10年以上経過し、最初の危機からはほぼ半世紀も経過しているにもかかわらず。そして、それらの同一の失敗した解決策とそれらの同一の失敗した大激変は、今でも宣伝されている。まるで、以前そのようなことを提案した人がいなかったかのように。

たとえば、最近ピークオイルに対する解決策として最も頻繁に提案されているテクノロジーは、光起電 (PV) 太陽光発電である。私がまだ小学校にいたころ、スカラティック・ブック・サービス - 児童に安価な文庫本を販売するプログラム - は、子供でもできる太陽エネルギー実験を多数提供していた; 私自身も本を持っていて、そのうちの1つにはシンプルなPVセルを銅の薄板から作るものがあった。1972年のオイルショックをきっかけとして、当初宇宙プログラム向けに開発されたシリコン製PVセルは着実な価格低下が始まり、新技術で一般的であるように効率性も向上を始めた。2000年ごろまでには、太陽電池技術が成熟するにつれてその曲線はフラット化し、ほぼ20年にわたる更なる経験により、太陽電池に可能であることと不可能であることが理解された。

それらすべての経験は、きわめて簡単にまとめられる: エネルギー集約的な現代ライフスタイルを完全に太陽光発電のみで維持できると考えるのは、ただ太陽光発電を試したことがない人だけである。太陽光発電セルからは、間欠的にささやかな量の電力を得ることができる。太陽光発電セルで屋根を覆い、助成された金利で資金を貸し与える電力網と結び付いているのであれば、化石燃料由来の電気の恩恵をすべて受けながらも、化石燃料に依存していないかのように信じ込むことができる; しかし、もしも電力網から離れた場合、すぐに太陽光発電の厳しい制約が理解できるだろう。誤解しないでほしい。私は完全に再生可能エネルギーを支持している; それは我々が化石燃料を使い果たした後にも残るであろう; しかし、現代のライフスタイルを支えるバカげたほどのエネルギー浪費を太陽光発電セルのみで供給できると考える人は、単に、計算を行なっていないのだろう。それでも、太陽光発電に投資をしさえすれば、化石燃料の使用を止めても現状のライフスタイルを維持できると、今日のたくさんの善意の人々が主張するのを耳にしたことがあるだろう。

逆側には、核戦争のオバケがいて、我々はいずれにせよ死ぬのだからあまり劇的ではない未来への備えは無駄であると主張するために、お決まりのように定期的に持ち出されている。1945年8月のある晴れた日以来、人々は全面的核戦争は不可避であるだけではなく差し迫っていると声高に主張してきた。未だ気づいていない読者のために言っておくと、彼らは間違っていた。

彼らの予測の失敗は、何らかの偶然によるものでもない。核兵器は、その目的に対して極めて有効なのだ; 核兵器がペーパーバックのサイエンスフィクションの物語の完全なる想像上のギミックでしかなかった時より、一般大衆からは核兵器の役割は完全に誤解されてきた。核兵器は、大国間の戦争を防止するために存在する。核兵器は、誰も勝利できないことを確証することによって、これを行なう。これがアメリカ合衆国ソビエト連邦の間の苦々しい敵愾心が、ただ代理戦争と経済紛争においてのみ戦われた理由であり、イスラエルが信頼できる核抑止力を保持した後、アラブ諸国によるイスラエル侵略の意思が凍結された理由であり、合衆国と中国の間での西太平洋上における相互の対決姿勢が、何十年もの間ほとんど銃声無しであった理由である。

私はこれらすべてを何度もブログで言及してきたのだが、そのたびに、私の言うことは間違っており、近いうちに必ずや核兵器は我々を破滅させるだろうと主張する、ICBMサイズの罵倒の大群に襲いかかられるのだ。核兵器が殺人癖のある偏執狂的独裁者の手に渡ったら? (スターリン毛沢東は、"殺人癖のある偏執狂的独裁者" をはるかに超えた人間であり、両者とも核兵器保有していた; 我々はまだここにいる。) 宗教的な狂信者の手に渡った核兵器はどうだろう? (レーガンが政権を取り、携挙を信じる根本主義者クリスチャンを政府の枢要な地位に就けたとき、そのような議論がたびたびなされた; 我々はまだここにいる。) 破綻国家にある核兵器は? (ソビエト連邦が全面的に崩壊した際には、大量の核兵器が配備されていた; 我々はまだここにいる。)

更に続けられる。核戦争は不可避であるという主張を正当化するために使用されるあらゆるシナリオは、既に発生している。ただし、核保有国同士の巨大な従来型戦争を除いて - そして、核保有国間の巨大な従来型戦争は、決して発生しないだろう。なぜならば、核兵器の存在により、そのような戦争には勝者が存在しないことが確証されるためであり、それゆえにそのような戦争は決して戦われない。(ノー、それは殺人癖のある偏執狂的な独裁者であっても起こらない; 古いジョークにもある通り、狂っていることは愚かであることと同じではない。) これらすべてのことについて私が面白いと思うのは、私がこのようなポイントを指摘すると、人々は普通、「あぁ、神様ありがとう。我々は生き延びることができます。」といった反応を示さないことである。まったく正反対に、まるで、彼らが夢見る熱核兵器ホロコーストを取り上げられたかのように失望するのである。

このような事例は、けれども、まったく特殊ではない。我らが文化の未来に関する言説全体は、1970年代初頭以来停滞状態に陥っており、同一の切迫しているとされる即時の技術的修正と、同一の切迫しているとされる即時の黙示録的な厄災が、およそ半世紀以上にわたって繰り返されている。まるで、誰も過去にそのような提案をしたことがなく、またまるでそのどれも検証を受けたことがないかのように。未来に関する空想を取りまく奇妙な記憶喪失が存在しており、我々のようなごく少数の変人以外誰もその存在に気付いていないように見えることは、おそらく最も奇妙なことである。

私が考えている記憶喪失は、今日宣伝されているエネルギー困難に対する解決策、あるいはむしろ"非解決策"、または、その意味では、現在熱狂的に宣伝されている黙示録 - "非黙示録"と呼ぶべきかもしれない - に限らない。それを心に留めた上で、上記の停滞状態を最も目立つ形で体現している事例を取り上げてみよう: 空飛ぶ車という実現不能なファンタジーに、アメリカ人のイマジネーションが固定されていることである。

オタク階級の特権的な地位にいる人たちの空飛ぶ車の議論を聞いてみれば、そのほとんどがとても似通ったレトリックを終わりなく繰り返していることが分かるだろう。空飛ぶ車は最初サイエンスフィクションに登場した - 誰もがそれを知っている - そして、今や我々は本当に優れたテクノロジーを持っているので、空飛ぶ車を作成可能であるに違いない。証明終わり! このようなギズモ中心主義的なチアリーディング爆発から省かれている事実は、今から1世紀以上も前から空飛ぶ車は存在していたということだ。我々は完璧に空飛ぶ車がどう動くかを理解している。あるいは、まぁ、それが誰も空飛ぶ車を運転していない理由である。

少しばかり歴史を見てみよう。常に、このような未来的無知に対する最高の対応である。最初の実際の空飛ぶ車が作られたと考えられたのは、カーティス・オートプレインである。航空機のパイオニアであるグレン・カーティスによって設計・製造され、1917年にパンアメリカン航空博覧会で公開された。当時最新鋭のテクノロジーであり、プラスティック製の窓とキャビン用エアコンを備えていた。数ヶ月後、アメリカ合衆国第一次世界大戦に参戦し、航空機に使われるはずであった材料は徴発されたため、生産されることはなかった。大戦後、カーティスは自身の発明について考え直したようで、自分の大きな才能を別の目的に使用したのであった。

けれども、他の多くの発明家たちもそのギャップを飛び越えようとして、その後の何年かの間に、定期的に空飛ぶ車は路上と空へと発進していった。以下で挙げたのはごく僅かな事例である。左はウォーターマン・アロウビルで、ワルドー・ウォーターマンによって開発されたものであり、彼の名前にちなんでいる。1937年に飛行した; スチュードベーカー社製の自動車を改造したもので、5台が製造された。

戦後アメリカのテクノロジーブームの間に、当時の最大級の航空企業、コンソリデイティッド・ヴァルティー社は、1947年にコンヴェアカー モデル118を製造し試験した。それは消費者市場の上位層向けのものであった; 発明者はセオドア・ホールである。1台の実験モデルのみが作られ、飛行したのはたった1回のみであった。

左側のエアロカーは、1966年に初のテストフライトを行った。発明家のモールトン・テイラーにより設計され、空飛ぶ車としては最も成功を収めたものである。また、この車は、飛行可能なコンディションのモデルが存在する唯一の車種であるようだ。主翼と尾翼は、特段に力のない人でも取り外し可能であるように設計されており、路上で運搬する際にはトレイラーとして使用可能である。6台が製造された。

最も最近では、右側のテラフュージア社が2009年に8分間のテストフライトを実施している; この企業は、今でも機体を連邦航空局の規制に適合させようとしているが、しかし、最新のプレスリリースでも自信満々に2年以内に販売を開始すると主張している。もしも興味があるならば、1台たったの19万6千ドルで予約ができる。ただし、前払いで、飛行機の引渡し日は未定であるが。

もうすぐにでも空飛ぶ車を持てるだろうと人々が言うとき、言い換えるならば、彼らは1世紀以上も遅れているのである。1917年以来、空飛ぶ車は存在してきた。今日、皆が空飛ぶ車に乗って空を飛び回っていない理由は、空飛ぶ車が存在しないからではない。今日、皆が空飛ぶ車に乗って空を飛び回っていない理由は、空飛ぶ車というアイデアが本当にバカげているからだ。それはマラソンを走りながら同時に熱烈なセックスをすることが本当にバカげたアイデアであるのと同じ理由である。

自動車エンジニアであれば誰でも、優れた車の設計をするための特定条件を教えてくれるだろう。航空エンジニアえあれば誰でも、優れた飛行機の設計をするための特定条件を教えてくれるだろう。一般的に、物理法則と呼ばれる煩わしい厄介者により、優れた自動車を作ることは劣った飛行機を作るということを意味する。逆も然りである。多数の事例の中から1つだけを取り上げるなら、自動車のエンジンは、坂道を走り低速での牽引力を得るために高いトルクを必要とし、航空機エンジンは、プロペラの効率性を最大化するために高い速度を必要とする。そして、高いトルクと高い速度は両立しない; ある1つの能力に優れ、別の能力には劣ったエンジンを設計することはできるし、逆も然りである。そうでなければ、車輪向けのトルクもプロペラ向けの速度も不足する中間地点に陥ることだろう。このようなトレードオフは何ダースも存在しており、空飛ぶ車が中途半端に陥ることは避けられない。

それゆえ、あなたが手にする空飛ぶ車とは、ろくでもない車であると同時にろくでもない飛行機でもある乗り物である。その価格はあまりに高額で、同じ金額を使えば代わりに優れた車、優れた飛行機、そして本当に素敵なヨットなどを1、2台購入できるかもしれないのだ。我々が空飛ぶ車を持っていないのはそれが理由である。誰も空飛ぶ車を作らなかったからではない; 人々は1世紀以上にわたって空飛ぶ車を作り続けており、そこから得られる明白な教訓を学んでいる、あるいはむしろ学んでいないからだ。更には、上記の画像が示唆する通り、空飛ぶ車にまつわる問題は、単なる1つの、あるいは100個の技術革新によって解決されるものではない。なぜならば、それらの問題は空飛ぶ車が存在する物理的現実に結び付いたものであるからだ。我らが時代の巨大な学習されない教訓の1つに、何らかのちょっとした新たなテクノロジーが実現したからといって、マズいアイデアが優れたアイデアに変化するわけではないということが挙げられる。

2つ目の例を挙げてもよいだろうか? パルプサイエンスフィクションの、別の古典的なアイデアを取り上げよう。ジェットパックである。ギーク階級の特権的立場の人々は、いずれすぐにジェットパックが本当に、真に実現すると主張することを強く好む。ここでもまた、ジェットパックは、最初の液体燃料ロケットが実用水準に達して以来、何度も何度も製造されてきたのである。我々がジェットパックを身につけて空を飛び回っていない理由はシンプルである; 最強の男ですら、ごく短い距離を飛行する以上の燃料を背負うことはできないのだ。燃料のエネルギー密度にはハードな物理的限界があるため、コマンドー・コディ: スカイ・マーシャル・オブ・ザ・ユニバース [テレビ番組] はフィクションとしては面白いものであるが、エンジニアリングのプロジェクトとしては欠陥がある。それでも、ジェットパックはテクノフェチな社会の集合的イマジネーションの中に留まり続けており、人々はジェットパックを製造しようとし続けている - あるいは単に、適切な時期が来れば、進歩によって必然的にそれが生み出されると声高に主張し続けている。

同じことは、最後に、1970年代以来ピークオイルヘの即時の解決策として宣伝されているものすべてにも当てはまる。そして、ほぼ同じごろから予測されてきた、即時に世界を破壊するあらゆる大変動についても同じことが言える。我々のバカげたまでのエネルギー浪費的なライフスタイルを太陽光発電で支えられない理由は、邪悪な石油企業がそうすることを妨害しているからではない。約1億5000万kmの外宇宙を通過するため、太陽光は拡散した、低品質の、間欠的にしか利用できないエネルギー源であるからだ。太陽光エネルギーを、化石燃料から得られる極度に高密度、高品質の、オンデマンドなエネルギーの代わりに使用しようとする試みは、まったく見込みがない。

もう一度言えば、これは太陽光エネルギーが悪いものであると意味するわけではない。実際には、現在のレトリックが可能だと主張していることは、実現不可能であることを意味する - オーギュスタン・ムショの1890年代の最初の太陽熱装置以来、1世紀半にもわたる太陽光発電の有意義な実験によって、 我々はこのことを知っている。太陽光エネルギーおよびその他の再生可能エネルギー源に頼る社会では、高密度、高品質、オンデマンドなエネルギーは、我々が慣れ親しんだよりも少ない量しか利用できない。この問題に向き合いたいと望む人はとても少ないので、代わって、歓迎されない現実が到来すれば、我々は深刻な混乱の連鎖に直面することになるだろう。

同様に、我々が来週木曜日に何らかの不可避の大惨事で死ぬわけではない理由は、そのような大惨事は、莫大な熱気で膨らまされた可燃性の人形であるからだ。私が眼にしたことのある大惨事が差し迫っているというあらゆる主張は - 我々は停滞と没落の未来に直面することはないと主張したい人々が何百という主張を提示したのだが - そのような主張は、少なくとも1つの、通常それ以上の、以下の3つの誤ったロジックにもとづいている。1つ目は、何らかの変化が直線的に大惨事へと至るという主張であり、それは通常適用されるすべての反対のファクターが、どういうわけか適用されないという主張である。2つ目は、極端な最悪ケースのシナリオが、どのような危機であれ議論対象の危機について唯一のありうる帰結であるという主張である。3番目は - まぁ、これはおそらく "巨大宇宙セイウチ" ファクターとでも呼べるだろう。つまり、2012年の偽のマヤ歴の終末予測のような、何らかの出来合いのファクターが、どこからともなく現れて世界を喰い尽くすので、単に待って見ていればよい!という主張である。

人間が生きる現実世界では、反対に、直線的な変化は、不合理なポイントに達する前に循環的な揺り戻しに変化したり、あるいは外乱により消失する。極端な最悪ケースのシナリオは、実際の危機において最も可能性の低い結果である。そして、巨大宇宙セイウチが世界を喰い尽くそうとしていないと誰も証明できないことは、そのようなセイウチが実際に存在する根拠にはならない。過去の終末的な予測を見てみれば、1つの共通点に気づくことは難しくない: それは常に間違っているということだ - 終末予測は、社会の現実に対処しないために、本当に対処したくないことに対処しないために主張されている。それが明らかになればなるほど、ますます巨大宇宙セイウチがフォトンフリッパーを振ってサヨナラを言い、どこかの惑星を喰らい尽してしまうと主張されるようになるだろう。

そして当然、我々が今いる状況はそれだ。私が2週間前に示した通りである。今日、あまりに多くの人々が、我らが時代の問題に対する想像上の解決策に執着している理由、そして、あまりに多くの人々が、そのような問題を無意味にしてしまうであろう想像上の大変動に狂信的に執着している理由は、それらの本当の問題や帰結に相対したい人があまりにも少ないからである。今日の工業諸国でほとんどの人々の日々の経験を形作る停滞と没落が、現実ではないか問題ではないかのようなフリを多くの人が続けているのは、まさにそれが理由である。

これらの行動の何1つとして、停滞と没落を追い払うことはできない。どちらかと言えば、無知で無邪気な人々に決して実現しない解決策や決して訪れない大変動を待つ時間を浪費させるため、単純に停滞の深化と没落の加速を確実にするだろう。停滞と没落のリアリティに対処するためにできることは、確かに存在する; その中には、一方では再生可能エネルギー技術の採用すら含まれるだろうし、他方には黙示録的ではなくても深刻なさまざまな問題への注意深い準備なども含まれるだろう。けれども、それらすべては、未来を真正面から見つめることを必要とする。空飛ぶ車が我々をトゥモローランドに連れて行ってくれるフリをして50年間を無駄にしたという認識を妨げる記憶喪失の習慣から目覚めなければならない。誰も語りたくないからといって、それが起こらないということではないのだ。

翻訳:長期的な視座 (ジョン・マイケル・グリア)

ジョン・マイケル・グリアによる2019年7月3日の記事 "The Long View" の翻訳です。

The Long View

過去3年以上にわたって、このブログ、および旧ブログ『The Archdruid Report』上でのオンラインエッセイのテーマは、現在のできごとに比較的固く焦点を当てていた。それはまったくの偶然ではない。2016年には、西洋工業文明の中で何年にもわたって構築されてきた緊張が開放され、非常に多くの政治的・文化的な伝統を混乱させ、一般常識を引っくり返した。このように主張するために、「ブレグジット」と「トランプ」という語をささやく必要はないと信じている。

歴史とは直線ではなく円環であり、文明にはライフサイクルがあり、文明興亡の巨大な弧の上では対応する点において類似した事象が発生すると理解している人にとっては、驚きではなかった。オズヴァルト・シュペングラーは、その1人であるが、1世紀以上も前、『西洋の没落』のページに、近年のニュースヘッドラインを賑わず出来事について書いていた。彼は、乾いたゲルマン人的なユーモアと共に、裕福な人々が政治制度を操作するために金銭を用いることを学ぶやいなや直ちに民主主義は金権政治へと変化するということ、それが無知なエリートの台頭を招き、彼らは社会全体に対して何をもたらすのかに気付かないままに私腹を肥やすことに励むということ、そして、野心ある男 - ほとんどの場合、金権政治階級の内部から登場する - が、同時代の "嘆かわしい人々" の主義主張を擁護することにより、権力を獲得できると認識するということを示した。

シュペングラーは、このプロセスの結果として発生するカリスマ的なポピュリズムをカエサリズムと呼んだ。この名は、人類の中で歴史に残る事例のうちの1つにちなんでいる。(現在のアメリカの事例が、"オレンジ・ジュリアス" [米国のジューススタンドチェーン。現在、ドナルド・トランプを揶揄する呼び名としても使われている] と呼ばれることは、このブログEcosophia上で繰り返し発せられるジョークである。) 組織化された寡頭制政体とカエサリズムの勃興の間の衝突は、シュペングラーが示した通り、不可避の歴史的事象であり、それは社会が千年程度の成長期を終え、成熟形態へと落ち着く際に起こる。シュペングラーが1918年に予想したところによれば、この衝突は、21世紀初頭の西洋世界全体にわたる政治を決定するテーマとなるだろうとされていた。今日のニュースを見てみれば、彼が正しかったという認識を逃れるのは困難である。

アーノルド・トインビーは、シュペングラーよりも慎重で注意を払っていたのだが、予言を避け、過去のプロセスの正確な説明で満足した。トインビーの分析では、成功した社会が繁栄する理由は、その統治階級が創造的少数派と呼ばれる集団を形成しているからなのである。 - 文明がその歴史の道程で直面する問題に対して、創造的な解決策を生み出すことができたために、社会全体から尊敬を得て模倣される集団である。 あまりに頻繁に、けれども、統治階級は重要なイノベーションを止めてしまい、解決策を現在の状況に合わせて変更するよりも、決まり切った解決策に問題を合わせようとすることに興味を持つようになる。その後、彼らはトインビーが呼ぶところの支配的少数派となり、もはや尊敬の念を起こすことはできず、不承不承に服従されるようになる。

ひとたび社会が支配的少数派に支配されるようになると、そのような社会の中の人々が、責任ある人々がもはや解決しようとしなくなった問題に対処するために用いる一連の標準的行動が存在する。世間から隠遁して暮らしていたのでもない限り、読者諸君、諸君は既にそれらすべての行動を知っているだろう。トインビーは、それらを超脱、変貌、未来主義、復古主義と呼んだ。超脱とは、別の土地、または世界の別の場所、あるいは現状の出来事を遮断するのに十分な気密性のあるサブカルチャーの中へと戻ることで、社会をその運命に委ねることである。変貌とは、宗教への回帰である - シュペングラーはこれを第二宗教と呼んだ - これは、人々が現世に不満を抱き来世に希望を置くようになるに従い、あらゆる文明の後期に起こることである。未来主義とは、未来において完璧な社会を構築する、または少なくとも夢想する試みである。復古主義とは、最後に、失敗した現状維持を拒絶し、過去に機能していた政策を支持することにより "メイク・○○・グレート・アゲイン" を追求するものである。

トインビー自身には、これらのうちに自身の好みの方法があった - 彼は敬虔なクリスチャンであり、またそれを示した - しかし、この4つの標準的行動すべてが実行可能なオプションとなりうる。そして、未来主義と復古主義はとりわけ政治的爆弾となるかもしれない。現代西洋工業社会の管理上中流階級は、創造的少数者から我らが時代の組織的金権政治を運営する支配的少数者となり果てたのだが、彼らは、世界恐慌の発生時に先代の金権政治家たちから未来主義の方法によって権力を奪取した。自身により大きな権力を与える変化を「社会進歩」と定義することにより技術的変化のカリスマ性を借用したのである。お決まりの通り、その方向へ向けた最初の動きはかなりうまく働き、その後はあまりうまく働かなかった; 40年ほどの間、これは公然の秘密であったのだが - 少なくとも、特権的な人々の暮らす気密性のバブルの外では - ほとんどのアメリカ人にとって物事は確実に悪化を続けている。必然的な反発が続いた。

長期的には、言い替えると、ドナルド・トランプが来年の選挙で二期目の勝利を収めるのか否かは実際にはさして重要ではない。(短期的には、けれども、極めて重要であるので、私は両サイドで膨大な選挙不正がなされる苦々しい選挙戦が起こるだろうと予期している。) トランプは、次世代のポピュリスト政治家たちに、ネオリベラル的コンセンサスは打ち負かせると示したのである。また、あらゆる重要な問題について企業と政府官僚の絡み合った利害を支持する一方で、常に労働者階級へとコストを押し付ける環境保護主義と社会正義イデオロギーに形ばかりの支持を示しているネオリベラル的コンセンサスを、ますます多くの選挙区が拒否するようになった。これからも、更に多くの動乱があるだろう。この先の数年の間に、政治情勢を揺るがす地殻変動が多数起こるだろう。けれども、ネオリベラル時代は既に死に、マンガのカエルがその墓の周囲を飛び跳ねている。

このような状況であるので、しばらくの間一歩下がって、再び長期的な視座を取るのには適した時期である。

私のブログ記事が未来の議論を止めたため、時々、過去数年間の私の予測がどれほど当たったのかという質問を受けることがあった。もちろん、このような質問をした人の多くは、私の予測に対するさまざまな誤解にもとづいていた; たとえば、このような質問はまったく珍しいものではないのだが、困惑から冷笑に至るまでの口調で、なぜ社会は未だピークオイルの結果により崩壊していないのかと聞かれることがある。私はピークオイルによって社会の急速な崩壊がもたらされるとは言っていないため、これは私にとっては皮肉な喜びの源泉であったのだが、しかしこれはまた我々の困難さの一つを示している: あまりに多くの人々が、永続的な進歩でも突然の崩壊でもない未来を想像できないという奇妙な状況である。

エス、このことについては以前にも書いた。『The Archdruid Report』の当時の記事で私はその奇妙な精神的問題を分析し、未来を明確に思考する方法を提案した。当時、少なくとも、人々が私の言葉に耳を傾けてうなずき、その後で、永続的な進歩に対する唯一の代替は全面的なカタストロフィであるという同じ奇妙な信念に帰っていくことを見るのは面白いものであった - まるで、停滞と没落が、過去40年の間ほとんどの工業諸国の人々にとっての日常的な経験が、起こり得ないものであるかのように。人々の心からこの奇妙な精神的な霧を追い払うための信頼できる手法の一つとして私が発見したことは、直近の未来が我々に何をもたらすのかについて率直話すことであった。

少なくとも私にとって、これを特別に痛快なものとしているのは、過去の特段スリリングではない日々に時計を戻すことにより、これを行うことができるということだ。最後に、経済成長への厳しい限界が語られていた時期である - イエス。それは2008年~2009年の原油価格急騰中と後のことだ。『The Archdruid Report』および他の既に消滅したピークオイルフォーラムの古い読者は、技術的なイノベーションが必ずや我々を救ってくれるだろうと主張していた、オンラインであれオフラインであれ、非常に規模と声の大きい集団のことを思い出すだろう。そして、トランジションタウンや何らかの類似のイデオロギーが我々を救ってくれるだろうと主張し、奇妙なことに、提唱者たち自身が実践することに全く興味を持っていないようなライフスタイルを、人々が熱狂的に受け入れるだろうと主張していた、オンラインであれオフラインであれ、また別の非常に規模と声の大きい集団のことを思い出すかもしれない。最後に、これまた別の非常に規模と声の大きい集団が、オンラインであれオフラインであれ、何らかの絶大な終末的事件によりすべてが無力化され、いずれすぐに、ごく少数の疲れ切ったサバイバーはゴミあさりや狩猟採取のライフスタイルへと戻り、その一方で他の70億人は、フランス語のシャレた言い回しにもある通り、タンポポを根っこの端まで噛むことになるのだ。

我々の仲間の中で、それよりも人気のないことを言った人たちがいた。壮大な技術的ブレークスルーは起こらず、壮大な社会の覚醒も起こらず、壮大な終末論的大惨事も起こらないと我々は予測した。加えて、これらが起こらないという確固たる理由も示したのだ。代わりに、 需要破壊 デマンド・デストラクションと一時的な小細工の組み合わせがものごとを継続させ、生活水準は継続的に下り坂を進み、人々は何も間違ったことが起きていないというフリをするために、政治と社会がますます破壊され不合理化すると予測した。そして、私が "長期没落" と呼んだ長きにわたる不規則な衰退のプロセスが速度を上げ続けていくと予測した。

このようなことを言ったために、私はありとあらゆる形で非難された。そのような主張をした他の人に言うことは特に無いのだが、しかし、同じ1つの記事が、テクノフィックスと壮大な社会変革の信奉者からは単なる厄介な悲観主義として、突然の黙示録の信奉者からは単なる盲目的な楽観主義として激しく非難を受けたことは、私にとって定期的な喜びであった。現時点において、けれども、2008年の原油価格急騰からの10年ほどを振り返ってみると、2つのことが極めて明らかになる。1つ目は、そのような非難をしていた人々は間違っていたということである。2つ目は、我々のように自分の主張を守り続け、広く人気のある主張に不同意であった人々が正しかったということだ。

それでは今は? この先の数十年も、同じことが更に起こり続けるだろうと私が予測したとしても、読者諸君にとっては耐え難い驚きではないだろうと信じている。

そもそも、我々の苦境の厳しいリアリティは何ら変化していない。このエッセイを投稿した前日には、人類は約1億バレルの原油、2100万トンの石炭、90億立方メートルの天然ガスを燃焼させた。その前日にも同量を燃焼させており、今日も、明日も、明後日も同じ量を燃焼させるだろう。人類が使用するエネルギーの大部分 - おおよそ80%程度、ほぼあらゆる輸送用燃料を含む - は、これら3種類の化石燃料に由来している。(太陽光と風力は、盛んに喧伝されているものの、全世界の総エネルギー生産の約3%程度しか占めていない。) そのすべての炭素はどこかから得なければならないし、そのすべては燃焼した際にどこかに行かなければならない。

ほぼすべての炭素が由来するのは、世界中の着実に減耗しつつある化石燃料の埋蔵である。石油会社は新しい油田を発見するために世界中を調査しているのではないか? 確かに。毎年の新たな埋蔵量の発見は、古い油田の埋蔵量減少と等しい量なのだろうか。まったくそれには届かない。もしも、一年に数十万ドルを支出する一方で収入が1万ドル程度でしかないとしたら、当初の貯蓄がどれほど膨大であったとしても、いずれは貧困に陥るだろう。化石燃料についても同じロジックが当てはまる。

それは、いずれすぐに工業文明が化石燃料の枯渇により崩壊するということを意味するのだろうか。ノーだ。けれども、将来、原油価格が上昇し急騰するにつれて、そのような主張が頻繁になされるのを耳にすることだろう。それは、今日の総エネルギー生産のなかでごく僅かな割合しか占めていない太陽光や風力テクノロジーが、バカげたまでに浪費的な我々のライフスタイルを魔法のように支えられるようになることを意味するのだろうか? あるいは、何らかのエキサイティングな新しいエネルギー技術がどこからともなく現れて、すべてを解決することを意味するのだろうか? 同じ主張が、1970年代と2000年代のエネルギー危機の最中にもなされていた。読者諸君には、周囲を見渡してそれが正しかったかを確かめることを勧めたい。

ノー。実際に起こることは、エネルギー価格が上昇し、人々はパニックに陥り、経済は急降下して身震いし、問題を抱えた時代を迎えるということだ。その後、別のラウンドの必死の間に合せの手法がシェールオイルよりさらに汚く高価な液体燃料源を発見し、別のラウンドのデマンド・デストラクションが、より多くの人を貧困に追いやり、茶番は続けられる。燃料価格が急騰前の水準に戻ることは決してなく、エネルギー費用は経済活動への更に大きな負担となり、世界金融システムは自由市場のフィクションを維持するために、ますます異様な形にねじれていく。かつては普通と考えられていたライフスタイルが、ますます多くの人々にとって手の届かないものとなる。

その一方で、壮大な技術的ブレークスルーないしは壮大な社会運動、あるいは壮大な終末論的災害を予期している人々は、何が起こったのかを疑問に思いながら、塵の中に取り残されるだろう。ちょうど、過去2回の石油価格急騰の際、それらが現れなかったのと同じように。イエス。それはまったく同じものであり、細部に至るまで同様である; 今日、革新的なエネルギーイノベーションとして推進されている技術 - 太陽光発電風力発電、増殖炉、核融合、リストはまだ続けられる - が、私の少年時代に推進されていた技術と正確に同一であるということは、私にとって確かな娯楽の源泉である。また、率直に言えば、目立ったイノベーションも壮大な社会運動も壮大な終末論的災害も起こらなかった。我々の文化の常として、アイデアが最先端で革新的であると言い立てられるほど、現在90歳代の人々が誕生した時には既に存在ていた、完全なる非オリジナルの焼き直しである可能性は極めて高い。

しかし、話は脱線する。ほぼあらゆる炭素が向かう先は、代わって、地球の大気であるが、そこでは世界の気候の微妙なバランスが損なわれている。終わりなき誤解に陥らず、このことについて会話できるようになるまでにはまだ数十年が必要になるかもしれない。なぜならば、気候変動活動家たちは、これらの主張を伝えることについて驚くべきほど無様な仕事しかできなかったというだけではなく、様々な種類の不毛なアジェンダを抱いた特別な利害関係者に自身の主義主張をハイジャックされ、歪められることを許してきたからである。その意味では、現在我々が直面している複雑な変化を、あまりに単純すぎる「 地球温暖化 グローバル・ウォーミング」という名前にまとめてしまったことは、印象的な科学的愚行である - トマス・フリードマンによる「 地球奇怪化 グローバル・ウィアーディング 」という名前のほうがはるかに正しい。しかし、これは活動家たちが提唱する物語にフィットしないのだ。

地球の気候は、最も単純な用語へと還元すれば、太陽と深宇宙の温度差によって駆動する熱機関である。1772年には、ジェームズ・ワットは、蒸気機関から外部に失なわれる熱の割合を減らすことで、当時使われていた原始的な蒸気機関の効率を高め、そうしてより多くの仕事をさせる方法を発見し、産業革命を開始したのである。大気に温室効果ガスを加えることは、これとまったく同じことを行う。そして、地球の気候が行う仕事は「天気」と呼ばれる。ゆえに、温室効果ガス汚染の結果は、気温の定常的増加などではない - あらゆる種類の極端な天候事象の増加である。

それは、いずれすぐに工業文明が気候関連のカタストロフィにより崩壊することを意味するのか? ノーだ。けれども、将来、そのような主張が頻繁になされるのを耳にすることだろう。それは、太陽光と風力、あるいは何らかの新エネルギー技術が我々を救ってくれることを意味するのだろうか? ノーだ。けれども、将来、そのような主張が頻繁になされるのを耳にすることだろう。ここでもまた、1970年代と2000年代のエネルギー価格急騰の際にもそのような同一の主張がなされ、同じような疑わしい結果をもたらした。

ノー、実際に起こることは、気象関連災害による年間コストが毎年毎年不連続に上昇していき、数十年のうちに、経済活動に対してまた別の重荷を課していく。かつては普通と考えられていたライフスタイルが、ますます多くの人々にとって手の届かないものとなる。新たな災害が発生するたびに、保険会社の支払いや政府の資金が需要をまかなえなくなるために復興はますます少なくなる。以上なほどに気象災害に対して脆弱であるアメリカの田舎は、静かに19世紀の状況へと戻っていくだろう。沿岸部の貧しい地域は、ゆっくりと暗黙のうちに、上昇する海面に沈んでいく。その一方で、壮大な技術的ブレークスルーないしは壮大な社会運動、あるいは壮大な終末論的災害を予期している人々は、何が起こったのかを疑問に思いながら、塵の中に取り残されるだろう。

それが我々の未来の形である。同様に覚えておく価値があるのは、化石燃料だけが、自滅的なまでの速度で消費されている非再生可能資源ではないということだ。その意味では、地球の気候だけが、自滅的な速度で汚染されている自然システムではないとも言える。ケネス・ボールディングがかつて指摘した通り、有限の地球上で無限の経済成長が可能であると考えるのは、狂人かエコノミストだけである。現実の世界では? - 我々が、否応なしに住まざるをえない世界では - 作用には反作用が伴う。経済成長のペダルを全力で踏み締めようとすることは、単に燃料の枯渇を早める意味しか持たない。

それが長期没落のロジックである: ゆっくりとした、不連続で不均衡なペースで進む冷酷なプロセスであり、資源ベースをオーバーシュートした文明を歴史のゴミ箱の中へと収めるプロセスである。西洋世界は、その軌跡を1世紀以上にわたって進んでおり、非工業化した暗黒時代の底に行き着くまでにはおそらくもうあと数世紀を要するだろう。この先の数ヶ月、通常通りの中断を挟みながら、我々がひきずり下される軌跡の各々の場所で何が起こるのかを調べてみたいと思う。次の記事では、私はそのうちの1つについて語るつもりである: 差し迫ったピークオイルの逆襲である。

翻訳:権威のたそがれ (ジョン・マイケル・グリア)

ジョン・マイケル・グリアによる2018年4月21日の記事 "The Twilight of Authority" の翻訳です。

The Twilight of Authority

数週間前、私はレトリック教育の必要性について書いた - つまり、何が正しく何が誤りであるかを定める法則が所与であると仮定することなく、個々人が真実と虚偽についての主張を理解し評価する方法を教えることである。そのような概念は、今日では多くの人にとって困難であるだろう。我々は 抽象 アブストラクション 時代の最終段階にあり、今日ほとんどの人々が考える真理の概念はこのようなものだ: 人々が真理について語るとき、一般的に意味しているのは、自分の頭の中に蓄えられた一連の一般法則が、抽象的な意味で常に真実であると仮定することである。たとえ、我々が実際に住む乱雑で複雑な世界では、それらの法則が時として (あるいはまったく) 成り立たないとしても。

周囲の人々が真理であると捉えていることについて考えてみてほしい。(私は、諸君自身が真理であると捉えていることについて考えるように言いたいのだが、ナザレの男 [ナザレのイエス] が言った通り、兄弟の眼の中にあるちりを見つけることは、自分の眼の中にある梁を見ることよりも通常はるかにたやすい。) 異常なほど哲学的教養のある集団に遭遇したのではない限り、これら真実であるとされる主張の大部分は、「あらゆるXはYである」という形式の文として表現される: 「あらゆる白人はレイシストである」、「あらゆる福祉に頼る人々は怠惰である」など。それが、私が考えている抽象的な一般化である。

人々は、自分の好む抽象的一般化について非常に防衛的になる。もしもその背後にあるロジックについて質問したとすれば、無知であると言われるか、またかなりの確率で邪悪であるとも言われるだろう。それに関連して、もしも一般法則に合わない現実に遭遇し、また諸君がそれを公言するほど悪趣味であるとすれば、複数の具体的事例はデータではないと言われるだろうと想定できる。抽象的な意味ではその通りなのかもしれないが、複数の事例は、データから構築された抽象法則が、絶望的なまでに現実世界から乖離していることを知るための数少ない方法の1つである。

この線に沿った最近の黄金則は、ヒラリー・クリントンの2016年の大統領選挙キャンペーンから得られる。激戦州の現場選挙事務所にいた人々は、クリントンの試みが有権者の反発を招いている一方でトランプは勢いを増していることを観察したのだが、選挙本部からは軽くあしらわれてしまった。「我々のデータはあなたたちの事例を否定しています。」クリントンの大統領への野望にとっては不幸であったことに、選挙はデータによって決着がつけられるのではなかった; それは、何千万人もの、抽象的でもなく一般化されてもいない現実の世界で暮らす、完全に事例的な有権者によって決められるのであり、彼らの投票は決定的にクリントンの選挙キャンペーンのデータを否定するものであった。きわめて皮肉なことに、クリントンは何らかの抽象的な意味において選挙に勝利したのだという主張を続けている - それは正しいのかもしれないが、現在クリントンペンシルベニア通り1600番地 [ホワイトハウス] に居住していないことを示す膨大な事例的根拠が存在する。

抽象化は強力なツールである、けれども、ほとんどの強力なツールと同じように、適切な注意をもって使用する必要がある。そうでなければ自分の指を切り落してしまうだろう。逆に、確実に切断された指の流血する塊を床一面に作り上げるであろう方法は、お好みの一連の抽象的なルールのほうが、その抽象的ルールが引き出された現実の世界の乱雑な現象よりもリアルであると主張することだ。

それはアブストラクション時代の後期にいつも出現する主張であり、ひとたびそのような主張が表れたら、厄災が近くに迫っていることが分かる: 理論上しっかりと建っているべき橋は崩壊し、理論上健康をもたらすはずの食品は病気を起こし、理論上安全で有効であるはずの薬品は病気の治療に失敗し、大量の有害あるいは致死的な副作用を引き起こす。理論上は平和、安全、繁栄をもたらすはずの政府の政策は、その正反対の結果を生む、など。もしもこれが馴染み深く聞こえるのであれば、読者諸君、それは偶然ではないと言っておこう。

それでも、これらはアブスラクション時代がその有効期限を過ぎたことを示す唯一の症状ではない。その中でも1つ、現在注目に価することがある。というのは、現代アメリカの生活においてほぼ言及されないにもかかわらず巨大な存在になったからである: 今日、恥ずべきほどに多くの人々が、労せずして得る権威への狂気じみた追求に捉われていることだ。

小さく奇妙なマイノリティ宗教の教師および元リーダーとして、私はこのような大騒ぎを特等席で見物した。アメリカの宗教的奇抜さの長い歴史の常として、宗教は社会の隅に追いやられた人々が権威を主張するための標準的な手段の1つであった。アメリカ史の最も印象的な出来事、また最もありえそうにない出来事は、一般常識から垂直離陸した宗教的リーダーによって創始され、人格と手本の力によって、何千あるいは何万というアメリカ人を運動へと引き付けたものもある。

ジョセフ・スミス [モルモン教創始者、大統領候補者] とマーティン・ルーサー・キング [牧師、公民権運動の指導者]、我々の歴史のなかで時おり頭角を表す宗教的リーダーは、非常に広いスペクトラムの端に位置している。その間には、宗教的コミュニティでリーダーシップを取る無数の男と女たちがいる。何を良いと見なすかという意見への賛否はあれども、世界を少しだけより良い場所に変えられるという信念を持っているからだ。その対極には、宗教的リーダーシップについての唯一の関心事は、それが他人に対して何を考え何を行うかを命じる権限を与えると考えるだけの人がいる。そのような人々はアメリカの公人の中では常にありふれたものであったのだが、しかし最近ではまったく珍しくない。

エス、我々のドルイド教にもそのような人々がいるのだが、そこには巨大な皮肉がある。ドルイド教の奇妙な歴史全体を通して、あらゆる運動を始動した18世紀のドルイド復興以来、ドルイド教は聖職者に対する服従が期待あるいは許容されているような種類の信仰からは最も隔たっている。これは我々の中心的教義に近いのだが - ただし、我々は本当に、真に、真剣に、教義を持たないのであるが - あなたが崇めるスピリチュアルな力とあなたの関係は、私とは一切の関係が無い。逆も然りである。たとえ、私が奇妙な帽子を身につけ、華麗な称号を持っていたとしてもである。それでも、狂ったような頻繁さで、私がアメリカのエンシャント・オーダー・オブ・ドルイド教団にて大アーキドルイドとしてリーダーを務めていた12年間の間に、様々な華麗な称号と奇妙な帽子を求めて人々は私に近付いてきた。そうすれば、他人に対して何を考え何をなすべきかを命令することができると考えて。非常に多くの場合、彼らはドルイド教とはいかなる関係もないことに興味を抱いていた。

もちろん、そのような人々は何ら特別ではない。今日のアメリカには福音派クリスチャンが大勢いるが、概して、彼ら自身では従っていない道徳的規則に他人を従わせるために、他のあらゆる人をいじめることを神が望んでいると心から信じている。彼らのすぐ隣には福音派無神論者がいて、彼ら自身のイデオロギーの彼らが信じるところの自明性により、他人の喉を掻き切る権利を持っていると考えているようだ。左派の 政治的正しさ ポリティカルコレクトネス から右派の愛国的正しさに至るまで、アメリ政治界の荒れた無人地帯に位置する人々は、他人に対して何を考え何をするべきかを命じる権利を持つと主張する傾向がある。なぜ? なぜならば、自分は正しいからだ、もちろん - けれども、怒り狂った真理信奉者の群集に怒鳴られたいと思うのでない限りは、彼らにその主張の裏付けを求めないほうが良いだろう。

それはアブストラクション時代の終わりの標準でもある。そこで、その理由を理解することはたぶん意義があるだろう。アブストラクション時代の夜明けは、厳選された一握りの抽象的一般法則が、突然に、驚愕すべきほどに宇宙の片隅の姿を明らかにしたときに訪れる。現代科学の最初の大勝利が、現在終わりを迎えつつあるアブストラクション時代を開始する際、そのような役割を担った。ちょうど、古代ギリシア時代における幾何学や中世におけるスコラ論理が果たした役割と同様である。これらアチーブメントの文化的インパクトはあまりに巨大であるため、あらゆる種類の知識がモデル化されるパラダイムとなる。

当初、それは極めて効果的なアプローチである、というのは、それら驚異のアチーブメントに当初使用されたアブストラクションのツールが何であれ、それが他の知識分野に適用された際には、かなり頻繁に有効であると判明するからだ。このようにして、ギリシア幾何学に抽象的理解の勝利をもたらした思考方式は、論理学に適用された際にも有用であると判明した。また、ニュートンが天体の移動の説明に用いた思考方式は、ドルトンが化学物質の結合方法を説明することにも、ダーウィンが生物種の変化方法を説明することにも有用であることが理解された。よろしい - けれども、あらゆる知識分野が何らかの抽象ツールに適しているわけではないし、抽象化がまったく意味をなさない分野もある。

それがアブストラクション時代を最終的に粉砕する岩である。特に、人間の生命に最も劇的なインパクトを与える知識分野 - イエス、我々は政治と経済について語っている - は、容赦なく抽象化に抵抗している。政治的・経済的な生活において、あなたは決して抽象化を扱っているのではない; 常に人間を、あらゆる生得的な複雑さと頑固さを備えた人間を扱っているのだ。人間を抽象物として扱えば、失敗するだろう。人間の日常生活に最も重大な影響を与えることに対応する政策と提案を扱うのではなく、人間を抽象物として扱えば、少なくとも、かなりひどく失敗するだろう。

ここでの困難さは、当然、アブストラクション時代に育った人々は、何が真実であるかを知っていると考えがちであるということだ。もしもそのような人々が社会の特権階級に属しているとしたら - たとえば、教育を受けたインテリゲンチャ - 彼らは他人に何が真実であるかを伝えることにも慣れており、自分たちよりも特権的でない人々は、それを黙って聞くであろうと予期している。アブストラクション時代が不透明になるにつれて、特権者たちは必然的に、人々を黙らせ話を聞かせる何かを探し始める - 同時に、真理の提唱者としての地位を熱望する非特権階級の人々は、人々に自分の話を聞かせられる何かを探し始める。

アブストラクション時代の終わりは、真理の提唱者になりたいと望む人にとって寒く恐しい場所である。それは黙って話を聞く人が誰もいなくなるからだけではない。かなりの場合において、自分たちが真理として扱ってきた抽象的一般法則が、実際にはうまく働いていないことに彼ら自身が気付き始めるからである。人間の本性の常として、そのような人々が通常取る反応は"倍賭け" [うまく行かなかった方法を更に強めて繰り返すこと] をして金切り声を上げることであり、そして、地元の習慣が許す限りの身体的暴力を数式に付け加えることである。

遅かれ早かれ、けれども、抽象の支配を維持しようとする最後の無益な試みは衰えるか、普通の場合、新興世代から無用の長物として無視され、それらを擁護する世代と一緒に捨て置かれる。続いてリフレクション時代の初期段階が起こり、そこではかつてのアブストラクション時代の業績が整理され評価されて、優れた部分は保存され、無用の部分は遺棄される。何らかの信任を得た偉ぶったお喋り屋が世間に対して流行りの絶対的真理を語る習慣は、それに相応しい人が獲得する。

我々はそのサイクルの後半のポイントに近づいているが、まだそこには至っていない。あまり良くない形でそれを教えてくれるのは、トランプの台頭に対する政治的エスタブリッシュメントからの最も一般的な反応が、お好みの抽象法則を倍賭けするというものであり、それは、競合する様々な「すべてのXはYである」式の抽象法則の配列へ、トランプと彼への投票者を押し込めるものであった。2016年の選挙キャンペーン期間中およびその後にも繰り返し私が述べてきた通り、過去40年間にアメリカの労働者階級に何が起こったのかに気付いてさえいれば、なぜ多数の労働者階級のアメリカ人が2016年にトランプに投票したのかを理解することは全く難しくない。

1976年に労働者階級の1人の給与に頼るアメリカ人家族は、普通、家、車、1日3回の食事、そして他すべての日常生活の必需品を支払うことができ、またおそらく少しの余りを時々の贅沢品に使うこともできた。2016年、労働者階級の1人の給与に頼るアメリカ人家族は、おそらく路上で暮らしている。それは、偶然に起こったことでもない; 両側の主流派政党および公式認定された経済専門家たちによって熱狂的に支持された、特定の政策による直接的な結果である; しかし、その結果は、そのあらゆる人々の悲惨さは、レーガン時代からオバマ時代に至るまで、アメリカの政府政策を導く抽象的な一般法則の世界からは完全に除外されており、次の食事をどうやって得ようかを心配する必要の無い人々たちの具体的事例の領域からは眼に見えない。

選挙結果を左右する別の問題も存在した - ヒラリー・クリントンの軍事的冒険主義に対するチキンホーク的愛着は、家族の一員が死体袋に入って帰ってくることを怖れる人々にとって見すごせるものではなかった; 。オバマケアの大失敗により、勤労世帯に課される経済的負担の上昇; クリントンを有利にするために民主党が候補者指名のプロセスを歪めたこと; これらすべてが、同じテーマのバリエーションであった。政治的エスタブリッシュメントは、一連の抽象的一般法則を推進し - 「グローバル経済」、「民主主義のために立ち上がる」、「すべての人々のためのヘルスケア」、「私たちの最初の女性大統領」 - その一方で、具体的事例の領域、我々が実際に行きている場でこれらの抽象法則がどう働くかについては無視した。事例的なリアリティに対処しなければならない人々は、代わって、もう十分だと思ったのだ。確かに、彼らが選んだ候補者に対して意義を唱えることはできるけれども、それは政治的なエスタブリッシュメントが、空疎な抽象法則についての語りを止めることを望んでおり彼らの生活の厳しい現実について言及してくれる別の人間を提供してくれることを意味するのではない。

トランプの当選に対する直後の反応が、抽象的な一般化へと議論を引き戻すための狂乱した努力であったということ、またそのような結果を引き起こした痛々しい具体事例的なリアリティを消し去ろうとする更なる狂乱した試みであったということは、完全に予測可能であり、また無意味でもあった。アブストラクション時代の終わりをもたらすものは、現実からあまりにも遠ざかった抽象法則にもとづいた政策の必然的な失敗である; その終わりは、選挙を通してもたらされるかもしれないし、あるいはより過酷な別の手段によってもたらされるかもしれない。しかし、いずれにせよ、終わりは訪れる - なぜなら、リアリティは、結局のところ、常に個別事例的であり、そしてもし抽象法則がリアリティを無視するのであれば、負けるのはリアリティの側ではない。

、その後に何が来るのかという議論を開始するのにふさわしいタイミングだろう。今後の連載記事では、私はそのような議論を教育の観点からフレーミングするつもりであるが、それには十分な理由がある。結局のところ、アブストラクション時代の最終的崩壊に向けた準備のためにできることは自分自身の教育であり、そうすれば、もはや誰も真理への特権的なアクセス権を持っているとは主張できない世界において、うまくやっていく方法を知ることができる。

このような、真理ではなく真理についての主張が提供されている世界を進むことをはるかに容易ならしめるスキルが存在する - つまり、そのようなすべての主張が疑問に対して開かれており、定期的な再考と再評価の対象となるような世界である。幸運なことに、そのようなスキルは、過去の時代においてアブストラクションが独自の誤った確信により崩壊し、リフレクションがその残骸を集めた際に、既にきわめて詳細に作り上げられている。続く数ヶ月の間に、そのようなスキルについて話そう。また、人間性の重要性 - ヒューマニオレス・リタラエ 「更なる人間の研究」という破滅的に時代遅れなテーマについても議論しよう。それは、ルネサンスの思想家たちが中世のスコラ学の残骸から脱出して、人間文化の偉大な時代を開始することを助けたものである。

そのようなテーマについて話す前に、けれども、1点ここで話しておく意義があるだろう。私がここで議論したいと考えているスキルは、正しい権威を発見する方法、つまり、あなたは何も考える必要なく彼または彼女が言うことを何でも信じられるような人を見つける方法 "ではない"。その道は破滅へと続いている。いかなる権威であれ、あなたが何を考え、何をなすべきかを命じることはできない。なぜならば、権威は抽象以外のものとしてあなたの人生を知ることができないからだ。そして、そのような抽象化には、我々の周囲で現在衰退しつつあるアブストラクション時代のあらゆる重荷を背負わされているのだ。諸君自身以外には、具体的事例の領域で、(もう一度言えば) 我々が現実に生きている場所で生きる諸君自身の人生に遭遇することはできないのだ。

この原則は、当然、他の誰にも言えることだが、私自身にも当てはまる。今後の記事で、私はさまざまなツールと実践と、やるべきことを提示するつもりであり、読者諸君も実際に挑戦するよう勧めたい。何か別のことをすると決心したのであれば、ご自由にそれを実行してほしい。上記の注意にもかかわらず、あなたの代わりにするべきことを考えてくれる権威者を探して、彼または彼女が施してくれる唯一の真理を受け入れるのでも良い。あなたにはそうする自由もある。けれども、もしも読者が我らが時代の権威のたそがれに対して立ち向かう準備ができているのであれば - その場合は、冒険へようこそ。

更にもう1つのコメント。近年の知的生活の中で、一見したところでは橋渡し不可能なほどの分裂の1つは、一方では伝統的宗教の範囲内の信者と、もう一方では無神論者の間に存在する。その分裂はほぼ完全に抽象化の問題であり、それがちょうど今我々の周囲で終わりを迎えているアブストラクション時代にこれほど野蛮に戦われてきた理由を説明するのに役立つかもしれない。リフレクションの時代には、信仰者と無神論者の間のギャップはかなり狭くなり、その間の立場に立つこと、あるいはそこに長期的に落ち着くことさえ比較的簡単になるかもしれない。今後の記事で私が提案しようと考えているツールと実践は、無神論者と同様に信仰者にとっても有用であるだろうし、またその中間の立場- アブストラクション時代には理解不能な立場 - の人々にも有用だろう。そこでは、宗教が教義への信念の問題ではなく、探求に対する態度の問題となる。旅が進むにつれて、そのことも話そう。

翻訳:レトリック教育 (ジョン・マイケル・グリア)

以下は、ジョン・マイケル・グリアによる "A Rhetorical Education" の翻訳です。

A Rhetorical Education

このブログと旧ブログ上でのきわめて多くの議論は、論争的なテーマに、レトリックを次々と繰り出すような類いのテーマにフォーカスしている。これらのエッセイで議論したいテーマを考えると、そのようなことは避けがたいものである。我らが時代は論争によって切り裂かれた時代であり、そこではかつて制限の少ない時代において身体的暴力が占めていた空間の大部分が、ディベートに取って替わられている。(ヒラリー・クリントンの代わりにドナルド・トランプホワイトハウスに押し込む闘争において、どれだけの人間が死んだだろうか? 人類の歴史のほとんどの期間において、これはまったく皮肉な質問ではなかったのだ。)

それでも、この論争好き時代には奇妙な特徴がある。このブログの最近の記事で一度ならず言及したことだ: 今日の論争で活用されるレトリックのかなりの大多数が、驚くべきほどに無力であるという事実である。

今日、広く議論を生じる問題がどのようにディベートされるかを考えてみてほしい: たとえば、議会に現在提出されている、ウェブサイトのホスティング会社とコンテンツプロバイダーに、第三者が投稿した違法コンテンツの責任を負わせる法案についての言い争いである。当該の法案の支持者は、これはすべてオンラインでの性的な人身売買を止めるためのものだと主張し、そして法案に反対する者は誰であれ性犯罪を擁護するのだと主張している。法案の反対者は、こちらはこちらで、それは検閲の口実にすぎないと主張し、そして法案を支持する者は誰であれインターネットを破壊せんとしているに違いないと主張している。

ここでは、実質的な問題に関しては棚に上げておこう - それは現実の、重要な問題であるのだが、今週の記事のテーマとは関係がない - つまり、レトリックについて考えることだ。両方の側とも、自身に同意しない者に過剰なまでの非難を投げつけるという戦略を選択した。この戦略は最近ではあまりにもありふれているため、誰も明白な疑問を考えようとはしないようだ: それはうまく行くのか? もしも、声高に他人に対して、あなたが支持していることに同意しないのは、何かおぞましい理由によるものだと主張し、また彼らは、そのような意見への支持を非難されていることを支持していないと完璧に認識しているとしたら、そのような人たちは考えを変えてあなたに同意するようになるだろうか?

もちろん、そうはならない。もしもそんな戦術を使って他人を説得しようとするならば、彼らは頑なに自分の意見に固執するだろう。更には、彼らがそうすることは正しいのである。前述の法案の支持者が、自分に賛成しない人はみんな性的人身売買を支持するのだと主張するとき、法案の反対者はそれが完璧なウソであることを知っている。それも、悪意の込められたウソだ。逆に、その法案の反対者が、自分に賛成しない者はみんなインターネット全体に検閲を課したいのだと主張するときには - まぁ、諸君も私と同じ計算ができるだろう。

もちろん、今述べた機能不全のレトリックが使われているのはこの一つの問題に限らない。今日では、そうでない問題を見つけることのほうが率直に難しい。更には、心ある人々がどちらかの側の失敗したレトリック戦略にまつわる問題について指摘しようとすると、通常の場合、指摘を受けた側からは、我々に賛同しないおぞましい人々と会話することすらすべきではないという反応が返ってくる。なぜならば、そのようなおぞましい人々は単におぞましいからだ。なぜ? なぜなら、我々がそう言っているからだ。それが理由である。

このような特定の事例から遠く離れたところでは、誰かに何かを説得することは不可能であると示す比較的最近の科学研究が大量に存在している。特に私の興味をそそるのは、2016年の大統領選挙でドナルド・トランプに投票した人々のグループを集め、熱心な 専門家 トーキングヘッド が、なぜあなたたちはヒラリー・クリントンに投票するべきだったかをと説明するビデオを見せる実験である。たいていの場合、トランプへの投票者たちは、トランプへの支持をいっそう倍増させることで応えた。研究を報じたメディア、およびこの件を議論したクリントンの支持者は、自身の15分の名声 [一時の注目] を繰り返しながら、熱の込もった調子で、この研究は「そのような人々」が理性に対する抵抗力を持っていることを証明するものだと主張した。

逆に、この研究が証明したのは「そのような人々」が - そして他多数の人々も - が、何度も繰り返される無力なレトリックに対する抵抗力を持っていると証明するものである。選挙の終了までに、結局のところ、2016年の間じゅう岩の下に隠れて過ごしたのではないアメリカ人全員が、各候補者を支持または反対するあらゆる議論を知っていた。そして、ほとんどの人々は選挙よりもかなり以前に投票先を決めていたのである。選挙が終了し、未だに勝利した側の投票者が夢を見ているのではないかと時おり疑っている間に、お決まりの論点を更にもう一度繰り返したとしても、決して望ましい反応は得られないだろう。仮に、クリントンが勝利していたとして、大喜びしているクリントン支持者集団を座らせて、オーバーオールとメイク・アメリカ・グレート・アゲイン帽子を着用したオクラホマの農民が登場し、トランプに投票するべきだったと説得しようとするビデオを見せたとしたら、どれほどの印象を与えられるだろうか?

もちろんそこには同じ問題の別の側面も存在する。トランプ支持者に対してクリントンに投票するべきであると呼び掛ける熱心なトーキングヘッドは、それらの支持者が初めて出会った熱心なトーキングヘッドではなかったということだ。読者諸君、思い出せるだろうか。経済的なグローバリゼーションは、労働者階級のアメリカ人にたくさんの高賃金の雇用をもたらすと主張した熱心なトーキングヘッドを。労働者階級のアメリカ人が膨大な負債を負って大学の職業訓練を受けたとすれば、卒業後には大量の仕事があるだろうと主張した人はどうだろうか? ホワイトハウスに居たトーキングヘッドが、オバマケアにより全員の保険料プレミアムが安価になると、また誰もが既存の保険プランと医師を維持できるだろうと主張したことはどうだろうか?

もしもあまりに頻繁に他人にウソをついたとすれば、その人たちはあなたの言うことを信じなくなるだろうという事実を指摘するために、科学的な研究は必要あるまい。それでも、この直接的なポイントは、どうやら選挙の衝撃で大多数の人から忘れ去られてしまったようだ。更には、政治的な壁の両サイドにいる膨大な数の人々から等しく忘れられ続けている - ご都合主義なナンセンス製造業は、結局のところ超党派の産業なのだ。

ここでの問題は、極めてシンプルに表現できる: これらのディベートに関与している人は誰も、初歩的なレトリック教育すら受けていないのだ。そのフレーズ - レトリック教育 - は、一見したところで想像されるものよりもはるかに広大な範囲をカバーしている。

あらゆる文化の知的活動は、我々自身の文化も含めて、何世紀かのタイムスケールの間で、世界を理解するための2つの競合sita方法の間を行き来する傾向がある。その2つは、 抽象 アブストラクション 省察 リフレクション と呼べる。アブストラクションとは、我々の周囲の世界は、人間の精神が認識できる法則に従うという信念である。アブストラクション時代の知的活動は、それゆえに、我々が経験する世界の騒々しく咲き乱れる混乱から、そのような法則を抽象化する (英語の語源的には、「引き出す」) ことに注力する。

アブストラクションは自信に満ち拡張的であり、経済的、政治的、帝国的な - 拡大の時代に栄える。そのような時代には、ある種の重要な知的活動が、外部の世界に、人間が経験する世界に注目し、世界を秩序、数、システムへ還元することを目指すのは当然である。ある限界までは、それはとても有効なアプローチである。なぜならば、アブストラクション時代の知的な最先端の人々は、外部の世界に注意を向けているため、当初その人たちは、人間の思考する概念と、それら概念が説明しようとしている世界との間の整合性に細心の注意を払う傾向がある。その結果として、説明は機能する - もう一度言えば、ある限界までは。

時間が経つにつれて、けれども、アブストラクションの成功は広大な思考のシステムをもたらす。完璧に合理的で、細部に至るまで相互に関連する思考のシステムである。少しずつ、自身がそんなことをしているとは気付かずに、アブストラクションの実践者たちは、自分たちは世界を研究しているという錯覚のもとで、自分自身の思考システムについての研究を行うようになる。森羅万象を説明する壮大で包括的な理論が舞台の中央を占め、最先端の思索者たちは、重要な問題すべてが確実に理解される日もそう遠くないという夢を抱くまでに至る。ギリシア哲学はそのような夢想をもたらした; 中世のスコラ神学、現代の唯物科学も同様である。

けれども、森羅万象が説明される日は決して訪れない。なぜならば、理論がより包括的になればなるほど、人間が実際に経験する世界との関連が失われていくからだ。知的エリートの狭まりゆくサークルの外側では、アブストラクションの世界理論が想定する普遍性は、それに当てはまらない無数の事象を排除することによって得られるという事実を無視することは不可能になる。それら除外された事象の一部は、壮大な理論と矛盾するデータの断片でしかないが、別の事象ははるかに広大である: 人間の経験という領域全体が無関係なものであるとして却下される。なぜならば、理論的なモデルやアブストラクションの時代に好まれる問いの方法に合わないからだ。

これはまた望ましくない実際的な帰結をもたらす。アブストラクションが支配的である時代には、政治と経済は、知的な問いを導く抽象的理性の同一の概念に従うようになり、政策は抽象的規則にもとづいて提案され施行され、実際にそれらの政策が実施された際にうまく働くのかには注意が払われることはない。その結果は、かなり一貫して破滅的なものである。遅かれ早かれ、ほとんどの人々、特に政治、経済、知的な権威のあるポジションにいるほとんどの人々が直面するのは、一方では、彼らが好む一連の抽象的なルールによって定められる世界であり、他方では、我々が実際に住む世界との間の破滅的で広がり続ける断絶である。そこから抜け出す唯一の道は、- まぁ、我々はすぐにそこに到達するだろう。

あらゆる大事な問題に関する論争が、対立し合う人間同士の闘争ではなく、競合する観念の間の争いであるかのように扱われるとき、我々の社会がそのような具体的な修正に着手したということが分かるだろう。政治 - かつて存在し今後存在するであろうあらゆる社会における、本当の政治 - とは、常に、誰が利益を得て、誰が費用を支払うのかについてのものである。しかし、アブストラクションが限界にまで達した時代における政治で使われる言葉からは、それは決して分からないだろう。ノー、そのような時代に聞かれるのは複数の抽象概念の争いであり、そこでは誰が利益を得て誰が費用を支払うのかという汚い現実は決して言及されることはない。もちろん、それらは政治プロセスの中心であり続ける; それは幾層ものタブーに覆い隠されており、ヴィクトリア朝時代の人々がセックスを覆い隠していたものにも匹敵する。馴染み深く聞こえるだろうか? そうであるに違いない。

そこから抜け出す唯一の道は、私が述べた通り、あらゆるファンシーな抽象理論は人類の精神の中にある概念であり、我々が経験する世界に存在する現実ではないと認識することである。それがアブストラクションの時代がリフレクションの時代に道を譲るときである。アブストラクションが、人間精神は真理を掴み取りそれを明白に示せるという確信を抱き、自信を持って外部の世界に対峙する一方で、リフレクションは、人間の精神には世界そのものを把握することさえできず、世界についての偉大なる宣言を表明することとは何も関係がないという認識を持ち、哀しく内部の世界に向き合う。

省察 リフレクションは、概念とは自然に関する客観的な真実ではなく人間の構築物であり、我々が確信を抱けるのは日常生活の騒々しく乱れた混乱だけであるという認識に根ざしている。「実際に何が起きたのか?」という質問が、「何が永遠の真理なのか?」という質問よりも重要になる。事例と経験にもとづく個人的で暗黙の知識が、抽象的な普遍的理論よりも重視されるようになる - アブストラクションが、世界を理解することに成功したために当初尊敬を勝ち得たのと同じく、リフレクションも、世界に対処することに成功するため、対応した状況で尊敬を勝ち得る。(リフレクションも、もちろん長期的には問題に陥る。しかし、我々はその結末から数世紀離れているため、今のところはそれを無視できる。)

アブストラクションからリフレクションへの変化は、それゆえに知的な優先順位の重大な変化を伴う。ギリシア文化の黄金時代がローマ文化の銀の時代に移行したとき、以前の時代の中心的な研究テーマ - 論理、数学、物理学 そして特に思弁的な哲学 - は、異なる種類の中心的研究テーマに替わった - 文学、歴史、法学と道徳哲学である。これらの一つのテーマから別のテーマへのシフトを辿れば、2つのアプローチを導く異なるテーマをよく理解できるだろう。同じように、ペストの惨禍と政治闘争の大激変に破壊された世界に対して何らの方向性を示すことができなかった中世後期の知的文化が、複雑化したスコラ的推論のもやの中へと消え去るにつれて、ヒューマニオレス・リテラエすなわち人文学と呼ばれた学問を受け入れた人々の間で、ルネサンスの最初の胎動が形を取り始めた。 それは歴史、文学、芸術などの「更なる人間の研究」を意味し、現在我々が人類学や社会学と呼ぶ学問の最初の胎動であった。[17世紀イギリスの詩人] アレキサンダー・ポープは、そのビジョンをこのように書いた:

汝自身を知れ! 神意を知ろうなどと思い上がるな。
人類の正しい研究対象は人間である。

ルネサンスのヒューマニオレス・リタラエが、ここでは特に有用なモデルとなる。この記事の前半部のテーマと直接的に関わりがあるからだ。というのは、それらの「更なる人間の研究」は、レトリックを中心的なテーマに据えたからだ。レトリックという言葉を今日の知的コンテキストで発したとすると、虚偽であることを信じさせる方法、あるいはそこからそう遠くない何かしらの方法を研究するのだと捉えられるかもしれない。ここに、現代の知的文化を支配するアブストラクションと、アブストラクションの盲点から抜け出す建設的な方法を提供しうるリフレクションのギャップが見られるだろう。アブストラクション時代の人々にとって、真実である言葉の真実性は、こぶのようにあらゆるところにはっきりと付属しているものであるとされており、そこで、レトリックの技術を用いて広める必要があるのはただ偽物のみであるとされるのである。

そうではない。我々が実際に住んでいる世界では、アブストラクションの最新の流行で描かれる世界とは異なり、真実は極めてまれな商品である。代わりに存在するのは真実についての主張であり、それは個々の人間によって述べられるもので、そのような人間がそのような主張を述べる理由は、理性から感情から最も粗野な自己の利害に至るまで、観念的なランドスケープ全体に広がっている。 我々全員が、これらすべての理由からの影響を受ける - 何が真実であるかという信念において、自己の利害が果たす役割を認めない人々は、特に、自分にウソを付いているか単なるウソ付きであるかのどちらかだ - また、我々が真実についての主張に出会ったとき、それを受け入れるか拒絶するかのプロセスは、複雑で、微妙で、個人的なものである。

ここがレトリックの登場する場面である。レトリックとは、差し当たり、"説得的なコミュニケーションの技芸" [the art of persuasive communication] であると定義できる。その定義の中の各々の実体的な言葉は、理由があって存在している。それは技芸 [art] であって理論ではない; これが意味するのは、他の何よりも増して、個人的な側面が最優先であるということであり、問題となるのは普遍的な応用可能性ではなく、個別具体的なパフォーマンスである。それはコミュニケーション [communication] の技芸である; これが意味するのは、他の何よりも増して、その個人的な側面では、聴衆の主観的な要求、願望と経験と同様に演者のそれらも受け入れるということだ。それは説得的 [persuasive] なコミュニケーションの技芸である。これが意味するのは、他の何よりも増して、成功したレトリックのパフォーマンスは、聴衆がどう考え、どう感じるかを変化させ、そしてそれゆえに何らかの行動を変化させるものである。

これは、逆に、リフレクション時代のスタイルで実践されるレトリックが、知識の手段となることを意味する。

もしも誰かに何かを説得したいのであれば、結局のところ、なぜ誰かがそのことを信じるに至ったかを理解する必要がある - これが意味するのは、あなたはなぜ別のことを信じているかを理解する必要があるということだ。つまり、あなたは自分自身の信念が、理性、感情や自己の利害などのさまざまな誘引にどれほど依存しているのかを理解しなければならない。そして、かなりの場合においてこれが意味するのは、他人の信念も、あなた自身の信念と同じくらいに確固たるものであるという事実に向き合う必要があるということだ。または、(同じ論点をより明晰にするならば) あなたの信念も他人のものと同じくらい不確かであるかもしれないという事実に向き合う必要がある。

これは、アブストラクションの熱心な支持者が主張するように、あらゆる信念を他のすべての信念と同等であるかのように扱わなければならないことを意味するのではない。実際には、真理についての主張が信じられたり信じられなかったりする豊かな人間のコンテキストと向き合わなければならないことを意味するのである。すなわち、誰もが真理への特権的なアクセス権を持っているわけではないという事実を把握する必要があるのだ。たとえ、特権者が狂信的にその権限を所持していると主張するとしても。

このような真理と虚偽についての質問へのより人間的なアプローチから得られる一つの帰結は、それが妥協と寛容への余地を開くということだ。もちろん、現代の文化的な生活における2つの競合し合う力の党派は - いつもただ2つだけの力しかなく、両者が共にその2つが提供する以外の選択肢はないと主張していることに気付いただろうか? - 妥協と寛容を、自身の崇める抽象的な真理の観念に対する冒涜と捉えている。この記事の最初に書いた通り、けれども、実際上それはうまく働くわけではない。敵対し合うさまざまな勢力が、シンプルに敵対者を消し去りたいとどれほど願ったとしても、そんなことは起こらない; 我々は、同様の願望があまりにも実現しすぎた20世紀と同じような大変動へと盲目的に進んでいくこともできるし、あるいは歴史から学び、他人と共に生きることを望まないものは、共倒れに陥るだろうということを認識するかもしれない。

レトリック教育は、そのような認識へと至る道を提供する。それには、最初想像するものよりも膨大なことがらが絡んでいる - 実際のところ、ほとんど全てのことが、教育一般に含まれるものすべてに絡む。この先の投稿では、それが何を含意するのか、また、個人、家族、小集団によって、アブストラクションに満ちた教育機関のコンテキストの外側で、どのように今ここでそれを追求できるのかを語りたいと思う。シートベルトを締め手すりを掴むように; この先は険しい道のりになるだろう。

翻訳:ドナルド・トランプの5段階説 (ジョン・マイケル・グリア)

この記事は2019年5月1日に書かれた。ジョン・マイケル・グリアによる2016年ドナルド・トランプ当選予測に関するエッセイはこちら

Present at the Death

あぁ、ようやく意味が分かった。なぜ私が認識するまでにこれほど時間を要したのかは定かではないが、ドナルド・トランプの大統領選挙以来過去2年半の間、アメリカのマスメディア、インテリゲンチャ、そして特権階級全体を捉えていた集合的かんしゃくは、1970年代に悲しみの研究のパイオニア、エリザベス・キューブラー=ロスによって詳細に至るまで説明されていたのだった。もちろん、彼女が語っていたことは、余命宣告というリアリティに直面したときに人々が辿る5つの心理段階についてであるが、しかしそれはドナルド・トランプの5段階とでも呼びうるものの正確なモデルとなる。

最初の段階は、もちろん、"否認" である: キューブラー=ロスの順番では、発生したできごとが本当に発生したという認識を呆然と拒否することである。トランプが大統領宣誓を行なったとき、「ノー!!!」と叫んでいたアイコニックな抗議者は、この段階の典型例である。しかし、ここで私が考えているのは、民主党員の間に広まった一般投票の得票総数に対する執着、当選は単なるまぐれ当たりに過ぎないという主張や、ロシアによる選挙介入があったのだという主張、自分は絶対に「トランプ大統領」という言葉を発しないと宣言した著名人などである。これらすべては、アメリカ人が、合衆国憲法に定められた規則にもとづいて、ドナルド・トランプを第45代アメリカ合衆国大統領に選出したという事実を否定するための、無意味であるが直接的な試みである。

第二段階は"怒り"である: キューブラー=ロスの順番では、期待と現実の間に突然出現した大きなギャップによって生じる、盲目的で不合理な激怒である。再び、インターネットは即座にこの段階の典型例を提供していた。しかし、マスメディアやアメリカ社会の特権的階層を眼にしていた人であれば誰でも、トランプ自身のみならず、彼と繋がりや関連を持つとされたありとあらゆるものに対する不毛な激怒の奔流が噴出していたことに気づいただろうと思う。

第三段階は"取引"である。この段階を誤解しないようにすることが重要である。というのは、ここで言う取引は、このプロセスを始動させたものに対しては何も影響を及ぼさないからだ。キューブラー=ロスの著作では、余命宣告された人々が自分の罪を悔やんだり、神や家族や医者に対して抜本的な約束をする段階であり、それによって望まぬ現実を追い払えるという希望を持つ。現在の取引段階には豊富な発現が存在している: 2つの最も目立つものは、一方ではミュラー報告書、他方では「グリーンニューディール」や奴隷制への保障などの集合的な徳性への忠誠である。前者においては、民主党員は、ロバート・ミュラーの報告書がトランプを大統領の座から追放することを確実にするという信仰を大声で告白しているかのように行動している。後者の場合 - まぁ、私はここに大したロジックが存在するとは考えていない。選挙での勝利を求める政党が、有権者のせいぜい5分の1にしか支持されない政策への忠誠を誓うことは、賢明ではないからだ。取引段階での行動は、キューブラー=ロスが指摘する通り、誰にとっても意味を持たないのだ。

第四段階は"抑鬱"であり、現在我々はその最初の胎動を感じ始めている。ミュラー報告書をこねくり回して、民主党員が望む通りの意味を読み取ろうとする狂乱した努力が失敗するにつれて、トランプの敵対者たちは、熱狂的な支持基盤および既に莫大な額に達したキャンペーン資金を備えた現職大統領を負かすために必要となる苦しい戦いの困難さを予想している。しかも、経済は好調で、反トランプメディアは多数の有権者の信頼を失い、劇的な速さで視聴者を失っており、民主党は内部抗争により真っ二つに分裂している時に。ブログ界の左側の端に位置するウェブサイトは、それに伴って、トランプがホワイトハウスで2期目も勝利したとすれば何を意味するのかという憂鬱なエッセイを投稿し始めている。

そう遠くないうちに、ついに、第五段階へと至る。受容である。ここでもまた、この段階を誤解しないことが重要である。受容とは、起きたことを喜ぶというわけでない。受容は、好ましくないからといって何かを追い払うことはできないという事実を受け入れることを意味する。これは世界が変わってしまったという事実に折り合いを付けるプロセスであり、他の段階には存在しなかった見返りをもたらす: 新たなリアリティについて、何らかの意義のある行動を取れるようになるのだ。余命宣告を受けた人の場合であれば、いくらかの尊厳を持って死を迎えられるようになる準備や、自身の財産が自分の望んだ通りに相続されるための準備を行えるようになる。政治的なリアリティに対処する場合であれば、地に足を付けて、投票者たちに自分のしたいことをさせるのではなく、投票者たちが望むことを提供する方法を検討できるようになる。

我々は、ちょうどそのような新たな政治的リアリティの初期段階に位置している。新たなリアリティの到来を示す最高の指標は、メインストリームメディアの「ポピュリズム」に対する激しい非難だろう。それではお聞かせいただきたい。ポピュリズムとは何だろうか? それは、集団的な意思決定において、マジョリティが声を上げる権利を持つと主張する政治的スタンスである。ポピュリズムの対義語は、私が考えているような非難において言及されることはないけれども、エリート主義である: "善き人々" を自称する人のみが意思決定における声を上げる権利を持つという立場である。それが現在粉砕されようとしているイデオロギーの中心的な特徴だ。

新たな政治的リアリティの出現について、さまざまな形で語りうるだろう。そして、過去記事ではそのうちのいくつかを取り上げた。今週の記事で私が考察したいと思っているのは、先ほど使ったメタファー、つまりキューブラー=ロスが書籍で議論した悲哀の5段階に由来するものである。言うなれば、我々は死について語っているのだ。

3年前の記事において、2016年の選挙の熱の中で、当時死につつあり、現在死後硬直を迎えている思想を、「アメリカン・リベラリズム」というラベルで表現した。それは欠陥のあるラベルであったと今では考えている。なぜならば、そのラベルはあまりに広すぎる意味を持っているからだ。アメリカン・リベラリズムは異なる多数の要素を含む織物であり、その多くは過去数十年の間に既に消え去っており、またそのうちのいくつかはポスト・トランプの未来においても多大なる有用性を発揮することだろう。私が考えている特定の政治的立場は、リベラリズムのサブセットに属するもので、革新主義 [progressivism] とでも呼べるだろう - 我々が「歴史」と呼ぶこの複雑な事象が、一方向のみに進むよう定められているという信念であり、必然的にリベラル派があるべきと信じる方向へと進んでいくという信念である。同時に、進歩主義にも多数の派閥があるが、そのうちの一つが過去60年程度にわたってアメリカの政治的言説を支配してきたのである。

それは特権的進歩主義と呼べるだろう: 歴史は常に良い方向へ向かって進み、また必然的に、既に特権を持つ者の望みを叶えるという信念である。

一歩下がって、アメリカ社会における階級と特権のリアリティについて少しだけ語ろう。過去記事で私が一度ならず言及した通り、今日のアメリカの複雑なカースト制度のなかで、ある人がどこに位置するかを調べる最も効率のよい方法は、その人たちが収入の大部分を何から得ているかと聞くことである。投資の利得から収入を得ているのか? 月ごとの給与から、福利厚生付きで収入を得ているのか? 時間ごとの賃金から、通常の場合ほとんど福利厚生なしで収入を得ているのか? 政府の福祉支出から得ているのか? 今日のアメリカにおいて、普通は4つのうちの1つである - そこで、投資階級、給与階級、賃金階級、および福祉階級は、現代アメリカ社会の4つの大階級である。

それらのカテゴリに当てはまらない人々もいるのではないか? その通り。私がそうだ; 私の収入の大部分は、書籍の売り上げのロイヤリティによるものだ。私の小階級に属する人々は、今示した階級構造の片隅に位置している。もしも、そういった人々が私のようにささやかだがしっかりした収入を得ているならば、給与階級レベルの教育および賃金階級レベルの収入と福利厚生を備えて、賃金階級と給与階級の間のどこかに収まる; もしも上中流階級レンジ内の収入を得て、適切な態度と価値観を示せるのであれば、給与階級の中に受け入れられるだろう; 大ヒットを飛ばして多額の投資収益を上げられるようになれば、投資階級に含まれる。その階級内の別の人は、そういった人達を、 新富裕層 ヌーボー・リッチ の野心家なり成金なりとして扱うだろう。4つの大階級は、私のような変わった小階級の人間が当てはめられるフレームワークを提供する。

第二次大戦以来、更には、給与階級は上昇を続けた。大戦間期に書かれた小説を読めば、特権階級のメンバーとして人々を区別するものは、労働を必要としない十分な投資資産の所有であることが分かるだろう。ここで私が考えているのは、私のお気に入りの本でありしばらく前に再読したからなのだが、サマセット・モームの小説『剃刀の刃』である。その結末において、[小説の主人公] ラリー・ダレルが、他の登場人物には模倣も理解もできない自分独自の運命を歩んでいることを示すものは、自分の投資資産を捨てて、お金を手放し、それゆえ彼の時代の自称 "善き人々" の間から後戻り不能な形で離脱することである。

もしもモームが今日小説を書いたとしたら、ダレルの自由を求める探求には、十分な福利厚生パッケージ付きの6桁か7桁の給与が得られる仕事を辞めることが関わるだろう。それこそが、現代世界における "善き人々" の一員であることを、言い換えるならば特権階級のメンバーであることを示すからだ。1920年代には、大企業のCEOは取締役会に追従する下僕でしかなかったが、現在ではそれが逆転しているのは、給与階級の上昇が原因である; また、金利が、つまり投資階級に収入を与えるリターンの最も基本的な指標が、長年に渡って最低水準に留まり続けているのもこれが原因である; 投資階級のメンバーは、借金の額よりも投資の額が多い。そのため、金利水準は2つの階級間のパワーバランスを示す優れた指標である。

また、給与階級の地位向上は、より貧しい2つの階級を支援するために、環境保護のために、あるいは他の問題を解決するために立法されるあらゆる提案が、その提案の受益者とされる人々よりも給与階級に大きな利益を与える理由を説明する。今日のアメリカで福祉に頼り生活する人々は、かろうじて生存できるだけのみじめな生活水準に陥っているが、しかし同じ福祉プログラムを監督する給与階級の官僚軍団には、それは当てはまらない。同様に、賃金階級のアメリカ人失業者を大学に送り込み、もはや存在しない仕事への職業訓練を行なうことは、返済も破産もできない学生ローンの負担を負った何百万という人々に厄災をもたらした。一方で、そのスキームから巨大な利益を得て、何らのコストを支払わなかった大学と銀行の給与階級の雇い人たちにとって、それは巨大な成功であった。

また、資金力の豊富なシンクタンクと企業メディアが奨励する環境保護策が、農民、炭鉱鉱夫、その他の給与階級外部の人々のみにコストを課す一方で、給与階級の地球破壊的な行動 - SUVでの長距離通勤、プエルト・バヤルタやマサトラン [メキシコの観光地] での休暇、東ヨーロッパの都市の一区画やインドネシアの町全体に匹敵する電気を浪費する、スプロール化した、アメニティ満載の、ほとんど断熱されていないマックマンション、その他もろもろ - が、何のお咎めも受けていないのはそれが理由である。

おそらく、この種の特権者の利己主義を示す最も極端な事例は、けれども、最近のR.F."ベト"・オルーク、現在の民主党の大統領候補指名の候補者だろう。選挙キャンペーンのイベントで、「食料砂漠」の問題をどのようにして解決するのかと質問された。- つまりは、食料品店の存在しない地域である。合衆国憲法のもとで、食料品店の地理的配置を規制することは連邦政府に割り当てられた義務ではなく、まして大統領府の職務でもないという決して些細ではない問題は、この際脇に置いておこう。ここで関連のあるポイントは、オルークが、サステイナブルでオーガニックな産地直送のレストランがあらゆる地域に存在するべきだ、と答えたということである。

レポーターすら言葉を詰まらせた。というのは、産地直送レストランは裕福な人々の間での最近の流行であり、そういった店での2人分のささやかなディナーは、たいてい賃金階級の4人家族を一週間以上養うだけのコストがかかるからだ。賃金階級や福祉階級の人々、食料砂漠の問題に苦しむ2つの階級の人々は誰も、産地直送レストランで食事をするような余裕はない - ついでに言えば、私にもない。オルークの提案は、貧困者の食料不足という問題に対する最高の解決策は、給与階級の人々にすばらしい食事をする選択肢を与えることだと主張するのに等しい。どういうわけか、「[パンがなければ] 有機ルッコラを食べればいいのに。」*1という言葉が否応なしに浮かんでくる。

けれども、重要なのはこれらの状況から多かれ少なかれ利益を得ている人々は、自分たちのことを、公共善を踏み躙っているとか他人の苦しみから利益を得ているとは捉えていないということだ。たとえ、実際に行なっていることが基本的にはそうであったとしても。それが、特権的革新主義と、トランプ以前の時代の共和党の特権的保守主義とを区別する。そのイデオロギーは、おおむね「オレのものはオレのものだ、ジャック。[I’ve got mine, Jack.]」という言葉に要約できる。特権的革新主義の信奉者たちは、自分たちが"善き人々"であることを確信しており、自分たちの態度はあらゆる道徳的に善い人々に共有され、自分たちのライフスタイルはあらゆる人間が本当に望んでいると信じている。更には、歴史の弧は自分たちの方向に必然的に向かっていると信じている: 最終的には、絶え間ない進歩の行進の結果として、地球上の人々が一人残らず、特権的革新主義者と同じ態度とライフスタイルを持つようになるのである。なぜならば、彼らの態度とライフスタイルは善、真理、正しさと正義を体現するものに他ならないからだ。

もしもこれらの信念が実践されているところを見たければ、給与階級の上位ランクのメンバーになりたいと望む有色人種の人々が、給与階級の他のメンバーから区別されるあらゆる特徴をシステマティックに捨て去ることが期待されているのを観察してほしい。(私はアスリート、ミュージシャン、大学教授やその他エンタメ分野の人々について語っているのではないことに注意してほしい。そういった人たちは、給与階級の規範からの差異を示すことを期待されており、それゆえに彼らは庇護されるのである。) それがの生物学的問題 - たとえば、肌の色 - の問題ではないとしたら、それは態度、価値観、ライフスタイルなど、すべてが特権的革新主義のテンプレートを満たさなければならないのだ。ほとんど無害な表面上の装いのバリエーション以外に、受け入れられる余地はない。

これは単なる通常の順応主義の問題でない。ただし当然、その問題も関わってはいるけれども。特権的革新主義者たちにとって、自分の態度とライフスタイルは、輝かしい未来の証明書であり、いずれはすべての人が受け入れるものである。その人たちが望むと望まざるとに関わらず。最終的勝利に先んじてそれらを受け入れ、そのプロセスの中で自分の価値観と好みを捨て去った人たちは、特権的革新主義のユートピア到来を加速させることができる。そのユートピアでは、すべての大陸のすべての性別と民族の人々が例外なく、正確に同一の強固にドグマ的なイデオロギーを信じ、正確に同一の息詰まるほどに狭い範囲のライフスタイルを受け入れるとされる。

それが、逆に、ドナルド・トランプが2016年の選挙キャンペーンで共和党候補の集団から抜け出したときに、特権的革新主義が分裂を始めた理由である。読者諸君も記憶している通り、給与階級の態度とライフスタイルのすべての費用を支払うと見なされている、何百万人という労働者階級のアメリカ人、彼らの犠牲のもとに給与階級を利する政策の40年により貧困と悲惨のうちに突き落された人々の懸念を表明することにより、トランプはそれを実行した。特権者が抱くほどんどのイデオロギーと同様、特権的革新主義が意味を持つのは、その提唱者が自分たちの立場のみが重要であるというフリをし続けられる限りにおいてである。ひとたび、排除された者たちがトランプの選挙での勝利を通してパブリックステージに乱入してくれば、もはやれは当てはまらなくなる。

今日のアメリカで我々が直面している新たな政治的リアリティは、給与階級の人間がたまたま望んでいるものを実現する方向へ歴史が自動的に進んでいくと装うことができなくなったということだ。それが意味するのは、逆に、何かを望む給与階級のメンバーは、それを手にするために取引をして、他の階級の人々が望む何かを提供しなければならないということだ。たとえ、それが給与階級に不利益をもたらすときでさえ。読者の中にはお気づきの人もいるだろうが、給与階級のテーブルからこぼれ落ちるパンくずをおとなしく待っているように言われてきた非特権階級の集団は、自分自身のために声を上げ始めており、自分たちの要望も考慮に入れるようにと要求している。本当にありがとうございました。

これを示唆しているのは、メディアが、遅まきながら給与階級の政治家たちが口にする信念と彼らの実際の生活様式の間にある拡大するギャップについて指摘し始めていることだ。ニューヨーク市長、ビル・デブラシオは、この現象の最近の典型例である: 彼は壮大な環境保護改革の提唱者であるが、同時に彼はファッショナブルなジムで運動するために毎日10マイルもSUVを運転している。グレーシー・マンション [ニューヨーク市長官邸] にエクササイズマシンを設置して、不要な炭素排出を減らすことはできなのだろうか。もちろんだ。しかし、最近になるまで、給与階級のメンバーは望むものを何でも手に入れられるという規則が、批判から彼を保護していた。現在デブラシオに向けられている批判は、その規則がもはや適用されないことを示している。

言わば、我々は 通常の政治 ポリティクス・アズ・ユージュアル に回帰しつつある。否認と怒りの叫び声、取引のお喋り、抑鬱の嘆きが静まるにつれて、現れつつあるのは通常の政治である。そこでは、選挙民の異なるセクターが政治家を支持し、その代わりに政治家は彼らの要求と要望を叶える。そして、政治家が支持者に期待されていた約束を叶えられなければ、彼らは次の回には別の誰かのところへ行くだろう。これが示しているのは、逆に、2016年に終焉を迎えた期間は、異常な政治の期間であったということだ。そこでは単一の階級の利害が一時的にあらゆる人の要求を覆い隠していた。

エスアメリカの歴史の中にもそのような時期がある。興味深いのは、そんな時期は白熱した選挙戦によって終焉を迎えたということだ。その選挙戦においては、最終的に勝利を収めた候補者は、エスタブリッシュメントとその子飼いのメディアに本当に嫌悪されていたのだ。もしもそのリストを見たいなら、読者諸君、優れた合衆国史の本を持って腰を落ち着けて、自分自身でリストを作ることを勧めたい。アメリカ史の基礎知識は昨今では極めて珍しいものであり、おそらくその経験はあなたに良いものをもたらすだろう。

最後に、異常な政治の期間をもたらすのは、2018年の後半からこのサイトで発展させてきたテーマと同じだ: 一つの階級、人種、または個人のグループに対し、他のすべての他者よりも特権的な立場を与える単一の、自己中心的な 物語 ナラティブ が、あらゆるリアリティを従わせようとしたときに何が起こるかである。2世紀以上も前に、詩人のウィリアム・ブレークはそのような思考の習慣に適切な名前を与えた: 「シングル・ビジョン」 今後の記事では、シングル・ビジョンの探求を続けて、それを超えたところに何があるのかを垣間見てみたいと思う。

死ぬ瞬間―死とその過程について (中公文庫)

死ぬ瞬間―死とその過程について (中公文庫)

*1:訳注:もちろんこれは、マリー・アントワネットが言ったとされる「(パンがなければ) お菓子を食べればいのに。」のもじり。

翻訳:自由貿易の誤謬 (ジョン・マイケル・グリア)

この記事は2016年11月23日に書かれた。ジョン・マイケル・グリアによる2016年ドナルド・トランプ当選予測に関するエッセイはこちら


The Free Trade Fallacy

このブログの昔からの読者であればご存知の通り、私が投稿する記事のテーマがさまざまな方向へと逸れていくのは珍しいことではない。そして、今週の記事も、既に十分すぎるほどあるそのリストに追加の事例を加えることだろう。先週の後半、直近の選挙の余波が未だあらゆるメディアに噴出している間に、今後の事態のなりゆきについて1つの可能性の高い帰結を考察していた - 最近の経済史のなかで自由貿易協定が果たしてきた、大きな、そして疑わしい役割の少なくとも一部の終わりである。

ヨーロッパとアメリカ合衆国における2016年の政治的動乱の裏にある大きな潮流は、実際のところ、自由貿易の価値に関する意見の厳しい不一致である。現代工業諸国すべての政治的エスタブリッシュメントは、拡大を続ける貿易協定網に裏付けられた自由貿易政策は、必然でありかつ必然的に善であると主張している。現状維持に反対して盛り上がった運動 - イギリスのブレグジットドナルド・トランプを次のアメリカ大統領にしたポピュリストの勃興、そして世界各地での類似の運動の集合 - は、それら両方の主張を拒否し、自由貿易は連鎖的にネガティブな結果を生む愚かな政策であると主張している。

ここで、何が議論の対象であるのかを明確にすることが重要だ。自由貿易についての会話は、しばしば国境開放その他についての、温かであるが曖昧な一般論に偽装されているからである。自由貿易制度のもとでは、商品と資本は国家の境界を越えて自由に移動できる; 支払うべき関税はなく、満たすべき割当もなく、ある国や別の国の中に資本を留める規制もない。いわゆるグローバル経済、すなわちある国で販売される消費財は地球のどこか別の場所で製造されたものであるかもしれず、工場を建設するための資金は自由に流入して利益を上げられるようなグローバル経済は自由貿易に依存しており、自由貿易理論の推進者はこれは常に良いことであると主張する: あらゆる種類の貿易障壁を廃止し、商品と資本に国境を越えた自由な移動を許すことは、あらゆる人に繁栄を作り上げるものであるとされる。

理論上はそうだ、少なくとも。実際には? まぁ、そううまく行かない。これは常に記憶されていることではないのだが、現代史には2回の大自由貿易時代が存在した - 最初は、1860年代から大恐慌開始までの期間であり、そこにアメリカ合衆国は決して完全に参加していなかった; 2つ目は、1980年代から現在までで、アメリカはその最央部に位置してきた - そのどちらも、普遍的な繁栄の世界をもたらさなかった。まったく逆に、両者はほぼ同一の結果をもたらした: 富裕者の驚愕的な繁栄、労働者階級の貧困化と悲惨化、そして連鎖的な経済危機である。最初の自由貿易時代は、大恐慌により終了した; 2つ目の、たった今現在の自由貿易時代も、同様にして終わる可能性がある。

エコノミストたち -より正確に言うなら、現実世界から得られた根拠と自身の理論とを比較する、エコノミストのマイノリティ- は、これらの好ましくない結果は、自由貿易の失敗ではないと主張することを好む。私が示したいと思っているように、彼らは完全に間違っている。彼らの分析からは重要なファクターが除かれているので、そのようなファクターを考慮に入れたとすると、自由貿易は、繁栄ではなく、必然的に貧困と経済的不安定性をもたらす悪しき政策であることが明らかになるだろう。

これがどう働くのかを見るために、多数の独立した国々が存在する1つの大陸を想像してみよう。すべての国はお互いに貿易をする。他国よりも裕福な国がある; 価値の高い天然資源を持つ国もあり、そうでない国もある; 生活水準と一般的な賃金水準は、それぞれの国ごとに異なる。通常の条件のもとでは、さまざまな種類の貿易障壁が国家間の商品と資本のフローを制限する。各々の国は、貿易政策を調整することで自身の経済的利益を追求する。国内の鉄鋼産業を育成しようとする国は、たとえば、関税、輸入量割当クォータ 、などを使って、国外の競合から国内産業を保護するかもしれない。余剰の農作物を有する別の国は、近隣諸国に自国の穀物を購入してもらうために、他の製品への関税を下げる必要があることを理解するかもしれない。

上述の2つの時代以外には、これが普通の情勢であり、2つの堅実な結果をもたらした。1つ目は、国家間の商品と資本の動きは、だいたいバランスの取れた方向へ向かう傾向があるということだ。なぜならば、近隣諸国の敵対的な貿易政策から防衛するために、あらゆる国が自身の貿易障壁を使用するからだ。たとえば、ある国が「ダンピング」により鉄鋼生産を独占しようと試みていると想像してみよう。つまり、あらゆる他国の鉄鋼業者を破産に追い込むために、国際市場において最低価格で自国の鉄鋼を販売するのである。他の国は、特殊関税、クォータ、ダンピング国家からの鉄鋼輸入の全面禁止などの処置を取ることで、そのようなプロジェクトを緊急停止させられる。ゆえに、貿易障壁は、国際経済に相対的な平衡状態をもたらす傾向がある。

これは平衡状態であり、平等ではないことに注意してほしい。貿易障壁が存在するときには、ある国が裕福である一方で別の国が貧しい状態にあるのは普通のことである。それは国際貿易とは何の関係もない膨大な理由による。同時に、貧困諸国の困難さも、国家内での賃金と価格の間の相対的な平衡状態によってバランスが取られる。

国境を越えた商品と資本の動きが制限されている場合、それぞれの国家内の消費財価格は、需要と供給の法則を通して、その国の消費者の購買力とリンクさせられる。そして、つまりその国の雇用者により支払われる賃金と結び付けられる。もちろん、通常通りの注意事項が適用される; 賃金と物価は、他の膨大な理由によっても変化する。その多くは国際貿易とは何の関係もない。そうであっても、雇用者から支払われた賃金によって、消費者が雇用者の製品を購入するための基本的な収入源が形成されるため、また、もしも雇用者が著しく賃金を低下させることを試みた場合、消費者は政治領域への影響力を保持しているため、[商品価格と賃金の] 平衡へと向かう強い圧力が存在する。

貿易障壁がある場合、結果として、低賃金の国に住む人々が商品とサービスに対して支払う金額は、一般的に低くなる。一方で、高賃金の国に住む人々は、店に行くときには相対的に高い価格を支払わなければならない。低価格により、貧困諸国に住む労働者の生活は相当に容易になる。同様に、富裕諸国に住む労働者の生活も、賃金が価格とマッチする傾向があるため相当に容易になる。常にこのようになるのだろうか? もちろん、ノーだ - もう一度言っておくと、賃金と価格は無数の理由により変動する。そして、国家経済は本質的に不安定なものである - しかし、ここで列挙したようなファクターにより、経済は、一方では消費者の需要と要求、もう一方では消費者の支払い能力との間でおおむねバランスが取れる方向へと向かう。

それでは、我々が今まで想像してきた国々すべてが、ネオリベラル派エコノミストの声により自由貿易ゾーンを制定するよう説得されたとしよう。そこでは、商品と資本の自由な動きを妨げるあらゆる障害が存在しない。何が起こるだろうか?

貿易障壁のないところでは、ある商品やサービスを最低価格で生産できる国家が、その商品やサービス市場の "王者の分け前" を得ることになる。労働コストは製品製造コストの大部分を占めているために、低賃金の国家は高賃金の国家よりも競争力のある値付けをする。結果として、かつての高賃金諸国では失業率の増加と賃金の低下が発生する。結果は、自由貿易ゾーン内における労働力の最低賃金水準へと向けて、いたるところで賃金が低下していく "底辺への競争" が起こる。

これが単一の国家内で発生した場合、既に述べた通り、労働者はしばしば政治領域で力を行使することにより、経済的な下降流に反応できる。自由貿易ゾーンにおいては、けれども、ある1つの国の中で賃金低下に対する政治的挑戦を受けた雇用者は、単純に別の場所へ移動できる。このような経済的な統合と政治的な分断のミスマッチが自由貿易の不均衡を生み、すぐ後で議論するような問題へと繋がる。

ここで当然、自由貿易の提唱者は、富裕国から貧困国への雇用喪失は、必然的に新しい雇用に代替されると主張することを好んでいる。歴史はこの主張を支持していない - 正反対である - そして、消滅した雇用が決して代替されないことには十分な理由がある。自由貿易制度のもとで、労働集約的産業の企業にとっては、単純に低賃金の別の国へと移動することがより経済的であるからだ; 資本集約的で、それゆえ相対的に少数の労働者しか雇用しないような産業の企業だけが、高賃金諸国で創業する理由がある。コンピュータ産業は古典的な事例である - そして、読者はお気付きだろうと信じているが、そのような産業が労働集約的になるとすぐにオフショアされる。それでも、ここでは別のファクターも働いている。

賃金は製品製造コストの非常に大きな割合を占めているため、全般的な賃金低下は事業収益の増加をもたらす。そこで、自由貿易による1つの結果としては、賃金より収入を得るマジョリティの労働者から、事業収益より直接・間接的に収入を得る裕福なマイノリティへの富の移転である。このファクターこそが、自由貿易の提唱者が描く絵から抜け落ちているものだ- つまり、所得分配に対する自由貿易の影響である。自由貿易は、企業利益を増加させる一方で賃金を低下させるため、豊かな者を富ませ貧しい者を貧しくする。今日、裕福な人々の間で自由貿易が人気のある理由はこれだ。ちょうどビクトリア朝時代と同じように。

けれども、ここには "つぼみの中の毛虫" *1 が居る。歪んだ所得分配は、それ自体が負担となるからであり、またそれらの負担は時が経つにつれて痛々しいまでによく知られた形で積み上がっていく。富者を富ませ貧者を貧しくすることの困難さは、ずいぶん昔にヘンリー・フォードが指摘した通り、従業員に支払われる賃金は、従業員が商品を購入するために使用する収入源でもあるということだ。賃金が低下するにつれて購買力も低下し、収入を消費者の購買に依存するあらゆる産業において、投資利得に対する下方圧力がかかり始める。

投資家の富の増加が、賃金を得る大衆の富の低下を埋め合わせるのではないだろうか? ノーだ、なぜならば、貧しい人々と比べれば、豊かな人々は小さな割合しか消費財に使用せず、残りを投資へと回すからだ。100万ドルを1000人の労働者階級の家族に分配すれば、そのお金は家族の生活水準を向上させるために使われるだろう: より良い食事、より大きなアパート、クリスマスツリーに置かれる追加のおもちゃ、など。同じ100万ドルを1つの裕福な家族に与えたとすると、高い確率でその大部分が投資へ向かうだろう。

これが、ところで、かつての時代の共和党政治家に愛されたトリクルダウン経済理論が機能しなかった単純な理由であり、また2008~2009年の経済パニックの際、政府から銀行へ施された資金がこの国のほとんどの人の経済状況を改善しなかった理由である。消費という点については、豊かな者は貧しい者ほど効率的ではないのだ。結果、消費支出により経済を駆動させたいのであれば、貧しい労働者階級の人々に、消費できる十分なお金を手に入れさせなければならない。

また更に大きな原則も存在する。経済にとっての消費支出と投資資本は、植物にとっての太陽光と水である: つまり、どちらか一方をもう片方で代替することはできない。両方が必要である。自由貿易政策は、所得分配を歪めることにより消費支出から投資に向けてお金を吸い上げるため、一方では不足を他方では過剰を引き起こす。不均衡が増大すると、消費者は製品を購入する現金を持たなくなるために、企業は利益を上げることが難しくなっていく; その一方で、投資に利用されるお金の量は定常的に増加する。その結果は、ますます多くの資金がますます少なくなる価値ある投資手段を追求することによる、投資利得の定常的な低下である。

自由貿易時代の歴史は、それゆえ、必要とあらばあらゆる手段を用いて投資利得を下支えするための、狂乱した試みによって特徴付けられる。1970年代にアメリカから製造業経済を奪い去ったオフショアリングブームは、ビクトリア朝時代後期のイギリスからインドへの織物工場オフショアリングと正確に対応している; どちらの場合にも、オフショアリングは、自由貿易ゾーン内の豊かな地域と貧しい地域の賃金と価格の間に残存する不均衡を活用するものであった。どちらの場合にも、オフショアリングは富裕諸国での賃金低下圧力を増加させ、消費財産業 - 当時も今も、経済において単独の最大シェアを持つ分野 - の全般にわたる投資利得の低下により、解決するはずだった問題を悪化させた。

私が知る限りで1回目の自由貿易時代に試行されなかったトリックは、借金で商品を買うよう消費者を説得することにより、資本を代用の収入へと変化させることであった。それは過去20年のほとんどの間、アメリカの経済政策の要石キーストーン であった。住宅バブルは、自分の持っていないお金を使わせて、その後に利息付きで全額支払う方法を発見しようとする狂気じみた試みの、最も途方もない発現にすぎない。それはうまく働かなかった。その理由は、追加の利息支払いが消費支出に対して更なる下方圧力を加えるからだけではない。

他にもさまざまな理由があるが、現代の2度の自由貿易時代に存在したほとんど自滅的な仕掛けは、賃金を低下させる一方で消費支出を高止まりさせようとすることだった。そのどちらも機能しなかった。なぜならば、実際の問題に向き合ってないからである - 自由貿易のもとでは、賃金への下方圧力は、有効な投資資本を吸収するレベルで経済を回し続けられる十分なお金を、消費者が支払えないことを意味する。- そしてそこで、投資利得の低下という問題に対する最終解決策が時刻通りにやって来る: 生産的投資から投機への資本転換である。

この物語がどう終わるのかを知らない読者は、すぐに起き上がって、ジョン・ケネス・ガルブレイスの本『大暴落 1929』を探しに行くべきだ。投機バブルは、持続している間は豊富なリターンを生む; 自由貿易によって賃金が低下し、消費財経済が停滞スタグネーション収縮コントラクション に追い込まれ、生産的な産業への投資収益が "もはや無視しうる" ポイントを下回ると、非常に多くの場合、投機バブルのみが利益を上げられるゲームになってしまう。更には、自由貿易スキームの最終段階においては、真っ当なリターンを上げられる投資手段があまりにも減ってしまうため、真っ当なリターンを得られる投資手段には何であれ即座に膨大な量の資金が流入することになる。

そこで、大自由貿易時代を、1846年の穀物法廃止を暫定的な開始とし、グラッドストン政権による1869年の関税廃止に絶頂を迎え、1929年の株式市場の崩壊と大恐慌によって終了した間の期間であるとする。その道のりの中では、たくさんの危機も発生している。19世紀終盤から20世紀初頭にかけての経済史には、1929年に最高潮を迎える投機的バブル破裂と株式市場崩壊という荒涼とした風景が広がっている。実際のところ、それは20世紀終盤から21世紀初頭にかけての経済史と非常によく似ている。そこでもまた別の破裂と崩壊の連鎖が続いているからだ; 1987年の株式市場の崩壊、1994年の新興国通貨危機、2000年のインターネットバブル崩壊、2008年の住宅バブル崩壊、そしてそのリズムは続いている。

ゆえに、自由貿易は、労働者の貧困化と悲惨化を、また、消費不足と過剰投資の間のミスマッチによる連鎖的な経済危機をもたらす。そのような問題は偶然ではない - 自由貿易制度そのものに直結している - そして、そのようなことが起こるのを止める唯一の方法は、自由貿易を悪しき政策であるとして廃止し、賢明な貿易障壁を用いて各々の国で消費される製品のほとんどが自国内で製造されるようにすることである。

おそらく、ここで一時停止していくつかの点を指摘しておく必要があるだろう。最初に、自由貿易が悪しき政策であるからといっても、あらゆる種類の貿易障壁が優れた政策であることを意味しない。ありうる選択肢は、スペクトラムのうちの両極端の2点だけだと主張する習慣は、一般的ではあるものの、非常にまずい決断を生む方法である: ほとんどのものごとと同じく、両極端のどちらかよりも中庸の点が良い結果をもたらす。適切な中間地点を見つけることは必ずしも容易ではないが、同じことはほとんどの政治経済的な問題についても当てはまる。

次に、自由貿易は経済の機能不全をもたらす唯一の原因ではないし、所得分配の歪みとそれに伴う問題を引き起こす唯一の原因でもない。多数のファクターにより、国家および世界経済の軌道は逸らされてしまう。歴史が痛々しいまでに明白に示すところによれば、自由貿易は必然的にこれらの問題を引き起こす。自由貿易を廃止し、平常状態へと回帰すること、すなわち国々が自国の需要のほとんどを国境内で満たし、余剰の製品ないしは国内でほとんどあるいはまったく得られない商品の交換のみを貿易することは、深刻な経済的機能不全を起こす確実な原因の1つを取り除く。単にそれだけだ。しかし、ほぼ間違いなく、自由貿易からの撤退は良い考えであると言える。

最後に、ここで私が提示した論点によれば、自由貿易協定から撤退し計画的な貿易制限を試みる国には、今日でさえ、予期しない利益があるかもしれないと示唆している。現在、繁栄に対する下方圧力をかけるファクターは多数存在するものの、今私が示した推論によれば、現在の世界にあまりにも広がった貧困化と悲惨化は、過去数十年にあまりに普及した自由貿易狂乱マニアによって著しく悪化しているのかもしれない。自由貿易協定から撤退し、国内消費のための製品生産へ向けて自国の経済を再修正する国は、それゆえいくらかの改善を予期しうるかもしれない。労働者の人々の繁栄のみならず、投資利率についても。

これが私が提案したい理論である。次の政権が宣言している政策によると、それが今まさにテストされようとしているものである - そして、その結果は次の数年程度の間には明らかになるはずだ。

(後略。元記事では、グリアが出版する本についての告知が2件あったが、訳出にあたっては省略した。)

大暴落1929 (日経BPクラシックス)

大暴落1929 (日経BPクラシックス)

*1:訳注: ものごとをダメにしてしまう原因