Going Faraway

渡辺遼遠の雑記帳

翻訳:ドナルド・トランプの5段階説 (ジョン・マイケル・グリア)

この記事は2019年5月1日に書かれた。ジョン・マイケル・グリアによる2016年ドナルド・トランプ当選予測に関するエッセイはこちら

Present at the Death

あぁ、ようやく意味が分かった。なぜ私が認識するまでにこれほど時間を要したのかは定かではないが、ドナルド・トランプの大統領選挙以来過去2年半の間、アメリカのマスメディア、インテリゲンチャ、そして特権階級全体を捉えていた集合的かんしゃくは、1970年代に悲しみの研究のパイオニア、エリザベス・キューブラー=ロスによって詳細に至るまで説明されていたのだった。もちろん、彼女が語っていたことは、余命宣告というリアリティに直面したときに人々が辿る5つの心理段階についてであるが、しかしそれはドナルド・トランプの5段階とでも呼びうるものの正確なモデルとなる。

最初の段階は、もちろん、"否認" である: キューブラー=ロスの順番では、発生したできごとが本当に発生したという認識を呆然と拒否することである。トランプが大統領宣誓を行なったとき、「ノー!!!」と叫んでいたアイコニックな抗議者は、この段階の典型例である。しかし、ここで私が考えているのは、民主党員の間に広まった一般投票の得票総数に対する執着、当選は単なるまぐれ当たりに過ぎないという主張や、ロシアによる選挙介入があったのだという主張、自分は絶対に「トランプ大統領」という言葉を発しないと宣言した著名人などである。これらすべては、アメリカ人が、合衆国憲法に定められた規則にもとづいて、ドナルド・トランプを第45代アメリカ合衆国大統領に選出したという事実を否定するための、無意味であるが直接的な試みである。

第二段階は"怒り"である: キューブラー=ロスの順番では、期待と現実の間に突然出現した大きなギャップによって生じる、盲目的で不合理な激怒である。再び、インターネットは即座にこの段階の典型例を提供していた。しかし、マスメディアやアメリカ社会の特権的階層を眼にしていた人であれば誰でも、トランプ自身のみならず、彼と繋がりや関連を持つとされたありとあらゆるものに対する不毛な激怒の奔流が噴出していたことに気づいただろうと思う。

第三段階は"取引"である。この段階を誤解しないようにすることが重要である。というのは、ここで言う取引は、このプロセスを始動させたものに対しては何も影響を及ぼさないからだ。キューブラー=ロスの著作では、余命宣告された人々が自分の罪を悔やんだり、神や家族や医者に対して抜本的な約束をする段階であり、それによって望まぬ現実を追い払えるという希望を持つ。現在の取引段階には豊富な発現が存在している: 2つの最も目立つものは、一方ではミュラー報告書、他方では「グリーンニューディール」や奴隷制への保障などの集合的な徳性への忠誠である。前者においては、民主党員は、ロバート・ミュラーの報告書がトランプを大統領の座から追放することを確実にするという信仰を大声で告白しているかのように行動している。後者の場合 - まぁ、私はここに大したロジックが存在するとは考えていない。選挙での勝利を求める政党が、有権者のせいぜい5分の1にしか支持されない政策への忠誠を誓うことは、賢明ではないからだ。取引段階での行動は、キューブラー=ロスが指摘する通り、誰にとっても意味を持たないのだ。

第四段階は"抑鬱"であり、現在我々はその最初の胎動を感じ始めている。ミュラー報告書をこねくり回して、民主党員が望む通りの意味を読み取ろうとする狂乱した努力が失敗するにつれて、トランプの敵対者たちは、熱狂的な支持基盤および既に莫大な額に達したキャンペーン資金を備えた現職大統領を負かすために必要となる苦しい戦いの困難さを予想している。しかも、経済は好調で、反トランプメディアは多数の有権者の信頼を失い、劇的な速さで視聴者を失っており、民主党は内部抗争により真っ二つに分裂している時に。ブログ界の左側の端に位置するウェブサイトは、それに伴って、トランプがホワイトハウスで2期目も勝利したとすれば何を意味するのかという憂鬱なエッセイを投稿し始めている。

そう遠くないうちに、ついに、第五段階へと至る。受容である。ここでもまた、この段階を誤解しないことが重要である。受容とは、起きたことを喜ぶというわけでない。受容は、好ましくないからといって何かを追い払うことはできないという事実を受け入れることを意味する。これは世界が変わってしまったという事実に折り合いを付けるプロセスであり、他の段階には存在しなかった見返りをもたらす: 新たなリアリティについて、何らかの意義のある行動を取れるようになるのだ。余命宣告を受けた人の場合であれば、いくらかの尊厳を持って死を迎えられるようになる準備や、自身の財産が自分の望んだ通りに相続されるための準備を行えるようになる。政治的なリアリティに対処する場合であれば、地に足を付けて、投票者たちに自分のしたいことをさせるのではなく、投票者たちが望むことを提供する方法を検討できるようになる。

我々は、ちょうどそのような新たな政治的リアリティの初期段階に位置している。新たなリアリティの到来を示す最高の指標は、メインストリームメディアの「ポピュリズム」に対する激しい非難だろう。それではお聞かせいただきたい。ポピュリズムとは何だろうか? それは、集団的な意思決定において、マジョリティが声を上げる権利を持つと主張する政治的スタンスである。ポピュリズムの対義語は、私が考えているような非難において言及されることはないけれども、エリート主義である: "善き人々" を自称する人のみが意思決定における声を上げる権利を持つという立場である。それが現在粉砕されようとしているイデオロギーの中心的な特徴だ。

新たな政治的リアリティの出現について、さまざまな形で語りうるだろう。そして、過去記事ではそのうちのいくつかを取り上げた。今週の記事で私が考察したいと思っているのは、先ほど使ったメタファー、つまりキューブラー=ロスが書籍で議論した悲哀の5段階に由来するものである。言うなれば、我々は死について語っているのだ。

3年前の記事において、2016年の選挙の熱の中で、当時死につつあり、現在死後硬直を迎えている思想を、「アメリカン・リベラリズム」というラベルで表現した。それは欠陥のあるラベルであったと今では考えている。なぜならば、そのラベルはあまりに広すぎる意味を持っているからだ。アメリカン・リベラリズムは異なる多数の要素を含む織物であり、その多くは過去数十年の間に既に消え去っており、またそのうちのいくつかはポスト・トランプの未来においても多大なる有用性を発揮することだろう。私が考えている特定の政治的立場は、リベラリズムのサブセットに属するもので、革新主義 [progressivism] とでも呼べるだろう - 我々が「歴史」と呼ぶこの複雑な事象が、一方向のみに進むよう定められているという信念であり、必然的にリベラル派があるべきと信じる方向へと進んでいくという信念である。同時に、進歩主義にも多数の派閥があるが、そのうちの一つが過去60年程度にわたってアメリカの政治的言説を支配してきたのである。

それは特権的進歩主義と呼べるだろう: 歴史は常に良い方向へ向かって進み、また必然的に、既に特権を持つ者の望みを叶えるという信念である。

一歩下がって、アメリカ社会における階級と特権のリアリティについて少しだけ語ろう。過去記事で私が一度ならず言及した通り、今日のアメリカの複雑なカースト制度のなかで、ある人がどこに位置するかを調べる最も効率のよい方法は、その人たちが収入の大部分を何から得ているかと聞くことである。投資の利得から収入を得ているのか? 月ごとの給与から、福利厚生付きで収入を得ているのか? 時間ごとの賃金から、通常の場合ほとんど福利厚生なしで収入を得ているのか? 政府の福祉支出から得ているのか? 今日のアメリカにおいて、普通は4つのうちの1つである - そこで、投資階級、給与階級、賃金階級、および福祉階級は、現代アメリカ社会の4つの大階級である。

それらのカテゴリに当てはまらない人々もいるのではないか? その通り。私がそうだ; 私の収入の大部分は、書籍の売り上げのロイヤリティによるものだ。私の小階級に属する人々は、今示した階級構造の片隅に位置している。もしも、そういった人々が私のようにささやかだがしっかりした収入を得ているならば、給与階級レベルの教育および賃金階級レベルの収入と福利厚生を備えて、賃金階級と給与階級の間のどこかに収まる; もしも上中流階級レンジ内の収入を得て、適切な態度と価値観を示せるのであれば、給与階級の中に受け入れられるだろう; 大ヒットを飛ばして多額の投資収益を上げられるようになれば、投資階級に含まれる。その階級内の別の人は、そういった人達を、 新富裕層 ヌーボー・リッチ の野心家なり成金なりとして扱うだろう。4つの大階級は、私のような変わった小階級の人間が当てはめられるフレームワークを提供する。

第二次大戦以来、更には、給与階級は上昇を続けた。大戦間期に書かれた小説を読めば、特権階級のメンバーとして人々を区別するものは、労働を必要としない十分な投資資産の所有であることが分かるだろう。ここで私が考えているのは、私のお気に入りの本でありしばらく前に再読したからなのだが、サマセット・モームの小説『剃刀の刃』である。その結末において、[小説の主人公] ラリー・ダレルが、他の登場人物には模倣も理解もできない自分独自の運命を歩んでいることを示すものは、自分の投資資産を捨てて、お金を手放し、それゆえ彼の時代の自称 "善き人々" の間から後戻り不能な形で離脱することである。

もしもモームが今日小説を書いたとしたら、ダレルの自由を求める探求には、十分な福利厚生パッケージ付きの6桁か7桁の給与が得られる仕事を辞めることが関わるだろう。それこそが、現代世界における "善き人々" の一員であることを、言い換えるならば特権階級のメンバーであることを示すからだ。1920年代には、大企業のCEOは取締役会に追従する下僕でしかなかったが、現在ではそれが逆転しているのは、給与階級の上昇が原因である; また、金利が、つまり投資階級に収入を与えるリターンの最も基本的な指標が、長年に渡って最低水準に留まり続けているのもこれが原因である; 投資階級のメンバーは、借金の額よりも投資の額が多い。そのため、金利水準は2つの階級間のパワーバランスを示す優れた指標である。

また、給与階級の地位向上は、より貧しい2つの階級を支援するために、環境保護のために、あるいは他の問題を解決するために立法されるあらゆる提案が、その提案の受益者とされる人々よりも給与階級に大きな利益を与える理由を説明する。今日のアメリカで福祉に頼り生活する人々は、かろうじて生存できるだけのみじめな生活水準に陥っているが、しかし同じ福祉プログラムを監督する給与階級の官僚軍団には、それは当てはまらない。同様に、賃金階級のアメリカ人失業者を大学に送り込み、もはや存在しない仕事への職業訓練を行なうことは、返済も破産もできない学生ローンの負担を負った何百万という人々に厄災をもたらした。一方で、そのスキームから巨大な利益を得て、何らのコストを支払わなかった大学と銀行の給与階級の雇い人たちにとって、それは巨大な成功であった。

また、資金力の豊富なシンクタンクと企業メディアが奨励する環境保護策が、農民、炭鉱鉱夫、その他の給与階級外部の人々のみにコストを課す一方で、給与階級の地球破壊的な行動 - SUVでの長距離通勤、プエルト・バヤルタやマサトラン [メキシコの観光地] での休暇、東ヨーロッパの都市の一区画やインドネシアの町全体に匹敵する電気を浪費する、スプロール化した、アメニティ満載の、ほとんど断熱されていないマックマンション、その他もろもろ - が、何のお咎めも受けていないのはそれが理由である。

おそらく、この種の特権者の利己主義を示す最も極端な事例は、けれども、最近のR.F."ベト"・オルーク、現在の民主党の大統領候補指名の候補者だろう。選挙キャンペーンのイベントで、「食料砂漠」の問題をどのようにして解決するのかと質問された。- つまりは、食料品店の存在しない地域である。合衆国憲法のもとで、食料品店の地理的配置を規制することは連邦政府に割り当てられた義務ではなく、まして大統領府の職務でもないという決して些細ではない問題は、この際脇に置いておこう。ここで関連のあるポイントは、オルークが、サステイナブルでオーガニックな産地直送のレストランがあらゆる地域に存在するべきだ、と答えたということである。

レポーターすら言葉を詰まらせた。というのは、産地直送レストランは裕福な人々の間での最近の流行であり、そういった店での2人分のささやかなディナーは、たいてい賃金階級の4人家族を一週間以上養うだけのコストがかかるからだ。賃金階級や福祉階級の人々、食料砂漠の問題に苦しむ2つの階級の人々は誰も、産地直送レストランで食事をするような余裕はない - ついでに言えば、私にもない。オルークの提案は、貧困者の食料不足という問題に対する最高の解決策は、給与階級の人々にすばらしい食事をする選択肢を与えることだと主張するのに等しい。どういうわけか、「[パンがなければ] 有機ルッコラを食べればいいのに。」*1という言葉が否応なしに浮かんでくる。

けれども、重要なのはこれらの状況から多かれ少なかれ利益を得ている人々は、自分たちのことを、公共善を踏み躙っているとか他人の苦しみから利益を得ているとは捉えていないということだ。たとえ、実際に行なっていることが基本的にはそうであったとしても。それが、特権的革新主義と、トランプ以前の時代の共和党の特権的保守主義とを区別する。そのイデオロギーは、おおむね「オレのものはオレのものだ、ジャック。[I’ve got mine, Jack.]」という言葉に要約できる。特権的革新主義の信奉者たちは、自分たちが"善き人々"であることを確信しており、自分たちの態度はあらゆる道徳的に善い人々に共有され、自分たちのライフスタイルはあらゆる人間が本当に望んでいると信じている。更には、歴史の弧は自分たちの方向に必然的に向かっていると信じている: 最終的には、絶え間ない進歩の行進の結果として、地球上の人々が一人残らず、特権的革新主義者と同じ態度とライフスタイルを持つようになるのである。なぜならば、彼らの態度とライフスタイルは善、真理、正しさと正義を体現するものに他ならないからだ。

もしもこれらの信念が実践されているところを見たければ、給与階級の上位ランクのメンバーになりたいと望む有色人種の人々が、給与階級の他のメンバーから区別されるあらゆる特徴をシステマティックに捨て去ることが期待されているのを観察してほしい。(私はアスリート、ミュージシャン、大学教授やその他エンタメ分野の人々について語っているのではないことに注意してほしい。そういった人たちは、給与階級の規範からの差異を示すことを期待されており、それゆえに彼らは庇護されるのである。) それがの生物学的問題 - たとえば、肌の色 - の問題ではないとしたら、それは態度、価値観、ライフスタイルなど、すべてが特権的革新主義のテンプレートを満たさなければならないのだ。ほとんど無害な表面上の装いのバリエーション以外に、受け入れられる余地はない。

これは単なる通常の順応主義の問題でない。ただし当然、その問題も関わってはいるけれども。特権的革新主義者たちにとって、自分の態度とライフスタイルは、輝かしい未来の証明書であり、いずれはすべての人が受け入れるものである。その人たちが望むと望まざるとに関わらず。最終的勝利に先んじてそれらを受け入れ、そのプロセスの中で自分の価値観と好みを捨て去った人たちは、特権的革新主義のユートピア到来を加速させることができる。そのユートピアでは、すべての大陸のすべての性別と民族の人々が例外なく、正確に同一の強固にドグマ的なイデオロギーを信じ、正確に同一の息詰まるほどに狭い範囲のライフスタイルを受け入れるとされる。

それが、逆に、ドナルド・トランプが2016年の選挙キャンペーンで共和党候補の集団から抜け出したときに、特権的革新主義が分裂を始めた理由である。読者諸君も記憶している通り、給与階級の態度とライフスタイルのすべての費用を支払うと見なされている、何百万人という労働者階級のアメリカ人、彼らの犠牲のもとに給与階級を利する政策の40年により貧困と悲惨のうちに突き落された人々の懸念を表明することにより、トランプはそれを実行した。特権者が抱くほどんどのイデオロギーと同様、特権的革新主義が意味を持つのは、その提唱者が自分たちの立場のみが重要であるというフリをし続けられる限りにおいてである。ひとたび、排除された者たちがトランプの選挙での勝利を通してパブリックステージに乱入してくれば、もはやれは当てはまらなくなる。

今日のアメリカで我々が直面している新たな政治的リアリティは、給与階級の人間がたまたま望んでいるものを実現する方向へ歴史が自動的に進んでいくと装うことができなくなったということだ。それが意味するのは、逆に、何かを望む給与階級のメンバーは、それを手にするために取引をして、他の階級の人々が望む何かを提供しなければならないということだ。たとえ、それが給与階級に不利益をもたらすときでさえ。読者の中にはお気づきの人もいるだろうが、給与階級のテーブルからこぼれ落ちるパンくずをおとなしく待っているように言われてきた非特権階級の集団は、自分自身のために声を上げ始めており、自分たちの要望も考慮に入れるようにと要求している。本当にありがとうございました。

これを示唆しているのは、メディアが、遅まきながら給与階級の政治家たちが口にする信念と彼らの実際の生活様式の間にある拡大するギャップについて指摘し始めていることだ。ニューヨーク市長、ビル・デブラシオは、この現象の最近の典型例である: 彼は壮大な環境保護改革の提唱者であるが、同時に彼はファッショナブルなジムで運動するために毎日10マイルもSUVを運転している。グレーシー・マンション [ニューヨーク市長官邸] にエクササイズマシンを設置して、不要な炭素排出を減らすことはできなのだろうか。もちろんだ。しかし、最近になるまで、給与階級のメンバーは望むものを何でも手に入れられるという規則が、批判から彼を保護していた。現在デブラシオに向けられている批判は、その規則がもはや適用されないことを示している。

言わば、我々は 通常の政治 ポリティクス・アズ・ユージュアル に回帰しつつある。否認と怒りの叫び声、取引のお喋り、抑鬱の嘆きが静まるにつれて、現れつつあるのは通常の政治である。そこでは、選挙民の異なるセクターが政治家を支持し、その代わりに政治家は彼らの要求と要望を叶える。そして、政治家が支持者に期待されていた約束を叶えられなければ、彼らは次の回には別の誰かのところへ行くだろう。これが示しているのは、逆に、2016年に終焉を迎えた期間は、異常な政治の期間であったということだ。そこでは単一の階級の利害が一時的にあらゆる人の要求を覆い隠していた。

エスアメリカの歴史の中にもそのような時期がある。興味深いのは、そんな時期は白熱した選挙戦によって終焉を迎えたということだ。その選挙戦においては、最終的に勝利を収めた候補者は、エスタブリッシュメントとその子飼いのメディアに本当に嫌悪されていたのだ。もしもそのリストを見たいなら、読者諸君、優れた合衆国史の本を持って腰を落ち着けて、自分自身でリストを作ることを勧めたい。アメリカ史の基礎知識は昨今では極めて珍しいものであり、おそらくその経験はあなたに良いものをもたらすだろう。

最後に、異常な政治の期間をもたらすのは、2018年の後半からこのサイトで発展させてきたテーマと同じだ: 一つの階級、人種、または個人のグループに対し、他のすべての他者よりも特権的な立場を与える単一の、自己中心的な 物語 ナラティブ が、あらゆるリアリティを従わせようとしたときに何が起こるかである。2世紀以上も前に、詩人のウィリアム・ブレークはそのような思考の習慣に適切な名前を与えた: 「シングル・ビジョン」 今後の記事では、シングル・ビジョンの探求を続けて、それを超えたところに何があるのかを垣間見てみたいと思う。

死ぬ瞬間―死とその過程について (中公文庫)

死ぬ瞬間―死とその過程について (中公文庫)

*1:訳注:もちろんこれは、マリー・アントワネットが言ったとされる「(パンがなければ) お菓子を食べればいのに。」のもじり。

翻訳:自由貿易の誤謬 (ジョン・マイケル・グリア)

この記事は2016年11月23日に書かれた。ジョン・マイケル・グリアによる2016年ドナルド・トランプ当選予測に関するエッセイはこちら

http://archdruidmirror.blogspot.com/2017/06/the-free-trade-fallacy.html/

The Free Trade Fallacy

このブログの昔からの読者であればご存知の通り、私が投稿する記事のテーマがさまざまな方向へと逸れていくのは珍しいことではない。そして、今週の記事も、既に十分すぎるほどあるそのリストに追加の事例を加えることだろう。先週の後半、直近の選挙の余波が未だあらゆるメディアに噴出している間に、今後の事態のなりゆきについて1つの可能性の高い帰結を考察していた - 最近の経済史のなかで自由貿易協定が果たしてきた、大きな、そして疑わしい役割の少なくとも一部の終わりである。

ヨーロッパとアメリカ合衆国における2016年の政治的動乱の裏にある大きな潮流は、実際のところ、自由貿易の価値に関する意見の厳しい不一致である。現代工業諸国すべての政治的エスタブリッシュメントは、拡大を続ける貿易協定網に裏付けられた自由貿易政策は、必然でありかつ必然的に善であると主張している。現状維持に反対して盛り上がった運動 - イギリスのブレグジットドナルド・トランプを次のアメリカ大統領にしたポピュリストの勃興、そして世界各地での類似の運動の集合 - は、それら両方の主張を拒否し、自由貿易は連鎖的にネガティブな結果を生む愚かな政策であると主張している。

ここで、何が議論の対象であるのかを明確にすることが重要だ。自由貿易についての会話は、しばしば国境開放その他についての、温かであるが曖昧な一般論に偽装されているからである。自由貿易制度のもとでは、商品と資本は国家の境界を越えて自由に移動できる; 支払うべき関税はなく、満たすべき割当もなく、ある国や別の国の中に資本を留める規制もない。いわゆるグローバル経済、すなわちある国で販売される消費財は地球のどこか別の場所で製造されたものであるかもしれず、工場を建設するための資金は自由に流入して利益を上げられるようなグローバル経済は自由貿易に依存しており、自由貿易理論の推進者はこれは常に良いことであると主張する: あらゆる種類の貿易障壁を廃止し、商品と資本に国境を越えた自由な移動を許すことは、あらゆる人に繁栄を作り上げるものであるとされる。

理論上はそうだ、少なくとも。実際には? まぁ、そううまく行かない。これは常に記憶されていることではないのだが、現代史には2回の大自由貿易時代が存在した - 最初は、1860年代から大恐慌開始までの期間であり、そこにアメリカ合衆国は決して完全に参加していなかった; 2つ目は、1980年代から現在までで、アメリカはその最央部に位置してきた - そのどちらも、普遍的な繁栄の世界をもたらさなかった。まったく逆に、両者はほぼ同一の結果をもたらした: 富裕者の驚愕的な繁栄、労働者階級の貧困化と悲惨化、そして連鎖的な経済危機である。最初の自由貿易時代は、大恐慌により終了した; 2つ目の、たった今現在の自由貿易時代も、同様にして終わる可能性がある。

エコノミストたち -より正確に言うなら、現実世界から得られた根拠と自身の理論とを比較する、エコノミストのマイノリティ- は、これらの好ましくない結果は、自由貿易の失敗ではないと主張することを好む。私が示したいと思っているように、彼らは完全に間違っている。彼らの分析からは重要なファクターが除かれているので、そのようなファクターを考慮に入れたとすると、自由貿易は、繁栄ではなく、必然的に貧困と経済的不安定性をもたらす悪しき政策であることが明らかになるだろう。

これがどう働くのかを見るために、多数の独立した国々が存在する1つの大陸を想像してみよう。すべての国はお互いに貿易をする。他国よりも裕福な国がある; 価値の高い天然資源を持つ国もあり、そうでない国もある; 生活水準と一般的な賃金水準は、それぞれの国ごとに異なる。通常の条件のもとでは、さまざまな種類の貿易障壁が国家間の商品と資本のフローを制限する。各々の国は、貿易政策を調整することで自身の経済的利益を追求する。国内の鉄鋼産業を育成しようとする国は、たとえば、関税、輸入量割当クォータ 、などを使って、国外の競合から国内産業を保護するかもしれない。余剰の農作物を有する別の国は、近隣諸国に自国の穀物を購入してもらうために、他の製品への関税を下げる必要があることを理解するかもしれない。

上述の2つの時代以外には、これが普通の情勢であり、2つの堅実な結果をもたらした。1つ目は、国家間の商品と資本の動きは、だいたいバランスの取れた方向へ向かう傾向があるということだ。なぜならば、近隣諸国の敵対的な貿易政策から防衛するために、あらゆる国が自身の貿易障壁を使用するからだ。たとえば、ある国が「ダンピング」により鉄鋼生産を独占しようと試みていると想像してみよう。つまり、あらゆる他国の鉄鋼業者を破産に追い込むために、国際市場において最低価格で自国の鉄鋼を販売するのである。他の国は、特殊関税、クォータ、ダンピング国家からの鉄鋼輸入の全面禁止などの処置を取ることで、そのようなプロジェクトを緊急停止させられる。ゆえに、貿易障壁は、国際経済に相対的な平衡状態をもたらす傾向がある。

これは平衡状態であり、平等ではないことに注意してほしい。貿易障壁が存在するときには、ある国が裕福である一方で別の国が貧しい状態にあるのは普通のことである。それは国際貿易とは何の関係もない膨大な理由による。同時に、貧困諸国の困難さも、国家内での賃金と価格の間の相対的な平衡状態によってバランスが取られる。

国境を越えた商品と資本の動きが制限されている場合、それぞれの国家内の消費財価格は、需要と供給の法則を通して、その国の消費者の購買力とリンクさせられる。そして、つまりその国の雇用者により支払われる賃金と結び付けられる。もちろん、通常通りの注意事項が適用される; 賃金と物価は、他の膨大な理由によっても変化する。その多くは国際貿易とは何の関係もない。そうであっても、雇用者から支払われた賃金によって、消費者が雇用者の製品を購入するための基本的な収入源が形成されるため、また、もしも雇用者が著しく賃金を低下させることを試みた場合、消費者は政治領域への影響力を保持しているため、[商品価格と賃金の] 平衡へと向かう強い圧力が存在する。

貿易障壁がある場合、結果として、低賃金の国に住む人々が商品とサービスに対して支払う金額は、一般的に低くなる。一方で、高賃金の国に住む人々は、店に行くときには相対的に高い価格を支払わなければならない。低価格により、貧困諸国に住む労働者の生活は相当に容易になる。同様に、富裕諸国に住む労働者の生活も、賃金が価格とマッチする傾向があるため相当に容易になる。常にこのようになるのだろうか? もちろん、ノーだ - もう一度言っておくと、賃金と価格は無数の理由により変動する。そして、国家経済は本質的に不安定なものである - しかし、ここで列挙したようなファクターにより、経済は、一方では消費者の需要と要求、もう一方では消費者の支払い能力との間でおおむねバランスが取れる方向へと向かう。

それでは、我々が今まで想像してきた国々すべてが、ネオリベラル派エコノミストの声により自由貿易ゾーンを制定するよう説得されたとしよう。そこでは、商品と資本の自由な動きを妨げるあらゆる障害が存在しない。何が起こるだろうか?

貿易障壁のないところでは、ある商品やサービスを最低価格で生産できる国家が、その商品やサービス市場の "王者の分け前" を得ることになる。労働コストは製品製造コストの大部分を占めているために、低賃金の国家は高賃金の国家よりも競争力のある値付けをする。結果として、かつての高賃金諸国では失業率の増加と賃金の低下が発生する。結果は、自由貿易ゾーン内における労働力の最低賃金水準へと向けて、いたるところで賃金が低下していく "底辺への競争" が起こる。

これが単一の国家内で発生した場合、既に述べた通り、労働者はしばしば政治領域で力を行使することにより、経済的な下降流に反応できる。自由貿易ゾーンにおいては、けれども、ある1つの国の中で賃金低下に対する政治的挑戦を受けた雇用者は、単純に別の場所へ移動できる。このような経済的な統合と政治的な分断のミスマッチが自由貿易の不均衡を生み、すぐ後で議論するような問題へと繋がる。

ここで当然、自由貿易の提唱者は、富裕国から貧困国への雇用喪失は、必然的に新しい雇用に代替されると主張することを好んでいる。歴史はこの主張を支持していない - 正反対である - そして、消滅した雇用が決して代替されないことには十分な理由がある。自由貿易制度のもとで、労働集約的産業の企業にとっては、単純に低賃金の別の国へと移動することがより経済的であるからだ; 資本集約的で、それゆえ相対的に少数の労働者しか雇用しないような産業の企業だけが、高賃金諸国で創業する理由がある。コンピュータ産業は古典的な事例である - そして、読者はお気付きだろうと信じているが、そのような産業が労働集約的になるとすぐにオフショアされる。それでも、ここでは別のファクターも働いている。

賃金は製品製造コストの非常に大きな割合を占めているため、全般的な賃金低下は事業収益の増加をもたらす。そこで、自由貿易による1つの結果としては、賃金より収入を得るマジョリティの労働者から、事業収益より直接・間接的に収入を得る裕福なマイノリティへの富の移転である。このファクターこそが、自由貿易の提唱者が描く絵から抜け落ちているものだ- つまり、所得分配に対する自由貿易の影響である。自由貿易は、企業利益を増加させる一方で賃金を低下させるため、豊かな者を富ませ貧しい者を貧しくする。今日、裕福な人々の間で自由貿易が人気のある理由はこれだ。ちょうどビクトリア朝時代と同じように。

けれども、ここには "つぼみの中の毛虫" *1 が居る。歪んだ所得分配は、それ自体が負担となるからであり、またそれらの負担は時が経つにつれて痛々しいまでによく知られた形で積み上がっていく。富者を富ませ貧者を貧しくすることの困難さは、ずいぶん昔にヘンリー・フォードが指摘した通り、従業員に支払われる賃金は、従業員が商品を購入するために使用する収入源でもあるということだ。賃金が低下するにつれて購買力も低下し、収入を消費者の購買に依存するあらゆる産業において、投資利得に対する下方圧力がかかり始める。

投資家の富の増加が、賃金を得る大衆の富の低下を埋め合わせるのではないだろうか? ノーだ、なぜならば、貧しい人々と比べれば、豊かな人々は小さな割合しか消費財に使用せず、残りを投資へと回すからだ。100万ドルを1000人の労働者階級の家族に分配すれば、そのお金は家族の生活水準を向上させるために使われるだろう: より良い食事、より大きなアパート、クリスマスツリーに置かれる追加のおもちゃ、など。同じ100万ドルを1つの裕福な家族に与えたとすると、高い確率でその大部分が投資へ向かうだろう。

これが、ところで、かつての時代の共和党政治家に愛されたトリクルダウン経済理論が機能しなかった単純な理由であり、また2008~2009年の経済パニックの際、政府から銀行へ施された資金がこの国のほとんどの人の経済状況を改善しなかった理由である。消費という点については、豊かな者は貧しい者ほど効率的ではないのだ。結果、消費支出により経済を駆動させたいのであれば、貧しい労働者階級の人々に、消費できる十分なお金を手に入れさせなければならない。

また更に大きな原則も存在する。経済にとっての消費支出と投資資本は、植物にとっての太陽光と水である: つまり、どちらか一方をもう片方で代替することはできない。両方が必要である。自由貿易政策は、所得分配を歪めることにより消費支出から投資に向けてお金を吸い上げるため、一方では不足を他方では過剰を引き起こす。不均衡が増大すると、消費者は製品を購入する現金を持たなくなるために、企業は利益を上げることが難しくなっていく; その一方で、投資に利用されるお金の量は定常的に増加する。その結果は、ますます多くの資金がますます少なくなる価値ある投資手段を追求することによる、投資利得の定常的な低下である。

自由貿易時代の歴史は、それゆえ、必要とあらばあらゆる手段を用いて投資利得を下支えするための、狂乱した試みによって特徴付けられる。1970年代にアメリカから製造業経済を奪い去ったオフショアリングブームは、ビクトリア朝時代後期のイギリスからインドへの織物工場オフショアリングと正確に対応している; どちらの場合にも、オフショアリングは、自由貿易ゾーン内の豊かな地域と貧しい地域の賃金と価格の間に残存する不均衡を活用するものであった。どちらの場合にも、オフショアリングは富裕諸国での賃金低下圧力を増加させ、消費財産業 - 当時も今も、経済において単独の最大シェアを持つ分野 - の全般にわたる投資利得の低下により、解決するはずだった問題を悪化させた。

私が知る限りで1回目の自由貿易時代に試行されなかったトリックは、借金で商品を買うよう消費者を説得することにより、資本を代用の収入へと変化させることであった。それは過去20年のほとんどの間、アメリカの経済政策の要石キーストーン であった。住宅バブルは、自分の持っていないお金を使わせて、その後に利息付きで全額支払う方法を発見しようとする狂気じみた試みの、最も途方もない発現にすぎない。それはうまく働かなかった。その理由は、追加の利息支払いが消費支出に対して更なる下方圧力を加えるからだけではない。

他にもさまざまな理由があるが、現代の2度の自由貿易時代に存在したほとんど自滅的な仕掛けは、賃金を低下させる一方で消費支出を高止まりさせようとすることだった。そのどちらも機能しなかった。なぜならば、実際の問題に向き合ってないからである - 自由貿易のもとでは、賃金への下方圧力は、有効な投資資本を吸収するレベルで経済を回し続けられる十分なお金を、消費者が支払えないことを意味する。- そしてそこで、投資利得の低下という問題に対する最終解決策が時刻通りにやって来る: 生産的投資から投機への資本転換である。

この物語がどう終わるのかを知らない読者は、すぐに起き上がって、ジョン・ケネス・ガルブレイスの本『大暴落 1929』を探しに行くべきだ。投機バブルは、持続している間は豊富なリターンを生む; 自由貿易によって賃金が低下し、消費財経済が停滞スタグネーション収縮コントラクション に追い込まれ、生産的な産業への投資収益が "もはや無視しうる" ポイントを下回ると、非常に多くの場合、投機バブルのみが利益を上げられるゲームになってしまう。更には、自由貿易スキームの最終段階においては、真っ当なリターンを上げられる投資手段があまりにも減ってしまうため、真っ当なリターンを得られる投資手段には何であれ即座に膨大な量の資金が流入することになる。

そこで、大自由貿易時代を、1846年の穀物法廃止を暫定的な開始とし、グラッドストン政権による1869年の関税廃止に絶頂を迎え、1929年の株式市場の崩壊と大恐慌によって終了した間の期間であるとする。その道のりの中では、たくさんの危機も発生している。19世紀終盤から20世紀初頭にかけての経済史には、1929年に最高潮を迎える投機的バブル破裂と株式市場崩壊という荒涼とした風景が広がっている。実際のところ、それは20世紀終盤から21世紀初頭にかけての経済史と非常によく似ている。そこでもまた別の破裂と崩壊の連鎖が続いているからだ; 1987年の株式市場の崩壊、1994年の新興国通貨危機、2000年のインターネットバブル崩壊、2008年の住宅バブル崩壊、そしてそのリズムは続いている。

ゆえに、自由貿易は、労働者の貧困化と悲惨化を、また、消費不足と過剰投資の間のミスマッチによる連鎖的な経済危機をもたらす。そのような問題は偶然ではない - 自由貿易制度そのものに直結している - そして、そのようなことが起こるのを止める唯一の方法は、自由貿易を悪しき政策であるとして廃止し、賢明な貿易障壁を用いて各々の国で消費される製品のほとんどが自国内で製造されるようにすることである。

おそらく、ここで一時停止していくつかの点を指摘しておく必要があるだろう。最初に、自由貿易が悪しき政策であるからといっても、あらゆる種類の貿易障壁が優れた政策であることを意味しない。ありうる選択肢は、スペクトラムのうちの両極端の2点だけだと主張する習慣は、一般的ではあるものの、非常にまずい決断を生む方法である: ほとんどのものごとと同じく、両極端のどちらかよりも中庸の点が良い結果をもたらす。適切な中間地点を見つけることは必ずしも容易ではないが、同じことはほとんどの政治経済的な問題についても当てはまる。

次に、自由貿易は経済の機能不全をもたらす唯一の原因ではないし、所得分配の歪みとそれに伴う問題を引き起こす唯一の原因でもない。多数のファクターにより、国家および世界経済の軌道は逸らされてしまう。歴史が痛々しいまでに明白に示すところによれば、自由貿易は必然的にこれらの問題を引き起こす。自由貿易を廃止し、平常状態へと回帰すること、すなわち国々が自国の需要のほとんどを国境内で満たし、余剰の製品ないしは国内でほとんどあるいはまったく得られない商品の交換のみを貿易することは、深刻な経済的機能不全を起こす確実な原因の1つを取り除く。単にそれだけだ。しかし、ほぼ間違いなく、自由貿易からの撤退は良い考えであると言える。

最後に、ここで私が提示した論点によれば、自由貿易協定から撤退し計画的な貿易制限を試みる国には、今日でさえ、予期しない利益があるかもしれないと示唆している。現在、繁栄に対する下方圧力をかけるファクターは多数存在するものの、今私が示した推論によれば、現在の世界にあまりにも広がった貧困化と悲惨化は、過去数十年にあまりに普及した自由貿易狂乱マニアによって著しく悪化しているのかもしれない。自由貿易協定から撤退し、国内消費のための製品生産へ向けて自国の経済を再修正する国は、それゆえいくらかの改善を予期しうるかもしれない。労働者の人々の繁栄のみならず、投資利率についても。

これが私が提案したい理論である。次の政権が宣言している政策によると、それが今まさにテストされようとしているものである - そして、その結果は次の数年程度の間には明らかになるはずだ。

(後略。元記事では、グリアが出版する本についての告知が2件あったが、訳出にあたっては省略した。)

大暴落1929 (日経BPクラシックス)

大暴落1929 (日経BPクラシックス)

*1:訳注: ものごとをダメにしてしまう原因

翻訳:危機における民主主義についての省察 (ジョン・マイケル・グリア)

この記事は2016年11月9日、アメリカ大統領選挙の終了直後に書かれた。ジョン・マイケル・グリアによる2016年ドナルド・トランプ当選予測に関するエッセイはこちら

Reflections on a Democracy in Crisis

まぁ、ついに終わった。そして、私はこれ [トランプ当選] を予想していたと言ってもよいと思う。去る今年[2016年]1月に私が予想していた通り、労働者階級のアメリカ人 - 民主党から、嫌ってもよいアメリカの少数民族として扱われることに嫌気の差した人々 - は、ビジネス・アズ・ユージュアルの政治に痛烈な叱責を加えた。アメリカの政治エスタブリッシュメント全体の衝撃と悔恨とともに、また専門家、世論調査員、メインストリームメディアの子飼いの知識人たちの緊張したいたたまれなさとともに、ドナルド・トランプは第45代アメリカ合衆国大統領となるだろう。

何百万人もの他のアメリカ人たちと同じく、私も選挙という楽しい市民儀式に参加した。地元の投票所は、町の貧しい地域 - 先に私が述べた荒廃した多民族の地域で、トランプ支持のサインが早くからたくさん花開いた場所 - の端に位置する小学校の中にある。私は、いつもそうする通り、午後の早い時間に投票へ行った。昼休みの投票ラッシュが終わり、仕事からの帰宅途中に投票へ向かう人の流れはまだ到来していない時である。だから、行列はなかった; 私が入ったのは、ちょうど2人の老いた投票者が出てくるときで、その2人は地元レストランのチラシを見比べていた。市民の義務を果たしたときに投票所が発行する「投票済」ステッカーを持つお客さんに割引を行なっていたのだ。5分程度後には、染めた金髪の主婦が自分の票を投じるためにやって来た。

メリーランド州はしばらく電子投票を行なっていたが、賢明にも今年は紙の投票に戻したのだ。だから、私の投じた票は意図した通りにカウントされるだろうと確信を持てた。その後、私は家まで歩いた - 曇っていたものの暖かく、11月として望める最高の日であった - そして、現在の執筆プロジェクトに取りかかった。それらのすべては、過去数ヶ月の間、メディアが、また公平に言えば政治家、専門家および全国の大多数の一般人が発してきた絶え間ない叫び声と、興味深い対照点をなしていた。

今の時点では、ゴタゴタとバカ騒ぎが終わった後で、特権者たちの予測可能なかんしゃくが収まった後で、そしてトランプ政権がワシントンDCで権力を掌握した後で何が起こるのかを話すことには、あまり意味はない。それらのことを話すのには後で十分な時間を取れるだろう。今ここで私が話したいのは、今回の選挙によってハイライトされたことで、それらはアメリカ政治の現状と、トラブルを抱えて窮地に立つ、分断された国家が危機の次ラウンドへと進んでいくに従って直面しなければならない課題に対して、有用な光を当てるものである。

そのうちの1つは、選挙に関する私の記事に対する多数の読者からの反応によって、珍しいほどの明白さで示された。全体にわたって、ドナルド・トランプの不可解な躍進についての最初の記事から、先週の選挙直前のまとめに至るまで、私は議論の焦点を政治的な問題イシュー に当てようと考えてきた; つまり、それぞれの候補者が次に政権を取った時に支持すると予期される政策はどのようなものであるかだ。

私にとっては、少なくとも、それが選挙で一番重要な問題である。今から4年後か8年後、結局のところ、引退する大統領のパーソナリティは、カテゴリー5のハリケーンの中での平均的な屁よりも意味を持たなくなっているだろう。次の4年間に大統領が下した政策上の意思決定による帰結は、その一方で、未来にわたって拡大する意義を持つ。アメリカは、中東におけるロシアとの対立政策を継続するべきか? またはジハーディストのテロリズムを抑えるという共通の目標のため、ロシアとmodus vivendiすなわち暫定協定を結ぶべきなのか? 賃金の低下をもたらす雇用のオフショアリングと労働者の輸入の推奨を継続するべきなのか? あるいは、それらの政策を止めるように変更するべきだろうか? これらは、米国およびその他の国々で何百万もの命に影響を与える重要な問題であり、同等の重要性を持ち2人の候補者の立場が著しく異なる問題は、その他にも存在する。

私の記事に反応した決して少なくない人たちは、けれども、そのような平凡ではあっても重要な問題にまったく興味を示さなかった。彼らが話したいと望んだ唯一のことは、候補者のパーソナリティについての意見だけであった: クリントンは腐敗した詐欺師であるとか、またはトランプは憎悪を駆り立てるファシストであるなどの主張である。(アメリカ政治について最近あまりに頻繁に言われている通り、このようなことをしていた人たちは、嫌いな候補者の人格を中傷することに忙しすぎるので、既に投票を決めている候補者についてはそれほど言うことが無いのだという。) 相対的に隔離された『The Archdruid Report』の外側では、代わって、その傾向は加速している; 選挙キャンペーンの大部分において、高級紙とゴシップ紙の違いを見分ける唯一の方法は、どちらの候補者を支持しているかだけである。また、真剣なウェブサイトと言われるところではだいたいの場合それよりも悪い。

ところで、これは候補者たちに責任があるわけではない。ヒラリー・クリントンに賛成であろうと反対であろうとも、彼女は、2008年にバラク・オバマがきわめてシニカルに彼女に仕掛けて成功を収めた無内容なキャッチフレーズベースの選挙キャンペーンを避けようと努力していた; 彼女のキャンペーンサイトには、選挙で勝利したら実行するべき政策の一覧が掲げられていた。多くの有権者は彼女の提案に同意しないかもしれないが、実際に彼女はイシューについて語ろうとしていたのであり、それにはすがすがしいまでの責任がある。トランプは、この点について言えば、極めて限定された範囲の政策提案に絞ったスピーチの繰り返しに注力していた。

それでも、両候補者に関するほぼすべての議論は、メディア内外で、政策提案ではなくパーソナリティに焦点が当てられていた - あるいはむしろ、彼らのパーソナリティの卑劣に歪められたパロディであり、程度の差はあれ候補者たちを悪の化身として定義するものであった。悪魔教会は、私が聞いたところによると、今年のアメリカ大統領選挙に悪魔は出馬していないと断言しているそうであるが、両側のレトリックからはそれを理解するのは難しいかもしれない。確かに、メディアは候補者のパーソナリティへの執着を増長することに一役買っているものの、しかし、これは我々の社会の集合的意識内に既に存在している何かを単純にメディアが反映しているという例ではないかと考えている。

選挙キャンペーン全体を通して気付いたのは、私にはかなりの驚きであったのだが、イシューを無視してパーソナリティに固執したのは、テレビやウェブサイトからの意見以外には頭の中が空っぽの人たちだけではなかったということだ。もはや数え切れないほどの普段は思考力のある知人たちが、過去1年の間に、事実をチェックする行動すら取らずに、どちらを嫌っているのであれその候補者についてのネガティブな主張をすべて買い入れてしまったのだ。また、もはや数え切れないほど何ヶ月も前から、普段は思考力のある知人たちが、今回の選挙で問題になっているイシューについて私が話そうとすると、うつろな眼をして、彼らが嫌う候補がどちらであれその邪悪なる邪悪な邪悪性についてわめき散らすようになってしまった。

私には、ここで何かが忘れられてしまっているように見える。我々は、石膏の聖人、マイリトルポニー [テレビアニメ] の新しい登場人物、2016年のミス (あるいはミスター) 良い子ちゃんを選ぶ選挙をしているのではない。我々は、次の4年間連邦政府の行政部門の長を勤める公務員を選ぶ選挙をしていたのだ。私は、ヒラリー・クリントンドナルド・トランプを個人的に知っている人が書いたエッセイを読んだ。両人とも実際にはとても親しみやすい人であるのだという。だからどうした? 私は、文字通りまったく気にしない。もしもある候補者が本当に私にとって重要な問題に望ましい政策を支持するならば、子供を虐待し、子犬を蹴り、家電とマヨネーズに関連する倒錯した性的嗜好を持つ人間嫌いにだって投票するだろう。本当にそのくらいシンプルなのだ。

更に私は、パーソナリティ - あるいはパーソナリティの悪意のあるパロディ - への執着が、米国政治を野蛮で、分断的で、あまりに多くの問題について手に負えないほどの膠着状態を引き起こした主な原因であるかもしれないと言いたい。数段落前で私が言及した問題 - 再興するロシアに対するアメリカの対外政策、一方では雇用のオフショアリングと外国人労働者の輸入に関する経済政策 - などは、重要であるというだけではなく、妥当な意見の相違が存在しうる問題である。更には、それらは交渉、妥協、そして、少なくとも理論上は、対立し合う利害を持つ者たち同士で相互に満足できる暫定協定を結びうる問題である。

実際には? 両者が声高に、相手側は堕落したモンスターに率いられており、世界中の善きものすべてを憎んでいる人々に支持されていると主張している間は不可能だろう。これは、まさしく、理性的な政治をジョージ・オーウェルの『1984年』の "二分間憎悪" に極めてよく似た同等物で置き換えるものであり、これこそがこの国を何らかの問題解決から、また迫り来る危機への備えから遠ざけている最も大きな力であると言いたい。

そこで、我が国のすべての市民には、しばらくの間テレビとインターネットを消し、何度か深呼吸をして、最近の選挙のトーンについて考えることをお勧めしたい。そして、そのほとんどを満たす憎しみの党派的カルチャーにどの程度まで参加していたのかも。次のことを指摘しておくのは意義があるかもしれない。自分が考える通りに投票するよう他の人を説得したいのであれば、同時にその人たちを "大盛りの邪悪ソース付きの邪悪なる邪悪" として非難したり、あるいはその人たちの最高の利益のためになる候補者への投票を認識できないほどに無知であるとバカにしたり、あるいは今日のアメリカで理性的な政治的言説の代わりを占めるようになったその他の非生産的な行動を取るべきではない。

選挙キャンペーンの過程で私が気付いた2番目のポイントは、今議論したことに関連している。歴史の現時点において、アメリカ合衆国が未だ単一の共和国であることは確固たる事実であるが、しかしそれは単一のネイション ではない - また、これまでもそうであったことは決してないと、それなりに妥当な根拠をもって主張しうるかもしれない。「赤」と「青」の州という安易な区別は、巨大な都市中心部とそれ以外の部分の分離、および相異なる地域の複雑さをほとんど捉えていないし、ましてやその深さも捉えていない。

1972年のニクソンの地滑り的な大勝利の際、どのようにニクソンが勝ちうるのか理解していなかった - 結局のところ、自分が知る誰もニクソンに投票していなかったのだから! とコメントしたのはポーリン・ケイル [映画評論家] だったと思う。同様の感覚が、困惑から怒りまで及ぶ調子で、裕福な左派とメインストリームメディアの高級取りの専門家の取り巻きの間のあらゆるところで表現されている。過去8年間の雇用なき景気回復 ジョブレスリカバリ から恩恵を受け、また過去4年間のより広いネオリベラル的経済アジェンダの恩恵を受けた上位20%かそこらのアメリカ人は、日々を過ごすエコーチャンバー環境の外に出て、この国の他の人々が何を考えているかを知ろうとすることがめったにない。もしも去年彼らが少しだけそうしていたとしたら、彼らが見たことのないアメリカの、厳しい貧困の光景のあらゆるところで、トランプ支持のサインが広まっているのが見えたことだろう。

けれども当然、分断はそれよりも深くまで及んでおり、またかなり分岐している。たとえば、マサチューセッツ州の人々に承認される政治、経済、社会的な政策と、オクラホマ州の人々が承認するものを比較してみれば、ほとんどオーバーラップする部分が無いとわかるだろう。これは、ある州の人々が (ここにお好きな罵倒語を記入) だからではない; それらの人々が別の文化に所属し、相互に分かり合えない価値観、態度や利害を保持しているからだ。どちらかの州の道徳観を他方に押し付けようとする試みは、善意であれそれ以外であれ、敵意と相互不信という結果しか生まないだろう - そのような試みは最近あまりにありふれている。

我々の国は、極めて多様性のある国である。当然の真理のように聞こえるかもしれないが、しかしその意味は通常ほとんど考慮されていない。文化的な均一性が非常に高い国では、共有された価値観と態度に広くコンセンサスがあるため、そのようなコンセンサスを国家的な基盤で立法化する余裕がある。そのような均一性がない国では、価値観と態度にまつわるコンセンサスを欠いているために、そのような立法を試みたとすれば、たちまち深刻なトラブルに陥る。多様性があまりにも大きな場合は、異なるネイションを単一の政府のもとで確実に機能させられる唯一の方法は、連邦制度しかない - すなわち、全国的な基盤で扱わなければならない権限と義務のみを国家政府に割り当て、それ以外のほとんどを地方政府と個人が自身で解決できるように任せる制度である。

歴史に詳しい読者たちは、アメリカ合衆国がかつては連邦制度を取っていたことに気付くだろうと思う - それが、結局、我々が未だに「連邦政府」について話す理由なのだ。合衆国憲法の元々の条文と解釈のもとで、それぞれの州の人民は自身のほとんどの問題に対して、ある程度の非常に広い制限のうちで、自分たちが適切であると考える方法で対処する権利を有している。連邦政府には特定の狭く定義された権力が割り当てられており、それ以外のすべての権力は、修正第10条の条文において、州と人民に留保されている。

我らが国の歴史の最初の1世紀を通して、憲法の修正条項により他の特定の権力が連邦政府に割り当てられた。時として良い結果であった場合もあるし - 修正第14条はあらゆる市民に法の下での平等を保証し、第15条と第19条はそれぞれ黒人と女性に参政権を拡大した - 時として悪い結果であったこともある - ここでは第18条のアルコール禁止が思い浮かぶ。基本的な連邦構造は無傷で保たれた。大恐慌第二次世界大戦の余波により連邦政府の転移性の成長が本格的に始まり、時を同じくして、何かしらの道徳的徳性を法律の力によって国全体に強制しようとするさまざまな試みが始まった。

そのような試みは働かなかったし、今後も働くことはないだろう。どれだけの人が気付いているのか分からないが、けれども、ドナルド・トランプの選挙は、単なるリベラル左派への反論ではなかった。それは宗教右派の敗北でもあったのだ。共和党福音派の派閥は、候補者指名レースのなかで独自のお気に入り候補を持っていたことを思い出してほしい。そして、トランプはまったくそのような人物ではない。自身の徳の観念を他のアメリカ人の喉元に押し付けようとする左派と右派のムーブメントにとっては、実りの秋ではなかっただろう - たぶん、おそらく、それが向かうべき道の先を示している。

私が提案したいのは、アメリカの連邦主義の伝統のリニューアルを検討する時であるということだ; 過剰膨張した連邦政府から州への、そして州から人民へのシステマティックな権力の移譲である。マサチューセッツ州の人々が、オクラホマ州の人々に自身の道徳的な善を守るように強制することは決して不可能だと認める時であり、オクラホマ州の人々も同じことをマサチューセッツ州の人々に強制できないと認める時である; 更には、すべての階層の政府が、きわめて多様な我らが共和国の多数のネイションに文化的統一性を課すことを諦め、法の下の平等を保証することと、そして本質的に政府が市民に提供することが最適であるような福利を提供するという正しい役割に落ち着くべきときである。

我々が必要としているのは新たな社会契約である。それは、直近の選挙で両サイドを支配していた個人的中傷の政治を退け、特定の社会・道徳的な見方をこの国のすべての人に強制できる思う権利を手離し、我々を分断するイシューに対して、妥協、交渉および相互の尊敬の目線をもってアプローチすることにすべてのアメリカ人が合意するものである。この国が直面している問題のほとんどは解決可能である。あるいは、少なくとも有意に改善できる。もしも、我々の努力がそのような社会契約に導かれるならば。 - そして、もしもそれが実現すれば、我々の大多数は政治制度から受けられる最も偉大な恩恵を経験する機会を得られるのではないかと思う: 実際の、正真正銘の自由 リバティ である。 それについてはこの先の記事で議論しよう。

翻訳:アメリカンドリームの断末魔 (ジョン・マイケル・グリア)

この記事は2016年11月2日、アメリカ大統領選挙の直前に書かれた。ジョン・マイケル・グリアによる2016年ドナルド・トランプ当選予測に関するエッセイはこちら

The Last Gasp of the American Dream

ちょうど今、読者たちの多くは - もちろん、その他の大勢も - アメリカの公人のなかで最高に嫌われた二人のうちのどちらが、来年1月に聖書に手を置き、続く4年の間この国の加速する没落と崩壊を監督するのかに大きな注意を払っていることだろう。そのような注目が集まることには理解できる。それは両党が今回の選挙は我々の生涯の中で最も重要な選挙であると、記憶にあるあらゆる選挙と同じく、お決まりの主張を繰り返しているからだけではない。珍しく、実際の問題イシュー が関わっているからだ。

選挙を下院へと持ち込む可能性のある何らかの事象を除けば*1、来週の今までには、ジョージ・W・ブッシュの選挙以来アメリ政治界に固く据え付けられてきた超党派コンセンサスが、次の4年間無傷で留まるかどうかが分かっているだろう。そのコンセンサスとは、あまり注意を払っていなかった読者のために書いておくと、大企業と既に裕福な者への膨大な恩恵、一方で貧者に対する懲罰的な緊縮策、国家インフラの悪意ある無視、賃金の低下を意図したオートメーション、オフショアリングおよび違法移民の暗黙的な受入などを奨励する連邦政府の政策による、アメリカ人労働者階級の破壊を支持する[国内]政策であり、また、剥き出しの軍事力による中東支配に取り憑かれた、強迫的に対決的な対外政策である。それらは、ジョージ・W・ブッシュバラク・オバマにより、四期の大統領任期にわたって追求されてきた政策であり、またヒラリー・クリントンがその政治キャリア全体を通して支持してきた政策でもある。

ドナルド・トランプは、対照的に、立候補表明当初からそのコンセンサスの複数の中核的な要素に反対してきた。具体的には、彼は雇用オフショアリングを支援する連邦政府政策の廃止、アメリカの移民法の執行、シリアでの戦争におけるロシアとの融和的な姿勢を訴えている。現在のキャンペーン全体を通して、クリントンの支持者らの間で広まっていた主張は、誰もそのような問題を気にかけておらず、トランプの支持者たちは絶対に憎悪に満ちた価値観によって動機付けられているに違いないというものであった。そのレトリック的なギミックは長年にわたって左派の標準的な思考停止の手法であったのだが、そのようにして単に拒否することはできない。トランプが他の共和党候補者を一掃したのは、またこの国の政治階級の満場一致の反対にもかかわらず、来週の選挙で勝利する可能性を手にしている理由は、先ほど言及したイシューが実際には重大であると、過去1世代の大統領候補者のなかで初めて主張したからである。

それは候補者指名への切符であった。なぜならば、両沿岸部の裕福な人々の残響室エコーチャンバー の外側では、アメリカ経済は何年にもわたって自由落下してきたからである。今日のアメリカにおいて経済的に快適な人々の大多数は、アメリカ内陸部の状況がどれほど悪化しているか分からないのではないかと思う。過去8年間の経済回復は、総人口のうちの収入上位20%程度の人々のみに恩恵を与えた; その他の全員は、実質賃金が低下する一方で、同時に不動産市場を膨らませる連邦政府の政策により家賃は急上昇し、オバマの「適正価格医療法」により医療コストは増加した。白人労働者の人々の間で、自殺、薬物乱用およびアルコール依存症による死亡率が上昇しているのはまったく偶然ではない。それらの人々は私の近所に住んでおり、コインランドリーや集会所で会う人々であり、彼らは壁に押し付けられているのだ。

ほとんどの場合、都合良く遠く離れた第三世界の片隅にいる貧しい子供たちの苦しみには即座に反応するような裕福なリベラル派の人々は、ここで挙げた問題は無関係であるとして無視してきた。アメリカ人労働者階級は破壊されていない、その破壊は問題ではない、それは自分自身の誤ちであると主張する人々がどれほどいたか、もう私は忘れてしまった。(ときどき、私はこれら3つを同時に主張しようとする人に会うこともある。) ときどき、メインストリームの左派の人々がここで描いたような状況をご認識なされる場合には、通常の場合、ヒラリー・クリントンが悪名高い「嘆かわしい人々の集団」と呼んだスピーチのような観点からである。そのスピーチの中で、クリントンは、経済回復の恩恵を受けられていない人がいると、また「我々は彼らのために何かする必要がある」と認めたのだ。そのような人々が、彼らのための、または彼ら自身の声を持つに値するかもしれないという考えは、裕福なアメリカ人左派の語彙の中には存在しない。

それが、もしも私が住む町を訪れてもらえたら、トランプ支持のサインがあらゆる場所で見つけられる理由である - 私の家の真南の貧しい地域、数ブロックごとに教会があり、数戸ごとに廃墟のある荒廃した寂れた地区では、最高に密集したトランプ支持のサインを見つけられるだろう。そこでは夏の夜に庭先でビールを飲む人々は、めったに同じ肌の色をしていることがない。彼らは何を必要としているのか、また経済的に荒廃した何万という他のアメリカ人コミュニティが何を必要としているのかを正確に理解している: 自身の家族に貧困から抜け出すチャンスを与える、ちゃんとした賃金の十分なフルタイムの雇用である。彼らはそのニーズを理解しており、そして彼ら自身の間では詳細にそれを議論している。メディアではほとんど見られないほどの明確さで。(これは私にとって皮肉な喜びの源なのだが、ここアメリカ内陸部の現場の状況を最もよく理解した報道が見られるのは、アメリカの高級紙でも、あるいはいわゆるお堅い雑誌でもなく、騒々しい "職場にはふさわしくない" オンラインユーモアマガジンであることだ。)

更には、雇用の不足が中部アメリカの経済的崩壊の原因であると労働者階級の人々が指摘するのは、まったく正しい。それら何万ものアメリカのコミュニティが経済的に破滅している理由は、かつて繁栄していた中小企業と地域経済を支えるだけの十分な収入を得られる人があまりにも少なすぎるからである。アメリカ合衆国全土でかつてメインストリートを活気付けてきたマネーは、その前の週に、誠実な支払いのために誠実な労働をしてきた何百万人というアメリカ人労働者に金曜の午後手渡される賃金だったのだが、その賃金は、一握りの巨大企業の利益をバカげた水準まで膨らませ、企業の食物連鎖の最上位者への数百万ドルというボーナスを当然のこととする泥棒政治的な強奪合戦に応えるために、吸い上げられてしまった。私の家の南の地域にいるトランプ投票者はこれらすべてのディテールを把握していないかもしなれないが、けれども彼らはそのマネーの一部を取り返して、自身のコミュニティーの支払いへと当てることが、自身の生存に不可欠であると知っている。

ドナルド・トランプが選挙で勝利したら、彼らがそれらのマネーを得られるのかはまだ分からない。そして、大多数のトランプ支持者も十分すぎるほどに理解している。同じくらい確かなのは、けれども、ヒラリー・クリントンからはそれらを得られないということだ。彼女が演説で口にする経済政策は、最後の票がカウントされた時点で有効期限切れとなるようなキャンペーン用レトリックを除いては、中間層の機会を向上させることに焦点を当てている - つまりは、それらの経済的利益のうちで直接的に富裕者のポケットに収まらなかった利益から、既に王者の分け前を受け取った人々である。労働者階級に対しては、クリントンはこれまでと同じ空虚なスローガンと使い捨ての約束以外、何も提供しなかった。更には、彼らはこれを知っている。もう1ラウンドの空虚なスローガンと使い捨ての約束が、その状況を変化させないことも。

また、おそらくここで言っておく必要があるだろうが、裕福なリベラルの眼から見てドナルド・トランプの見栄えを悪くするようにデザインされたメディアの大げさな騒ぎによっても、これは変化しないだろう。私はいくらかの楽しみとともに気づいたのだが、トランプへの支持を失わせるように意図されたビデオをトランプ支持者に見せると、彼らは逆に情熱を増すのだと、インテリメディアのさまざまなニュースストーリーがさまざまに混乱し怖れた調子で述べている。なぜこのようなことが起きるのかを説明する、多数の出来合いの理論が浮かんでいるけれども、私が聞いた中には明白な説明を扱っていたものはなかった。

最初に、そのような習慣はトランプ支持者側にのみ見られるものではない。過去数週間、ウィキリークスからEメールが次々と暴露されて、クリントンの傲慢さと腐敗した行動がニュースになるにつれて、彼女の支持者たちはトランプの側と同じ程度に情熱を増した; "過去の投資の心理学" [サンクコスト効果] について知っている読者は、感情的な投資も経済的投資と同じようにこの法則の対象となることに気付いているだろうと思う。その点において、両候補者の支持者は、この選挙が石膏の聖人を選ぶものではなく、公務員を選択するということを非常に賢明に理解している。そして、自身にとって重要な問題に適切な立場を取る正真正銘の悪党を選ぶことは、清廉潔白な反対者を選ぶよりも良いことであると認識している。たとえ、そのような下品な人間を実際に見つけられるのが、現代アメリカ政治の腐ったエコシステムの中でしかないとしても。

とは言うものの、おそらくそれより大きな役割を果たしている別のファクターがある。それは、労働者階級のアメリカ人が、小綺麗な身なりでスーツを着た専門家からお前たちが信じていることは間違いだと言われた時、労働者たちの標準的な想定は、その専門家がウソをついていると考えることである。

労働者階級のアメリカ人は、結局のところ、そのような想定を標準とするだけの十分な理由がある。何度も何度も、専門家が実際にウソをついていることが判明してきたからだ。専門家たちは、さまざまな企業版の "福祉の女王" *2 に税金を引き渡すことにより、アメリカのコミュニティは雇用を取り戻せるのだと主張してきた; 当の企業は、税金をポケットに入れて立ち去ったのだ。専門家たちが主張するには、労働者階級の人々が自分自身の費用で大学へと通い、新たなスキルを身に付けたならば、アメリカのコミュニティに仕事がもたらされるはずであった; 学術業界は力強い利益を上げたものの仕事はまったく現れず、何千万という人々があまりに深く学生ローンの負債の中に埋もれてしまい経済的に回復できなかった。専門家は、そもそもコミュニティから雇用を奪った政策とまったく同一の政策を追求することにより、誰それの政治家候補が雇用を取り戻せると主張した - 本質的に、クリントンのキャンペーンと同じ主張である - 我々はその結果を知っている。

その点においては、ここ内陸部では専門家一般への信頼度は史上最低である。ハーブ薬品 - 最近では一般に「神の薬」と呼ばれる - が、多数の田舎の敬虔なクリスチャンのお気に入りの選択肢となったことについて考えてみてほしい。このようなことが起こる理由は多数あるが、けれども確実に重大な一つの理由として、現代の医薬品を消費者に売りつける、小綺麗な身なりの専門家に対する信頼が連鎖的に失われていることが挙げられる。ハーブは、主要な病気の治療において現代の医薬品ほどに効果的ではないかもしれないということは確かであるが、しかしハーブは一般的に非常に多くの現代医薬品がもたらすような酷い副作用を起こさない。更に、同様に重大な理由としては、ハーブの価格が高いために家族を破産させ、路上生活に陥る人は誰もいないのだ。

かつて、それほど遠くない昔には、我々が今議論しているような人たちは、アメリカ社会とその制度を暗黙のうちに信頼していた。都市の洗練された人々と同じく、アメリカ内陸部の人々も誰か特定の政治家やビジネスパーソンや文化人への信頼を失う場合があったことは確かだ; その当時、二大政党の地方幹部会や政治集会が未だ何らかの意義を持っていたころにも、確実に、候補者のパーソナリティおよび政治問題についての騒々しい議論を聞けたことだろう。けれども、アメリカ社会の基本構造が健全であるというのみならず、あらゆる他の国よりも優れていることに疑いを持つ者は、ほとんど誰もいなかったのだ。

最近では、アメリカ内陸部ではそのような確信は見つけられない。そのような主張がなされるときでさえ、ある種の怒りと言い訳じみた調子で、話し手自身がもはや完全には信じていないことを信じ込ませようとしているのだと分からせるような言い方であるか、またはものごとが上手くいっていたかつての日を懐しむような調子で口にされる - 「アメリカンドリーム」というフレーズが、たくさんの人が経験してきたリアリティと、自身の子供たちが達成可能であると予期しうる更にたくさんのものごとを指していた時代である。ここではかなりの数の人々は、連邦政府を、裕福な詐欺師があらゆる人の犠牲のもとに自身の利益のために運営する巨大組織と見なしている。更には、同様のシニカルな態度はアメリカ社会の他の制度にも及んでおり、また、 - 致命的なことに- そのような制度が人々からの正統性を得ている理想のなかにも及んでいる。

1980年代後半から1990年代前半ごろ、読者はこのような映画を見たことがあるかもしれない。それにはキリル文字 [ロシア語] の字幕が付いていたけれども。1985年ごろまでには、ソビエト連邦の大部分の市民にとって、マルクス主義の壮大な約束は決して守られず、祖父母と曾祖父母たちが戦い、尽力した輝かしい未来は決して到来しないことは痛々しいまでに明白になっていた。プラウダとイズベスチヤ [ソ連共産党の機関誌および新聞] の輝かしい記事は、"労働者の楽園" ではすべてが順調であると主張していた; 年次の五ヶ年計画は、経済状況が定常的に改善されると決めてかかっていたものの、ほとんどの人々にとっては、経済状況は定常的に悪化するものであった; 大規模なメーデーのパレードはソビエト連邦の軍事力を誇示し、地球を集会するソユーズ宇宙船は卓越した技術力を示し、子飼いの知識人はモスクワやレニングラードの裕福な地区で安楽に暮らし、黒海のお気に入りのリゾート地で過ごす次の休暇を待ち望みながら、社会主義下での優れた生活について印刷物でお喋りしていた。その一方で、何百万人もの一般的なソビエト市民は、長い行列、商品不足、全般的なシステムの機能不全に苦しめられていた。それから危機が到来し、ロシア革命の間にバリケードへ集った人々の子孫である人々は肩をすくめ、ソビエト連邦崩壊を単に時間の問題としたのであった。

ここアメリカ合衆国でも、ロシアと類似の連鎖的な事件が発生するまでには、ほとんどの人が考えているよりも近いのではないかと考えている。私の仲間であるピークオイルブロガー、ドミトリー・オルロフが、多数引用された一連のブログ連載記事と書籍『Reinventing Collapse』で約10年前に指摘した通り、ソビエト連邦アメリカ合衆国の間の違いよりも類似点のほうがはるかに重要であり、ソビエト型の崩壊も本当の可能性があるのだ。1990年代初頭のロシア人たちより、ほとんどのアメリカ人が準備できていない可能性である。オルロフの議論は、何年も経過してより切迫したものとなり、アメリカ合衆国は機能不全と政治経済的な泥棒政治の沼の中へ深く沈み込んでいった。それらはかつてのライバルを最終的に飲み込んだ危機と区別がつかない。

一点一点、類似点がきわ立っている。我々には、輝かしい金切り声で、アメリカ合衆国では状況は改善しつつあり、そう言わない人間は単に間違っていると主張するニュース記事がある; 我々には、持続的な成長の継続を予測する経済的宣言があるが、アメリカの経済で成長しているのは、ただ総負債額と恒久的失業者の数だけである; 我々には、度の過ぎた軍事力と技術力の誇示があるが、それはハゲた中年の元アスリートが、失ったものを未だ保持していると取りつくろおうとするマッチョな姿勢を彷彿とさせる; 我々には、ボストン、ニューヨーク、ワシントンやサンフランシスコの裕福な郊外地区で安楽に暮らす子飼いの知識人がいて、現在流行のリゾート地がどこであれそこで過ごす次の休暇を待ち望み、インターネット上で略奪的サイバー資本主義下の優れた生活についてタワ言を述べている。

その一方で、何百万人というアメリカ人は、また別の解雇、賃金カット、最低賃金のパートタイム労働、そして全般的なシステムの機能不全に苦しめられている。危機は未だ到来していないものの、かつて堅固なアメリ愛国者であった人々がまとめて今日の党官僚の快適なライフスタイルを安全に維持してくれると考えているそれらの政治階級のメンバーたちは、慣用句にもある通り、別の思考が来るだろう [考え直したほうがいいだろう]。また、軍隊の下士官兵の大部分が、つまり民心の動揺に対するアメリカ政府の究極的な防波堤が、アメリカのシステムに対して最も劇的に信頼を失っている階級であることも無関係ではない。現段階において、ソビエトアメリカの事例の一番重要な違いは、ソビエト市民は、ブレジネフからアンドロポフからチェルネンコからゴルバチョフに至るまで、システムが自重で崩壊するときまで共産党が押しつけるリーダーを受け入れる以外の選択肢を持たなかったことである。

アメリカ市民は、その一方で、少なくとも潜在的には選択肢を保持している。アメリカの選挙は過去二世紀の大半にわたって不正に苦しめられてきたけれども、一般的に両政党がおおむね同程度に眼を光らせているため、選挙不正が結果を左右するのは接戦のときだけである。それでも、十分に人気のある候補者が、不正投票、電子投票機の操作、その他のアメリカの選挙の野蛮なリアリティを純粋な数の力で圧倒することは可能である。そのような方法により、機能不全のエリートのエコーチャンバー思考に囚われていないアウトサイダーが、他を押しのけてホワイトハウスへ至るかもしれない。今回はそれが起こるだろうか? 誰も分からない。

私が考える通り、もしもジョージ・W・ブッシュが我らのレオニード・ブレジネフであるならば、バラク・オバマは我らのユーリ・アンドロポフであり、ヒラリー・クリントンコンスタンティンチェルネンコの立場を狙っていると言えよう; 彼女の副大統領候補、ティム・ケインは、順に、適切に理想主義的で無知なミハイル・ゴルバチョフとして待機している。そのもとで全体が即座にバラバラになるだろう。私は、この戯画的なメタファーが示唆する通りに、ソビエト連邦崩壊とパラレルな軌跡を正確にアメリカが辿るとは真剣に考えていないけれども、政治的な崩壊における連鎖的な機能不全の終焉という基本的パターンは、歴史のなかできわめてありふれている。また、膨大な類似点が示す通り、同様の事象が次の数十年の間に容易に発生しうる。

トランプが、そのようなことが起こるのを止められるのか、またアメリカの実験から何らかをサルベージできるほどに、現状のアメリカ合衆国のデススパイラルを揺さぶることができるのかはまったく定かではない。最も強固なトランプ支持者の間でさえ、トランプも十分に意味があるほどにものごとを変えられないかもしれないと、喜んで認める人を見つけられる; 単に、絶望的な時期には -そして、ここアメリカ内陸部では、彼らは絶望している - 闇の中への跳躍は耐えがたきことの確実な継続よりも好ましいのだ。

それゆえ、共和党エスタブリッシュメントの反対の中でトランプを共和党指名へと進ませ、アメリカの政治階級全体の反対の中でホワイトハウスの数人の候補へと持ち上げた草の根運動は、おそらくアメリカンドリームの断末魔と考えれば最もよく理解できる。来週、彼が勝とうが負けようが、この国は地図のない夜の闇へと動いていく - そして、ハムレットが述べた通り、その闇の中ではどんな夢が訪れるのだろうか。

*1:訳注: アメリカの大統領選挙では、一般投票で大統領が選出されない場合議会下院で決戦投票が行なわれる

*2:訳注: 福祉の女王 welfare queen とは、福祉制度を不当に利用して安楽な生活を送る女性に対する偏見的なイメージで、しばしば黒人に対する人種的偏見と結びついている。ここでグリアはさまざまな税制優遇を受けて利益を上げているものの、批判を受けることのない企業に対してこの語を使うことで皮肉を述べている。

翻訳:失敗からの教訓: ささやかな紹介 (ジョン・マイケル・グリア)

この記事は2016年8月24日に書かれた。ジョン・マイケル・グリアによる2016年ドナルド・トランプ当選予測に関するエッセイはこちら

Learning From Failure: A Modest Introduction

先日、別のブログを読んでいた読者の一人が、賢明でタイムリーな質問を発した: 今年の大統領選挙の話題になると、なぜあまりに多くの良識ある人々が、口角泡を飛ばして激論を始めるのだろうか? 鋭い質問だ。今日のアメリカ合衆国において政治的言説に適用される恥ずべき基準からしてさえ、両主要政党の支持者から聞こえる、完璧な詭弁、キャッチフレーズのおうむ返し、白熱した激怒などの混ぜ合わせは、尋常なものではない。しばらくの間その質問を検討したところ、その答えが分かった: 認知的不協和である。

簡単な思考実験で説明できる。親愛なる読者諸君、想像してみてほしい。オレゴン州ポートランドにある、近所にある流行りのスターバックスに入り、そこにいる人々 - 根っからの民主党員の男性、女性、性別不定の個人、そして子供 - に質問をするのである。悪夢の大統領候補者を説明してください、来年の1月、最もホワイトハウスで見たくない人物はどのような人ですか、と。

彼らは教えてくれるだろう。そのような人物は、銀行や大企業の利益に公然と奉仕し、豊かな者を更に富ませるために行政にかかわってきた政界のインサイダーで、また第三世界諸国に対する政権転覆およびロシアとの軍事的対立にコミットするネオコンである。その候補者は、企業が環境保護法を覆すことを許容してきた貿易協定の支持に業績を上げ、驚くべきほどに厚顔無恥なスケールでの詳細な汚職告発の中でも踏み止まっている。その候補者は、アメリカには何も問題がないと主張し、それに同意しない者は単にネガティブな人間であるのだと主張するだろう。あぁ、またその候補者は人種差別的な行動に関わっていて、強姦されたという女性の訴えも、もしもその訴えが候補者自身の家族の一員に向けられた場合には、真剣に捉えられるべきではないと主張することも助けになるだろう。

つまりは、民主党の一般党員の考えによれば、ありえる最悪の大統領とはヒラリー・クリントンである。

それでは、グレイハウンド [長距離バス] に飛び乗り、ケンタッキー州ボウリンググリーンで下車して、最寄りの南部バプテスト教会の懇親会に向かってみよう。そこにいる人々 - 根っからの共和党員の、最後の一人の紳士淑女、清潔な子供に至るまで - に質問をするのである。悪夢の大統領候補者を説明してください、来年の1月に、ホワイトハウスで最も見たくない人物はどのような人ですか、と。

彼らは教えてくれるだろう。そのような人物は、ニューヨーク市のヤンキーであるだろう。そこは北米における究極的な悪の汚物溜めとして、多数の敬虔な人々の心のなかでは未だにロサンゼルスを凌駕している。その候補者は、不都合な債務から抜け出すために繰り返し破産宣告を行なって、金の山を作り上げた悪しき投機屋であるだろう。その候補者は、"野蛮" であるだろう - この言葉がどれほど強いものであるか見当も付かないかもしれない。南部プランターの零落した子孫である年配女性の口から、完璧な軽蔑口調でこの言葉が発せられるのを聞くまでは - そして、宗教問題については偽善者であり、キリスト教のキャッチフレーズを口にするのは、ただ選挙で勝つのに役立つからにすぎない。そのような候補者は、もちろん2回も3回も4回も結婚しており、婚外子をもうけており、ゲイ、レズビアントランスセクシャルその他の人間に対して、何らかの敬虔な恐怖の痕跡を示すことに失敗している。最後に、そのような候補者は、アメリカはもはや地球上で最も偉大なる国ではなく、再び偉大になるために抜本的な変化をする必要があると主張するかもしれない。

つまりは、共和党の一般党員の考えによれば、ありえる最悪の大統領とはドナルド・トランプである。

現段階において、両党が適切な対応を取り候補者を交換して、共和党は腐敗したエスタブリッシュメントネオコンを再び支援し、民主党が放埒なポピュリストのデマゴーグを任命するのには、おそらくもはや手遅れなのではないかと思う。そのような賢明な対応を欠いているために、あまりに多くの人々がおおむね平静を失なっていることはまったく驚きではない。民主党員も共和党員も、文字通りにすべてがホワイトハウスで目にしたくない人物に、心から投票を望んでいるかのように信じ込もうとしているのだから。それほどの認知的不協和の中では、落ち着いた議論、合理的な意思決定、正気の政治は不可能である。

それゆえ、アメリカの公人の中で最高に忌み嫌われた2人のうちのどちらが、来年1月に聖書に手を置くのか、また加速する政治的、経済的、社会的没落のなかで苦悩する苦く分断された国のリーダーとなるという疑わしい恩恵を得るのかを競う現在のレースの決着が付くまでには、何度かの奇妙な爆発の発生が予期できる。けれども、それが進んでいく間にも、議論に値する政治的なテーマは他にもある。それらのテーマは、先月の記事での気候変動反対運動の失敗に関する議論への反応として、大きな形で浮び上がってきた。

その記事は、かなりの敵意あるコメントを引き付け、激怒した非難も不足することはなかった。それらの多くは、記事中のある1点のディテールに焦点を当てていた: 気候変動運動とアメリカ合衆国における同性婚の権利要求キャンペーンとの対比である。そのどちらも、ニセ情報で下品なキャンペーンを行なう、豊富な資金を持った反対者に直面した。私が指摘した通り、同性婚キャンペーンはいずれにせよ勝利したので、気候変動運動の敗北の原因は反対者のみに帰せられるわけではない; 気候変動運動が失敗し、その一方で同性婚の権利は今や確固たる法律となった理由は、考慮する必要がある。

これは、けれども、非常に多くの私の読者が望んでいないことである。その人たちが言うには、同性婚権のキャンペーンの目的は、シンプルで、ごく限られた人にのみ影響を与える直接的な法改正であり、一方で、気候変動運動の目的は、現代生活のあらゆる側面での包括的な転覆であるという。中には壮大なスケールのレトリックを使って、気候変動に対して何らかの行動を取ることの圧倒的な困難さを描き出した人もいる。エクソン*1からの補助金に支えられた、地球上のあらゆる気候変動否定論者ですら匹敵しないと思えるほどに気力を失なわせるような調子で。自身の目標を同性婚権のようなものに - 言わば、何かしら達成可能である目標に作り変える方法があるかと問うことは、まったく思いもよらなかったように見える。

より一般的には、敵意ある反応の中心にあるのは、気候変動運動がその失敗から何かを学ぶべきであるという考えを断固として拒否することであった。それは、エクソンの取締役が彼らの最高の夢想を支持してくれると望む以上に、全面的な降伏である。社会変革への勝利を求める運動は、常に一時的な敗北を学習経験として捉え、失敗からの教訓を引き出し、それらの教訓にもとづいて戦術と戦略を変化させ、問題を捉え直し、勝利を得られるより良いチャンスへの奮闘に固執するのである。また、成功を収めた他の運動を見て、自分に問いかける。「我々の大義ではどうすれば同じことができるだろう?」 失敗に対して言い訳を述べ、その戦いはそもそも勝利不可能であったのだとみんなを信じ込ませるような社会変革運動は、逆に、浅い墓穴と水彩の墓碑銘しか得られないだろう。[死後、すぐに忘れ去られるだろう]

ちなみに、同性婚の権利運動の教訓は気候変動運動へは適用不可能であるという主張から学べることは、更に重要であると思う。同性婚運動は、2点のはっきりとした特徴により、政治的スペクトラムの左側の人々が主導した最近の運動の中では特に注目に値する。1点目は、1980年代初期からアメリカの政治運動を支配してきた一般常識に反していることである。2点目は、それが勝利したということである。これら2つはまったく無関係ではない。実際のところ、特定の習慣が、過去30年間に渡って社会変革運動に必須とみなされてきた習慣が、当の期間に目標達成をほぼ全面的に失敗させてきたことに責任があると提案したい。

それでは、1つずつそれらの習慣を見ていこう。

1. 抱き合わせ

これは、いかなる社会変革運動であれ、現在人気のある他のすべての社会変革運動のため余地を空けておかなければならず、時間、労力やリソースをそれぞれの運動が別のところへ割り当てなければならないという主張である。何らかの目標へ向けた運動を開始すれば、確実に、あなたと同盟を組みたいと主張する活動家たちが群がってくるだろう。我々を助けてくれる限りはあなたを助力すると主張する者もいるだろうし、我々の目標達成を支援することがあなたの目標達成のための最良の方法なのだと主張する者も、我々の目標の方がより重要なのだから、あなたがマトモな人間であれば自分の大義を下ろして我々に参加するべきだと主張する者もいるだろう。けれども、これらすべては、別の人間の大義のためにあなたのお金、時間、労力その他のリソースをいくらか転用せよという要求である。

連帯という表層の裏側にあるのは、すなわち、社会変革運動シーンとは人、金、熱意への獲得に向けて複数の運動が競争しているダーウィン的競争環境である。"抱き合わせ" は、標準的な競争戦略であるが、あなたの運動が解決しようとしている問題に対して具体的な行動を取ることを計画するようになると、すぐにオーバードライブしてしまう。この時点において、確実に、あなたの同盟者たちは、自分の大義に対して何らかの見返りがなければ計画は受け入れられないと主張するだろう。言い換えるなら、あなたは単に問題Aを修正することはできない; あなたは、問題B, C, D そして Zなどについても何かをしなければならない - そして、そこに辿りつくよりも前に、あなたの計画は実行可能ではなくなる。いかなる一連の行動でさえ、世界中の問題すべてを一度に解決することはできないからだ。

同性婚の権利へのキャンペーンを他の社会変革運動と区別するものは、反対に、抱き合わせによる失敗を拒否したことである。同性婚運動は、実際の目標 - 同性カップルが結婚の権利を得ること - に焦点を当てて、単独で目標を追求することは非現実的なのだから、歩調を合わせ、社会変革のための壮大な運動に参加し、順番を待つべきだという主張を聞き入れることを拒否したのである。もしも同性婚運動がその主張を聞き入れていたとしたら、彼らは今でも待ち続けていただろう。実際には、同性婚運動は成功を収めた。

2. 党派の罠

民主党は、環境保護大義が死ぬ場所である。ある程度までは、今日のアメリカの党派政治は、抱き合わせの究極的な事例である; 左派の社会運動は、自身のアジェンダを追求するよりはむしろ民主党候補を選出させることにエネルギーを投入するべきであると信じ込まされる。結果として、民主党候補は選挙で勝つものの、社会変革運動は自身の目標は何も実現しなかったと知るのである。

これは偶然ではない。アメリカの両党は、かつて独立していた社会変革運動を囚われの選挙区内に押し止めるという芸術を完成させたので、いずれかの政党の候補者を選出するために働き続けるものの、実質的に見返りとしては何も得られない。民主党エスタブリッシュメントは気候変動反対運動の成功にもはや関心がなく、共和党は反対に妊娠中絶反対運動の成功に関心がない; どちらの場合にも、[もしも目標が達成されたら] 運動は消滅し、重要な囚われの選挙区は自身を支持する政党を失うだろう。党官僚にとっては、囚われの選挙区に時おりパンくずを投げ与え、目標達成への失敗は対立する党派の責任であると非難し、4年毎に、相手の党は更に悪いのだから言われた通りに投票するべきだと主張するほうがはるかに利益が大きい。

同性婚権を求めるキャンペーンは、両政党が運動を定位置へと押し止めるために多大な努力をしたにもかかわらず、その罠から抜け出した。そのため、共和党員 - 共和党候補に投票し、共和党キャンペーンに寄付し、共和党の活動に参加する人々 - のゲイやレズビアンは有意な数に上る。そして彼らは共和党員の議員に、彼らが望むことをするようにお願いする手紙を大量に送り、政府へ陳情した。これが同性婚に対する共和党の反対を崩壊させることに大きな役割を果たし、ひいては運動の成功に重大な役割を果たした。

3. 純度政治

民主党員と共和党員のゲイ、レズビアンおよび同情的な異性愛 ストレート の人々を含む運動の創設は、また別の現代左翼運動の戒めに違反していた。社会変革のための運動は、イデオロギー的な純度テストに失敗した者を排除すべしという主張である。指摘されてきた通り、またこれは正しいのだが、右派は引き付ける協力者を探す一方で、左派は追放するべき異端を探すのである; 過去40年間にわたって、右派が左派よりもはるかに成功している理由の1つはこれだ。

ある程度までは、純度政治は単に"抱き合わせ"の裏返しである。あなたの運動が左側のすべての運動もサポートしなければならないのであれば、あなたの運動に引きよせられる人は、リストに掲載された他の運動すべてのアジェンダに合意するごく少数の人のみである。それでも、そこではそれ以上のことが起こっている。私が過去の記事で書いた通り、アメリカにおける人種についての語りは、人種的な不正義に影響を受けた人々の生活を向上させるための活動から、本当の、ないしは想像上の迫害者の集団をいじめるという機能不全のゲームへと変貌を遂げた。純度政治は、それと同一のダイナミクスから生じている。かなりの数の有望な運動でも働いており、空っぽの部屋の中で、全員がお互いを疑り深く見つめて、何らかの逸脱した思考の兆候がないかと探す5, 6人の人々へと変化させている。

同性婚権運動が成功した理由はまさに、反対に純度政治を拒否したことにある。運動の大部分において、重要なことは同性カップルに結婚の権利を与えることに賛成するだけであり、社会変革運動の全範囲に賛成ではない多数の人々が、実際にゲイとレズビアンカップルが絆を結ぶことを喜んで支持した。イデオロギー的分断を乗り越えて単一の問題に共通基盤を見出す能力が、勝利を約束するわけではない。けれども、それを拒否した場合はほぼ常に敗北が約束されている。

4. 特権者への迎合

裕福なマイノリティに訴えかけて大衆運動を起こした人はいない。それが、近年では社会変革運動が巨大な運動となる兆候をまったく見せない主な理由の1つである。1980年以降、ほとんどの活動家は、真に重要なオーディエンスが裕福なリベラル派のみから構成されているかのように自身のアピールとキャンペーンを定め、たびたび大多数のアメリカ人マジョリティを無視するどころか侮辱さえしたのである - つまりは、彼らの大義が何らかの持続的勝利を達成しようとするならば、味方に付けなければならない人々である。

私がこのブログの別の記事で議論した通り、階級問題が現代政治におけるタブートピックとなったのは、まさにかつて繁栄していたアメリカ人労働者階級が破壊された期間のことであった。政治に関する我々の集合的会話では、人種、ジェンダー、超富裕層について話すことができる。しかし、非常に重要な別の分断 - 給与を得る裕福な人々と、賃金を稼ぐ人々、給与階級から広範に支持された容易に特定可能な政策により、困窮と悲惨のうちに落とされた人々との分断 - について話しをすると、確実に叫び倒される。 (このような会話を、ドルイドが潜む周縁部で行うことによる利点としては、そんな叫び声がほとんど聞こえないことが挙げられる)

あまりに多数の自称過激派たちは、それゆえ、特権階級に従順に従い、富者たちが眉をひそめるようなリスクを取ることすらせず、彼らのテーブルから出るゴミの施しを乞うたのである。アメリカで本当の変革が発生するのは、ドナルド・トランプが既に学んでいる通り、国家政治とパブリックな言説からの賃金階級アメリカ人の要求、利益、視点の排除により、かつて強靭であった現状維持への信念が打ち砕かれ、政治的動員への準備が整ったということを他の人たちが学んだ時であろう。そのような変革は良い方向へ向かうとは限らない; もしもメインストリーム政党が、裕福な者だけが問題であるかのように行動し続けるならば、次に賃金階級を従える人物は、腕章と軍靴を好むかもしれない。ことによると、路肩爆弾やゲリラ紛争を好むかもしれない; いずれにせよ、変革は起こるだろう。

同性婚権の運動は、ここでは巨大なアドバンテージを持っていた。その運動が実現を望んだ政策変更は、ボウリンググリーンやオマハの賃金階級の同性カップルにも、シアトルやボストンの給与階級の同性カップルのどちらにも利点があるものであったからだ。(ところで、ボウリンググリーンやオマハに賃金階級の同性カップルなど存在しないと考えるのであれば、もっと外へ眼を向けるべきだ。) それが運動に巨大な支持を与え、裁判所の判決が出なかったとしても、個々の州での投票を集め始め、更なる勝利を収めたのである。

それでは、人為的気候変動への反対運動は? 運動に関わった人であれば、読者諸君、ここで列挙した4つの悪い習慣すべてに苦しめられていたことにお気づきだろうと思う - お望みであれば、我らが時代における急進主義の黙示録的失敗の四騎士と呼んでも良い。気候変動運動は、抱き合わせの利益を求める集団により、コアとなる目標から逸らされてしまった; それは、民主党の選挙区に囚われてしまった; それは、純度政治の悪いケースに苦しめられており、そこでは (私が以前指摘した点を挙げるなら) 大量の余剰を節約することなしに、化石燃料を代替する再生可能資源の能力に疑問を持つ人間は、否定論者として非難される; それは、常に特権者へ迎合し続け、貧しい労働者の犠牲のもとに裕福な人々に利益をもたらす政策を追求している。これらの悪い習慣が、先の気候変動運動の死亡記事で列挙した具体的な間違いを助長し、そしてその運動を敗北へと導いた。

その失敗は必然ではなく、また将来の気候変動運動が同じ間違いを何度も何度も繰り返す必要もない。今後の記事では、将来の運動が、大気を下水口であるかのように扱うことを止め、今日の我々の愚行によるエコロジカルな影響を緩和するために何をすべきかを描き出したいと思う。私の具体的な提案は試験的なものとなるだろうが、けれども同性婚権キャンペーンの成功から得られる教訓はそこに含まれるだろう-そして、我らが時代の他の社会変革運動の度々の失敗から得られた、同様に重要な教訓も。

*1:訳注:米国の石油会社。日本ではエッソのブランドで知られる。

翻訳:ポストリベラル時代の到来 (ジョン・マイケル・グリア)

この記事は2016年9月28日に書かれた。ジョン・マイケル・グリアによる2016年ドナルド・トランプ当選予測に関するエッセイはこちら

The Coming of the Postliberal Era

現代のできごとを学ぶ人誰もが直面している巨大な挑戦は、現時点での混乱を乗り越えて、より広いスケールでものごとを形作る深層のトレンドを捉えることである。たとえるならば、潮汐表の助けを借りず浜辺に立ち、潮が満ちているのか引いているのかを当てるようなものだ。波は寄せては砕け、海へと流れ返る; 風はあちらへ、こちらへと吹く; 長い時間が経ち、微妙な細部に細心の注意を払ってようやく、海が次第に浜辺へと迫っているのか、それともそこから引きつつあるのかを確信できるだろう。

過去1年程度の間、けれども、アメリカ政治の巨大潮流の一つが変化して海へと返りつつあることが、私には次第に明らかになってきた。ほぼ正確に200年程度の間、この国の政治的言説は、アメリカン・リベラリズムとでも呼びうる緩く連合した思想、利害、価値観によって形成されてきた - おそらく、それ以外のいかなる単一の力よりも強力に。それが現在変化しつつある潮流である。私の考えでは、我らが時代の政治的展望を形作る最重要トレンドは、リベラル運動の最終的滅亡への転落と、現在既に生じつつあるポストリベラル政治の最初の胎動である。

アメリカン・リベラリズムが何であったか、どう変化したか、そしてその余波の中で何が起こるのかを理解するためには、歴史は不可欠のリソースである。ある政治イデオロギーの信奉者に、自身のイデオロギーを定義するようにお願いしてみれば、出来あいの定義を得られるだろう; そのイデオロギーの反対者に同じことをするようにお願いしてみれば、まったく別のものが得られるだろう - またどちらも、その他のより広いロジック以上に、瞬間瞬間の政治的要求によって変化していく。そのイデオロギーの誕生から青年期、成熟期と老年期への衰退までを辿ってみれば、実際に意味することをよりよく理解できるだろう。

それでは、アメリカン・リベラリズム運動の源泉に戻ってみよう。歴史家たちは長い間この運動の起源について議論してきたが、その最初の眼に見える急増は、1812年戦争 [英米戦争] 後数年に、沿岸北東部のいくつかの都市中心部に辿れる。ボストン - 19世紀アメリカにとってのサンフランシスコ - は、新生運動の震源地であり、新しい共和国全体から集った野心ある知識人たちの生み出した新たな社会思想が煮えたぎる大釜であった。1960年代の素朴で沸騰する理想主義が何か新しいものであると考えている読者は、ナサニエル・ホーソーンの『ブリットデール・ロマンス』を読む必要がある; それは19世紀初等のマサチューセッツカウンターカルチャーの集合であり、ほとんどの活動は共同体 コミューン で行なわれた。それが、アメリカン・リベラリズムが誕生した背景である。

最初期から、アメリカン・リベラリズムは教育あるエリートの運動であった。それは圧政に踏み付けられた下層民を鼓舞するため感動的に語られたのだが、下層民自身はその運動の中では活発な役割を許可されていなかった。またそれは、プロテスタントと密接に関わっていた。ちょうど、1960年代の運動がアジアの宗教と関わっていたのと同じように; 会衆派とユニテリアン教会の牧師たちは、初期の頃から運動の中心的な役割を果たしてきており、運動の主要団体 - 反奴隷協会、禁酒同盟、非抵抗同盟、そして最初の影響力のあるアメリカ平和主義団体 - などは教会と密接な同盟を組んでおり、そのスタッフや支持者は聖職者であった。エリート主義とプロテスタントキリスト教の起源が、後で見るように、続く2世紀のアメリカン・リベラリズムの発展のあり方に強い影響を与えた。

3つの大きな社会問題が、新たな運動が合体する枠組みを形成した。1つ目は奴隷制度の廃止; 2つ目はアルコールの禁止; 3つ目は、女性の法的な地位の向上であった。(最後の目標が、両性の法的・社会的な平等という究極的な形を取るまでには、長く複雑な道を辿った。) それ以外にも多数の問題があり、それは運動から独自のシェアの注目を集めた - 食生活の改革、衣服の改革、平和主義、など - しかし、これらすべてが共通のテーマを共有していた: 価値観の表現としての政治の再定義である。

最後のフレーズを解説してみよう。政治とは、当時、そして人類史のほとんどの期間にわたって、直接的に利害に関する問題であると理解されてきた - 最もあからさまに言えば、誰がどのような利益を得て、誰がどのような費用を支払ったのかである。当時そして続く1世紀の大半の期間、たとえば、大統領選挙のたびに起こったことは、勝者の党が連邦政府の職をひとまとめにして支持者へと配分することであった。それは「猟官制」[spoils system] と呼ばれていた。ちょうど、「勝者は戦利品 [spoils] を得る」と同じような意味で; 人々が、誰かしらの大統領候補者の選挙キャンペーンに集ったのは、第一に快適な連邦政府の職を得られることを期待していたからだ。誰もこの制度が悪いものだとは考えていなかった。なぜならば、政治とは利害についてのものだったからだ。

同様に、奴隷は5分の3の人間であると定義した悪名高い憲法の条項について、憲法制定会議の参加者の誰かが倫理的な面で苦悩したという根拠はない。彼らは倫理的な問題についてまったく思いも至らなかったのではないかと思う、なぜなら、政治とは倫理その他の価値観の表現ではないからだ - 利害についてのものである - 問題は、各邦が自身の利害が議会で十分に代表されるだろうと感じられる妥協点を見つけることだけだったからだ。価値観とは、当時の考え方では、教会と個人の内心のみに属すものであった; 政治は、純粋に単純に利害についてのものであった。

(ここでしばらく一時停止して標準的な反応に応えておくべきだろう: 「イエス、しかし彼らはもっと良く考えるべきだったのだ!」 これは自時代中心主義 クロノセントリズム の典型例である。自民族中心主義が、特定の民族集団の信念、価値観や関心を特権視するように、クロノセントリズムは、特定の時代の信念、価値観や関心を特権視するものである。クロノセントリズムは、今日では、政治・文化的シーンのあらゆる側面において非常に一般的である; たとえば、科学者が、中世の人々は占星術を信じるよりももっとよく知るべきだったと述べるとき、あるいはクリスチャンが旧来の異教徒たちは多神教的な宗教を信じるよりももっとよく知るべきだったと述べるときに見られる。あらゆる場合において、それは過去を理解するという困難なタスクを避けるための試みの一つでしかない)

新生のアメリカン・リベラリズムは、けれども、政治と価値観の分断を拒否した。彼らが奴隷制度に反対したのは、たとえば、工業化した北部諸州と南部のプランテーション経済の間の経済的利害の不一致とは何も関係がない。すべては、奴隷制は道徳的な誤りであるという真剣な信念に関連している。アルコール、女性への市民的権利を否定する法律、戦争などへの反対、その他運動が反対したことの長いリストに掲載されたあらゆることが、道徳的価値観についての問題であり、利害についての問題ではない。そこには運動のプロテスタント伝統の影響が見られるだろう: 教会から価値観を取り上げ、そして世界全体にそれらを適用しようとした。当時、プロテスタントはかなりエキゾチックな思想であり、たった今言及した道徳的十字軍は、1960年代の色とりどりのファンタジーと同じく、当時政治的な牽引力を得たのである。

どちらの運動も、戦争の影響により完全な失敗を免れた。1960年代の運動は、大衆文化からの影響力の大部分をベトナム戦争への反対から得ていた。戦争が終了し、法案が廃止されたとき、ほぼ跡形もなく運動が消滅したのはそれが理由である。初期の運動は、戦争が起こるまでしばらく待たなければならず、その間、4年前にニューエイジ運動を死のスパイラルに追いやったのと同じ種類の黙示録的なファンタジー [2012年のマヤ歴の終焉にまつわる終末論を指す] を野放しにしたことによってほぼ完璧に自己破壊した。1830年代には、完璧な社会が望んだほどには早く出現しないことに不満を抱き、大多数の新リベラル運動の支持者たちは、ニューイングランドの農民で聖書からキリスト再臨の正しい日付を導出したと信じるウィリアム・ミラーの預言を受け入れた。2012年12月21日と同じく、1844年10月22日は何事もなく過ぎ去り、結果として「大失望」は運動へのボディーブローとなった。

その時までに、けれども、アメリカン・リベラルによって推進された道徳的十字軍運動の一つは、素の経済的利害によって有能な支持者を引き付けていた。北部と南部諸州の奴隷制をめぐる疑問は、当時は主に倫理的問題であるとは見なされていなかった; 他のあらゆる政治問題と同様に、それは競合する利害の問題であったのだが、その過程において北部の政治家とメディアは即座に奴隷廃止論者の道徳的なレトリックを活用した。問題であったのは、国家の経済的な未来像であったのだ。アメリカは、輸出用原材料を生産する農業国に留まって、イギリスを中心としたグローバル経済に完全に統合される - すなわち、南部モデルを取るべきか? あるいは、独自の道を進み、グローバル経済に対する貿易障壁を上げ、独自の産業と国内消費向けの農業経済を発展させる - すなわち、北部モデルを取るべきか?

そのような問題は、即時の実際的な含意を持っていた。というのは、どちらかのモデルとって好ましい政府政策は、もう一方の破滅を意味したからである。奴隷制は南部モデルの要であった。南部プランテーションでは、利益を上げるためにほぼ無償の膨大な労働力を必要としたためである。けれども、北部と南部の政治家たちの間での議会闘争の詳細な議事録を読んでみれば、それと同じくらい議論されていた問題は、貿易政策と連邦支出に関する議題であったと分かるだろう。[原材料の輸出によって利益を上げる] 南部に有利な自由貿易政策を取るべきか? あるいは、[国内の工業を保護したい] 北部に有利な関税障壁政策を取るべきか? 連邦予算は、運河と道路に支出するべきか? それは原材料の工場への輸送と製品の市場への流通を容易にし、北部に利益をもたらす。しかし、それは南部の利益とは無関係である。単に、河船で綿花とタバコを近隣の港に運べばよいだけなのだから。

新たに認可された州で奴隷制経済を認めるべきかをめぐる更に苦い闘争も、当時の政治では圧倒的な経済的背景を持っていた。北部は、西部準州を家族農場のパッチワークに変え、東海岸沿岸都市と五大湖周辺のブルジョア的な都市向けの農産品を作らせ、また北部の工場からの工業製品の市場へと変えたいと望んでいた; 南部は、同じテリトリーでプランテーション農業を行い、イギリスおよび世界市場への輸出品を作りたいと望んでいた。

既に述べた通り、倫理的側面が北部のプロパガンダの中心となり、それが利益と同様に価値観も政治的言説に存在するというリベラルな信念を広げるのに役立った。1860年までに、その信念はメーソン=ディクソン線 [奴隷州と自由州を分ける線] の南側にすら広まっていった。たとえば、南部連合の[非公式]国歌、『ボニー・ブルー・フラッグ』の歌い出しの歌詞は、作詞当初の時点では「誠実な労苦により勝ち取った財産のために戦う」であった - そして、誰も自分のアイデンティティ、肌の色、当の財産についての幻想を持っている人はいなかった。けれども、すぐに歌詞は書き換えられた 「我らの自由のために、財と血と労苦をもって戦う」 そのような変化が起こったとき、既に南部は敗北していた; 経済的利益の観点から奴隷制を擁護することは完全に可能ではある、しかし、ひとたび争いの焦点が自由などの価値観に移ったら、奴隷制は擁護不能となる。

それで南北戦争が勃発し、南部連合は興亡し、北部の経済モデルがその後ほぼ1世紀にわたりアメリカの経済政策を導き、リベラル運動も再び歩を進めた。奴隷制の廃止により、他の2つの主要目標が中心的な段階を占め、アルコール禁止と女性参政権獲得の闘争もほぼ足並みを揃えて進行した。米国でのアルコール製造と販売を禁止する修正第18条と、女性参政権を付与した修正第19条は、それぞれ1919年と1920年に可決された。禁酒法が完全な失敗と判明した後でさえ、同じレトリックは薬物へと向けられ (ほとんどは1930年代までアメリカでは合法だった)、それは今日まで公共政策を形作り続けている。そして、大恐慌が訪れ、1932年のフランクリン・ルーズベルトの選出 - そして特に、共和党が2つの州しか獲得できなかった1936年の地すべり的な大勝により - リベラル運動はアメリカの政治生活を統べる力となった。

勝利また勝利が続いた。労働組合の合法化、税金により支えられた社会保障制度の創設、南部への人種差別撤廃命令: これらを含めた膨大なリベラルな改革が着実に続いた。注目すべきことは、これらすべてのアチーブメントが達成されたのは、リベラル運動が両サイドの反対者と戦っている間のことだったということだ。右側には、もちろん、旧来の保守派が残っており、彼ら自身の重要な利害のために戦っていた。しかし、1930年以降、リベラル派は更に左側からの絶え間ない挑戦にも直面しなければならなかった。アメリカン・リベラリズムは、既に伸べた通り、教育あるエリートの運動であった; その運動の焦点は、下層民を包摂することではなく、下層民を助けることにあった; そして、下層民自身が自分自身の思想を持つようになり、それが必ずしもリベラル派が彼らに望むことと一致しなくなると、そのアプローチはますますトラブルを引き起こしていった。

1970年代から、今度は、アメリカン・リベラリズムは第三の挑戦に相対するようになった - 新たな形の保守主義であり、それはリベラリズムの価値観中心の言葉を借用したのだが、自身の大義を支持させるための別種の価値観を使用していた: 保守的なプロテスタントキリスト教の価値観である。ある意味では、「家族価値」を語るいわゆる「新保守主義」は、政治的言説の中心に価値観を据えるための長きにわたる闘争の、最終的かつ皮肉な勝利を表している。1980年代までには、パブリックな領域のいかなる党派の人であれ、その言動がどれほど粗野で打算ずくであろうとも、何らかのふさわしい抽象的価値観を掲げることを求められるまでになった; 誰も利害については語らない。たとえ、利害が明白な問題となっているときでさえ。

そこで、リベラル派が批判を受けた際の典型的な反応は、リベラルな政策に反対する唯一の理由は批判者が憎悪に満ちた価値観を抱いているからだと主張することである。

ここでは現在のアメリカの移民政策を例として取ろう。合法的な移民を制限する一方で、非合法の移民を暗黙のうちに許容する政策である。そのような政策が適正であるかを問うことには、確固たる実際的な理由が存在する。今日のアメリカの恒久失業者数は歴史上最高であり、人口の下位80%の収入と生活水準は、1970年代以来定常的に下降している。連邦の税制は雇用オフショアリングに実質的に補助金を与えている。そのような状況において、何百万という違法移民、実際上、何らの法的権利を持たず、搾取工場 スウェットショップ で不当に低い条件で雇用される違法移民を許可することは、既に低下した賃金を更に低下させるのみであり、賃金階級のアメリカ人を更に悲惨と貧困のうちに陥れるだろう。

これらは正当な問題であり、アメリカ人労働者階級の福利に対する、真剣な人道的懸念を扱うものである。そしてこれらの問題は人種問題とは何の関係もない - 移民がカナダから来ていたとして同程度の問題となっただろう。それでも、現代のアメリカン・リベラルの耳にこれらの問題は届かないだろう。それをしたとすれば、あなたは叫び倒され人種差別主義者としての告発を受けることになる。なぜか? リベラル運動のリーダーシップを引き出し、リベラル運動全体の方向性を定める豊かな階級が、大量の違法移民によって部分的に引き起こされた賃金の崩壊から、直接に利益を受けているからであると考えている。それは、賃金の低下は彼らが購入する商品とサービス価格の低下をもたらし、また彼らが働く企業、彼らが所有する株式の利益の向上をもたらすからである。

言わば、その歴史において、政治は利害と共に価値観も重視すべきだと主張して開始した運動であったが、その運動は価値観に関する議論を用いて自己利益追求に対する議論を封じるものへと変貌した。それは長期間有効な戦略ではない。というのは、反対者がその問題を特定し、レトリックと現実のギャップを攻撃するまでに長い時間を要しないからである。

この種の皮肉は、政治史においてはまったくの異常事態ではない。何らかの理想主義的な抽象原則の名のもとに現状維持 スタトゥス・クォ への異議申し立て運動として開始したものの、ひとたびそれが現状維持の地位を占めると他者の理想を締め出すような運動は、驚くべきほど一般的である。いずれにせよ、アメリカン・リベラリズムは、その理想を最も長期間保ち続け、多大なることを成し遂げてきた。我々のほとんどは、 - 私のような穏健なバーキアン保守主義者でさえ - 奴隷制や女性の市民権否定などの明白な不正義を終わらせたこと、また利害のみならず価値観も公的領域での議論に値するという考えを支持したことについて、リベラル運動に感謝しているだろうと思う。リベラル運動が、あらゆる成功した政治運動の究極的運命である衰退へと沈み込んでいくにつれて、現代版の帽子を掲げてしばしの沈黙を捧げる行為に値するだろう。

現在のアメリカ大統領選挙は、おそらく他の何よりも増して、リベラル運動の衰退がどれほど進んでいるかを示している。ヒラリー・クリントのキャンペーンがドナルド・トランプの挑戦に直面して当惑している理由は、彼女の選挙運動のレトリックにおけるリベラル派の 陳腐な言葉 シボレス を未だ信じているアメリカ人があまりにも少なくなったためにそれが意味を成していないからである。クリントンの支持者の間でさえ、熱意を見つけることは難しく、彼女の選挙集会の参加者は恥ずかしいほどにまばらである。ただ人種差別主義者、ファシストその他の "嘆かわしい人々" のみがトランプを支持しているという、ますます狂乱した主張は、本当の信者以外には誰も納得させられず、お飾りの価値観の背後にある利害を隠蔽する工作は、ますますあからさまになっている。未だクリントンは何らかの手段で選挙に勝てるかもしれないが、アメリカ政治世界のより広い潮流は、明らかに向きを変えている。

もっと正確に言うこともできる。バーニー・サンダースドナルド・トランプは、クリントンとは正反対に、有権者からの非常に情熱的な反応を引き出した。それは、2人が瀕死のリベラリズムのレトリックによって充満された現状維持に替わるものを提供したからである。同様に、イギリスでは、 - リベラル運動がやや異なる軌跡をたどって同じ場所に行きついたのだが - EU脱退キャンペーンの成功と、以前は党首当選は不可能だと考えられていたジェレミー・コービンに対する労働党員の支持への強い熱意は、同じプロセスが進行中であることを示している。裕福なエリート専属イデオロギーと化したリベラリズムは、下層民の忠誠心を喪失した。かつては、明らかにさまざまな動機が混同されていたのだが、下層民を助けることを目的としていたのであるが。その喪失により、リベラリズムが今後生き残ることはほとんどありえないだろう。

今後数十年にわたって、言い換えれば、アメリカ、イギリス、そしてほぼ確実に他国でも同様に、ポストリベラル政治が登場すると予期できる。短期的な政治情勢はきわめて推測が容易である。共和党の職業的政治家たちがヒラリー・クリントンの旗の下に集ったことを見てほしい。自由貿易の延長、中東へのアメリカの介入、その他彼らの利害を維持する超党派コンセンサスを要求する富裕層の党の誕生が見えるだろう。バーニー・サンダースドナルド・トランプ支持の轟音を聞いてほしい - または、それよりも良いのは、この11月にトランプへ投票するであろう、決して少なくない数のサンダース支持者と話してみてほしい - エリートとは非常に異なる利害を守るために、エリートのコンセンサスの破棄を求めるポピュリスト政党の出現を感じられるだろう。

それらの政党の名前が何であるかは、未だまったく分からない。そして、それ以外にも数多くのやるべきことがあるだろう。いずれにせよ、その道のりは荒いものとなるはずだ。

翻訳:ベルサイユ宮殿の鏡の間の外で (ジョン・マイケル・グリア)

この記事は2016年6月29日に書かれた。ジョン・マイケル・グリアによる2016年ドナルド・トランプ当選予測に関するエッセイはこちら

Outside the Hall of Mirrors

先週のイギリスのEU離脱をめぐる投票の結果、インターネットとマスメディアのさまざまな場所で憤慨した絶叫と大騒ぎが始まった。親EU派の予想外の敗北は、けれども、重要な教訓を提供しており、それはイギリスに住む私の読者のみに限られない。ブレグジット国民投票の裏にある根本的な問題は、現在他の多くの国々でも大きな現実となっており、今年のアメリカ合衆国大統領選挙においても重要な - おそらく決定的な - 役割を果たすことだろう。

もちろんそのような結果となった理由の一部は、残留キャンペーンの非常に印象的なまでの無能さに帰せられなければならない。政治運動の最初のルールは、何かがうまく行かなくなったら、別のことを試してみる時だというものだが、しかし親EU派の誰もこのことを思い付かなかったと見える。キャンペーンの最初から最後まで、親EU派の口から発せられたほぼ唯一の一貫した主張は、イギリスがEUを脱退したら恐しいことが起こるぞという脅しであった。選挙の数週間前には、その結果、"ブレグジット発癌性あり、専門家が警告" といったニセのニュースヘッドラインが、インターネットユーモアの共通の話題になっていた。

それだけでも十分に悪いことだったが - 政治キャンペーンの中心的テーマが笑いものになるのは、何か間違ったことをしているからだ - しかし、それ以外の点でも、親EU派の全員が見逃していたポイントがある。もうすぐ元首相となるデビッド・キャメロンは、イギリスがEUを脱退した場合、国民保険サービスおよびその他の一般イギリス人に利益をもたらすプログラムにおいて厳しい予算削減が行なわれるという主張にキャンペーンの大部分を費した。ここでの問題点は、もちろん、キャメロン政権は既に国民保険サービスおよびその他の一般イギリス人に利益をもたらすプログラムにおいて厳しい予算削減を課してきたということであり、また同じことを更に行なうというあらゆる兆候を示していた - 「ブレグジットをすれば、いずれにせよ我々がしていることを続ける」 という言葉は、どういうわけか、見たところキャメロンが予期していた影響力を発揮できなかったようである。

より一般的には、残留派の支持者は、イギリスがEUに残留し続けるポジティブな理由を、既に自分たちと同じ立場を取っているのではない人々に提示できなかった。その代わりに、彼らは単に「何らかの思考力のある人」であれば残留に投票するもので、それに同意しない人々は外国人嫌いなナチス支持者のバカであると主張した。敗北後の彼らの行動もだいたい同じで、EU脱退に投票した52%のイギリス人はすべてファシストの偏屈者であるという怒りに満ちた声明と、脱退に投票した人も本当に脱退する意図はなかったのかもしれないので、どうか投票をもう一度やり直してくださいという哀れなお願いの間を揺れ動いている。

投票前も投票後も、EU残留派の主張に完全に欠けていたことは、イギリスのEU加盟の継続に関する疑問には、合理的な意見の不一致がある実質的な問題が存在するかもしれないという何らかの感覚である。お前たちの不安は間違っていると言い、異議申し立てに対して子供じみた悪口での中傷をしたとしても、彼らが投票を変えるように説得されないことは明白なはずであった。これが親EU派の人々には明白でなかったということ、そして敗北に直面してさえ明白に理解される兆候がないということは、当の問題は親EU派の人々が絶対に議論してほしくない問題であることを示唆している。

これがまさに起こっていたことであると思う。そして、過去1世紀程度のイギリス政治史を一瞥すれば、叫び声の裏にある語られぬ現実を理解するのに役立つかもしれない。

100年前、イギリス政治界は2つの政党に支配されていた: 保守党 (またはトーリー党) と自由党である。両方とも、富者によって運営された富者のための政党であった。19世紀にわたって、一連の選挙改革法により多数のイギリス男性が選挙へと参加するようになった - イギリス人女性は、2つの段階で選挙に参加した。1918年には30歳以上の裕福な女性が、1929年にはすべての女性が投票を認められた - すぐに両党は、貧しい人々の前に無意味な恩恵をぶら下げて、彼らが言うところの善のために投票させる方法を学習した。

労働党の先駆けとなった独立労働運動 [ILM] の躍進は、このような政治的駆け引きへの見事な反撃であった。裕福な少数派の利益のために誘導されることを許すのではなく、ILMと後の労働党は、労働者と貧者の利害をアジェンダの最上位に置き、富者のテーブルから出たゴミに抱き込まれることを拒否したのである。1945年、その直接的な結果として、自由党は影響力をほぼ失い、労働党はイギリス政治における二大政党のうちの一つとなった。

アメリカと同様イギリスでも、前世紀の最後の四半世紀に振り子は逆側へと動き始めた。1978年の総選挙でのマーガレット・サッチャーの勝利は、アメリカでの1980年のロナルド・レーガンの勝利と同じ役割を果たした。新しい、より攻撃的な保守主義が、階級闘争についての左派のレトリックを取り上げてそれを著しく反転させ、貧者に対する富者の反乱の時代の先駆けとなった。その後、トニー・ブレアの下で労働党は、ビル・クリントンの下での民主党と同じ方法によりそのシフトに対応した: すなわち、どちらの党も労働者と貧困者に対する以前のコミットメントを密かに取り下げ、その代わり裕福なリベラル派へアピールする問題に焦点を合わせたのだ。彼らは、労働者階級と貧困者が、習慣により、また間違った忠誠心により投票を続けることに賭けたのだ - 短期的には、その賭けは報われた。

その結果、両国の政治的環境では、労働者と貧者の犠牲のもとに富者に利益をもたらす政策のみが唯一の議論対象である政策となった。この点は、あまりにも頻繁に、あまりにも多くの空想的な形で歪められてきたため、おそらくここで詳細に説明しておく必要があるだろう。不動産価格の上昇は、たとえば、不動産を所有する者に利益を与える。彼らの資産を増加させるからだ。その一方で、家を借りる必要がある人々には、損を与える。収入のより多くを家賃として支払わなければならないからだ。同様に、障害者向けの社会保障給付の削減は、そのような給付金に頼って生存する人々の犠牲のもとに、税金を支払う人々に利益をもたらす。

同様に、既に何百万人もの人々が恒久的に失業している国へ無制限の移民を奨励する政策、工場の雇用のオフショアリングを推奨し、残された減り続ける仕事に対する競争を強いる政策は、あらゆる人々の犠牲のもとに富者に利益を与えるものであった。他のあらゆるものと同じく、労働にも需要と供給の法則が働く: 労働者の供給を増やし、労働力への需要を減らせば、賃金は低下する。裕福な人々はここから利益を得た。彼らが望むサービスの価格が低下したからだ。しかし、貧しい労働者と失業者は害を受けた。受け取る賃金が減少したが、さもなければまったく仕事を見つけられないからだ。このような直接的なロジックを偽装するために、移民は経済全体に利益をもたらすという主張が標準的に使われてきた。しかし、誰が大部分の利益を得たのか、そして誰がほとんどの費用を支払ったのか? 過去30年以上の間、イギリスでもアメリカでも公的領域にいる人々が誰も議論してほしくないと思っていたのはこれだ。

このような富者の富者による富者のための政府にまつわる問題は、何年も前に、アーノルド・トインビーによる記念碑的な著書『歴史の研究』のなかで妥協なく詳細まで記されている。没落中の社会は、トインビーの指摘によれば、同等ではない2つの部分へと分裂していく: 政治制度とその利益を独占する支配的少数者と、既存の秩序維持のための費用の大部分を支払いながら、その利益へのアクセスを拒否された内的プロレタリアートである。分裂が進んでいくと、支配的少数者は政治の根本的法則を見失う -大衆がリーダーへの忠誠心を持ち続けるのは、ただリーダーが大衆への忠誠心を持ち続けるときのみである- そして、内的プロレタリアートは支配的少数者のリーダーシップのみならず、その価値観と理想をも拒否することで反応する。

結果として生じる[支配者と大衆の] 断絶を表す永続的なシンボルは、ベルサイユ宮殿の有名な鏡の間である、そこではフランス革命直前の最後のフランス王3名が、自身の輝かしい姿を見つめるために、次第に不穏で貧困になっていく国から身を隠した場所である。マリー・アントワネットは、彼女に帰せられた有名なセリフ - 「ケーキを食べればいいじゃない」- とは口にしなかっただろうが、そのような発言が示唆する鏡の間の外側の世界のリアリティについての無知は、フランスが廃墟へと向かい、一般のフランス人男女の多数が名目上のリーダーに背を向け、新たなオプションを探す間に、確実に存在していたであろう。

それが過去数十年にイギリスで起きたことであり、過去数回の選挙はそれを示している。2010年の総選挙では、有権者はそれまで泡沫政党であった自由民主党に群がり、世論調査員と専門家たちを驚かせた。それは変化に対する明白な要求であった。もしも自由民主党が自身の立場を譲らなければ、数年のうちに労働党の代替となりえたかもしれないが、しかし自由民主党は理想を換金し、トーリー党との連立政権を形成した。直接的な結果として、2015年の総選挙では、自由民主党は再び泡沫政党へと追い返された。

けれども、2015年の選挙は更に重要な結果をもたらした。不安なほどに勢力を伸ばした別の泡沫政党、イギリス独立党 (UKIP) を叩くため、トーリー党首相のデイビッド・キャメロンは、もし自党が勝利したら、イギリスはEU脱退を問う国民投票を行なうと公約したのである。世論調査によれば、議会は再び保守党、自由民主党労働党の間で3つに分裂するだろうと予測されていた。世論調査員と専門家たちは再び驚かされた; 労働党ないし自由民主党に投票すると言われていた人々が、投票ブースの中では密かに地元のトーリーに投票を行なったのだ。なぜ? 木曜日の投票が示す通り、まさに彼らはEUに対してノーと言う機会を望んでいたのである。

早回しでブレグジットキャンペーンへと進もう。今日のイギリスの礼儀正しい社会では、既存の人々にすら十分な雇用、住居、社会保障を与えられないほどの過密状態の島へ、更に無制限に移民を許可することで起こる巨大な問題を指摘しようとする試みは、人種差別であるとして無視される。ゆえに、大多数のブリトン人 - その多くは名目上の労働党支持者 - が、パブリックな場では承認されたスローガンを口にするものの、プライベートでは "脱退" に投票したことは何ら驚くべきことではない - そして再び、世論調査員と専門家たちは驚かされた。それが、支配的少数者と内的プロレタリアートの間の分裂による欠陥である; ひとたび、裕福で特権的なサークル外部の人々のニーズへの対処に失敗して、支配的少数者が大衆の忠誠心を失うようになったら、社会の機能に必要な相互信頼を面従腹背が代替してしまう。

EUは、次に、労働者階級と貧困者の間の不満を抱いた有権者たちの完璧なターゲットとなった。なぜならば、EUは完全に、トニー・ブレア後の労働党ビル・クリントンの後の民主党のような、同様の富裕層によるコンセンサスの産物であったからだ。EUの経済政策は、上から下まで、サッチャーレーガンにより力を授けられたネオリベラル的経済学に率いられていた; 無制限の移民と資本移動への確固たる支持は、賃金を低下させ、イギリスのような国々から雇用を取り去ることを意図していた; その補助金は必然的に大企業と裕福な企業のポケットへ収まり、その規制による負担は中小企業と地域経済にとって最も思い負担となる。

これに気付くことは何も難しくはない - 実際のところ、気付かないようにするほうが努力を要する。イギリスメディアの最新のニュースで、ブレグジットの結果を嘆いている人々の話を聞いてみるといい。その話し手が奪われると心配していることは、ほとんどが裕福な者にのみ関係のある多くの特権のリストであることがわかるだろう。ごく少数の変わり者を除いては、EU脱退に賛成した人々は普通、語ることはない。彼らは、苦い経験を通して、お決まりの人種差別などの告発によって叫び倒されるだろうと学習したからである。けれども、もしも彼らが話そう望んだとしたら、あまりに多数の裕福な人々があまりにも明白に軽蔑する一般労働者階級の人々に課せられた大量の負担のリストを耳にできるのではないかと思う。

おそらくここで、もちろん、"脱退" に投票した人のなかには人種差別主義者や外国人嫌いがいるであろうことに注意しなればならない。同様に、"残留" に投票した人のなかには死んだ豚と性交した人々もいるだろう - イギリスの読者は、少なくとも一人の名前を挙げられるだろうと確信している *1 - しかし、それは "残留" に投票した人すべてが死んだ豚と性交したことを意味するわけではない。また、もっと重要なことは、それは死体性愛の性癖が "残留" に投票した唯一のありえる理由であることを証明するものでもない。ヘイトスピーチのよくある定義は、「侮辱的で軽蔑的なステレオタイプを、あるグループのメンバー全員を表現するために使用すること」であるとされる。この定義によれば、"脱退" に投票した人々全員を偏見に満ちたバカであると呼ぶことは、ヘイトスピーチであると言える - そして、通常の場合いち速くヘイトスピーチを非難する人々が、この場合は心の底からヘイトスピーチを楽しんでいる様子を見るのは、皮肉な喜びの源泉である。

けれども、もう少し深く見てみよう。確かに、実際、貧しい労働者階級のブリトン人で外国人移民に強烈な偏見的態度を抱いている人々もかなりの数存在する。なぜか? 大部分の理由は、裕福な人々が、何十年にもわたって、人種的な寛容を、何百万人というイギリス労働者階級の人々を貧困と悲惨のうちに陥れた無制限の移民政策と同義としてきたからである。同様にして、大多数の貧困者と労働者階級のブリトン人は、環境問題をそれほどに考慮することはできなかった。大部分の理由は、環境問題についての議論の論点は、裕福な人々のライフスタイルは決してオープンな議論の対象とならず、また環境保護のコストは社会の階梯を下る一方で、その利益は上に流れるようになっていたからである。トインビーが指摘する通り、社会が支配的少数派と内的プロレタリアートに分裂すると、大衆は、支配者のリーダーシップのみならず、支配者自らが述べる善の価値と理念をも拒否する。かなりの場合において、それらの価値と理念のなかには本当に重要なものも存在するのだが、しかしそれらがあまりにも何度も何度も特権者の政策を正当化するために使われると、大衆はもはや考慮しなくなる。

多数派は問題ではなく、この国は有権者がどう考えようともEUに留まらなければならないと主張するブリトン人は、明らかに先の木曜の選挙の結果が持つ意味を熟考していないようだ。政党への忠誠心は現在とても流動的であり、ブレグジット国民投票に賛成した52%のイギリス人有権者たちは、ほとんど躊躇なく、特権的少数派に対する同等の軽蔑をもって、UKIPを下院多数派としてナイジェル・ファラージダウニング街10番地 [首相官邸] へと送るかもしれない。もしもイギリスのエスタブリッシュメントが、労働者階級と貧困者にUKIPへの投票だけが自身の声を聞かせられる唯一の方法であると思い込ませてしまったら、それが起こるであろう。結局のところ、何も失うものを持たない人々を敵に回すのは、極めて愚かな行いである。

その一方で、非常によく似た反乱がアメリカ合衆国でも進行中であり、ドナルド・トランプがその恩恵を受けている。私が以前の記事で述べた通り、トランプの泡沫候補から共和党指名候補への劇的な進歩は、完全に、先に説明した裕福な人々のコンセンサスに反対の立場に自らを置いていることによって焚き付けられている。あらゆる許容された候補が、過去30年間のネオリベラルな経済政策とネオコンサバティブな政策 - 豊かな人々への贅沢な施し、貧しい人々への懲罰的な厳格さ、国内インフラの悪意ある無視と海外での軍事的対決の偏執狂敵な追求 - を支持していた一方で、トランプはそれらを壊し、専門家と政治家たちがより声高に彼をコキ下すほど、トランプはより多数の州で勝利し支持率は上昇している。

この時点において、トランプは賢明な行動を取っており、好機を待ち、一般投票に備え、時おり観測気球を挙げてヒラリー・クリントンに対する攻撃がどのように受け取られるかを確認している。共和党のライバルを叩きのめしたそのような全面戦争が、9月の初めごろにも開始されるのではないかと予期している。ヒラリー・クリントンは、そのような突撃に立ち向かうために適切な位置取りをしていない。それは、単に第三世界の泥棒政治においても異常なほどド派手であると見なされる規模の腐敗の告発の中で踏み止まっているからというだけではなく、また単に彼女の国務長官としてのキャリアが、そこから彼女が何ら学びを得ていない外交的災害の連鎖のために注目に値するからでもない。ヒラリー・クリントンのほとんどの経済、政治、軍事政策が、ドナルド・トランプの右側に位置しており、ジョージ・W・ブッシュ - ご存知の通り、しばらく前に民主党員が嫌悪すると主張していた男 - とほとんど区別のできない立場を提唱しているからですらない。

ノー、この11月にきわめて高い確率でトランプを勝利せしめる理由は、クリントンが自分自身に現状維持の候補者としての役割を割り当てたことにある。彼女が取ったあらゆる立場は、イギリスと同様にアメリカでも、あらゆる人々を犠牲にして豊かな人々に利益をもたらしてきた政策の継続追求に対応する。彼女の配偶者が大統領であったとき、また両方の党が、どちらがうまく満足した人々を満足させられ、既に苦しんでいる人を苦しめられるかを競争していたときには、それは安全な選択であった。トランプが現代アメリカ政治のルールブックを投げ捨て、30年以上も貧乏くじを引かされてきた人々に対して、実際に生活を向上させうる政策の変化を提供している現在では、それは安全な選択ではない。

ここで当然、それは政治家、専門家、また裕福な人々のコンセンサスについての公式認定された思想家たちが、語りたいと望むことではない。それゆえ、イギリスのEU脱退賛成派であるマジョリティに対して使われたのと同じ陰鬱なレトリックが、トランプ支持者に対しても使われている。「人種差別主義者」、「ファシスト」、「愚か者」。

これらの言葉が現在飛び交っている情熱は過小評価すべきではない。古い友人は、私がクリントンに対する熱意の欠如を口にしたところ、話の途中で電話を切ってしまった; それ以来友人とは話をしていないし、今後も話をするのかも分からない。私が知る他の人々も、今日の一般常識が許容するよりもより微妙な観点から次の選挙を議論しようとしたところ、似たような経験をしたという。アメリカの公的生活で、最も強力で最も言及不能な力 - 階級的偏見 - は、結果として生じる絶叫合戦を蔓延させている。クリントンの側に付くことは、特権者、「善い人々」、鏡の間で自身の姿に見惚れる裕福な人々のサークルと自分自身を同一視することである。トランプについて、安っぽい悪ガキじみた侮辱以外の言葉で語ること、あるいは、トランプの支持者が人種差別や単なる愚かさ以外の懸念によって動機付けられているのかもしれないと示唆することさえもが、下層民たちが集い初めている門の外へ出し抜けに投げ出されることに等しい。

鏡の間を前後にパレードする人々には、門の外には中よりも多くの人がいるなどということは思いも至らないようだ。不都合な視点を叫び倒すこと、また何かを考えることを止めさせるために侮辱の言葉を投げかけることは、既に同じ考えを持っているのではない人々を納得させるための効果的な方法ではないということにも気が付いていないようだ。もしかすると、ブレグジット投票の結果は、アメリカのお喋り階級を昏睡から目覚めさせ、彼らの望む政策によって傷付けられた人々が、ついに、他の政策は考えられないという主張への忍耐を失ったということを気付かされるかもしれない。けれども、私はそれを疑っている。

鏡の間の外では、空は暗く鳥は巣に帰っている。中にはもうロンドンの屋根に落ち着いた鳥もいる。鳥たちの多くはヨーロッパ諸国の首都の上に浮んでおり、それよりも多くがワシントンDCの大理石の円屋根と切妻壁の上を飛び交っている。鳥たちが止まれば、その影響は世界を揺さぶるだろう。

After Progress: Reason and Religion at the End of the Industrial Age (English Edition)

After Progress: Reason and Religion at the End of the Industrial Age (English Edition)

*1:訳注: デイビッド・キャメロンの政敵により、オクスフォード大学在学中、学生団体のイニシエーションとして、死んだ豚の頭部に「身体の一部」を挿入したと暴露された。ただし、確たる根拠がある話ではない。