Going Faraway

渡辺遼遠の雑記帳

翻訳:失敗からの教訓: ささやかな紹介 (ジョン・マイケル・グリア)

この記事は2016年8月24日に書かれた。ジョン・マイケル・グリアによる2016年ドナルド・トランプ当選予測に関するエッセイはこちら

Learning From Failure: A Modest Introduction

先日、別のブログを読んでいた読者の一人が、賢明でタイムリーな質問を発した: 今年の大統領選挙の話題になると、なぜあまりに多くの良識ある人々が、口角泡を飛ばして激論を始めるのだろうか? 鋭い質問だ。今日のアメリカ合衆国において政治的言説に適用される恥ずべき基準からしてさえ、両主要政党の支持者から聞こえる、完璧な詭弁、キャッチフレーズのおうむ返し、白熱した激怒などの混ぜ合わせは、尋常なものではない。しばらくの間その質問を検討したところ、その答えが分かった: 認知的不協和である。

簡単な思考実験で説明できる。親愛なる読者諸君、想像してみてほしい。オレゴン州ポートランドにある、近所にある流行りのスターバックスに入り、そこにいる人々 - 根っからの民主党員の男性、女性、性別不定の個人、そして子供 - に質問をするのである。悪夢の大統領候補者を説明してください、来年の1月、最もホワイトハウスで見たくない人物はどのような人ですか、と。

彼らは教えてくれるだろう。そのような人物は、銀行や大企業の利益に公然と奉仕し、豊かな者を更に富ませるために行政にかかわってきた政界のインサイダーで、また第三世界諸国に対する政権転覆およびロシアとの軍事的対立にコミットするネオコンである。その候補者は、企業が環境保護法を覆すことを許容してきた貿易協定の支持に業績を上げ、驚くべきほどに厚顔無恥なスケールでの詳細な汚職告発の中でも踏み止まっている。その候補者は、アメリカには何も問題がないと主張し、それに同意しない者は単にネガティブな人間であるのだと主張するだろう。あぁ、またその候補者は人種差別的な行動に関わっていて、強姦されたという女性の訴えも、もしもその訴えが候補者自身の家族の一員に向けられた場合には、真剣に捉えられるべきではないと主張することも助けになるだろう。

つまりは、民主党の一般党員の考えによれば、ありえる最悪の大統領とはヒラリー・クリントンである。

それでは、グレイハウンド [長距離バス] に飛び乗り、ケンタッキー州ボウリンググリーンで下車して、最寄りの南部バプテスト教会の懇親会に向かってみよう。そこにいる人々 - 根っからの共和党員の、最後の一人の紳士淑女、清潔な子供に至るまで - に質問をするのである。悪夢の大統領候補者を説明してください、来年の1月に、ホワイトハウスで最も見たくない人物はどのような人ですか、と。

彼らは教えてくれるだろう。そのような人物は、ニューヨーク市のヤンキーであるだろう。そこは北米における究極的な悪の汚物溜めとして、多数の敬虔な人々の心のなかでは未だにロサンゼルスを凌駕している。その候補者は、不都合な債務から抜け出すために繰り返し破産宣告を行なって、金の山を作り上げた悪しき投機屋であるだろう。その候補者は、"野蛮" であるだろう - この言葉がどれほど強いものであるか見当も付かないかもしれない。南部プランターの零落した子孫である年配女性の口から、完璧な軽蔑口調でこの言葉が発せられるのを聞くまでは - そして、宗教問題については偽善者であり、キリスト教のキャッチフレーズを口にするのは、ただ選挙で勝つのに役立つからにすぎない。そのような候補者は、もちろん2回も3回も4回も結婚しており、婚外子をもうけており、ゲイ、レズビアントランスセクシャルその他の人間に対して、何らかの敬虔な恐怖の痕跡を示すことに失敗している。最後に、そのような候補者は、アメリカはもはや地球上で最も偉大なる国ではなく、再び偉大になるために抜本的な変化をする必要があると主張するかもしれない。

つまりは、共和党の一般党員の考えによれば、ありえる最悪の大統領とはドナルド・トランプである。

現段階において、両党が適切な対応を取り候補者を交換して、共和党は腐敗したエスタブリッシュメントネオコンを再び支援し、民主党が放埒なポピュリストのデマゴーグを任命するのには、おそらくもはや手遅れなのではないかと思う。そのような賢明な対応を欠いているために、あまりに多くの人々がおおむね平静を失なっていることはまったく驚きではない。民主党員も共和党員も、文字通りにすべてがホワイトハウスで目にしたくない人物に、心から投票を望んでいるかのように信じ込もうとしているのだから。それほどの認知的不協和の中では、落ち着いた議論、合理的な意思決定、正気の政治は不可能である。

それゆえ、アメリカの公的生活の中で最高に忌み嫌われた2人のうちのどちらが、来年1月に聖書に手を置くのか、また加速する政治的、経済的、社会的没落のなかで苦悩する苦く分断された国のリーダーとなるという疑わしい恩恵を得るのかを競う現在のレースの決着が付くまでには、何度かの奇妙な爆発の発生が予期できる。けれども、それが進んでいく間にも、議論に値する政治的なテーマは他にもある。それらのテーマは、先月の記事での気候変動反対運動の失敗に関する議論への反応として、大きな形で浮び上がってきた。

その記事は、かなりの敵意あるコメントを引き付け、激怒した非難も不足することはなかった。それらの多くは、記事中のある1点のディテールに焦点を当てていた: 気候変動運動とアメリカ合衆国における同性婚の権利要求キャンペーンとの対比である。そのどちらも、ニセ情報で下品なキャンペーンを行なう、豊富な資金を持った反対者に直面した。私が指摘した通り、同性婚キャンペーンはいずれにせよ勝利したので、気候変動運動の敗北の原因は反対者のみに帰せられるわけではない; 気候変動運動が失敗し、その一方で同性婚の権利は今や確固たる法律となった理由は、考慮する必要がある。

これは、けれども、非常に多くの私の読者が望んでいないことである。その人たちが言うには、同性婚権のキャンペーンの目的は、シンプルで、ごく限られた人にのみ影響を与える直接的な法改正であり、一方で、気候変動運動の目的は、現代生活のあらゆる側面での包括的な転覆であるという。中には壮大なスケールのレトリックを使って、気候変動に対して何らかの行動を取ることの圧倒的な困難さを描き出した人もいる。エクソン*1からの補助金に支えられた、地球上のあらゆる気候変動否定論者ですら匹敵しないと思えるほどに気力を失なわせるような調子で。自身の目標を同性婚権のようなものに - 言わば、何かしら達成可能である目標に作り変える方法があるかと問うことは、まったく思いもよらなかったように見える。

より一般的には、敵意ある反応の中心にあるのは、気候変動運動がその失敗から何かを学ぶべきであるという考えを断固として拒否することであった。それは、エクソンの取締役が彼らの最高の夢想を支持してくれると望む以上に、全面的な降伏である。社会変革への勝利を求める運動は、常に一時的な敗北を学習経験として捉え、失敗からの教訓を引き出し、それらの教訓にもとづいて戦術と戦略を変化させ、問題を捉え直し、勝利を得られるより良いチャンスへの奮闘に固執するのである。また、成功を収めた他の運動を見て、自分に問いかける。「我々の大義ではどうすれば同じことができるだろう?」 失敗に対して言い訳を述べ、その戦いはそもそも勝利不可能であったのだとみんなを信じ込ませるような社会変革運動は、逆に、浅い墓穴と水彩の墓碑銘しか得られないだろう。[死後、すぐに忘れ去られるだろう]

ちなみに、同性婚の権利運動の教訓は気候変動運動へは適用不可能であるという主張から学べることは、更に重要であると思う。同性婚運動は、2点のはっきりとした特徴により、政治的スペクトラムの左側の人々が主導した最近の運動の中では特に注目に値する。1点目は、1980年代初期からアメリカの政治運動を支配してきた一般常識に反していることである。2点目は、それが勝利したということである。これら2つはまったく無関係ではない。実際のところ、特定の習慣が、過去30年間に渡って社会変革運動に必須とみなされてきた習慣が、当の期間に目標達成をほぼ全面的に失敗させてきたことに責任があると提案したい。

それでは、1つずつそれらの習慣を見ていこう。

1. 抱き合わせ

これは、いかなる社会変革運動であれ、現在人気のある他のすべての社会変革運動のため余地を空けておかなければならず、時間、労力やリソースをそれぞれの運動が別のところへ割り当てなければならないという主張である。何らかの目標へ向けた運動を開始すれば、確実に、あなたと同盟を組みたいと主張する活動家たちが群がってくるだろう。我々を助けてくれる限りはあなたを助力すると主張する者もいるだろうし、我々の目標達成を支援することがあなたの目標達成のための最良の方法なのだと主張する者も、我々の目標の方がより重要なのだから、あなたがマトモな人間であれば自分の大義を下ろして我々に参加するべきだと主張する者もいるだろう。けれども、これらすべては、別の人間の大義のためにあなたのお金、時間、労力その他のリソースをいくらか転用せよという要求である。

連帯という表層の裏側にあるのは、すなわち、社会変革運動シーンとは人、金、熱意への獲得に向けて複数の運動が競争しているダーウィン的競争環境である。"抱き合わせ" は、標準的な競争戦略であるが、あなたの運動が解決しようとしている問題に対して具体的な行動を取ることを計画するようになると、すぐにオーバードライブしてしまう。この時点において、確実に、あなたの同盟者たちは、自分の大義に対して何らかの見返りがなければ計画は受け入れられないと主張するだろう。言い換えるなら、あなたは単に問題Aを修正することはできない; あなたは、問題B, C, D そして Zなどについても何かをしなければならない - そして、そこに辿りつくよりも前に、あなたの計画は実行可能ではなくなる。いかなる一連の行動でさえ、世界中の問題すべてを一度に解決することはできないからだ。

同性婚の権利へのキャンペーンを他の社会変革運動と区別するものは、反対に、抱き合わせによる失敗を拒否したことである。同性婚運動は、実際の目標 - 同性カップルが結婚の権利を得ること - に焦点を当てて、単独で目標を追求することは非現実的なのだから、歩調を合わせ、社会変革のための壮大な運動に参加し、順番を待つべきだという主張を聞き入れることを拒否したのである。もしも同性婚運動がその主張を聞き入れていたとしたら、彼らは今でも待ち続けていただろう。実際には、同性婚運動は成功を収めた。

2. 党派の罠

民主党は、環境保護大義が死ぬ場所である。ある程度までは、今日のアメリカの党派政治は、抱き合わせの究極的な事例である; 左派の社会運動は、自身のアジェンダを追求するよりはむしろ民主党候補を選出させることにエネルギーを投入するべきであると信じ込まされる。結果として、民主党候補は選挙で勝つものの、社会変革運動は自身の目標は何も実現しなかったと知るのである。

これは偶然ではない。アメリカの両党は、かつて独立していた社会変革運動を囚われの選挙区内に押し止めるという芸術を完成させたので、いずれかの政党の候補者を選出するために働き続けるものの、実質的に見返りとしては何も得られない。民主党エスタブリッシュメントは気候変動反対運動の成功にもはや関心がなく、共和党は反対に妊娠中絶反対運動の成功に関心がない; どちらの場合にも、[もしも目標が達成されたら] 運動は消滅し、重要な囚われの選挙区は自身を支持する政党を失うだろう。党官僚にとっては、囚われの選挙区に時おりパンくずを投げ与え、目標達成への失敗は対立する党派の責任であると非難し、4年毎に、相手の党は更に悪いのだから言われた通りに投票するべきだと主張するほうがはるかに利益が大きい。

同性婚権を求めるキャンペーンは、両政党が運動を定位置へと押し止めるために多大な努力をしたにもかかわらず、その罠から抜け出した。そのため、共和党員 - 共和党候補に投票し、共和党キャンペーンに寄付し、共和党の活動に参加する人々 - のゲイやレズビアンは有意な数に上る。そして彼らは共和党員の議員に、彼らが望むことをするようにお願いする手紙を大量に送り、政府へ陳情した。これが同性婚に対する共和党の反対を崩壊させることに大きな役割を果たし、ひいては運動の成功に重大な役割を果たした。

3. 純度政治

民主党員と共和党員のゲイ、レズビアンおよび同情的な異性愛 ストレート の人々を含む運動の創設は、また別の現代左翼運動の戒めに違反していた。社会変革のための運動は、イデオロギー的な純度テストに失敗した者を排除すべしという主張である。指摘されてきた通り、またこれは正しいのだが、右派は引き付ける協力者を探す一方で、左派は追放するべき異端を探すのである; 過去40年間にわたって、右派が左派よりもはるかに成功している理由の1つはこれだ。

ある程度までは、純度政治は単に"抱き合わせ"の裏返しである。あなたの運動が左側のすべての運動もサポートしなければならないのであれば、あなたの運動に引きよせられる人は、リストに掲載された他の運動すべてのアジェンダに合意するごく少数の人のみである。それでも、そこではそれ以上のことが起こっている。私が過去の記事で書いた通り、アメリカにおける人種についての語りは、人種的な不正義に影響を受けた人々の生活を向上させるための活動から、本当の、ないしは想像上の迫害者の集団をいじめるという機能不全のゲームへと変貌を遂げた。純度政治は、それと同一のダイナミクスから生じている。かなりの数の有望な運動でも働いており、空っぽの部屋の中で、全員がお互いを疑り深く見つめて、何らかの逸脱した思考の兆候がないかと探す5, 6人の人々へと変化させている。

同性婚権運動が成功した理由はまさに、反対に純度政治を拒否したことにある。運動の大部分において、重要なことは同性カップルに結婚の権利を与えることに賛成するだけであり、社会変革運動の全範囲に賛成ではない多数の人々が、実際にゲイとレズビアンカップルが絆を結ぶことを喜んで支持した。イデオロギー的分断を乗り越えて単一の問題に共通基盤を見出す能力が、勝利を約束するわけではない。けれども、それを拒否した場合はほぼ常に敗北が約束されている。

4. 特権者への迎合

裕福なマイノリティに訴えかけて大衆運動を起こした人はいない。それが、近年では社会変革運動が巨大な運動となる兆候をまったく見せない主な理由の1つである。1980年以降、ほとんどの活動家は、真に重要なオーディエンスが裕福なリベラル派のみから構成されているかのように自身のアピールとキャンペーンを定め、たびたび大多数のアメリカ人マジョリティを無視するどころか侮辱さえしたのである - つまりは、彼らの大義が何らかの持続的勝利を達成しようとするならば、味方に付けなければならない人々である。

私がこのブログの別の記事で議論した通り、階級問題が現代政治におけるタブートピックとなったのは、まさにかつて繁栄していたアメリカ人労働者階級が破壊された期間のことであった。政治に関する我々の集合的会話では、人種、ジェンダー、超富裕層について話すことができる。しかし、非常に重要な別の分断 - 給与を得る裕福な人々と、賃金を稼ぐ人々、給与階級から広範に支持された容易に特定可能な政策により、困窮と悲惨のうちに落とされた人々との分断 - について話しをすると、確実に叫び倒される。 (このような会話を、ドルイドが潜む周縁部で行うことによる利点としては、そんな叫び声がほとんど聞こえないことが挙げられる)

あまりに多数の自称過激派たちは、それゆえ、特権階級に従順に従い、富者たちが眉をひそめるようなリスクを取ることすらせず、彼らのテーブルから出るゴミの施しを乞うたのである。アメリカで本当の変革が発生するのは、ドナルド・トランプが既に学んでいる通り、国家政治とパブリックな言説からの賃金階級アメリカ人の要求、利益、視点の排除により、かつて強靭であった現状維持への信念が打ち砕かれ、政治的動員への準備が整ったということを他の人たちが学んだ時であろう。そのような変革は良い方向へ向かうとは限らない; もしもメインストリーム政党が、裕福な者だけが問題であるかのように行動し続けるならば、次に賃金階級を従える人物は、腕章と軍靴を好むかもしれない。ことによると、路肩爆弾やゲリラ紛争を好むかもしれない; いずれにせよ、変革は起こるだろう。

同性婚権の運動は、ここでは巨大なアドバンテージを持っていた。その運動が実現を望んだ政策変更は、ボウリンググリーンやオマハの賃金階級の同性カップルにも、シアトルやボストンの給与階級の同性カップルのどちらにも利点があるものであったからだ。(ところで、ボウリンググリーンやオマハに賃金階級の同性カップルなど存在しないと考えるのであれば、もっと外へ眼を向けるべきだ。) それが運動に巨大な支持を与え、裁判所の判決が出なかったとしても、個々の州での投票を集め始め、更なる勝利を収めたのである。

それでは、人為的気候変動への反対運動は? 運動に関わった人であれば、読者諸君、ここで列挙した4つの悪い習慣すべてに苦しめられていたことにお気づきだろうと思う - お望みであれば、我らが時代における急進主義の黙示録的失敗の四騎士と呼んでも良い。気候変動運動は、抱き合わせの利益を求める集団により、コアとなる目標から逸らされてしまった; それは、民主党の選挙区に囚われてしまった; それは、純度政治の悪いケースに苦しめられており、そこでは (私が以前指摘した点を挙げるなら) 大量の余剰を節約することなしに、化石燃料を代替する再生可能資源の能力に疑問を持つ人間は、否定論者として非難される; それは、常に特権者へ迎合し続け、貧しい労働者の犠牲のもとに裕福な人々に利益をもたらす政策を追求している。これらの悪い習慣が、先の気候変動運動の死亡記事で列挙した具体的な間違いを助長し、そしてその運動を敗北へと導いた。

その失敗は必然ではなく、また将来の気候変動運動が同じ間違いを何度も何度も繰り返す必要もない。今後の記事では、将来の運動が、大気を下水口であるかのように扱うことを止め、今日の我々の愚行によるエコロジカルな影響を緩和するために何をすべきかを描き出したいと思う。私の具体的な提案は試験的なものとなるだろうが、けれども同性婚権キャンペーンの成功から得られる教訓はそこに含まれるだろう-そして、我らが時代の他の社会変革運動の度々の失敗から得られた、同様に重要な教訓も。

*1:訳注:米国の石油会社。日本ではエッソのブランドで知られる。

翻訳:ポストリベラル時代の到来 (ジョン・マイケル・グリア)

この記事は2016年9月28日に書かれた。ジョン・マイケル・グリアによる2016年ドナルド・トランプ当選予測に関するエッセイはこちら

The Coming of the Postliberal Era

現代のできごとを学ぶ人誰もが直面している巨大な挑戦は、現時点での混乱を乗り越えて、より広いスケールでものごとを形作る深層のトレンドを捉えることである。たとえるならば、潮汐表の助けを借りず浜辺に立ち、潮が満ちているのか引いているのかを当てるようなものだ。波は寄せては砕け、海へと流れ返る; 風はあちらへ、こちらへと吹く; 長い時間が経ち、微妙な細部に細心の注意を払ってようやく、海が次第に浜辺へと迫っているのか、それともそこから引きつつあるのかを確信できるだろう。

過去1年程度の間、けれども、アメリカ政治の巨大潮流の一つが変化して海へと返りつつあることが、私には次第に明らかになってきた。ほぼ正確に200年程度の間、この国の政治的言説は、アメリカン・リベラリズムとでも呼びうる緩く連合した思想、利害、価値観によって形成されてきた - おそらく、それ以外のいかなる単一の力よりも強力に。それが現在変化しつつある潮流である。私の考えでは、我らが時代の政治的展望を形作る最重要トレンドは、リベラル運動の最終的滅亡への転落と、現在既に生じつつあるポストリベラル政治の最初の胎動である。

アメリカン・リベラリズムが何であったか、どう変化したか、そしてその余波の中で何が起こるのかを理解するためには、歴史は不可欠のリソースである。ある政治イデオロギーの信奉者に、自身のイデオロギーを定義するようにお願いしてみれば、出来あいの定義を得られるだろう; そのイデオロギーの反対者に同じことをするようにお願いしてみれば、まったく別のものが得られるだろう - またどちらも、その他のより広いロジック以上に、瞬間瞬間の政治的要求によって変化していく。そのイデオロギーの誕生から青年期、成熟期と老年期への衰退までを辿ってみれば、実際に意味することをよりよく理解できるだろう。

それでは、アメリカン・リベラリズム運動の源泉に戻ってみよう。歴史家たちは長い間この運動の起源について議論してきたが、その最初の眼に見える急増は、1812年戦争 [英米戦争] 後数年に、沿岸北東部のいくつかの都市中心部に辿れる。ボストン - 19世紀アメリカにとってのサンフランシスコ - は、新生運動の震源地であり、新しい共和国全体から集った野心ある知識人たちの生み出した新たな社会思想が煮えたぎる大釜であった。1960年代の素朴で沸騰する理想主義が何か新しいものであると考えている読者は、ナサニエル・ホーソーンの『ブリットデール・ロマンス』を読む必要がある; それは19世紀初等のマサチューセッツカウンターカルチャーの集合であり、ほとんどの活動は共同体 コミューン で行なわれた。それが、アメリカン・リベラリズムが誕生した背景である。

最初期から、アメリカン・リベラリズムは教育あるエリートの運動であった。それは圧政に踏み付けられた下層民を鼓舞するため感動的に語られたのだが、下層民自身はその運動の中では活発な役割を許可されていなかった。またそれは、プロテスタントと密接に関わっていた。ちょうど、1960年代の運動がアジアの宗教と関わっていたのと同じように; 会衆派とユニテリアン教会の牧師たちは、初期の頃から運動の中心的な役割を果たしてきており、運動の主要団体 - 反奴隷協会、禁酒同盟、非抵抗同盟、そして最初の影響力のあるアメリカ平和主義団体 - などは教会と密接な同盟を組んでおり、そのスタッフや支持者は聖職者であった。エリート主義とプロテスタントキリスト教の起源が、後で見るように、続く2世紀のアメリカン・リベラリズムの発展のあり方に強い影響を与えた。

3つの大きな社会問題が、新たな運動が合体する枠組みを形成した。1つ目は奴隷制度の廃止; 2つ目はアルコールの禁止; 3つ目は、女性の法的な地位の向上であった。(最後の目標が、両性の法的・社会的な平等という究極的な形を取るまでには、長く複雑な道を辿った。) それ以外にも多数の問題があり、それは運動から独自のシェアの注目を集めた - 食生活の改革、衣服の改革、平和主義、など - しかし、これらすべてが共通のテーマを共有していた: 価値観の表現としての政治の再定義である。

最後のフレーズを解説してみよう。政治とは、当時、そして人類史のほとんどの期間にわたって、直接的に利害に関する問題であると理解されてきた - 最もあからさまに言えば、誰がどのような利益を得て、誰がどのような費用を支払ったのかである。当時そして続く1世紀の大半の期間、たとえば、大統領選挙のたびに起こったことは、勝者の党が連邦政府の職をひとまとめにして支持者へと配分することであった。それは「猟官制」[spoils system] と呼ばれていた。ちょうど、「勝者は戦利品 [spoils] を得る」と同じような意味で; 人々が、誰かしらの大統領候補者の選挙キャンペーンに集ったのは、第一に快適な連邦政府の職を得られることを期待していたからだ。誰もこの制度が悪いものだとは考えていなかった。なぜならば、政治とは利害についてのものだったからだ。

同様に、奴隷は5分の3の人間であると定義した悪名高い憲法の条項について、憲法制定会議の参加者の誰かが倫理的な面で苦悩したという根拠はない。彼らは倫理的な問題についてまったく思いも至らなかったのではないかと思う、なぜなら、政治とは倫理その他の価値観の表現ではないからだ - 利害についてのものである - 問題は、各邦が自身の利害が議会で十分に代表されるだろうと感じられる妥協点を見つけることだけだったからだ。価値観とは、当時の考え方では、教会と個人の内心のみに属すものであった; 政治は、純粋に単純に利害についてのものであった。

(ここでしばらく一時停止して標準的な反応に応えておくべきだろう: 「イエス、しかし彼らはもっと良く考えるべきだったのだ!」 これは自時代中心主義 クロノセントリズム の典型例である。自民族中心主義が、特定の民族集団の信念、価値観や関心を特権視するように、クロノセントリズムは、特定の時代の信念、価値観や関心を特権視するものである。クロノセントリズムは、今日では、政治・文化的シーンのあらゆる側面において非常に一般的である; たとえば、科学者が、中世の人々は占星術を信じるよりももっとよく知るべきだったと述べるとき、あるいはクリスチャンが旧来の異教徒たちは多神教的な宗教を信じるよりももっとよく知るべきだったと述べるときに見られる。あらゆる場合において、それは過去を理解するという困難なタスクを避けるための試みの一つでしかない)

新生のアメリカン・リベラリズムは、けれども、政治と価値観の分断を拒否した。彼らが奴隷制度に反対したのは、たとえば、工業化した北部諸州と南部のプランテーション経済の間の経済的利害の不一致とは何も関係がない。すべては、奴隷制は道徳的な誤りであるという真剣な信念に関連している。アルコール、女性への市民的権利を否定する法律、戦争などへの反対、その他運動が反対したことの長いリストに掲載されたあらゆることが、道徳的価値観についての問題であり、利害についての問題ではない。そこには運動のプロテスタント伝統の影響が見られるだろう: 教会から価値観を取り上げ、そして世界全体にそれらを適用しようとした。当時、プロテスタントはかなりエキゾチックな思想であり、たった今言及した道徳的十字軍は、1960年代の色とりどりのファンタジーと同じく、当時政治的な牽引力を得たのである。

どちらの運動も、戦争の影響により完全な失敗を免れた。1960年代の運動は、大衆文化からの影響力の大部分をベトナム戦争への反対から得ていた。戦争が終了し、法案が廃止されたとき、ほぼ跡形もなく運動が消滅したのはそれが理由である。初期の運動は、戦争が起こるまでしばらく待たなければならず、その間、4年前にニューエイジ運動を死のスパイラルに追いやったのと同じ種類の黙示録的なファンタジー [2012年のマヤ歴の終焉にまつわる終末論を指す] を野放しにしたことによってほぼ完璧に自己破壊した。1830年代には、完璧な社会が望んだほどには早く出現しないことに不満を抱き、大多数の新リベラル運動の支持者たちは、ニューイングランドの農民で聖書からキリスト再臨の正しい日付を導出したと信じるウィリアム・ミラーの預言を受け入れた。2012年12月21日と同じく、1844年10月22日は何事もなく過ぎ去り、結果として「大失望」は運動へのボディーブローとなった。

その時までに、けれども、アメリカン・リベラルによって推進された道徳的十字軍運動の一つは、素の経済的利害によって有能な支持者を引き付けていた。北部と南部諸州の奴隷制をめぐる疑問は、当時は主に倫理的問題であるとは見なされていなかった; 他のあらゆる政治問題と同様に、それは競合する利害の問題であったのだが、その過程において北部の政治家とメディアは即座に奴隷廃止論者の道徳的なレトリックを活用した。問題であったのは、国家の経済的な未来像であったのだ。アメリカは、輸出用原材料を生産する農業国に留まって、イギリスを中心としたグローバル経済に完全に統合される - すなわち、南部モデルを取るべきか? あるいは、独自の道を進み、グローバル経済に対する貿易障壁を上げ、独自の産業と国内消費向けの農業経済を発展させる - すなわち、北部モデルを取るべきか?

そのような問題は、即時の実際的な含意を持っていた。というのは、どちらかのモデルとって好ましい政府政策は、もう一方の破滅を意味したからである。奴隷制は南部モデルの要であった。南部プランテーションでは、利益を上げるためにほぼ無償の膨大な労働力を必要としたためである。けれども、北部と南部の政治家たちの間での議会闘争の詳細な議事録を読んでみれば、それと同じくらい議論されていた問題は、貿易政策と連邦支出に関する議題であったと分かるだろう。[原材料の輸出によって利益を上げる] 南部に有利な自由貿易政策を取るべきか? あるいは、[国内の工業を保護したい] 北部に有利な関税障壁政策を取るべきか? 連邦予算は、運河と道路に支出するべきか? それは原材料の工場への輸送と製品の市場への流通を容易にし、北部に利益をもたらす。しかし、それは南部の利益とは無関係である。単に、河船で綿花とタバコを近隣の港に運べばよいだけなのだから。

新たに認可された州で奴隷制経済を認めるべきかをめぐる更に苦い闘争も、当時の政治では圧倒的な経済的背景を持っていた。北部は、西部準州を家族農場のパッチワークに変え、東海岸沿岸都市と五大湖周辺のブルジョア的な都市向けの農産品を作らせ、また北部の工場からの工業製品の市場へと変えたいと望んでいた; 南部は、同じテリトリーでプランテーション農業を行い、イギリスおよび世界市場への輸出品を作りたいと望んでいた。

既に述べた通り、倫理的側面が北部のプロパガンダの中心となり、それが利益と同様に価値観も政治的言説に存在するというリベラルな信念を広げるのに役立った。1860年までに、その信念はメーソン=ディクソン線 [奴隷州と自由州を分ける線] の南側にすら広まっていった。たとえば、南部連合の[非公式]国歌、『ボニー・ブルー・フラッグ』の歌い出しの歌詞は、作詞当初の時点では「誠実な労苦により勝ち取った財産のために戦う」であった - そして、誰も自分のアイデンティティ、肌の色、当の財産についての幻想を持っている人はいなかった。けれども、すぐに歌詞は書き換えられた 「我らの自由のために、財と血と労苦をもって戦う」 そのような変化が起こったとき、既に南部は敗北していた; 経済的利益の観点から奴隷制を擁護することは完全に可能ではある、しかし、ひとたび争いの焦点が自由などの価値観に移ったら、奴隷制は擁護不能となる。

それで南北戦争が勃発し、南部連合は興亡し、北部の経済モデルがその後ほぼ1世紀にわたりアメリカの経済政策を導き、リベラル運動も再び歩を進めた。奴隷制の廃止により、他の2つの主要目標が中心的な段階を占め、アルコール禁止と女性参政権獲得の闘争もほぼ足並みを揃えて進行した。米国でのアルコール製造と販売を禁止する修正第18条と、女性参政権を付与した修正第19条は、それぞれ1919年と1920年に可決された。禁酒法が完全な失敗と判明した後でさえ、同じレトリックは薬物へと向けられ (ほとんどは1930年代までアメリカでは合法だった)、それは今日まで公共政策を形作り続けている。そして、大恐慌が訪れ、1932年のフランクリン・ルーズベルトの選出 - そして特に、共和党が2つの州しか獲得できなかった1936年の地すべり的な大勝により - リベラル運動はアメリカの政治生活を統べる力となった。

勝利また勝利が続いた。労働組合の合法化、税金により支えられた社会保障制度の創設、南部への人種差別撤廃命令: これらを含めた膨大なリベラルな改革が着実に続いた。注目すべきことは、これらすべてのアチーブメントが達成されたのは、リベラル運動が両サイドの反対者と戦っている間のことだったということだ。右側には、もちろん、旧来の保守派が残っており、彼ら自身の重要な利害のために戦っていた。しかし、1930年以降、リベラル派は更に左側からの絶え間ない挑戦にも直面しなければならなかった。アメリカン・リベラリズムは、既に伸べた通り、教育あるエリートの運動であった; その運動の焦点は、下層民を包摂することではなく、下層民を助けることにあった; そして、下層民自身が自分自身の思想を持つようになり、それが必ずしもリベラル派が彼らに望むことと一致しなくなると、そのアプローチはますますトラブルを引き起こしていった。

1970年代から、今度は、アメリカン・リベラリズムは第三の挑戦に相対するようになった - 新たな形の保守主義であり、それはリベラリズムの価値観中心の言葉を借用したのだが、自身の大義を支持させるための別種の価値観を使用していた: 保守的なプロテスタントキリスト教の価値観である。ある意味では、「家族価値」を語るいわゆる「新保守主義」は、政治的言説の中心に価値観を据えるための長きにわたる闘争の、最終的かつ皮肉な勝利を表している。1980年代までには、パブリックな領域のいかなる党派の人であれ、その言動がどれほど粗野で打算ずくであろうとも、何らかのふさわしい抽象的価値観を掲げることを求められるまでになった; 誰も利害については語らない。たとえ、利害が明白な問題となっているときでさえ。

そこで、リベラル派が批判を受けた際の典型的な反応は、リベラルな政策に反対する唯一の理由は批判者が憎悪に満ちた価値観を抱いているからだと主張することである。

ここでは現在のアメリカの移民政策を例として取ろう。合法的な移民を制限する一方で、非合法の移民を暗黙のうちに許容する政策である。そのような政策が適正であるかを問うことには、確固たる実際的な理由が存在する。今日のアメリカの恒久失業者数は歴史上最高であり、人口の下位80%の収入と生活水準は、1970年代以来定常的に下降している。連邦の税制は雇用オフショアリングに実質的に補助金を与えている。そのような状況において、何百万という違法移民、実際上、何らの法的権利を持たず、搾取工場 スウェットショップ で不当に低い条件で雇用される違法移民を許可することは、既に低下した賃金を更に低下させるのみであり、賃金階級のアメリカ人を更に悲惨と貧困のうちに陥れるだろう。

これらは正当な問題であり、アメリカ人労働者階級の福利に対する、真剣な人道的懸念を扱うものである。そしてこれらの問題は人種問題とは何の関係もない - 移民がカナダから来ていたとして同程度の問題となっただろう。それでも、現代のアメリカン・リベラルの耳にこれらの問題は届かないだろう。それをしたとすれば、あなたは叫び倒され人種差別主義者としての告発を受けることになる。なぜか? リベラル運動のリーダーシップを引き出し、リベラル運動全体の方向性を定める豊かな階級が、大量の違法移民によって部分的に引き起こされた賃金の崩壊から、直接に利益を受けているからであると考えている。それは、賃金の低下は彼らが購入する商品とサービス価格の低下をもたらし、また彼らが働く企業、彼らが所有する株式の利益の向上をもたらすからである。

言わば、その歴史において、政治は利害と共に価値観も重視すべきだと主張して開始した運動であったが、その運動は価値観に関する議論を用いて自己利益追求に対する議論を封じるものへと変貌した。それは長期間有効な戦略ではない。というのは、反対者がその問題を特定し、レトリックと現実のギャップを攻撃するまでに長い時間を要しないからである。

この種の皮肉は、政治史においてはまったくの異常事態ではない。何らかの理想主義的な抽象原則の名のもとに現状維持 スタトゥス・クォ への異議申し立て運動として開始したものの、ひとたびそれが現状維持の地位を占めると他者の理想を締め出すような運動は、驚くべきほど一般的である。いずれにせよ、アメリカン・リベラリズムは、その理想を最も長期間保ち続け、多大なることを成し遂げてきた。我々のほとんどは、 - 私のような穏健なバーキアン保守主義者でさえ - 奴隷制や女性の市民権否定などの明白な不正義を終わらせたこと、また利害のみならず価値観も公的領域での議論に値するという考えを支持したことについて、リベラル運動に感謝しているだろうと思う。リベラル運動が、あらゆる成功した政治運動の究極的運命である衰退へと沈み込んでいくにつれて、現代版の帽子を掲げてしばしの沈黙を捧げる行為に値するだろう。

現在のアメリカ大統領選挙は、おそらく他の何よりも増して、リベラル運動の衰退がどれほど進んでいるかを示している。ヒラリー・クリントのキャンペーンがドナルド・トランプの挑戦に直面して当惑している理由は、彼女の選挙運動のレトリックにおけるリベラル派の 陳腐な言葉 シボレス を未だ信じているアメリカ人があまりにも少なくなったためにそれが意味を成していないからである。クリントンの支持者の間でさえ、熱意を見つけることは難しく、彼女の選挙集会の参加者は恥ずかしいほどにまばらである。ただ人種差別主義者、ファシストその他の "嘆かわしい人々" のみがトランプを支持しているという、ますます狂乱した主張は、本当の信者以外には誰も納得させられず、お飾りの価値観の背後にある利害を隠蔽する工作は、ますますあからさまになっている。未だクリントンは何らかの手段で選挙に勝てるかもしれないが、アメリカ政治世界のより広い潮流は、明らかに向きを変えている。

もっと正確に言うこともできる。バーニー・サンダースドナルド・トランプは、クリントンとは正反対に、有権者からの非常に情熱的な反応を引き出した。それは、2人が瀕死のリベラリズムのレトリックによって充満された現状維持に替わるものを提供したからである。同様に、イギリスでは、 - リベラル運動がやや異なる軌跡をたどって同じ場所に行きついたのだが - EU脱退キャンペーンの成功と、以前は党首当選は不可能だと考えられていたジェレミー・コービンに対する労働党員の支持への強い熱意は、同じプロセスが進行中であることを示している。裕福なエリート専属イデオロギーと化したリベラリズムは、下層民の忠誠心を喪失した。かつては、明らかにさまざまな動機が混同されていたのだが、下層民を助けることを目的としていたのであるが。その喪失により、リベラリズムが今後生き残ることはほとんどありえないだろう。

今後数十年にわたって、言い換えれば、アメリカ、イギリス、そしてほぼ確実に他国でも同様に、ポストリベラル政治が登場すると予期できる。短期的な政治情勢はきわめて推測が容易である。共和党の職業的政治家たちがヒラリー・クリントンの旗の下に集ったことを見てほしい。自由貿易の延長、中東へのアメリカの介入、その他彼らの利害を維持する超党派コンセンサスを要求する富裕層の党の誕生が見えるだろう。バーニー・サンダースドナルド・トランプ支持の轟音を聞いてほしい - または、それよりも良いのは、この11月にトランプへ投票するであろう、決して少なくない数のサンダース支持者と話してみてほしい - エリートとは非常に異なる利害を守るために、エリートのコンセンサスの破棄を求めるポピュリスト政党の出現を感じられるだろう。

それらの政党の名前が何であるかは、未だまったく分からない。そして、それ以外にも数多くのやるべきことがあるだろ。いずれにせよ、その道のりは荒いものとあるはずだ。

翻訳:ベルサイユ宮殿の鏡の間の外で (ジョン・マイケル・グリア)

この記事は2016年6月29日に書かれた。ジョン・マイケル・グリアによる2016年ドナルド・トランプ当選予測に関するエッセイはこちら

Outside the Hall of Mirrors

先週のイギリスのEU離脱をめぐる投票の結果、インターネットとマスメディアのさまざまな場所で憤慨した絶叫と大騒ぎが始まった。親EU派の予想外の敗北は、けれども、重要な教訓を提供しており、それはイギリスに住む私の読者のみに限られない。ブレグジット国民投票の裏にある根本的な問題は、現在他の多くの国々でも大きな現実となっており、今年のアメリカ合衆国大統領選挙においても重要な - おそらく決定的な - 役割を果たすことだろう。

もちろんそのような結果となった理由の一部は、残留キャンペーンの非常に印象的なまでの無能さに帰せられなければならない。政治運動の最初のルールは、何かがうまく行かなくなったら、別のことを試してみる時だというものだが、しかし親EU派の誰もこのことを思い付かなかったと見える。キャンペーンの最初から最後まで、親EU派の口から発せられたほぼ唯一の一貫した主張は、イギリスがEUを脱退したら恐しいことが起こるぞという脅しであった。選挙の数週間前には、その結果、"ブレグジット発癌性あり、専門家が警告" といったニセのニュースヘッドラインが、インターネットユーモアの共通の話題になっていた。

それだけでも十分に悪いことだったが - 政治キャンペーンの中心的テーマが笑いものになるのは、何か間違ったことをしているからだ - しかし、それ以外の点でも、親EU派の全員が見逃していたポイントがある。もうすぐ元首相となるデビッド・キャメロンは、イギリスがEUを脱退した場合、国民保険サービスおよびその他の一般イギリス人に利益をもたらすプログラムにおいて厳しい予算削減が行なわれるという主張にキャンペーンの大部分を費した。ここでの問題点は、もちろん、キャメロン政権は既に国民保険サービスおよびその他の一般イギリス人に利益をもたらすプログラムにおいて厳しい予算削減を課してきたということであり、また同じことを更に行なうというあらゆる兆候を示していた - 「ブレグジットをすれば、いずれにせよ我々がしていることを続ける」 という言葉は、どういうわけか、見たところキャメロンが予期していた影響力を発揮できなかったようである。

より一般的には、残留派の支持者は、イギリスがEUに残留し続けるポジティブな理由を、既に自分たちと同じ立場を取っているのではない人々に提示できなかった。その代わりに、彼らは単に「何らかの思考力のある人」であれば残留に投票するもので、それに同意しない人々は外国人嫌いなナチス支持者のバカであると主張した。敗北後の彼らの行動もだいたい同じで、EU脱退に投票した52%のイギリス人はすべてファシストの偏屈者であるという怒りに満ちた声明と、脱退に投票した人も本当に脱退する意図はなかったのかもしれないので、どうか投票をもう一度やり直してくださいという哀れなお願いの間を揺れ動いている。

投票前も投票後も、EU残留派の主張に完全に欠けていたことは、イギリスのEU加盟の継続に関する疑問には、合理的な意見の不一致がある実質的な問題が存在するかもしれないという何らかの感覚である。お前たちの不安は間違っていると言い、異議申し立てに対して子供じみた悪口での中傷をしたとしても、彼らが投票を変えるように説得されないことは明白なはずであった。これが親EU派の人々には明白でなかったということ、そして敗北に直面してさえ明白に理解される兆候がないということは、当の問題は親EU派の人々が絶対に議論してほしくない問題であることを示唆している。

これがまさに起こっていたことであると思う。そして、過去1世紀程度のイギリス政治史を一瞥すれば、叫び声の裏にある語られぬ現実を理解するのに役立つかもしれない。

100年前、イギリス政治界は2つの政党に支配されていた: 保守党 (またはトーリー党) と自由党である。両方とも、富者によって運営された富者のための政党であった。19世紀にわたって、一連の選挙改革法により多数のイギリス男性が選挙へと参加するようになった - イギリス人女性は、2つの段階で選挙に参加した。1918年には30歳以上の裕福な女性が、1929年にはすべての女性が投票を認められた - すぐに両党は、貧しい人々の前に無意味な恩恵をぶら下げて、彼らが言うところの善のために投票させる方法を学習した。

労働党の先駆けとなった独立労働運動 [ILM] の躍進は、このような政治的駆け引きへの見事な反撃であった。裕福な少数派の利益のために誘導されることを許すのではなく、ILMと後の労働党は、労働者と貧者の利害をアジェンダの最上位に置き、富者のテーブルから出たゴミに抱き込まれることを拒否したのである。1945年、その直接的な結果として、自由党は影響力をほぼ失い、労働党はイギリス政治における二大政党のうちの一つとなった。

アメリカと同様イギリスでも、前世紀の最後の四半世紀に振り子は逆側へと動き始めた。1978年の総選挙でのマーガレット・サッチャーの勝利は、アメリカでの1980年のロナルド・レーガンの勝利と同じ役割を果たした。新しい、より攻撃的な保守主義が、階級闘争についての左派のレトリックを取り上げてそれを著しく反転させ、貧者に対する富者の反乱の時代の先駆けとなった。その後、トニー・ブレアの下で労働党は、ビル・クリントンの下での民主党と同じ方法によりそのシフトに対応した: すなわち、どちらの党も労働者と貧困者に対する以前のコミットメントを密かに取り下げ、その代わり裕福なリベラル派へアピールする問題に焦点を合わせたのだ。彼らは、労働者階級と貧困者が、習慣により、また間違った忠誠心により投票を続けることに賭けたのだ - 短期的には、その賭けは報われた。

その結果、両国の政治的環境では、労働者と貧者の犠牲のもとに富者に利益をもたらす政策のみが唯一の議論対象である政策となった。この点は、あまりにも頻繁に、あまりにも多くの空想的な形で歪められてきたため、おそらくここで詳細に説明しておく必要があるだろう。不動産価格の上昇は、たとえば、不動産を所有する者に利益を与える。彼らの資産を増加させるからだ。その一方で、家を借りる必要がある人々には、損を与える。収入のより多くを家賃として支払わなければならないからだ。同様に、障害者向けの社会保障給付の削減は、そのような給付金に頼って生存する人々の犠牲のもとに、税金を支払う人々に利益をもたらす。

同様に、既に何百万人もの人々が恒久的に失業している国へ無制限の移民を奨励する政策、工場の雇用のオフショアリングを推奨し、残された減り続ける仕事に対する競争を強いる政策は、あらゆる人々の犠牲のもとに富者に利益を与えるものであった。他のあらゆるものと同じく、労働にも需要と供給の法則が働く: 労働者の供給を増やし、労働力への需要を減らせば、賃金は低下する。裕福な人々はここから利益を得た。彼らが望むサービスの価格が低下したからだ。しかし、貧しい労働者と失業者は害を受けた。受け取る賃金が減少したが、さもなければまったく仕事を見つけられないからだ。このような直接的なロジックを偽装するために、移民は経済全体に利益をもたらすという主張が標準的に使われてきた。しかし、誰が大部分の利益を得たのか、そして誰がほとんどの費用を支払ったのか? 過去30年以上の間、イギリスでもアメリカでも公的領域にいる人々が誰も議論してほしくないと思っていたのはこれだ。

このような富者の富者による富者のための政府にまつわる問題は、何年も前に、アーノルド・トインビーによる記念碑的な著書『歴史の研究』のなかで妥協なく詳細まで記されている。没落中の社会は、トインビーの指摘によれば、同等ではない2つの部分へと分裂していく: 政治制度とその利益を独占する支配的少数者と、既存の秩序維持のための費用の大部分を支払いながら、その利益へのアクセスを拒否された内的プロレタリアートである。分裂が進んでいくと、支配的少数者は政治の根本的法則を見失う -大衆がリーダーへの忠誠心を持ち続けるのは、ただリーダーが大衆への忠誠心を持ち続けるときのみである- そして、内的プロレタリアートは支配的少数者のリーダーシップのみならず、その価値観と理想をも拒否することで反応する。

結果として生じる[支配者と大衆の] 断絶を表す永続的なシンボルは、ベルサイユ宮殿の有名な鏡の間である、そこではフランス革命直前の最後のフランス王3名が、自身の輝かしい姿を見つめるために、次第に不穏で貧困になっていく国から身を隠した場所である。マリー・アントワネットは、彼女に帰せられた有名なセリフ - 「ケーキを食べればいいじゃない」- とは口にしなかっただろうが、そのような発言が示唆する鏡の間の外側の世界のリアリティについての無知は、フランスが廃墟へと向かい、一般のフランス人男女の多数が名目上のリーダーに背を向け、新たなオプションを探す間に、確実に存在していたであろう。

それが過去数十年にイギリスで起きたことであり、過去数回の選挙はそれを示している。2010年の総選挙では、有権者はそれまで泡沫政党であった自由民主党に群がり、世論調査員と専門家たちを驚かせた。それは変化に対する明白な要求であった。もしも自由民主党が自身の立場を譲らなければ、数年のうちに労働党の代替となりえたかもしれないが、しかし自由民主党は理想を換金し、トーリー党との連立政権を形成した。直接的な結果として、2015年の総選挙では、自由民主党は再び泡沫政党へと追い返された。

けれども、2015年の選挙は更に重要な結果をもたらした。不安なほどに勢力を伸ばした別の泡沫政党、イギリス独立党 (UKIP) を叩くため、トーリー党首相のデイビッド・キャメロンは、もし自党が勝利したら、イギリスはEU脱退を問う国民投票を行なうと公約したのである。世論調査によれば、議会は再び保守党、自由民主党労働党の間で3つに分裂するだろうと予測されていた。世論調査員と専門家たちは再び驚かされた; 労働党ないし自由民主党に投票すると言われていた人々が、投票ブースの中では密かに地元のトーリーに投票を行なったのだ。なぜ? 木曜日の投票が示す通り、まさに彼らはEUに対してノーと言う機会を望んでいたのである。

早回しでブレグジットキャンペーンへと進もう。今日のイギリスの礼儀正しい社会では、既存の人々にすら十分な雇用、住居、社会保障を与えられないほどの過密状態の島へ、更に無制限に移民を許可することで起こる巨大な問題を指摘しようとする試みは、人種差別であるとして無視される。ゆえに、大多数のブリトン人 - その多くは名目上の労働党支持者 - が、パブリックな場では承認されたスローガンを口にするものの、プライベートでは "脱退" に投票したことは何ら驚くべきことではない - そして再び、世論調査員と専門家たちは驚かされた。それが、支配的少数者と内的プロレタリアートの間の分裂による欠陥である; ひとたび、裕福で特権的なサークル外部の人々のニーズへの対処に失敗して、支配的少数者が大衆の忠誠心を失うようになったら、社会の機能に必要な相互信頼を面従腹背が代替してしまう。

EUは、次に、労働者階級と貧困者の間の不満を抱いた有権者たちの完璧なターゲットとなった。なぜならば、EUは完全に、トニー・ブレア後の労働党ビル・クリントンの後の民主党のような、同様の富裕層によるコンセンサスの産物であったからだ。EUの経済政策は、上から下まで、サッチャーレーガンにより力を授けられたネオリベラル的経済学に率いられていた; 無制限の移民と資本移動への確固たる支持は、賃金を低下させ、イギリスのような国々から雇用を取り去ることを意図していた; その補助金は必然的に大企業と裕福な企業のポケットへ収まり、その規制による負担は中小企業と地域経済にとって最も思い負担となる。

これに気付くことは何も難しくはない - 実際のところ、気付かないようにするほうが努力を要する。イギリスメディアの最新のニュースで、ブレグジットの結果を嘆いている人々の話を聞いてみるといい。その話し手が奪われると心配していることは、ほとんどが裕福な者にのみ関係のある多くの特権のリストであることがわかるだろう。ごく少数の変わり者を除いては、EU脱退に賛成した人々は普通、語ることはない。彼らは、苦い経験を通して、お決まりの人種差別などの告発によって叫び倒されるだろうと学習したからである。けれども、もしも彼らが話そう望んだとしたら、あまりに多数の裕福な人々があまりにも明白に軽蔑する一般労働者階級の人々に課せられた大量の負担のリストを耳にできるのではないかと思う。

おそらくここで、もちろん、"脱退" に投票した人のなかには人種差別主義者や外国人嫌いがいるであろうことに注意しなればならない。同様に、"残留" に投票した人のなかには死んだ豚と性交した人々もいるだろう - イギリスの読者は、少なくとも一人の名前を挙げられるだろうと確信している *1 - しかし、それは "残留" に投票した人すべてが死んだ豚と性交したことを意味するわけではない。また、もっと重要なことは、それは死体性愛の性癖が "残留" に投票した唯一のありえる理由であることを証明するものでもない。ヘイトスピーチのよくある定義は、「侮辱的で軽蔑的なステレオタイプを、あるグループのメンバー全員を表現するために使用すること」であるとされる。この定義によれば、"脱退" に投票した人々全員を偏見に満ちたバカであると呼ぶことは、ヘイトスピーチであると言える - そして、通常の場合いち速くヘイトスピーチを非難する人々が、この場合は心の底からヘイトスピーチを楽しんでいる様子を見るのは、皮肉な喜びの源泉である。

けれども、もう少し深く見てみよう。確かに、実際、貧しい労働者階級のブリトン人で外国人移民に強烈な偏見的態度を抱いている人々もかなりの数存在する。なぜか? 大部分の理由は、裕福な人々が、何十年にもわたって、人種的な寛容を、何百万人というイギリス労働者階級の人々を貧困と悲惨のうちに陥れた無制限の移民政策と同義としてきたからである。同様にして、大多数の貧困者と労働者階級のブリトン人は、環境問題をそれほどに考慮することはできなかった。大部分の理由は、環境問題についての議論の論点は、裕福な人々のライフスタイルは決してオープンな議論の対象とならず、また環境保護のコストは社会の階梯を下る一方で、その利益は上に流れるようになっていたからである。トインビーが指摘する通り、社会が支配的少数派と内的プロレタリアートに分裂すると、大衆は、支配者のリーダーシップのみならず、支配者自らが述べる善の価値と理念をも拒否する。かなりの場合において、それらの価値と理念のなかには本当に重要なものも存在するのだが、しかしそれらがあまりにも何度も何度も特権者の政策を正当化するために使われると、大衆はもはや考慮しなくなる。

多数派は問題ではなく、この国は有権者がどう考えようともEUに留まらなければならないと主張するブリトン人は、明らかに先の木曜の選挙の結果が持つ意味を熟考していないようだ。政党への忠誠心は現在とても流動的であり、ブレグジット国民投票に賛成した52%のイギリス人有権者たちは、ほとんど躊躇なく、特権的少数派に対する同等の軽蔑をもって、UKIPを下院多数派としてナイジェル・ファラージダウニング街10番地 [首相官邸] へと送るかもしれない。もしもイギリスのエスタブリッシュメントが、労働者階級と貧困者にUKIPへの投票だけが自身の声を聞かせられる唯一の方法であると思い込ませてしまったら、それが起こるであろう。結局のところ、何も失うものを持たない人々を敵に回すのは、極めて愚かな行いである。

その一方で、非常によく似た反乱がアメリカ合衆国でも進行中であり、ドナルド・トランプがその恩恵を受けている。私が以前の記事で述べた通り、トランプの泡沫候補から共和党指名候補への劇的な進歩は、完全に、先に説明した裕福な人々のコンセンサスに反対の立場に自らを置いていることによって焚き付けられている。あらゆる許容された候補が、過去30年間のネオリベラルな経済政策とネオコンサバティブな政策 - 豊かな人々への贅沢な施し、貧しい人々への懲罰的な厳格さ、国内インフラの悪意ある無視と海外での軍事的対決の偏執狂敵な追求 - を支持していた一方で、トランプはそれらを壊し、専門家と政治家たちがより声高に彼をコキ下すほど、トランプはより多数の州で勝利し支持率は上昇している。

この時点において、トランプは賢明な行動を取っており、好機を待ち、一般投票に備え、時おり観測気球を挙げてヒラリー・クリントンに対する攻撃がどのように受け取られるかを確認している。共和党のライバルを叩きのめしたそのような全面戦争が、9月の初めごろにも開始されるのではないかと予期している。ヒラリー・クリントンは、そのような突撃に立ち向かうために適切な位置取りをしていない。それは、単に第三世界の泥棒政治においても異常なほどド派手であると見なされる規模の腐敗の告発の中で踏み止まっているからというだけではなく、また単に彼女の国務長官としてのキャリアが、そこから彼女が何ら学びを得ていない外交的災害の連鎖のために注目に値するからでもない。ヒラリー・クリントンのほとんどの経済、政治、軍事政策が、ドナルド・トランプの右側に位置しており、ジョージ・W・ブッシュ - ご存知の通り、しばらく前に民主党員が嫌悪すると主張していた男 - とほとんど区別のできない立場を提唱しているからですらない。

ノー、この11月にきわめて高い確率でトランプを勝利せしめる理由は、クリントンが自分自身に現状維持の候補者としての役割を割り当てたことにある。彼女が取ったあらゆる立場は、イギリスと同様にアメリカでも、あらゆる人々を犠牲にして豊かな人々に利益をもたらしてきた政策の継続追求に対応する。彼女の配偶者が大統領であったとき、また両方の党が、どちらがうまく満足した人々を満足させられ、既に苦しんでいる人を苦しめられるかを競争していたときには、それは安全な選択であった。トランプが現代アメリカ政治のルールブックを投げ捨て、30年以上も貧乏くじを引かされてきた人々に対して、実際に生活を向上させうる政策の変化を提供している現在では、それは安全な選択ではない。

ここで当然、それは政治家、専門家、また裕福な人々のコンセンサスについての公式認定された思想家たちが、語りたいと望むことではない。それゆえ、イギリスのEU脱退賛成派であるマジョリティに対して使われたのと同じ陰鬱なレトリックが、トランプ支持者に対しても使われている。「人種差別主義者」、「ファシスト」、「愚か者」。

これらの言葉が現在飛び交っている情熱は過小評価すべきではない。古い友人は、私がクリントンに対する熱意の欠如を口にしたところ、話の途中で電話を切ってしまった; それ以来友人とは話をしていないし、今後も話をするのかも分からない。私が知る他の人々も、今日の一般常識が許容するよりもより微妙な観点から次の選挙を議論しようとしたところ、似たような経験をしたという。アメリカの公的生活で、最も強力で最も言及不能な力 - 階級的偏見 - は、結果として生じる絶叫合戦を蔓延させている。クリントンの側に付くことは、特権者、「善い人々」、鏡の間で自身の姿に見惚れる裕福な人々のサークルと自分自身を同一視することである。トランプについて、安っぽい悪ガキじみた侮辱以外の言葉で語ること、あるいは、トランプの支持者が人種差別や単なる愚かさ以外の懸念によって動機付けられているのかもしれないと示唆することさえもが、下層民たちが集い初めている門の外へ出し抜けに投げ出されることに等しい。

鏡の間を前後にパレードする人々には、門の外には中よりも多くの人がいるなどということは思いも至らないようだ。不都合な視点を叫び倒すこと、また何かを考えることを止めさせるために侮辱の言葉を投げかけることは、既に同じ考えを持っているのではない人々を納得させるための効果的な方法ではないということにも気が付いていないようだ。もしかすると、ブレグジット投票の結果は、アメリカのお喋り階級を昏睡から目覚めさせ、彼らの望む政策によって傷付けられた人々が、ついに、他の政策は考えられないという主張への忍耐を失ったということを気付かされるかもしれない。けれども、私はそれを疑っている。

鏡の間の外では、空は暗く鳥は巣に帰っている。中にはもうロンドンの屋根に落ち着いた鳥もいる。鳥たちの多くはヨーロッパ諸国の首都の上に浮んでおり、それよりも多くがワシントンDCの大理石の円屋根と切妻壁の上を飛び交っている。鳥たちが止まれば、その影響は世界を揺さぶるだろう。

After Progress: Reason and Religion at the End of the Industrial Age (English Edition)

After Progress: Reason and Religion at the End of the Industrial Age (English Edition)

*1:訳注: デイビッド・キャメロンの政敵により、オクスフォード大学在学中、学生団体のイニシエーションとして、死んだ豚の頭部に「身体の一部」を挿入したと暴露された。ただし、確たる根拠がある話ではない。

翻訳:バーキアン保守主義に関する解説 (ジョン・マイケル・グリア)

この記事は2016年5月11日に書かれた。ジョン・マイケル・グリアによる2016年ドナルド・トランプ当選予測に関するエッセイはこちら

A Few Notes on Burkean Conservatism

最近何度か、このブログ上で現代のアメリカ政治の異常事態について議論しているとき、私は自分自身の政治哲学的な立場を表明する機会があった。それはかなりの混乱と興味を起こしたようだ。なぜならば、私が口にした用語 - 「穏健なバーキアン保守主義」は、今日の集合的言説で許容された政治的意見の狭い範囲に位置づけられないからだ。

もちろん、ここで少なからぬ混乱を引き起した原因は、「保守」という言葉がかつての意味を失なっているからだ。すなわち、何かを本当に "守り保つ" ことを望む人である。今日のアメリカでは、実際に何かを守り保ちたいと思う保守派は、実際に解放リベレート したいと思うリベラル派と同じく稀である。古い時代にかつて大きな意味を持っていた言葉は、現在ではそこから意味を吸い取られてしまっている。両側のエスタブリッシュメント政党が等しく参加した、泥棒政治的な強奪合戦をカモフラージュするために。

言葉の意味を復活させることはリスキーな提案であるかもしれない。大多数のアメリカ人は、漠然とした種々の感情が結び付けられた恣意的なノイズによって、平静を失ってしまうからだ。それは現代アメリカの生活の大部分で、冷静な思考の代用品として通用している。

けれども、そのリスクを取ることには価値があると思う。賢明なる保守主義 -つまりは、守り保つに値するものを発見し、そしてそれを実際に守り保つための行動をすること- は、アメリカ合衆国が終末の危機にある民主主義という既知の軌道を加速していく間に、未来へ向けた実行可能な戦略を提供する数少ない選択肢であるからだ。

それでは、私が上で述べた言葉のなかで最も馴染みのない部分から始めよう「バーキアン」。これはアングロ=アイリッシュの文筆家、哲学者、そして政治家であるエドムンド・バーク (1729-1797) を指している。一般的には、英米保守主義の伝統の創始者であると見なされている。非常に面白いのは、バーク自身は今日のアメリカで「保守」とラベル付けされるような人物ではなかったということだ。たとえば、彼自身は英国国教会の信徒であったものの、カトリック信仰の自由の権利を擁護した。これは当時極めて不人気な立場であった - 今日のアメリカで言えば、悪魔主義者の権利を擁護することとだいたい等しい - また、バークは自身の屋敷をイギリス旅行中のヒンズー教徒のグループに使わせた。別の場所では、彼らは自身の宗教的祭日を祝うことを拒否されたのだ。

またバークはアメリカ植民地の率直な擁護者であり、英政府の収奪的かつ懲罰的な貿易政策への救済を求めるアメリカ植民地を支持した。そして、あらゆる平和的な選択肢が潰え、植民地が反乱を起こした際にも支持を続けたのである。それでも、この男こそが、生涯の終わりへ向かう間に「フランス革命への省察」の筆を取ったのだ。それはフランス革命を痛烈な言葉で批判するもので、アングロ=アメリカの保守主義の歴史においては、現代の急進的左派の歴史においての「共産党宣言」とほぼ同じ地位を占めている。

これは、ところで、バーキアン保守主義者が、マルクス主義者がマルクスを引用するように、あるいは客観主義者がアイン・ランドを引用するようなやり方で、バークの著作を引用すると意味するわけではない。他の人類と同じく、バークも強さと弱さの、原則と実践の混合物であり、彼の時代と場所の政治文化は今日のほとんどの人が疑わしいと見なす行動を許容していた。バークが実際に何を言ったのかを知りたい読者諸君は、「フランス革命への省察」をオンラインで、あるいは、ちゃんとした古本屋であればどこでも発見できるだろう; ad hominem論法すなわち人身攻撃論法に取り組みたいと考える人は、何であれバークの伝記を読めば大量の材料を発見できるだろう。ここで私が提案したいことは、少し異なる - バークのコアとなるアイデアを取り上げ、読者の多数がすぐに認識できる枠組みの中でそれらを提示することだ。

バーキアン保守主義の根本には、人間は自分で考えているより半分も賢明ではないという認識がある。この認識による1つの含意としては、複雑な政治と歴史のリアリティを、人間が理解できるくらい単純な一連の抽象的原則へと還元可能であると主張されるとき、それは間違いであるということだ。別の含意は、歴史的経験の中から自然的に形成された統治制度ではなく、抽象的な原則をベースとした統治制度を人間が作り上げようとするとき、その結果はかなり確実に悲惨なものとなるということだ。

これらが意味するのは、代わって、社会の変化は必ずしも良いものではないということだ。ある変化は、その意図がどれほど良いものであったとしても、それが解決するはずだった問題よりも悪い帰結を生み出す場合がある。実際のところ、社会的変化があまりにもずさんなやり方で追求されたならば、その帰結は、制御不能が連鎖し、破綻状態へと国を追いやり、それを暴君の手に委ね、あるいはそれと同じくらいに望ましくない結果をもたらすことがある。更には、将来の改革者たちの視線がはっきりと抽象的な原則に固定されていればいるほど、また彼らが歴史の教訓に注意を払わないほど、一般的にその結果は破滅的なものとなるだろう。

それが、バークの考えでは、フランス革命の誤った点であった。彼の思考は、[王族や貴族の特権を擁護した] 大陸ヨーロッパの保守主義者とは大きく異なっていた。彼には、独裁的で無能な統治機構の変化を求めるフランスの人々の権利に反対する理由がなかったからである。フランス人が進まんとしていた道 - 既存の統治機構を根こそぎに破壊し、それを流行の抽象的原則に基づいた新しく輝やかしい制度で置き換えること- こそが問題なのだ。これが問題であるのは、単純に機能しなかったからである。自由、平等、博愛の理想の共和国を設立するはずであったが、国民議会によって推し進められたフルリフォームはフランスを混乱に陥れ、狂信的殺人者の集団へと国家を手渡し、次に偏執的自己愛者エゴマニア の戦争狂、その名はナポレオン・ボナパルト、の手に渡したのだ。

抽象的なベースを持つ2つの間違った考えが、フランス革命の崩壊を促し、混乱、大虐殺、暴君と全ヨーロッパ戦争へとフランスを追いやった。最初の誤った考えとは、人間の本性は完全に社会的な秩序の産物であるという確信であった。その思想がフランス革命を導いた哲学者フィロゾフ たちの間では、ほぼ普遍的な考えであった。この信念によれば、人々が天使のように振る舞わない唯一の理由は、人々が不公正な社会に住んでいるからだ。ひとたびそれが公正な社会に取り替えられたならば、あらゆる人々がフィロゾフたちの主張する道徳観念に従って振る舞うようになるだろう。このような信念を抱いていたために、国民議会は、輝かしい最新のシステムを、たとえば権勢欲や党派的な憎悪といった旧来の悪徳から保護する措置を講じなかったのである。その結果は、パリの街路での流血事態であった。

二つ目の間違った考えも、最初のものと同様の効果をもたらした。これもフィロゾフたちの間でほぼ普遍的であったのだが、歴史は必然的に彼らが望む方向へと進んでいくという確信であった: 迷信から理性へ、専制から自由へ、特権から平等へ、などなど。この信念によれば、革命が自由、平等、博愛をもたらすためにすべきことは、旧来の秩序を取り除くことだけであった - そうすれば、ご覧あれヴォワラ - 自由、平等、博愛が自動的に出現するのである。ここでもまた、ものごとはそのようには進まなかった。フィロゾフたちが歴史は未来の黄金時代へと向けて進み続けると主張し、大陸ヨーロッパの保守派は反対に歴史は過去の黄金時代から下降を続けていると主張したのだが、バークの論文は - そして歴史の根拠も - 歴史はいかなる方向性も持たないことを示唆している。

ある社会に存在する法律と制度は、バークが示すところによれば、その社会の歴史と経験を通して有機的に成長してきたものであり、その中には数多くの実践的な英知が埋め込まれている。そのような社会制度には、世界改革者の抽象的ファンタジーにはない一つの特徴がある、つまり、実際に機能すると証明されていることだ。ゆえに、法と制度の変更提案は、最初に、そのような変化の必要性を示すことから始める必要がある; 次に、そのような変更提案が解決すると主張している問題が、実際に解決されるということを示す必要がある; 3番目に、変更による利益はその費用を上回るということを示す必要がある。非常に多くの場合、これらの質問に回答していくと、既存の制度に関するいかなる問題を解決する場合であれ、最善の方法は、機能しているものが機能し続けられるように、可能な限り混乱を引き起こさないようにする選択肢であることが分かる。

つまり、バーキアン保守主義とは、単に予防原則の政治分野への適用として要約できる。

予防原則とは? 何かをする以前に、それが被害よりも利益をもたらすと理解する必要があるという常識的なルールだ。現代の工業世界ではそうではない。我々は生物圏に農薬を、大気に二酸化炭素を撒き散らし、不十分にしかテストされていない薬品を身体へ投入している。その後で、何か悪い結果が起きてから初めてその原因は何かと考え始める。それはものごとを行う方法としては完璧にバカげており、現代工業世界を廃墟へと引き倒しつつある予防可能なカタストロフィは、このような習慣からの直接的な帰結である。

その背後には、代わって、上述の間違った考えのうちの一つが存在する - 歴史は必然的に進歩の方向へと進むという概念である。イエス、それは進歩の神話だ。歴史は永遠に前へ上へと行進を続けるという、奇妙であるが恥ずべきほどに蔓延した概念である。それゆえ、何か新しいものはただ単に新しいからという理由で優れているとされる。またそれが、我々の文明は一体どこへ向かっているのか、正気の人間であればそんな未来へ行くことを望むだろうかという明白な疑問を考えることを、あまりに多数の人から遠ざけているものだ。このことは、過去の本ブログの多数の記事、また私の本『After Progress』の中でも議論した; ここでそれらに言及したのは、現在説明している私の政治的立場と、これまで私がいろいろな場所で議論してきた他のアイデアが関連しているということを示すためである。

穏健なバーキアン保守主義が実際にどのように働くのかについては、実例を通して説明したほうが簡単だろう。これを念頭に置いて、同性婚の権利を擁護するための完璧に保守的な主張 - もともとの、バーキアン的な言葉の意味においての「保守的」である、もちろん - を提示することにより、あらゆる人を怒らせてみたいと思う。

けれども、ここで最初にしばらく一時停止して、「権利」という言葉について語らなければならない。一時停止が必要であるのは、アメリカ人が「権利」という言葉を聞くと、脳が融けてドロドロの水たまりになってしまうからだ。今日では、何らかの概念空間のなかを飛ぶ無数の抽象的な権利が存在し、それらの権利はすべて絶対的で議論の余地がないものであると想定されている。そこで、「私は○○の権利を持つ!」と宣言しさえすれば、直ちにみんながそれを与えてくれるものとされる。もちろん、全員がそれに同意するわけではない。そこで、次のステップは、最近のアメリカの政治的非会話の大部分を占めるようになった、金切り声の絶叫合戦である。そこでは、権利Xの支持者と権利Yの支持者が、お互いが主張する権利を剥奪するため大声で非難し合うのである。

あなたが信仰心の篤い人で、神または神々から人間が従うべき一連のルールが授けられたと教える宗教を信じているのであれば、おそらくこのように話すことには意味があるかもしれない。なぜならば、当の神または神々の心のなかにそのような権利が存在すると信じているからだ。もしもあなたが信心深くないのであれば、そしてそのような他人が認識できない権利を持っていると主張するのであれば、次のような疑問に答えてみると面白いかもしれない: どのような形で、想定されたその権利が存在しているのか? どのようにしてあなたはその権利を「持って」いるのか?

これらあらゆる混乱が生じている原因は、そのような権利がそれ自体何らかの抽象的な存在を持つと主張しようとしていることにある。バーキアン保守主義の観点から言えば、これは完全なるナンセンスである。権利とは、バーキアンの立場からは、何らかの行動を許可するコミュニティのメンバー間の合意である。権利とはそのようなものであり、それがすべてだ。投票の権利が存在するのは、たとえば、ある国の人々が、政治的制度を通した行動を、特定の人々の集団に - たとえば、すべての成人市民 - に授与しているからだ。

もしもあなたが何らかの権利を持っておらず、そしてあなたはその権利を持つべきであると信じているならば、それは何だろうか? それは「意見を持っている」と呼ばれる。意見を持つことは何も間違っていないが、それは権利を授与するわけではない。あなたが当然持っているべきだと考える権利を得たいのであれば、あなたの仕事は、自身のコミュニティにそれを与えてくれるように説得することである。完璧な世界であれば、即座に、誤りのない方法で権利が確立されることには疑いがない。しかし、我々は完璧な世界に住んでいない。我々の住んでいる世界においては、パブリックな議論に裏付けされた、代議制民主主義と司法審査という低速で不器用なツールが、このようなタスクを遂行するために我々が生み出した方法のなかでは最も容易には悪用されにくいオプションなのだ。(注意してほしい、これは制度が悪用されないということを意味するものではない; 実際には、神権政治軍事独裁ほどには悪用されやすくないということを意味する)

それを念頭に置いて、同性婚の権利についての議論に進もう。最初に問うべき質問は、そもそも政府はこのような問題に関わるべきなのかということである。これはささいな質問ではない。立法だけがすべての問題に対する解決策なのだという考えは、回避可能であったはずの厄災を多数生み出してきた。この場合には、けれども、同性カップルの結婚を妨げているのは政府の規制によるものである。そのような規制を変えるためには政府の行動が必要とされる。

2つ目に問うべき質問は、政府が既存の状況に対して、何らかの切迫した利害 [compelling interest] を保持しているのかどうかである。歴史が示す通り、政府が人々のプライベートな生活に干渉することは極めてリスキーな行為である。一方で、それが必要とされることもあるかもしれないが、その場合には政府の干渉を正当化する切迫した利害が存在しなければならない - たとえば、児童虐待を禁じる法律の場合、切迫した利害とは、子供を暴力から保護することである。法的に責任能力のある、同意した成人同士の婚姻の決定において、そのような政府の干渉を正当化する切迫した利害は存在しない; 付け加えるなら、「ウワー、おぞましい!」[という感情または声] は切迫した利害であるとは見なされない。

3つ目に問うべき質問は、変化によって影響を受ける人々がその変化を実際に望んでいるのかどうかである。これもささいな質問ではない; 歴史には壮大なプロジェクトで溢れており、それらは何らかの人々のグループを援助する意図があったのだが、「援助」されるはずであった人々から拒否され、悲惨な結果をもたらしたものもある。この場合、けれども、結婚を望んでいながらできていない同性カップルは多数存在していた。提案された変更は、義務的なものではなく許可的なものであることに注意してほしい - つまりは、同性カップルは結婚することもできるし、結婚しないままに留まることもできる。一般的な指針として、許可的な規則は、義務的な規則に求められるレベルの配慮を必要としない。

4つ目に問うべき質問は、その変化によって誰かが害を受けるのかどうかである。ここで心に留めておくべき重要なことは、「害を受ける」とは「気分を害される」ことを意味するのではないということだ; あるいは、この場合でいえば、他人に対してあなたの望む通りの行動を取らせられないことにより、あなたが害を受けるわけではない。自由 リバティ についての永遠の難題は、他の人々はあなたの気に入らないような方法で自由を使うことは避けられないということだ。我々はその不自由に耐えなければならない、なぜならば、それが我々が自由であることの代償であるからだ。誰かが変更によって被害を受けるという主張は、ゆえに特定の、具体的な、測定可能な被害を示さなければいけない。この場合においては、その基準には当たらない。強烈な憤慨バットハート に対する名誉勲章パープルハーツ は存在しないのだ。

5番目に問うべき質問は、変更の提案が、完全に新規の権利なのか、既存の権利の大幅な拡大であるのか、それとも現状ではそれまで権利を持っていなかった人々への既存の権利の拡大のいずれなのかである。完全に新しい権利の創設は、リスキーな作業となりうる。というのは、既存の権利や制度とどのように相互作用するかを、事前に把握することが困難であるからだ。既存の権利の大幅な拡大はそれよりも危険ではないが、しかしそれでも注意して進める必要がある。現状ではそれまで権利を持っていなかった人々へ既存の権利を拡大することは、反対に、最も安全な変更となる傾向がある。それは結果がどうなるかを把握することが容易である - すべきことは、制限された適用範囲の中でどのような効果を持っているかを確認することだけである。この場合には、既存の権利を同性カップルに拡大することである、同性カップルは既存の法のもとで結婚した [異性] カップルと同等の権利と義務を持つことになる。

問題となっている権利が、現状ではそれまで権利を持っていなかった人々へ既存の権利を拡大することであるという前提のもとで、6番目の質問は、その権利はこれまでにも拡大されてきたのかどうかである。この場合、答えはイエスだ。異人種間の結婚は、かつてアメリカの多数の州で非合法であった。異人種間カップルへの結婚の権利拡大が議論されるようになると、同性婚への反対と同じ主張が使われた。しかし、それらすべての議論は、実際上は、誰かが気分を害されるということにすぎなかった。異人種間の結婚は合法化され、異なる人種のカップルの多数が結婚したけれども、反対派によって想像されていたような恐るべき事態はまったく起こらなかった。

つまり、要約すれば、他の人々が既に保持する権利を許可してほしいと望む人々の集団がいる。そのような権利の付与への反対する人々は、実際の危害を示しておらず、政府がそのような権利を付与することを妨げる切迫した利害は存在しない。同様の権利は過去にも拡大されてきたが、何ら悪い結果をもたらさなかったし、既存の婚姻法の文言に非常にシンプルな変更を加えればその権利を与えられる。これらの状況においては、権利の付与を拒否するよりも許可する理由がはるかに多く、それゆえ権利は許可されるべきである。

このような遠回りな賛成意見と反対意見の追加に腹を立てる人も間違いなくいるだろうと思う。正義、平等その他の壮大な抽象原則への確固たる肯定はどこへ行ったのか? もちろん、それがポイントだ。現実の世界においては、壮大な抽象原則は大して役に立たない。 自由リバティ に価値を置く社会においては - 注意してほしい。これは壮大な抽象原則としての自由ではなく、他者の確立された権利を侵害しない限りにおいて、人々は望むことを何でもできるという相互の合意としての自由である - 問題になるのは、誰かが不平への救済を求めたとき、そのような権利侵害を起こすことなく救済策を実現できるか否かである。上記の質問、また代議制民主主義と司法審査の制度は、これらを確実にするために存在する。それらの制度はいつもうまく行くのだろうか? もちろんそうではない; それらは単に他のどの制度よりもわずかに良い仕事をする。現実の世界では、その理由だけで十分なのだ。

そのような権利に反対する宗教的コミュニティはどうするだろうか? (ここで、政治的スペクトラムの右側にいる読者を怒らせることから、反対側の読者を怒らせるためにシフトチェンジしよう)

保守的なキリスト教徒の集団は、今日のアメリカでは宗教的なマイノリティである。そして、アメリカの法律と習慣のなかで十分に確立された規則によれば、他の人々の合意された権利を侵害することなく対応可能である場合には、合理的な配慮がなされるべきである。それはユダヤ教徒に対して、アメリカの食料品店での豚肉販売を禁止する権利を与えるものではないのと同様、保守的なキリスト教徒に対して、他の人々を保守的キリスト教の教えに従わせる権利を与えるものではない。それは、ユダヤ教徒のデリカッセンで豚肉の販売を強制されるべきではないのと同じく、保守的キリスト教徒が、罪深いとみなす活動への参加を強制されないことを意味する。

通常の場合、一般の人々にサービスを提供する企業は、適切に一般の人々にサービスを提供することが求められ、誰にサービスするかしないかを選り好みするべきではない。しかし、ここにも有効な例外があり、宗教はそのうちの一つである。私が聞いたところによると、ニューヨーク州では、正統派ユダヤ教徒の企業は、敷地内ではユダヤ教の戒律が適用されると示す看板の掲示を法的に許可されており、これは他の企業を支配する特定の法律を免除するという; したがって、たとえば、髪を隠さずにそのような店に入った女性はサービスを受けられない。保守的キリスト教徒の結婚式を行なう企業に対する合理的配慮としては、宗教的な戒律により認可された種類の結婚式にのみサービスを提供するという注意書きの看板を掲示できるようにすることが挙げられるだろう。それにより、同性愛カップルはどこか別の場所で企業を探せるようになる; またそれは同性婚の権利を支持する人々にどの企業をボイコットすればよいかを知らせ、同時に保守的キリスト教徒には支持するべき宗教的な同胞を知らせるだろう。

再び、保守的キリスト教徒の企業はそんな権利を持つべきではないと主張するために、いくつもの輝かしい抽象概念を振りかざすこともできるだろう。しかし、ここでも再び、我々は抽象概念を扱っているわけではない。少なくとも理論上は、自由に価値を置く社会において、互いに異なる信念の間で合理的な配慮を見つける必要性を扱っているのである。宗教的マイノリティが個人所有ビジネスの敷地内で信念を実践したことにより、誰かしらが傷つけられると主張するためには、再び、特定の、確実な、測定可能な被害を示す必要がある。気分を害されることはここでは理由にはならないし、他人に対してあるべきと思う行動を強制する力を否定されたことから来る苦痛が何であれ、問題にはならない。

読者諸君はお気付きかもしれないが、ここでアウトラインを示した取り決めのもとでは、同性婚の議論において、誰も自分の望むことすべてを手に入れられない。この記事で私が提案した他のことと同じくらいに不快であるかもしれないが、しかし、それがバーキアン保守主義の基礎、広く言って民主政治の基礎なのである。乱雑な、荒々しい現実政治の世界では、誰も自分が望むことすべてを手に入れられない - たとえ、どれほど声高にその権利を持っていると言い立てたとしても - 最大でも、議論のどちらの側も獲得できると予期できるのは、それぞれが最も必要としていることだけである。それは、アメリカが近年陥っているような永久的分極化の中でフリーズするのではなく、社会が機能するための一種の解決策である。またそれは、我々の目の前に迫り来る危機の時代を通して、代議制民主主義の何らかの姿を保存できるかもしれない解決策でもある。

(後略。原文には、前週に実施された『The Archdruid Report』の10周年記念企画についてのお礼と小説出版の告知があるが、訳出にあたっては省略した)

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翻訳:政治的愚かさの原因としての科学教育 (ジョン・マイケル・グリア)

この記事は2016年7月13日に書かれた。ジョン・マイケル・グリアによる2016年ドナルド・トランプ当選予測に関するエッセイはこちら

Scientific Education as a Cause of Political Stupidity

このブログ 『The Archdruid Report』の連載記事のテーマとして我々は教育について議論しているのだが、ここで考慮しなければならない教育の利点と欠点を指摘しておく必要がある。日常生活の雑事には絶望的なまでに無能な、抽象的思考で頭が満たされた学識者は、数世紀もの間文学作品のなかで笑い者になってきた。その理由は、そのような人々の実例があらゆる時代で容易に発見できるからというだけではない。

とは言うものの、ある種の教育ではよりはっきりと欠陥に焦点が当てられている。たとえば、エンジニアは、他のほとんどの専門職以上に、頭のイカれた文芸作品へ多大な貢献をなしてきた。地球空洞説、古代宇宙飛行士の妄想、プラトンが実際に述べた場所以外のほぼあらゆる場所に失われたアトランティス大陸が存在すると主張する論文 - まぁ、いくらでも続けられるだろう; エンジニアたちは、そのような分野でのド派手な作品を、印象的なほどの量で執筆してきた。無為な若年時代、私は空想的なエンターテインメントの源としてそのような本を収集していた。著者は何らかのエンジニアだと本のカバーに記されているのを見ると、私は楽しみな気分になったものだった。

シアトルで、ボーイングを退職したエンジニアが経営するマイクロフィルム会社に勤めて何年か過ごすまで、私はそれを面白い偶然の一致であると考えていた。彼はまた熱心な根本主義者クリスチャンで、"若い地球説"を信奉する創造論*1であった; 彼はかなりの量の創造論の文献を書いていたが、私が聞いた限りでは、それらの原稿のどれも手刷りのコピー以外で出版されたことはないようだった - そして、すべては極めて限定されたロジックを示していた: 地球は、神により紀元前4004年10月23日の朝9:00に創造されたと仮定すると、今日地球上で発見される物体はどのようにして説明されるだろうか?

言うなれば、彼はそれをエンジニアリング上の問題であるかのように扱ったのだ。

エンジニアたちは、機能するものを発見するように訓練される。ある問題が与えられると、エンジニアは解決策を見つけるまでその問題に取り組み続ける - それが彼らの仕事なのだ。そして、エンジニアリングの専門職には長い歴史があり、教育方法を洗練させる機会は十分にあった。そこで、エンジニアリングの訓練は、問題から解決策を発見する方法を教えることにかけては優れた仕事をする。エンジニア教育が教えないことは、どのようにして問題を問うかである。そこで、別の事例を挙げるなら、エゼキエル書はUFO目撃を扱ったものであるという仮定からスタートして、UFOの外見はどのようなものであるべきか、動力は何であるか、などを印象的なまでのディテールで証明する書籍が得られる。「しかし、そもそもそれがUFO目撃を記したものだったということは、どうすれば分かるのだろうか?」という質問は問われることはない。

最近そんなことを考えたのは、異なる特有の盲目さが、また別の教育方法に固く結び付けられているように見えたからだ。今日では尊敬されており人気のある、科学教育である - つまり、ハードサイエンスの一分野の、理論と実践におけるテクニカルな教育である。そのような教育の欠陥として私が述べたいのは、政治についてバカになるということだ。大量の事例が思いつくので、後でその他の例も簡単にいくつか言及するつもりであるけれども、ここで最初に私が取り上げたいのは、単純な模範例である。もちろん、単純な思考でもあることは言うまでもない。最近、天文学者のニール・デグラス・タイソンによって提案されたものだ。全文を引用しよう。

地球は仮想国家を必要としている: 理性国、一行の憲法: あらゆる政策は根拠エビデンス の重みにもとづくべし - Neil deGrasse Tyson(@neiltyson)2016年6月29日

これは、Twitterの140文字制限による思考力低下の性質を表すまた別の一事例として無視できるかもしれない - 陶工potter陶器pot を作るのなら、Twitterは何を作るのだろうか? *2 - タイソンが述べていないこと、「これが憲法を裏付ける原則だ。詳細は以下の通り」- があるのかもしれないが、それが彼の提案した憲法の全体である。

より正確には、それは憲法に偽装したキャッチフレーズである。現実の憲法は、それを読んだ人であれば誰もが知っている通り、どのように意思決定がなされるべきかの抽象的なスローガンなどではない。誰が決定を下すのか、意思決定者はどのように選ばれるか、意思決定者が自身の地位を乱用しないよう、いかなるチェック・アンド・バランスの機構が存在するのか、などの細部を憲法は定めている。もし、たとえばドナルド・トランプが、「我々は、正しい解答を発見する方法のみからなる科学的方法論を必要としている。」とスピーチしたとしたら、科学の初歩についてすら知らないと嘲笑されるだろう。ここでも同様の反応が適切である。

言うなれば、タイソンの提案は政治について別次元の無知を示している。政治的決定はただ根拠のみにもとづいて決められるべしとの主張は素晴しく聞こえる。それを現実政治に適用するまでは。そして、現実へ一歩踏み出すと、根拠はほとんどの場合、政治的な決定とさほど関連を持たないということが理解できるだろう。

EU脱退に関する最近のイギリスの国民投票を検討してみよう。その決定は、根拠にもとづいて下すことはできなかった。なぜならば、どちらの側も、私の知る限りでは、事実について同意していたからである。それらの事実には、イギリスは (当時の) 欧州経済共同体 [European Economic Community] に1973年に加盟したということ、その加盟によりイギリスは特定の国家主権をEU官僚へと委任したこと、そして、EUの政策はイギリスの一部の人々に利益をもたらした一方で他の人々には不利益を与えたということなどが挙げられる。それら事実のいずれも問題ではなかった。問題であったポイントは、一方では価値観であり、もう一方では利害であった。

"価値観" という言葉で私が意図しているのは、何が重要で何が重要ではないか、何が望ましく何がそうではないか、何が許容でき何ができないかなどについての、個人ないし集団による判断である。これらは単なる根拠についての質問に還元できない。「国境を越えた人々の移動は善いことであり重要である」といった言説は、どれほどの二重盲検対照試験を行なっても証明も反証もできない。ある人は何かの価値観を持ち、別の人は持っていない。「国民の自己決定権は、ブリュッセル [EU本部] の非選挙官僚による侵害から保護されなければならない」という言説のように。それらの価値観は互いに衝突した。EU脱退投票で争われ決定されたことも、大部分がそういった価値観に関連していた。

"利害" という言葉で私が意図しているのは、費用コスト利益 ベネフィットの相対的な配分である。いかなる政治的決定であれ、本当にささいな問題を除いては、利益をもたらし費用を生じさせる。非常に多くの場合、利益を得る人々と費用を負担する人は同じではない。イギリスのEU加盟が好例である。大抵の場合、裕福な人々が大部分の利益を得た - 彼らは子弟をドイツの大学へ送り、休暇中にはスペインへ国境無しの旅行へ行くことができた - 一方で、貧しい労働者は大部分の費用を支払った - 彼らは溢れ返る移民と雇用を争わなければならず、一方で低賃金諸国への産業オフショアリングを奨励するEUの政策により雇用は減少した。

少なくとも私にとって、EU脱退の国民投票を魅力的にしたのは、あまりに多数の親EU派の富裕層が、選択は純粋に価値観の問題だと主張し、一方で、貧しい労働者の利害についてのいかなる議論であれ、純粋に人種差別主義と外国人嫌い - つまり、価値観 - に動機付けられていると主張していたことである。私が過去記事で何度も述べてきた通り、工業諸国の裕福な階級は、過去40年ほどの間、貧しい労働者をバスの下へと放り投げ、そしてその上で車輪を前後に走らせ、一方でそのようなことは何もしていないと声高に主張してきた。

賃金階級は、そして仕事を見つけられさえすれば賃金を稼ぐことのできる何百万人という人々は、もっとよく理解している。たとえば、ここアメリカでは、富裕層の反響室エコーチャンバー の外にいるほとんどの人は、40年前、1人の労働者階級の収入を持つ家族が、家、自動車、その他の生活必需品を買うことができたことを記憶している。一方今日では、1人の労働者階級の収入に頼る家族は、おそらく路上で暮らしている。あらゆる政治的決定はただ価値観によってのみ決められるべきだと主張し、利害についてのオープンな議論を封じることは、富裕層の一部にとっての共通戦略であった; ブレグジット国民投票の結果は、この戦略が消費期限に近づきつつあることを示す兆候の一つである。

現実の世界 - 政治が機能すべき世界 - では、真っ先に利害が来る。あなたが、あるいは私が、利益を得るのか被害を受けるのか、一連の政府政策によって豊かになるのか貧しくなるのか、これらが政治的リアリティの根底に存在する。根拠は一定の役割を持つ: イエス、この政策は、これらの人々に利益をもたらす; ノー、これら別の人々はそのような利益を共有していない - それらは事実に関する質問であるが、しかし、そのような質問に答えたとしてもより広い問題を解決することはできない。価値観もまた一定の役割を持つ、しかし、いかなる重要な政治的決定であれ、それに影響を与える価値観は常に競合している; 自由の追求は平等の追求と対立する。正義と慈悲は反対方向へと働く、など。

政治的決定を下すためには、問題に最も関連がある事実を発見するために、根拠を比較する必要がある - ここで、「関連がある」も価値判断であり、単なる事実についての問題ではないことに注意してほしい。関連のある根拠をフレームワークとして使い、競合する価値観の間で重み付けをする - これにも同様に価値判断が絡む - そして、競合する利害の間で重み付けを行い、対立する党派間でおおむね同意できる妥協案を探す。もしもそのような妥協案が発見できなければ、民主社会においては、それを投票にかけて多数派が言うことを実行する。これが政治が行なわれる方法である; 政治的方法論とでも呼べるかもしれない。

けれども、これは科学の方法ではない。科学的方法論は、自然に関するどの言説が誤りであるかを発見してそれを破棄する方法であり、その下には、自然に関する言説のうちで真実に可能な限り接近した仮説が残されるだろうという非合理ではない仮定がある。そのプロセスに妥協の余地はない。もしも読者がラヴォアジェであったとして、燃焼のしくみを発見しようとしているのならば、こちらには酸化の理論があり、あちらにはフロギストン理論があるのだから、燃焼の半分は酸化でもう半分はフロギストンであることに合意しよう、とは言えない; どちらか一方の説を反証する実験を行い、その評決を受け入れなければならない。科学では許容されない妥協は、けれども、有能な政治の中心に位置する。

科学においては、更には、利害は理論とまったく関係がない。 (実際は - まぁ、ちょっと関係がある。) 価値観についての決定は、査読などの慣習を通して個々の科学者から科学コミュニティへと伝達される。個々の研究分野では、それにより何が良く、何が関連があり、何を重要であるとみなすかという価値判断を定め、強制する。この慣習のポイントは、科学者たちが可能な限り純粋に根拠に注目できるようにすることであり、そこで価値観や利害からの影響なしで、事実は事実として知られうる。科学研究において、事実に関する質問から可能な限り価値観と利害を排除するという精神的な慣習こそが、現代科学を人類史の中での偉大な知的アチーブメントたらしめているものであり、それは古代ギリシア人による論理の発明にも匹敵する。

古代世界の巨大な知的危機としては、代わって、論理はあらゆる人間の問題に対する解決策ではないという発見であった。科学があらゆる人類の問題を解決可能であるという主張の擁護はますます困難になっているために、同様の危機が現代世界にも迫っている。そして、タイソンのような著名人による絶叫は、単に本当のトラブルが迫っているという根拠としてのみ捉えるべきではない。タイソン自身は、一流の天文学者でさえ、初等政治科学の講義で落第点を取ってしまうような初歩的な誤りを防ぐことができないことを明白に示している。彼は、科学教育の限界を示している唯一の例ですらない; リチャード・ドーキンスは完全に聡明な生物学者である、しかし、彼が宗教について口を開くときにはいつも、大学の2年生ですら恥ずかしいまでに未熟であると感じるほどの粗野な一般化と、驚愕すべき詭弁を使っているのだ。

そのような科学の慣習があってさえ、価値観と利害にかかわる問題について、根拠ではなく、純粋に科学の社会的権威にもとづいて決定されるべきだと科学者が要求することを止められなかった。このような態度は科学コミュニティでますます一般的になりつつある。ここで私が考えているのは、遺伝子組み換え米の試験と販売に反対するグリーンピースを攻撃するため、ノーベル賞受賞者が署名した怒りに満ちたオープンレターである。これは複雑な問題であるので、後で詳しく見ていこうと思うが、しかし、そのような複雑さはオープンレターに反映されていないことが分かるだろう。その主張はシンプルである; 我々は科学者だ、お前たちはそうではない。ゆえに、お前たちは黙って我々の言う通りにすべきである。

この主張を1ステップずつ分離してみよう。最初に、遺伝子組み換え米の試験と販売を許可または禁止するという決定は、本質的に、科学的ではなく政治的な問題である。科学研究は、上述の通り、価値観や利害への言及なしに事実を事実として扱う。「もしXをすれば、Yが起こるだろう。」 - これが科学的言説である。そして、科学的言説が十分な研究と再現可能な実験に裏付けられるならば、意思決定の枠組みとして有用である。意思決定は、けれども、価値観と利害という基盤から逃れられない。「Yは善いことだ、ゆえにあなたはXをすべきだ。」は、価値判断である。「Yは私にコストを課し、あなたに利益を与える。ゆえに、私がXに同意してほしいのであれば、あなたは私に何らかの補償を与えるべきだ。」は、利害についての言説である - そして、いかなる政治的決定であれ、価値観と利害を無視すると主張するものは、役に立たないか不誠実であるかのどちらかである。

そこには、遺伝子組み換え米を取り巻く、価値観と利害についての深刻な疑問が存在する。その品種の米は、ビタミンAを生成するよう遺伝子組換えされている。ビタミンAは他品種の米には含まれていない。そしてそれゆえに、ある種の失明を防ぐだろう - これが価値観の衝突の一側面である。別の面としては、第三世界でのほとんどの種籾は、前年の収穫から得られており、種の販売業者から購入されたものではない。そしてそれゆえ、GMO米のマーケティングは、巨大な多国籍企業が、地球上で最も貧しい人々のポケットからお金を吸い上げ、工業諸国の株主を更に富ませるための更なる手段を与えるだろう。第三世界の人々がビタミンAを摂取する方法は他にも多数存在する。しかし、ノーベル賞受賞者のオープンレターでその方法は議論されていないことが分かるだろう - もちろん、オープンレターに署名した科学者の誰も、GMO米の特許を購入するための募金キャンペーンを起こしてはいないし、国連にその資金を寄付してもいない。言わば、あまりにも貧しい第三世界の農民たちが、彼らの持っていない種へ支払うためのお金を費すことなく、そのような米から利益を受けられる方法を取っていないのだ。

これらがグリーンピースその他の人々が提起した問題であった。これに対する反応は、argumentum ad auctoritatemすなわち権威論証という論理的誤謬を直接的に示すものである - 「私はこの分野の権威なのであるから、私の言うことは正しい」 - これは誤ったロジックであり、それ以上に政治的な愚行である。あなたが言ったことが実際には誤りであると判明しない限りにおいて、何回かはそのトリックを使ってごまかせるかもしれない。体制的科学は、今日ではあまりに多くの誤りを犯してきているため、その権威に頼ることは難しくなりつつある。私は、これまでの記事で、体制的科学が壁の外側から自分がどう見られているかに気付かなくなっていることを指摘した。人間の食事、医学・薬学分野における研究からマーケティングへの直接的な変換、科学者たちが誇示する安全性と有効性への約束と、ますます危険で無意味になりつつある薬品、テクノロジー、そして政治的決定との間の拡大しつつある亀裂は、一般の人々の生活に重荷を課している。

これには多数の問題が存在する、しかし最も重要なのは政治的な問題である。人々は、所与の受け入れられた事実というフレームの中で、自身の価値観と自身が知覚した利害にもとづいて政治的決定を下す。事実の提示と解釈を仕事とする人々が、彼ら自身の公平性に対して疑問を投げかけるような振る舞いをするようになると、「受け入れられた事実」はもはや受け入れられなくなる。多くの科学者を雇用している巨大多国籍企業の利害のため、科学者たちが一般の人々の価値観と利害を無視するようになったら、科学者のいかなる発言であれ、一般の人々の犠牲のうえに自身の利益を得ようとする試みとして無視されるようになるのは時間の問題でしかない。

それが、私が信じるところでは、気候変動への反対運動、広く言って環境保護活動の失敗の拡大の背後にある主要な力の一つである。最近では、タイソンのような科学者が舞台の上に上がって発言しても、それを聞いたかなり多くの割合の人々は、「ワオ、私はそれを知らなかった!」というふうに考えて反応することはない。人々は、「誰が金を出して彼にそう言わせているのだろう?」と考えるようになっている。それは、完全に不当でないとしても十分に悪いことかもしれないが、しかし、科学の多くの分野において - 特に、先に述べた通り、医学と薬学分野では - 再現性の欠如した研究が増え、露骨な研究データ改竄が暴露され、最高の科学的権威が安全で有効だとお墨付きを与えた製品がまったく逆であると判明するに従って、そのような警告は必須となっている。

正統性の危機を気候変動活動の歴史に広げた要因があるが、共通する部分を見分けるのは難しくない。15年前、人為的な気候変動を止めるための運動は、巨大な力を持っていた; 今日では、それは空手形であり、国内政治ではリップサービスしか与えられないか、完全に無視されている。大きく宣伝されているものの、実際には誰も温暖化ガス排出削減を約束しない国際協定は、不条理劇と化した。気候変動活動家によるレトリックは、大部分が既に述べた政治的に役に立たない言葉と同じである - 「我々は科学者だ。お前たちはそうではない。ゆえに黙って言われた通りにすべきである。」 - 科学者たちは正しかったし、また人為的気候変動は今現在我々の周囲で制御不能に陥りつつあるものの、そのような言葉が人々を引きつけるよりも遠ざけ、ゆえに運動の失敗を確実としたという事実を変えるものではない。

もちろん、気候変動にはより広い問題が絡んでいた。そしてそれは今日一般に見られる。利害の問題である。具体的には、人為的な気候変動を防止するための費用は、誰が負担すると予期されていただろうか? あるいは、その費用を免除されていたのは誰であったか? それは、注目に値するような類いの疑問であるとは見えないかもしれない - 少なくとも、今日の政治的メインストリームにおいて受け入れられる言説ではない。次回はそれについて話そう。

*1:訳注: 聖書に書かれた通りの期間の間に、神が地球と生物を創造したと信じる立場。 若い地球説 - Wikipedia

*2:訳注: 「twit」を辞書で引いてください。

翻訳:タイタニック号のどのデッキチェアをお好みで、ご夫人? (ジョン・マイケル・グリア)

この記事は2016年4月27日に書かれた。ジョン・マイケル・グリアによる2016年ドナルド・トランプ当選予測に関するエッセイはこちら

Where On The Titanic Would You Like Your Deck Chair, Ma'am?

先週、私はとあるブログで人種差別主義者として非難され、また別のブログでは社会正義戦士ソーシャルジャスティスウォーリア として酷評されるという面白い経験を得た。私の定期的な読者はご存じの通り、そのようなお楽しみは、ほぼ10年前にこのブログ『The Archdruid Report』を開始して以来、珍しいものであったわけではない。あらゆる問題について、それを考える方法はただ2つしかないという奇妙な信念は、現代アメリカ社会にはびこっている; そのような思考の習慣と矛盾し、一般常識から外れて、第三の選択肢があるという提案をすると、両方のサイドから好ましくない立場に立っているとみなされる。

もしも今週の記事が似たような反応を引き起こすとしても、私は驚かない。過去1ヶ月以上、私はアメリカ社会におけるねじれた特権の光景について、また許容された政治的スペクトラムの両サイドに好まれるレトリックが、現代のアメリカ社会に存在する特権の複雑な実情を隠蔽する方法について語ってきた。私の読者のなかにも、けれども、政治関連のテーマがこのブログの中心的テーマである広範な問題といかなる関係を持っているのかを不思議に思っている方もいるかもしれない。つまり、現代工業社会が陥りつつあるますます厳しくなる未来、特にここアメリカ合衆国で形作られる未来の姿、そして、このような終末期においてなお可能な建設的な行動の可能性である。

この週の記事では、それらの流れを元に戻してまとめ始めることを提案したい。

特権によって決定づけられるのは、結局のところ、社会のメンバーの誰が、その社会の集合的意思決定に発言権を持つのかである。たとえば、2003年、ジョージ・W・ブッシュアメリカ軍にイラク国境を越えさせ、中東を現状のカオスに陥れたとき、その決断はすべてのアメリカ人によって平等になされたわけではなかった。ブッシュ政権のインナーサークルにいたイデオローグの小集団がその決断を下し、そしてその決断は大統領によって承認印を押された。この国の政治経済的ヒエラルキーの上層部に位置する権力中枢の集合体を代表する政治家たちの大きなサークルは、その行動を支持したかまたは反対しないと選択した。

その富と影響力により政治システムに声を届ける力を与えられた数百万人のアメリカ人は、代わって、その計画に従ったか、あるいはエスタブリッシュメントが安全に無視できると既に学んだ形式的な抗議を行い、自己満足した。残りのアメリカ人、言うまでもなく、ブッシュ政権内で金切り声を上げるマチズモが課す重荷をイラクその他の場所で担うことになった人々は、この問題に関して何らの発言権を持たなかった。

これは正常である。あらゆる人間社会は例外なく、意思決定に際して一部のメンバーにその他のメンバーよりも大きな発言権を与えている。人間とはこのようなものであり、あらゆる人間社会は例外なく、合理的には不公平とも呼べるやり方で意思決定の役割を配分している。それは他のあらゆる種類の社会的霊長類にも当てはまるので、これは我々の行動のレパートリーに、いわばセックスと同じくらい徹底的に結びついている。

先に、あらゆる問題について考える方法はただ2つしかないと主張するアメリカの一般的習慣について述べた。これはまた別の事例である。左派の一般常識は、一切の不平等が存在しない社会を作ることが可能であるというのみならず義務的であるというものだ。そのような社会では、今日の裕福なアメリカ人リベラル派が持っているのと同等の特権をあらゆる人が所持するとされる。右派の一般常識は、今存在する不平等は良く、正しく、適切であり、特権を持つ人々の実際の価値を反映しているというものである。両者とも間違っているが、しかし異なる形で間違っている。

左派の信念である完璧に平等な社会の可能性、誰もが他の誰かと同等の特権を持つ社会実現への信念は、古くからの起源を持つ。中世キリスト教の異端派は、完璧なる愛が社会の分断を消去し、誰もがあらゆる生命の祝福を自由に共有する社会というアイデアを描き出した; そういった人々は優れたセンスを持っていたので、ユートピアのビジョンをキリスト再臨の向こう側に置いた。そのような社会制度にまつわる実際上の問題点を、聖なる万能者が対処してくれると頼れる時期である。キリスト教の信仰が衰えると共に、ジャン=ジャック・ルソーのような啓蒙主義思想家は古いビジョンに新しい鍵を与えたのだが、けれども彼らは洞察力を欠いていたため、完全に平等な世界という夢想を人間の本性の危険なリアリティから保護するための実際的なバリアを見つけることができなかった。

その結果、あらゆる社会的特権を廃止し誰もが平等になったと主張する一連の諸社会が生まれた。いずれの場合にも、例外なく、実際に起こったことは、明白な特権システムが破壊されると、即座に隠密の特権システムがそれを代替することであった-そして、後者は隠密であるがゆえに、チェック・アンド・バランスの対象となりにくかった。フランス革命後のテロルからカンボジア殺戮の地平キリングフィールド に至るまで、完璧に平等なユートピア社会が極めて確実に血の河へと沈む理由はこれだ。アメリカの左派は、けれども、歴史の教訓を得ていないために、ひとたび左派の裕福な末端を越えると、ロベスピエールスターリンポルポトをドライブしたのと同じ種類のユートピア的ファンタジーが即座に生まれるだろう。彼らの運命は人類史における次の偉大なるステップであると大声で主張される。

アメリカ人左派の裕福な末端においては、対照的に、歴史への盲目性は異なった形を取る。特権的なリベラルの観点からは、今日のアメリカでみんなが平等ではない唯一の理由は、邪悪な主義者イスト の陰謀によるものだ-つまり、人種差別主義者レイシイスト性差別主義者セクシストファシストその他の人たちであり、純粋な邪悪なる悪意によりアメリカ社会の非特権的集団のすべてを抑圧する人々のせいである。これは、今月の別の記事で議論したレスキュー・ゲームのロジックである; 特権とは構造的で制度的なものであるという考え方、また彼らは生活のあらゆる面において、そのプロセスで積極的役割を持たずとも利益を得ているという考え方は、彼らが認識する世界の外にある。そのように言ったとしたら、左派の人々は邪悪なイストとして非難を受けているに違いないと誤解し、怒った叫び声を上げるだろう。「ノー、ノー、我々は善人だ!」

当然、現代アメリカの左派によって夢想されている完璧に平等な社会の夢という特定の形式には、それ以外にも巨大な問題がある。その種の夢想のほとんどのバージョンでは、特権を持った者を貧しい人々のレベルにまで引きずり下ろすというものであった; 現在のアメリカ版では、既に述べた通り、あらゆる人を裕福な人々のレベルまで引き上げるという夢が抱かれている。それは寛大なビジョンではあるが、かなり無知なビジョンでもある。なぜならば、裕福なアメリカ人の生活を今日の形にした特権、特典や贅沢品をそもそも可能ならしめたものは、第一には乱暴なまでに持続不可能な速度での代替不可能な天然資源の猛烈な消費であり、第二に、歪められたグローバル経済制度により、つい最近まで、地球上の人類の5%程度でしかないアメリカ合衆国居住者がグローバル経済の産物およそ3分の1を消費していたことである。

このブログでも、また私の本の何冊かでも、我々に馴染み深いアメリカの裕福な生活は持続不可能であると、私はかなり長く議論している。(短い形式では、ケネス・ボールディングによって印象的にまとめられている: 「指数関数的な成長が有限の世界で永遠に継続できると信じる者は、狂人かエコノミストかのどちらかであろう。」) あらゆる人にそのようなライフスタイルを与えるためのコスト係数は、ヒラマヤ山脈のごとき高さに上昇している。理解できる通り、裕福なアメリカ人リベラル派はこのようなことを聞きたいと思っていない。それでも、この種の事実はまるで猫のようなものである-固く無視すればするほど、ますます足首のまわりに絡みついてきて、膝の上に飛び乗ってくる。

現存する不平等の公平性に関する右派の信念は、それよりもフレキシブルな起源を持つ。知的な流行の転換が、特権階級の人間によるレトリックをさまざまな思想の状況にわたって歪めさせてきたからである。中世で一般的な主張は、創造主が各々の人に現世でのふさわしい位置を割り当てたというものであり、特権について疑問を発することは、神の善きはからいを疑うことと同義であった。18世紀から19世紀にかけてのキリスト教信仰の崩壊により、特権の存在を正当化する者たちは新たなオプションを探さなければならなくなった; 生物学を装った人種優越理論や社会ダーウィニズムが宗教を代替した。より最近では、現代工業社会は能力主義メリトクラシー であると主張されることもある。そのような社会では、それぞれの人は、自身の能力に従って自然にあるべき地位へと引き寄せられているとされる。そのような主張も同等の疑わしい役割を果たしている。

とは言うものの、アメリカ人の右派も、その反対側のカウンターパートである左派と同じ程度に歴史の教訓を学んではいない。現代工業文明社会のどこであれ、特権の上層に達して栄えた個人や家系を追跡してみるといい。ゆっくりと煮立っているスパゲッティーソースの鍋とそれほど異ならないものしか見えないだろう。ある個人や家族が鍋の底から上昇し、しばらくの間は鍋の表層に留まり、そして深みへと沈んでいく。いかなる単一の数式でさえ、この攪拌を説明できない; 才能に基づいて特権階級の上位に登ったすべての人に対して、少なくとも一人は腕力とハッタリで同じ地位に登った人、そしてまったくのバカげた幸運で同じ地位に登った人を見つけられる - そして、同等の才能を持っていたにもかかわらず、それほど、あるいはまったく社会階層を登れなかった人も多数存在するだろう。

社会階層の降下のあり方は、上昇のあり方よりも予測しやすい。というのは、それが小説家たちのお気に入りのテーマであったからというだけではない。多数の例があるなかで、ここで私が考えているのは、トマス・マンの『ブッデンブローク家の人々』である。それは、裕福なドイツ人家族の、特権の絶頂期から没落と消滅までの過程を19世紀の間に渡って描くものである。ここから学ぶべき教訓は、特権的生活は特権の保存に繋がる習慣を発達させるものではないということだ。何世代かのうちに、才能、虚勢、また単なる幸運によりトップへと登り詰めた人々の子孫は無能で過保護となり、特権のバブルの外側で起きた普通の騒動に対処できなくなる。そして、何かがそのバブルを壊すと彼らは下へと沈んでいく。

通常の時代には、スパゲッティソースのメタファーが示す通り、特権階級のターンオーバーは相対的に定常的であり、鍋全体としては特別な波乱を引き起こすことなく進行する。けれども、メタファーを拡張するならば、歴史がソースの下部を突然加熱し、巨大な蒸気の泡が表層に表れ、ソースの上層部全体が単一のけいれん的なごった混ぜに置き換えられるような時代がある。スパゲッティソースにこれが起こった場合、通常の場合その結果はとんでもない大混乱であり、そして同じことは社会現象についても言える。

ここでは、トマス・マンの別の小説が有用なガイドになるだろう - 彼の作品の中で最も有名な『魔の山』である。並々ならぬ複層的な物語を大ざっぱにまとめるならば、この本のテーマは、第一次世界大戦直前の時代のヨーロッパ特権階級の世界である。1920年代には、そのテーマについての小説が多数執筆された。当時は、失なわれた時代の記憶はまだ痛みを伴うほどに生々しいものであったのだ。しかし、マンは型破りな方法で自分の物語を語ったのである。彼が選んだ大戦以前の人生の断面は、半分はメタファーとしてもう半分は世界の縮図 マイクロコスムとして、スイスのアルプスにある結核サナトリウムであった。

効果的な治療法が開発される以前、結核は貧者にとっての死刑宣告であった。生活のために働く必要がない人々は、けれども、山岳地帯のサナトリウムで治癒を待つことができた。清浄で乾燥した山の空気が、患者の免疫系に対して感染に打ち勝つための力を与えるからだ。そこでは、会話とロマンス以外には何も気を逸らされることもなく、患者たちは秩序立った生活の狭いサークルの周囲を回る。魔の山のふもと、ヨーロッパの過密した平原では、事件が起こり爆発へと向けた圧力が高まっていた。けれども、無気力な視点のキャラクター、ハンス・カストルプとその他の患者たち、ロドヴィーコ・セテンブリーニ、クラウディア・ショーシャその他の人々は、その爆発が到来し、忘我状態を揺り起こされるまで当てもなくさまよう。そして、カストルプは魔の山を下りて第一次世界大戦の殺戮の地平へと投げ出される、あるいは自身を投げうつのである。

その読書経験は素晴しいものであるため、-今日では一般的ではないものの- 長く、思索に満ち、とてもアイロニックな小説を読む忍耐力を持つ人には読むことを進めたい。歴史は、マンにエレガントな賛辞を与えている。というのは、マンの小説の中でベルグホーフ国際サナトリウムが位置していたスイスの町は、昨今では裕福な人々がそれと少しだけ異なった集まりを開いていることで有名であるからだ。イエス、そこはダボスと呼ばれている。そこでは、世界の指導者を自称する人々が毎年集まって、有力者、扇動者、体制派知識人によるスピーチを聞き、その年の流行りの問題についての仰々しい声明の焼き直しを発表する。過去数回のダボス会議の写真を見てみれば、集団のなかに、カメラに向かってしかめっ面でまばたきするハンス・カストルプの姿を発見できるだろうと私は確信している。

カストルプの漠然とした無知は、確実に、今日広く見られる。それは何もダボスに限らない。過去の記事で、私はそのような無知に関する非常に多くの側面について議論してきた。しかし、ここで関連があるのは、アメリカ社会の階層を登った人々が、彼ら自身の持つ特権を理解する方法である。多かれ少なかれ、既に述べた通り、左側の末端にいる裕福な人々は、自身はいかなる特権も持っていないと考えている。一方で、右側の末端にいるカウンターパートの人々は、自身の特権は自分の才能、知性、などを直接的に反映していると考えている。

ここでも、現実は少しだけ異なる。アメリカの裕福な階級が、既に述べた通り、特権、利益、そして快適さを得ているのは、2つの理由による。最初は、世界の工業社会が、裕福な人間のライフスタイルを支えるために必要となる商品とサービスを大量生産するために、持続不可能な速度で代替不可能な天然資源を消費していることである。2つ目は、乱暴なまでに偏った交換パターンにより、環境破壊の乱痴気騒ぎから得られる利益の大部分を、我々の種のごく一部に集中させていることである。もしも読者が "上位1%" について話したいのであれば、そうしても構わない。ただしそれがグローバルに適用される限りは: つまり、ホモ・サピエンスの収入の上位1%である。分からない方のために書いておくと、もしも読者がアメリカに住んでおり、年間の家計収入が38,000ドル程度を越えているならば、あなたはその上位1%のカテゴリに属する。

これが我らが時代の魔の山である - そこに暮らす人々が、自分は特権的であるということを知らないか、あるいは自分が所有するものが何であれそれは当然であると信じこみ、同じものを持たない人々はそれに値しないと信じ込んだ特権の山である。魔の山を下ると、世界のその他の場所では、事件が起こり爆発へ向けた圧力が高まっている。けれども、高みにいる人々のほとんどはそれに気付いていない。彼らの人生に何かしら普通ではないことが起きつつあるとはまったく思いもよらない。いわんや、何らかの突然の出来事により山から投げだ出され、ほとんどの人がまったく準備できていないカオス的な未来に投げ込まれるとは想像もできない。

彼らに見えていないことは、要するに、自身の生活を支える2つの土台 - つまり、有限の天然資源の猛烈な開発と、ごく少数の手へ過大な取り分を集約するアレンジメント - が、現在厳しい限界に達しようとしていることだ。この先の投稿で、それがどのように進んでいくかをより詳細に取り上げたいと思う。今のところは、これが先月議論してきた特権の構造にとっていかなる意味を持つのかについて話したい。

それでは、2つの土台を一度に取り上げよう。世界の他の国々を搾取して成り立っている国は、自身の力により成立している国とは非常に異なる経済構造を持つ。後者においては、経済は一方では生産的な労働、他方では投資によって支配される傾向があり、またカール・マルクスが好んで語っていたような類いの対立 - 私のこれまでのエッセイで使ってきた分析の用語を使えば、賃金階級と投資階級の対立 -が、社会における富と特権の分配を定める。前者においては、対照的に、商品とサービスの生産を他国へとオフショアし、産業への資本を提供するためには国内貯蓄よりもグローバルな搾取の利益を利用することが経済的により大きな意味を持つ。したがって、賃金階級と投資階級の両方が苦しむ一方で、給与階級 - マネージャー、マーケター、銀行家、官僚、企業の従僕など、他者によって生み出された富の操作によって生計を立てるあらゆる専門職の階級 - が、かつてないほどに栄える。

国内生産にフォーカスした経済からグローバルな搾取にフォーカスした経済への移行は、かなりの時間を要する。アメリカ合衆国の場合、1898年のアメリカ帝国拡張の最初の波動から1980年代のグローバリゼーションの一時的勝利まで、100年を要した。けれども、反対方向への変化は、それよりもかなり速く発生する。というのは、ヘゲモニーの喪失においては、一般的には平和のうちにゆっくりと腐敗することを許されず、新興勢力によって脇へと押しやられるから。ソビエト連邦崩壊の影響が、ここでは優れたワーキングモデルとなる: ソビエト制度が内破すると、急遽ロシアは東欧ブロックから受け取っていた多量の上納金なしでやらなければならなくなった。そしてその後の10年間のほとんど素の経済的カオスが続き、ロシアは自身のニーズを国内で見たすための仕事に苦心しなければならなくなった。言っておかなければならないだろうが、ソビエトロシアは今日のアメリカよりもはるかに輸入依存度が低かった。だから、ソビエト崩壊後の経験は、我々の未来の上限として捉えるべきである。

もう1つの土台も同様の意味を持つ。天然資源の猛烈な速度での消費をベースとした経済は、直接的または間接的に資源の流れをコントロールする人々の手に影響力を集中させる傾向がある。今日のアメリカにおいては、もう一度言っておくと、これらの人々は、不均衡に、給与階級のメンバーである傾向がある。天然資源の保護をベースとする経済においては、土地といった持続可能な資源を所有する人々、あるいはそれらの資源を使って直接的に労働する人々に影響力を集中させる傾向がある; 再び、そのような社会においては、所有者と労働者の対立が富と特権の分配を定める。保守的経済から消費経済への移行にはかなりの時間を要する。アメリカの場合では、ほぼ200年を要した - 一方で、反対方向への移行は、ここでもまた、資源が不足するとかなりの速さで進む。

このコンテキストにおいて、ついに、今年のアメリカ大統領選挙を形成する上で非常に劇的な役割を果した賃金階級の予想外の反乱を理解することができる。ヒラリー・クリントンは、既に忘れ去られた共和党の同等者と同じく、完璧な給与階級の候補者であった; 彼女は特権階級のために話しており、彼女のキャンペーン全体が、もし彼女をペンシルベニア通り1600番地 [ホワイトハウス] に送るならば、重大な変化が起こることをまったく心配する必要がないのだ、と特権階級にメッセージを送るためのキャッチフレーズから構成されていた。ドナルド・トランプは、そしてある程度はバーニー・サンダースも、代わりに賃金階級にアピールしている。私は、どちらの候補者もここまでの結果を得られるとは期待していなかったのではないかと思うが、けれども、両者ともその波が続く限りは、大衆の不満の波に乗り続けることを完璧に望んでいるように見える - そして、トランプの場合は、その波が秋にホワイトハウスまで彼を直線的に運んでいく可能性が高いように見える。

言うなれば、裕福な人々のチャンピオンを決める通常通りのコンテストであったものが、突如として非常に異なる形を取ったのである。メタファーを少しだけ変えるならば、裕福な人々は自分たちの権力闘争が、沈みゆくタイタニック号の上でのデッキチェアの配置をめぐる口論とそれほど変わらないと気付き始めている。賃金階級の反乱は、今日の社会における権力と特権の構造が既にシフトし始めていることを示している。これから2週間後に、その変化がどのように進んでいくかと、それをドライブする要因が何であるかについて見ていこう。

(後略。元記事では、『The Archdruid Report』の10周年記念企画の予告があったが、訳出にあたっては省略した。)

魔の山(上) (新潮文庫)

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翻訳:特権ゲームをスターホークする (ジョン・マイケル・グリア)

この記事は2016年4月20日に書かれた。ジョン・マイケル・グリアによる2016年ドナルド・トランプ当選予測に関するエッセイはこちら

Starhawking the Privilege Game

このブログ『The Archdruid Report』の前回2回の記事では、アメリカの階級システムとそれを維持する機能不全の物語にフォーカスしたのだが、読者たちからイラ立った反応を引き起こした。私が議論していたテーマは、かなりの不快感を起こすだろうと予期していた; 私が予期していなかったのは、かなりの長文で、私へのコメントやメールで、何か別のことを話すようにというお願いがあったことだった。

不愉快なテーマについての直接的な話は、10年前控え目に最初の記事を投稿して以来このブログのメインコンテンツであったので、私はブログの読者が不快に感じたときの反応についていくらかの経験がある。通常、私がホットな話題に触れると、その話題を不快に感じる読者たちは、私がそのテーマにまったく言及しなったかのように振る舞うのだ。特にここで私が考えているのは、唯一の例ではないのだが、インターネットの未来はインターネットがそれ自体の費用を賄えるかどうかにかかっており、技術的な実行可能性フィジビリティによるものではないと書いたときのことである。私がこれを書いたときには毎回、インターネットの技術的フィジビリティについて延々とコメントを受けるのだが、それは、我々が作り上げつつある資源減耗と環境破壊の未来において、インターネットが自身のランニングコストをカバーすることが経済的に不可能である理由の議論を回避するための方法である。

そのような回避策を誘引するテーマは、インターネットの未来に関する厳しい疑問だけではないことに注意してほしい。私の記事の何らかのトピックが我らが時代の一般常識と矛盾する場合には、そのようなことが起こると予想できるようになった。過去2件の私の記事にはそれとは異なる反応が起きたので、非常に興味深く感じた。階級的特権についての率直な議論によって不快感を感じた人々が、そのようなショッキングなテーマが一切取り上げられなかったかのように振る舞おうとするのではなく、実際に不快と感じたことを認めたという事実は、思うに、我々が何らかの重大な歴史的変曲点に近付きつつあることを示しているのかもしれない。

注意してほしい。階級的特権についての率直な議論は、私のブログのような周縁的な領域の外側では未だ強く回避されている。ここで私が考えているのは、もちろん、今現在、ドナルド・トランプが階級問題を直接的に議論していることについて、裕福なリベラル派がトランプと彼の支持者は人種差別意識によってのみ動機付けられているに違いないと絶叫して反応していることである。それは、部分的には、リベラル派の標準的なレトリックである - 以前、私は「差別主義者」という言葉が、特権的な人々によって発せられるとき、普通は「賃金階級」の犬笛として機能すると述べた - しかし、それはこの国のあらゆる人を代償にして裕福な人々が利益を受けてきた政策についての議論を封じるための試みでもある。

現在の異教復興ネオペイガンコミュニティの一部では、そのような議論を回避する方法には有用な呼び名がある: 「スターホークすること [Starhawking]」である。アメリカの小さなマイノリティ宗教コミュニティの行動に興味が持てない読者にお詫びを申し上げつつ、そのラベルの裏にある物語を解説したいと思う。よくある通り、小さな事例はものごとを明らかにするために役に立つ。縮小された規模の社会的ミクロコスムにおいては、大きな規模の社会を一目見ただけでは見るのが難しいパターンを観察することが容易になるのだ。

ネオペイガンのシーンに触れたことのない人々は知らないかもしれないが、ネオペイガニズムは1つの宗教ではなく、あるいは密接に関連した複数の宗教のグループですらない。実際には、完全に雑多な信念の寄せ集めであり、その中には神道キリスト教ほどに共通点のない信仰すら存在する。それらの信仰が共通のサブカルチャーのもとに連合しているのは、信念や儀式を共有しているからではなく、ひとえにアメリカ社会の宗教的・文化的なメインストリームから排除された歴史を共有しているからだ。今日では、アメリカのネオペイガンの半分かそこらは、何かしらの折衷的ペイガニズム [ecletic Paganism] に参加している。それは1970年代後半から1980年代前半にかけて、旧来のイギリスの伝統的魔術をもとにして生じたものである。残りのほとんどは、大きく2つのカテゴリのどちらかに属する。一つは、旧来の秘教的伝統、たとえばたった今述べたイギリスの伝統魔術のようなものから構成されており、もう一方は近年になって復興された多神教的な信念、さまざまな歴史的パンテオン - ノルド、ギリシア、エジプト、などの神々や女神を崇拝するものから成る。

ネオペイガンシーンの包括性について語ることはたくさんあるだろうが、しかし、アメリカの小サブカルチャーについて知識のある読者諸君は、これが意味することは、折衷的ペイガニズムがほぼあらゆる場所でのデフォルトの選択肢であり、その他の伝統に由来する人々は、折衷的ペイガニズムが定義する観点から、マジョリティである折衷的ペイガニズムの感性を攻撃しない限りにおいて、ネオペイガニズムシーンへの存在と参加を受け入れられるということはすぐに理解できるだろう。さまざまな理由により、その理由のほとんどはもう1つの私のブログに相応しいテーマかもしれないが *1、最近では、そのような折衷的ペイガニズムの感性は、より容易に攻撃されるようになったようである。そして、マイノリティの伝統に由来する人々はさまざまな形で反応した。その中には単にネオペイガンのシーンから立ち去った人々もいるし、別の人々は、色々なフォーラムで、「ウィッカ化特権 [Wiccanate privilege]」というぎこちない名前を付けられた事象についての議論を始めようと試みている。

2014年にサンフランシスコ地域で開かれた大規模なネオペイガンのイベントで、そのような議論が行なわれているときに、スターホークが遅れて登場したという。彼女のことを知らない人のために説明しておくと、スターホークはアメリカのネオペイガンシーンの数少ない本当の著名人であり、『ザ・スパイラル・ダンス』の著者である。この本は、基本的に折衷的ペイガニズムを創始した2冊のうちの1冊であり - もう1冊は、マーゴット・アドラーの『ドローイング・ダウン・ザ・ムーン』- また、彼女は政治的スペクトラムの左側末端に位置する著名な政治活動家でもある。イベントに参加した私の知人によると、彼女は、特権についての議論は行なわれるべきではない、なぜならあらゆるペイガンは地球を救うために団結しなければならないからだ、と主張したという。

注意してほしい。そのイベントでは、地球を救うこととは何の関係もない議論が他にも多数行なわれていた。彼女も、それ以外の誰も、そのような議論を封じなければならないとは感じていなかったようだ-ただ、特権に関する議論だけが対象となった。それがスターホークすること [Starhawking] である: 何かしら別の問題がもっと重要なのだから、講演者の特権を論じるべきではないと主張するレトリック上の戦術である。スターホークに公平を喫するなら、彼女がそれを発明したわけではない; スターホーキングはアメリカの現代の言説に蔓延している。非常に頻繁に、それはネオペイガンシーンよりもはるかに高い利害を持つコンテキストでも見られる。

マデリーン・オルブライトの、あらゆる女性はヒラリー・クリントンに投票するかさもなければ地獄で釜揚げにされるべきであるという最近の主張も、まったく同じロジックから生じている。この場合の問題Aとは、いわゆる「ガラスの天井」、つまり特権階級内の女性を富と権力の最上位から排除する慣習であり、この場合の問題Bは、ヒラリー・クリントンホワイトハウスに送ることは、単にアメリカの階級構造の上層部に属する女性のみに利益を与えるだけであるという事実である。というのは、クリントンが政治生活の全体を通して支持してきた政策は、アメリカ人女性の大多数のマジョリティを貧困化し悲惨化してきたものであるからだ。つまりは、賃金階級と給与階級の下位半分かそこらに属する人々である。

スターホーキングが富裕階級の左端から発せられた場合、ほとんど常に別の種類のバイアスという形でフレームされる - 人種差別、性差別、など - それは、先週の記事で説明した方向性に沿って述べるなら、ある非特権的集団の苦しみは、また別の非特権的集団に責任があると非難するために使用される。スターホーキングが政治的スペクトラムの逆側 [いわゆる右派または保守派] から発せられるとき、もちろんこれはいつも起こっていることなのだが、他の問題が特権についての議論を封じるために使われる; 彼らのお気に入りの問題としては犯罪、キリスト教の道徳神学、公的扶助に頼る人々の怠惰さと強欲さなどである。言い訳は異なるものの、レトリック上の細工は同じである。

そのような細工を有効なものとしている理由の一つとして、問題Aのさまざまな候補について語られるときに使われる言葉の本質的なあいまいさが挙げられる。「犯罪」という言葉を例に取れば、これは誰もが反対することに合意する、素晴しくあいまいな抽象概念である。一方で、ひとたびそのような合意が得られると、捉えどころのない抽象概念の領域から、極めて疑わしい特定の意味領域へと移動する - 関連する例を挙げるなら、「犯罪に厳しい」ことを誇る政治家の誰も、ウォールストリートの窃盗犯を逮捕することに興味を示していない。[金融危機による] 1兆ドル規模の詐欺は、都心の寂れた路上でのいかなる強盗よりも巨大な被害を国に与えてきたにもかかわらずである。

同様に、「人種差別」や「性差別」といった言葉も、極めて大きなあいまいさが組み込まれた抽象概念である。そのようなラベルには、少なくとも3つの概念が混合されている。アメリカ社会の不平等性の複雑な光景をクリアに見られるように、私はしばらくそれらの概念を解きほぐしたいと思う。

これらの多義語から私が引き出したいと思うのは、特権 [privilege]、偏見 [prejudice]、および不正な行い [acts of injustice] である。最後の言葉から始めよう。たとえば、アメリカの警察はいつも、白人のティーンエージャーが行なっても罰せられないような行動をした黒人ティーンエージャーを銃で襲撃している。今日、アメリカで雇用される女性は、平均すると、男性がまったく同一の仕事をした場合に得られると期待される給料のおよそ4分の3しか得られない。互いに愛し合い結婚を望む2人は、もしも2人が同じ性別であった場合には、異なる性別であった場合には遭遇しないような困難に直面する。これらは "不正な行い"である。

偏見 [prejudice] は、行動というよりは態度の問題である。この言葉は、字義的には事前の判断 [pre-judgements] を意味し、ある人々や状況に実際に遭遇するよりも前に下されるあらゆる判断を指す。あらゆる人が偏見を持っており、あらゆる文化は偏見を教えるが、しかしある人はより偏見が強い - より強く自身の事前判断にコミットしており、矛盾する根拠に出会ったとしても偏見を再検討したがらない - そして、偏見が少ない人もいる。不正な行いは通常、偏見によって動機付けられており、また偏見は非常に頻繁に不正な行いの結果であるのだが、しかしこのどちらの等式も厳密に成立するわけではない。極端に強い偏見を持っているものの、不正な行いを拒否する人々を私は知っている。それは何らかの別の信念やコミットメントがそれを禁じているからである; また私は、[偏見なしに]繰り返し不正な行いに手を染める人々も知っている。彼らは単に命令に従っているだけだったり、友人と同じことをしているだけであったり、またはいずれにせよものごとをまったく気にかけていないだけであったりする。

そして、特権 [privilege] がある。偏見と不正な行いが個人的なものである一方で、特権は集合的である; あなたは特権を持っているかもしれないし、持っていないかもしれないが、それはあなたがあるカテゴリに属しているからであり、あなたが何をしたか、何をしなかったかによらない。ここでは私自身を例として用いよう。私は、警察からの嫌がらせを受けることなく、住んでいる町の裕福な地域を歩くことができる; 黒人の人々はそのような特権を持っていない。私は、このような論争的なエッセイを、インターネットの荒らしからの強姦や殺人の脅しを受けることなく公開できる; 女性はそのような特権を持っていない。私は、通りすがりの車の窓からどこかのバカに侮辱の言葉を投げかけられることなく、公共の場で配偶者にキスできる; ゲイの人々はそのような特権を持っていない。

次の10件の記事を、私が保持する同様の特権についてのリストで埋められるかもしれないし、そうしたとしても事例の枯渇に近づくことすらないだろう。重要なのは、けれども、私の特権的な状況が、何らかの特定の理由によって私に割り当てられているわけではないと認識することである。それは、私が白人、男性、異性愛者だからでも、あるいは給与階級の下端の家族で育ったからでも、健康な身体で埋まれてきたからでも、その他いかなる理由によるものでもない; これらすべてが、そして更に多くのことが一緒になって、特権のヒエラルキーの中で私を今の場所に割り当てている。私の場所をあなたから区別するもの、そしてあなたの場所を他のみんなから区別するものは、特権の階梯上のあらゆる場所が、そこより上にいる多数の人と下にいる多数の人の間に異なる割り当てをしているからである。たとえば、今日のアメリカでは私より大きな特権を持っている人がいるが、しかしそれよりもはるかに、はるかに小さな特権しか持たない人々も膨大な数に上る。

また、私は今持つ特権を得るために何もする必要がなかったし、私はその特権を捨てることもできないことに注意してほしい。給与階級のバックグラウンドのある白人異性愛者男性として、そしてその他について、私は生まれた瞬間からほぼすべての私が持つ特権を割り当てられた。そして私が何をしても何をしなかったとしても、それらの大部分は私が死ぬまで続くだろう。それはあなたにとっても当てはまる、読者諸君、また他のあらゆる人にも: 長い特権の階梯の中であなたがどの位置を占めていたとしても、それは単純に生まれつきのものである。ゆえに、あなたはどんなレベルであれ特権を持っている事実に対して責任を負わない - けれども、当然、それを用いて何を選択するかということには責任がある。

結局のところ、あなたは自分自身が特権に値し、あなたの特権を共有していない人々はその人々自身の劣った地位に相応しいと信じ込むこともできる - 言うなれば、あなたは偏見を持つことを選択できる。あなたは、自分自身の特権を活用して、特権を持たない人々に犠牲を強いて搾取することもできる - 言うなれば、あなたは不正な行いに手を染めることができる。大きな特権を持てば持つほど、偏見が他の人々の人生に与える影響が大きければ大きいほど、不正な行いはより強力になる。ゆえに、弱者の代弁者たちが指摘する通り、特権者の偏見と不正義は、非特権者のそれらよりもより重要な問題であるということは極めて正しい。

その一方で、特権が自動的に偏見や不正な行いに結び付くわけではない。特権者 - 既に述べた通り、自身の特権を選択したわけでもなく、それを取り除くこともできない- が、そのような方法で自分の特権を利用することを拒否することは十分にありうることである。更には、昨今ではとてつもなく時代遅れな概念であるものの、そのような人々がノブレス・オブリージュという古くからの原則を採用することもありうる: これはよりオープンに特権が認識されていた時代には広く受け入れられていた (しかし、必ずしもその通り行動されることは少なかったのだが) 概念であり、生まれつき特権を持つ者は、それより低い地位にある人々への一定の責任も受け継いでいるとされていた。特権を持つ人たちが、何らの豪華な見返りがなくともノブレス・オブリージュを行なうということさえありうるかもしれないと私は思う。しかし、今のアメリカ文化の現状を考えると、それは若干の高望みかもしれない。

今日では、けれども、ほとんどの給与階級バックグラウンドを持つ白人の異性愛者男性は、自分自身を特権的だと考えていないだろうし、先に私が挙げたことが特権であるとは見なしていないだろう。これが今日の社会における特権の最も重要な点である。特権を持つ者には、特権は眼に見えない。それは単に個人の無知、あるいは特権の低い人々から分離していることによるものではない。しかし、当然これらも影響を与えているのだが。それは文化化の問題である。マスメディアとアメリカ文化のメインストリームのあらゆる他の側面が、定期的に、特権的な人々の経験は普通であるかのように示しており、またそれと同じくらい定期的に、そのような経験から少しでも外れた経験を、完全に予測可能なフィルタで隠蔽してしまう。

最初に、当然、非特権者の経験は消去される-「そんなことは実際には起こらない。」それが失敗すると、問題は重要ではないとして無視される - 「まぁ、そういうこともあるんだろう。でも大したことではない。」それに対処しなければならない人々にとっては重大な問題であるということが明らかになると、問題は時おりの異常事態であるとして扱われる - 「1つや2つの悪い事例を一般化することはできない。」それもダメになると、最終的には、非特権者の経験により非特権者自身を非難する - 「ヤツらがそんなふうに扱われるのは、ヤツら自身の行いのせいだ。」

面白いのは、現代アメリカにおける特権の不可視化は、他の人類社会の多くでは共有されていないということだ。多数の文化では、過去であれ現在であれ、特権はオープンに存在し、法律へ書き込まれて、特権者・非特権者の両方からオープンに議論されている。アメリカ合衆国も1950年代ごろまでは同様であった。それは、当時ジム・クロウ法が黒人アメリカ人を公式に二級市民の地位に割り当てていたからでも、また多数の州法で女性のさまざまな法的・経済的な権利が制限されていたからでもない; あらゆるメディアと大衆文化のなかでもそうだったのだ。日刊新聞を開けば、社会面にはエリートに属する人とそうでない人々の特権の差異についての記事が大量に掲載されていた。

けれども、60年代の文化的なけいれんに端を発する複雑な一連の理由によって、特権についての率直な会話は20世紀後半にわたってアメリカでは社会的に受け入れられないものとなった。もちろん、それが特権を消し去ったわけではない。確かに、特定の公的な特権の表現、たとえば先に述べたジム・クロウ法など、が破棄され、そのプロセスを通してある種の本当の不正義が修正されてきた。その欠点としては、アメリカ社会における特権の真の不公平さが、前述のフィルタを通して繰り返し除去されるダブルトーク文化の勃興である。そのような不公平性の最も重要な原因の一つ - 階級の差異 - が、我らが時代の集合的会話から完全に取り除かれていることである。

スターホーキングの習慣は、特権、特に階級的特権についてのオープンな議論を視界から遠ざけるための主要なレトリック上のツールの一つである。極左から極右に至るまでの政治的スペクトラムの全面において、スターホーキングは等しく使われている。裕福なリベラル派が、地球を救う仕事を進めるためにはみんなが特権を無視しなければならないと主張する場合であれ、裕福な保守派がキリスト教の基盤へとアメリカを立ち帰らせるためにみんなが特権を無視しなければならないと主張する場合であれ、あるいは - これはますます標準線となりつつあるのだが - 左右両サイドの裕福な人々が、他サイドの邪悪な人々と戦うことが唯一の重要な問題であるためにみんなが特権を無視しなければならないと主張する場合であれ、実際上、これらすべての言葉が意味しているのは「俺の特権については話してくれるな。」ということである。

この種の回避策は、私が今年始めに階級的特権を取り巻く問題についての話を始めたときに、読者からの反応として予期していたものであった。確かに私はある程度そのような反応を受けたのだが、既に述べた通り、そのような議論が不快でると感じたことを認めた人々からの、議論を止めてほしいというコメントも受け取った。これが意味することは、今日のアメリカの特権、特に階級的特権についてのオープンな議論を締め出す否定とダブルトークの壁が、ついに壊れ始めたということだ。確かに、『The Archdruid Report』はアメリカ社会の文化的周縁フリンジにいるかもしれないが、けれども非常にしばしばある通り、メインストリームが耳を傾けるよりも前にフリンジが重大な社会変革の兆候を示すことがある。

もしも、特権一般についての会話、特に階級的特権についての会話の抑圧が崩壊プロセスにあるとしても、それはすぐには終わらない。アメリカ合衆国はちょうどまさに劇的な変化の潮流に踏み込んだところであり、現在の特権のパターンは、その潮流が激突したとしてもしばらくは残ると考えられる多くのもののうちの一つである。次はそれについて語ろう。

*1:訳注: グリアは、文明批評と時事評論を扱うこのブログ『The Archdruid Report』の他に、神秘主義思想について論じるブログ『The Well of Galabes』を持っていた。2つのブログは2017年に閉鎖され、新しいブログに統合された。